検察とマスコミが一体となって、「あることないことリーク情報でじゃぶじゃぶに流して小沢攻撃する」という、いつも通りのひどい攻撃がはじまりました。ほんとうにひどいです。

ほんとうに、心底、「あることないこと」なのだから困る。

というのも、

●infoseekNews内憂外患(低帯域版)|「新撰組」化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!
http://www.ustream.tv/recorded/4065526
(シンポジウム趣旨)
http://miyazakimanabu.com/2010/01/11/659/

というシンポジウムの様子をネットで見たからなんですけどね。出席者がなかなかすごくて、

大谷昭宏に、佐藤優、ヤメ検の郷原さん、田原総一朗、宮崎学、で、ゲストに鈴木宗男と、実に豪華。ものすごいメンバーが揃っております。

とくに、田原総一朗と大谷昭宏氏からのマスコミの側の状況報告というのがなんとも言えずイヤになります。ずっと田原総一郎って嫌いだったけど、どうも「しょうがない」状況みたいなんですよねぇ。完全にマスコミと警察・検察・官僚というのは「一体化」しちゃってるって事らしいので。

マスコミの記者にとっては、検察の無責任な「リーク」をいち早く取材することが出世への道になってしまってるんだそうですね。だから、新聞社やテレビ局にいてる限り、そういう体制から抜け出せないんでしょうね。田原氏や大谷氏は、まだ、こういう自分自身の発言の場を持てるから、実際のところどうなのかを語れるだけマシであるようです。

マスコミ各社は、すでに国会審議が終わった後に、小沢逮捕か、あるいは在宅起訴までやることを「すでに決定」してるんだそうです。それは2月の頭。もう、すでに先に決まってるわけです。自分たちのストーリーでゴリ押しするんだって!

で、マスコミも、この国会の期間は徹底して小沢叩きキャンペーンをやることになってるんだって!知らんかった。証拠が出てきたとかなんとかじゃないわけですよ。とにかく、まずキャンペーンありきで、「マスコミよ協力しなさい」という事なんだそうで。

ひどいなー。

このシンポジウムのタイトルである、「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」が、まさに事実なのだ、ということをはっきりと明示する出来事ですなぁ。

あの日本のラスプーチンと呼ばれる佐藤優も出ていて、いろいろ面白い事を言ってたのですが、小沢さんや民主党に対して反感を持ってる人に対して、こういう事を言ってましたよ。

「小沢さんは真っ黒だ!でも、検察はそれ以上に真っ黒だ。しかし、同じ黒なら、選挙で落とせる小沢を選ぶしかない。検察は選挙で落とせない。未来永劫、いまのままだ。だから、この一点で、民主主義のために、いまは民主党を選ぶしかない。」

と、こう来るわけです。正しいよなぁ。そういう事なのよ。だから、我々国民には選択肢は民主党しかないんですよ。だから小沢支持しかありえない。そういうことです。

「民主党はクソです。しかし、検察から見たら、自民党は鼻くそです。」とかも面白かったなぁ。

キツネ目の男こと宮崎学が世話人であるらしいんですが、その宮崎学に言わせれば、前の衆議院選挙での民主党大勝は、西松建設での官僚とマスコミのキャンペーンに対する国民の怒りが原因で、その部分を官僚は気にしていると言う話が出てるんですが、まぁこのあたりの分析が正解かどうかはわかりません。
でも、とにかく官僚にすれば、民主党政権を攻撃するにはリーク情報+マスゴミによる流布という手を使うしかないわけですよ。

結局昨年夏の総選挙の時期に行われた「酒井法子事件」と一緒なんですわ。
警察が、あることないことリークする。なんでも言う。で、選挙の攪乱を図る。
(リークなので正式発表ではない。警察・検察は「へ?何のこと?」という態度しか取らないんです。ここがだいたいひどいんですが。)

去年の選挙の時は、官僚批判のテレビ番組が企画されないようにしようという魂胆だったわけです。
民主党は延々、官僚批判をやってたわけですから。そういう番組が人気が出て、「官僚は悪だ!」という国民的盛り上がりが生まれかねなかった。
それを必死で阻止するために酒井法子を血祭りにしたんですね。

つまり、

●酒井法子事件は官僚批判をさせないための目くらまし

だったわけです。

で、今度もまったく同じ。今回は国会攪乱が目的です。

今度の国会では、たとえば、「捜査状況の可視化」とか、そういう検察に決定的に不利な法案が通る可能性がある。そういうことが決まると、もう、「秘書を逮捕して、独房に閉じこめて、やってないことでも『やった』と言わせる。」という、実に汚らしい、検察独自の洗脳手法が使えないわけですよ。
だから「捜査状況をビデオ等で残す可視化」をやられたら、きゃつらに手はもうない。洗脳ができない。
このあたり、いかに検察が被疑者を洗脳して、やってもいない事を「やった」と言わせるか?というのを、上のシンポジウムで佐藤優が演じてます。実にリアルです。必見。やっぱり体験した人の言葉は違うわなぁと思う。

でも、この国会で「可視化」が通ったら、その洗脳手法が検察には使えなくなるわけです。
そうなったら、もう、何か証拠を見つけて逮捕するしかないんですけど、そういう証拠はないわけですよ。(証拠があった!というリーク情報は流れます。それは「関係者によると」だから正式発表ではないわけです。ここは「ないことないこと」垂れ流しなんですよ。新聞記事をていねいに読みましょう。「関係者によると」というのは発信者が特定できてない、単なるリーク。ウソかもしれない報道だってことです。ここがみんなわかってないのよなぁ。)

証拠がなくて逮捕するには、関係者の証言から状況証拠にして落とし込むしかない。だから可視化される前に、必死になって一大キャンペーンをやるわけです。それはもう、ものすごいキャンペーンです。

だから、こういうキャンペーンに踊らされたらダメなんですよ。

「何をしょーもない事やってんねん。それより、国会をちゃんと空転させずに進行させよ。」なんです。

日本の正しい未来のため、民主主義的手続きがキチンと成立する国になるためだったら、別に4億円くらいの裏献金があったって、僕は別にかまわんぞ。4億円で何ができるっちゅうねん。大したことはできませんって。小沢が弟子を数人、数年間教える程度のことしかできませんがな。

で、それで充分です。何が悪い。弟子を育てることこそ、良い政治家が育つ条件ですからな。マンション購入も、そういう弟子の育成のためだったんじゃないですか?住むところ、人が会うところ、ともに話すところだけは必要ですからな。

この検察のキャンペーンが、なぜいまの時期なのかというと、今年の参議院での選挙に影響しないように、時間を空けたいからだそうな。

このまま行くと参院選も民主党の大勝かねぇ。それはそれで困ったことですが。

小沢さんが心底腹黒い人であるなら、この官僚による「小沢叩き」も、検察と小沢がつるんでいて、わざとやらせているというような場合のみですわ。
もしそれがあれば、それこそスターウォーズの暗黒皇帝ですけどな。そこまでの腹黒さも、なにより「国民的人気」もないしなぁ。単純に、

●顔が悪い。

●ブオトコだ。

●悪代官みたいや。

という雰囲気判断だけで、一般層がさわいでるだけにすぎないしねぇ。
で、検察は、その「ブオトコは嫌い」という女子供の判断を上手に利用してるという、そういうことでしかないと、僕は思います。

ああ、やれやれ。

ようはそういうことです。

検察が狙っているのは、ようは国民の印象、イメージ操作なのだ。
ようするに我々国民をバカにしているのである。

「検察は正義、政治家は悪」というイメージを必死になって「ねつ造」しているだけなのだ。

今回の石川議員の逮捕が、あまりにひどいので、この件について鈴木宗男氏がどう言ってるのかを調べてみたら、

(引用開始)----------------------
2010年1月14日(木)

 テレビ、新聞は小沢民主党幹事長、石川代議士、鹿島への強制捜査を扱っている。
 この強制捜査に関していつも不思議に思うのは、なぜか事前にマスコミが知り、現場にテレビカメラが待ち受けていることだ。誰が事前に知らせるのだろうか。事前リークなくしてどうしてわかるのだろうか。検察側が誘導していることは明らかである。

 そして「段ボール箱を何箱押収した」と言うが、書類等をあの段ボール箱にぎっしり入れると、とても一人では持てない。捜査官は仰々ぎょうぎょうしく段ボール箱を抱えていくが、その中身はせいぜいノート一冊、書類少々で、極めて軽いものなのである。

 なぜわかるか。それは、平成14年、私の事務所、自宅が捜索された時、段ボール箱にはもっと書類が入るところを少ししか入れずに、捜査官がただただ数多く運び出した様にしている姿を見ているからである。検察はこうした無駄なパフォーマンスをしているのだ。

 読者の皆さんも、興味本意で今回の強制捜査を見るのではなく、検察、権力の暴走にかかったら大変なことになるということを考えながら、冷静に見て戴きたい。

(引用終了)----------------------

という書き込みがありました。

あの段ボール、「中身はせいぜいノート一冊、書類少々で、極めて軽いもの」なのだと!

そりゃそうだわ!
あれだけ大きな段ボールに、書類がぎっしりつまっていたら、重くて運べないって!

私も何度も引っ越しをしてますからな。紙というものが、いかに重いのかは、よくわかってますから。

いや、しかし、その「紙の重さ」をわかってる私ですら、あの次々運ばれる段ボールがスコスコなのだということに気付かなかったというのは恥ずかしい。
まんまとアホな検察のパフォーマンスにだまされてしまってたということじゃないか!

ああああ、くやしいー。こんな幼稚な手にだまされるとは!

この「水増し」の意味するところは何か?
答えはひとつしかありません。


●検察は何も仕事をしていない!


ということであります。
あいつらは、ひたすらイメージ操作をしてるだけなのだ。

そこに気付けよ、国民よ、っちゅうことですわ。
いやいや、私自身を含めて、ですけどな。
まさか、あの段ボールが、そこまでスカスカとは。
「資料を押収して、事実関係を丁寧に調べる」という事をする気自体がないんじゃないか!
完全に職務放棄ですわ。
ひどいもんだ。
ああ、だまされた。まいった。

こういうことから推察すれば、当然、石川代議士の逮捕も「検察のパフォーマンス」ということです。段ボール箱の水増しみたいな事しかしてない、下劣な奴らですからな。どうしようもない無能ということです。
だまされないようにしましょう。

とりあえず僕は、民主党のホームページから「検察トップの樋渡利明(ひわたりとしあき)を更迭してください。そういう声が国民から出ているということを、鳩山さんがマスコミでしゃべってください。」と意見を送っておきました。多分、これが一番効果的です。

きゃつらのパフォーマンスには、本当に気をつけましょう。気を抜いてると、すぐにだまされるから。

小沢一郎氏の資金管理団体である陸山会の事務責任者だった石川知裕衆院議員が逮捕されましたが、もう、ほんま、このくだらん茶番劇をやめてもらいたいですなぁ。

国家運営の基本中の基本である、三権分立を本気で機能させようとしている小沢一郎のやり方は、いずれ必ず公務員制度改革に向かう。

つまりは、何らかの形で官僚の力を公的にそぎ落とす、ということをやる、ということです。

だから、官僚である検察が、必死になって小沢一郎のイメージを悪くさせるようなイメージ操作をやってるということですわ。

以下、昨年の産経新聞の記事から引用します。

(引用開始)------------------------------

産経新聞 2009年12月26日  

 民主党の小沢一郎幹事長は26日夜、兵庫県尼崎市内で開かれた党所属議員のパーティーであいさつし、平成22年度予算案の新規国債の発行額が過去最大になったことへの批判に反論した。

 小沢氏は「マスコミが『小沢一郎はカネはなんぼでもあるといってたじゃないか』とすぐ言うが、まったく勉強不足の無知な報道だ。特殊法人や独立行政法人など、無駄な補助金まだまだあるが、公務員制度改革、行政改革を大胆に実行しないと本当の無駄を省くことはできない」と述べた。衆院選マニフェスト(政権公約)実行のための財源を公務員制度改革などを通じて生み出す考えを示したものだ。


(引用終了)-------------------------------

ここにはっきりと、「マニフェスト実現のために、公務員制度改革と行政改革をやる。」という宣言を小沢一郎がおこなってるわけです。
そこを財源にすると明示してるわけです。

「それはたまらん!」

と、官僚どもは思っている。
で、その官僚全体の怨念を、代表する形で、小沢叩きを検察がやっとるわけです。
それ以外に、この予算審議が始まるまえの段階での石川氏逮捕なんてあり得ない。

もうね、こんなに不況なんよ? なんで予算審議の前に、国民にとってはどうでもいい4億円の出所とかで国家予算審議をぐちゃぐちゃにする必要があるんよ。
ええかげんにして欲しいわ。

自民党の谷垣総裁も、この石川逮捕を追求するとか、ものすごくどうでもいいことに論議の時間を使おうとしてる。

くだらん。
やめてくれ。
どうでもいい。

そんな事より、これから日本が世界の中で、どう生きていくのか? ということを、しっかりと論議するべきなんと違うんか?
今後は、アメリカだけでなく、中国という巨大市場とも上手に付き合っていかなきゃならないし、そのために法改正をしたり、国のあり方を考えたり、やるべき事は山ほどある。
景気対策だってしっかりやってもらわないといけない。

なのに、たかが、小沢一郎という一議員の資金の出どころ追求に貴重な国会審議の時間を使うつもりか?

あきれてモノも言えない。

本来、官僚は「滅私奉公」、自分を殺して公に使えるのが仕事なのに、自分たちの権力を守るために、検察庁職員が捜査情報を漏洩してマスコミに垂れ流して、小沢一郎のイメージ操作、ようするに「洗脳」をしようとしているわけだ。

で、とうとう石川氏の逮捕までやった。
ほんとにどうにかしてくれ。

検察はもう、西松建設の時から、ずーーーーーーーっと同じ事をやってる。
ひたすら公務員としての違反行為である情報漏洩をダダ漏れの状態でやり続けて、「無料の記事ネタ」が欲しいマスコミが、これまたそれを平気でそのまま新聞テレビで取り上げる。

で、そうやって、国民を洗脳しようとしているわけです。

もう、そういうくだらんことはやめてくれ。
このインターネット時代に、あまりにしょうもない。無知でパァとしか言いようのない、くだらん所業やなぁと思うばかりです。

ネットに、こういう記事があるそうです。

●「小沢氏への集中攻撃は全国民への攻撃と同じである」
http://www.asyura2.com/10/senkyo77/msg/540.html

これ、まさにその通り。
民主党は小沢一郎を代表にして以来、一貫して「国民が第一」のスローガンで国民の意見を集約してアピールしてきたし、その主張が認められて選挙に勝ったのだ。

だから、いま、この状況は、まさに

●検察+マスコミ(記者クラブ) VS 国民+国民の代表:小沢一郎

という構図なのだ。
それ以外の構図はありません。

検察は、本当にひどいです。
いまのところ、はっきり言ってヒステリー状態。ほぼキチガイです。
そこまで、公務員制度改革と行政改革が怖いのか?

で、そのためだけに、こういう国会審議をぐちゃぐちゃにしようとする手法を使う。

もう、飽き飽きした。
本当にやめて欲しい。

そういうのは、審議が終わってから、誰が見てもはっきりと犯罪が行われたという証拠を見つけ出した上でやってもらいたい。

あの「強制捜査」っていうのは、ようするに「怪しいから証拠を探します」という作業なわけです。

つまり「証拠がないから探します」って事です。

どういうことやねん、それ。
先に、

●自分らの力で

証拠を見つけて、逮捕するとかせえや! お前らは無能か! あ、無能なんですな。しょーもな。

テレビで強制捜査で段ボール箱が運び出されるところとか、もっとひどいのになると、これから強制捜査に入るシーンが流されたりしますが、それってどういうこと?
テレビ局はその日時をどうやって知ったん?

明らかに情報漏洩がありますわな?
そんなところで情報漏洩してたら、重要な証拠を、先に隠滅されるかもしれまへんがな。
ところが、「これから強制捜査に入りますぞ!」というシーンがテレビで流される。
まさに刑事ドラマの正義の味方登場シーンみたいに。

おかしいやろ!それは!
情報漏洩してるおかしな公務員のパレードやないか!
情報ダダ漏れのバカの集まりが、アホの行進してるだけやんけ!

で、なんで、それを見て「小沢は悪いことをしてるに違いない!」と思う人がわんさか出てくるのか?

