今日は、権之助さんの日記に書いたコメントをちょっと修正して書いてみます。

言いたい事は、「自分の問題点は、意外に自分ではわからない。だから注意深く自分を知ろう。」という話です。
もともとは手帳の使い方の話で、「手帳は自分の未来を創るモノ。日記的にこちょこちょ書いていても意味がない」といような意見を書いている有名人がいた、というところから話ははじまっております。
「いや、日記とか自分の記録をつけることこそ、未来を創る最重要の行為じゃないか。」という事を僕は書きたかったわけです。

(その人は「ほぼ日手帳」を批判してたようなんですけどね。まぁ僕も「ほぼ日手帳」は支持しないんですけども。あれは振り返りをやろうとすると大変なので、あまりよろしくないです。)

最近では自分の生活記録をマメにつける「ライフログ」というのも流行ってますし、まぁそういうたぐいの話です。

以下転載----------------------

ただ、僕の体験からいうと、「ライフログ」というのは使い方次第でものすごく効果があると思ってます。それこそ、例の「いつまでもデブと思うなよ」のレコーディングダイエットじゃないですけど、自分の客観的状況の把握というのは、恐ろしいくらいに「将来」に対して現実的な効果があります。

岡田斗司夫さんは、「毎日何を食べているか」をキチンと記録することでデブから脱却したわけですけど、僕は毎日睡眠時間を記録することで長年の寝坊癖を克服することができたんです。

自営業で、別に出勤時間が決まってるわけでもないですし、急ぎの仕事があれば、徹夜してでも仕上げないといけないという生活をしているので、気を抜くとすぐに昼夜逆転の生活になってしまうんですね。それがもう20年も続いてしまったんです。
いや、それどころか、普通に会社員で仕事をしてたときもライティングの仕事だったので、夜遅くまで原稿を書いていると興奮して寝付けず生活時間がガタガタになって遅刻しまくりで、それで会社をクビになったことすらあったわけです。

ですが、最近はそういうことがほとんどなくなりました。自分で睡眠時間をコントロールできるようになったんですよ。
それがどうしてそうなったのか?というと、自分の睡眠のサイクルを把握することができるようになったから、なんですね。

寝坊や遅刻でさんざん悩まされたので、いろいろな睡眠に関する書籍を読みまくりましたが、そこには「睡眠サイクルは約90分。このタイミングで起きればスッと起きれる」というのが書いてあったわけです。

これは最良の解決策だ!と思って90分で睡眠するというのを30代で試してみたのですが、全然ラクじゃなかったんですね。なので、理屈としては理解してたけど、机上の論理で終わってたんです。

40過ぎて、「このまま睡眠時間のずれた生活がいつまでも続いたら、本当に幸せなんか得られない。」と思った時に、何の根拠もなく、「ええい、もうどうにでもなれ。寝たい時間に寝て、起きたいときに起きてやる。」と、自暴自棄を、あえて積極的にやったんですが、その時に「どこまで荒れるのか記録しとこう。」と、寝た時間と起きた時間をていねいに記録するようになったんですよ。
いや、最初は起きた時間だけだったんですけど、何時間寝たのかも知りたくなって寝た時間も記録しはじめたんです。

で、そのうち、睡眠時間が短くても、スッと起きられる日があるということに気付いて、何ヶ月か書きためた睡眠時間をよくよく見てみると、

●私の睡眠サイクルは90分ではなく80分だった!

ということがわかったんですよ。
確かに「約90分」ではあるんですが、80分と90分では大違いなんですね。だいたい4サイクル寝ると90なら6時間ですけど、80分なら5時間20分です。40分も差が出る。

これがわかってからは、多少徹夜などの無茶な事をしても、4サイクル寝とかを間にはさみながら、一週間で普通の睡眠時間帯に戻すとかが無理なくできるようになったんです。それはもう、睡眠時間のコントロールが出来ず、遅刻ばっかりしていた頃とは全然違う。画期的に思い通りに対処できるようになってきたわけです。

この「自分だけの睡眠サイクル」を発見するまでは、それこそ「朝起きれない」というのが自分の欠点として、ほとんどトラウマになってましたから。自分だけの問題に自分で気付かないかぎり、これは解決しなかったわけです。

で、その解決のきっかけは、「毎日キチンと自分の行動を詳細に記録したから」であり、なおかつ、その長期の行動を、後で分析したからなんですよ。

これはもう、劇的に変わりましたから。
自分自身の記録をキチンとつけるというのは、強力な力があります。
ですから、「日記程度」とかバカにしてる言説を見るとかなり腹が立ちます。「テキトーな事言うなよ」って思う。
僕の睡眠記録だって、最初から振り返りを意識して付け始めたわけじゃないんですもん。ふりかえるためのちょっとした手がかり程度でやってたことなんです。
でもそれが、問題の本質を根本から解決する大きなきっかけになった。

だから記録は超重要です。
ここのところがわかってない人は、はっきりバカだと思う。許せなく感じてしまうんですよ。
「知りもしないくせに適当な事を言うな!」と思ってしまう。
90分と80分では全然違う。一般人向けの「約90分」では意味をなさない「私の場合は80分」というのが大切なんです。そこがわからなければ、実用性など一切ありません。一切ないんですよ。

転載終了--------------------------------

という事ですね。

ようは、「自分の現実を知る」ということです。

人間の顔というものは、目と耳がふたつずつ、口と鼻がひとつあるという意味では誰でも同じで「人間の顔なんてみんな同じ」と言えるわけですが、その「みんな同じ」が実は「全部違う」ものでもあるわけですね。会社の仲間と家族ではみんな顔が違う。区別ができる。同じ顔の人がドッペルゲンガーとか、他人のそら似とか言って驚くくらいです。「みんな全部同じなのに、みんな全部違う」というすごい事が普通に存在しているのが、この世、現実というもののすごさです。

●パーツの数や位置はみな一緒。でもサイズやバランスは全部違う。

ということですね。
この事実認識こそが「正しい現実把握」ということになります。

だから、

・人間の顔なんて、みんな一緒
も、
・人間は全部みんな違う
も、

どちらも極論だ、ということになります。現実というのは、もっともっと多様でありながら共通項もあるという、すごいものなのです。

だから人間は、この「全部同じ」も正しく知っておくことが大事だし、「みんな違う」も自分でキチンと把握しておくことが大事なんですね。現実に対処する、というのはそういう事です。

ただ、「自分を知る」というのは上記で書いたとおり、意外に大変なんですね。「世間さまといかにずれているか?」と言うことは、自分で注意深く自分自身を観察していないと、なかなか気付けないわけです。

僕の場合の話をもうひとつするなら、虫歯が痛かった、という話もあります。

歯医者で虫歯治療をしたのですが、治療したのに、やたら痛かったのです。仕方ないので歯医者さんに行くと、「おかしいですね。もう神経は抜いてあるから痛みが出るはずがないんですけど」と言われました。

で、レントゲンを撮り直したら、どうやら僕のその歯に限っては神経が二股に分かれていて、その片方が残ってしまったのではないか? という事でした。

そら痛いわ!
神経残ってるんやんけ!

ということですね。

でも、神経が二股になってるなんて、知らないし。医者にだってわからんわなぁ。そりゃしゃーない。普通は二股になんてなってないんやから。僕だけ特別やったんやから。そらしゃーない。痛かったけど、それはしゃーない。自分が特殊だったからと言って、この歯医者さんがダメ医者だったわけじゃない。(ところが、こういう事があると、医者をダメ医者と判定するような人もいてます。それはどうだろうか。)

実際、その時の対応が誠実かつていねいだったので、僕はもうずっと、この歯医者さんのところに定期検診で通っているくらいであります。

ともあれ、私にとっては、

●世間では睡眠サイクルは90分。でも、私は80分。

●一般的に歯の神経は一本筋。でも、私は二股。

という事自体が大事だったわけです。

睡眠時間の事ではものすごく苦しんだのですが、それでも睡眠サイクルの存在を学習し、自分の睡眠サイクルが80分であるという事を自己確認できれば、問題は解決したわけです。正直、この問題解決だけで20年以上かかってしまいましたが、それでも解決はした。

歯の痛みだって、「二股なのではないか?」という歯医者さんの推論のもと、もう一度神経を抜く治療をし直したら痛みはなくなりました。「もしかしたら、こうなってるんじゃない?」と仮説を立てて、それに沿って対処していけば、仮説が外れることもあるけれども、いずれ問題は解決する、ということなのであります。

自分自身が持つ問題点に、自分で気付けないかぎり、実はかなりいろいろと苦しまなければならないと言うことは多いのです。
で、その問題の渦中にあるときは、世間に対して反感を持ったり恨み言を言ったりしてしまうものなのですが、それはやっぱりちょっと違うんですよね。
単に、「自分の持つ問題点に気付いてないだけ」なのではないか? という視点も持ってみた方が良いのですよ。

で、その問題点がわかれば、実は今の世の中、対処法というのはかなり充実してるわけです。問題点さえはっきりすれば、解決までは一直線ということも多々ある。

だからやっぱり「自分を知る」という事が、何より重要で、そこを多くの人に意識してもらいたいと僕は思うのであります。

いつまでも「あけましておめでとうございます」でもないので、何か書かねばと書くことにします。
先日やっとiPhone3GSからiPhone4sに替えたのですが、そのついでにToDoをデジタル化してみたのです。Googleタスクを使って一覧できるようにしたり、iPhone4s用のToDoソフトを導入してみたり。

でも1週間で飽きた。

結局、PCのフォントはいつも同じデザインですからね。飽きる。やっぱり手書きがいい。

手書きだと、文字の形がけっこう変わるんですね。急いでメモした時は字が汚いし、落ち着いてリストアップしたときは文字も端正に座ってらっしゃる感じがあって、そこがけっこうよろしい。
ToDoを書いたときの自分の気持ちが反映してるのが良いのですね。
だから、ToDoリストを書いたときの気持ちが、見るたびによみがえって、モチベーションの維持に効果があるのです。

ところが、PCに書き上げたToDoは、デジタル化する端から、どんどん「外化」されてしまって、Todoなのに自分の仕事だという気持ちになれない。やる気がしぼんでしまう。実によろしくないのです。

ToDoに関しては、もうずーっとこんな事を繰り返してますねぇ。
手書きでリストアップしていくうちに、項目が増えすぎて整理がおいつかず、ジャンル分けしたり優先順位を変更したりする。それが嫌になってデジタルに切り替える。でも、デジタルにするとモチベーションが下がって飽きる。また手書きに戻る。
こればっかり。

Googleタスクは期日入りのタスクはGoogleカレンダーに自動的に表示してくれるので、それはありがたいんですけどねぇ。

iPhone4s(というかiOS5)には「通知センター」という新たな機能がついていて期日が来たら教えてくれる機能があって、これと関連付けると便利だろうな、というのがあって、やってたんですけど、どうにもダメですねぇ。
何か、「こういう項目だけは通知できるように仕掛けておく」という基準を作らないとダメなのですかね。そんな基準なんか作っても、自分で守れるかどうかが怪しいしなぁ。
いや、なかなか難しいですね。

年が明けました。
おめでとうございます。

旧年中はいろいろお世話になり、ほんとうにありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

今日から仕事という方も多いと思います。
楽しく前向きに働いて行けたらとお祈りしております。

震災で被災された方々は、まだまだいろいろご苦労もあると思います。ボランティアに出かけたり、巨額の寄付などはできませんが、被災地のものを買ったり食べたりするくらいはできると思うので、その程度の事はしたいなと思っております。
あまり、無理をしていては何事も続きませんから、まず私に出来ることだけさせていただきます。

ヨーロッパの不景気が日本にも飛び火しそうな状況になってきていますが、それでも、まずは自分です。
自分が関わっているお仕事が、利用された方に喜んでいただけるように最善を尽くすという、一番の重要事に集中したいと思っています。それこそが、経済を無理なく回していく現実的な方法だろうと思いますので。

ともあれ、無理せず精一杯に、今年一年をまた、より良く、自分らしく生きていこうではありませんか。

あなたがあなたであることは、あなたにしかできない事なのです。
みんなが自分らしくあることで、みんなが幸せになれれば良いなと思います。

ありがとうございます。


今年もとうとう押し詰まりました。
大晦日です。

今年は、東北大震災のように、公的にも大変な一年でしたが、私個人も身を固めるなど、さまざまな出来事があり、大きな変化のあった年でした。

一度社会に向かって「開き」出すと、それこそいろいろな出来事が、一気に身に降りかかってくる感じがありまして、今年体験した出来事は、それこそ「何故ここまでいろいろな事が一気にやってくるのか?」というほどに驚くような出来事ばかりでした。

人の死や病気、暮らす場所の変化、人付き合いの変化。
まだまだその変動は留まるところを知らないという感じなのですが、それはそれとして、一年はいま終わろうとしています。

今年一年、この日記を読んでくださった方々ありがとうございました。また、いろいろ書き込みしてくださった方々も、本当にありがとうございました。

また来年からもよろしくお願いいたします。

みなさん、良いお年をお迎えくださいませ。

放射能はコワイ。
コワイけど、程度はあります。

このあいだ書いた日記のように、「多少、命が短くなっても、良い気持ちで生きていきたい」と考えれば、わずかな汚染は気にならない。

でも、多分おそらく、低線量の放射線は、人間の身体の回復力の方が優って、気にすることはない、ということになるんじゃないかと、僕個人は思ってます。(あくまで個人の意見です。昔のラドン温泉なんて、健康増進をうたってたし、ラドン温泉に入り続けた人もいたし、それで病気になった人というのも聞いたことがないし、社会問題にもなってないわけですから。でも、あくまで個人の意見。)

だから、やっぱり、あまり「コワイ、コワイ」と言わずに、同じ日本人として、福島産の米やフルーツを食べて行きましょう。

福島以外の物産は「東日本大震災復興のために」と、どんどんいろいろなところで取り上げられてるのに、なんで福島産はダメなのよって思う。被災したところの産物こそ、ちゃんと買って上げなきゃダメじゃん。でしょ?

