この間の土曜日が、私の中学の同窓会でした。
中学ですから、小学校からのつきあいの人間もおり、中には幼稚園から中学卒業まで同じ学校だった奴もいました。

卒業から考えると三十数年。同窓会会場に次々やってくる人間の顔を見ても「え? 誰?」というくらい雰囲気が変わってたりするんですな。

逆に、「おいおい、どうみても二十代のにいちゃんやで」というくらい若い奴もいれば、年齢不詳としかいいようのない出で立ちの人間がいたりする。

でも、話をして、表情がほぐれてくると、「ああ、あいつか!」という事にもなって実に面白い。

とは言いながら、いざ同窓会のスタート、という時には「まず最初に、お亡くなりになった同窓生に黙祷を」というところから始まって、みな一様に神妙になります。ああ、長い時間が経ったんやな、と思う。

僕の初恋の子も、心臓発作でなくなった。心臓発作が死因として発表されるのは自殺であることも多いし、どうも噂にはそういう事らしい。そんな事を思い出しながら、隣に座った友人に話しを振ると、彼は事業で失敗して首つり自殺をした友人の事を、すごく残念そうに言う。

「なんも、死ぬことないねん。一言相談してくれたら良かったのに。」ものすごく残念そうだ。

そうなんよなぁ、この歳になると、それなりに乗り越え方というものを、それぞれに学んできてるんよな。そういう事なんや。

まわりを見てみると、車いすで参加してる奴もいてるし、バツ4の奴までいる。それでも明るく生きてるし、これから次の相手を見つけようとしてたり、何よりそういう人間が幹事やったりするから面白い。

ひとしきり話をして、酔いも回ってきたので、テーブルで一休み。まわりを眺めていると、貸し切りの会場は、まるで当時の中学校の教室の休み時間のようで不思議な感覚です。

仲の良いもの同士が集まって、あだ名で呼び合い、ゲラゲラ笑っている。まぁほんま、昔といっしょや。

その時、ふと気付いて、僕は隣の友人に言ったのです。

「えらいこっちゃ。大事件が起きてるで。」

「え、何?」

「ものすごい事が起きてる。ええか、いま、この会場にいてる人間、みんな同い年やねんで。」

「…。あたりまえじゃ! あほか。」

いやまぁそうなんですけどね。
でも、それが信じられないくらいに、みんなそれぞれに別の人生を歩んでるんやなぁと。ちゃんと生き残ってるんやなぁと。

みんなそれぞれが、幸せでありますように。

そう願わずにはいられない一日でありました。


最近、ここに書き込みをする頻度が減りました。
いや、頻度は前から低かったんですが、書くネタがなくなってきたというべきか。
どうせ書くなら、FaceBookと、自分の公式ブログに書こうという気になってきた。

ちゅうか、7月くらいから仕事用のブログを立ち上げたんです。で、仕事にまつわる話を書いてます。なんか最近はその方が面白い。

FaceBookって、いちおう実名でしかも仕事の知り合いとかの前で書くので、いきおい、愚痴とか後ろ向きの話とか書きにくいんですね。
それでも何か書こうとすると、前向きでオモロイ話とか書くしかなくなってくる。
それはそれでウソっぽいところもあるけれども、自分自身のモチベーションの維持と、行動する力には効果があるというか、そんな感じです。

で、自分のホームページも作り直して宣伝してるんですが(なんせ最近仕事が少ないので)これも、自分の仕事の役割その他を見直すのにすごく良かった。
しかも、Google アナリティクスでいろいろ分析もしてるんですが、検索キーワードその他、反応がよく分かって面白い。
ブログとFaceBookとホームページを連動させると、それなりに反応あるし、「あー、やっぱり世の中やればやっただけの反応はあるんやなぁ」というのが、すごくよくわかるわけです。

まぁ、ここの頁はここの頁で、いろいろ書きたいこともありますけど、あんまり前向きじゃないしなぁとも思う。やっぱりハンドルネームで書いてると後ろ向きであったり批判的であったり、そういく事をついつい書いてしまいますよね。
いや、そういうダークで裏の部分も人間にはあるんだし、それも大切な自分なんだから、それはそれでちゃんとみとめていかないといけないわけなんですが、裏とダークだけだと、自分の精神衛生がうまくバランスしなくなっちゃうかもしれません。

ようは、大切なのは自分の精神衛生なんですよね。
そういうことなんです。
はい。

先日の土曜日だかに、突然自宅の固定電話が鳴りまして。
もう長々固定電話は使ってなくて、ふとんの丸洗いとか、かなり特殊な通販商品の受け取り用にしかしていないのです。(それと親戚との連絡用かな?)

嫁が実家の引越の関係で家におらず、私が電話を取ったわけですが、録音テープの声で「世論調査です」「ランダムな数字の電話番号にかけています」とか言ってる。

ははーん、これがあの、




●悪名高き、新聞社の世論調査




なのかと知って、「これはアホさ加減をレポートせねばなるまい」と思って聞いておりました。

まぁいろいろ恣意的な感じは強かったんですが、ようは「野田はダメだから橋下の維新でしょ?」という誘導が、いやらしくもはっきりと感じられる内容でありました。

なんちゅうか橋下君は、官僚+マスコミと手を握ってるに違いないと感じましたなぁ。なんせ、うち、維新地元の大阪ですから。そういうこともあって電話がかかってきたのかもしれません。電話番号ランダムと言っても、市外局番06は固定とかなんじゃないの? って思う。

で、こういう地域のスクランブルみたいなことはせずに、特定地域だけとかに「電話アンケート」が取れるからこそ、固定電話でしか「世論」を調査せんのやろうね。

だからマスコミの言う「世論」っていうのは、世の中と大きくずれてるってことです。携帯電話にアンケート出せよ。いやホンマ。金は高くつくやろけども。(新聞社はネットに稼ぎのネタを取られてるから金のかけようがないのだ。重ね重ねダメダメです。)


で、聞いていて気分が悪かったのは消費税に関する話。
こっちは、ずっと「景気を上げるには消費税減税が一番効果的だ!」と思ってる人ですからね、設問の内容自体に腹が立ちました。

いわく、こういう内容。

Q.消費税導入についてお聞きします。

●野田政権の消費税導入に賛成の方は1を。
●消費税導入に賛成はしないが一定の評価はするという方は2を。
●消費税導入を評価しないという方は3を
●どちらとも言えないという方は4を

お押しください。

というもの。

どこにも「消費税は減税すべきだ」という項目がないやんけ! おかしいやろが! なんでやねん! 上げるも下げるも両方考えろや! ボケか! どっちもできるのに、なんで上げる方の話しかないねん! と思いましてなぁ。

話にならん。

箸にも棒にもかからない。

アホの極み。

こんなもの、質問の仕方としておかしい。ちょっと内容を変えて表現すればすぐわかる。

Q.野田政権は、ラジオの音量を上げる決断をしました。これについて、
1.賛成
2.評価する
3.反対
4.どちらとも言えない
どれですか?

というような質問なのだ。
いやいやいやいや、待て待て待て待て。

なんで、

「ラジオの音量は下げた方が良い」という設問がないねん! という話ですがな。
ちゃいまっか?

上げるも、下げるも、両方のチョイスがありますんやで?

しかも、「消費税下げて、所得税を上げたら、国庫が潤う」というところまで、ほぼ見えてるんですよ?

どうよこれ。

そらまぁね、官僚が「消費税導入!」を叫ぶのは、まぁわからんでもない。税源として、ものすごく安定した税源になるから。いくら不況でも着実に稼げる。この上なく安心です。

しかしですな、マスコミがそれをそのまま踏襲してどうする?


●官僚の言うままに消費税を導入して本当に良いのか?


●世間の不況がよりひどくなって、国庫に入る金が減る可能性の方が高いのでは?


という客観的指摘をしないとダメでしょう。

でも、そういうものすらない。

話にならない。

上のラジオの音量の話にたとえれば、パーとかキチガイのレベルだと私は思います。
だって「上げることも下げることもできるもの」の話に「上げた事を評価するかどうか」という設問しか作ってないわけですから。

こんなもん、統合失調症なみのおかしな繰り言ですがな。
頭おかしい。
狂ってる。

であるのに、ですよ。

このアンケートの評価は、上記の設問に分類されて、数多くの方が消費税導入に一定の評価をしました、とかになるわけですわ。

つまらん。

あまりにひどい。


まぁ、ふて寝するしかないですな。

寝よ。

前にも書きましたけど、日本の失われた24年は、消費税導入24年という現実と完全にリンクしてるわけですよ。

だから、まずまちがいなく、不況の大きな原因のひとつが消費税です。

で、普通は不況の時は「減税」するのが当たり前なんですから、このタイミングなら、


●消費税減税やります!


と政策を掲げるのが「科学的」な態度だと思います。「実践的」と言ってもいいし、「効果的」と言ってもいいし、「現実的」と言ってもいい。

「24年続けてみて、24年ずっとうまくいかなかったよね。やっぱりこれ、間違いやったんと違うん?」

という事を、そろそろちゃんと考えないとおかしいですよ。
だいたい、国庫に入ってくる総税収が24年間でずーっと下がってるんですから。消費税を下げれば、これが改善される可能性は、かなり大きい。

消費税を5%から4%、あるいは3%にして減税すれば、まず一般大衆の消費マインドが活気づきます。
そうなれば経済が復興する。市場が膨らむ。
そうなればGDP自体が拡大して、所得税税収も、法人税収も、住民税の税収も、事業税収も、いま下がってばかりの全税収が大きく上向くはずです。

つまり、


●消費税を下げれば、国自体が儲かる


わけです。それははっきりしてるんです。

だから、どこをどう考えても、消費税は増税するのではなく減税しなければならない。どうあってもそうしないと、経済が回らない。そういう事なんです。

ところが、これを言う政治家がいてないから困る。

橋下徹は、もう完全に権力狙いに変質していて、国政進出とかが主題になってるから「消費税は地方税として」とか、眠たい事を平気で言うてる。
アホか。

消費税が高いから不況になっとんや、ちゅうとんねん。下げんかぁドアホ。としか思いませんわ。国税であろうが地方税であろうが、もう消費税はいりまへん。消費マインドを下げるだけですから。いらんもんはいらん。

橋下は不倫してるからどうとか、もう、実にくだらん足の引っ張り合いをしてますが、そんなしょーもない事はどうでもよろしい。



●橋下は政策がボケやから、支持しません。維新も、もう終わり。



です。(自民党から逃げ出したヘタレばっかりやし、いらんわ、あんな党。)

で、困ったことに、国民の側についてる「国民の生活が第一」の小沢さんですらが「増税反対」とは言うけど「消費税減税断行」とは言わない。

あー、やれやれ。
なんで、こんなに腰砕けなんやろか。

強いて言えば「減税日本」の河村たかし名古屋市長くらいですからな。「減税」を言うてるのは。でもまぁ、河村さんも市長なので国政にうんぬん言えないし、前の選挙で「減税日本」が勝ちませんでしたからねぇ。


本当に応援できる政治家がいてない。


●日本の経済現況を見れば、一般大衆の消費マインド冷え企業活動が停滞している。

●だから、消費税を下げることこそ最優先だ。

●消費税下げの財源は所得税増税でまかなう。


とすれば、それで良いのですよ。
国の仕組みを変えなければならないとか、そらまぁいろいろありますが、まずは最優先は消費税率下げです。それこそが最優先課題。ほかに課題はない。絶対にない。どうあろうとない。国の形を変えるにしても、まず「消費税を下げるためにどうするか」から入る以外に、脱出の道筋として説得力を持つ言説は存在しないですよ。少なくとも、2012年のこの国では。

そこをキチンと押さえていない政治家は、全部ダメ。
だから本当に票を入れるべき政治家がいない。
本当に困ったもんです。

増税するなら所得税です。そんなもん、税の名前を良く読めば、誰にでもわかるでしょ。儲かった人間からなら金は取れますがな。金があるんやから。
消費税という名前を使って、食うために消費するしかないような貧乏人からむしりとる非道な事をしたらあきませんって。

非道はアカンに決まってますがな。そうでっしゃろ? ちゃいまっか?