おかしい。
おかしすぎる。
滑稽を通り過ぎて、私は悲しい。

そんなしょーもない事をやっている場合ではない。


日本を支配してるのは、無責任という大罪を犯し続けている官僚どもです。

まずは、そいつらを公務員制度改革と行政改革で、徹底的に権力の剥奪をしなければなりません。

まず公務員には、そういう「蔑視」を持ちましょう。

公務員になるということは、責任を放棄する「無責任人間」になる、という事なのです。
それは「蔑まれる人種に自らなる」という事なのです。

だから、一般国民は、まず官僚を「蔑む」ということを「常識」としなければなりません。
給料だって、全国民の平均賃金を必ず下回らなければなりません。だって元々、経済行為として成立しない仕事しか「してはいけない」のが官僚なんですから。

そして、そういう「蔑まれる仕事」であるにも関わらず、「滅私奉公」で、公のために誠意を尽くして仕事をする人だけを尊敬の対象にしなければいけないのです。

でなければ、給料はずっともらい続け、責任は問われず、そのくせ喜びの相互交換である経済行為はまるきり未体験で無知であり無能という異常人が、この国にのさばり続けるということにしかなりません。絶対的にラクで得なんですから。そんなおかしなことはない。

士農工商●●●●●公務員。

こうでなければいけません。そうする必要があるのです。
そうでなければバランスがとれない。得ばっかりでは、誰もが役人になりたがります。
そうなったら、この国は働く人間がいなくなります。
そうなったら、国の破滅です。

で、いまや、ほとんどそうなりかけてるんですよ。

公務員の総数、というものが、実ははっきりとは分かっていないのですが、いろいろな資料をあさると、約780万人だ、という数字があるそうです。
これに準職員的な人まで入れれば、約一千万人。
で、この一千万人にぶら下がるように、その「家族」がいますから、仮に嫁と子ども、ひとりずつとしても3千万人です。

良いですか、1億3千万人の人口のうち、3千万人が、自ら稼ぐこともなく、税金でのうのうと暮らしているんですよ。
これはあまりにひどい話じゃないですか。
そら不況にもなるわさ。

言うならば、居候が3千万人もいてる状態って事ですから。

100万人~200万人くらいの公務員の首を切っても、全然おかしくないと私は思いますけどな。
いやまぁ、「首を切られないのが役人」って事ではあるんやけどね。
でも、それがイヤならせめて、「国民から未来永劫、蔑まれる」というペナルティくらいは受けてもらわなきゃ、働きもせず「一生、親方日の丸に腰掛けて人生を終える」というバカが、後を絶たなくなる。

それはその人にとっても生きている意味がないです。そんなもん、すでに人間やないよなぁ。バケモンやで、それ。

概ねは、そういうことだと思います。

考えてみたら、ここに書くのは、今年初めてですね。
うむ。
あけましておめでとうございます。

どうにも、今年は年明けから、気持ち的にすっきりしなくて困ります。
何なんでしょう?
いろんな意味で生活が変わり、考え方が変わり、生き方が変わるような予感がします。

なのでまぁ、すっきりしないんでしょうね。未知の世界に踏み出すような変な感じ。分かっていることだけをやっていれば、安心は安心なんでしょうけど。

そうそう、昨日のニュースで、あの岡崎友紀が民主党から立候補するという話が出てまして、ありゃまぁと驚きました。彼女も56歳ですからなぁ。思うところがいろいろあったんでしょうねぇ。

一昨年の暮れ、まる一年前に
「年末・おっさん特集:岡崎友紀を知っていますか。」
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812311207035105/
を書いたのが懐かしいです。

民主党といえば、カンブリア宮殿の新年スペシャルで、小沢さんのインタビュー番組があったようですね。

小沢一郎 小沢革命の全てを語る(カンブリア宮殿)
http://www.youtube.com/watch?v=mrKa1JUQmWE
http://www.youtube.com/watch?v=w-Eu-ss08JA&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=hWnEme9msoY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=FMB6YwJWnR4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Bbpopbpzmzg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=tyoSW-uWMPY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=tX3CP8Lqx2I&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DJ4HUrKgx54&feature=related

カンブリア宮殿は村上龍がホストを務めていて、いろんな企業のトップなどが登場する番組で、村上龍の質問が実にバランスが良くて面白い。
今回も、普通の人が普通にどう思うかをキチンと考えて質問しているから素敵だなと思う。

たとえば、小沢さんが「日本人にはお上意識があって」と言葉を発すると「お上という言葉には政治家は入らないのですか」みたいな事をすっと投げかける。で、ちょっと小沢さんがあわてるのがおもしろい。
お上っちゅうのは官僚の事よ。政治家は国民の代表なんだから。ごっちゃにしたらあきませんよ。でも、世間の「大衆」は、そこいらへんは、ものすごく適当。

で、そういう適当さを村上龍はよくわかってるから良いよなぁ。

この番組を見てて、結局3回ほどグッと来てしまった。他の人なら別にどうとも思わないだろうけど、僕はかなりグっときました。

ひとつには長崎の福田えりこ。その活動が紹介されるわけですが、それがやっぱり「まず川上から」ということで、地元に戻って戸別訪問するのが、もっとも人口密度の低い地域からだというのがあって、私的には目頭が熱くなってしまう。
センチメンタリズムだと言いたい人は言ってくれていいです。
でも、それでもやっぱりそこに「田中角栄」が生きてるよなぁってしみじみ思うのだ。

角栄は雪の中、わざわざいちばん遠くて人の少ないところに演説に行ったのだ。新潟の雪の中に比べれば、長崎はあったかくていいよなぁ。えりこちゃん。
小沢一郎はひたすらこのあたりは田中角栄からの手法を受け継いでやってるんだなぁというところに感激するわけです。
そこに継承があるから。
どんな世界でも、こういう継承とかがないと、立ちゆかないものなんだと思うんですよ。
教えを受けて、それを忠実に守る。
基本です。

教えを受けて守るというようなことあたりにグっと来てたわけです。

で、あとは、「政治家が責任を取る」という話。これがまたグっときた。
この番組では、その「責任」とは何かまでは語られてなかったですけど、ようは「落選」ですわ。政治家は「落選」します。政策が良くなかったら、国民に落とされます。

でも、官僚は、落選なんてないわけですね。もともと責任の取りようがない。その責任を取ることの出来ない立場の人間が法律を作ったりしてきたのが日本の姿でして、ここがよろしくないわけですよ。
小沢さんも、気に入らなければ選挙で落とせば良いのです。

でも、言ったらなんですけど、まともな大人で、責任を取ることもできないような人は、まともとは言えませんしねぇ。官僚発想は、だから、かなりまずいのだ。
でも、意外に官僚的思考をしてる人の方が、この国では多かったりする。

で、もうひとつグッと来たのは「個人消費をサポートすれば景気も良くなると思う」と小沢一郎が言ってるってこと。とくに「日本のGDPの6割が個人消費なんだ」という事を言ってるのを聞いて、ものすごくうれしかった。

日本は輸出で食ってる国だから、製造業が弱くなったら大変だ、という論議は良くあるんですけど、でも実際は純粋な輸出というのは1割とか2割とか、そのくらいなんですよね。で、やっぱり一番大きいのは、個人消費。
だから、そのボリュームゾーンへの刺激策が一番重要なわけで、そこを正しく把握してくれているという点にジーンと来た。ああ、民主党政権になって良かったなぁとしみじみと思った。

まぁもちろん個人消費だけじゃだめなんですけどね。でも、ポイントを押さえてるかどうかは、ものすごく重要ですわね。

あと全然別の話ですが、「陳情」を民主党幹事長室に集約したっていうのはすごいですなぁ。これで責任の明確化ができた、という言い方をしてはりましたが、大事なのはそこじゃなくて、実は、

●官僚への直接陳情が一切無くなった。

ということです。

こんなもんね、官僚に陳情とかしたらあきませんって。ありとあらゆる意味で全然ダメですがな。きゃつらには「責任」とは何かということが、まるきり分かってないんですから。大卒でそのまま役人になった奴なんか、それこそ責任とは何かという事自体、体験も実感もしたことがない精神的カタワばっかしなんやから。そんなところに現実の陳情を押し込んだら、そらぐちゃぐちゃになりますがな。当たり前の話です。

だから、陳情から官僚を完全に切り離した、というのは、かなり重要と僕は思う。すごく大きな改革だよなぁって思う。あんまり話題になってませんけどね。

ま、そんなこんなで面白いなぁと見た80分だったわけですが、でも、そんなのを見てたら「外国人参政権ごり押し」とかの記事も出ていて、これはちょっと抵抗があるんよねぇ僕の場合は。
いや、世界の流れを考えれば、ゆっくりとそっちに持っていかないといけないのだろうなぁという気はするんですけどな。でも、いますぐやるべきことなのかどうかが良く分からないのであります。

ま、そんな事ですっきりしないっていうのもあるかな。

他にも、大阪府の橋下知事が「大阪府と大阪市の垣根を取っ払って、スーパー大阪市・大阪都にしたい」というような事を言っていて、これはこれで「おう、おもしろいやんけ、やれやれ!」と思ってしまう。

だいたい、大阪市と大阪府の役人同士が仲悪くて、似たようなことを競い合ってやってたり、とにかく大阪は役人にグチャグチャにされてるという思いが強いんで、それでいきなりガサっと合理化したらええねんとか思うんですよね。いやほんまに。

小沢さんは「無血革命」とか言うてはりますが、僕はこと日本の役人に関しては「流血革命」でやってもかまわんのと違うか?とすら思いますからな。いやまぁ、そこまでの事はできないにしても、そういう発想になってもおかしくないくらいに無茶苦茶な存在ですから。

このあたりもすっきりせんなぁ。ほんまに。

「こつまなんきん」というのは「勝間南瓜」だったのだなぁ。
「こつまなんきん」というのは「勝間南瓜」だったのだなぁ。
「こつまなんきん」というのは「勝間南瓜」だったのだなぁ。
先日の冬至の日。12月22日ですが。
うちの近所の神社で「こつまなんきん祭り」というのをやっておりまして。
で、また、家にこもりがちな母親を呼び出して、ちょっくら覗きに行ってまいりました。

だいたい「こつまなんきん」とはなんぞや?という話なわけですが、近年、大阪では、「なにわの伝統野菜」を復活させようという動きが、けっこう活発でありまして、このお祭りも、その流れに乗ったものなんだろうということなのであります。

●なにわの伝統野菜
http://www.epcc.pref.osaka.jp/afr/kakubu/toshinou/dentou/naniwa1.html
http://www.osaka-brand.jp/dokkoi/yasai/index.html

なんだかんだ言っても、大阪は古くから人の集積していた地域なのでそういう作物も多いのでしょうな。食う人間がいてれば、地域産業も栄えるということで。

こつまなんきんの他にも、毛馬きゅうりとか、天王寺かぶとか、田辺大根とか、かなりいろいろあるらしいのであります。で、こつまなんきんは、この大阪は西成区玉出が原産地で、勝間村というところで採れたから、「勝間南瓜」なんだそうです。

おもしろいのは、天王寺かぶでして、これは実は信州の野沢菜のもとになったカブだ、と言われているのだそうです。信州では「野沢菜は天王寺かぶがルーツ」というのは定番の伝説なんだそうですな。(でも、遺伝学的には否定されてるらしいけど。まぁ学者なんかアテにならんが。)

それはそれとして、「こつまなんきん」という言葉には、「小柄でぽっちゃりしていて性的魅力に満ちている女性」という色っぽい意味もあるわけでして。かの今東光が「こつまなんきん」という小説を昭和35年にも書いているそうであります。

この小説は映画にもなっていて、
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23307/story.html
にある、あらすじを読む限りでは、「嫌われ松子の一生」なみの波瀾万丈な女性の一代記という感じですな。

冬至にかぼちゃを食べて金運を祈り、冬至風呂(柚子湯)に入って無病息災を祈るというのが、冬至の行事らしいのですが、最近でもやってる人はやってるんでしょうな。
ともあれ、この神社では、500円払うと、蒸したカボチャと願い事を書く紙をくれまして、境内に作られた食事どころでカボチャを食べて、参拝し、その後、カボチャ石というのを撫でて、願い事の紙をカボチャ形をした入れ物にほおりこむというところまでが、「手順」として決められていて、いやー商売上手な神社やなぁと感心したのでありますが。

ともあれ、いま話題の勝間和代さんも、もしかしたら、この地がルーツの人と縁のあった人なんじゃないですかねぇ。映画のストーリーを見ても、なんか女が一生を波瀾万丈で生きるというあたりが共通項になってる気もするし。不思議な感じ。

いやはや面白いもんです。

なんか、またやたらと小沢さん批判が出てて、で、ミクシでそういう反小沢の人の話を聞くと、とにかく「小沢が嫌い」という感情論が、かなり大きいように感じるんですね。

で、どうも言ってる事が筋が通ってない。
よーわからんなぁ、何なんやろ、この小沢さんの嫌われ方は。

と思って、その複数の人の意見を、それぞれ別々に聞いてみたりしたんですよ。
でも、それぞれに全然別の事を言っていて、全然共通項が見えないんですね。中国嫌いなのかなぁ?とも思って聞いてたらそうでもないし、複数の人が、全然別の理由で小沢批判をしてるわけです。
それも民主党の幹事長になったから、大きな権力があるわけで、それを正しく制限するべきだ、というような、まっとうな意見ではなくて、「小沢がやった、1か月ルール違反はとにかう問題だ」とか、「小沢の言ってる事は幼稚だ」とか、全然「権力の監視」になってないんですよ。

本当に権力の監視をするつもりなら、小沢さんの考えていることの内容をこそ精査しないとアカンのです。ようは、彼の「考え」を聞かないと批判ができない。

ところが、そこの部分は何も言わないわけ。なんかおかしい。

で、批判のツボがバラバラで、大きな威力になっていない。
あえて共通項を探すなら「とにかく小沢が嫌い」という一点だけという感じがする。

なんでこんなことになるんかなぁ?なんでなんやろ?と思ってつらつら考えていて、結果たどり着いたのは、

●小沢さんはブ男だから嫌われているのでは?

という、実にくだらないけれど、大衆の残酷さが如実に出る要素でありました。
どうもねぇ、小沢嫌いの人は、単純に「顔が嫌い」というところに行ってる気がするんですね。

いやまぁ、僕も昔は「人格は顔に出るという側面が大きかったし、それが重要だ」と発言していた時期もあるんで、そこは反省しなくちゃいかんなぁと思ってるんですが、しかし、いろいろな意見を集約していくと、いろんな仮説の中でも「小沢は顔が嫌われている」という仮説だけが、ピタリと整合してしまうんですよ。

「おまーら政治の話をしてるように見せかけて、ほんまは「顔の悪い男は嫌い」と思ってるだけの事やろ」

という結論にしか行き着かないんですよねぇ。

で、顔の悪い男は生理的に嫌われるから、「話を聞いてもらえない」わけですよ。
ようはそういうことなんだろうなぁと。
そういう結論に達しました。

なんだかんだ言って、あの能なしの小泉君が人気が高かったのは、まぁどっちかと言えば美男子の部類に入ってたからなんでしょうな。そういう気がする。

小沢さんは、自分でも「ぶおとこ」とおっしゃってますから、そういう面で損をしやすいということを重々承知なんでしょうね。だからこそ、いろいろな会見で、どうしても大きな基本的ルールとかの「筋」論を誠実に話すということしかできないんでしょう。

小泉あたりだったら、いくら無茶苦茶な内容で、中身がなくても、一発はったりをかまして「感動した!」とか「米百俵の精神!」とかのワンフレーズポリティクスでどうとでもなったわけですが。

だいたい、政府の緊縮財政をするとか減税をするとかもしないで「米百俵の精神」と、国民に耐乏生活を「先に」させたという時点で「こいつはダメだ」と僕は思ったんですが、それでも世間では小泉人気は落ちなくて、米俵百俵に関する本が売れたりしたわけですよ。

なんやねんこれはって思うんですけど、なんかそういう差があるように思いますなぁ。

僕は小沢さんの頭の中をキチンと覗いた上で、それで「その考えは、私は嫌いだ」と言いたいんですが、「顔が嫌い」だと、もともと話を聞かないですからな。だから「1か月ルール」みたいなどうでも良いことで、「とにかく攻撃」ということをする。

それはあまりに無茶やろ。

と思うのですが、小沢さんにしても同じことで、あまりに無茶だと思うから、憲法の基礎の話とかをするしかなくなっちゃうわけなんでしょうね。もともとブオトコで嫌われてるから「筋論」で話を通していくしかないわけで。

なんか不毛やなぁって思うんですよ。

もっとこう、なんていうの? これからの日本の方向性を、対米外交とアジア圏外交のバランスの取り方の中で、何を重視していくべきなのかとか、そういう大きなテーマで話を聞き出して、で、その考えの中から「いや、それは行きすぎだ」とかの批判をすべきなんじゃないのかなぁと。

その方が、本当の意味での「縛り」になって、効果的な権力の監視につながると思うんですがねぇ。

でも、そこまでする気自体がない感じなんですよ、いまの小沢批判って。
というか、これまでの小沢批判もそうだったし、これからもずっとそのままであるような気がする。

顔の好き嫌い「だけ」で判定してる人は、自分が「顔だけ」で判定しているとは思ってないんですよね。「なんだか知らないけれど嫌い」とか「なんかしらんけど好き」とかになってるので。

そういう相手と、キチンとした論議は無理ですからなぁ。
そこが小沢さんの先天的な政治家としての弱点のような気がする。

人間の行動は、顔に反映するから、顔も大事ではあります。しかし、「顔だけ」っちゅうのはアカンやろって思うんですなぁ。
でもどうも、小沢さんって、「顔だけ」で嫌われてる気がして仕方ないです。