でも、風評被害というのは、勝手に広がる。それに加えて「放射能コワイ被害」まで加わったら、福島の農家もフルーツ王国も潰れるだけです。
それは、


●みんなでいじめた


ということでしかないのです。
怖がることがいじめることなのです。

それはアカンやろって思う。

NHKの朝イチを見てたら、米農家の放射線量を測っている携帯型の計測器が、僕がお取引している計測機器メーカーの製品だったので「おお」と思いましたが、やっぱりそうやって、「数字」という事実をよく見る、知るというのが基本は大事です。

で、放射線量に関して言えば、福島が一番力を入れて測っているに違いないんですよ。みんな風評被害がコワイから。

この朝イチという番組では、日本全国の家庭で食べられている食物の総合放射線量を抜き取り検査してみる、というのをやってたんですけど、その結果わかったことは、毎日食べてる量の中では放射線量はごくわずかなので健康に影響は出ない、ということと、仮にごくわずかな放射線量が確認されても、それは北海道や大阪などの福島から遠く離れたところと、福島とで、まったく差がないという話だったんですね。

へたに風評被害が広がると、それこそ汚染された食べものが闇に潜るということにもなりかねません。
その方がよっぽどコワイ。

だから低線量のものは、個人の判断にはなるけれども、「多少命が短くなっても、人と人が助け合う生き方の方が気持ちいいじゃないか。」と思ってたべてやるぞ!と思うくらいでちょうどいいのだと思うのです。

いたずらにコワイコワイと言うのは、どうにも、福島の人たちを踏みつけにしてしまってる気がしてしょうがないです。

どうでしょうかね。
みなさん。

マラソンはひざを痛める危険があるので、最初からパスしている私なのですが、何の道具も必要ないので(ウソ。ひざを痛めないためには、最低限、良い靴を履くことは必須。)かなり人気があるようで。

とうとう大阪が大阪マラソンをやると言い出して、おとといそのマラソンの日でありました。

そんなこととはつゆ知らず、家族で出かける用事があったので近くの地下鉄の駅まで行くと、交通規制がされていて、大変な数のランナーが、次から次へとやってきては見慣れた交差点を曲がって行くではないですか。

わー、すごいことになってるなぁ。

とは思っても、まぁあんまりマラソンそのものには興味がないので、見物することもなく地下鉄の駅を降りようとしたのであります。

すると。

どういうわけだか、礼服を着たお父さんが、これまた綺麗に正装した子供や嫁といっしょに地下鉄の駅から出てきたのですが、どういうわけか、そのお父さんが手に自転車を抱えてる。

「なんで自転車が地下鉄の駅から出てくるんだ?」といぶかしく思ったのですが、いざ地下鉄の駅の中におりると、次から次と自転車を持ち運んでる人がいて、やっと、

「ああ、規制があって自転車が通れないのか」と合点が行きました。

通常なら信号を渡るところが封鎖されてるから、地下道になっている地下鉄の駅の構内を抜けていくしかないわけです。
ありゃまぁ、ごくろうさんですねぇ。

こっちは用事があってなんばまで出たのですが、そこでも規制があったので、千日前通りの信号が渡れず、地下道を抜けました。
抜けて出た先では、自転車に乗った人が案内係の人から「もっとずっと向こうからぐるっと回ってもらわないとダメです。」とダメだしをされておりました。
なんばの地下道は「なんばウォーク」というショッピングモールになってますから、「自転車を持って地下道に降りて通り抜ける」という荒技も禁止されてたわけですね。

これまたご苦労さんです。

まぁ、基本、自転車は「車両」ですから、マラソンがある日に自転車に乗ろうと思う方が間違ってるわけですが、普通の人は「歩行の補助道具」と勘違いしてますからね。こういうことになってしまうわけです。

なんだかなぁと思いますなぁ。

いろんな意味で滑稽というか、どこかおかしいというか、割り切れないというか。

普通の市民が、思いもかけないところで、不便を強いられるというのが、なんとも困った事だなあと思いますね。

これもそれも、「自転車は車両であり、車道を走るのが本則」という、あたりまえの法的事実が周知徹底されていない行政の自堕落さが問題なわけですからなぁ。
警官が2人、自転車で連なって歩道を走る、刑法違反を平気でやってる国ですからなぁ。

そのくせ、マラソン前は「クルマは通行規制がかかります」と言いながら、自転車で不便するという事は全然周知徹底がされてないですしねぇ。
なんなのだろう、このバランスの悪さは。

キチンと良い自転車に乗って車道を走ってる人は、最初からマラソンの日には自転車には乗らないでしょうけど、ママチャリ族はママチャリを「歩行補助機」としか考えていないのだから、そこのところしっかりサポートしてやれよと思いますよねぇ。せめてキチンと周知徹底してあげるとか。

警察も普段、刑法違反(車両で歩道を走ったら、道路交通法を正規に適応したら刑法犯でっせ。いやホンマ。)して平気で歩道を走ってるんやから、そのくらいの事はしろよ、と思う。

でも、この「自転車はクルマか歩行補助機か?の、日本特有のポジショニング問題」は、大問題として存在しているにもかかわらず、まるで存在していないかのように扱われてしまう差別されっ子問題なので、やっぱりこういう大きなイベントが起きても「テキトーに現場で処理しなはれ」扱いになっちゃうんですよねぇ。

ああ、困ったもんだ。

もう、どうにかして欲しいであります。

毎朝、NHKの連続テレビ小説を見るようになって、1年半。
そのままNHKの朝のワイドショー「朝イチ」を途中まで見ると言うことも多いのですが、今週の朝イチを見て感激してしまいました。

なんとなんと、福島に司会者陣が全員移動して、ゲストコメンテーターまで同席して、福島の温泉街の橋の上をスタジオ代わりにして、今週一週間放送するんだそうです。

素晴らしい!

本当に素晴らしい!

一週間ですよ、一週間。
半端な態度やないよなぁ。
しっかり腰を据えてやる!という覚悟があると思う。いいなぁ。有働アナもいのっちも柳沢さんもエライ。
いまNHKがやるべきは、これでしょう。うむ。

みんな、もう安全ですから、福島に行ってあげてくださいよ。
地元にお金が落ちなきゃ、どうしようもないんですから。
朝イチスタッフ全員で行ってますよ。
どうです、これ。
この健全な感じ。

これこそが大事なんです。

あと、福島はフルーツ王国なんだよ! たくさん福島産のフルーツを食べましょう。

今年の夏は、僕は福島産のきゅうりを積極的にいただきました。

極端な話をすれば、確かに多少の放射能があれば、僕自身のガンになる確率が数パーセントは上がるかもしれません。いや、学術的な証明が全然されてないんだから、もしかしたら大病をする可能性だってないとは言えない。

でもねぇ、そんなに病気から逃げ回って、毎日の食事に神経質になってビクビク生きていて、本当に幸せでしょうか?

たとえ命が短くなっても、おいしいものをキチンと食べて、それが経済行為として被災してる人の生活を救って、こっちもむこうもお互いに幸せを感じられるなら、とりあえずは、


●大きな大きな生きている意義


を得られるんじゃないでしょうか?
多少人生がみじかくなったって、その方が、はるかに、うんと、ずっと、思い切り、幸せな人生になると僕は思う。

幸せでない人生を、他人より少し長く生きたからと言って、何が楽しいのか? ということにはならないでしょうかね?

もちろん、こんな事は、人それぞれの選択肢の範囲の中の事であります。
人間が結婚しようがしまいが、それは個人の自由であるのと同じく、どっちをとろうと別にどっちでもいいことだ。

でも、どうせなら楽しい方がいいなぁ。
正々堂々としていて、人の役に立てているという感覚が味わえる方がいいなぁ。
少なくとも僕はそっちを選びたいと思うのであります。

そういうような意味を込めて、今週の朝イチは「素晴らしい!」と、声を大にして叫びたいのであります。

あんまりNHKは好きじゃないし、(朝の連ドラ「カーネーション」かなり面白いのですけど、NHKのドラマが面白かったとしたら、それは民業圧迫なんじゃないの? そっちの方が大問題じゃんって思う。小沢報道でも、かなり恣意的だし、NHKに関しては僕は本当はかなり批判的です。)NHKなんか記者クラブの悪弊の極みをやりまくってるんだから、徹底的に叩かないといけないと心底思うんですが、それでも今週の朝イチだけは応援したい。本当に素晴らしい。

何より出演者・スタッフ全員が福島まで行ってるというのが、本当にいい。

本当は、野田総理が福島第一原発まで出かけて、そこで防護服も着ずに普通の服で安全宣言するのが一番なんだけど、まぁ、朝イチがここまでやるというだけでも、かなり良い。

心から応援いたします。

ああ、びっくりした。
友人が、今度転職してWEB関係の会社に行くことになったんですよ。

で、その彼はもともとコピーライターで、ビジネス的な企画やら発想やらは大得意なんですけども、WEBの技術的な事やらWEBサイト構築の実際的な事とかに関してはよく分かってなかったので、「どんな本を読んだらいい?」という相談を受けたのであります。

で、僕は電話でその話しを聞いて、即、この本の事を思い浮かべたのです。

●WebクリエーターのためのWebページ制作実践テクニック―HTML4.0対応
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4774106631

1998年11月の発行ですから、かなり古い本なんですが、タイトル通り、実に実践的でWEBサイトの構築などの実務を行うには有用な知識が満載されてる良い本なんですね。

まぁさすがに、一年が10年にも匹敵するという猛スピードで変わっていくWEBの世界で13年も前に書かれた本で、しかも技術的な細目についても書いてある本ですので、半分くらいは陳腐化してるんですけど、でも、時代を超えて役立つ部分が、これまた半分くらいは残っているという、実にすぐれた本なわけです。

この8月に自宅を引越し、9月には仕事場も自宅に統合してしまったので、かなりの本を捨てたのですが、その中でも捨てずに残ったのが、この本でした。
本棚のチェックの時に内容をもう一度パラパラと見て内容を確認して、「この本だけは残しておかないとなぁ。」と思って真っ先に残す本の一群に入れたのであります。

事務所と自宅の引越に関しては1~2年前から計画してたので、そこに向かって、ずーーーっと、日々、本を捨てる作業を続けてたのですね。本棚の本を眺めては、「もう、この本は要らんだろう」とか考えながら、月に数十冊。この一年~二年で、数百冊は捨てました。(まだ数百冊残ってますが。)
そうやって、選んで選んで残ってきたのが、この本だったのです。

で、その友人にこの本を紹介してやろうと思って、タイトルと著者を確認するために本棚の「PC関連」とタイトルを付けた小さな箱の中からこの本を取り出してタイトルを見、著者名を見たときに僕は、思わず、

「うわっ!」

と驚きの声をあげてしまいました。
家人が、「どうしたん?」と聞いてくるくらいに、けっこう大きい声をあげてしまっていたようでした。

というのも、それはやはり、その著者名が驚きの人物だったからなんですね。誰かというと、


●堀江貴文


でありました。
あのホリエモンであります。
えええええ、ワシ、ホリエモンの本でWEBの事勉強してたん? そうやったん? ししししし知らんかったわー。

という驚きでありました。

いや、ほんと、PC関係の書籍に関しては、立ち読みで内容を良く吟味して、内容さえ良ければ購入するというスタンスがほとんどなので、著者の名前を意識したことなど、ほとんどないんですよね。

ただひたすら、内容を確認して、実践的であったり、実用性が高かったりしていれば、「よし買おう」というだけでして、著者がどんな人なのかなんて、考えたこともなかったわけです。

ましてや、1998年ですから、ホリエモン自身まだまだ無名な頃ですし、僕の意識に著者名など、まったく残ってなかったんですよ。

もちろん、1998年から2001年くらいまでの3年くらいは、ことあるごとに取り出しては読んでたんですけど、この数年は、ほとんど本棚の肥やし状態で再読すると言うこともなかったんですね。だから、この本がホリエモンの著作であるということすら気づかなかったというわけなのです。

いやー、びっくりした。

本はいつでも内容重視、同種の本が書店にあれば、立ち読みである程度中身を比較して、勝ち抜き方式で1冊だけとにかく買う、というやり方がベースで、なおかつ、良い本なら繰り返して読み、つまらない本は捨てるというスタンスで読み続けてきたので、こういう事が起きるわけですね。

●誰が言ったか、なんてどうでもいい。

●まずは、何を言ってるかが最重要。

ということなんです。

で、やっぱり、

●中身のあることを言ってる奴は生き残る。

ということなんですね。

それを本当に実感しました。
いやー、しかしすごいわ。
あらためてびっくりした。

あー、驚いた。

ジョブズがなくなりました。
大変残念です。
心よりご冥福をお祈りするとともに、これからの世界のデジタルツールの進化が大きく遅れる気がして寂しい気持ちにもなります。

僕は昔、ものすごくアンチMAC派だったんですね。マックの事が大嫌いでした。でも、それはいまにして思えば、まさにジョブズがアップルを追い出されて、「コーラ屋」ジョン・スカリーがappleの実権を握っている期間と完全に一致してるんですね。あの時代のマックは、本当に大嫌いでした。なんせウィンドウズパソコンの真似ばっかりしてたから。規格統一した方が良い事柄は、そのまま公開していった方がいいし、そうでない路線を選ぶのなら徹底して独自路線で行くべきなんですよね。そこの割り切りが全然できてなかった。要するに社会性がなかったんです。スカリー時代のアップルには。単に社会の迷惑存在でしかなかったと思う。

ところが、ジョブズがアップルに帰還した途端に、まずiMacを出しWindowsパソコンとは別の路線、アナザーPCとしての方向性を明確にして、マックの互換機路線をやめたわけです。ようはウィンドウズの真似をやめた。

「おおお、素晴らしい。」

てな感じでした。
CEOが変わるだけで、こんなに企業として変わるんだなぁとつくづく感心したものであります。
マックやアップルの文化にはまったく興味がなかったけど、このジョブズの明確な方針の打ち出し方は、ものすごくまっとうで、「良いなぁ」と感じていたので、その後のiPodの快進撃などにも注目していて、結局、いまでは携帯電話はiPhoneになっています。

iPhoneは、使い出した当初は、もうそれこそ「palmの再来」とか「完成形のpalm」という感じがして、一時期palmをけっこうヘビーに使っていた僕には全然違和感なく使えて、すごく使いやすかったのです。分かってる人には分かると思いますけど、パソコンのコンパニオンというか、PCを補佐する道具としてのポジショニングがpalmの役割で、だからこそパソコンに接続するソフトこそがpalmの基本的構造だったわけですけど、iPhoneもiTunesで、同じ仕組みからiPhoneの世界に入るようになってて、そういう「パソコンの補佐役」という仕組みは踏襲してるわけです。

でも、そのパソコンとつなぐiTunesは、ジョブズが音楽業界をひっくり返した音楽のデジタル販売システムとつながってるソフトですし、これまた分かってる人は分かってますけど、iTunesは本当は「パソコン連携ソフト」なんかではなくて、「本格的データベースソフト」であって、「どんなコンテンツでも一括管理可能な基本システム」だったりするわけです。