それにだいたい、日本の消費税は国庫におさまるから、これ、ほとんど所得税と同じようなもんなんですよ。

アメリカとかなら消費税は地方税になっていて、地方自治体で消費税率をある程度変えられるから、たとえば企業を誘致したいような地方の州なら、あえて消費税率を下げるわけです。そうすると、そういう州には、たとえばアメリカ全土を相手に通信販売なんかをする会社がドドドドドドっと移転してくるわけです。
「同じ通販でも、うちの会社なら消費税が2%も安いですよ!」とかやるから。
そうなると、そういう州に通販の売上げが集中するわけで、それこそ地方税収がすごく潤うわけです。
だからもともと、消費税には、地方裁量権と、税率の選択の幅がなければ、存在価値自体がないわけです。

ですから、もともと「日本型消費税」は、ようは欠陥税法だってことです。官僚のやらずぼったくりそのものです。ほんとうにひどい。どうしようもない税制です。

しかも、なにより、原材料から加工工程、卸、小売り、一般消費者まで全員にかけられる税なんですから消費税というより、やっぱり「大型間接税」と言った方が正しい。どこが「消費税」やねん、これ。国民一律強制課税なんて、鬼のすることですよ。鬼。鬼。唾棄すべき税制です。
話にならん。パーの作ったアホ法律です。

こんなもんを「必要だ、必要だ」とマスゴミで繰り返し洗脳して、必要性を信じ込ませて、この世界的不況時に「増税」してしまうんだから、愚の骨頂とはこのことです。もう本当に狂ってるとしか思えない。

なのに。

それでも。

「消費税を減税します!!!!」と、高らかに宣言する政治家がいない。
どこにもいない。
まったくいない。

なんだこれ?

どないなってまんの?

おかしおますがな。

おかしいとおもいませんか?

24年ですよ、24年。

消費税を導入して、不況になってから24年。
もう、明らかに失敗税制ですがな。
もう、検証はいらんでしょうが。
24年かかってどうにもならんかったんやから。

もう、いらん。
ほんまにいらん。
やめてくれ。

社会実験をしてみたと考えたとしても、24年は、長すぎでしょ。

ほんとにどうにかしてほしいですわ。
TOOLS:あなたの「問題」を、勇気と信頼と創造性に変換する。
ツールズ
By フィル・スタッツ, バリー・マイケルズ 価格:¥ 1,680
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4152093099

自己啓発本はけっこうたくさん読みましたが(あまりたくさん読む人は、ちょっと問題なんですよね。読むヒマがあったら行動しろ!ですから。)、この本は画期的に素晴らしいです。

行動できない人は、何からかの心理的問題を抱えている事が多いのですが、その「心理的問題」の事などどーでも良いと。とにかく、いますぐ、やるべきことをやれ! という事を「その気にさせる方法」で教えてくれる本です。

しかも、紹介されている方法はたったの5つ。5個の「ツール」を使うだけです。ツールと言っても、やる気が出ない時にやる気をださせるための「考え方」とか「心理誘導」のようなものですので、お金も手間もかかりません。

そのうえ、5個あるツールの5個目は「ツールを使い続けられなくなった時に続けよう!とするための方法」ですので、実際には4つしかツールがないのです。

で、その中の1番目のツールである「苦しみを望む」(英語では、「The Reversal of Desire」となっておりましたが。)は、このツール一個で、多分、自己啓発本でもっとも有名な「七つの習慣」一冊分に匹敵するくらい強力です。

まぁ、一言で言うと自己啓発本と言いながら、ようは「死ぬまで一生努力すべし。」と言ってるだけの本なんですけどね。でも、人生から逃げないというのは、そういう事ですから。
いろんな意味で、かなりお勧めです。やる気を奮い立たせたい方、ぜひご一読ください。

-------------
とまぁ、FaceBookでは書いたのですが、ここでは少し補足的に。

まず、問題ある心理を抱えている人へのアプローチとして、「原因を究明する」というのがあるんですが、この本はまず最初に「それだけじゃ役に立たない」ということを明確化します。

このあたり、行動療法に近いんですが、これは行動させる前に「行動しよう!」という気持ちにさせるきっかけを与えているのです。

人間がついうっかり陥りがちな「困難を避ける」「怒りで冷静さを失う」「受け入れられるかの恐怖で的確な自己表現ができなくなる」「理由のない不安に襲われる」という4つの「問題」に対して、それを乗り越えるための汎用的な「考え方」を提案しているのですね。

これが素晴らしい。

おおむね、この四つの問題が、人間の成長を阻害していると言って過言ではないと思うのです。
そのすべてを網羅してる。
この四つを克服できれば、それはもう、かなり素晴らしい人間になれるでしょう。

で、5つ目が、「この4つのツールを使い続けるための方法」ですから。
まぁ良くできてます。

弱点は、そのツールの説明に、どうしても抽象性を持たせないと汎用的な道具にならないがために「ハイヤーフォース」という宗教的な概念を導入しているところでしょうか。
これは抵抗ある人には抵抗あるでしょうねぇ。

でも、真に汎用性を持たせるためには、こうするしかないのも現実だと僕は思うのです。とても現実的なアプローチだと思う。

お勧めです。
小沢一郎が民主党を離党した事に関して、どうもネットの評判がいまいちだったりするので、ちょっと書いておこうと思いました。

あんまりごちゃごちゃ言うのもあれですけど、気になるなぁと思うのは2点。

●離党を除籍とマスコミが書いている。

ということと、

●「国民の生活が第一党」はださいと若い人が評している。

ということに関して、ちと「それはおかしかろう」と思ったので、ちょっとだけ書いておきます。

まず、小沢さんは、「官僚+マスコミ」にやたらと攻撃されてます。だから悪く書かれるのです。もう何年も攻撃されっぱなしです。

で、ではなぜ小沢さんが離党したら、それをマスコミが「除籍になった」という書き方をするのかというと、これはまずおそらく、民主党の幹部、つまり官邸に入っている人間が、官房調査費という「公表しなくても良い税金」をマスコミに配って、書かせているからです。

普通に考えたら「離党」でしょ。それでええやん。別に。
でもそれを官邸側に加担したカタチで「除籍された」という書き方をするというのは、官邸側からカネをもらってるからです。

新聞は、すでにインターネットに三行広告やら求人広告やらのニーズを奪い去られていて、カネが本当にないんです。記者が取材しようにも「タクシー代も経費で落とせない」というところまで来てます。だから、官邸からカネをもらったら書くしかない。まぁおおむねそういう話です。

「除籍」の事は以上。

次に「国民の生活が第一」党のことですが。

これ、「第一」というのと、「国民」というのが、無茶苦茶に重要だ、ということを書いておきます。

まず「第一」というのは「優先順位」の話です。

危機が迫ってきたときに、もっとも重要なのは「優先順位をどうするか?」をはっきりさせるということが大事。
だから、この「国民の生活が第一」というのは、実に素晴らしいコンセプトワーズなんですよ。
いまだに、この国は危機を脱出してません。
だから優先順位を明快にしておこう! というのは最低限の約束として、超重要なんです。

「そんな事誰でも言うよ」とか言う人もいてますが、誰でも言うと言うことと、その誰でも言うことを党議として掲げると言うことは意味、重みが全然違います。だから、これは何はともあれ良いことだと僕は思います。

それと「国民の生活」という事に関しても、一言書いておくと、これが「日本人の生活が第一」だったら、僕は全然評価しないのであります。

「日本」という言葉が出た途端に、それは「官僚に頼る」とか「官僚にまかせる」という意味になってしまうからです。

日本をどうこうする、という言い方は、常に官僚が言う言い方です。
そこには、「現在を体制をそのままに、なんとかする」という意味が明確に含まれているのです。「日本」という言葉は、官僚なしでは成立しないからです。

しかし、「国民」は違います。ここに官僚は含まれているかも知れませんが、最優先の課題としては含まれていません。
逆に、国民として税金を払っている人なら、よその国の「国民」とも連帯できるワールドワイドな視点があります。


●官僚の政策よりも、国民の生活感情を優先するのだ。


という明確な方向性の指し示しがある。
ここがとても大事です。

まず、そういう見方をしてください。

--------------

あと、ちょっと追加で書いておくと、週刊誌の週刊文春と週刊新潮の二誌は、「記者クラブ」の身内です。
つまり「官僚の息のかかった雑誌」ということです。

で、その官僚の息のかかった雑誌でこそ取り上げられたのが「小沢の妻の手書きの挨拶状」です。

いろいろごちゃごちゃはありますが、政界には昔から「筆跡を真似た代筆屋」という商売があるそうです。直筆の手紙を何通も何通も、文面を変えて出さないといけないとかあるらしく、いまだにそういう人がいて、そういう人の贋作であることは、ほぼ間違いないそうです。

この件に関しては以上。

----------------

あと、何故小沢さんが、何年にも渡って、こんなに官僚にいじめられるのか? をちょっとだけ書いておきます。

ここが、一般人には全然わからんところで、これがわからんところが、日本人のものすごい不幸なので。

小沢さんは官僚組織の改革に際して、

「官僚の中にも、本当に良く仕事のできる人はいてる。だから、そういう人を積極活用すれば、不況であれなんであれ、難局も乗り越えられると思います。」

というような事を言ってます。

これ、一般人が聞くと、「ものすごく普通の意見」にしか聞こえないわけです。別に官僚批判でもなんでもないですから。
「この程度の事しか言ってない人を、徹底的に叩くなんてことはありえないわね。」と思っちゃうんですね。

でも、その勘違いこそが、全ての不幸の始まりなんです。

よろしいですか?
官僚が、どんなことがあっても、絶対に守りたいのは、死んでも手放したくないのは、


●年功序列


という仕組みなんです。
そして、小沢さんが言ってるのは、ごくごく普通の一般人が考えている、


●実力主義


の意見なんです。


これは絶対にかみ合わないんです。
何がどうあろうと、官僚は、


●実力主義だけは、絶対に嫌。


なんです。
なぜなら、ほとんど全員が「トップになれない」人たちだからです。
何の努力をしなくても、とにかく確実に老後も安泰である、というのが役人が役人であることの「本分」なんです。

そこだけは絶対に守りたいわけです。
どうあっても守りたい。
それがなくなるのなら、役人である意味がなくなってしまう。

だから、役人同士が結託して、「小沢だけはダメ」となるわけです。

民主党が分裂してしまったのは、ようは「官僚から政治家になった隠れ官僚」とも言うべき政治家が官邸に入って力をふるい、結局は官邸が官僚のものになってしまったからです。
野田君なんか、もう操られてると言うこと自体自覚がないでしょう。こういうことは、外から見てるからこそよく分かるわけです。

役人はほぼ全員が年功序列という共同幻想にとりつかれた「サイコパス」です。サイコパスは、人を操る異様な能力を持っているのです。マスコミは、まさに官僚の最適な道具なわけです。