あああ、やれやれ。
困ったことです。

ぶおとこでも、話くらいはちゃんと聞け!
それから、自分が論理ではなく「顔が嫌い」という感性だけでしか判定していないのだという自覚くらいは持て!と言いたいですわ。

いや、ほんま。「顔が嫌いやから話も聞かない」では、肝心の事が何もわからなくて、結局はみんなが困るんやから。なんとかして欲しいです。


このごろ、テレビ、新聞を読むのが疲れて仕方ないのですよ。
というのは、先の天皇と習近平国家副主席との会見の際の1か月ルールの話。

いや、この話だけじゃないんですけど、なんちゅうかマスコミの「つっこみどころ」が間違ってる気がして仕方がないわけですよ。1か月ルールとかさぁ、そんなこたぁどうでもええっちゅうねん。それより、この習近平氏がどの程度の実力者で、中国のこれからの方向性とどう関連するのかとか、そういうことをキチンと調べて報道したらどうやねん?って思うわけですよ。

習近平氏がかなり重要な人物であるということくらいは、多少は見聞きして知ってるけど、具体的にはカッチリとは知らないのですよ、私は。だから、そっちの方の情報が欲しい。日本の標準的な一般ピープルなら、よけいそうなんじゃないですかね。

しかし、いまのマスコミというのは、そういう「視聴者や読者が知りたいと思っていることを調べて伝える」という機能が全然機能してないんですな。それよりも「毎日の放送の枠、記事の枠を埋めなきゃいけないんだ。」という意識しかないから、タダ・無料で情報を提供してくれる官僚のリーク情報が大切で大切で仕方ないというアホの極みの状態に陥ってるわけですわ。

昔ながらの良識あるマスコミなら、この「1か月ルール」などという、たかが官僚の「うちうちの習慣・目安」「業務執行上のいちおうの取り決め」なんぞを、活字にすること自体がなかっただろうと思うのですよ。

仮に天皇と習近平氏との会見の事を批判するにしても、「たかが国家副主席程度のために便宜を図るほど、中国との関係を強化する必要があるのか?」というような話になるはずで、そうなれば反論も「いや、習近平という人は、これこれこういう人物で、これからの日本のあり方においては……」という話題が当然出て、そこから「日本の国益上どうあるべきか?」という、大きな、重要な論点へと進んでいくべきもののはずなのではないですかねぇ?批判するにしても、批判のしどころがあるっていうのは、そういうことです。

なんで、それを考えるべきマスコミが、それを考えもせずに「1か月ルールを曲げて天皇サマを動かすとは不敬ではないか。」とか「天皇の政治利用ではないか?」とか、わけのわからん、頭の悪い、官僚のグチをそのまま新聞・テレビの記事にしてしまうのか? と思うのですよ。
本当に頭が痛い。

1か月ルールとか、そんな事どうでもええっちゅうねん。ほんまに。これからの日本をどうしていくべきかを考えろっちゅうねん。
同じ批判をするにしても、そういう大きなテーマで考えないとあきませんよ、ということです。
いったいいつからマスコミはこんなに頭が悪くなったんやろか?と思います。
ほんとうにひどいですわな。

よその家にお邪魔したらですね、そこの飼い猫ですら初対面だと、僕の靴の匂いを嗅いで「こいつ誰や?」とか、調べにかかるんですよね。「1か月ルールを破って会見」ということは、まさにはじめてお家にお邪魔した状態と同じでして、国民は習氏のことを「こいつは誰やろか?」と靴の匂いを嗅ぎたがってるってことですよ。

でも、そういうマスコミが本来やるべきこともやらずに、官僚のリーク情報をそのまま流して「不敬だ」「天皇の政治利用」とか言うてるんやから、いまのマスコミはアホというかパーというか、そこいらの飼い猫より頭が悪いとしか言いようがないと僕は思うのです。

で、この件について民主党の小沢一郎氏が、マスコミに対して「憲法をキチンと読みなさい」とか発言してましたけど、あれはあまりに当然っちゅうか、なんで小沢さんのように社会的責任のある人に、あんな「マスコミの教育」を公開でさせねばいかんのか?って、つくづく頭が痛いですよ。そんなことは、マスコミの社内教育でやってくれっちゅうねん。
小沢さんクラスになったら、習氏と直接会ったこともあるやろうし、どういう人なのかとか、これからの日本と中国との関係をどうしようと考えてるのかとか、他に聞かなければいけない事は山ほどあるっちゅうねん。

なんで、マスコミが宮内庁のどうでもいい官僚の、ちょっとした愚痴をああいう公開の場で公人にぶつけて、そんで「憲法の基礎講義」みたいなマスコミ社内でやるべきことを国民が見させられねばならんのか?って事ですわね。

民主党は大きな力を持ってます。
だからこそ、批判をするなら正しく批判をしないといけない。
なのに、その「正しい批判の方向」自体が、まったく分かってないわけですよ。
まるで小学生レベルですわ。

なんで小沢さんが小学生の先生をやらなアカンのか?っちゅうことですな。
ほんまに情けない。
それこそ、小沢さんが答えにグっと詰まるくらいの正鵠を射た批判質問をしろっちゅうの。
バカもあそこまで行くと目も当てられないって気がしますなぁ。

小沢さんの会見での「憲法読め」なんてのは、あまりに当たり前の話でして、別におかしなところは全然ない。基本的には僕は小沢さんに対しては良いも悪いもよく分からんのですが、とにかくあの人が記者会見などで言ってる事は別におかしなところはいつも全然なくて「ああ、まともやなぁ」と思うのですが、それは小沢さんがまともな人なのではなくて、


●マスコミのレベルがあまりに低すぎる。


から、小沢さんが小学生の教師をやるしかなくて、それで「まとも」になってるだけなんですよ。「つっこみどころ」を間違えてるから、小沢氏の良いところも悪いところもひっくるめた「本質」をポロリとこぼれさせるような会見になってないわけです。
本当に民主党や小沢氏を追い落とす気があるなら、こんな小学生レベルの事はラクラクとクリアした上で、もっと本質的に小沢氏が「ぐぐぐ、困った。」と苦悶の表情を見せるような質問をしろっていうのよ。マスコミの会見は、小学校のホームルームとは訳が違うのだっちゅうことですよ。

つまり我々は、ようするに、


●とんでもなく幼稚なマスコミを抱え込んでしまった。


という、とんでもなく国民の利益を損なう、「負の遺産」を持っている。そういう病魔に、いままさに犯されている最中なのだ、ということなんですね。

これは、かなりの大病だし、悪弊だし、巨悪の根源なのだと言うことなんですよ。

官僚のグチを、いちいち「関係者によると」という言い回しで、そのままなんの判断も精査もなく新聞記事にしてるなんていうのは、もう、白痴レベルのバカです。だから、かなり日本は危険な水域に入ってしまっていると考えた方が良いのですよ。

なので、今回の「1か月ルール」に関しては、はっきりと、純粋に、


●マスコミがバカ


ということであって、それ以上でも以下でもない話なんだ、ということを、国民はもっと強く意識しなくちゃアカンと思います。
これは本当に「国民全体がバカへの道を突き進んでいる」という、超おそろしい、こわいこわい状態のあらわれなわけですから。

で、この手の話が、この数年本当に多すぎるんですよ。

この傾向がどうして生まれたのかというと、たぶん、自民党時代の「小泉旋風」がきっかけのようなんですな。

小泉さんが画面に出れば視聴率が稼げたわけです。で、マスコミは、「ようは視聴率が取れたらいい」という損得づくしか考えないように成り下がってしまったわけですな。

で、実際政治家は「公人」なので出演料がいらんわけです。マスコミの経費削減策にもつながったんでね。

しかし、経費削減のために、はったりだけの「テキヤ政治屋」小泉が人気になって、で、その影響、結果として、マスコミが「官僚のリーク情報垂れ流し機関」に成り下がってしまったというわけですから、その構造を正しく国民が理解して、もっと厳しく厳しくマスコミを叱りとばさないとアカンと思いますなぁ。

だいたい、小泉が海外派兵したときだって、本来ならマスコミがキチンと批判すべきだったのに全然そういう記事や番組が作られなかったし、郵政解散の時だって、「なんで参議院で否決されたからと言って衆議院を解散するのか?解散権の乱用ではないか?」という話がマスコミからは出なかった。もう、そこらあたりから、完全にマスコミが壊れてたわけですよ。

一般ピープルにはわからなくても、政治や社会の仕組みの事が良く分かってる人間なら「問題だ」と感じることをこそ、正しく批判するのが「社会の木鐸」としてのマスコミの本分であり、本質、社会的役割のはずなのに!という憤りを感じざるを得ないのですな。

だから、はっきりさせておかないといけないことは、


●マスコミがバカであることは巨悪である。


ということだと思うんです。
民主党の幹事長である小沢氏に「憲法の講義」を受けてるようでは、完全に記者失格ですからな。そんなもん。世が世ならはり付け獄門にしてもよろしい。
というか、情報社会の現代だからこそ、ああいうパーな記者ははり付け獄門にすべきだなぁと僕は、半分本気で思います。マスコミで働くことの社会的責任の重さを全然理解しとらん。
そういうのには徹底した体罰とか与えた方がええんと違うか?ムチで100たたきの刑とか復活させたらええのに。

そのくらい、


●マスコミ人の無知は破壊的に巨悪である。


ということです。
国を滅ぼすウィルスですよ。マスコミ人の無知は。

無知にはムチを、だと思う。本当に。

一般ピープルが無知なのは仕方ないにしても、マスコミ人が無知なのは、正直犯罪ですわ。
金を取っておきながら仕事をしてないわけですから。それは泥棒と言います。普通は。

マスコミが「バカなまま」という巨悪、大犯罪を犯したという決定的な証拠が、この夏の選挙の時期の「酒井法子フィーバー」なわけです。選挙前の時期だと言うのに、「酒井法子フィーバー」ですよ? どんなマスコミやねん、それ。パッパラパーマスコミですがな。そんな報道はいらんわ。ばかものが。選挙に関する報道にもっと力を入れろっちゅうの。

あれは結局は、「警察がリーク情報を垂れ流し続けて、スポンサーが減り、部数が減ったテレビ新聞が、自分たちで取材する能力もなかったので、そのニュースソースをそのまま垂れ流した姿」そのものだったわけでしかないんですね。そりゃ不況で予算はガタ減りでしょうけど、それにしても情けない。あまりに情報力が無さ過ぎですわ。ちょっとは自分で額に汗して、足で情報を稼いで報道してくれなきゃ困ります。

でも、自分で取材しなくても、警察がタダで情報をリークしてくれるから、そっちを選んでしまったわけですわ。選挙前やというのに。そらラクですわなぁ。聞いたまま書くだけでええんやから。

で、結局、いまやマスコミはそれしかやってない。
今年の春の西松建設の時の報道も、まったく同じでしたわな。官僚のリーク情報(だいたいリークすること自体が官僚としてやってはいかん事なんですが。)のタレ流しで新聞の一面が盛大に盛り上げられてましたからなぁ。イヤハヤナントモ。なんの主体的な取材力も、判断力も、まともな筋の通った正義の批判力もマスコミにはないわけです。

ただひたすら官僚のリーク情報の引き写しをしてるだけ。
タダでラクしてもらえる情報だから。それを垂れ流して稼ぐというスタイルが、完全に定着してしまってます。

だから宮内庁の、たかが役人の庁内風習の変化へのグチというどうでも良いことまで、無批判にそのまま載せてるわけです。

ほんとうにどうしようもないバカどもです。

で、マスコミがバカになると、国民全員が「必要なことを知らされない」という「バカと同等」の環境にさらされてしまいますからなぁ。

ほんとうに、ほんとうに、「マスコミがバカであることは、真の巨悪である。」ということなんですよね。困った事です。

この部分、本気で本当に意識しないとまずいなぁと思います。それこそ「国を誤る」と思いますよ、私は。
どうも、いまのマスコミを見てると主義主張で小沢批判してるとかではないと感じるんですよね。単に「無料のリーク情報がもらえるから垂れ流し」だけでしかないように思います。
本当に正しい批判なら、国民もキチンとマスコミと一緒に怒るでしょうからな。

でも、なんかそういうことではない。
単にバカなだけなんですよ。
「ちょっと偉い奴をつっついたら、一般ウケするやん。」程度の発想しかないように見える。というか、その程度でしかない。

ああああ、ほんとうに、この国は大丈夫なんだろうか。
ものすごく心配になってきました。
いや、ほんとに。

今日はちょっとヒマだったんで、話題のアニメ「ワンピース」の映画版でも見に行ってみるかなぁと思ったんですがね。

で、人気だし、すごい人出になるだろうから、ネットでチケット買って出かけようかと思ったんですがね。

昨日の夜アクセスしてみたら、この土日分のチケットが完売状態。それも梅田も難波もどっちの映画館も。

信じられない。
ありえへん。
すごすぎる。
こんな映画聞いたこともない。

なんやこれ。

まぁ、考えてみれば、劇場で見れば「コミックス0巻」というのがもらえるというのがかなり大きいなぁと思うし、コミックスの方の人気とテレビアニメの人気、それに加えて子どものいてる家庭なら親子で行くよなぁとか考え合わせると、「こういう事になるか。」と納得するしかないわけですが、いやー、それにしてもすごい。

今回の映画版は原作者の尾田栄一郎自身がストーリーを書いたらしいしね。漫画本編とキチンとリンクしてるというのも大きいと思う。コミックス読者の数は膨大ですからなぁ。

このごろ出版される漫画は、メジャーどころから、マイナーなものまであまりに数が多すぎるので、「読むのはジャンプだけ」という事にして久しいのでありますよ。週刊少年ジャンプだけを、毎週、隅から隅まで読みます。
いろんな世代とコミュニケーションを取れるように考えると、少年ジャンプだけ読むってのが手軽かつ効果的なんですな。さすがにコロコロコミックスとかまでは読んでられませんしな。ということで、いちばんメジャーどころだけを選ぶとジャンプってことになりまして。

で、ずっと読んでるんですが、まぁ、それでも歴代の漫画を比べても、やっぱり一番おもしろかったのはドラゴンボールだなぁと。
で、ワンピースも確かに面白いけど、ドラゴンボールに比べれば、世界観やら外連味やらは大がかりだけれども、ちょっと大味で、大したことはないと思うわけです。(いや、その設定の大がかりさとか、ものすごいものなんですけどな。それはそれとして、です。)

それでも、この人気ですからなぁ。

実は日本の映画界というのは、「子ども向けアニメ」というのが、いまや主たる稼ぎ頭に成り下がってしまってるわけです。ドラマはテレビでもやってるし、大人が好む、ちょっと複雑な話とか、マニアックな内容のものはDVDでもペイするようになってきてるから、映画館ではそこそこの数のお客さんしか来なくて良いってことになる。劇場に足を運ぶ人が少ないわけですね。

だから、「親子で劇場に出かける」ことになる「子ども向けアニメ」が、ものすごく重要な稼ぎ頭になるわけですよ。いきなり2席、3席埋まりますからな。
映画館に勤めている友人もいてますので、映画業界にとって「ドラえもん」がいかに重要な作品であるかは、身にしみてわかっておるのであります。

が、しかし。
ドラえもんの藤子F不二夫さんがお亡くなりになり、クレヨンしんちゃんの臼井儀人が不慮の事故死を遂げて、いまの映画館にとっては、「劇場に客を呼べる作品」が、本当に枯渇しているということになってしまってるわけですわ。

だから、このワンピース人気は、いろんな意味を持っておりますわね。
良い意味でも、悪い意味でも。

尾田栄一郎は、そういう状況をキチンと引き受けたわけで、大した奴やなぁと、ひたすら感心するし、エライなぁと思うけど、でも、実写の映画ではそういうのが出てきてないというのもまた、ちょいと寂しい。

まぁ「マリと子犬の物語」みたいなヒットとかもあるから、そういうのに期待するしかないんですけどな。僕的には映画館で見るなら、ワンピースもええけども、まだ「マリ」みたいな奴の方が楽しい。ワンピースは本で読む方が面白いし。

とはいえ、DVDやらブルーレイディスク、家庭用大型液晶テレビや音響システムとかが一般売りされてる昨今。これからのことを考えれば「映画」の今後は、こういう「アニメ頼り」ではなく、「3D映画」になって行くしかないのでしょうな。

ということで、年々3Dに対応した映画館が増え、そういう作品も増えてきてるのはうれしい傾向であります。年末には「カールじいさんの空飛ぶ家」があるけど、あれが確か3D映画だったはず。まぁ、あれもアニメっちゃぁアニメですがな。でも映画オリジナルのストーリーというところが、ワンピースとはちょっと違う。そういうことがけっこう大事なんすよ。本道、本質、という意味で。

ま、そんなことを感じた週末ではありました。

この歳になって、やっと「正しい態度」が学習できてきたので、ちょっと書いてみます。

先日のこと。
うちの事務所に、得意先の担当者の方が来られまして。お昼ご飯を、うちの事務所のデザイナーさんや、その担当者の部下の方、あわせて4人でご一緒することになったんですね。