アップルにもマックにも全然興味はなかったんですが、ジョブズという人には興味があって、ジョブズの関連の話を読んでいくと、ジョブズは映画業界をCGで根本からひっくり返して、音楽業界をiTuneで根本からひっくり返して、ソフトウェア産業をAppStoreで根本からひっくり返してるわけです。

なんというか、アメリカがもっとも得意とするコンテンツ産業の仕組みそのものを全部ひっくり返してしまっていて、その活躍は小気味よいくらいです。

こんどアップルがクラウドに参入しますが、クラウド参入により、実はiPhoneのアクティベートというものが必要なくなり、iPhoneは「PCのコンパニオン」ですらなくなる事になるわけです。まさに「手のひらのコンピュータ」として独立することになります。iPadが未来のコンピュータの基本形スタンダードになるのでしょう。

iMacは単に「見た目が違うパソコン」でしかなかったのですが、実は「PCを販売するターゲットを変更した」というところがすごかったわけです。市場を広く取った。そこが成功のポイントだったわけです。
任天堂だって、従来の「ゲーム」では市場が狭すぎるから、教育ソフトまで「ゲーム的演出」をつけて「これもゲームです。」と強弁することで市場を広げて成功したわけですが、それと同じ事をジョブズはやったわけです。

で、単なる市場の拡大策だけだと、広げた市場を他社に食い荒らされるだけなのを、たとえば映画ならフルCGであるとか、音楽ならiTuneというDBソフトとか、デジタル技術(=旧産業が苦手とする技術)で優位性を保ちながら着実にユーザーを囲い込んできたわけです。

パソコンなど出さずにiMacの次にはiPodを出し、音楽市場をひっくり返しつつiPodという差別要因で音楽業界の他社を引き離し、「PCではない市場」でシェアを広げ、その基盤を保ったまま、こんどはiPhoneで携帯市場に入り、それがPCともつながって、とうとうiPad+クラウドでPC市場をも制覇できるところまでやってきたわけです。

この一手一手が、実に巧妙だなぁと僕は思います。囲碁の目のつなぎ方とか、そういうのに似てる気がする。単純な正攻法とは全然違うんですけど、でもすべての行動はひとつに集約可能な可能性をつねに残している。自分の努力が最大限の結果につながるように考えていて、で、そこまで考えている人が少ないが故に、ジョブズの先の手を読める人がおらず、(他の業界の事まで考慮してるから、まぁ自分の陣地しか知らない人には読めない。)結果として、一人勝ちになってるわけです。

実にすごいよなあ。

ほかにもいろいろ感心することはあるんですけど、とりあえずはここまでにしときたい。
とにもかくにも、ジョブズがいなくなって、これからのデジタルワールドはどうなってしまうのか不安でありつつ、面白くもあるというところ。

天国でゆっくり休んでくださいませ。ジョブズさま。

最近読んだ本。

2011年9月16日
最近読んだ本。
最近読んだ本。
最近読んだ本。
どれも大変面白かったです。

●日本再占領 ―「消えた統治能力」と「第三の敗戦」―
By 中田 安彦
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4880862797

●経済と国家がわかる 国民の教養 三橋 貴明
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4594064698

●聖書を語る―宗教は震災後の日本を救えるか By 佐藤 優, 中村 うさぎ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4163743405

引越しがまだまだ終わらず、いろいろと忙しいし落ち着かないのですが、それでも読書をやめてはダメなので、コツコツと読んでおりまして、しかし、逆に忙しい時の方が、本当に読みたくて意義深い本を読むのかもしれません。紹介した三冊とも大変「あたり」で、興味深く読めました。

手短に感想など。

●日本再占領
副島隆彦さんのお弟子さん中田安彦さんの著書。ある意味、師匠を超えたとも言える力作ですね。これを読めば、いまの日本の政治に疑問を持っている人でも、疑問が氷解するのではないか?と思います。

日本人が日本の政治を解読するのではなくて、ウィキリークスによって暴露された公電をもとに、いかに日本という国が日米の「官僚事務方同盟」によって汚く操られているかが、具体的な公電という証拠とともに語られていて、それだけでもかなり画期的です。

しかし、それに加えて、日本と欧米の間にある思想の断絶、考え方の違い、発想の根本の違いというところにまで踏み込んで解析されているところが中田安彦さんの面目躍如というところ。

日本の「改革」には、すぐに「明治維新以来」という枕詞がつくけれど、本当は律令制度の頃から官僚支配の構造は変わっていないのであって、維新からの100年程度の改革ではなく、律令制度1300年レベルの改革を考えないといけない、という主張が、あらゆる具体的な事例を証拠にして展開されているのが圧巻。「ああ、そうだよなぁ。」と思うことしきり。

でもなぁ。1300年レベルの改革ってのは、日本の国民、ひとりひとりが、本当にキチンと欧米の一般人並に個人として目覚めないと達成できないですからなぁ。
キチンと勉強もしない、アホが多い日本で、それが可能かどうか、かなり暗い気持ちになります。

●国民の教養
三橋貴明さんの本は、考えてみたら読むのはこれがはじめて。主張などはつねに「まぁ当然の事を言ってるな。」と横目で見ていたのですが。
で、内容は、おなじく、ごくごく普通。当たり前の事しか書いてないし、その意味では退屈でした。

でも、いまの日本では、学問的にまともな事を言おうとすると変人扱いされかねない「情報の歪み」(三橋貴明的表現)がありますから、そこを、ごくごく一般の人にもわかりやすく、数字やグラフを使って「いやいや、だからね。」とわかりやすく解説しているところが親切でよろしい。

アマゾンの解説文が、その「情報の歪み」の修正項目をわかりやすく書いてくれてるので、引用します。

(引用開始)-------------------------------------------------
◆常識を疑わないバカが日本を壊す。
◆今こそ“新しい教養”が必要だ

■「日本は財政破綻する」→しない
■「日本の公務員は多すぎる」→少ない
■「少子化でデフレが止まらない」→逆
■「年金制度は崩壊する」→しない
■「グローバリズムは正しい」→終焉
■「欧州の多文化主義を見習え」→崩壊
■「ナショナリズムは害悪だ」→健全

メディアには誤った言説が溢れています。本書ではそれらの言説に対し、データをもとに徹底的に反論します。

(引用終了)-------------------------------------------------

メディアが、キチンとした基礎データに沿ったまともな意見を書いてくれれば、こんな本は全然必要ないんですけど、マスメディアが根拠なく適当な事を平気で言うようになってしまったので、もう、こういう本を読まないと、議論の入り口からボタンの掛け違いが起きてしまってどうしようもないわけです。

たとえば、「日本は輸出産業が支えているから、円高でクルマなどが売れなくなったら大変だ」とかの意見ね。そりゃ名古屋の豊田地区なら輸出産業が支えてるんでしょうけど、日本のGDPにおいて輸出産業の比率なんて2割くらいだしね。大前提のところで間違った意見を平気で言われてもなぁ。
このあたりは、もう、本当に議論以前やねんけども。

そういう意味で、それこそ書名の通り「国民の教養」そのものでありまして、「せめて、このくらいの知識は、大前提として持っておいてくれよ。」というレベルの話がたくさん載っています。

これからキチンと勉強したいと思っている人には最適の書。
もうすでに、ある程度自分で問題意識を持って調べてきている人には、かなり退屈な本です。
でもまぁ、勉強してなくてマスコミに踊らされている人の方が多いと踏んで、お勧めにしておきます。


●聖書を語る
これが、実に面白い本でした。やっぱり佐藤優はすごいなぁ。博覧強記。小室直樹の後を継ぐのではないか? という感じがする。

で、その佐藤優の博覧強記を上手に解説しながら自分の意見も言う中村うさぎも堂々たる論客であります。彼女もよく勉強してるんやろねぇ。

実は、この二人、二人ともキリスト教徒なんだそうです。それも二人ともにプロテスタント。カルヴァン派とバプテスト派(ピューリタン)なので、ちょっと毛色は違いますけども。

キリスト教に関する、信者側のストレートな意見がわかって、僕的にはとても面白かったのです。宗教について考えるというのは大事よねぇ。ここのところをしっかり勉強せずして、「世界の中の日本」が分かるわけがないのだと思う。
「宗教」に関する基礎知識はやっぱりしっかりと身につけておかないと、これからの世の中をまともに生きていけないと思う。

せめてキリスト教なら「プロテスタントとカソリックの違い」くらいは知っておかないと箸にも棒にもかからないですわね。あんなもん、ほとんど別の宗教でっせ。いやほんま。まぁキリストという教祖と、後のパウロによる教団としてのキリスト教の乖離というのも、かなり大きな差なんでしょうけど。

日本人は「宗教について学ぶ」というと、すぐに「洗脳されてしまう」みたいな恐怖を持ちがちなんですけど、それって僕から見ると、百円ライターをはじめて見た山奥の原住民がライターを「悪魔の道具だ」と毛嫌いしているようにしか見えないんですよね。たかが百円ライターじゃん。って思う。


●そんなもん、怖がってどうすんの? バカじゃないの? バーカ。

って感じなんですけど、そこはさすがに佐藤優さん。この本の中で、宗教について学ぶと言うことに関して

●人生は旅。自分の行く道はひとつだけど、ガイドブックで他の道を見ておくことも良い旅の秘訣だ。

という、実にうまいたとえをしてました。

(引用開始)-----------------------
 ただね、宗教の重要性は、いろんな宗教を勉強することができるところにあるんですよ。ある一つの宗教を勉強したからって、その宗教の信者になる必要はない。自分には自分の宗教があるわけです。旅行にたとえるなら、自分が行くことが出来る道は一つしかないけれども、他のいろんなルートについて考えることは出来る。旅行ガイドブックを読んで、地図を見て、時刻表を調べて、他の人の旅行記を読む。これらの作業が、自分のたった一つの道を知るうえで、とっても重要なんです。
(引用終了)-----------------------

うまいなぁ。
見事だなぁ。
この説明。

なにより、僕みたいにライターを怖がったりしてるバカを、「バーカ」と罵ったりしない。ちゃんとバカにも納得できるように説明してくれてるわけです。

●ライターというのはね、危険な「火」を、誰もが扱えるようにした道具なのだから、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。

と、まさに優しく優しく、諭すように解説してる。だてに名前が「優」になってるわけではないなぁ。すごいなぁ。と思います。

同じこの本のあとがきに、今度は中村うさぎが


●教師が優秀であれば、学ぶことは至上の快感だ。

ということを言っていて、この人も本質をよく分かってるよなぁと思ったんですよ。


(引用開始)-----------------------
 神学は言うに及ばず、哲学、文学、歴史、政治…ありとあらゆることを佐藤優氏は知っている。「拘置所にいる間、本ばかり読んでたからですよ」などと佐藤氏は言うが、刑務所から出た後も、忙しい仕事の合間を縫って大量の本を読んでいる。いつ寝てるんだろうと思うくらい、その知識欲は凄まじいのだ。
 私はとてもじゃないがそんなに大量の本を読めないし、たとえ読んだとしても理解できないに決まっているので、佐藤氏とのおしゃべりによってその知識の一部を分けてもらおうという、このうえなく卑怯でズルい方法を採ることにした(笑)。教師が優秀であれば、学ぶことは至上の快感だ。その点、佐藤氏は最高の教師である。
(引用終了)-----------------------

そうなのですよ。
学ぶなら、最上の教師から学ばないといけない。

僕なんて、この中村うさぎみたいに「良き生徒」の役目もできないわけです。バカに対して「おまえバカ。バーカ。バカバカ。」としか言わないから。

なんでそう言うことしか言わないかと言うと、自分がバカだからですね。
自分が昔「バカなのにバカであることにも気づいてないバカ」だったから、おなじように「自分がバカであることに気づいてないバカ」に対して、どうしても「お前はバカなんだから、そこに気づけよ。」と言うことしかいえなくなっちゃう。

で、自分に知識がないからこそ、この佐藤優さんみたいな「最良の教師」の本を読め! と言うことを言うしかなくなるわけですね。

「教師が優秀であれば、学ぶことは至上の快感」なんですよ。でも、僕は「優秀な教師」ではなくて、「やっと自分がバカであることに気づいただけの出来の悪い生徒」でしかないわけです。

なので、僕に言えることは「バーカ。お前、バカ。」という事実の指摘と、それによる「私はバカなのだ。」という自覚の促し、それに加えて「本を読め」という方法の勧めしかできないというわけなのです。

ちゅうことで、本は読みましょう。私に教える能力はないので。うむ。

いまは、時代の大きな変革期に入っているのだろうなと思います。

それはおそらく日本だけではなくて、世界の流れの中で見ないといけないのでしょう。

リーマンショックの時によくわかりましたが、経済の流れは世界でつながっている。アメリカの金融商品がヨーロッパの市場にも大きな影響を与える。
そして、世界はいまだに不況から立ち直れずにいます。日本も同じ流れの中にいる。大きくはそういう事です。

こういう時は、物事の根本からしっかり考えると言うことが必要でしょう。経済でも化学や科学でも歴史でも、基礎からキチンと考える必要があります。
いたずらに、目の前の出来事に左右されて瞬間的な判断をしても意味がないのではないかと思います。

いまの段階で一番大きな問題はと言えば、やはりアメリカのQE3があるのかないのか?ということではないかと思います。
すでにQE2でも大きな効果はなかった。米経済が失速する可能性はまだまだ強いわけで、かなり注意深く見守らないと、どんな大変なことになるかわかりません。

こういう時は、大きなコンセプトに則って、物事のやり方の根幹から変えていかないとうまく乗り切れないはずなんですが。

でも、そういう事は「前例踏襲」というコンセプトしかない官僚には切り盛りできないんですよね。政治家がキチンと動かなければ。

野田内閣は増税を目指していますが、こんな不況時に増税を言い出すなんて狂気の沙汰です。それよりアメリカの債権を担保にして借金した方がはるかにマシなのに。「不況時には減税」という、経済対策の初歩の初歩、あたりまえの処方箋すら出せていないわけで、本当に大問題です。

でも、日本人は「不況時には減税が基本」という基礎の基礎をキチンと勉強していないので「震災で大変な目にあっている人たちのためにみんなでお金を出し合いましょう」という、実に情緒的で根拠の薄い「復興増税」に納得しかねない。

震災だろうがなんだろうが、「不況時には減税」が当たり前なのであって、こんな時に増税なんかしたら、助ける側のまともな生活者が困窮して、共倒れになってしまうのなんて目に見えている。

民主党も、9月の中旬に党員資格停止処分になっていた田中真紀子をはじめ小沢派議員が復帰する前に、あわてて代表選を行って、野田内閣に看板のかけかえをしましたが、そういう茶番劇なんかをやっている場合じゃないんですがね。小沢派で党員資格停止処分になっている議員がどれだけ多いか。そういう「聞く耳持たない」やり方で、物事がうまく行くはずがないのです。

「人の話は聞く」
これも基本の基本でしょう。

でも「話の合わない奴らが戻ってくる前に代表選をやって、トップをわしらが握ってなんとかせねば」とかやってる。実に小手先。実にくだらない。

変革期であるからこそ、こういう「小手先」が跳梁跋扈してしまうのだと思います。根幹から変革する必要があるときは、基礎の基礎から勉強をしなおすという態度が、どうしても必要なはずです。

でも、そういう「基礎からキチンと勉強をしなおそう」という態度は、変革期の緊急性が高まっているときこそ無視されがちなんですね。

日本人の多くも、いまは基礎からキチンとコツコツ勉強し直すことこそが必要なのに、どうにも「小手先」の話ばかりに終始している気がします。

日本の歴史はどのようなものか。科学の基礎知識は充分に持っているのか? 基礎データの数値はしっかりと確かめたのか? 欧米の政治思想の流れは把握できているのか? 宗教と社会についてしっかりと理解しているのか? 経済学の基本や大きな流れは理解できているか?