ということで、サイコパスからの洗脳は、気を抜くといつのまにか自分の判断力を奪い去ってしまうと思いますので、上記二点は、最重要項目として頭に入れておいてくださいませ。

以上でした。


今日は難しいことは書きません。
ものすごく簡単な事実だけ書きます。

消費税の導入は1989年です。3%でした。
とたんに90年から日本は経済沈没になりました。

次は消費税5%になったのが、1997年です。
ここの時は、少し経済が戻りかけてたのに消費税上げをしたので、ガタガタになったんです。

時の総理は橋本龍太郎。彼は「あの消費税上げだけは失敗した。官僚にだまされた。」と言ってます。もう死にましたが。(官僚に殺されたという噂もあります。信憑性は高いと思います。)

経済が悪いということは、税収全体が下がるということです。
実際、消費税導入以後、税収はおおむね下がりっぱなしです。
(少し上がったのは小渕首相の時。あの人は赤字国債を出してでも公共投資をした。それが正しい。「まず投資」は経済の常識です。消費税みたいに「先に金払え」でうまく行くわけがない。官僚はアホです。しかも自分たちがアホ・バカであるという事実認識ができないという困ったちゃんです。)

だから政府の資金が底をつくわけです。

ものすごく単純に、

●消費税を導入したから、日本経済は「失われた20年」になった。

のです。

こんな簡単な図式は、他にありません。一目瞭然です。

異論は聞きません。
なぜなら、単なる事実だからです。

みなさん、もっともっと怒りましょう。

こういう事実を、動かしがたい現実として実感しておきましょう。

時折、「いやしかし、」と消費税の必要性を述べる「えらい人」がいますが、ひとつの派は「東大閥」の人です。で、これは「官僚の先輩がいるから、官僚に得になる方の学説だけ紹介して、そうではない種類の学説はあまり吹聴しない」というものすごく、とんでもなく歪んだ意見しか言っていないと言うことを、みなさん頭に置いてくださいね。

もう一方は、たとえば、大前研一さんみたいに、けっこうまともな人が「消費税は必要」とか言ってるパターンです。これは「自分の専門外では騙される」の典型。大前さんは原発に関しては技術者だから正しい予測とかできてましたが、経済はものすごい素人です。
だって、自分の会社も火の車なんだし。話にならん。

で、そういう「権威」が信じられない時、何が大切か? というと、「事実」です。



●消費税を導入してからこっち、日本の経済は完全に沈没してしまった。


ということです。

20年は長い。
実は、たとえばいまの37~8歳以下の人たちは、日本経済がまともに動いている時に、社会に出た事がない。そういう人たちばっかりになってしまってるんです。
そういう人たちは、公共投資をして経済が回っていくという感覚自体、体験自体をしていない。

経済が自立的に回復していく過程を知らない。

だから、そういう人こそ、


●日本の経済が沈没したのは、消費税導入以後なんだよ。


という事実を、しっかりと、目を見開いて認識して欲しいわけです。

ところが、これが、いくら言っても理解できんわけです。体験してないから。20年は長いわなぁ。


もう一度言います。



●日本の経済が沈没したのは、消費税導入以後なんだよ。



日本の景気が悪いのは消費税のせいに決まってるやん! ちょっと事実関係を見ればすぐわかるわね。

(しかも、日本の消費税は、最終消費にかかるだけでなく、製品を作る途中の工程すべてにかかるし、アメリカのように地方格差を是正するための「地方税」扱いですらなく、全部国庫に入ってしまう、ほとんど所得税との二重取り、泥棒税そのものなのですよ。そら、地方が疲弊するのは当たり前やがな。存在価値自体がない。)

ということで、



●消費税10%に賛成


する人は、僕は本物のバカだと思います。いま必要なのは、「一定消費をしたら、所得税を10%減税する」というような消費促進減税とか、「投資をしたら減税してあげるよ」という投資減税とかです。
つまり、


●減税が必要


なタイミングです。

こんな事、世界中どこの国でも、ごく一般的な処方箋として定着しているものです。

で、消費税を上げたら経済が沈没して、最終的に政府の全税収の総額が下がってしまったのと同じ理屈で、消費税を下げるとか、取りやめるとか、廃止するとか、何らかの減税をして国民の負担を減らせば、経済は活気づいて税収そのものは上向くはずです。

そんなもの、


●消費を冷やす消費税。経済沈没、税収減額。


なんて、当たり前の常識ですがな。
それが20年も続いているのが、この国なんです。
そこのところのおかしさをこそ、正しく認識しましょう。

言っておきますが、異論は聞きませんのであしからず。なぜなら、こういう「もう一方の意見」が、ずーーーーーーっと、ずーーーーーーっと、マスコミやら官僚やらによって表に出てこなかったのが、この20年だったからです。

上記の38歳以下の人たちなんかは、もう全員騙され続けてきたと言ってよろしい。
だから、この20年の「洗脳情報」とは、別の意見にこそ、耳を傾けましょう。

以上です。

歩くより遅く走る。「スロージョギング」はランニングの救世主だと思う。
歩くより遅く走る。「スロージョギング」はランニングの救世主だと思う。
歩くより遅く走る。「スロージョギング」はランニングの救世主だと思う。
スポーツに関しては、自転車が大好きで、いくらお手軽でも「ランニング」にだけは手を出さないぞ、と思ってきました。

というのは、実際に走ってみて、「これは体に悪い!」ということを直感的に感じ取ったからなんですね。

一時期、運動不足にならざるを得ない時期があって、なんとか短時間で運動をこなせる方法はないかと、いろいろ試していたときに、住んでいた場所の近くにランニングコースがあったのでそこを走ってみたんですが、どうにも「走る」というのは抵抗がありました。

まず第一に、アスファルトというのがおかしい。自然の地道じゃないし、こんなところを走ると言うこと自体、腰によいわけがない。

第二に、ランニングの基礎情報をいろいろ調べると「クツはしっかりと底の厚いものを」と書いてあったんですね。でも、ジョギングシューズなんて、それこそ1970年代に出てきたもので、それほど歴史があるわけでもない。
いろいろ調べてみると、ジョギングで普通に走ると、ウォーキングの7~8倍の衝撃が腰にかかり、かなりの腰の負担になることがわかったわけです。

で、第三に、これが決定的だったんですが、「走って」いたアスリートの大半が、実際に体を壊していたからなんですね。もっとも代表的なのがジョギングを流行させたジム・フィックス。この人アメリカでジョギングの大ブームを作った人ですけど、52歳でジョギング中に心臓麻痺を起こして死んでるんですよね。
その他にも、どう統計を取っているかがわからないのではっきりした事は言えないのですが、ランニング選手の8割が、なんらかの形で体を壊しているという情報も見聞きしたわけです。
とにかく、「先達がみんな体を壊している」というのが、ランニングというスポーツの偽らざる姿なんですね。
水泳選手で、60、70になっても泳いでる人というのは良く聞きますし、自転車になるともっとすごくて60になってから始めたという人が無茶苦茶に多いし、またそれが長続きしてます。

でもランニングはダメなんですね。どこかでみんな体を壊している。
最近では松村邦広がマラソンで死にかけたりしてますよね? 専門家がついていながらアレなんですよ? 危なっかしいことはなはだしい。

だから、ランニングだけは絶対にしないぞ、と思っていたんですが、テレビで表題にある「スロージョギング」の存在を知ってから、この発想がまるっきり逆になってしまったんですね。

●走る事が、人類を救う!

という気持ちにすらなっております。

というのは、この「スロージョギング」という奴が、僕が前々から「絶対に体に悪い」と感じてたジョギングの「変なところ」を、根っこから改革しているからなんですね。

まず、


●クツはなんでもいい。(足にしっかり固定さえしていれば)


ということです。

なんだそれ? と、僕はまず驚きました。着地の時の衝撃が、徒歩の8倍から9倍ですよ? なのに、なぜ「クツはなんでもいい」のか? ここからまず「なんじゃそりゃ?」が始まったわけです。
じゃ、なぜクツはなんでもいいのかというと、


●着地をカカトからではなく、つま先側からやる。


という事だからなんですね。

これが、驚天動地というか、青天の霹靂というか、「うおっ。わあああああ、それはすごいかも。」と、直感的に「ランニングの問題を根本解決しているのではないか?」という思いを抱かせたんです。

だいたい、カカトから着地するランニングフォームは、体重の衝撃を片足の一点に集中させてしまうフォームですから、これ、どう考えても体に良いわけないと感じてたわけです。

でも、これがつま先側で着地するとなるとどうなるかというと、「カカトが着地するまでに、足の筋肉全体で体を支える」という走り方にならざるを得ないわけです。

このランニングフォームの話をテレビで聞いた途端、「おお、これだ!」と感じて、試してみずにはいられなくなったわけです。

で、さっそく「スロージョギング健康法」という本を購入して、ほんの15分ですが、家の周りを走ってみました。

スロージョギング健康法 ゆっくり走るだけで、脳と体が元気になる!
By 田中 宏暁
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4023308528

すると!

これが実に良いわけです。カカトからの衝撃は全然感じない。その代わり、足の筋肉全体にかなり負荷がかかります。最初の日から数日は、足の裏やふくらはぎに、けっこうな筋肉痛を感じました。
でも、それも数日程度。すぐに足の筋肉が慣れて、ちーとも痛くなくなったんですね。

この「つま先側から着地する」走り方を「フォアフット走法」と言うのだそうですが、実際に走ってみた感覚を言えば、自転車での走りにすごく似てると僕は感じてるんですね。
自転車は腰を完全に車輪の上に載せるので、体への衝撃そのものはほとんどないんですが、足の筋肉だけは目一杯使う感じなわけです。

「フォアフット走法」も、足全体の筋肉を目一杯使う感じ。体のどこか一部だけを使っている感覚が少ない。偏った感じがないんです。そこがかなり自転車の足の動きに似ているなと感じさせます。

とくに、上記の「スロージョギング健康法」の著者である田中宏暁さんの推奨する方法だと、走るスピードを、まずは「歩く程度」あるいは「歩くより遅く」しなさいとされているんですね。

これがまた画期的です。

だって、走ってるのに、歩いてるより遅いんですぜ! なんじゃそりゃ? でしょ?

でも、これがいい。
すごくいい。

なぜか?

疲れないからです!