で、食後、ふと、その方が僕のご飯茶碗に米粒がたくさんついているのを見て、「なんでそんな食べ方するの?」と叱ってくださいました。

「あー、そんな食べ方してたら、いくらしっかり仕事をやってくれても、発注する気がなくなるねぇ。一緒に仕事したくなくなるよ。」

とか言われたんですね。
前々から、どうしてもご飯粒を茶碗につけたまま食べてしまうクセがあった僕は「これはちょっと恥ずかしい事だなぁ」と思いまして、

「どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?」

と、その方に質問をしました。すると、

「え? そら、ご飯が暖かいうちにちゃんと取るんやね。冷めてしまってからやと取れへんから。」

と答えてくださったわけですが。

しかし。

これ、実は、僕には目ウロコだったんですよ。
実は前々から自分のご飯の食べ方は、飯粒を茶碗にくっつけまくった食べ方であり、世の中にはまったく飯粒を残さない食べ方をしている人がいてる、というのは分っていたからなんです。

自分は出来ていないと分っていながら、どうすれば良いのかが、わかってなかったんですね。

なので、「あ、そういう事か!」と、ものすごく参考になりまして、これ以来、お茶碗に飯粒をつけたまま食べ終えるという事がないように、一口ごとに茶碗に飯粒がつかないように食べるということを、習慣づけるようにしております。

で、一口ごとに茶碗に飯粒がつかないようにすれば、実に簡単に「飯粒を残さずに食べる」ということができるんですね。
いままでは、「どうすればいいか」が分ってなかったから、それが出来なかったわけです。
いままでなかなかできなかった「きれいに食べる」ということが簡単に出来るようになって、実に気持ちが良いのですね。うれしい。

実は、これまでだって、なんとか「きれいに食べよう」としたことはあったのです。でもやってみてもうまく行かなかったから、それが記憶に残って「苦手項目」としてコンプレックスとして残ってしまってたんですね。

コンプレックスを持つと、それを直視するのがイヤですから、「そんな事はどうでもいい事だ」と居直って、より一層、それを無視するわけです。まぁだいたい人間というのはそういうものです。みんな同じ。嫌なことは直視したくない。

というわけで、僕はずっと、「ご飯茶碗にご飯粒をつけて食べる子どもみたいな大人」をやり続けていたわけですよ。ああ、かっこ悪い。

たとえば、ダイエットをしている女性で、外食で出てきたご飯を少し残して食べ終わる場合でも、ご飯茶碗をきれいにして食べる人なら、残ったご飯だけがきれいにまとまって残っていて、茶碗に飯粒なんてついてなかったりするんですよ。

でも僕は「ご飯粒は冷めてしまうと取りにくい」という、当たり前の事実がわかってなかったから、「一口ごとにきれいに食べる」ではなく「二口三口食べてから、茶碗についた飯粒をこそげ取ろうとする」というアホな事をしていたわけです。

考えたら、難しい事でもなんでもないんです。
でも、苦手意識があるものだから、「あー、うまく行かないや。もうどうでもいい。」と思って、そのままにしていたわけです。
で、ひたすら「別に大した問題ではない」と自分をごまかしてたわけなんですね。

でも、この得意先の方が、はっきりと「仕事出したくなくなるね」と、「問題」として意識させてくださったから、僕はやっと「なんとか解決しなければならない」と思えたわけです。
本当に実にありがたい事であります。

なんでもない、小さな事ですが、これから一生、もう二度と会食の席で恥ずかしい食べ方をしなくて済むわけですから、これはかなり大きな財産なんですよ。本当は。
逆に言えば、いままでは、そういう部分でかなり損をしてきたということですね。あまり親しくなければ叱ってなどくれませんから。

●問題を問題として認識していない。

というのは、ようは解決方法がわからないから、無視しているだけなんだって事なんです。

であるなら、まずは問題を問題として再認識させることが必要で、それが「叱る」ということなんですね。それをしてくださったのだから、実にありがたい。本当に「叱られているうちが華」なのでありますよ。

で。

ここで、叱られる側として大事なのは、実は「自己肯定力」であったりするわけなんですね。

これがまた、もうひとつ難しいんです。

叱られると、人格全体を否定されたような気になって「ああ、僕はダメだ…」とヘナヘナになって、立ち直れないような気持ちになってしまって、気分的にガタガタになってしまうタイプの人間というのがいてるんです。

というか、最近はそっちの人間の方が多いかな? だいたい元々僕自身がそういう、「すぐヘナヘナっとなってしまうタイプ」の人間でしたから。

叱っている人は、個別の態度や行いについて「だけ」叱ってる訳です。別にその人の全人格を否定してるわけではありません。
しかし、その個別の態度や行いが、あまりにみっともないとか、恥ずかしいとか、道徳に反すると感じた時にだけ、その個別の態度について「叱る」わけですよ。
「おいおい、それは、あまりにかっこ悪いやろ」ということですね。

で、その「叱る」という行為は、同じ仲間であるとか、グループであるとかの同族意識があるからこそしてくださるわけですよ。関係のない人間にそういう「躾」の事なんかわざわざ言いません。一緒に生きていく仲間だと思うからこそ叱ってくれるわけです。

しかし、ここで「ヘナヘナ」っとなって気落ちするだけの人が、これまた多いんですね。どうしたらいいのかわからない。自己肯定力が低いわけです。個別の態度、行動「だけ」を問題として指摘しているのに、「全人格の否定」をされたと思いこんでしまうわけです。

気落ちしてヘナヘナになってしまうだけなら、まだ可愛いもんなんですが、ひどいのになると逆恨みするわけですね。「他の人もいてる前で、叱らなくてもいいじゃないか。」とかね。
かっこ悪い上に情けないですな、ここまでくると。

でも、この逆恨みは、その「問題」を、

「僕には解決できない難しい問題なんだ」

と捉えているから起きる事なんですね。僕がいままでご飯を「二口三口ごとに茶碗からこそげ取る」という間違った方法で取ろうとして失敗していたから、「うまく行かない出来事」として認識してしまっていたのと同じ発想なわけです。


●そんな事言うても、でけへんねんからしゃーないやんけ。出来ない事で怒らないでよ。


という言い訳になってしまうわけです。

が、しかし。

少なくとも叱る側は、「なんでこんな簡単な事もできてないんだ!」と叱っているわけです。一口ごとにきれいに食べる、なんてことは別に難しいことでも何でもないわけです。
逆に言えば「二口三口ごとに茶碗から飯粒をこそげ取ろうとする」という馬鹿馬鹿しくも愚かなチャレンジをして失敗し続けている人間が、この世の中にいてる、という事自体が認識できてないって事だったりするんですね。

どうです?この差。

片方は「どうしてもうまくいかない」と思っているし、
もう片方は「説明するまでもない」と思っている。

というわけです。

この溝を埋めるのは、実は本当は、かなり難しいんですね。
だいたい、いったい何が問題なのかが、どっちにも分ってないわけですから。
いつまで経っても「ご飯粒は冷えるとくっついてしまって取りにくい」という重要な事実と、「だから一口ごとにきれいに食べれば問題ない」という伝えるべきノウハウがごっそり抜け落ちてるわけですよ。

だから、僕は、ここで言いたいのは、まず、

●すでにそこに「きれいに食べている人がいてる」のだ。

という事なんです。
つまり「誰にでもできる事である」という事なんですね。
誰にでも出来ることは、自分にもできるはずなんです。

だから「僕にもできるはずだ」と思っているかどうかが大切なんだよって事なんです。

これが「僕にはできない」という意識があると、叱られたところで、ヘラヘラ笑って「えへへへへ。育ちが悪くてすみません。ごめんなさいね。」と形だけ謝って、そうして態度が改まらない、つまり「成長」のない出来事になってしまうわけです。

でも、「他の人もやっているのだから、誰にでもできるはずだ」という前提に立てば、「どうやればうまく行くのだろう?」というところに、必然的に興味が移っていくはずなんですね。
だから要するに、


●僕にはできない


という捉え方と、


●僕にもできる


という捉え方で、後の態度が変わってしまう、ということなんです。

自己肯定力というのは、ようするに「僕にもできる」と発想する力でして、何よりもまず、この発想を持つ事がとても大事なんですよね。

このご飯茶碗の話でも、僕が、


●どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?


と質問できたのも、この数年、アダルトチルドレンの問題も含め、とにかく自己肯定力を少しづつ高めてきたからじゃないかなぁと思います。
他の人に出来ていることは僕にも出来て当たり前だ、と思うからこそ、「どうやったらいいんですか?」と素直に質問できるわけです。

「僕には出来ない」と思いこんでいた間は、問題自体を「無いこと」にするくらいしか手がないわけですよ。
しかも、「僕には出来ない」と思いこんでしまうと、こうして仲間意識からしてくださった、有り難い「叱り」を、「恥をかかせやがって」という逆恨みにまで反転させねばならなくなるわけです。

世の中、実はそれほど悪いものでもないんですね。
他の人が簡単にやっていることは、自分にも簡単にできるし、それはキチンと「どうやればいいんでしょう?」と聞けば、まぁたいていは分りやすく教えてもらえるものなのです。

それほど世の中って悪いものじゃないと思うし、この「世の中悪いものじゃない」という発想もまた、自己肯定力から生まれてくる事なんですね。
そういう回りを信じる力というのは、やはり、まず自分を信じるところからしか始まらないんですよ。まず、「僕にもできるはずだ」があってはじめて自分を信用することができるのだし、その信用に足りるという感覚が身に付いてはじめて、「回りの人」も信用できるわけなんです。

だから、長年かかってやっと「自分を信じる」という事ができるようになってきたので、


●どうやったら、ご飯粒を残さずに食べられるんでしょう?


という質問を出すことができるようになった、ということなんです。これまでの僕だと、自分を信じ切る事が出来てなかったから、ヘラヘラ笑って「たはははは、生まれが悪くて」とか環境のせいにして終わりとかだったでしょう。

で、こういう具体的質問で返されたからこそ、その担当の方も「ご飯が温かいうちに」という重要ポイントを整理してお話ししてくださることができたわけです。

質問されてはじめて「あ、これを言わなきゃわからんわな」に思い至る。質問されないと、ポイントを伝え損ねるというのは、どうしてもありますからね。

結局、叱られた側の「自己肯定力」がポイントなんですよね。叱られた側の問題が、単なるスキル不足やノウハウの無知ではなくて「自己肯定力の低下」だった場合は、せっかく叱ってもらっても、それを学習の機会として捉える力が育ってなくて、

●ヘラヘラ笑ってごまかす
●ヘナヘナと自己否定に逃げ込む
●逆に叱った人を逆恨みする

という、おかしな方向に話がひん曲がって行ってしまうわけです。

これこそが、本当の、真の問題でしてね。

これをゆっくりと、着実に育てていくって事が大事なんですよね。

で、最近思うのは、まずは「どうしたらうまく行くのだろう?」と、それこそバカの一つ覚えで良いから呪文を唱えるようにつぶやき続ける事だよなぁ、と思ってるんです。

自分に自信のある人は、いつも「どうしたらうまく行く?」と考えてるし、その行動・発想を真似るためにも、まずは言葉を真似るというのが良いように思うのです。
自分に自信がなくても、とりあえずは「どうしたらうまく行く?」と唱えていると自分に自信があるのと同じ結果になりますからね。
まずは、それをやっていくのが効果高いよなぁって思ってます。
このあたりは、また改めて書きましょう。

ともあれ、とりあえずは最近の体験談報告、ということで。
古墳に入る。
古墳に入る。
一人暮らしをしている母が、最近どうも歩いていない様子だったので、とにかく連れ出して歩かせねばと思っておりました。

まず、歩く、というのが健康の基礎の基礎ですからね。

と、思っていたら、家の近所の歴史ある風物を、案内人が紹介しながら歩いて回るツアーというのがあると、駅貼りのポスターで出ておったので、「これは渡りに船」と参加しました。

僕が住んでいる地域というのは、けっこう古くからの歴史のある場所でして、意外な神社や地蔵堂などが、けっこう由緒あるものであったりするのですね。
もともと、全国的にも有名な神社があったりするので、昔は大変な観光地だったわけです。なので、観光名所になるような事柄がどんどん集積してきたのではないかと思われるんですね。まぁ、広島ではお好み焼きのビルができていて、ビル一棟にたくさんのお好み焼き店が同居しているお好み村があるようなものでしょう。

それに、大阪という土地がもともと、昔から都のあった土地であるということもあります。とにかく古い歴史ならてんこ盛りなわけですね。

というわけで、自宅の近所の名所旧跡の歴史やら言い伝え、故事来歴などを個人的に調べている人たちが、ボランティアで案内ツアーを企画した、というのが、このツアーでありました。

土曜日、朝の9:40分に集合して、お昼まで、えんえん2時間歩き通し。子どもの頃から見知った地域の裏路地を歩きながら、素通りしていた地域、地域の珍しい建物やら石碑やらを解説してもらうと、いや、いかに自分が何も知らずにこの土地で暮らしていたのかと驚くばかり。
良く知っている、なじみの小さな神社でも、その裏側を回った場所にこそ、由緒正しき文物があったりするということを、まったく知らなかったりするわけであります。

「へぇ~、そうやったんや!」

と、驚くばかり。

で。

今回のツアーの最大の目玉は、

●古墳巡り

というものでありまして、いつもは立ち入ることのできない古墳に、入って中を見ることができるということなのであります。

ご存じの方はご存じでしょうが、通常「古墳」と言いますと、天皇の墓ということで、宮内庁管轄でして、そう簡単に入ることは出来ません。というか、学術調査団すら入れてもらえないというとんでもない場所なのであります。

なのに、このツアーでは、その古墳に入れるという。
「ええええ?どういう事?」とか思ってたんですが、お話しを聞いてみると、古墳と言ってもいろいろで、天皇の墓ではなくて、その部下の墓であったりもするそうで。
で、そういうものは特段保護されることもなく、いつのまにか個人の土地になっていて、切り崩されて開かれ、普通の施設が建っていたりもするわけです。

で、今回歩き回った地域には、もともと大中小の3つの古墳が仲良く存在していたらしいのですが、大きな古墳はすでに小中高大の一貫教育されている、有名なお嬢様学校の敷地になっておりまして、小さな古墳も、もう跡形もありません。

しかし、中型の古墳だけは、いまもそのままの形で残っていて、今回はそこに入れるということだったわけです。
街なかに、いきなり自然の小山があるわけで、あまりにオープンにしてると、まぁそれこそゴミだらけになるか、あるいは小山の上からご近所をのぞき見るか、ろくな事にはならないですし、いつもは柵はされてるし、入り口もカギがかかっていて入ることもできません。

しかし、今回は、現在の持ち主である、この地域の保存会法人の許可を得て見学入場ができるというわけであります。

実際、僕が子どもの頃にはすでに柵もカギもされておりましたから、存在は噂に聞いていても、どこにあるのかすら良く分かっていない始末。古墳の回りはすべて住宅に取り囲まれていて、一般道に接しているのは入り口部分だけですから、そこに、それなりのサイズの古墳があるという事自体忘れ去られている、という感じなのであります。

という事で、今回はじめて古墳に入ったわけですが、まぁようするに小山。高さで言えば2階建てから3階建ての家くらい、広さで言えばちょっとしたマンションの敷地くらいのものでして、可愛らしいといえば可愛らしい、どうでもいいと言えばどうでもいい「裏山」でしかないのでありますね。

とは言うものの、前方後円墳の後円の頂上には、「天皇が来られたことがあります」という意味の石碑があって、自然も手つかずで残っていて、実に良い雰囲気。近隣の方々への配慮もあって、10~20分程度ぐるりと見て回っただけですが、なんとも言えず心落ち着く空間で、本当ならもっと長くいたいなぁと思わせる場所でした。

聞けば、日本中の樹木の標本が見渡せるというほどに多様な木々が植わっており、都市部のど真ん中だというのに、この近辺の野鳥の重要な飛来場所にもなっているということで、たったこれだけの空間であっても、残っていることの意義をしみじみと感じ入った場所ではありました。

たった半日ではありましたが、自分の住む街の印象がガラリと変わった、なかなかに有意義な体験でございました。

愛車、TREK FX7.5 を購入して、ちょうど一年となりました。

一年間乗ってみて思ったのは、かなりしょっちゅう乗ってたなぁということ。

最初は、10月の頭には買おうと思いつつ、なかなか買えずで、11月の終わりに納車になって、「こんな寒いときから乗り始めるなんて辛いねぇ。」と思ってたのですが、いざ乗ってみるとそれはさほど辛くはなかった。

まぁもちろん、2月の、ものすごく寒い時期に2週間ほど乗らなかった時もあったけど、春や秋でも、雨続きと、出張などの仕事の都合で一週間以上乗れない事はあるし、そう考えるとだいたい月に10日はずっと乗っていたという感じになります。

夏のあまりに暑い時も、さすがに熱中症を心配して1~2週間ほど乗らない時がありましたが、やっぱりコンスタントに月に10日くらいは自宅と事務所間の片道10km、往復20kmを走っております。

月200kmとして、年間2400kmくらいですかね。まぁ、ころあいなのではないでしょうか。

一年たったいまふり返ってみると、季節ごとでの乗り方の違いがあって、とくに冬場の乗り方に意外にノウハウが必要でありました。
というのは、冬場の方が、「汗対策」に悩まされたということなんですね。