そういう総合的な判断力と理解力なしに、この変革期に正しい選択はできないのではないでしょうか。

で、そういう事をコツコツと学んでいくと、そういう総合的な勉強を積み重ねている人と、積み重ねていない人が一発でわかるようになってきます。

やっぱり勉強していない人は話をしていても、ちーとも面白くないし納得もできないわけです。視野が狭い意見は「はぁ、そうですか。」と言って無視してるしかないわけです。結局そういう意見は「小手先」ですから。現民主党の執行部と同じような、どうでもいい判断しかできなくなる。

ここは、ひとりでも多くの日本人が、キチンと勉強して、総合的な判断力を高めるしかないんだと思います。

そのためには「まだまだ勉強不足だな」という謙虚な気持ちを持って、身の回りの人の意見を真摯に聞き回る必要があると思います。

総合的な知識というのは「現場の知恵」も含めて知識ですから、すべての人が先生です。
で、現場でコツコツと学びを積み重ねている人は、結果としてワールドワイドな世界普遍価値に近づいていくと思うのです。そういう実例は多いです。

とにかくひとりでも多くの日本人が、コツコツと勉強を繰り返すこと。そして自分より物事をよく知っている人、深く考えている人の話を良く聞いて、それを判断材料にしていくこと。それが、この国を救う、とても大事な背骨になるのではないか?と僕は思います。

勉強しましょう。何事も。

あなたを天才にするスマートノート:岡田 斗司夫
●自分自身を「検証」もできない人に、何事を成すこともできないのである。

あなたを天才にするスマートノート:岡田 斗司夫
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4163735704

権之助さんとこの日記で、ちょっと話題にしたので、ここでもキチンと紹介しておこうと思いました。岡田斗司夫の「スマートノート」。

手帳術に関しては、昔々のシステムダイアリーから、いろいろやってきたわけですが、最近はずっと「手帳に予定を書くくらいなら、行動記録をつけた方がはるかにマシ」と思うようになってきていて、結果として手帳は「行動記録台帳」になってしまってます。

いまや予定を手帳に書くという行為自体がほとんどないんですよねぇ。予定そのものはポストイットとかiPhoneのメモとかに書いておくだけ。どうせいつ予定が変わるかわからないし。手帳に書いても、まずシャープペンで書いておくだけです。

でも、行動記録はボールペンでしっかりと手帳に記録を残すんですね。あとで振り返るのに役立つので。仕事の請求にもつながりますから。手間がかかった仕事はやっぱりたくさん請求しないと話にならないですし。

で、そういう「行動記録」としてのノート活用ということを、実に上手に発想やアイディア展開にまでつなげた「ノート術」として提供してくれているのが、この「スマートノート」です。

基本はB5のノートを使うのですが、まぁそれは好みでしょう。A5とかでもやってやれなくはないと思う。
とにかく最初は一日に自分のしたことを5個書くだけ。それしかやらない。

で、それができるようになったら、今度はその5個に点数をつける。楽しかったら5点。嫌だったなぁと思ったら1点とか、そんな感じです。

その次のステップとかもいろいろ紹介されてるんですけど、とりあえず僕は、この最初の「自分が今日やった事を5つだけ記録する」という入り口のやり方を高く評価したいのですね。

なんというか、人間は、自分自身のありのままの姿を把握すると言うことが、難しいんですね。そこがなかなかできない。

で、逆に言えば、そこのところさえ把握できれば、「対処法」なんていうのは、いくらでも考えつくことができるし、考えついたら行動することもできるわけです。

ところが、自分の欠点とかダメなところとかは、いくら周りから指摘されても、自分で気づいてないと修正のしようがないわけです。

まわりからは、「もうちょっと勉強すればいいのに」と思われているのに、当人は「私は××というルールを破ってしまっていて、それがまずいのだ。」とか、自分勝手に、何かを反省したふりだけして、それで納得してるとか、そういうすれ違いが起きてしまう。

でも、実際に自分がやっていることを記帳するようにすると、何をしたら楽しいかとか、うまくいくかとか、わかってくるので、自然と良い方向に、自動的に進んでいくわけです。

人間、失敗するときというのは、実は同じ失敗を繰り返していたりするわけですよ。同じ事で叱られるとか、してませんか? みなさん。

でも、その「同じ失敗が何故起きるのか?」というのは、実は自分では、なかなか気づけないんです。

でも、行動記録を書くと、そのあたりが自然と、いつのまにか修正されていくんですね。

味見をしないコックは、いくらがんばってもおいしい料理を作ることはできないわけでして、自分の行動記録というのは、料理における味見と一緒なんです。

なので、まずは行動記録が手帳の基本。

ということで、この本をお薦めしておきます。
はい。


同じマンションの3階から1階への引っ越しなので、たいしたことはないのですが、どうにも仕事がいっぱいに詰まっていて、読書もできないのが辛いです。

今月は多分読書は2冊が限度だろうなぁと。

で、いま読んでるのが中田安彦さんの「日本再占領」。

これがすごく面白い。久々の傑作だなぁ。いや、まだ途中までしか読んでないので結論は下せませんが、かなり良いです。

ウィキリークスが出てきたことで、政治や社会、報道などに関する基本的立ち位置のようなものが、全メディアで変わらざるを得ないと思うのですが、そういう新しい視点に立った上で、日本の1300年の歴史を「考え方」の上で総点検している本というようなところ。

この「考え方の総点検」みたいなところが、とてもスケールの大きいアプローチなので面白いんですよねぇ。

また改めて書評は書きたいと思いますが、この本はかなりのお薦めになると思う。

しかし、「本を読む」という、ただそれだけのことが、そう簡単にはできないんですよねぇ。今年はいろいろなことがあって、かなり読書量が減っております。やばいです。

で、読書量が減ってしまって思うのは、「知らないことを知るには時間がかかる」ということでして、自分のよく知らない分野の本を読むと、かなり時間がかかるんですよね。基礎知識が足りてないから、スッと頭に入ってこないわけです。

比較的、よく知った内容なら、復習みたいなもんですからサッサと頭に入るのですが、全然知らなかった知見だと、理解するだけでも時間がかかります。

いま日本の多くの人は、ほとんど本を読んでないですから、いまから読書習慣を持ちなさいと言っても、なかなか難しいのかも知れません。

でも結局、世の中の大事なところを決めるのは「読書人階級」なんだと思います。

別に何かすごい事をしてるわけではないんですけど、それでも「世界標準の常識」があるかないかは、ものすごく重要で、それはやっぱり、「うちのパソコンはメモリが500ギガあって」とかメモリとHDを間違えているような人の意見が、少なくともパソコン関連の世界では通用しないように、「解る人には解る」という「常識の海」というものがありまして、「解る人同士」では、別に仲が良かろうが悪かろうが、そう言うこととは関係なく「ま、確かにそうだわな。」と意志が通じてしまうというのはあるわけです。

だから、「わけのわからん事を言ってる奴」は、単にスルーされるだけということですね。

みんな忙しいしさぁ。
本ももっと読まないと追いつかないし、自分の知らないジャンルの本は読むだけでも一苦労だしね。

何も知らないのに好き勝手言ってる人の相手なんか、そりゃまぁしてられないわね。


だからもう、相手にしないことにしたんだ。わけのわかってない人は。
自分で勉強してね。

ま、そう言うことだと思います。

政治とか社会学とか法律とか。
そのあたりの知識に関して不勉強な人がいて、「そりゃ間違ってるよ」と言うと、間違いを指摘された事自体に腹を立てたのか、思いつくままのテキトーな事を言い散らかしたりするわけです。

が。

それに関して、いくら「間違ってるよ」という話をしても全然通じないんですね。あまりにレベルが低いから。

どうしたもんかなぁ、と思ってたんですが、パソコンにたとえたらわかりやすいかも知れないと思ったわけです。

パソコンに関して知識のない人だと、「うちのパソコンは、けっこう高性能らしいよ。なんせメモリが500ギガとか言ってたから」とか言ったりするじゃないですか。ね?

当人はわかってるつもりなんですが、完全に間違いだし、けっこう恥ずかしいですよね。

まぁ、HDとメモリの違い、外部記憶装置と内部メモリの差がわかってないというのは、ものすごーーーく一般的な「パソコン初心者のありがちなミス」だから、普通は「ほっとけ、ほっとけ」とわざわざ解説して教えたりしませんわね。

●自分で勉強しなさい。

の世界ですわ。

このあたりの事は、あらゆる分野に存在していて、たとえば法律で言えば、刑法と民法は対象自体が全然別ですので、この違いが分かっていないというのは、まぁかなりの不勉強なわけですわね。

「警察は民事不介入だしねぇ。」

くらいの事は、まぁちゃんとした大人なら普通に言う事ですから。

僕なんかは印刷物を作っているので、冊子物の印刷物を作るなら、一般的には中とじというやり方でやることが普通なので、ページ数は4ページ、8ページ、12ページ、16ページと4の倍数で考えるのが「当たり前」と考えていて、そこのところを考えなく「2ページ減らして10ページにしたらどうでしょう?」とか言う担当者がいたら、やはりそこは「ああ、この人は素人さんなんだなぁ。」と、ほっておくしかないわけです。まぁいちいち説明とかしませんわな。

実際には優しい先輩がいて「いやいや、印刷物は4ページ単位でしかページを増やされへんのよ。だからそれは無理。」とか言ってた実例は見てますけどね。で、あまりの不勉強で可哀想だったので、こちらとしてはフォローしてあげるつもりで「まぁ、片観音と言って、2ページ分外に飛び出すようなやり方はありますよ。」とかはプロとして教えてあげましたけども。

で、この「優しく教える」というのが、これがかなり難しいわけですよ。

なんでかというと、「何がわかっていないのかが解らないから」というのがあります。

パソコンなんかで言うと、各種のマニュアル本を読んでいても、はじめのうちはすべてがちんぷんかんぷんなわけです。何もわからない。何が解らないのか解らないというくらいにわからない。

そう言うときに、よくマニュアル本のわかりにくさに憤慨して「もっとわかりやすくは書けないのか!」と怒り出す人がいて、で、実際そういう人が、そういうエッセイを書いていた事があったわけです。「なんでパソコンのマニュアルは、あんなにわかりにくいのか」とか文句を言うわけですね。

ところが、その同じ人が、パソコンを触って、実際に学習して、半年くらいたって、同じマニュアルを読み返してみたら「実にていねいに、初心者にわかりやすく書いてくれている」という事がわかった、というのですよ。

つまり「わかりやすく書いてくれている」と言うこと自体が、あまりに知識が不足していると全然わからないわけです。

そのくらい「わからな状況」と「わかっている状況」というのは別世界ですから、それを簡単に説明などできないし、そう言うときに言える事は、

●勉強しろ。

だけなんですよね。

このあたり、同年の友人がいて、よくパソコンの事を「教えてくれ」と聞いてきてたので、いろいろ教えていたのですが、それが数年たって、今度はその彼が、知り合いにパソコンを教える事になって、「まぁ、初心者レベルの事なら僕でもわかるから」と教えに行ったら、そのあまりの初心者のレベルの低さに「こら、教えるだけでもものすごい手間やと、ようわかったわ。あの子も僕レベルになるまでにやっぱり半年とか一年とか最低でもかかるわと思った。ようよう考えたら、僕もそのくらい七転八倒しながら勉強したんやわと、人に教えてみて、はじめてわかったわ。シゲ君、よう丁寧に教えてくれたなぁ。」という感想を言ってた事があって、まさにそのとおりと思うわけです。


だから、わかってない人は、ちょっとは自分が「わかってない」のだと自覚して「自ら学ぶ」ということを、キチンとして欲しいなぁとひたすら思うわけです。
教えようったって、基礎の基礎ができてない人間に何を教えていいやら、それこそ虚空を掴むような話なわけですから。

なので、

●君は間違ってるし、レベルが低いよ。
とか、
●勉強しなさい。

ぐらいしか言いようがないわけなんですけど、それを逆恨みして、

●俺をバカにしやがって。

とか思うアホが、これまた多いわけです。

違うがな。わざわざ、教えてあげてるんやがな。「あんた、勉強せんとアカンよ。そのくらいレベル低いから。」と。

でも、「素人向けにこんせつていねいに書かれたマニュアル」すら、よく分からない素人こそが「マニュアルの出来が悪い」と、自分の不勉強を棚に上げて文句を言うわけですから、このあたり、もうどうしようもないのかなぁと、あきれるばかりなのであります。

やれやれ。

とーとつに思うのですが、よくわからないことに囲まれていると、とても不快です。

なので、「いったい、何故、このような事になるのだろうか?」と疑問が湧いてきまして、自分なりにいろいろ調べます。

調べてみても、右と左で意見の違う事とか、正反対の事を言ってる人がいたりします。

まぁ、そこであきらめるのも手なのでしょうけど、ちょっと頑張って、これまたちょっと腰を据えて本を読んだり、いろいろな人に話を聞いたりして、ていねいに「異なる意見」のすり合わせをするようにすると、ある時、