これがもう、全然疲れない。
疲れないのに、足の筋肉は目一杯使う。すごく運動になる。
なんだこれ? という感じなんですね。

で、この「歩く速度で走る」という走り方が良いところは、普通に歩いている人と一緒に、ぐちゃぐちゃ話しながら移動できると言う点。

つまり「散歩と共存可能」なんですね。

これがまた良いわけです。

お父さん、お母さん、奥さん、旦那さん。そういう家族と一緒に散歩に出るという感じで「走り」に出かけられる。

これがまたかなりの魅力です。

歩くスピードで走ると、それこそ散歩の楽しさがそのまま生きてくるんですね。花が咲いてたら、それを鑑賞し、楽しみつつ走るとか、そういう事がラクラクできる。
しかも、田中宏暁教授は「ニコニコペース」と呼んでらっしゃいますが、「会話できる程度のスピードで走る」というのが有酸素運動としても意味が大きいわけです。

誰か仲の良い人と、一緒に走ってもいいし、一緒に散歩してもいい。会話を楽しみつつ、風景を楽しみつつ、運動にもなる! こんな素晴らしいものはないなぁと思うわけです。

もともと散歩は大好きで「ランニングよりウォーキングでしょ」とずっと思っていたわけですけど、ここに来て、大きく発想が変わりました。どうせ外に出るなら、「ちょっとスロージョギング」という感じですね。

この走法と出会ってから約2ヶ月。いまでは、週に5~6回、40分程度は走っておりますが、せいぜい少しスピードを上げた時にちょっと汗をかく程度。しごく快適でとても気に入っておるのですね。

自転車も大好きなんですが、あれは「移動距離がとんでもなく長くなる」という特長がありまして、40分も走ったら、大阪だと大阪市の端から端まで確実に移動してしまうわけです。
ちょっと遠出したい時には、これほど便利なものもないんですが、「ちょっと運動しよう」と思うとハエを叩くのに大砲を使うというか、たいそうになりすぎてしまうんですね。

ちょっとハガキを出しに行く。ちょっと買い物に出かける。ちょっと散歩する。そういう気楽さでできるのがスロージョギングで、これだと「40分の予定だったけど、15分で戻って来ちゃった」とかもしやすいのです。近所の脇道を回って、家の近所をちょっと走るとかで充分効果があるし。

ネットでいろいろ調べてみたら、スロージョギングに関しては上記書籍の著者である田中教授がYoutubeでフォームの解説もしてくれてますし、

『 田中宏暁教授のスロージョギング講座 Part 1 』in 福岡大学
http://www.youtube.com/watch?v=f48d4kkZRGo
『 田中宏暁教授のスロージョギング講座 Part 2 』in 福岡大学
http://www.youtube.com/watch?v=lLveKzudzbQ&feature=relmfu

NHKのためしてガッテンのホームページでも紹介されています。

脳いきいきダイエット 超らくジョギング革命!
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20090610.html
スロージョギングの?に答えます
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20090805.html

で、これらの記事の中でも、僕が大きくスロージョギングに興味を持ったのは、「脳」に良い、という点でありました。

いろいろ読んでみると、ある程度のスピードで走ると海馬が太るという情報があり、認知症や統合失調症などにも良いらしいのです。

おおお、これはすごい! と思ったのですが、そのあたりは、以下の本などとともに、また別アーティクルで書くことにしましょう。

仕事に効く、脳を鍛える、スロージョギング 角川SSC新書 (角川SSC新書)
By 久保田 競, 田中 宏暁
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4047315575

バカはなおせる—脳を鍛える習慣、悪くする習慣
By 久保田 競
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4756147054

連休は充実してました。(iPhoneのおかげだ、っちゅう話。)
連休の間にやりたいと思っていたことはいろいろあって、でもってそれは、仕事に関する事だったり、PCの設定やらソフトの導入やらなんだかんだだったわけですけども、そういう「自分がやりたかった事」は、ほんの少ししかできなかったんだけど(それでもかなりの事はできた。)、気がついてみると、いろいろな事を連休中に済ませていて、それはまぁ、それなりに充実したお休みでした。

ひとつは畑。義母が田舎で畑を借りていて、なんだかんだと忙しいという事で、耕耘をかねて耕しに行ったのであります。一時期、有機農法で作物を作りに土日ごとに出かけて行ってた時期があるので、スコップの使い方やら平グワの使い方はバッチリであります。雨の中、嫁と二人で、レインコート着て、畝立てまで済ませて、お弁当食べて帰ってきました。

あと、お茶会。茶道のたしなみなんぞ、まったくないんですが、これまた嫁がやってるもんで、半分つきあいで出かける。織田有楽斎から始まる有楽流とか言う流派。あ、煎茶道のお手前もありました。裏千家とはまた全然違っていて面白い。お寺の重要文化財で、普段はなかなか入れない場所に入れるというのも、面白いところ。

前に、近くの神社で同じように重要文化財となっている建物での落語会があったので出かけましたが、そういう場所で伝統の文化を楽しむというのは、なかなか贅沢な感じがあって良いです。

あと、友人がパソコンを買うというので付き合ったのだけども、なんちゅうか、前もって下調べはしないわ、店頭でいろいろ迷うわ、ポイントがつくところを無理矢理ごねて現金に変換させて値切るわ、まぁ僕とは全然違う購買行動だったので驚くやら面白いやら、感心してしまった。いくら安く買えても、買ってから「これ使えんわ」とかなったら最悪やと思うねんけどなぁ。そういう事は気にせんでええんか? よーわからん。

パソコンを買ったは良いけど、ディスプレイまで入れて、重さが15kg。送ってもらえばいいのに、「連休中に設定せなあかんから」と手持ちで持って帰るという。いやー、しかし、あなたいろんなソフトのCD、どこにやったかわからんって言ってたでしょ? 設定できるん?

とか言いつつ、その彼との共通の知人と、これまた久しぶりに会う。実は、ある落語家さんの奥さんなのですが。いつもながら落語の話になって楽しく過ごす。いやー、落語は良いですわね。そうですよね。やっぱり生で聞かないとねぇ。とか言ってお開き。

と思ったら、次の日は、父親の認知症が始まりかけている友人の息抜きがてらの「飲み会訪問」を受けたり。そら、「せん妄」のせいでギャーギャーわめき散らしたり、夜中にいきなり部屋に入ってきて「泥棒に金取られた(妄想)」とか言われたりしたら、たまには息抜きせなたまりませんわなぁ。酒の肴を我が家に持ち込み、しばし歓談。まぁほとんど愚痴を聞くだけですが。嫁と三人で「大変やねぇ」と言う。年寄りも83とかになると大変です。

また別の日は、近くのホームセンターをはしごして、これから夏にかけての家の中の準備いろいろ。網戸を買うために物色したり、これから花を咲かせる植物を買い込んだり。同じような事を考えてる人は多いらしく、園芸コーナーのレジではかなり待たされました。僕の一つ前にいた人なんて、壁にかけるタイプの鉢を7つくらい。それにいれるための植物を小さなものばかり20ポッドほど。それとバラの植木と花台ふたつで、合計1万4000円分も購入されてましたからなぁ。いやまぁ、そのくらいにはなるよね。

そんなこんなをしている間に、僕個人はパソコンとiPhoneの両方で使える仕事用ツールを、いろいろ物色&設定。

いまお気に入りは付箋ソフトのlinoと、マインドマップソフトのSimpleMind。どっちもPC・iPhone両用で使えるので、実に快適。
街の中で思いつきをiPhoneでメモしても、帰宅してPCで即続きの作業ができる。

その他にも、パワーポイントのデータをiPhoneでいじれるようにとアップルのkeynoteを購入。企画書とかちょっと練るのも、これで出先でiPhone触ってやれるのでラク。なんでマイクロソフトはiPhone用のパワポを出さんかねぇ。でもまぁ、DropBoxに対応してないkeynoteをwebDAV経由でDropBoxにつないでくれるdropDAVというサービスを見つけたので、とりあえずはkeynoteをパワポ形式でDropBoxに保存すれば、iPhoneでもPCでも企画書の骨格くらいは練り込むことができるようになりました。うへへへ。(よろこんでおります。)

アウトラインプロセッサとかアイディアプロセッサとかは、「考えを練る」のに必須のツールだと思うんですが、意外に重要視されないんですよねぇ。困ったもんだ。階層構造をやりとりするファイル形式も、いまいち良い規格がない。階層をTAB区切りで表すテキスト形式か、あまり使い勝手の良くないrtf形式か、くらいしかない。Macの世界には良いアウトラインプロセッサとかあるみたいですけど、なんかファイル形式がopmlとかで、あまりメジャーじゃないのよなぁ。いや、アウトライン専用言語で良くできてるとは思うんですが。

あと、iPhoneではoutolinerってソフトがアウトラインを書くにはなかなか良い感じ。
でも、どのツールにせよ、概観までは練り込めても本文の文章書きにまでは踏み込んでないので、僕的にはちょっと残念。
とは言え、このお休み中にかなりの環境が整ったのでけっこう満足してます。
あー、そうか、移動の時間とか時間待ちの合間にiPhoneでソフトの検索とかやってたから、いろんなイベントと並行して設定とか確認とかができたんだねぇ。いやー、やっぱりiPhoneあるいはスマートフォンは良いですな。画期的だわ。こんな事、一昔前だと考えられませんわね。

とは言うものの、連休中にやっておかなきゃ行けなかった、ウクレレの課題曲の練習はほとんどできずじまいだわ。今日、授業だというのに。ちょっと練習しとこ。うむ。



私、ことあるごと、いろんな人に「勉強しろ」というセリフを吐いております。

ところがどうも、このセリフの評判が悪い。
なんか偉そうに聞こえるんでしょうなぁ。

でもね、分かってる人なら分かると思うのですけど、勉強っちゅうのは、すこぶる面白いものなんですよ。

ちゅうかね、面白くもない勉強してどうすんの、とすら思う。

ちゅうかね、「面白い!!!!」と感じて初めて、「勉強した」ということなんですよね。

このあたりは、本当にいろいろやってみないと分からないことなんですけど。


というのは、まず、世の中、どーーーーーーーーーーーでもいい「常識」という奴が、ものすごく幅を利かせてまして、「間違っているのに、それが正しいとされている考え方」というものが、すぐに一般化されてしまってるからなんですね。

「裏付けのない常識」って奴です。

「なんとなくそう感じる」という事だけを頼りにして、それが世の中に広がってしまった言説といいますか。
そういうものが、もう、それこそ、ものすごく多いわけです。


ところが、どんなジャンルでも良いのですが、そうですねぇ、まぁ特定ジャンルの書籍を入門書から中級クラス程度のもの、あるいはちょっと毛色の変わったエッセイくらいかな? そのくらいのものを一気に10冊くらい読むと、それはもう、そういう「そういうことになっている」という類の常識がボロボロボロボロ、砂の城どころではないはかなさで、あっという間に崩れ去ってしまうような、「正しい知識」が手に入るわけですよ。

「正しい知識」が、そういう「裏付けのない常識」を完膚無きまでに叩きのめしているという事が起こるわけです。

まぁ、どういうジャンルでもよろしい。
どんなジャンルでも、入門書から中級クラス程度の書籍10冊程度でそういう知識に出会えるわけです。

「ええええええ、いままでずーっと『○○は××』だと思ってたけど、本当は全然そんな事無かったんだぁぁぁぁぁぁ!!!!」

というビックリ事実に出会ってしまうわけです。


これが「面白い」わけですよ。


これが「面白く」ないわけがない。


チョーーーーー、面白い。

そういう正しい知識を得てしまうと、そこから後は、もう世間で何も知らずに知ったかぶりをしてる人間が、どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしてもバカに見えてしまう。


こんな面白いこと、他にありますか? っちゅうことです。
基礎的な勉強をキチンとすると、そういう事に次々に出会える。
これが面白くないわけがない。
チョーーーーーーー面白い。


だから、もう、何事であれ、「勉強せよ。」と僕は命令してしまうし、それを超強制してしまうのです。

だって面白いねんもん。勉強したら。
面白いねんから、やれっちゅうてんねん。

そうなるわけです。


で。


勉強しないとどうなるかというと、そういう「世の中のおもしろさ」に、全然まったく、一切、ちーとも、ほんの少しも、かすりもせず、出会えもせず、知ることもできず、ずーーーっと、永遠に、終わることのない「つまらなーーーーーーい人生」を過ごすしかなくなるわけです。


そらね、「常識が一夜にしてひっくり返るおもしろさ」ほど、面白いことはございませんですよ。

私が「正しい」と思っていたことが、実は完全に間違いで、もっと大きなところで正しい事実や発見があったとかね。

そらもうね、世の中、そんな事だらけなわけですよ。
常識ひっくり返りまくりというのが、現実というものの素晴らしさの本質なわけですよ。

「常識」なんてものはですね、


●勉強して常識がひっくり返る興奮に耐えられない精神の弱い人のための言い訳


でしかないのだ、ということが、それはそれはよく分かるのですよ。
だから、勉強もしてないくせに、わずかな常識に従って、大人ぶって、知ったような事を言うことがどれだけ恥ずかしいことか、という事なわけです。


ところが!