冬場は寒いですから、風をふせぐために厚着をします。そうなると、服の中が蒸れて、汗をすごくかくのですよ。走ってる間は暑いくらいなんです。
問題は手の先が冷たいということですが、これは防寒用に作られた、しっかりした手袋をすれば解決しました。

でも、汗の問題はけっこうやっかいで、走ってる間はいいですが、事務所に着いたときとか、途中で書店や喫茶店などに立ち寄った時に汗で体が冷えてしまうんですね。なので、冬場は着替えのシャツを持ち歩いたりしてたし、移動もとにかく出発点から到着点まで一直線になりがちなんです。寄り道をしづらいわけですね。

「今年もそういう時期が近づいてきたんだなぁ」と秋の「フラフラ寄り道移動」を楽しんでいた私としては、ちょっと残念に思いつつ、そういう年間を通じての自転車の乗り方の基本ノウハウがそれなりに溜まっていることに感慨深いものを感じるのでありました。

「冬走る時に汗対策が必要」

という意外性と同時に、同じような意味で、

「夏場は意外に汗対策は不要」

というのもかなりの意外さだと思います。

というのは、自転車に乗ると「風にあたるので、体は冷える。」という側面がかなり大きいからです。夏の暑い日は、とにかく止るのがイヤ。走っていれば多少は風が体に当たるので涼しくて気持ちよいのですが、信号待ちで止っていたりすると風も吹かず、アスファルトからの熱気と太陽の直射日光の熱が体に直接あたる上に、走って体があたたまっているものだから、止った途端にいきなり暑く感じて「助けて~。早く走らせて~。」ってなるわけですな。

走ってさえいれば、8月でも、かなり涼しいのです。スピードはそれほど必要じゃないんですよね。薄着だから、風が直接体にあたるわけです。気持ちが良い。

ちゅうことで、結局は「走っている時の風」を体で受け止めるか、厚着で遮断するかの違いが、これだけの差を生むわけです。

風とともに走る。

という自転車のあり方が、一年を通じて楽しめる仕組みを生み出してくれるわけなんですね。
いや~、これは素晴らしい。
あらためて、良いものに出会えたと実感しますなぁ。

自転車好きで有名なSF作家の高千穂遙さんが、言ってた言葉に「自転車があって良かった」というのがあるんですが、この言葉、すごく実感としてわかる。

「自転車があって良かった」

ほんとうにそう。
良かったよなぁ、人類が自転車というものを発明していて。
本当に良かったよなぁ。

しみじみ、そう思うのであります。

昨日は、はじめてIKEAに行ってきたのであります。

大阪の場合、IKEAは鶴浜ということになりまして。
まぁ前から気にはなってたんですが、一度は行っておかねばと思い、難波はOCATの正面玄関(西側)のシャトルバス乗り場から出発しました。

実際に行ってみると、実に広いですなー。
まずは二階の家具の展示場に行って、どんな家具があるかを確かめる。それから階下に降りて、食器やら額やらのちまちました生活小道具をチョイスしたら、巨大倉庫に出かけて組み立て家具を、それぞれの棚からピックアップするという流れになってるそうで。

でも、別に家具が欲しかったわけではなく、娯楽がてらの物見遊山だったので、一種のエンタテインメントとして楽しみました。

しかし、さすがはフィンランドの有名企業でして、どの家具を見ても木の厚みがしっかりとあって、品質はぴかいち。本が好きなので書棚などもいくつか見ましたが、棚板の厚みと左右幅のバランスなど実に良い感じ。「よーわかってるなぁ」と感じさせる製品ばかりなのでありました。

本って言うのは、けっこう重いので、木で書棚を作る場合は、木が重みでたわまないように、しっかりと計算して作らないと大変なことになっちゃうんですよね。そのあたりが実に安心。さすがは欧米の昔ながらの生活の歴史をしっかりと受け継いでるよなぁと感心するんですね。

が、しかし。

IKEAは、自分で組み立てる「組み立て家具」を全世界レベルで大量販売することでローコストで良い品を提供するというコンセプトのお店だから、いかんせん、あまりに製品が「ユニバーサル」なんですな。
日本のチマチマした、特殊事情には、実はフィットしていない。

折りたたみテーブルがあったので「良いな」と思って見てみたら、広げた天板の部分に蝶板がむきだしになる構造であったり、つっぱり棒式の家具で良い感じのものを見つけたら「つっぱり」ではなくて、天井にネジ止めする方式だったり、なんだかんだと日本の住宅事情や日本人の感性にはフィットしにくい部分がやたらと多い。

テーブルも四つ足タイプばかりで、椅子から立ち上がるためには椅子を後ろへどーんと引かねばならないタイプばかり。
日本の場合だと、リビングもそれほど広くはないから、テーブル脚は、逆T字足とか、横H字足とかの方が良いわけですよ。テーブル脚に自分の足が当たらず、スライドさせて横に出せるから。

そのほかソファだって、狭い家だと肘掛けは不便。どの方向からでもすっと座れるデザインでないと、部屋の空間活用にかなりの不便さを強いられるのでありますね。

ベッドにしてもヘッドボードがついてるものは、上記の「肘掛けが邪魔」というのと同じ理由で、あまり良いとは言えないのですよ。

ヘッドボードなんて「まくらが落ちないようにする」「背をもたれかけて座る」という役割くらいしか役に立たないのだから、壁にピタリとつけて配置すれば、せいぜい6畳程度の広さの日本の住宅の場合まぁ元々不要です。逆にヘッドボードを変な方向に配置してしまうと、ものすごく空間をふさいで生活空間や体の動きが制限されてストレスのもとになってしまうくらいです。

ということで、じっくり商品を見ていったけれど、「買ってもよいかなぁ」と思えた家具は、本当に数点あるかないか。
これなら国内の有名家具メーカーの製品から探したり、ネットショップで買った方がうんと選択の幅も広いし、なにより生活空間にフィットしますな。

ベッドもテーブルもソファも、ようは欧米の文化の受け売りで、マンションから畳の和室がなくなってきたのが、やっとここ数年という日本の市場においては、まだまだ歴史の蓄積がなくて、本当に生活実感にフィットするような良い商品が生まれていないというのが実際のところなのです。

ということで、広い広いIKEAを、ずいぶんと歩き回って、たくさん家具を見ましたが、感想としては、表題のとおり、「品質もセンスも良いが、買う物がないのがIKEAかな。」というのが正直なところなんですな。あの品質であの価格っていうのは画期的やと思うけど。

でもまぁ、おおむね、椅子はどれもこれも良かったです。どれを買ってもはずれはないかも。
椅子はIKEAで買っても良いかなぁ。
同行した友人の意見では「お店をやってる人が仕入れるには最適の商品と違う?」という事でしたが、いや、確かにその通り。

結局買ったのはレジ前にあった商品持ち帰り用の手提げ袋の一番小さい奴(59円)だけ。いやー、ものすごいローコストエンタテインメントやわ。

まぁそういうお店であります。

えー、財布を落としまして。

それも、仕事の仲間内、12人で大挙して秋の旅行に出かけた帰り。「ああ、楽しかったねぇ。」と、帰りの新幹線の中でコーヒーでも飲もうかと思った時に無いことに気付いたというタイミングでして、楽しかった旅行気分が一気に吹っ飛んでしまいました。

まぁ、一週間、キャッシュカードやクレジットカードの停止やら再発行の手続きやら、いろいろ大変だったんですが、実は結局は出てきたのであります。

いままで何度か財布は落とすわ、財布を入れていたポーチをなくすわ、携帯電話を落とすわ、いろいろなポカミスをしてるんですが、どういうわけか、そのままなくなってしまった事がほとんどないんですね。ありがたいことに。運が良いとしか言いようがないです。

しかし、思うに、「落としても戻ってくる」と思ってると戻ってきて、「落としても戻ってこない」と思ってると戻ってこない、というのがあるんじゃないかなぁと、今回は思いましたね。

というのは、いつも「財布は落としたら戻ってこない」と思っていると、財布に最低限のものしか入れないわけですよ。大事なものは別に分けて置いておいたりする。
でも、「落としても戻ってくる」と思ってると、財布になんでも入れちゃうわけです。実際今回も、ある企業さんへの入館証に電話番号が書いてあったので戻ってきたわけです。

でも、これが、「落としたら戻ってこないかもしれないから」と、現金は数千円しか入れてない、キャッシュカードも入ってないとかになると、誰の財布かもわからないから、拾い主も届ける事ができないわけで、「財布が戻ってこない」ということになるわけです。
だから、あんまり悲観的に考えて日々を行動するのはよろしくないなぁと思ったわけです。
意外にね、というか、日本は、かなり治安もいいし、人のものを盗んだりする人は少ないんですよ。たぶん。

で、落としたのに気付いたのが帰りの電車の中で、仕事の仲間内がみなさんいたので、いろいろ声をかけてくれたりしたわけですが、いやー、みんなそれぞれに対処が違いますねぇ。そこが面白かった。
まず、「落としたら、まずカード類の停止を真っ先に」と考える人もいてるし、ルートの徹底チェックを追求する人もいてるわけです。
それから面白かったのがカメラマンさんのノウハウで、「僕は財布に入れてるものは固定してるので、中身を全部写真に撮ってるんですよ。」というのがありました。落としてしまったら、何が入ってたかがわからない訳ですよ。どのカードを止めたらいいのかがわからない。

またある人は、一度落とした経験があるそうで、落とした時に連絡するべき電話番号等を全部キチンと自宅に置いてあるという人もいてたんですね。

いやー、みなさん苦労されてる。

僕は今回の経験から思ったのは、名前と携帯番号の入った名刺を、一枚だけは財布に入れておくべきだなぁということでした。たまたま入館証に事務所の電話番号を書いてあったから良かったものの、そうでなかったら、戻ってこなかった可能性もあったと思うんですよね。

というのは、今回、実は新幹線の新岩国からこだまに乗って、広島で乗り換え、のぞみで新大阪まで帰ってきたんですが、落としたのはこだまの中だったんですね。僕は新岩国の改札に入る前に落としたのだろうと思ってたのですが、それでもとにかく、のぞみの車掌さんと新大阪の遺失物係の人には問い合わせて、万全を期してたつもりだったんです。

でも、こだまで落としてたら、のぞみの車掌さんはこだまの事までは調べないし、こだまは岡山どまりでしたから、新大阪まで財布が行くことはなかったわけです。完全にルート・可能性をひとつ見落としてたんですね。

こういうルートの見落としをしてたら、見当違いのところしか探してないわけだから、永遠に出てこないって事にもなるわけですから、やっぱり財布に連絡先を入れておくべきなんですよ。それがいちばんだって事になる。
もちろん、いろいろ個人情報をさらしてしまう危険もあることはありますが、まぁそこはあまり心配してもしょうがないですわね。それより財布が戻ってくるようにしておく方が賢いと思います。

ちゅうことで、財布を紛失する前にしておくべきノウハウとして、

●携帯番号などの書かれた名刺を必ず一枚、目立つところに入れておく。
●どんなカード類をいれているのか、写真で撮影しておく。
●カード類の停止番号等の連絡先を財布以外の携帯電話やメモ等に入れておく

というのが大事で、紛失してしまったら、

●まずルートの徹底追求、徹底チェックをする。(意外にモレあり。)
●ルートの徹底追求・チェックをして、どうしても見つからないとはっきりしたら、カード類の停止を。
(カード類は落とした日時にさかのぼって停止してくれるので、あまり急いで止めなくても大丈夫です。)

ということではないでしょうか。
特に、「自分の名刺を一枚、目立つところにいれておく」というのは重要な気がします。キャッシュカード等を見れば「この人が本人なのだな」とわかりますし。親切な人なら、すぐに連絡してくれるはずで、落として5分、こっちが落としたことを気付いてない時に電話をもらえるかもしれません。

あとは、もし、拾ってくれた人がまったくの個人だったら、連絡先をキチンと聞いてお礼しなきゃいけませんが、気が動転してると、つい忘れてしまうかもなので、そこは注意したいですなぁ。

ま、そんなことで。

最近、タイトルのとおり、「読書のスピードコントロール」というのが、えらく気になってきております。

というのは、長年小説は読まずにいて、ビジネス本とか、そういう「実用書」ばっかり読んできてたのに、ここのところ小説も読むようになってきたからなんですね。

小説は、夜寝る前の楽しみということで、枕元に置いてあるんですが、「読めたら読む」くらいの軽い気持ちでやりはじめたんですよ。
で、まぁ実用書じゃないんだし、ゆっくり読めばいいやと思って、たとえば全5章あるような小説なら、「今日は1章だけ」とか決めて読んでたわけです。ゆーっくり進むつもりで。

でも、こういう事をしてると、「はやく続きが読みたい!」ってなってくるんですよね。で、帰って寝る前に小説を読むのが楽しみになってくる。なんちゅうか、朝の連続テレビ小説とか毎日続くドラマがあるじゃないですか? ああいう感じになってくる。

で、そのくせ、昼間に電車の中で読む本とかの方は、今まで通りにビジネス本のたぐいだったりするわけですよ。いくら小説の続きが読みたくても、持って出なけりゃ読めないわけです。

で、寝る前のゆったり読書をやってると、今度はビジネス本の読み方がちょっと変わってきたんですね。
「こういう本は小説やないんやし、役に立てたいところだけを、どうチョイスするかやで。」という気持ちになりまして。で、ある日、電車の中で、「とにかく1頁10秒くらいのつもりで、ざーっと流し読みしてみよう。」と思ったわけです。

1頁10秒以下となると、1冊20~30分くらいで、いちおう全ページに目を通せるわけですが、そうなると、電車に乗ってる時間内で一冊に目を通せるということになるわけです。「ああ、時間的にもちょうどいいや。」と思ってやってみたら、まぁだいたい電車に乗ってる間で一冊目を通すだけはできたんですよ。

で、その全体に目を通した本を、今度は頭から順に読み直したんですけど、ここでびっくり現象が起きたんですねぇ。
というのは、読み直してみると、「あれ?、ここはもう読んだよ。」というところばっかりになってるんです。ざっくり20~30分で読んだのと、数時間かけて読んだ内容と、実質そんなに違わないんですね。多少言い回しのくどいところを、キチンと読んだかどうかの違いがある程度なわけです。

いやー、これにはびっくりした。

どうも、30分くらいで、とにかく流し読みしたところで、「得られるネタ」に関してはじっくり数時間かけて読むのと変わらんやんけ!ということなんですわ。

で、どうも、この流し読みがうまく行ったのは、夜の「楽しみ読書」をはじめたからこそ、という気がするんですね。読む楽しみとかモチベーションとかが一定の高さで保たれているから、ビジネス書を読むときに「ちょっとスピードをあげようか」というのがスッとできるんじゃないかなぁ?
なんかそんな気がします。

もちろん内容にもよりますが、読む目的さえ明確で、「読む楽しみ感覚」が維持できてれば、意外に速読って難しいものではないのかも?という気がしてきました。

逆に、じっくりゆっくり、味わいながら、楽しみながら読む本を、うまく生活時間に取り入れた方が、たくさんの本を上手に読みこなせるのかもしれないなぁと思えてきたのであります。

いやまぁ、まだそれほど、うまくコントロールできてるわけではないんですがね。
ま、そんなことで。

「人買いがイヤだから近代化したのに派遣切りとはどういうことだ。」と思うなら、消費税の撤廃も検討しよう。
たまたま水木しげるの伝記的なマンガである

「のんのんばぁとオレ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062603330

を読む機会があって、つらつらと世界にはまって楽しんでたのですが、昔は人買いというのが普通にいて、子どもが人買いに売られたりしてたんだよなぁって改めて思った。

水木しげるが子どもの頃に体験したことがベースになってるわけだから、まぁかなり切実な話だったんやろなぁと。実際に見たことがないので良くわからんのやけど。

でも、考えてみたら、テレビ放送と同時に生まれたような年代の僕が子どもの頃ですら、祖父が「あんまり遅くまで遊んでたらコトリがくるぞ。」と言ってたわけだから、僕が生まれる前あたりまで、普通に人買いはいたんやなぁと改めて実感したわけです。

ここでいう「コトリ」というのは、もちろん「小鳥」ではなくて「子取り」または「子盗り」なわけですが、子どもの私は「なんで小鳥が来たら怖いんやろか?」というのがあって、やたらと印象に残ってた言葉なんですね。

女衒とか、子どもを売るとか、人身売買っていうのが昔は普通にあって、で、そのせいで友達を失って悲しい思いをした話っていうのが文学なんかでは普通にあって。
いや女郎屋に女の子が売られるなんてのは、あまりにポピュラーな話題だったわけでしょう。

それが悲しくて、イヤだったから、ミンシュシュギとか、キンダイカというような訳の分らん洋物の仕組みと契約して、「友達をなくしてしまうような悲しい事」のない社会を手に入れようと、我々日本人は思ったわけでしょう。

なのに、いつのまにか、「派遣切り」とか、普通になってしまって、コトリがくるぞとおどして子どもをしつけたり、あるいは「●●したら、××がくるぞ」と、子どもに生活習慣を身につけさせようと自衛していた「生活の知恵」まで失ってしまって、これなら妖怪やらキツネや狸に化かされてた世の中の方がよっぽどましやったやんか、てなところまでおかしくなってしまった。