「ああ! そうだったのか!」

ととても納得のいく答えが見つかったりします。

「なるほど!」

と合点がいくというか。

そこまで行くと、なかなかに快適なんですね。気持ちがいい。

だから「知ることは、快適なことだ。」という気持ちというか経験則が僕にはあるわけです。

で、この過程を総称して、僕は「勉強」と呼んでる訳です。

●疑問→●答えA→●答えAの反論としての答えB→●両者統合の答えC

という感じでしょうか。
当然、世の中には、Aの答えで満足している人もいてるし、僕もいろいろ調べる過程ではAの段階であったりBの段階で止まっていたり、いろいろするわけですが、それはそれとして、「統合回答としてのC」というのもあるのだ、ということは、経験則としてある程度は日々期待してるわけです。

当然、AとBの二つの側面からつねに討論しているだけで、まったくCの答えのない事柄というのもありますが、いまの世の中、物事を真剣に考えている人はかなり数多くいて、なおかつインターネットなども発達しているので、意外にCにたどり着く率が高い事柄も多いわけです。

なので、僕はおおむね「勉強は快」なのですよね。
いずれ「なるほど!」にたどり着く。
そういう期待がつねにある。

なので、いろいろ調べてみたりもするし、読書もコツコツ続けるようになるし、「確かめてみよう」とか「現場の人に聞いてみよう」とか思う事も多いわけです。

それはとどのつまりは、

「なるほど! と思える快感」に支えられているわけです。

こんなもの、快感でなかったら、続けられませんよね。

でも、世の中には勉強しない人、というのがいます。全然勉強しない人。それは多分、この「なるほど!」に到達した回数が少ない人なんだろうな、と思うのです。

で、そういう人が勉強するには、たとえば読書の習慣を持つとか、ある程度の「積み重ね」の時間がどうしても必要なんですね。
少なくとも、「前からよく分からなくて、気持ち悪いよな」と思っていたことが、自分の知らない角度から見たら「あああ、そういう事だったのか!」と一気に理解できて視野がグンと広がるとか、そういう体験をしないと「続ける事の意義」が分からないので、続けられないわけです。

で。

そういう「なるほど!」という体験をしてない人にも、僕はついつい「勉強しなさい」と言ってしまうのですが、どうにも、そういう人は「勉強しなさい」と言われると「苦役」と感じてしまうようなのですね。

そりゃもちろん、上記における、AからBを知った地点あたりは、本当に「よくわからない」状態になるわけですよ。
何も考えていない状態なら、すっきりしてるわけです。矛盾はない。

それから、「誰かに与えられる答え」であるAを得たときも、「そういうものなのか」という安心感はあるから、まぁすっきりしてる。

でも、AもBも知った後だと、何かとイライラするし、「よくわからない」という答えを言うしかない状態にはなってしまうんですよね。
でも、その「よくわからない」という状態を耐えて、コツコツ勉強していくスタンスを続けていくと、やっぱり「あ、そうだったのか!」と快感が得られるところまで到達できる可能性は、実はかなり高いんですよね。

とりあえず、そこまでは至って欲しいなぁとつくづく思うのであります。

そういう快感というのは、ちょっと分厚めの書籍をじっくり読むとか、あるいは専門分野に詳しい人に1時間くらいじっくりお話を聞くとかの「腰を据える態度」がないと、なかなか得られないものなんですけど、「よーわからんなぁ、わからんというのは気持ち悪いなぁ」という思いさえ、キチンと抱え込む事が出来れば、まぁなんとかたどりつける所だと思うのです。

逆によろしくないのは、AとBの両方があることを知って「どっちもどっちだ」などと勝手に判断して、学習を止めてしまうことなんですね。
そういう事をすると、永遠に「統合された答えC」にはたどりつけなくなってしまう。

この「AもBもどっちもどっちだ」という考え方の事を、「価値相対主義」と言いまして、物事をキチンと考える習慣のある人たちからは忌むべき考え方として、戒められております。

「価値相対主義」などと、固い言葉で書くからかっこいいことのように見えますけど、「よおーわからんから、考えるのをやめますわ主義」と書き直せば、いかにダメな考え方かがわかります。

楽器を演奏する人ならわかりますけど、練習しなけりゃ、まともに曲なんか弾けないですからね。「練習さぼりたい」しか言わない人がうまくなるわけないのであって、そういう人とバンドを組みたいとは思わないですわね。

人生というのは、誰と過ごすにしても、バンドのように協力体制を整えながら進んでいくものなのですから、最低限、自分のパートの「練習」くらいは、日々やっておかないと「協力する」という、人間としてとても有用な手段をひとつ失うことになるんですね。はっきり言って、いろんな事の練習をしてない人とは、何を楽しむこともできないのです。

それは、定年退職したおじさん達を見ていれば分かることです。

「定年になったら、あれをする、これをする。」と言っていても、退職前からちょっと趣味にも手を出して、基礎的な「練習」をしていないと、退職後に長時間「練習する」根気自体が続かなかったりするのです。

定年後も楽しく暮らしている人はとどのつまり、定年前からちゃんと自分の趣味をもって、細々とでも「練習」している人です。
定年後に「悠々自適」をやっている人は、その「練習」を、うんと前から始めているのですね。

だからこそ。

僕は、身の回りの人間に「勉強しなさい」と言います。
そんなもの、一朝一夕に身に付くものではないのです。

まず自分の生活を振り返って、「なんだかよくわからなくて不安だな」というような事とか、「知識がないからよく分からないや。」というようなテーマについて、まず無理せず「××入門」というようなところからはじめて、それから少しずつ、そのジャンルの特定分野の解説書などを読んで、自分でもいろいろ試してみて、それから名著と呼ばれるようなものにチャレンジする、とかするのが、手間なようですけれども、いちばんの近道なのです。

そして、勉強する、ということは、自分の無知を解消する「快感」を求める事なのです。
楽しいことなのです。
気持ちいいことなのです。
ウキウキすることなのです。

ウキウキすることなのだから、僕は命令してでも「勉強しなさい」と言うのですが、これが基礎的な「積み重ねる慣習」のない人には、かなり強権的な命令に聞こえるのですよね。

身体が汚れていたら風呂に入れ!と言いたくなるし、腹を減らしていていらついていたら飯を食え!と命令したくなります。

それは、その人に「快適になって欲しいから」こそなんですが、このあたりが、「コツコツと積み重ねてAとBの矛盾に耐え、Cにまでたどり着いたことのない人」には、すごく権威的に聞こえるのですよね。

そういう人の多くが、それはもう、なんというか、


●自分の快感に鈍感


なんですよ。

●疑問を解消すれば快適になる

ということを、キチンとやっていないものだから、「ゆるいストレスをかかえて生きていくこと」が当たり前だと思っているわけです。


いやー、それは違うよ。
人生はもっと快適だよ。
ちゃんと努力すれば、少なくとも努力した分くらいは快適になるよ。
と、僕は思う。

そりゃまぁ、長くコツコツやって、どのくらい快適に慣れるかと言えば、ほんのわずかでしかないんですけどね。

でも、そういう「わずかな快適」すらなかったら、それこそ人生がたのしくなくなっちゃうよなぁ。

だから、コツコツ勉強しよう。

本を読もう。

自分の疑問に敏感になろう。

その疑問の解消に精一杯努力しよう。

別に急がなくてもいいのだ。

日々、コツコツ続けていれば、いずれAもBもを越えたCにはたどりつけるものなのだから。そのたどり着ける率は、それほど低くはないと、私は思うのでありますよ。

はい。

先日、NEWSWEEK日本語版で「原発はいらない」という特集を組んでいたので、買って読んでみました。
購入した理由は、これだけの「脱原発特集」なのに、「それでも日本に原発は必要だ」という原発推進派の意見が載っていたからです。ここまでの特集に賛成意見を言うなら、さぞや説得力のある意見を言っているのだろうと思って買ったわけです。

で、その「原発推進すべし」という意見内容については、後述するとして、特集内容も興味があったので、つらつら読んでいたら、僕が思ってた以上に世界が「脱原発」に動いているという感じを持ちました。

おそらく、原発ビジネスというもの自体が、少なくとも日本ではもう成立しないだろうし、世界でも、新興国(中国やBRISK)以外の先進国ではもう軍事力の保管技術としての意味しか持ち得なくなるんではないでしょうか。

「フクシマ」という日本発の事故によって、「世界」という大きな流れが「脱原発」に動く事は間違いないと思われます。(これは日本発だからこそ、そうなるのです。これも後述。)

まず、以下、上記の特集記事から、先進国の脱原発の流れを見てみます。

●ドイツ・スイス
ドイツはすでに2022年までに原発すべて(点検停止のものを含めて全17基)をすべて廃止すると決めましたが、あの世界の中立国家であり(中立を守るには原発は効果的と思う)、電力の40%を原発に頼っているスイスまでが、2034年までに原発全閉鎖に踏み切ったようです。

「日本国内での、ぐちゃぐちゃした原発問題こそが重要であって、世界の動向とは別に、日本は日本人として脱原発を言わないといけない。世界の動向に流されてはダメだ。」という思いがあっただけに、海外動向はあまりマークしていなかったのですが、このあたりがかなり意外でした。

●イタリア・アメリカ
イタリアも、1987年の国民投票の結果、停止中だった原発の運転再開を狙っていたらしいのですが、それは早々に断念。アメリカでは、こっちはちょっと理由が違うのですが、国内で低コストの天然ガス(シェールオイルやシェールガスの事でしょう)が見つかったために、「経済面」での原発のメリットが完全に説得力を失い、建設コストの面から推進が暗礁に乗り上げているのだそうです。

●フランス
しかし、そういう事よりびっくりしたのは、フランスです。

フランスは電力の75%を原子力に頼り、ヨーロッパ各国に売電することで利益をあげている国ですが、そのフランスでも社会党が脱原発を掲げる緑の党との共闘を模索するという動きがあって、国内でのかなりの動揺が見られると言うのです。

なんだ? これは?というのが正直な僕の実感でした。
原発のエネルギー量は同量の石油の7万倍、同量の石炭の10万倍といいますから、そうそう大国が手放すことはないと思ってたんですね。特に地震や津波がない国なら、原発を手放すという選択は、かなりもったいないという話になるはずだと思っていました。
実際、スイスのアルプス地方や北イタリアの平原を、地震や津波が襲う可能性はほとんどゼロに近いそうですから。

なのに、「原発反対」の空気は止まらないものになっているようで。

どうも、世界の流れ、それも、一般庶民の感情が大きく大きくどよめくように「原発はダメだ。」と言ってる感じがするわけですね。理屈じゃない。直感と感情と、その他モロモロのもっと大きなところでの信頼がゆらいだ、という感じがあるわけです。

で、「それっていったい何よ?」と考えたら、行き着くところは、



●フクシマは、先進国・技術大国のニッポンで起きた事故



だったから、というところが、相当に大きいのだろうな、ということを直感したわけです。

日本人は、ごく当たり前のように、日々工場生産とか効率的な生産ライン運営とかをしてるから、それほどすごい事だとは思っていないわけですが、日本の工業生産品というのは、それこそ、とんでもなく「世界一」なんですよね。ズバ抜けている。そういうイメージと信頼がものすごく大きい。それは日本人が思っている以上なんですね。

それが気になったので、僕は「確か、日本人の製品の精度の高さをネタにしたジョークとかけっこうあったよなぁ」と思って、「世界の日本人ジョーク集」というのを、ちょっと買って読んでみたのです。

そしたら、あること、あること。ものすごくたくさん「技術と製品」に関する日本人ジョークがある。

たとえば。

●猫による密閉テスト
日本とロシアの技術者がクルマの密閉性について話し合っていた。
日本人「我が国では猫を使って密閉性を調べます。猫をクルマに閉じこめて、一晩たって窒息死していたら、密閉性は十分だと考えます。」
ロシア「我が国でも猫をクルマに閉じこめます。一晩たって、猫が逃げていなければ、密閉性は十分だと考えます。」

●不良品
ある国が日本とロシアに部品を発注した。
「不良品は1000個に1個とする。」という精度要件の発注。
ロシア「それはとても高精度な仕事で、とても困難だ。期日の延長をお願いしたい。」
日本「期日に向けて作業は順調に進んでいます。ただ、不良品の図面が届いておりません。早急に送付願います。」

●死刑執行
ギロチン台送りになったユダヤ人牧師、アメリカ人弁護士、日本人技術者。全員、仰向けで断頭されるか、うつぶせでするかを選択できる。
ユダヤ人牧師「神を見上げたいので、仰向けで。」と選ぶ。
死刑執行人がレバーを引くと、ギロチンの歯はのど元で止まってしまった。
「おお、神の思し召しだ」と喜ぶ牧師。執行人も「奇蹟だ!」と驚き、牧師の死刑は中止になる。次にアメリカ人弁護士がギロチン台に載る。
「先例を変えることはできないから仰向けで。」と言い、レバーが押される。が、またまたのど元で歯はストップ。弁護士も死刑中止になった。次は日本人技術者。
「仰向けにしてくれ。メカが見たい。」
執行人がレバーをおろそうとしたとき、
「ちょっと待ってくれ、どこに問題があるかわかったぞ!」と叫び、いったん死刑を中断し、ギロチン台を手早く修理した。執行人は、
「おお、そうかい。ありがとよ。」と日本人に例を言って、無事、日本人の死刑は執行された。

などなどなど。
こういう「日本人の作るものは完全だ」とか「精度が高い」とか、そういうネタが、もう、ごちゃまんとあるんですね。

だから、「日本のフクシマで原発事故が起きた」と言うことは、世界中の人たちに、「原子力というものは、あの日本人ですら制御できなかった、とんでもなく危ないエネルギーなのだ」という、大変な精神的ショックを与えた可能性が、かなり高いのだろうな、と予測できるわけです。

日本製品の精度の高さがジョークになっている、というのは、実はそう簡単な話ではないのですね。ジョークというのは、より多くの人の体験がベースになっていて、「笑えるかどうか」の検証を繰り返し重ねていないと生き残っていかないからなんです。

つまり、日本人が作る製品の精度は、日本人が思っているよりはるかに、高い信頼を世界中から得ている、ということなんです。

それも、単に専門家が知っているというレベルの話ではなくて、一般の人、庶民がそう思っている、ということなんです。つまり、

●世界の政治において「日本の原発事故」は、とてつもないインパクトを持っている。

ということです。半端ではない。
それこそ、想像以上の流言飛語が飛び交っている可能性があります。

「あの日本人でも天災による事故は、コントロール不能だったんだ。たかが我々の国の原発技術で大丈夫なのか?」

という心配の仕方ですね。

フクシマの事故は、1号機がGE製でしたし、もともと昨年の春に廃炉にすべきだったものを延長して使っていたという人災の面も、かなり大きいですから、いちがいに「日本の技術が天災に負けた」とは言えないわけですが、世界の人はそうは思わないわけです。「あの日本の技術陣でも、天災には勝てなかったんだ。我々の技術レベルではとうてい無理だろう。」というイメージなわけです。まぁ、大衆レベルですから、あくまでイメージなんでしょうが。

で、これが単なる「イメージ」だけであるなら、ここまで大衆を突き動かしたりはしないのだと思うのですが、実はやはり日本人は、世界で「日本人の技術は信頼できる」という「実績」を、ジョークの数と同じくらいに、これまた、ものすごく残しているんですね。

これは少し前に読んだ「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」で知ったエピソードなのですが、旧ソ連の共和国、ウズベキスタンのナヴォイ劇場建設の話が、とても印象的でした。

ナヴォイ劇場はシベリアに抑留された日本人が中央アジアまで連行され、強制労働で作らされた劇場なのですが、建設にあたった500人中60人が事故などで亡くなったという、かなり過酷な環境だったと言われています。

ところが、この労働者の中には技術者や工兵も多く、これだけのひどい仕打ちにもかかわらず、高いプライドを持って真面目で丁寧な仕事をして、現地の人たちを感心させたというのです。

しかも! このナヴォイ劇場があるタシュケントを震源とする大地震が劇場建設18年後である、1966年4月に起きたのですが、見渡す限りがれきの山の中で、このナヴォイ劇場が凜として存在していたというのです。

このほかにも八田与一による台湾の烏頭山ダム建設の話とか、かなりたくさんの「日本人技術者が世界でスゴイ仕事をした」という話が残っていて、それを何世代も語り継いでいる人がいて、「日本人のようになりなさい」と親に言い聞かされて育った人も多いのだそうです。

だから!