ところが、ところが!


どうも世間的には、


●勉強とは、しんどいもの。


ということになっているらしいのですな。


なんですか? それは?
そんな「しんどい事」なんて、やっても意味ないでしょ。

やめときなさいよ。そんな事。

おもしろおかしく生きて行きなさいよ、と私は思う。

たかだか10冊くらい本を読む程度のことですがな。あっという間でっせ。勉強しなはれと私は言いたい。

常識がひっくり返るおもしろさを知ったら、そんなものね、そうそうテレビゲームばっかりはやってられないし、DVDばっかり見てられませんって。


常識なんて、つまらないのである。
で、現実の知識というのは、とんでもなく面白いのである。

で、常識に縛られている人が多いからこそ、そういう人が受け入れやすい「娯楽」なるものが存在してるわけです。

理解しやすい。
わかりやすい。
すっと頭に入ってくる。

そういうものは、ようするに「常識に沿って語られている」から、カンタンに分かるわけです。それだけの事なんですね。

でも、本当に面白いものは、現実を全然別の角度から、鮮やかに、はっきりと、クリアに映し出してくれるものなんですよ。
そこがわかってないと、勉強なんて、ちーとも面白くないわけです。

で、常識にへばりついて生きてる人は、そらおもろないやろなと思うねんなぁ。
だって常識の中でしか生きてないわけやから、ワクワク、ドキドキするわけないもん。

でも、現実の世の中は、どんでん返しの連続という、ジェットコースターも顔負けの「非常識なドラマ」そのものなわけですよ。

でも、その非常識にドラマティックな人生を、最初から見ないようにしようとしてる人はいてるわけです。常識に縛られて。

で、たいていそういう人は、何ごとにつけ「不満」なんです。文句つけたり、愚痴ったりする。それが基準値になってる。

いや、文句や不満を言ってもいいんですよ? その不満や愚痴が「明日につながる」とか「こうしたらよい」という提案要素を持っているなら。

そうではなくて、ただ愚痴ってるだけとか、文句を言ってるだけとか、不満を表明してるだけとか、そういうアホな事しか言ってないって事の方が多い。
そらそうですわな。「常識」に従ってるだけっちゅうことは勉強してないっちゅうことやから、真実の意外性のおもしろさを知らないわけですから、そらつまらん。
つまらん人生を送ってるなら、そら愚痴も増えますわな。

そんなもん、お前が悪いねん。

勉強せんからアカンのじゃ。

何、愚痴言うとんねん。
愚痴言うヒマがあったら勉強せぇや、このサボリ魔が、と私は思うだけなのですよ。


勉強というのは、生きてく上での「必須課題」やと思うので、勉強せん奴は単なる「サボリ魔」としか思えないわけです。
だってちゃんと勉強したら、ものすごーーーく面白いわけやから。

そのおもしろさを、自分自ら拒否してるんやらか、そんなもん、生きてる価値ないで。
せっかく、この世のおもしろさがそこにあるのに、見る事もしないなんて。
ああああ、もったいない。

そんなもん、生きながら死んでるようなものでして、そんな中途半端な事をするくらいなら、さっさと死んでしまいなさいよ、と僕は思うわけです。

なので、
「勉強しろ」と言った後に、「勉強するわ」と言わずにゴチャゴチャゴチャゴチャと文句しか言わない奴を見ると、これまた、上記の解説をすっ飛ばして、

「なら、死んだら?」

と、言ってしまう。

生きるというのは学ぶ事であって、学ぶ気がないのなら生きている意味はなく、生きている意味がないなら、さっさと死ね。

っちゅうことです。

で、そう言うと、怒るんよなぁ、そういう人は。
いや、怒るヒマあったら勉強したらよろしがな。
知らんがな、ワシは。
あんたが勉強せんから、世の中がつまらんのであって、ワシのせいとちゃうがな。勝手にしなさいよ。

っちゅうことです。

で、「生きてる意味がないなら、さっさと死ね」と言うと「ひどい」とか言われるんよな。
まぁ、言い方キツイですけど、でも、人生の本質はそこにしかありまへんで。


生きることは学ぶこと。


これでっせ。
他に意味があるか?

断じてない。

学ばないなら死ね。
勉強はおもろいねんから。
学べば人生が快楽になるやから。
そうすれば、人生は快楽そのものやから。
生きてること自体が楽しくなるんやから。

で、たいていの人は、そういう人生のおもしろさに気付いて生きてるわけですよ。
そうでなかったら、生きてられへんもん。
さっさと死んでるよ。

で、人生を面白いと思えない人が、死んでいっても、僕は別に悲しくもないです。
「そらしゃーないわな。さいなら。」と言うしかないもん。そんなもの。

ということで、まとめると、

●人生とは学ぶこと

であり

●勉強は面白い

のであり、それゆえに、

●人生は快楽である。

と言うことなのですね。

これが本質ですわ。

そういうことを、最近はすごく感じます。

最近、友人のお父さんが夜中に騒いだり、けっこうやっかいになってきたりとか、その他いろいろな事があって、うつ病、認知症、せん妄、幻聴、幻視、統合失調、海馬等脳の収縮などなど、いろんな「脳みそ」に関する書籍やら病気に関する書籍やらを読んでおります。

脳みそに関わる病気その他は、当人はおかしくなってるだけだから、何が正しいのかよくわからず好き勝手するだけなんですが、大変なのは家族や周りの人間なんですね。

ところが、保健医療などの仕組みは、基本的に病気になった当人の治療の事しか対象にしてない。家族や周りが、いかに大変で迷惑するかというところあたりは、ほぼまったく考慮されていないわけです。

なので、その友人の事が「大変やろなぁ」と気になってしょうがないのです。

そらまぁ、世間的には震災の被災者の人とかが大変なわけですけど、僕は身の回りの友人とか、知人の大変さの方がはるかに気になる。なんとかしてやれんもんかなぁとか思う。いや、何も出来んのですけどね。

とにかく脳みその中身がちょっとおかしくなった人は、まともにコミュニケーションもできないのですごく困るわけです。
本当に困る。

で、そのおかしくなり方も、いろいろ、いろいろあるので、どこからどこまでが、その人の「本心」であって、どこからどこまでが「病気」や「障害」なのかもわからないので、対応のしようがない。ほとんどお手上げなんですよね。

でまぁ、いろいろ調べていくと、幅広く脳みそに良い事柄というのはありまして、基本は三つなんじゃないかな? と思うに至りました。

それは、

●薬
●運動
●瞑想

です。


「薬」。


「薬」は、抗精神薬ですが、これは症状別にいろいろあって、たとえば幻聴とかせん妄とかには、かなり効果が高いようです。暴れるとか、騒ぐとか、そういう症状で困っている家族や周囲の人間には、まずこれが効果があって、周りの人間は、かなり助かります。

副作用が出る率も少ないし、使い方によってはけっこう良い。

でも、薬でおさえるというのは、結局は対処療法であって、本質的な根本治療にはならないように思うのですね。

で、そういうことを考えていくと、脳の健康をいかに保つのか? って事が大事になってくる。

で、それを調べていくと、やはり運動が良いんですね。


「運動」。

アルツハイマーなんかだと、脳の収縮があって、たとえば海馬なんかが収縮すると、短期記憶が弱くなるわけです。そうなると、たとえば、お金を置いた場所を忘れてしまって、「お金がどっか行った」となるんですね。

これが頻繁に続くと、そのうち「誰かに盗られた」という盗られ妄想になったりするわけです。でも、本当は海馬が細ってきてるから問題なわけで。
(で、この「盗られ妄想」とかはけっこう薬で良くなる可能性が高いらしい。)

で、この海馬の収縮なんていうのは、治らないんだと思ってたんですけど、週に45分程度、時速9Km以上のランニングで海馬が太ってくるという資料があるらしいんですよね。

へえええええ、そうやったんや! と感心する。

治らない、と言われていたものが治るとなると、それは朗報ですわな。

いや、そら年寄りを見る家族も大変ですけど、自分だって歳を食えば脳が衰えていくわけですよ。だから、それを予防したいと思うじゃないですか。
「治らない」のなら、自分もいずれはそうなるのか、という憂鬱な気分にしかなりませんけど、太らせる方法があるなら、全然違う。自分はおかしくならずに済む、っちゅうことですから。

僕はもともとランニングは腰への負担が大きすぎるので、やる気は全然なかったんですけど、調べてみると、スロージョギングという、足のかかとではなくつま先で着地する、ランニングの欠点を克服している走り方があるんですね。
これを知って、またまた大喜びなわけです。

スロージョギングはいいわ。 これはいい。

『 田中宏暁教授のスロージョギング講座 Part 1 』in 福岡大学
http://www.youtube.com/watch?v=f48d4kkZRGo&feature=related
『 田中宏暁教授のスロージョギング講座 Part 2 』in 福岡大学
http://www.youtube.com/watch?v=lLveKzudzbQ&feature=relmfu

ジョギングの神様とか教祖、始祖と呼ばれる、『The Complete Book of Running』(邦題:奇蹟のランニング)の著者、ジェイムズ・フィックス(James F. Fixx)は、ジョギング中に52歳で心筋梗塞を起こして突然死してますからな。基本的にジョギングは、かなり危険だと僕は思ってるんです。

だから、この「歩く速度より遅いスロージョギング」なら、かなり安心と僕は見ておるわけです。このやり方で基礎力を、まずしっかりつけないとアカンやろうと。で、速度も、まぁ10km/hが上限やろなぁと思ってるわけです。
アスリートは長生きしない、とか、人間の呼吸数は一生の間で決まっているのだ、とか、基本的にランニングにはろくな噂はないので、抑えて抑えて、ゆったり走るというのが賢いだろうと思います。

スロージョギングなら、基本的に「息が切れるような走り方はしない」という事なので、その点でも、僕の基準には合格するのです。なんちゅうか、自転車なしで自転車に乗るのと同じ効果が得られる、みたいな感じがする。

スロージョギングで、体力をつけながら、最速で時速9km/h くらいを息切れなしで走れるところまで持って行って、それ以上の早さでは走らないと。そういうのが良いなと僕は思っております。

で、ここで「息切れ」の話がでましたが、「息」となると、これはもう「瞑想」です。


「瞑想」。

「瞑想」をするときは、実は息は「ゆっくり長く」するんですね。運動するときとは逆ですわね。吸って吐いて。肺の大きさは人によって異なりますからその長さはいろいろでしょうが、僕で吸って吐いての1ストロークで約30秒くらいでやってます。

息のコントロールこそは唯一の無意識のコントロール手法なんですよね。というのは、人間の血液・心臓やら胃腸の動きやらは、自分で意識してコントロールできませんから。でも、息の長さ=肺の活動だけは、自分でコントロールできる。

自律神経失調症などが話題になることが多いですけど、「自律神経」って、結局、「自分で勝手に動く神経」という意味ですからな。その「自分勝手神経」を調整する方法が、唯一、「息の長さをコントロールする」なわけですから。