なんで、そういう生活の知恵まで捨ててキンダイカと手を結んだのやら、ということですわなぁ。

結局、最近の、やたら低賃金で虐げられてる人たちが出てきている事に対する、我々日本人の実感としては、
「人買いがイヤだから近代化したのに派遣切りとはどういうことだ。」
という理不尽さが根っこにあるんやわなぁって思う。
理不尽でしょ、それは。

理屈はわからんけど、実感としてイヤやなぁ、ということだと思う。
大衆がイヤやなぁと思うことは、やっぱりかなり間違ってるって事ですわ。

これが万博より後に生まれたような世代だと、祖父母と暮らすことも少なくなって、コトリや妖怪を生活の知恵で警戒するアタマも持っていない子どもばっかりになって、ハケンギリという新種の妖怪にパクっと食われてしもうたという、そういう事なんやろなぁ。
そんなことを思いました。

とは言うものの、この間読んだ本では、「格差社会というのはウソだ。日本の格差はそれほどひどくはない。派遣が悲惨なのは、格差が悪いのではなく、経済成長率が下がって、民間所得総額が下がり、そのしわ寄せが派遣に押しつけられてるから問題なのだ」ということが書いてあって、ポンと膝を打ったのですよ。

結局、ショーヒゼーという鵜飼いの鵜につけられたヒモみたいなものを武器とする、「自分の食い扶持すら稼がず、まっとうに働く人に寄生するタイプ」のカンリョーという超大型妖怪が日本に跋扈したから、このおかしなキンダイカという西洋妖怪に我々はからめとられてしまったわけですわ。

友達をなくしたくない日本人は、やっぱり人買いやら女衒やらは、すごく嫌いで、だからキンダイカと手を結んで労働基本法をつくったし、なんだかんだ言っても「友愛」とか言う、ものすごくあやふやなキーワードの方がやっぱり好きで、だから鳩山くんを応援してるのに、なのにまだショーヒゼーという鵜飼いのヒモが不況の原因なのだと日本の代表が気付いていないとう、そういう構造だなぁと、思ってるのです。

民間所得総額を上げるためには、やっぱり正しい公共投資が必要やと思うなぁ。

で、そのためには、たとえば、高速道路の無料化は、いくら道路が混んでもかまわんから強行して、で、その代わりにパーキングエリアを山のように増設したり、駐車場を山盛り作ったり、高速道路の途中のパーキングエリアにクルマの預かり所を作って、ヘリポートで近くの駅まで送ってくれるサービス(クルマは代行運転で別便で空いてる時に届けてくれる)や、クルマ用リフトを作って下におろしたり上にあげたりして一般道につなぐような仕組みとかも作って、実質的に大量にクルマを流通させられる仕組みを導入すればいいのだ。
これらのサービスの料金は個別に取って、それに高い税金をかけて、道路整備の財源にしたらいいのだ。

ちゅうか、高速道路が不便になったら、そこにこそ「ニーズ」が生まれるんやから、すごいことですがな。市場ができるんやで?いくらでも稼げるやん。そうしたら成長率も上がるやん。
どっちかというと、そういう事が大事やと思うんやけど。

でも、みんな便利な方がええし、ちょっと高速料金払ってでも、空いてる道路を走りたいんやろなぁ。

なんかシリメツレツになってきたので、ここいらでやめます。

が。

鳩山くん、ショーヒゼーは据え置きとか言わずに撤廃するか、3%に戻そう。

それが外需ではなく、GDPの55%を占める膨大なる個人消費によってまかなわれている日本経済の内需を刺激して、経済発展にもっとも寄与する手法ですぜ。やっぱり。
GDPが増えたら、税収も増える。ショーヒゼーより、税収の自然増収の方がよろしい。

この「自然増収」を目指す事こそが、本来の官僚の役割やと、わかりきったことやのに、なんで誰もやらんし、言わないのか?本分をわきまえないもんは、いつのまにか人の道から外れてしまって人外のもの、妖怪になり果てていくのです。

いまや官僚は官僚ではなく「カンリョー」という超大型妖怪でしかない。

不況の時でも増収になってしまう「消費税のアップ」というカンリョーのエサにしかならんもんを増やそうと言う考えを、どうして誰もが正しいと考えるのか?
このあたりの目くらましを、ちょっとなんとかしたい。

そこいらあたりを、ほんまに真剣に討議すべきやと、私は思いますがねぇ。

この diary note で、リンクいただいている、裏picoさんの日記にフォトリーディングの講座に参加されたお話がありまして、それにずいぶんと刺激されました。僕もちょっとお金を貯めて講座に参加しようと思っておるのであります。(フォトリーディングは高いのよねぇ。11万円くらいするから。)

とは言うものの、では何故講座を受けたいか?というと、最近そろそろ自分の読書スピードに限界を感じ始めたからなのですね。
どうしても読書スピードを上げないと、自分の望んでいる状態に達成しないよなぁという事がひしひしと分かってきた訳なのであります。

ということで、多分フォトリーディングの講座は受けるということになると思うのですが、そういう気持ちになったのは何故か?ということと、ここに至るまでの読書ノウハウのまとめ、みたいな事が、意外に「速読までは必要ないけれど、ちょっとちゃんと読書はしていかなきゃなぁ」と思ってる人には役立つのかも?と思って、ちょっとまとめておきたいと思いました。

まずね。
何より、読書というのは、「するべきこと」なんですよね。
まずそれを意識しましょう。
「してない」という段階で問題だと思った方がいいです。

一生アホのままで良いと思う人は、ここから先は読まなくていいです。いやまぁアホのままの人生も、それはそれで幸せかもしれないので、別に悪いとは言いませんが。

で、読書に関して、いま僕が思うのは、読書には大きく4ステップの段階があって、それをキチンと意識・自覚して取り組んだ方が良いなぁ、という事なんですね。(で、これは速読とかの技術を学ばなくてもできる事なので、気になった方はやってみて欲しいです。)

そのステップは、

(1)読書目的の設定
(2)読書時間の確保
(3)読書マップの作成
(4)復習のためのノート

ということです。

娯楽のための読書も楽しいので、それはそれで良いのですが、そうではなくて、スキル習得とか知識習得のための読書ということを考えると、上記の4ステップは必要だろうなという気がします。

ということで順に説明していきますね。

まず、

(1)読書目的の設定------------------------------

です。
これは、いったい何のために読書が必要であるのか?ということを、自分に分からせるためのステップです。これは意外に難しくて、ここが明確になれば、何の技術の習得も関係なく、いきなり高速で本が読めるようになったりします。
たとえば、海外旅行に行くことになって、その前に旅先の情報を得ようとガイド本を読む場合など、かなり集中力が高まっていて、けっこうなスピードで読んでいたりするんですよね。自分では気づいてなかったりしますが。

なので、目的設定というのはかなり重要なんですが、これがまた不明確なままでも、別に死ぬことはないというような事で、ものすごく中途半端なままになっていることも多いのですよ。
だから、このあたりは、ノートに自分の夢を書き出してみたり、自分の興味があることをドンドンリストアップしてみたり、けっこう多様な取り組みが必要なステップだと思います。

で、人によっては「目的」自体が見つからない、という人もいてると思うんですよね。ありていに言ってしまえば、「人生で何をしたら良いのかが見つかっていない人」ですね。
これは、この無目的感自体が問題なので、それこそいろいろなアプローチでモチベーションアップを図った方が幸せですよと言いたいわけですが、それはそれとして、「何をしたら良いのかわからない」という人は、一度目的も定めずに本屋をブラブラしてみるのも手だと思いますね。

それこそ、本のタイトルを見ているうちに、思いもかけなかった事柄に興味が湧いてきて、ムクムクとやる気が出てくることもありますからね。

まぁあとは、いろいろノートに書き上げるのと、それこそテーマを決めない乱読も効果ありですわね。で、そういう自分のテーマを選ぶための乱読にこそ速読の技術が必要なんだ、という人もいてるでしょうね。それはそれで良いのだろうなと思います。

つぎ。

(2)読書時間の確保------------------------------

これですよね、これ。

速読の前に、必ず必要なノウハウがこれです。
とにかく、定期的に本を読む時間というものを、まず確保しないといけません。これは、速読の技術があろうがなかろうが、まず先に必要な事ではないか?という気がする。

僕は、まだ速読の技術がないので、せいぜい年間100冊前後をうろちょろしているレベルですが、それにしたって、

●通勤電車内での片道20分の読書時間

というものがあってはじめて、この冊数が達成できてるわけです。
最近は自転車通勤をするようになったので、通勤読書の代わりにキチンと読書する時間を取らねばと、通勤とは別に読書時間を取るようにしましたが、やはりそういう具合に自分で時間を決めて読書しないと、なかなか本は読めないようです。

ちなみに、意外な隙間時間として使えるのは、ポピュラーではありますが、トイレタイムと寝る前の数十分です。
トイレや枕元に、その場所でしか読まない本を一冊、あるいは数冊、ポンと置いておくだけで、けっこう読み進められるものです。大きく生活は変わらないけれども、読んでる本は増える、ということで、まずはお勧めしたいですね。

あとは喫茶店にこもる。
これはもう、一番有効な方法でしょうね。僕の通勤読書以外の読書時間では、一番多いものです。
こういう工夫とか努力もしないで速読の技術だけ追いかけても、それは全然意味がないよなぁって思います。

自営業で自宅で仕事をしてる人なんていうのは、それこそ通勤ということ自体がないので、本当に本を読む機会が奪われるんですよね。通勤時間の読書というのは、本当に大きくて、「電車の中では本を読むものである」という習慣を持つだけで、勤め人なら、かなりの読書時間を意識せずに確保できるんですね。手軽にかなりの大きなボリュームの読書時間が確保できる。これがものすごく大きいわけです。

なんだかんだ言っても、日本人の勤勉さや、モノづくりの品質の高さ、企業力の高さなどは、そこに努めている企業人の通勤読書力に支えられているところがものすごく大きいと思うんですよね。
で、だから、それなりのしっかりした企業で、「できるビジネスマン」と目される方は、まぁたいていちゃんと通勤読書をされてます。ムダに通勤時間を過ごしてないです。ここは本当にものすごく大きいです。

だから通勤してない人は本当にキチンと読書時間を確保しないとアカンのですよね。しかし、意識して読書時間を取るというのは、なかなか大変でして、僕も自転車に乗るようになってからは、穴埋めの時間確保に四苦八苦しております。ほんとうに通勤時間以外で本を読むというのは大変ですわ。

なので、そういう時間確保に大事なことは、まず、

●ムダ時間の削減

ということなんですね。
読書の有益性に比べたら、本当にムダな事をたくさんやってるんですよ、みんな。
たとえば、ネットのエロページの閲覧。
こんなムダなもんはないんですがね。
でも、やっちゃうんだよなぁ。
削りましょう。こういうものは。

あとは、
▼テレビ
▼ゲーム
が筆頭ですわな。

テレビとゲームは、はっきり言って、この10年でとんでもなく質が落ちました。本当に見るに値しないのが増えた。くだらんゲームも増えた。だから単なる習慣とかクセでやるのは、かなり危険です。質が低いですから。できる限り削りましょう。

で、もっと言ってしまうと、質の悪い作品が増えると、「質の良い作品を探す」ということ自体に、かなりの時間を取られるんですよね。これがまた時間がもったいない。なので、最近はテレビやゲームは、もうほとんど見てないし、やってないのでありますよ。よほど話題のものだけだなぁ。

あと、意外に難しいのが
▼スポーツ
ですなぁ。
なんかランニングマシーンみたいに読書しながらでもできるようなのなら、まぁ良いのですが、それ以外はなかなか読書できない。

もちろんオーディオブックを聞くという手はあるんですが、あれもねぇ、慣れるまでがなかなかですよ。まぁ、体を動かすことは健康のためにどうしても必要なことですから、このあたりは、今後の重要課題であります。

同じ理由で、

▼クルマの運転

というのも問題なんですね。本が読めない。アホになる。これもオーディオブックという解決策はあるし、実はオーディオブックは、本よりうんと情報量が多くて高速処理もできて印象にも残りやすくてメリットがかなり大きいんですが、入手しにくい、選択枝が狭いというものすごく大きなデメリットがあるので、完全な解決策とは言えないのであります。まぁ良いオーディオブックを「繰り返し聞く」というクルマ内での時間の使い方は良いと思いますが。それでもやっぱりクルマってのも読書には大敵ですな。

とにかく、なにはともあれ、速読より先に、まず「読書時間の確保」。これはもう絶対なのです。
時間割とか決めて毎日何時から30分だけは必ず本を読むとかしないと、なかなか読書量は増やせないんですよね。
で、ぶっちゃけ言ってしまうと、なんだかんだ言っても読書は「量」なんですよ。量を読んではじめて、「質」を判定できるようになるという側面があるので、量を読んでないと「良書」にたどりつけないんですね。

だから、まさに継続は力なり、なのであります。

で、つぎが、その「量」をいかに効率的にするか?というための、


(3)読書マップの作成----------------------------------


という事であります。

これは最近、自分の読書傾向が偏ってるよなぁという自覚から考え出した事なんですが、とにかく、(1)の「読書の目的」に沿って、キチンと「読むべき本のジャンル」というものをテーマ出ししとかないといけないんですね。

まず、自分の仕事の専門分野の本とかは、テーマ出ししとくべきだし、それ以外にも、教養として読んでおくべきジャンルも、リストアップしておいて、意識にとどめておかないとイカンよなぁ、ということなんです。

前は読みたい本があったら、どんどん買って、で、読むスピードが遅いものだから積ん読になってしまってたわけですが、最近それは金も空間もムダにするだけだよなぁと思って、書店で気になる本があっても、まずは書名のメモだけで終わらせまして、時間があるときに、この読書マップにマッピングするようにしてるんです。

「この本は、僕が身につけたいこのジャンルに分類できるわなぁ」とかやるんですね。
そうすると、いかに自分の興味が偏っているかがわかる。まぁ、そのまま偏ったまま突っ走るのも、ひとつの良い方法なんですが、それとは別に、「苦手克服」というのもチャレンジすると効果が大きいわけですよ。

たとえば、自分の能力が、いろんな面で、どれもこれも60点以上の力があるのに、一カ所だけ10点以下だったとします。
そうすると、こういう人は、いくら平均点で50点の人間でも、10点という極端に低い能力に引きずられて、実際には20~30点の能力しか発揮できない、なんてことがあるわけですよ。

たとえて言えば、アダルトチルドレンなんてのは、まさにこの「10点の足を引っ張る能力」と言えるでしょうし。マイナス点やもんなぁACは。やっぱし。なので、こういう問題は、キチンと学習して、さっさと卒業してしまうとかする。そうすると、他の60点の能力とかがどんどん生かせるようになっていくわけです。

で、そういうことを知るのに、読書マップを作っておくと効果が高いって事なんですね。

・社会
・政治
・投資
・金融
・歴史
・科学
・法律
・健康
・宗教
・英語
・自己啓発

などなど、なんでも良いわけですが、とりあえずは、まずは「ジャンル」を定めてマップにしておく、というのがなかなか賢いわけです。

で、もうひとつ言うと、ずいぶん、ずいぶん前に、この日記で書いた

田中角栄の勉強法
http://hitoyomi.diarynote.jp/200505031924190000/

でも紹介しました、

●同ジャンル多読

というのが役立つのです。

上記のジャンル設定をしたら、そういうジャンルの本を入門書から専門書まで、さまざまなレベルの本をまとめて10冊くらい買ってくるんですね。で、一時期に一気にまとめて読んでしまうわけです。

こうすると、実はものすごく効率的に知識が手に入ります。

というのは、同ジャンルの本だと「重複」がものすごく多いからです。同じ事をわかりやすく書いてる本もあれば、よりつっこんで書いてある本もあります。が、入門書から読んでいけば、そういう難しい専門用語や概念も無理なくわかっていけますし、何より何冊も読んでいくうちに、そのジャンルで重要なことを、何回も復習することになるわけです。嫌でも頭に残るわけです。

だから、効率的に知識を獲得したかったら、この同ジャンル多読というのはとても効果が高いです。

で、そのためにも読書マップを作って、読みたい本とかをリストアップしておくと便利なんですね。

僕はまだやってませんが、「今月はこのテーマを集中して攻めるぞ!」とかやったら、ものすごく効果が高いと思う。これも速読の技術以前にすごく効果のあるやり方ですので、やってみて欲しいです。

で、もうひとつ僕がいまやっていて効果があるなぁと思ってるのが、

●読了書名録の記帳

という奴です。
これは、読んだ本のタイトルだけを、ノートに付けていくというそれだけなんですが、読書量を増やすためにも、上記の「復習」のためにも効果が高いのですね。

最初は、とにかく何を読んだかの記録をつけるためだけに書いてたんですが、読み直すうちに、この記録がやる気を引き出すモチベーションツールになってきたし、また、読んで面白かった、あるいは再読して勉強したい本のチェック用に最適だと気づいたんですね。
それこそ、再読したい本に赤丸をつけるだけで良いわけです。それだけで再読作業がうんとラクになります。