そういう意味で、フクシマの原発事故が世界に与えた影響は、半端ではなかった、ということなんですね。

だから、おそらく、原発推進というのは、世界規模でかなりの抵抗と困難が待ち受けていると考えられます。

僕自身は「よその国はいざ知らず、日本は平野部が少なく、地震も津波も多い土地柄なのだから、原発は向かない」という事しか考えておりませんでしたが、それ以前に世界的規模で「脱原発のうねり」が起きてきて、それはチェエルノブイリやスリーマイルの比ではない、と言うことを、もっと考えねばならないと言う事なんでしょうね。

逆に言えば、もうおそらく、「命にかかわる致命的事故」を起こした東京電力は、もう多分、昔の雪印乳業のように、ブランド力自身がなくなってしまって、会社として存続できなくなる可能性の方が高い、という事なんでしょう。

すでに、3月の下旬に入るかどうかの段階で、元原子炉設計者でもある大前研一氏が「東電は雪印のようになる」という予想を出しておられましたが、原発が、一般人からどれだけ恐れられているのかを、実感として分かっている大前氏としては、冷静な判断として「そうなるしか道はない」と思ったということなのでしょう。

(大前氏の言外のニュアンスには「最新の技術としては、それほど危険はないと私は感じているのだが、それでも世間が原発を許さないだろう」という雰囲気がありありでした。やはり原子力を推進する側にいたこともある人だから、多少の「もったいないなぁ」という気持ちはあるんでしょうね。それでも、評論家として食ってる立場上、冷徹に時代の変化を捉えるしかないという事なんでしょう。)

原発推進の気持ちが多少はある(ように見受けられる)大前氏でも「もうだめだよなぁ」と言ってるわけですから、日本で原発を良しとする人は、かなりの説得力を持った論を立てねばならないはずです。

単に「安全だ」とか「危険は限定的だ」とか、その程度の話では、箸にも棒にもひっかからないわけです。もっともっと「なるほど!」と思わせる「原発肯定論」を説かなければならない。

ところが!

ここで、最初のNEWSWEEKの原発推進派の意見に戻りますが、推進派の言う「原発は必要だ」と主張している諸葛宗男氏(東京大学公共政策大学院特認教授、日本原子力額会社環境部会長)といういう人の原発を続けるべきだ、という根拠が、なんというか実にノータリンの馬鹿意見なので、「あー、やれやれ」と感じたので紹介しておきます。要点を整理すると、

●原子力は「量」と「価格」が他のエネルギーと比べて有利だ。
●日本には資源がないから原子力推進すべき
●ウランはオーストリア・カナダなど政治的な安定国供給だから安心
●原油価格は上昇傾向。オイルシェールやオイルサンドも高い
●原子力発電所はコンパクト。太陽光では面積がたくさん要りすぎる。日本は国土が狭い。
●温室効果ガスを出さない。

という6点。
しかし、これら6点はすべて、箸にも棒にもかからない愚論ですわね。

まず価格は、事故をすでに起こしてしまって、その保証金の額まで入れれば決して安いとは言えないし、今後は安全対策も従来以上に強固にするしかないから建設費用そのものがバカ高くなりますから、競争力は失います。
「石油の7万倍」という「量」の問題だって、太陽光や地熱、風力の持つ「無限性」には、勝てるはずがありません。
原料の安定供給というけれど、自然エネルギーの安定供給度は「政治的安定」より、もっと絶対的ですわね。太陽が壊れるとか風が吹かないという事は、まぁ考えられない。
原油価格の上昇は、一時的なもので、産出技術が生まれたということは「大量の資源が見つかった」というのと同等の出来事ですから需要と供給の関係を見れば、長期的には価格下落傾向にならざるを得ません。
面積の問題は、実に馬鹿馬鹿しい話ですが、海外なら土地があるので平地にメガソーラーを建てるような「土地の無駄使い」的な方法を平気で採ってますが、日本なら、ビルの各階の南側部分に太陽電池パネルを置くような「メガビルソーラー」にすれば良いというだけの話でしょ? 何を単純バカな事を言ってるのだ、と思う。パァか、こいつは。
もちろんビル型ソーラー発電所の北側には「日陰の土地」はできますけど、いくらでも有効活用はできますがな。風車だって建てられるし、風車の根本にオーランチオキトリウム(有機廃棄物石油を生み出す藻。光合成は必要としないので太陽光不要で炭化水素を作れます。)の培養タンクを置いても良いわけです。ものすごく面積効率は良いですよ。

面積効率という面で言えば、「半径20km圏内立ち入り禁止」となってしまった原発は、圧倒的に効率が悪いのです。現実、そういう問題が起きてしまっているのに面積効率をいまさら持ち出してくる、このバカさ加減。こいつは本当のバカと言いたい。ようもまぁ、そんな事が言えるわ。信じられん。

それから最後の「温室効果ガス」。
これがねぇ。

だいたいどうも「温室効果ガスによる地球温暖化説」自体が、もともと原発推進派が作り出したデマという可能性がかなり高いわけですよ。「不都合な真実」で一気に一般化しましたが、あの映画に出演していたアル・ゴアを応援している団体に原発関係者が多いわけですし。
なにより「クライメートゲイト事件」が示すように、データのねつ造、および、そのデータの「解釈の違い」によっては、本当に「地球温暖化説」が正しいのかどうかすらわからないので、(事実、「地球寒冷化説」もどんどん登場しています。) 「CO2が地球温暖化の原因であり、それを防ぐために原発が必要だ」という論は、もともと説得力がかなり低いと僕は思ってます。(ただし、政治的・金融的には、すでに仮説が一人歩きしているので、それなりの影響力はあると思いますから、それを無視することもできないとは思いますが。エネルギーにとって政治は重要ですから。)

でもまぁ、おおむね、いまやもう、原発推進派の「推進すべき」という意見は力を持たなくなったように思います。(なにより日本は地震が多く、平地の少ない国なんですから、事故が起きたときに平野部を失うような、技術をいつまでも使うわけにはいかないですし。)

で、なにより世界最強の技術者の国、「日本」が起こした「フクシマ」の影響は、世界の一般庶民という、ものすごく大きく、幅広い層に「原発のコントロールは神業だ」というイメージを植え付けたのに等しいのだろうと考えられます。

つまり、

●原発は日本人でも制御できない、とんでもないジャジャ馬技術

に成り下がった、ということですね。
少なくとも「世界の一般大衆」というレベルでは。

これは「政治的」には、ものすごく大きな意味を持つのだ、ということは、考えておいても良いのではないでしょうか。

もう、世界の流れは、変わらざるを得ない。
その潮流の大きさを、実は日本人が一番分かっていない、と言うことなのではないかなぁ?
と言うことを、最近僕は感じております。

原発は古い技術だからダメだ。
と書いたのは、技術の事は技術の側面から否定しないと意味がないからです。
「コワイコワイ」ばかり言っていても、結局恐怖感は人それぞれだから説得力を持ちません。
やはり当たり前の基本や本道というのがとても大切なのだと、いま、あらためて思います。

それを考えると、首相になった途端の参議院選で大敗し、それから地方選でことごとく負け、この春の地方統一選でもボロ負けだった菅首相は、国民からの支持を得られていないのだから、とっくにやめていなければならない人です。

そんな人が普通なら居座っていられるはずがないのに、いまどうして居座っていられるのか。そこには多分、かなりおかしな、危なくて怖い事態が裏で進んでいるに違いないのです。我々国民をカヤの外に置いた、何らかの影響力が働いている、ということでしょう。

なんと言っても、フクシマは世界の大事故ですから。日本の思惑だけでは決められなくなってしまっているのかも知れません。そして、そういう「おおっぴらには言えない事態」が内々に議員たちにも伝わって菅おろしの決定打が出せないままになっている、ということなのではないか?

物事には「本道」という事があります。歌手であるなら歌が上手くなければなりません。俳優なら演技ができないとダメでしょう。それは自分の個性を生かすという事であり、芸能界にデビューしたけど、歌手ではいまいちだったから演技で頑張るというように取捨選択しつつ、誰もが自分の道を決めていきます。

いくらバスケットボールの選手になりたいと言っても、背が低かったら、ダンクシュートを打つのはかなり難しいですし、その道で名を成すのはかなり大変でしょう。

しかし。

残念なことに、「●●の職業というのは、何をする人?」という事を、一般の人間がわかっていないが故に、歌の歌えない「歌手」がいたりするのが、日本の政治です。

政治家って何する人?という問いに、正しく「法律を作る人」と答えられる日本人が果たして何割いてるのだろうか?と思います。

司法、立法、行政という三権分立の仕組みは、互いに役割分担を明確にして、相手の役割に対して不可侵であることで、システムの合理化を図りながら、相互に異なる観点からそれぞれの仕事内容を監視し修正していくという意味で政治を進めるために不可欠の「仕組み」です。

前から書いているように、これは自動車におけるアクセル、ブレーキ、クラッチと同じようなものですから、その個々の機能が機能不全を起こしてしまったら、「自動車」という仕組み自体が動かなくなるという事です。

日本の政治家で、果たして法律をキチンと自分の力で作って議会に提出して通したことのある人が、いったいどのくらいいるのか?と思います。

政治家というのは俗称で正しくは代議士という事であり、国民の意思や思いを議事として国民に「代わって」議会に提出するのが政治家の本道・本分であります。
ですから、国民にノーを突きつけられているのに、菅がやめないというのは、かなり、恐ろしく、ものすごく、とんでもなく、おかしなことなのです。

政権交代が起きた2009年夏の選挙後。じっくり見ていて面白かったのは、実は民主党より自民党でした。
選挙が終わってから後は、自民党のプレーヤーが変わったのですね。河野太郎や石破茂などの若手が発言力をつけたのですね。
それは何故か? 単純に得票数が多かったからです。比例代表でやっと通ったような人は党内での発言力は下がります。
くしくも、テレビや新聞で人気だった小池百合子ですらが「政治の世界は票を取った人が偉いのよ。」とため息混じりで言っておりました。いまや彼女の影響力などないに等しい。

そして、どうして河野太郎がそんなに得票数が多かったのか? 難しい話ではありませんで、辻立ちをキチンとして、「みなさんおはようございます。河野太郎でございます。行ってらっしゃいませ。」と、日々延々と国民の中に立って声をかけ続け、演説をし続けたからなのです。
この基本のキをやらずして、発言力など得られるものではないというのが政治の世界なのです。

選挙上手の小沢一郎に若い女性議員を対立候補として立てられた森元総理は、さすがにその国民との接触の重要性を熟知していて、誰より早くお国入りして、朝から晩まで選挙区を動き回り、はいつくばるように歩き回って、選挙が終わったときには日焼けして顔が真っ黒でした。それでなんとか、民主党の女性議員に競り勝った。
だから、「俺は小選挙区で勝ったんだ」と選挙後に党運営に口出しをしかけたわけですが、圧倒的勝利を決めた石破や河野太郎あたりが、「昔からの人がいろいろ口出しをするような事態ではないでしょう。」というような事を言った途端に、もう自民党の中では大きな力を持たなくなった。

それくらい、「政治の世界は票を取った人が偉い」のです。

そして「票を取る」という事は「矛盾を抱え込む」という事です。つまり自分に支持者にも右から左まで多様な意見があると言うことです。多くの票を取れば取るほど、その矛盾の幅は広がるでしょう。

だから、個人の信念や、大きな方向性をキチンと持っているかどうかが大事になるし、その矛盾をキチンと「ルール」として形にした「法案作り」が重要なのです。

この法案を議員が作るのが議員立法です。本来は立法府の構成員である代議士が立案するのが当然ですが、日本では、この議員立法というのがものすごく少ない。たいていは行政府の人間である官僚達がたたき台を作って、それを議員に見せて説明し「これでいかがでしょうか」とお伺いをたてて決めるという手順になっております。

いまの民主党のトップ5人組なんて、おそらく自分で議員立法なんてやってないんじゃないか?