だから「息がハァハァする」というような運動をしてるのは、ちょっとまずいのだろうと、僕は想像してるわけです。

で、瞑想というのは、この呼吸コントロールによる自律神経の調整をやりながら、「意識」を整えるという手法ですから、そら効果あるよなぁって思うわけです。

とくに、うつ病でも、統合失調でも、脳みそに関する疾患で多いのは、前頭前野の能力が落ちて脳みその暴走が始まるということがとても多くて、この


●「前頭前野」を鍛える。


というのが、かなり広範囲に、脳みそに関する病気や障害に効果的らしいんですね。動物的な反射反応を司る小脳とかは、基本的に人生を「苦」として感じるようにできてるらしいんですね。

というのは、たとえば火事になったら嫌なニオイがしますよね? そういう「嫌なニオイ」に敏感でなければ死にますよね? だから何か「刺激」があると、人間は基本的に「危険だ!」と判定して、反射的に動いたりするわけです。

でも、この動物的な反応をしっかり抑え、「いやいや、これはそんなに危険なニオイではない、単にパンが少し焦げただけだ。」というような正確な事実認識や、状況の的確な判断というのを前頭前野が受け持っていて、ここが弱ると脳の暴走が起こりやすい、ということなんだそうです。(多分、知識量の多寡も大いに影響するでしょう。アホはすぐに「あぶない」「あぶない」だけを言いますから。まぁ、危険に備えることは、決して間違いではないですけどね。)

で、ジョギングにせよ、瞑想にせよ、実は、この前頭前野を鍛えてくれるらしいんですよ。動物的小脳が「危険だ!」とわめきたてても、現実的に騒ぐほどでなければ、「あわてる必要はないよ。××が心配なら○○の行動を取れば良いだけだし、対処法はちゃんとある。落ち着いて行動しよう。」と考えるのが前頭前野ですから。

だから、うつや統合失調にしてもそうなんですけど、実は前頭前野が弱っていて、相対的に小脳的な不安優先発想が過剰に反応していることになって、現実的判断ができずに、おかしな発想、行動、言動をする、と言うことになってるらしいのです。

瞑想で前頭前野を鍛えれば、比較相対的に小脳的な反射反応よりも、現実的で論理的な判断が優先されるようになってくるので、落ち着いた対処ができるようになってくるということなんですね。

だから瞑想というのは、すごく良いと僕は思うわけです。

人間ね、さぼっていると、運動もしないし勉強もしないから、アホになって、知識がないから、自分勝手な判断しかできず、で、統合失調症みたいに「自分に問題がある」とすら気付けないままに「危険だ」「危険だ」症候群に陥って、周りに迷惑をかけまくる、ということになってしまう。

それは、まず何より、僕自身がそうなってしまう危険性があると思うわけですよ。

だから、それを予防しなくてはならない。

だから僕は、瞑想もするし、スロージョギングもするし、前頭前野に確かな判断をさせるための栄養素である「知識」を与えるために読書もする、ということです。

歳を食っていく、というのは、そういう「脳の衰え」に対処していくことでもあると思うので、このことは、かなり重要だよなぁと僕は思っておるのです。

いろいろ紹介したい本とかもあるので、それはまたおいおいやっていきますが、おおむねは、そんな事を、最初に書いた友人とは話しをしておるのであります。

いや、何かと大変ですわ。いやほんま。


エネルギー進化論: 「第4の革命」が日本を変える (ちくま新書)
エネルギー進化論: 「第4の革命」が日本を変える (ちくま新書)
飯田 哲也
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4480066438

最近また原発再稼働とかいろいろ騒がれていて、テレビでの論議なんかを見ると、すごーーーーーーく浅いよなぁと思うことがとても多いのです。

(どう浅いと思うか? という事については、秘密日記で。あまりに当たり前な事なので、いちいち書くような事でもないのです。)

でもまぁ、そういう話は横においといて。

ここで紹介する本は、これからのエネルギー問題を考える上で「発想」として頭に置いておかないといけない話が満載の書籍です。

こういう「発想」自体が頭にないのに、エネルギー問題がどうたら、原発がどうたら、発言するほうがおかしい。

最低限、この本くらいは読んだ上で「じゃあ、どうしよう?」と考えると言うことをして欲しいと思うのですよね。そうでないと、馬鹿馬鹿しくて話しをする気にもなれない。

------------------

●「発想」とはどういうことか。

上の文章で「発想」という言葉を使いましたが、基本的に、エネルギー問題というのは、いまやもう「技術」の話ではないんですね。あたりまえのことですが。
すでにして「生活」のことだし、「政治」の事だし、我々の「生き方」のことなんですよ。
そこがすでに問われているわけです。

だから、これまでの生活に対する何の反省もなく、夜中までずっと起きていて、電気をムダに使うゲームばっかりやっていて、暖房便座が素敵だ! と思うような価値観のままの人は、「ちょっと、迷惑やから、論議に参加せんとってくれんか?」とお願いするしかない。

(権利がないとは言わないし、そういう意見も反映させないといけないのですが、緊急の時は「悪いけど社会体制の根幹が固まってから言うて。申し訳ないけど。」と謝って、ちょっとだまってもらっておくしかないです。申し訳ないけど。根幹を考えなければいけない時に、そういう人は「根幹とは何か」自体が皆目検討がつかなくて、そのことで自分が論議を引っかき回している極悪人になってしまっているのだという自覚自体が持てないですよね。困ったことに。教養がない人というのは、総じてそういうものです。)


とまぁ、難しい事を書きましたが、話はそれほど難しいわけでもないんです。

たとえば、この本で紹介されている「電力会社のエネルギー対策」に関して。

普通で考えれば、電気が足りない! という時には

●電力量を増やす

か、

●使用量を減らす

かしかないわけです。

で、そこで日本ではどうなるかというと、電力量を増やす方で「原発再稼働」しか話が出てこないし、減らす方では「一般人が我慢する」しか話が出てこないわけです。

でも、カリフォルニアの発電会社では、


●節電技術を無償で一般人に配る。


という「発想」を持ったのだよ、という事が、この本では紹介されてるんですね。

発電所を建てるとか、あるいは高い石油を購入して火力発電でガンガンに電気を創るという発想から離れて、

●発電所がLED電球を一括購入して、電灯が必要なところに大量無償配布する。

という発想を持った、ということです。

それでもええんですよ。

発想として。

それで電力の需給は保たれるわけでしょ?


そこが一番大切なことなんです。


で、上で「夜中にゲームしてる人」の話を書きましたけど、だからここで言いたいのは、


●そんなにおもろいゲームが、山盛りあるか?


ということですな。


いま、ゲームっておもろないですよ。
そこに気付くことで、かなり大きな節電になるはずですわ。

つまり「気付くこと」で発電するのと同じ効果が期待できるんですよ。

大事なのはここです。

もっと言うなら、


●ロープレで架空のキャラを育てるより、勉強して自分のスキルを上げる方がメリット大!


ということに気付く、というエネルギー対策もアリですよって事です。
本を読みなされよ。
電気なんかいらんで。
ほんまに。

そういう根本的な事を、まずしっかりと考えな、話にも何にもなりまへんわ、っちゅうことです。

そういう発想があると、


●ゲームより、勉強の方がおもろい。


になるわけですから、これだけでかなりのエネルギー対策になる。
違いますか?

しかも、日本人の知的レベルアップまで果たされる。

そういう事ですがな。


ですんで、少なくとも、上記の

エネルギー進化論: 「第4の革命」が日本を変える (ちくま新書)

くらい読め!

ということにしかならないわけですね。

---------------------

このほかにも、「脱『ひとり勝ち』文明論 」とか、いろいろ読んでおくべき本もありますけど、それは置いといて。

ごく身近な例で「ああ、アホやなぁ。」と思った事をちょっと書いておきますと、大阪のミナミのある商業施設で「冬の電力不足に対応するためエスカレーターを一部停止しています。」というのが貼り出されていたのです。

これなどまさに「我慢しましょう」だけなわけです。

意味あるか?それ?

この施設では、トイレの熱風によるハンドドライヤーも停止されていて、「ご協力ください」なわけです。

でもね。

そのくせ暖房は入ってるわけですよ。

バカじゃないの?

そんなもん、エスカレーターは動かして、暖房を落とし、「節電にご協力ください。当施設のショップでは暖かい冬の衣服セールを開催中!今年の冬は厚着をファッショナブルに楽しみましょう!」とかやれば、テナントのショップも儲かるし、みんなが「厚着を楽しむ」方向に動けば、社会的な意味での節電にもつながる。いろんなところが暖房を下げてもOKになるわけですよ。

そんなもんね、一商業施設が「ムダなエレベーター止めました」なんてやって、何の意味があるというのですかね? その施設の電気代がちょっと(本当にちょっとだけです)浮くというだけの話でして、何の社会性もない。

いや逆に「しんどい目をして我慢、我慢」という悪しき風潮を生むだけですわ。

世の中、こういうアホが多すぎる。「みんなが良くなるように考えよう」、というような社会性がないんです。

何か行動して、その結果、良くなるか?

それを考えないと。

どうしたらうまくいくのかな? と考えないと。

そうしないと、単なる我慢にしかならず、それは結局、つまらない愚痴とか無意味な皮肉とかしか生み出さないと思う。

トイレの熱風ハンドドライヤーだって、停止せずに「もし、お持ちならハンカチをお使いください。」とかやって、全施設でハンカチフェアをやるとか、販促用のおまけにハンカチをつけたら良いのですよ。
それでハンカチを楽しむ風潮が生まれて「いつでもどこでもハンドドライヤーを使わない文化」が生まれたら、その方が、圧倒的に節電になる。

でしょ?

そういう「発想の転換」をしないと意味ないんですよ。

で、そういう発想の話が、この本にはいろいろ書いてあります。

まぁ、この本に書いてあるのも、あくまで一例ですから、他もいろいろあるとは思うのでみんなで考えてみたら良いと思うのですがね。

昨年、仕事で関わったビル空調などの節電モーターの商品パンフレットが、ものすごい反響なのだそうです。
担当者が一人しかいないので、対応できなくて困っているという話。
やっぱりいま、「節電技術」は、とても求められているのですね。

どこの企業でも、節電できるところはどんどん節電してるわけですけれど、いかんせん、いままで「原子力での電力が結果的に価格が安い」という事になっていたので、「どんな画期的な節電技術があるか」という事自体が、多くの人に知られてなかったんですね。

というのも、そういう「新しい節電技術」が登場するときというのは、新しい技術であるがゆえに、市場がまだ育っておらず、いきおい製品単価自体がかなり高くなってしまうからなわけです。

「ええええ!こんなに節電できるのぉ?」

というくらいに節電できる装置とか機械とかがあっても、「でも高いじゃんこれ。」と価格の壁に阻まれて普及しなかったというのがかなり多いわけです。

実際、そういう初期費用の高さを節電効果による価格コストに転化しようとしても3年かかるとか5年かかるとかだと、魅力が出てこないわけですわ。

ところが!