で、今後は、「本を捨てる」ということもどんどんやっていかなくてはならないので、そのためのリストにもなるよなぁと思ってるんですね。
本を捨てるのはいいんだけど、前に読んで捨ててしまった本を、ついうっかりまた買ってしまってとか、やりそうで怖いんですよね。本を捨てると。だから、何を捨てたのかもちゃんと記帳しておきたいわけでして。そういう意味でも、これは役立つよなぁと思っております。

で、そうやって再読しようと決めた本に関しての話が、次のステップでして、


(4)復習のためのノート----------------------------------

ということになります。

これはもう、別におかしなことでもなんでもなくて、学校の教科書とノートの関係を思えば、それで良いのだと思います。
いろいろやってみましたが、やっぱり本来は、

●良書をキチンとノートを取って読む

というのがベストですわ。

でも、なんでもかんでもそんな事をしてたら、時間がいくらあっても足りません。
ですから、

●本自体に書き込みをして、本をノートとして使う

というのも大事です。
これを本格的にやった場合は、いろいろな自分の書き込みの再読が必要にもなってきますから、上の読了書名録のところに、別の印でもつけておくべきでしょうね。いや、僕はまだやってませんが。そういうやりかたもあるだろうな、ということです。

だいたい、本は、読んだだけなら単なる娯楽と同じでして、後で何らかの形で活かさないとメリットがないというか小さいわけです。

たとえば、いちばんそういうことがはっきりしてるのが、パソコンのプログラミングの解説書とかですね。一時期パスカルをよく使っていて、そういう本を良く読みましたが、それこそ、そういう本は「使ってなんぼ」なわけです。

ですから、

・線を引く、マーカーで塗る。

のは当たり前で、

・本の角を折る(ドッグイヤー:犬の耳という呼び方もされます)
・付箋を貼る

というのも、絶対の必要性があるんですね。

で、どんな本でも、この「線を引く」「耳を折る」「付箋をつける」はやらなくては意味がない。まぁ小説とかの娯楽本には不要ですが、それ以外はどんどんこういう「汚し」をすべきでして、これをしとくと、後で読み直しするときの効率が、ものすごく良いのです。

ああ、この本は良かったなぁ、という本は、ときたまひっぱり出して、このマーキングされた部分を繰り返し読むと良いのです。
マーキングしたということは、自分の中に何らかのひっかかりがあってマーキングしたわけですから、その「こころ」を思い出して、それがきっかけで、また次の新しいアイディアが湧いたり、別の知識獲得に意欲が湧いたりするわけです。そこが大事。

よく「本を汚すなんてできない」という人がいますが、これはぜひ改めて欲しいなぁと思います。本は汚してなんぼ。本当に良い本で、気に入ったのなら、もう一冊買えば良いだけのことです。

この「線を引く」という行為に関しては、例の三色ボールペン勉強法の斎藤孝さんが「線を引くという決断」が大事とされていて、そこが面白いなと思うんですよ。
線を引くなら、中途半端に「あとで消せるように鉛筆で…」てなことを考えてはいけないのです。
一期一会。その時の自分の気持ちを大切に、決断して、ズバッと線を引く。その本と自分との関係性を、そのときに決める。そういう決断をすることが大事なわけです。

だから、あの齋藤孝さんの勉強法は「三色ボールペン勉強法」なわけです。決して「三色の鉛筆勉強法」ではないわけです。
これ、かな~~~り重要なんです。
この4ステップの最初に「読書の目的」というのを立てましたけど、そういうテーマの立て方とも関係してくるわけです。

私には、この知識が必要だ。

という決断というか、関わり方をする。腹をくくる、ということですね。
そういう事が、まず必要な事でして、ボールペンで線を引くというのは、そういう自分の「決断」を毎回明確にしているということでもあるわけです。
だから、線は引かないといけない。

それから、ボールペンやマーカー、付箋は、いつも持ってるわけではないでしょうから、ドッグイヤーも大事です。気になるところがあったら、どんどん耳を折る。これはクセとか習慣とかにしといたほうが良いです。再読するのに、やっぱりかなり便利です。

で、ノートですが、普通のノートがベストとは書いたものの、実はそれは本当に選びに選んだ最強の一冊に対してやれば良いことで、そうではない本になら、フォトリーディングでも勧められている

●マインドマップ

が、かなり良いです。

本の内容をノートテイキングするのに、マインドマップという技術は、かなり有用なんですね。マインドマップ自体は、ふだんのメモ取りとかに使うには、かなりクセがあって、誰にでも使えるというようなものではないと、僕は思ってるんですが、こと読書のまとめのためのノート取り技術としては、実に相性が良いのです。

ということで、僕は最近は、「まぁまぁそこそこ良かった」本に関してはマインドマップでノートというか、覚えを残してます。

しかも、松宮義仁さんという方が提唱している「シンプルマッピング」がかなり良いなぁと思って、読書のまとめには、これを使ってるんですね。

シンプルマッピングというのは、ものすごく簡単なマインドマップテクニックで、

▼文庫本サイズのA6ノートを見開きで1マップ用として使う

という、ただそれだけの技術なんです。こまかい話は省きますが、どこでも売っていて、気軽に鞄から出し入れしやすいA6ノート一冊に、読んだ本の内容をマインドマップにしてため込んで復習するというのは、なかなか効果的だと思います。いろんな「ステップ」を頭に残しやすいんですね。これは良いです。

読んで終わらせたら、それこそもったいないわけで、頭にキチンと入れて、知識を実践して、それではじめて本を読んだ意味が出てくるわけですから。
そういう用途に、このシンプルマッピングはとても実用的で良いです。一冊のノートに何十冊分の「概要」を圧縮して持ち歩けるのだから、効果は非常に高いと思います。


---------------------------

とまぁ、こういう具合に、速読を学ぶ前に、読書をするために必要なステップというのはいろいろあるわけで、これらをやっただけでも速読を学ぶのと同じくらい効果があると思います。

が、逆に、ここまでやると、それこそ本を読むことの効果もよく分かるし「もっと読まなければ」とか「もっと読めば、もっと良い環境になるなぁ」とわかるので、どんどん速読の必要性も高まってくるわけです。いまのままだと、どうしても一年に100冊くらいが壁になっちゃうもんなぁ。

まぁ、あまり本を読まない人なら、まずは週に一冊、年50冊が目標だと思うんですが、それを達成したら、次は年100冊が目標で、それを達成したら、次のステップはもう速読しかないんじゃないかなぁ…というのが、僕の実感なわけです。

ま、ということで、速読、近いうちに講習を受けたいと思います。
とは言っても、まぁ来年になってからだと思いますけどね。

てなことでした。

トランセンド デジタルフォトフレーム PF810:これはなかなかのコストパフォーマンスやなぁ。
トランセンド デジタルフォトフレーム PF810:これはなかなかのコストパフォーマンスやなぁ。
mixiの方で、お知り合いがデジタルフォトフレームについて書いておられまして。
で、値段が8900円とかだとおっしゃってたわけです。

「え?そんなに安くてそれなりの画質のがあるの?」と思って気になって、いろいろ見てたんですね。

というのは、母親が一人暮らしなんですが、たまに携帯で写真を撮ったりはしてるし、僕も記念写真を撮ってやっては、プリントして渡してやったりもしてるんですが、多くのデータがあるのに全部を渡してるわけでもないわけです。

なにより、自分で写真を撮る気があるなら、出歩いていろいろ撮影すれば、運動にもなる良いなと思って、「歩かなアカンで~」とかは言ってるわけですが、まぁ目的もなしには、なかなか歩けんわなぁと思いまして。
だから写真を撮るというのを、もうちょっとやったら良いのになぁと思ってたんですね。

でも、携帯やデジカメで写真を撮っても、それを手軽に見る道具がないわけですわな。そうなれば、そんなにしょっちゅう撮るはずもないわけで。
かと言ってパソコンを使うとなると操作を覚えるだけでも大変だし。

そんなこんなを考えると、デジタルフォトフレームというのは、かなり良いツールだなぁと思うわけです。とりあえず、お気に入りの写真を飾っておく「写真立て」として使うだけなら、なんの手間もかからない。それだけでも楽しいし。

で、その「写真立て」の、写真の差し替えがしたい、となったら、アルバムを兼ねて大量に入れてあるメモリカードから一覧で見て選ぶだけで別の写真が飾れるわけだし、その操作も、テレビのリモコンみたいな感じで使える。
年寄りには最適のツールだなぁと思うわけですね。

でも、しかし。

そうは言っても、もしあまり使わなかったら、ただの「写真立て」で終わってしまう可能性もなきにしもあらずです。
そうなると、2万円もするようなものだと、ちょっと買うのを躊躇しちゃうんですよねぇ。

確かにSONYのデジタルフォトフレームなんかは、画質もいいし、リモコンの使い勝手も良さそうだし、魅力的は魅力的なんですが、やっぱり値段がそこそこするわけですよ。だから、まぁ気にはしつつも、ずっとスルーしてたんです。

でも、8900円と聞くと「うぬ?そのくらいなら、まぁ良いか。」という気になりまして、いろいろと製品を調べていたわけです。
で、見つけたのが表題のトランセンドのデジタルフォトフレームでして、実は、最初に書いた知り合いの方が買った8900円の商品もトランセンドの製品だったんですね。

情報収集の過程で、カメラマンの人なんかにも意見を聞いてみたけど、やっぱり「トランセンドが安くて機能も豊富」という評価は同じでした。

ちゅうことで、これを買ったのです。

●トランセンド デジタルフォトフレーム PF810
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/B002UNLZCM

これは少し上位機種だったので9980円でしたけどね。それでも機能が豊富なので、問題なしでありまして。
実際、購入して、母親用に、これまでに撮ったいろいろなデジカメ写真のデータをメモリカードにまとめて、音楽とかもつけてスライドショーにしてみると、なかなか見ごたえがあるんですよ。

「おお。こりゃいいなぁ。自分用が欲しいくらいだなぁ」

とかと思ってしまったわけであります。

だいたい、時計やカレンダーにもなるので、目覚まし時計の代わりに使えるわけです。

しかも自分の好きな曲を使って目覚まし時計にできる。それだけでもかなり良いのですよ。なんで普通の目覚まし時計ってのは、あんな素っ気ないベルやら電子音ばっかりなのかと思っちゃいますよ。好きな音楽で起きれるなら、その方が楽しいに決まってる。
でも、自分で曲を指定できるような目覚まし時計って、バカみたいに値段が高かったりするわけでして。

ともあれ、このPF810は、写真の一枚表示、スライドショー、動画再生、音楽再生が自在にできて、しかもFM放送の受信もできるんですね。で、これらを組み合わせて活用できる。
ちょっとした動画ビュアーにもなるし、FM放送で起きるってなこともできるわけで、なかなかよーでけとります。

機能紹介は、トランセンドのホームページが詳しいので、こちら

●トランセンドHP デジタルフォトフレーム PF810のページ
http://www.transcend.co.jp/Products/ModDetail.asp?ModNo=219&LangNo=17&Func1No=1&Func2No=

を見ていただくとして、触ってみた範囲で欠点は唯一、

×スタンド足が縦位置・横位置で付け外しが必要

な点くらいですわ。
フレーム本体を縦横どちらに置いても、自動的に上下を判断して画像を90度回転してくれる機能はついてるのに、スタンド足は縦横共用タイプではなくて、いちいち付け外しが必要というのが、矛盾していて、よーわからん設定ですが、まぁ実用上それほど大きな問題でもないと思う。

便利な機能としては、他にも、オートパワーオフ・オンもあるし、メモリカードを入れたら自動認識するし、内蔵メモリも2Gバイトもあるから、手間なくアルバム兼ビュアーとして使える。音楽プレーヤー代わりにもなって、カレンダーに記念日とかをマーキングできたりもするし、それなりに便利。

わー、こらええわ、と思いつつ、いろいろデータをまとめたSDカードを、「試しに、一度、Wiiでも見てみよ。」と思って、「写真チャンネル」で見てみたわけです。

●Wii 写真チャンネル
http://www.nintendo.co.jp/wii/features/photo/index.html

そしたらこれが!
すごい!
実にドラマチック。
動画も一気にスライドショーのモードで見れるし。
どうも人間の顔に自動的にフォーカスが移動するみたいで、そのあたりもすばらしい。
「うわー、任天堂すごい!」と、あらためて感激しましたな。

いやま、さすがにWiiは、年寄りのデジカメビュアー代わりにはしんどいし、カレンダーや時計にもならんわけですが、さすがに任天堂はソフト屋さんやなぁと、メモリ屋さんのトランセンドとの違いを実感しましたです。

ともあれ、トランセンド デジタルフォトフレーム PF810、なかなか良かったのであります。
はい。

みんな冬に手帳を買ってるけど、夏の事も考えてる? 名刺サイズのカードなら夏場も乗り越えますぞ。
みんな冬に手帳を買ってるけど、夏の事も考えてる? 名刺サイズのカードなら夏場も乗り越えますぞ。
そろそろ来年の手帳が街にあふれ出す季節になりました。

が、どうも最近、僕の場合は、ツイストリングノートを使い出してから「手帳」というものを使わなくなりつつあるんですよ。

というか、正確には

●ツイストリングノート:用紙を八折りにして持ち歩く。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909050152412990/

でも紹介した、「B5八折り胸ポケメモ」ばっかり使うようになったから、ということなんですね。

B5サイズの用紙を八折りにしますと、B8というサイズになりまして、これがほぼ名刺と同じサイズなんです。
で、これを胸ポケットに入れておくと、参照するにしても、メモを取るにしても、ちょっとした一週間以内の予定をメモするにも、まぁ間に合います。

「マメにメモするには手帳が便利だ」とか言って、みんな手帳を勧めるわけですが、実は手帳は背広やジャケットのポケットには収まっても、ワイシャツの胸ポケットには入らないわけですよ。

これがどう言うことかというと、実はけっこう盲点になっている部分がありまして、「夏の暑い時期には手帳の利便性が下がる」ということなんですね。

これねぇ、文具好きの私が、手帳を長年いろいろ使ってきた経験から言うと、手帳選びにおけえる、かなり重要なポイントだと思ってるんです。一年という大変ベーシックな基本単位において、環境に関係なく安定して使えるかどうか? という問題ですから、本当はかなり重要な話のはずなんですよね。でも、その重要なチェックポイントが、意外に見過ごされているんですよ。

というのは、手帳というのはスケジューラーとして使うという側面があるので、どうしても季節の変わり目に新発売されて、購入する人たちも秋から冬にかけて買うって場合が多いからなんですね。

まぁ、せいぜい「4月はじまり手帳」を2月3月に買うとか、年末の手帳商戦がどんどん前倒しになって10月、9月になって新製品が登場する、というところまでなので、暑い暑い、夏の時期にスケジュール手帳やら、メモ取りのための手帳やらについて考える機会自体がないんです。

つまり、ようは、「大きなポケットのついたジャケットを着ている時期」にしか手帳は売られていないし、「検討」もその時期にしかしていないって事なんです。

自分の服にポケットがある状態で手帳選びをして、「よし、この手帳で、仕事の情報を、ずっとマメにメモするぞ。」とか思ってるわけです。

でも、夏になったらどうすんのよ! って事でして。夏の暑い間も、ポケットのあるジャケット着るつもり? そうするつもりなら、いいけど、そうでなけりゃ、結局手帳はカバンの中に入れるノートと同じになっちゃうんだよ? って事なんですね。ならノートでもおんなじでしょうが。いや逆に面積が広い分、ノートの方が便利だよって事になるわけです。

でも、自分がいま着ている服を基準にしているから、そういうところにまで、頭が回らないわけですよ。

なので、手帳というのは、小さくてもせいぜい名刺の倍のサイズのB7以上のサイズになりまして、「ジャケットのポケットに入るサイズ」というけっこう中途半端なサイズが基準になってしまうわけです。
いやー、それでは夏の間がけっこう問題なんだよなー、って僕は思うんですけどね。

そういう意味では「手帳」というシステムは、「通年で同一環境で使う」という、もっとも基本的な要件自体を満たしていない設計ミス製品なのだ、とすら言えてしまう存在だったりするわけです。恐ろしいことに。

スケジューラーとしても問題ですけど、メモを取るとか、思索を深めるというような事を考えても、手帳のサイズというのは、じっくり文章を書くには小さく、胸ポケットの納める機動性も低いという中途半端な存在になってしまうわけです。

アイディアを拾う、というような作業は、いついかなる時に出てくるかわかりませんから、徹底した機動性が必要で、本当は携帯するメモ帳には、そういう部分での情報集約ツールの役割を満たしていないといけないんですね。でも、手帳は夏場には、そういう使い方ができないってことになるわけです。

ところが!