大阪では、西川きよしという漫才師が政治家として国政に出ましたが、それでも彼はお年寄りのための法案を一つか二つだったか議員立法で通しているんですよね。これだけでも大したものです。(いや、他がダメ過ぎるんですが。)

そしてやはり突出していたのは田中角栄でしょう。彼は衆議院時代に100を越える議員立法を作って通したのですから。官僚たちが、その法律的整合性に舌を巻いたといいますから、かなりのものだったのでしょう。

いまのフクシマの交付金の政策だって角栄が作ったものなのです。電源三法は、角栄が作った。

いまの時代に必要なルールがあるなら、自分で法案を作って議会に提出し、それを通す。それだけの力も持っていたし、頭もあったということですね。

歴史にタラレバはありえないとは言いますが、もしいま角栄が生きていたら、それこそ電源三法どころか送発電分離法案なんかも、議員立法で猛スピードで書き上げ、関係各者の利益調整まですませて、議会に提出し通してしまっていたように思います。

でも、そんなスーパー議員は、もういない。

せいぜい小沢一郎が「日本改造計画」という、グランドデザインを描いた書籍を出版した程度。

せめてグランドデザインを描いて欲しいよなぁって思う。菅なんて何もやってないしねぇ。だいたい、リーマンショックのあった次の年に「増税」とか言ってるんですから、完全にパーやし。
経済音痴もええとこだっせ。日々コツコツ勉強してないのがバレバレ。

僕が敬愛する副島隆彦さんは、官邸に、デイビッド・B・ウォーラーというIAEA副事務総長兼管理部最高責任者が常駐していて、いまや菅は原発問題に関してはこの男の指示に徹底的に従っていて、そういう日本が外国に支配されている状態なんだ、と言っておられますが、まぁそういうことがあるにしても何にしても、それがあったとしても「歌の歌えない歌手」なんて話にならんのだ、操り人形にしかならんのだ、口パクの歌まねしかできんのだ、ということであって、それを「口パクである」と見抜けない国民がバカなのだから、支配されちゃってもしょうがないのかもなぁ、あーやれやれとか思う。

アメリカが裏で糸を引いているかどうか、ということは証拠のないことだから、「そういうこともあるかもね」で置いておくけれど、せめて、

●政治家は法案を作るのが仕事
●国民の支持を多く得ている政治家がエライ
●やめると言ってやめないのは信義に反していて人間としてダメ

という、基本のキのことは、大切にしなくちゃいけないと思うのですよ。
裏がどうとかは知らないけど、本道がないがしろにされてるなら、それはやっぱり、みんなが不幸になるしかないよなぁって思う。

でも、田中角栄というと、いまだに「利権政治の親玉」という官僚とマスコミが都合良く、あとから作り上げたイメージでしか語れないというのが日本人の平均的姿で、政治に詳しい人なら多くの人が「田中角栄は別格で天才」と評するのが当然かつ当たり前の評価なのだと言っても全然そういう基礎知識すらないのが「当たり前」になってしまってるんだから、道理が通らないのもしょうがないのかねぇとふてくされるばかりなのであります。

仕事でおつきあいのある人でも、新聞とテレビしか見てなくて、書籍を丁寧に読んで基礎知識を得ようと努力したり、ネットで「自分の疑問の解消のためにつっこんだ検索」をしていない人だと「菅さんがやろうが誰がやろうが、結局は同じ」と言ってて、

「いや、それは違うやろ」と思うのだけど、基礎知識を共有してないと、単なる喧嘩にしかならないので黙りこくるしかなくて嫌になります。

誰がやっても同じなら「反小沢」などという、個人攻撃を掲げた勢力が力を持つなんてことは起こりえませんよ。こんなこと、ちょっと考えたらわかるのに。
「反小沢」と言う人がいるということは「小沢だけは困る」という人がいてるということです。そして「なぜ小沢ではだめなのか」の理由を言わずに「反小沢」と言うかと言えば、それは小沢さんの言ってる事が正論だから以外に答えはないでしょう。

こんな事、ちょっと考えたらわかるのに。

なんで誰もそこに気づかないのだろう。


あー、やれやれ。

日本人はいつ賢くなるのだろう。

歌手が、歌が上手いかどうかくらい、分かる人になって欲しいと思うのですよ。


電気の発電というのは、どういう事かというと、それは「モーターを手で回す」ということだと思えば良いわけです。

モーターの電極に豆電球をつないで、モーターの軸を手でブンブン回すと豆球が光ります。

これが一般的な発電の基本原理。

手で回すのはしんどいので、お湯を沸かして水蒸気を生み出し、タービンという羽根にあてて、発電しているのが、現在どこにでもある、あらゆる発電所の仕組みです。
これは水力であろうが、火力であろうが、原子力であろうが、変わらない。同じ事ですね。

そういう意味では、けっこうというか、発電の仕組みそのものは、かなり古い技術だ、ということなんです。

ちなみに風力も、地熱発電も、小水力も、結局は全部同じ仕組みです。ようは発電用のダイナモを回している。それだけのこと。そのダイナモを回す力を何から得るか?というのが違うだけです。
火力・原子力・地熱に至っては、「水を沸かして水蒸気を作りタービンを回す」というところまで同じです。
ようは100℃以上の熱源だから水を沸騰させるのが良い、ということで、簡単に言ってしまえば「蒸気機関車」と同様の技術なわけです。

もちろん、天然ガスやら石油やらを燃やして熱を得るのと、原子が分裂していく際に発する熱量を使うのとでは、「自然科学」と「原子物理学」くらいの差はありますが、それでも発電する仕組みはまったく同じです。

ただし、石油での発電だと、たとえばキャンプ用の発電機のような小型の発電機は作れますが、さすがに原子力でキャンプ用発電機は作れません。キャンプ場で原子力の扱いを間違えたら、何万年もキャンプ場が閉鎖になりますから。ガソリンなら鎮火すれば、またキャンプ場は復活できますけどね。

で、ちょっとテーマからははずれますが、石油・天然ガスによる発電と原子力とで何が違うかというと、もうひとつは「急に発電量を増やせるかどうか」という違いがあります。
火力なら、どんどん燃やす量を増やしたり、減らしたりの「火力調整」ができるので、「いま電気が必要」と言うときに即時の対応ができます。

しかし原発は燃料棒を刺したり抜いたりしても、ゆるやかにしか「火力調整」ができませんで、最低でも数時間から数日のタイムラグが生まれるわけです。そういう意味で「夏のピークに対応する電力」としては、


●まったく役に立たない。


のであります。

で。

上記では書いておりませんでしたが、太陽電池はどうかというと、これはタービンとかダイナモとか、あるいはそれを回すための水蒸気とか、そういうものを一切必要としていないわけです。

太陽の光があたる。それが即電気になる。

すばらしい!
ブラボー!

というものです。

これは実は太陽電池パネルというものがPN型の半導体そのものだから起きる現象なんですね。
半導体そのものなんです。

で、半導体を製造する技術というのは、パソコンなどに使われている半導体やCPUを作る技術とあったく同じです。

で、半導体の動作原理は、言うなれば、原子物理学というよりは、もう少し進んだ量子物理学の範疇の技術ということになります。

ですから、原発は「蒸気機関車+原子物理学」とか「自然科学+原子物理学」の世界の技術なのですが、太陽電池は純然たる「量子物理学」の世界の技術なんですね。
ですから、技術レベルとして一世代以上離れてると言っても良いわけです。

で、石油や天然ガスによる発電なら、まだ「ビルや商業施設内の電気を効率的にまかなうコジェネシステム」などに進化する道もあるんですが、原子力は上記のキャンプ場の例と同じで、都市の中に入り込むという事ができないわけです。

遠く離れたところから電線を通して一括供給する。

という、実に非効率的な電気の配給の仕方をするより他に道はないわけです。

ところが、太陽電池はどうかというと、パネル自体を家庭に置いて、その場で発電できます。全然ムダがないわけですね。
これもまさにタービンや水蒸気を起こす必要がないという基本原理の違いから生まれているわけです。

で、パソコンと同じ半導体技術ですから、これは大量生産すると、すごく安くなります。
いま、家庭用の太陽電池パネルが一軒分で250万円くらいするんですが、これが半額とか4分の1とかとかの値段になるまで、それほどの時間はかからないんですね。
それこそ単純に「買う人が倍に増えれば半額になる」というような事ですから。

知らない人のためにもう少し説明を加えますと、半導体の生産技術というのは、印刷の技術ととても良く似ているのです。

設計図を描いて、それを光に反応する基剤に当てて、硬化させ、そこに出来た溝にガス化した材料を吹き付けて固めるという作り方をしますから。

ですから、生産ラインが一度できて、量産化が始まれば、パネルをたくさん作るほどにコストが下がることになります。もちろん材料となるガスの値段は増えますし、生産するための工場の電気代も膨大ではありますが、それでも一度作ったパネルは20年以上使えます。

250万円を20年で割ると、1年あたり12万五千円ですから、夜に発電出来ず、曇りや雨の日の電力量が期待できない太陽電池は「コスト高だ」という話になるわけです。月に1万円も電気代を使ってたら、それはけっこう浪費ですから。

でも、半額や4分の1まで値段が下がるのは、半導体技術なんですから、「市場」さえできればすぐに達成できるというのは見えているわけです。
なんと言っても「量子物理学」ですから。パソコンやケータイと同じような代物って事です。

ところが、世間では「太陽電池はコスト高だからダメだ」みたいな事が何度も何度も繰り返されるわけですよ。

私ゃ、「なんでやねん!それはおかしいやろ!」と、いつも思うわけです。

だいたい、原子力の電気代が安いという計算は、日本の電力会社が企業向けに「たくさん使ったらお安くします」というボリュームディスカウントをしているのが原因なんです。別にキチンとコスト計算をしたわけではない。企業優遇の価格体系にして、それでもって、たとえば企業が自社の生産ラインでムダな電気を使っていようが「いやいや、節電するより、大量に電気を使った方が、結果として電気代がやすくなりますよ。」という甘言で、誘導されてきたという環境でのコスト計算なわけです。

なんでそんな恣意的な計算の価格と、「これから急速に値下がりする可能性の高い太陽電池」を同列に並べて「太陽電池はコスト高」などというごまかしの理屈を言うのか、というのが非常に気に入らないわけですね。
たかが蒸気機関時代のなれの果て技術のくせしやがって、ということです。

そんなもの、いくらがんばっても、もう原子力は「安い電力」にはならないわけですよ。これから年々値上がりします。

なんんで「値上がりする」かというと、フクシマがあったからですね。単純に「安全基準が引き上げられる」からです。そうなれば、いま4500億円かかっている原発が5000億円とか平気で必要になりますわね。防波堤は16メートルの高さが必要とかになるから。

こんなもん、それだけで価格競争力がなくなる。

それに加えて、もうみんなが知ってしまったから使用済み燃料の管理コストも上乗せされてきます。内緒で原子炉内に仮保管というわけにはいかない。

(事故のあったフクシマを「使用済み燃料の保管場所にしよう」という声がそのうち出てきますが、これには絶対的に反対しなければなりません。なぜか? 「使用済み核燃料の保管場所」が確保できたら、またぞろ「やはり発電には原発」というのが推進されてしまうからです。原発延命が確実になってしまう。それはダメ。メガソーラーならいいけど。)

で、太陽電池と原子力では、決定的に大きな大きな違いがあるのに何故かテレビでも新聞でも、新聞系の雑誌(日経ビジネスとか)でもキチンと言わないのが、


●燃料代


の話です。
太陽電池にせよ、地熱にせよ、風力にせよ、燃料代はゼロですよ、ゼロ!
ロハ!
タダ!
無料!

なんで、この肝心の事を誰も言わないのだ!


それから、もっと大事なこと。


●有限か無限か。


ここの論議も全然されない。
石油も天然ガスも、そして当然ウランも、全部有限な資源なわけですよ。
石油や天然ガスはシェールオイルやシェールガスを取り出す技術が確立されたおかげで、あと100年や200年は使えそうな感触になってきてますけど、ウランはせいぜい78年。
原発では、孫子の代まで引き継げるエネルギー体系は絶対に残せないわけですよ。

でも、太陽電池・風力発電・地熱発電なら、それは可能なわけです。

なんでいまさら、原発に力を入れなアカンのか?っちゅう事です。
いくら原発に力を入れても、まぁ先行きは暗い。


だから、まともに考えれば原発に未来なんか最初からないんです。


でも、これだけのデメリットを並べても、それを打ち崩して「やっぱり原発」という勢力には、二つの理由があります。

一つは、前にも書きましたが、

●原爆を作る材料として必要

ということです。

でも、これは前にも書きましたが、日本は平和外交で安全保障を考えた方が良いという考えに僕は変わりましたので、これはまず否定。
なおかつ、仮に「それでも原爆が持ちたい」というのなら、いまあるプルトニウム量を保持すれば、それで充分やろ、という事です。えんえんプルトニウムを作る必要はないと思う。

で、もう一つの理由。


これがかなりやっかいな話なんですが、


●日本は核燃料サイクル推進が国策である。


ということなんですね。

こんなもんいらんやんけ、と僕は言いたいのですが、それでもそれが国策で、いまだに維持されてるわけだから、少なくとも官僚は、簡単には「脱原発で行きます」とは立場上言えないわけです。

ここのところの「立場として言えない」というのが、かなり深刻な問題なんだと思うのですよ。

「ウランを燃やしてプルトニウムを取出し、そのプルトニウムを高速増殖炉で再び燃料として発電に利用し、そこから生まれたプルトニウムを、また発電に利用する。これで日本は1000年、2000年の燃料確保ができる。」

というのが「核燃料サイクル」というものです。

まぁ、あまり技術の未来を否定するような事を言ってはいけないとも思いますが、


●核燃料サイクルは失敗した。


という事を、もういいかげん認めないとダメでしょう。
何年前だったか、フランスが、この核燃料サイクルからの撤退をしたときに、僕は「あ、原発はこれで終わったよね。もう石油とかの在来の発電と同様の有限資源でしかないから危険なだけデメリットが多くて進歩の余地がもうないよね。」と思ったんですね。

(そう思ったので、そこからはもうあまり原発に関するお勉強をしなくなっちゃったんです。それはちょっとまずかったと思いますが。)

フランスはいまでも電気の75%を原発に頼っている国ですが、その原発先進国ですら、核燃料サイクルはあきらめたわけです。

いま、いまだに「核燃料サイクル推進」を堅持してるのは日本だけですから。

もうええやろ、これ。
いらんやろ。
やめなさいって。

30年かかって1ワットの電気も取り出せていないし、もんじゅはアホみたいな事故を起こしたし。しかも知らなかったけれども水で冷やすのではなくて空気と結合したら発火するナトリウムでプルトニウムを冷やすやと? フクシマみたいな事が起きたら、もうアウトやないかい!
やめろよ、そういう危ない研究は!