いまは原油価格は値上がりしてるし、シェールオイルなどの新しい石油資源も、日本にはパイプラインがないのでLNGとかに液化して輸出入するしかないなどの理由で、かなり高いエネルギーになっているわけです。
いきおい電気代だって上がらざるを得ない。

それを聞いて「おー、やっと値上がりしたか。ええこっちゃ。」と僕は思ってたわけです。原油代等が上がって電気代が上がれば、節電技術の「初期費用」が相対的に「安いもの」に変わってしまうわけですよ。ここが本当に重要でして。

それこそ節電技術なんてものは、腐るほど、山のように存在してるわけです。
一番わかりやすくて誰もが知っているのがLED電球でしょうけど、それだけではないわけです。
たとえば、貯水槽に藻がたまるのを、いままではモーターで水を汲み上げて、ろ過装置を通してろ過してたけど、ある機械を貯水槽に入れたら藻の発生自体を抑えられるとかね。

そういう装置が、ありとあらゆるジャンル、用途、場面、地域ごとに多数、山盛り、雨後の竹の子のごとく、たくさんたくさん、ごちゃまんと、この国には眠っているわけです。

でも、そういう用途ごと、シーンごとに用意されてる節電技術の大半が「初期費用の壁」にはばまれて、全然導入されてこなかったわけです。

そらね、私はね、そういう日の目を見なかった技術とか商品とかのパンフレットを、けっこうかなり制作しましたから。
で、それらがどれもこれも「安い電気代」というカラクリによって駆逐されてきた歴史を間近に見てきましたからねぇ。
電気代が値上がりするなんていうのは、もう、それは「この世の春」に近いわけですよ。そういう新しい発想の「節電技術」の側から見れば。

でも、みんな知りませんから。

そういう節電技術が、山盛り、この国には宝の山のごとく眠っているのだと言うこと自体を、多くの人が知りませんから。

まず、それをみんなが知ろうと努力して欲しいよなぁってつくづく思う。
もうね、ネットとか検索しまくって、自分の仕事に関係しそうな節電技術は、バンバン導入すればいいんですよ。
それが一番社会貢献になります。
何より良いと僕は思う。

ものすごく単純な話、電気炊飯器を使うのを控えて、圧力鍋でごはんを炊いたら、ものすごく節電になりますよ。
煮物だって、あさイチとかでやってる「なべ帽子」とか使うと、かなりエネルギーが減らせる。
そんな事だって良いと思うのです。
圧力鍋なんて、私、大好きですから。カレーとか玄米とか。圧力鍋ばっかりです。

電気掃除機じゃなくても昔ながらのホウキで充分なところはたくさんあるし、おしりを暖める便座ウォーマーなんて愚の骨頂でしょ。貼ってはがせて洗える便座シートで充分お釣りが来る。
電気温水ポットより、僕は瞬間的にお湯が沸かせるティファール電気ポットみたいなのが好きですしね。

で、そういう事のすべてが「電気代の値上がり」によって「あー、そっちの方がええよね。」になってくるわけです。
電気炊飯器を買うより、圧力鍋を買おうか、ということになってくる。

ああ、ええ世の中ですなぁ。やっとまともになってきたと、僕は思うわけで。

電気代が値上がりするから大変だとか、原発を再稼働しなくちゃ大変だ、とか言うけど、「いやー、そうでもおまへんで。」というところをこそ、キチンと考えなくちゃいかんのですよね。

そう言う意味でいくと、一番もったいない電気の使い方は、


●テレビの待機電力


という奴です。
「テレビをすぐにつけるために、ずーーーーっと一日中通電しておく電力」
ですね。

これをまず退治しましょう。
別に見たい番組がはじまる時に数秒から数十秒前にテレビの電源コードをさせば良いだけの話ですから。
それだけでかなりの節電になるわけですから。

いや、それより、いちばんカンタンなのは、テレビを見ないことですね。
で、代わりに本を読めばいい。
もっとくわしく、正しい知識が手にはいるし。

いやホンマ。

結局そこに至ってしまうわ。やっぱり。
うむ。

月に3回、ウクレレを習いに出かけているのですが、最近は一緒に練習している仲間の方々ともども、けっこう力がついてきておりまして。
TAB譜という、ウクレレ専用に書き直された楽譜なら、全員、かなり初見で弾けてしまうのですね。まぁ、先生から譜面を渡されても、一週間あれば、弾くだけなら、まずたいていは1曲全部弾けるようになっております。
はじめて覚えた曲が、まるまる一年かかってやっと全部弾けるようになったと言うことを思い起こせば、自分的にも大進歩なのであります。

ということで、うちのクラスは全員がそこまでは到達してるので、逆に先生が僕たち生徒を「お手本演奏の弾き手」として利用する、というところに至っておるんですな、これが。

うちの先生はアンサンブル(合奏)のスコアも書ける人で、よくオリジナルで合奏用の楽譜を書いてくれるんですが、これが単に「伴奏とメロディライン」というような単純なものではなくて、3パートあれば、それぞれに伴奏に回ったり主旋律に回ったりと、見せ場や難しい課題とかを織り込んで、振り分けて楽譜を書いてくれるわけです。
だから、どのパートを練習しても、まんべんなくいろいろ練習できるようになってる。

で、そういう「教材」を作ってくださってはいるんですが、いかんせん、初心者には譜面だけを渡しても、合奏の完成した姿はわからないわけです。和音を上のパートと下のパートに分かれて弾くところとか、実際に弾いた曲を聴かないとイメージが湧かないわけです。

で、それを先生が弾いたところで各パート別々にしか弾けないわけですよ。完成した合奏の姿にはならない。
だから、その「お手本演奏」を、我々のクラスでまず弾かせて、その録音素材を、他のクラスの授業で使おう、という魂胆なわけです。(笑)

でまぁ、曲にもよりますが、細かな修正やらスピードの調整などを含めて1曲あたり1ヶ月、3回くらいの練習で録音してしまうと。
その録音データの共有にDropBoxがけっこう活躍してるわけなんですね。

いままでは、録音するとなると、まず教室備え付けの機材か、MP3レコーダーかを用意して、録音した後それを聞こうと思ったら、教室に行くか、CDに焼いてもらうかしないといけなかったわけです。もちろん、録音した素材をパソコンにアップロードとかもするんですけど、そうなると家でしか聞けない。そんなこんながあって、録音から最低でも一週間、悪くすると数週間たってから「この間の録音持ってきました」だの「アップロードしときました」だのという話になるわけです。

ところが!
このたび、先生が携帯をiPhoneに変えて、DropBoxを導入までしたものだから、そのあたりがものすごく効率化されてしまったのですな。

まず、先生の生徒たちはみんなDropBoxユーザーになってしまいました。で、先生がDropBoxにデータを上げたら、みんなが一斉に自動的にそれを聞ける。
これだけでも便利なんですが、DropBoxはiPhone用のアプリも出てますからiPhoneでも聞けるし、データのアップロードもできるわけです。

昨日など、うちのクラスのお手本演奏を先生がiPhoneで録音、それをすぐにドロップボックスにあげてくださったので、帰宅途中に自分が演奏したデータが聞けたわけです。
いやー、なかなか画期的であります。

実際、各パートの練習にしても、アンサンブルの全体イメージにしても「お手本」があると、学習進度はものすごく速いんですよねぇ。ほんとうにDropBoxさまさまなのであります。

いやぁほんと、DropBoxは便利ですなぁ。

ここしばらく、瞑想の事をよく書いてるんですが、最近知って「へぇ~そうだったのか!」と驚いたのが、



●瞑想は現実逃避ではなく、現実直視である。



という話。

「え? そうなん?」と、最初は理解できませんでした。

瞑想というと、座禅とか組んで、目をつぶって、寝てるようなもんやから、てっきり「癒し系」で、「やすらぎを求める」ことで、だから「現実逃避なんやろ」と思ってたわけです。

でも、そうではないんですってね。

瞑想をすると、いろいろな雑念が出てくる。その雑念を払うという過程が、まさに自分の心の中の雑然とした状態をしっかりと認識する作業であって、とてもしっかりした現実直視なんだそうです。

ただ、「直視」と言っても、「一つの問題だけを、いつまでも見続ける」というような歪んだ態度ではなくて、「自分の心の中をざーーーーーっと見渡す」というような、客観的視野に立った現実直視なんだそうです。

まぁ、僕の理解で言うなら、グーグルマップで、少し縮尺を変更して、その時その時で必要な「全体像」を得る作業、ということなんとちゃうか? と考えております。

心の病気を持っていたり、やたらと神経症的に不安になってしまう人は、この「縮尺の変更」がでけへんわけです。

ひとつの問題にフォーカスをずーーーーーっとあてて、ずーーーーーっと当てたまま、ずーーーーーっとそのままにしてると。

だから、どんな小さな問題も、カメラが寄りすぎてるから、ものすごく大きな大問題に見えてしまうわけです。

アホですがな、それ。
ちょっとカメラを引いたら、よろしねん。
それだけの事ですがな。

と、僕なんかは思うけど、縮尺を変更する方法がわかってへん人は、もう、ずーーーーーーーっとアップのまま。問題をドアップで、ドデカク映し出すだけになってしまうんですな。

大事なことは全体を見渡すような、広角レンズの縮尺を、頭の中にしっかりと持つことなわけです。

これができるかどうか。
そこが大切なわけです。

瞑想をやって、雑念を全部、川に流すというイメージを、延々心の中に描いていると(最低15分です。それ以上やっても良いそうです。)、ひとつひとつの問題にフォーカスするのではなくて、「あの問題もあるな」「あ、この問題もあるな。」「あ、こっちにもあるわ。」となってきて、どんどん頭の中の視野が広角よりになっていくわけです。

ズームレンズでのドアップを、広角側に倒し、うんと広い視点にチェンジし、あわよくば魚眼レンズくらいまで全体を見渡せるようにする。
そういう現実の見方をするのが瞑想なんだそうで、それは決して現実逃避ではなくて「広い視野で見る現実直視」なんだそうです。

あー、なるほどねぇ。
広角レンズで見ても、それは現実直視には違いないわなぁ。
確かにそうや。
なるほど、なるほど。

と、実によく納得できたのであります。

逆に、やらない方がいい「現実逃避」が、実は映画を見るとかドラマを見る、あるいはゲームをするなどの娯楽に走る事なんだそうです。

これは単純に言ってしまうと、ズームレンズをドアップ方向に倒したまま、カメラを覗かずに目をそらす行為で、ドラマを見た後に、もう一度現実を見ようとすると、いきなり「問題」だけが視野に入ってきて、しかも、超巨大問題として、自分の目の前にそびえ立つ、ということになってしまうわけです。

ドラマやゲームで、そういう「視野」を忘れているわけですから、よけいにビックリしますわな。「なんや、この大問題は!」と、改めてパニックがひどくなるということになるわけです。

あー、つるかめつるかめ。
おそろしい事でございます。

実際には大きな問題も小さな問題もいろいろあって、その大きさも広角レンズで見れば、けっこう小さくも見えるわけです。

ところが、ドラマやゲーム漬けになって、この「視野の切替」機能がさびつくと、自分の目の前にある出来事が、ぜーーーーーーーんぶ「大問題」に見えるような設定になったまま固定してしまって、広角レンズで見ることができるんだ、ということ自体を思い出せなくなるわけですね。
頭の中の切替スイッチが錆びついてしまうわけです。

この構造は、心の病の、かなりの種類に対して共通することのようです。
不安神経症だの、不眠症だの、統合失調症だの、うつ病だの、なんだかんだありますけど、どれもこれも、これと似たような「とらわれ」のもとに病状が進む、ということになっているようです。

どこかで広角レンズ側にスイッチを切り替える、という事を、自分の頭の中でやってあげないと、頭がドアップ専用のマクロレンズになってしまいかねない、ということなんですね。



●心の病を持つものは、テレビを消して、瞑想をしよう。


これが鉄則であるように、僕は思います。
瞑想、あるいは日記でも良いのかも知れませんが、そういう「自分を振り返る作業」こそが、心を強くするんだなぁと、しみじみと思っておるのであります。