僕が使ってる「胸ポケメモ」は、この5月あたりから、暫定的にテキトーに使ってみただけの仕組みなんですけど、夏の暑い時期もラクラク乗り越えて、何を意識することもなく、まったく手順やら使いこなしやらの工夫をすることもなく、11月になろうとしている今も、同じやり方を変えずに、いまだに使えておるわけです。

まぁ、いちおう胸ポケットのある服でないと使えないですけどね。Tシャツ一枚で過ごしたい人には向きません。でも、「胸ポケット」程度なら、夏の服にもどこかにはついてるでしょう。そこに充分おさまるということです。

結局、定期とか、キャッシュカードとか、名刺とかで使われている、このB8くらいのサイズが、持ち歩きする情報媒体としては、スタンダードのサイズなんじゃないの?という気がするわけですよ。(そういう意味では例の超整理手帳は惜しい!紙を折るなら、いっそ八折りにした方が、使い勝手は飛躍的に高まりますって。間違いなく。)

で、実は、上記の「胸ポケメモ」以前に、私は名刺サイズの情報カードというものをずっと愛用しておりまして、ようよう考えてみれば、日常の各種メモツールの中でも、実はこの名刺サイズの情報カードをいちばんよく使ってるんじゃないかなぁと思うわけです。

名刺サイズの情報カードは、100枚セットで230円とかで売ってますので、

●情報カード 名刺サイズ 無地 C-211
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/B0018HGSLY

これを何束も買ってきて、事務所の机の上とか、自宅のテーブルの上とか、食卓や寝床、トイレの中にまで、筆記具とともに置いてあるんですね。これがまぁ本当に便利でして。使いこなしにはそれなりに慣れが必要だろうとは思いますが、テンポラリな情報の取り扱いにはすごく使い勝手が良いです。

で、街なかを歩いている時でも、けっこうメモを取るのは名刺サイズの情報カードということが多いのですよ。
情報カードをダブルクリップでまとめておくだけでも、充分に使えるメモ帳になるんですが、まぁ僕の場合は、カードの取り出しもしやすいので、いちおう情報カードケースに入れて使っております。(写真で紹介したようなもの)

●メモパース (名刺サイズ) 発砲塩ビ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/B0018HJXCA

まぁ、このカードケースは、気に入ってるわけでもないんですが、他に良いものもないもので。

で、実は、先に紹介したB5八折り胸ポケメモの週間スケジュールも、このカードケースにちょうど収まるので収納しておるのです。

(というのは自転車に乗るようになったから、いつでもメモが取れる、見れる、というのが必要、ということもあったのですが。)

ともあれ、おおむね、この仕組みで夏を乗り切れたし、このまま冬の環境でも使ってみようかなと思っておるのであります。手帳を買うなら、夏の事も考えて仕組み化しないとダメなんですよね。いや、ほんま。

そんなことで。

最近は、「自分を活かす」ということがどういう事なのか、だんだんわからなくなってきております。

人にはそれぞれ才能があって、才能を活かした分野で活躍をするのが幸せなはずなんですけど、しかし、その才能を活かすための努力が「楽しい」と感じられないのだとしたら、それは単に「得意」なだけで、長期に渡って努力することは不可能だろうと思われるわけですね。

逆に、いくら才能がない、向いてないジャンルの事柄でも「楽しいなぁ」という実感さえ得られれば、ずっと努力し続けることができる。

結局は、好きなことと得意なことのどちらを選んで積み重ねていくのが良いかというと、やはり好きなことを選ぶのが賢いのだ、という話を良く聞くわけです。

それは確かにそうだよなぁとは思うのですが、でも、本当に自分に才能がない分野で、しかも、やたらと「下手の横好き」なだけだったとしたら、それはやっぱり、ムダにしかならないんじゃないか?とかも思うわけです。

残り人生が少なくなってくると、よけいに無駄な時間を費やしてはいけないと思う訳ですが、本当に才能のない分野でも、伸びが期待できない分野であっても、やっぱり、得意な事より好きな事をした方がいいのだろうか? と、やたらと堂々巡りする考えにとらわれてしまいますね。

でも、それでもやっぱり、やってる事自体が楽しいのであれば、楽しさの方を優先するべきなんでしょうね。
少なくとも、その事をやっている間は楽しい訳ですし、また、自分が楽しんでいる間は、回りも幸せなわけですから。

で、自分が本当にやりたい事があるにもかかわらず、何かに逃げ込んでそればっかりやってるというのは、やっぱりそれは、回りにとってすごく迷惑な事だし、その人にとってもものすごく不幸な事なんだろうなぁという風に思います。

そういう意味では、いったい自分が本当に好きなこと、やりたいことは何なんだろう?と自分を見つめ直すということが、ものすごく大事だなぁと、最近はよく思います。

意外にも、自分が本当にやりたいこと、やって楽しいと思えること、楽しいからこそ生きている意味を実感できること、を、見つけられないままに生きている人はすごく多いと思うんですね。

昔、仕事仲間で仕事上でWindowsをパソコンにインストールする必要があって、いろいろ設定もしなければならないわけですが、その過程でマインスイーパーにはまってしまって、えんえん一週間くらい抜け出せなくなってた男がいてるんですけど、なんか人間ってそういうところがあると思うんですよね。その男は、それほどゲーム好きのゲーマーというわけではなかったんですよ。でも、本質を見るということを忘れちゃってたわけでしてね。

でも、多くの人間が、そういう状況なんだろうなぁとしみじみと思います。

この日記でもちょくちょく書いてるAC=アダルトチルドレンの事にしても同じ事ですよね。自分を生きるのではなく、関係性に振り回されてるとか、まぁそういうことだと思います。

なかなか、自分の「楽しさ」を優先して生きていくというのは簡単にできるように見えて、実行するには、人生には、枝葉、脇道、回り道、迷路が多すぎて、貫き通すのもまた難しいように思います。

でも楽しさを上手に貫き通せば、たぶんイチローみたいなところまで行くんだろうなぁという気はしますよねぇ。ずっと永遠に努力し続けられる、努力する事自体が楽しみなわけですからねぇ。

最近、ここの日記でも、よくノートとかの文房具の事を話題に出してますけど、ようはそれも、自分がしたい事を見つけるのに、ノートに書き出してみるというのは、かなり有用だよなぁと思うからであるのです。

まず、自分の好みの手帳なりノートなりを見つけて、そこにどんどん自分の夢やら好きなことやりたいことを書いてみる。
ただそれだけで、かなり自分の想いというものは整理されるし、何を好きなのか?ということを確かめるためには効果がありますからね。
なによりついマインスイーパーをやり続けてしまうというような脇道の迷路にはまりこんでしまう事は防げます。

だから、まず、いろいろと、自分の好きなこと、やりたいこと、夢などを、まずは書き出してみることなんじゃないかなぁとは思いますね。

いや、いったい誰に言ってるんだろ?
あ、自分か。
おそまつ。

この間から思ってるのは、こういうこと。

クルマのドライバーこそが、クルマを降りて自転車に乗って欲しいなぁってことですね。

というのは、自転車に乗ってると良くわかるんですが、自転車乗りにもまともな人とまともでない人がいて、その差は、大きくは「免許を持っているかどうか」の違いが、けっこう大きいのだってことなんですよ。

自転車は無免許で乗れます。だから、ルールの解釈が「世の中を見て真似してる」だけなんですね。他に基準はないんです。

だから、クルマのドライバーが、クルマから降りて、順法で(車道を)自転車で走るようにするのが一番なんです。それを見て無免許の人が真似るわけだから。無免許の人が原則なしに走るから、その原則無しを真似る人が増えて、自転車乗りの世界がグチャグチャになってるわけです。

だから免許を持ってる=原則を知ってる人が、自転車「にも」乗って、お手本を示さないといけないんです。これはひとつの「責任」ですらあると思うよなぁ。

先日の「自転車会議!」という本には、「日本の都市の中で一番走りやすい都市はどこか?」という話が載っていて、結局それは東京なんじゃないのか?って話になったわけです。

なんでか?

実はそれは「自転車は車道を走るモノ」という納得が、クルマ乗りの方に浸透してる度合いが高いからなんですね。自転車を敵視して、追い越したところで、最近のスポーツバイクだと、信号でかなりの場合追いつかれてしまう。道がクルマで混んでいたら、自転車に追い抜かれることもザラなのだ、とよ~~く知ってるわけです。信号の多い、都市空間では「おれはクルマに乗ってるエライ人間なのだ!」というようなクラクション鳴らしみたいな振る舞いが、まーったくの無意味なのだと、了承しているドライバーが多いってことなんですよ。

そこまで自転車の優位性、街の中での自転車の速さを知ってしまえば、自分がクルマから降りて、時には自転車で移動してみるという事まで、ほんとうにほんの一歩でしかないと思うんですよね。

で、実際、「良い自転車ドライバー」になるためには、道路交通法規をある程度知っているとか、クルマで走る時のクルマの側の「常識・マナー」を知っている事が必須の知識になるわけですよ。だから、それを無免許の人の前で披瀝する人がどうしても必要なわけです。
で、その人材ってのは山ほどいて、それはクルマのドライバーさん、あんたなんだよって事です。
自分が動けば、手本を示せて、社会が変わるんです。
だから、あなたが自分でやりなさいって事ですね。
そしたら、クルマで走る時も無茶な自転車乗りが減って、快適に走れるわけです。
悪いことなどひとつもない。
ベストの方法です。

かっこ悪いなぁと思ったのが、勝間和代さんが「走りにくい街」の代表として挙げてたのが「大阪」だったってことで。

これがまた良く分かる。
大阪は本当に、走りにくい。
無免許のママチャリ乗りが、道路を逆走して走ってくるとか、ものすごく多いし。なんせ大阪市内の道路のかなり多くの幹線道路が一方通行なので、「自転車は進行方向の左側を走る」というルール自体が成立してないんですね。どうしたってクルマの流れに逆らった逆走をせざるを得ない事が多くて、そうなると、「左端走行」が守られなくなるんですなぁ。
大阪はかなり最悪。

でもね。
じゃあ、そういうルール無用の無免許の自転車乗りをどうしたらいいかというと、やっぱりそれは、免許を持ってキチンと自転車にのるまともな自転車乗りが増えることがベストなわけですよ。そうなれば、「見て真似る」だけだから、まともな自転車乗りの真似を、みんなが真似するんです。

で、そういう時に模範になれるのは、やっぱり、キチンと自動車免許を取得したクルマに乗った経験のある人なわけです。
免許を取得した上で、自動車で道路を走った経験のある人でないと、無免許で自転車に乗っている人の「あまりの無法ぶり」が理解できないんですね。無免許で自転車に乗ってる人は、何も教えられてなくて、回りを見て真似てるだけだから、自分が「あまりに無法である」という事自体がわかってないわけです。

そういう時にベストなのは「手本」を見せる事です。手本を知らないと、これはできない。で、クルマに乗ってる人は、まぁ自転車に乗っても「順法で走ろう」という意識さえ持てば、いきなり、かなりの優良自転車ドライバーになれますよ。

でも、それはクルマに乗ったままだと、何の解決にもならず、よりいっそう自転車と車の溝を深める事にしかならないわけです。

よく日曜日しかクルマに乗らないドライバーが、平気で自転車にパパパパパパーってクラクションを鳴らしてるけど、それはもう、愚の骨頂なわけです。相手は自動車免許を持ってないおばちゃんだったりするんだから。鳴らすだけ無意味なんです。(鳴らす事自体が、安全速度義務違反なんだけどね。)

結局、人間は、クルマのドライバーである時間もあれば、歩行者である時もあるわけで、それと同じく、自転車のドライバーであるという時間も増やせば良いのです。だから、なんでもかんでもクルマで移動して、自転車に乗りもしないで問題を深刻化させたりせずに、


●クルマから降りて、自転車に乗ればいい。

んですよ。

男女の問題は、男が女になることは不可能に近いので、簡単に相手の立場はわからないんですが、自転車と車の問題は、いくらでも立場は変えられるんです。
だから、自動車に乗っていて、自転車の無法ぶりにイラつくような人は、まず真っ先に自分がクルマから降りて自転車に乗ればいいんです。それが一番早い。

で、自動車のルールを体得した意識で、自転車を「クルマの一種」と自覚した自転車走行を、そういうオバチャンに「手本」として見せれば良いのです。
それだけの話です。

そういうまともな自転車乗りが増えれば、「見て学ぶ」だけの層もまともになっていきます。
だから、免許持ちこそ、自転車に乗らなきゃダメだと思うんですよね。

実際、クルマに乗ってる人は、道路という公的な空間を、徒歩オンリーの人間より多く塞いでいるわけです。
なのであれば、無免許自転車乗りを、正しく教育する責任だってあるって事ですよ。
ましてや、その教育をやれば、


●無謀な自転車乗りが減って、クルマで運転するときも快適に走れる。


というクルマの運転者にも大きな大きなメリットが生まれるわけですよ。免許を持ってるクルマ乗りが、自転車で手本を示す、という事をしなければ、こういう「快適に走れる道路」という環境も生まれて来ないわけです。

自分の快適は自分で作れば良い、というだけの簡単な話なわけです。

こういう当たり前の事がわかっていないのが問題なんです。

大事なのはクルマと自転車を分けることではなくて、いかに道路をみんなで上手に活用するか?って事なんですよね。

晴れた日で、荷物もなく、移動するのが都市部の市内で、移動距離15km以内なら、圧倒的に自転車の方が快適だし早いし、健康にも良いわけです。
雨の日や、荷物がある時や、ちょっと遠出をする時、あるいは単に気持ちよくクルマに乗ってストレス解消したい時はクルマに乗ったらいいんです。
しかし、そうじゃないときは自転車の方が便利で、しかも模範運転をしたら無免許ママチャリライダーへの教育効果まで出てくるんだから、自転車に乗らない方がおかしい。
だから自動車のドライバーである人、日常的にクルマに良く乗る人ほど、必要に応じて、正しく自転車に乗るべきなんですよ。

そうすれば、

●道路空間が空くので、クルマが走りやすくなる。

という、もっとも重要な変化が出てくるわけです。
渋滞の不快さを一番感じているのはクルマのドライバーでしょう? なら、自分で解決すれば良いのです。用事のない時は自転車で移動するようにする。それをドライバーの常識にする。そしてできる限り順法で車道を自転車で走る。
そうするだけで、アホで危険な無免許自転車乗りの問題を緩やかに正しつつ、クルマ一台分の走りやすいスペースを他のクルマ乗りのために空ける事ができるわけです。
クルマ乗り同士が、そうやってスペースを譲れば、それはそれは道路は快適に走れるようになりますよ。自転車は自動車の7分の1のスペースしか使いませんからね。

クルマ乗りこそ自転車にキチンと乗る。そういう常識ができれば、それこそ、自分が本当に急ぐときや、快適に走りたいときに、道路を快適に使えるという、クルマ乗りにとって一番大きなメリットが生まれるわけです。

だから、免許を持っていて、自家用車に乗っている人は、よほどの用がある時以外は自転車に乗るようにするべきなんですよ。
それこそが、クルマに乗ったときの快適さを高める最上の方法なわけですから。

僕に言わせれば、自家用車には、必ずスポーツ自転車がセットで付いてくるべきだとすら思いますから。法的にスポーツ自転車の購入を義務づけたら良いのにと思う。で、用もないのに自動車には乗らない。タバコ一箱買うのにガソリンなんか燃やさない。自転車で行く。当たり前や!そんな事!

で、免許持ちは、日々道路を、歩行者よりもはるかにたくさん塞いでいる責任を痛感して、自転車に乗るときは無免許自転車乗りの「教育」にいそしむと。
そういう流れができるのが、もっともみんなが幸せになる筋道だと思いますな。

無免許自転車乗りが、こんなに、あまりに無法なのはなぜかというと、これは実は、警察がかなり悪い。そうとうに悪い。ものすごく悪い。悪辣非道なる警察組織であるということが言える。

というのは、先の「自転車会議!」にも載ってましたが、警官がやる小学生への安全交通セミナーみたいなのが、かなりの問題をはらんでるわけです。
そういうところで教えるのは「手信号」だったりするわけです。それを法律に従って教える。
で、法律上では、左折するなり、右折するなりする時に「右左折が終了するまで手信号を出し続けること」という事になってるわけです。

片手運転推奨かよ!ボケか!

っちゅう話です。
そんな危ない事、自転車に乗りたての子どもにできるわけがありません。

で、そういうルールを教えられて、街に出ると、そういう事をしてる人はひとりもいてないわけです。

こういう事があると、どういうことになるか?
「ルールは守らなくて良いものだ」
という刷り込みだけができてしまうわけですよ。
しかも小学生の時に。

これがかなりの問題なわけです。

アホでひどい運転をするママチャリライダーというのは、こういうところから生まれている。
つまり警察が元凶なんです。

だから、そういうひどい警察の問題点を解消するためにも、ベストの手段は「自動車の免許持ちが、晴れた日の1人での移動の時には、自転車に乗って理想の自転車乗りとしての手本を示す。」ことなんですよ。
法律がおかしい部分は守らなくてもいいですが、道路でどうしても車線変更して右左折しなければならない時は曲がる前に手信号を出して後ろのクルマに知らせ、曲がる時はしっかりハンドルをホールドするという、当たり前の行為を、道を歩く子ども達の前で見せる、という事です。

そうすれば、5年後、10年後、その子たちが大きくなった時にたとえ免許を持っていなくても、まともな自転車乗りになって、クルマに乗っている人自身が、無謀な自転車乗りに、怖い思いをしなくて済むというわけです。

これ以外に正解はありません。

ちゅうことで、クルマに乗ってる人は、即、良い自転車を買って自転車で移動すること。
それをしない人は全員、自分のクビをしめてるというだけの話です。
はい。

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