でも、この「核燃料サイクル」という妄想が日本を支配している限り、少なくとも官僚は、簡単には「脱原発で行きます」とは言えないわけです。

ですから、自民党の河野太郎が言ってた「私は反原発ではありません。反核燃料サイクルです。」というのは、ものすごく意味の大きい発言なんですね。

河野太郎自身は、実は「原発はいまのまま動かしても、まぁそれは良い」という人なんですよ。「新規には作らない。古いものは年限が来たら廃炉にする。そして自然エネルギーにはもっと注力する。」という事しか言ってない。

でも、本当に重要なのは「核燃料サイクルからの脱却」なわけです。
とにもかくにも、この過去の亡霊から逃げ出さない限り、日本のエネルギー政策の変更のしようがないわけです。

ところが、これを菅は全然言わない。他の政治家も全然言わない。一番肝心なのに。


で、「なんで河野さん以外の議員は、核燃料サイクルからの脱却を言わないのですか?」という質問に河野太郎がどう答えたか? というと、

「たぶん、みなさん、何も知らないんですね。私が反原発ではなくて反核燃料サイクルだ、と言っても、その言ってる意味のわかってる人が自民党の中でもほとんどいないんじゃないかと思います。」というような返事だったわけです。


「なんじゃそりゃ!」

と思うのですよ。

ようは、政治家のレベルが低いんです。
恐ろしく程度が低い。

それがこの国の現実なんですね。

ということなので、なんとかこの国の実情を良い方向に動かして行きたかったら、それはもう勉強するしかないわけです。
政治家が勉強してないんやから。こっちが勉強して教えてやるしかない。
そこまで大変な事になってる、ということなんです。

なので、新聞・テレビだけみて、それで良しと思ってる人は、もう本当にダメだと思います。もう僕はほったらかしで置いていきます。

ちゃんと勉強してわかってる人同士で、いろいろ意見を戦わせて論議しなくちゃいけない。もうのんびりしてられないと思うのですよ。

だから、「原子力なんて蒸気機関車時代の古くっさい技術なんかどうでもよろし」と言うことを、みんな正しく知るべきだし、「核燃料サイクルは、もう失敗したんだ。」ということを、もっと正しく認識するべきだと、僕は思うわけです。

仕事で、計測機器やら分析計やらを作っている企業さんの仕事をしている関係で、物事の判断をするために、「まず事実を知ること・確かめること」が、いかに大切なのかを痛感しています。

なので、事実関係を確かめもせずに、思いつき・思いこみ・自分の何らかの思惑、などで、テキトーな事を言う人がいると、とても無責任でひどい行為に見えてしまうし、とても厳しく叱りつけてしまいたくなります。

その計測・分析をしている企業さんでは、放射線を測定するハンディな機械も出しておられるのですが、震災前は、年間で100台~200台程度しか出ていなかったものが、いまでは増産体制を敷いて、月500台生産してもおいつかない状態だそうです。

いつもは広告宣伝を担当している部署の方たちも、それぞれ順番に工場のピッキング作業に数日ずつ出向しているそうですから、なかなか大変だと思います。

よくボランティア活動で震災に対応しようという話もありますが、こういう場合は、普段の仕事がそのまま復興に直結しているわけでして、やはり出来れば、自分の仕事が、そのまますぐに復興の手助けになるのが一番良いですわね。ある程度の年齢になってきたら、そうそう仕事を休んでまでボランティア活動はできないものですから。

で、そういう「誰にでもできる、もっとも簡単な社会貢献」のひとつに「風評被害の元となるような、テキトーな事は言わないように慎む」という事があると思うのです。

これね、もっとも簡単で、誰にでも出来ることなんですよ。

どうすれば良いかと言えば、よく分からない事に対して、



「よくわからない」



と、素直に事実を言えば良いだけなのです。
とても簡単で、無理のない、誰にでもできる社会貢献なのです。

ところが、本当に無知で、しかも震災の時のように自分の命が危ないかも知れないというような時、人間は自己保身から、テキトーな妄想を自分勝手に作り上げて、それを頼りに自分を落ち着かせようと思ったりするわけです。

まぁ、その「妄想」を頭の中で反芻している程度なら、これは社会的な迷惑や被害が発生しませんから、別にかまわないのですが、その「妄想」を一度でも口に出してしまったら、もうそれは取り返しがつきません。
勝手な妄想が自己増殖して、どんな風評被害が生まれるモノかわかったものではないのです。

たとえば、関東大震災の時には、何故か理由もないのに国内にいる海外移住者が「放火をした」だの、「井戸に毒薬を入れた」だのというデマが広がり、そのデマが「Aさんも、Bさんも、Cさんも言ってたから、確からしい」というようなことで、海外移住者の方へのいじめや拷問、はては殺人まで起きてしまったのだそうです。

ですから、テキトーな妄想を「口に出す」と言うこと自体が、非常にまずい事なんですね。
で、その「テキトーな妄想を口に出さないようにする」という事は、それほど難しい事でもないのです。

知らない事なら「知らない」と言う。

わからない事なら「わからない」と言う。

こういう態度や気持ちを、平常から持ち続けるようにする、というだけの事なんです。

それに加えて、もうひとつ一押しするなら、「分からないから、勉強してみよう。」になれば、もっと良いわけです。
でもまぁ、これは余力があればやればよろしい、という内容の事でして、まずは「知りもしないのに、テキトーな事を言うのは慎もう」という態度を保つことが、最優先で必要な事でしょう。これが一番簡単にできることですから。

で、もし、自分が「テキトーな事」を言ってしまった場合は、まぁ、基本はもう取り返しがつかないのですが、それでも、キチンと「テキトーな事を言ってしまってすみません。」と謝罪した上で、キチンと事実関係を確認するなり、勉強するなりして、「テキトーな事を言ってしまったマイナス」を補う事だと思います。

風評被害というのは、本当に無用の害悪でして、最初にわけもわからず「テキトーな妄想」を言う人さえいなければ、本当に発生するはずのない事柄なんですね。

だから、もし目の前で「テキトーな妄想」を語る人がいたら、僕はかなり厳しく注意をしてしまいます。

というのは、その「テキトーな妄想」による被害というのは本当にムダで、なおかつすべての人間にマイナスで、誰一人得をしないからなんですね。
本当に本当にムダな事です。

そういう思いがあるものだから、どうしても、つい、かなり厳しい叱り口調になってしまうわけです。

ところが、これ、「テキトーな妄想」を口にしてる人は、それこそ社会の事など考える余裕もない、自分の不安の解消だけが問題という人だから「厳しく叱責される」と、ものすごくビックリしたりするわけですよ。そういう風評被害の事まで考えてないから。それで「何もそこまで言わなくても」とか、恨まれたりする。

でもね。
たとえ恨まれたとしても、それは、「厳しく叱責する」方が良いことなんだから、それはやめませんわね。

まず、風評被害が、そこから発生して「一人歩き」してしまうんですから。

不安をかかえた人間が、不安をかかえたまま、日々「妄想」をばらまき散らかしていくと、ほんとうに風評被害が拡大してしまうわけですから、まず発生している発生源を、根源から根絶しないといけません。
なので、かなーり厳しく叱責するようにしてます。
まぁ、それで「言葉がきつすぎる」と言われたりもしますが、それは必要なことなのだからしょうがないと思っております。風評被害が一人歩きするよりは、はるかにマシですから。

風評被害が怖いのは、たとえそれが事実ではなかったとしても、

●Aさんも言ってた、Bさんも言ってた、Cさんも言ってた

という「数の論理」で既成事実化してしまう恐ろしい側面があるからです。
風評被害の発生源は、単なる個人の不安の裏返しでしかないわけですが、広がる過程「伝え聞き」で広める人には、そういう「個人の不安感」というのは少ない訳です。
「まぁ、よくわからないけど、知り合い3人が言ってたから、本当なんじゃないの?」
ってな感じで、事実とは異なる「風評」が既成事実化してしまうわけです。

でも、気をつけて欲しいのはこの「Aさんも、Bさんも」という判定は、ようは、「自分が所属するコミュニティの多くの人が」という事なわけです。身内で妄想拡大をやってるだけなんですね。
でも、そういう「風評被害は自分が所属するコミュニティから広がるものなのだ」という構造に、人間は、なかなか気づけなかったりするんですね。特に震災の時のように情報が不確かで、なおかつ「緊急」を要する場合は、たとえ見る人が見れば、明らかに「デマだ」とわかる情報でも、あっという間に、コミュニティを越えて広がってしまいますから、実は、もう「数の論理」では判定できなくなってしまうわけです。

ですから、少なくとも、まず、自分の所属するコミュニティで、誰か一人でも明らかな「風評被害の発生源」をやっている人を見つけたら、大声で「こら!事実でもないことを吹聴するな!!!」と、かなりきつく叱りつけないといけないんですね。風評被害というのは広がりやすいですから。
少なくとも、自分が所属するコミュニティからは、そういう風評被害を出さないようにしたいと、僕は思います。
だからこそ、風評被害というのは、まず足元の自分のコミュニティから広がってしまうものなのだ、という意識を、キチンと持たないといけないと思うのです。

ですから、一番良いのは、それこそガイガーカウンターなどをちゃんと用意して事実に基づいて語ることなんですけれども、そういう計測器なり、確かな事実なりがないときは、せめて


●知らないことは「知らない」と言う。
●わからない事は「わからない」と言う。


という正直さを保つことが大事だと思います。
知識や情報不足だと、何かと不安な気持ちになることも多いわけですが、あまり安易に、


●自分の妄想を口に出したりしない。


という事も、とても大切なことです。


で、できうるなら、


●キチンと事実関係を調べる・情報源を確認する。


という事もやっていった方が良いでしょう。

で、それこそ、何の根拠もなくテキトーな事を言っていて、それが明らかに社会の利益にならないような内容の「風評」であったのなら、自分のコミュニティを守るためにも、厳しく、厳しく、きつく、きつく、叱責することも必要だろうと、僕は思っております。

ともあれ、風評被害は、まず「出さない事」が最優先で大切です。

身の回りで、明らかな風評被害を吹聴している人がいましたら、とにかくその「風評」が事実かどうかを確認して、事実でないという事がわかりましたら、コミュニティを守る意味でも、厳しく叱責するようにしてください。
それがとても大切なことのように、僕は思います。


菅おろしが激しいですが、こんなもん当たり前でして。

同じ民主党の小沢さんを、もう随分前に党員資格停止にしてるわけですから。それは「仲間であっても、考え方が違ったら、徹底的に排除する」という明確な行動なわけです。

そんな恐怖政治をやってる一派と、そう簡単に手は結べませんわなぁ。いくら大連立を目指す、とか言っても、誰だって「ちょっと待て。信用でけへんで、あの体制は。」ってなりますよ。

少なくとも、菅が上に立ってる限りは、どうしたってそうなる。
「せめて菅を降ろせるくらいの信義は見せろ」ですわな。

だから、菅が、首相になった時に「小沢さんにはお休みいただいて」と言った瞬間に、菅は政治家失格になった、ということなんですから。
わかってる人は、あの段階で言ってたわけですから。

これは政治の「セ」ですわね。
基本の「キ」。

ごくごく当たり前の、一般常識です。


●「仲間排除」してる人間と、手を組めるはずがない。


ということですよ。
だから孤立するし、菅をやめさせろという声しか出ない。
当然ですわ。
そんな難しい話ではないんです。

あの、どうしようもない自民党政治であっても、派閥同士で意見の違いはあっても、「派閥均衡」という同じ党の人間同士が妥協しながら運営するという最低限のルールは守っていたわけです。

最低限のルールを守らずして、何ができるのか?って事ですね。

それも守れないとなると、まぁ手の施しようがない。だから、あいつをチャラにしない限り、何も出来ない。


ところが!


こういう当たり前の感覚がわからん人というのも、けっこういてるんですよねぇ。いったいどんな人生を送ってきたのか? と思う。


●信義に反することをしたら、信用されない。


あたりまえの話ですがな。
そんなもん。
でしょ?

ねぇ。

このあたり、男女関係なんかでも一緒でしてね。良く、夫婦仲がうまくいってないから、離婚して、別の人と再婚する、てな話がありますが、自分の嫁や旦那を悪く言ってる人と再婚なんかしたいと思いませんわね。
だって結婚したら、自分がその「悪く言われる側」になるわけですから。たまったもんやないですよ。

ちょっと考えたらわかる。

なのに、この、ちょっと考えたらわかる事がわからんで、大変な事になってる男女がどれだけいることか。まぁ、そういうバカな人間のこっけいさまで含めて、この世は面白いと言えば言えるのですが。あんまり生産的やないよなぁ。

まぁ、男女関係なら、好きにしたらよろしい、としか言いようがないのですが、首相となると、そうは行きませんからなぁ。

「あのアホを降ろせ」という事にしかならないわけです。
至極まっとうな話ですわ。

政治において信義を守らなかったら、それは仲間(妥協して手を結ぶ程度の最低減の仲間、単なる提携と言っても良い)はできないですよ。そら、何も進みませんわね。

まず大枠で、それははっきりしてるわけです。

それに加えて、春の選挙で民主党のボロ負け→国民からの信頼もない、ということもはっきりしてる。春の選挙は震災の後ですからね。だから明確に「震災対応もダメ!」と国民からダメ出しを食らってるわけです。

それに加えて、官僚からも信頼されていない、それどころか仙石とか枝野あたりからも見放されつつあるという話もあるんですから、(というか、もう仙石すら菅を降ろそうとしてる。)どうしようもない人物ですわな。

思えば一年前に、菅が首相になったとき、僕は「ええええ???菅?、それはアカンで。」とげんなりしてたんですね。

だって、民主党政権になってから、一番何もしなかったのが菅ですから。
本当に何もしなかった。

それどころか、戦略室の位置にいて、各官僚にいろいろ聞き込み調査をして、わずか3か月くらいで、官僚の側に洗脳されて増税を言い出してた。「あ、こいつはアホや。」とわかってましたからねぇ。

でも、一年前、けっこう多くの人が「おっ、やった。エイズの菅の登場だ!」と喜んでたんですよね。そういう反応を僕は何人か見ましたから。

「何言うてまんねん。菅なんかあきませんよ。」

と、その段階で、よっぽど言おうかと思ってたんですけど、言ってもしょうがないですからな。なってしまったものは、もう取り返しが付かない。

それでも、小沢さんや鳩山さんとのトロイカ体制が保たれるのであれば、まだ良しと思ってたんですけど、首相になった途端に「小沢さんにはお休みいただいて」ですわ。「こいつ、いま、政治家失格したのに、その自覚もないやろ。ドアホが。」と思ったんですがね。

まぁ、一年たって、このひどさです。

で、ここまで回りからの信頼を失ってるのに、当人だけが、いまだに続投とか言うてるわけで。

本当にどうしようもない人間というのはいてるもんですな。
いや、ほんとに。

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