はい。

ヒューゴの不思議な発明
ヒューゴの不思議な発明
しばらく書いてなかったので、facebookの方に書いた映画の感想を転送。
ヒューゴの不思議な発明。基本的に、良い映画です。はい。

(転送開始)---------------
今日、映画「ヒューゴの不思議な発明」を観てきたのですが、これ、映画好きにはたまらない映画ですねぇ。
映画の技術的発展史を知っている方には、ぜひぜひぜひ、3D版で観て欲しいものです。3Dで観てこそ、この映画の持つ人類の歴史の有り様に沿ったおもしろさがわかるように思います。
特に僕が声を大にして言いたいのは、この映画はまさに「立体映画」というものの、本質的魅力をとても上手に見せてくれている点でして、多分、今後の立体映画は、この映画の演出をお手本にしなければならなくなるだろう、ということです。
個人的に立体写真を撮影してみたりもしているのでよく分かるのですが、立体写真は「狭い空間」を扱うことの方が得意なんですよね。だから、実は3D映画というのは広大な空間が出てくるビッグタイトルにはあまり向かないのです。だから、アバターみたいな世界は実はそれほど立体の魅力は活かされないのです。(いやまぁ演出次第だし、アバター自体はとても面白かったですけど。)
ヒューゴは、立体映画が狭さ表現に向くということを、実によく分かって設計して制作されているなぁと、ものすごく感心しました。
そういう意味で、真の意味で新時代の映画、と言えると思います。
ちなみに、「狭い空間」を描くのが得意、ということは、あまり大きな社会的な話を描くより、とても個人的な、小さな人間個人を描く方が向いているということでもありまして、そういう意味でも、この映画は的確かつ適切。とても良い映画を観たなぁと感じました。
いやまぁ、映画好き以外の人には、ちょっとした小作品にしか見えない危険もあるんですけど。

ともあれ、この映画はぜひ、3Dでどうぞ。立体空間の表現力の素敵さが良く伝わると思います。はい。
(転送終了)----------------------------

立体映画を評価するときに、どうしても外せないよなぁと思うのが、『遥かなる夢 ニューヨーク物語』というアイマックスシアターで上映された作品で、この映画がすごく良かったんですね。
いまはなき大阪は、サントリーアイマックスシアターの作品紹介のテキストから引用しますと、

(引用開始)---------------------------

『遥かなる夢 ニューヨーク物語』は、約100年前にアメリカ・ニューヨークへ移住した祖先レオポルド・ミントンの家族を探すため、密航してニューヨークへとやってきた11歳のロシア人少年・トーマスを主人公とする物語です。当館では1997年に初公開され、その心あたたまるストーリーと、巨大立体映像の特長を最大限に活かした映像とが評判を呼び、6ヵ月で約13万人ものお客様にご覧頂きました。巨大立体映像の名作の一つとして呼び声の高い本作を、アンコール上映いたします。

 『遥かなる夢 ニューヨーク物語』で、主人公トーマスがたどる旅、それは彼自身の一族の歴史をさかのぼる旅であると同時に、日々変貌していく巨大な街・ニューヨークのかつての面影をたずねる旅でもありました。約100年前にアメリカ・ニューヨークに移住し立体写真カメラマンとなったレオポルドの家族を探す手がかりは、彼が故郷の両親に送った立体写真と手紙のみ。古ぼけたモノクロの立体写真にうつる摩天楼の建築現場や、週末のリゾート地として賑わうコニーアイランドの風景から、日一日とめざましい発展をとげていくニューヨークを支える移民たちの姿が浮かび上がります。

(引用終了)---------------------------

と、こうなっていて、このあたりの雰囲気や設定が、実は「ヒューゴ」もとても似ているわけです。
「遙かなる」の方は静止画の立体写真と、動く3D映画との映像史を扱っていた「家族映画」だったわけですが、「ヒューゴ」の方は、映画が生まれたばかりの時代と、最新の3Dとを映画の技法の歴史として紹介する「家族映画」なわけで、とても近い。

静止画から動画になり、白黒からカラーになり、2Dから3Dになることで、映画は表現として、より「リアル」に近くなるわけで、そうなると、大向こうをうならせる大作映画にするより、より身近な「人間」を描く方が、表現技法の良さが、より効果的になってくるんですね。

だから「広い」より「狭い」を描く方がいいし、「社会」より「家族」を描く方がしっくりくるわけです。

実際「遙かなる」では、11歳の少年が船に密航しているところから始まるのですが、その狭い船室で見つからないように隠れている閉塞感が3Dだと、とてもリアルで良いのです。物陰に隠れている感覚が立体映像のごちゃごちゃの中だと、すごく感じられる。

「ヒューゴ」の主人公の男の子も、駅の時計台という狭苦しくて、とてもごちゃごちゃした場所に隠れ住んでいて、その息苦しさや密閉感みたいなものが3Dだと、とても良く伝わるわけです。

アバターも観たし、僕は好きな映画なんですけど、でもって、世間的にもアバターが立体映画の新しい地平を切り開いたように見られたりもしてるんですけど、でも、アバター的な立体映画の方向性は違うよなぁととても思う。アバターみたいな、広くて大きな事を描く映画は立体映画でなくても良いよ。
立体映画は、小さくて、狭くて、身近なものを描く事にこそ使って欲しいなぁとしみじみと思います。

昔の「Uボート」みたいな、潜水艦に乗り込んでる雰囲気のような映画だと、すごく立体映画の良さが活きるんですけどねぇ。
誰かやらないかな。3D版「Uボート」。ものすごい密閉感と切迫感が出て、おもしろいと思うんだけど。

p.s.
しかしヒューゴにクリストファー・リーが出てるんですけど、この人、もう90歳ですよ。
なのに、スターウォーズには出てるわ、「チャーリーとチョコレート工場」にも出てるわ、近々ホビットの冒険にも出るわと、仕事しすぎ。すごいなー。
スターウォーズでは、デジタル技術のマジックではあるんだけど、ヨーダと剣劇を見せてましたからねぇ。いやまぁ、動きは吹き替えでしょうけど。
長寿で良い仕事をし続ける。人間はみな、こうでなくちゃねぇと思います。
「友達の友達」が死にました。
それほど面識があったわけでもないのですが、僕の友達と、その「友達の友達」が仲良かったのはよく知っていたので、通夜には出席することにしました。

僕とほぼ同い年なので50代頭。死ぬにはまだ早い。
もともと酒好きで、それが高じて肝硬変になり、「もう二度と酒の飲めない体」になってた人だったんです。

一二度しか会ったことはなかったけど、体が大きくて、明るくて楽しい人でした。その僕の友人を通じて、また会いたいなと思っていた矢先で、なんとも言えない。

僕の友人と、その「友達の友達」はついこの間の土曜日にも会っていたらしく、僕の友人は「友達の友達」が死んだことが、まだ受け入れられない感じだそうです。

この僕の友人の状況が、いま、あまり良くなかったのでそれが気になって通夜に出たというのはあるのです。派遣SEとして派遣会社の正規社員として仕事をしていたけど、不況で派遣会社をクビになり、仕事にあぶれているところで、お父さんの認知症も始まりつつある、という感じ。そこに友人の死が重なったということで、これはあまりに心労が大きいだろうと思うのであります。

「友達の友達」は、連れ子のある奥様と20年ほど前に結婚して、その子供達を愛情いっぱいに育て上げた人。人間的に僕は大変尊敬してたんですが、でも、やっぱりしんどかったんやろなぁという気がして仕方ない。

結局、僕の友達と、「友達の友達」は、二人して飲んで、それが仇となって帰らぬ人になったらしく。でも、多分、「もう、ええわ。俺の人生こんなもんで。」と思いはったんやろうと思う。酒が本当に好きだったみたいだし、禁酒して生きながらえても、何の楽しみがあるんや、というところだったのではないかと思う。

10年少し前にも、同世代の知り合いが死んだ事がありました。

そっちは「食い過ぎ」。
頭が良くて、繊細で、でも男気があって若い人の面倒をよく見る人でした。独身なのにみんなの親方的な人まとめの太っ腹さがあるような人だった。
「これ以上食べたら、死ぬよ。」と、この人も医者に大食を止められていたのにやめられず、亡くなってしまった。

酒と食い物で、知り合いを二人亡くしてる、ということになります。

なんかね、ちょっと空しいのです。
自分の過剰な欲求を、うまくコントロールできなくて死んでしまった二人が。

まだまだ、もっと長生きしたら、どんな可能性が残っていたのかわからなかったのに、と思う。でも、「まぁええわ、俺の人生こんなもんで。」と思ったんやろうし、「好きな酒」「好きな食い物」で死んだら本望や、とか思ってたんだと思う。(というか食い過ぎの人ははっきりそう言ってました。)

いやー、それはもったいないよ。もったいなさすぎるよ。って思う。

たとえば、渡辺謙を見て欲しい。渡辺謙は私と同学年。渡辺謙の「謙」は「上杉謙信」の謙から取っており、「独眼竜政宗」で人気が出た後、角川映画で上杉謙信を扱った映画「天と地と」の主役オファーを受けたとき大喜びだったと思うのです。

でも、このとき渡辺謙は急性骨髄性白血病を発症し、映画を降板して治療に専念したんですね。
「天と地と」の監督でもあり、プロデューサーでもあった角川春樹は、渡辺謙に「無理してでも主演して日本のジェームスディーンにならないか?」と無茶な発言をしたらしいのですが、でも、それを泣く泣く断り、生き残る事を選んだからこそ、ラストサムライ以降の国際俳優渡辺謙があるのですからね。
命を大事にして良かったと、本当に思う。

そんな事もあるから、街の中で太っている人を見ると「やせろ! 死ぬぞ!」と、いつも思ってしまう。
死んでまで食いたいものなんてないやろ。
死んでまで酔っていて、幸せなんか?

そういう風に思ってしまう。

その人の人生は、その人のものではあるけど、自分が知っている自分なんて、自分が生きてきた過去の自分だけ。未来の自分の可能性までは、知りようがないのです。

自分にどんな可能性があるのかなんて、実際に生きてみなけりゃ、わかるはずもない。人間は神様じゃないんだから、明日の事なんて分からない。
だからやっぱり、生きよう!と思って生きないとダメなんだと思う。
明日の可能性に賭けて、いつも前向きな方を見ていないといけないと思うのです。

「天と地と」の話があった1990年には、あの松田優作が「ブラックレイン」に出て、国際俳優の仲間入りするかと思ったら死んでしまったというニュースもあったのです。まさに無理して日本のジェームスディーンになってしまった。松田優作は大好きだけど、でも生きていればいま、どんな俳優になっていたのか残念で仕方ない。

渡辺謙は、いまでこそ大人気ですけど、闘病生活の間は仕事も制限しながらしかできず、いつもそこそこの人気しか得られない俳優さんだったわけです。その期間もかなり長い。それでも生きていればこそだった。生きていればこそ、「ラストサムライ」もあったし「インセプション」もあったのです。

病気とは、真正面に向き合って、治してやるぞ! と格闘した方がうんと良いと僕は思うのです。必ず道はあるはずなのです。

だから、こういう早死にした人の事を思うと、寂しくて空しくて、情けない気持ちになります。
なんとか酒を止められなかったのかなぁ。
なんとか大食を止められなかったのかなぁ、と思う。

もし「友達の友達」が「友達の友達」という少し遠い関係ではなく、もっと親しい人間だったら、思い切り叱りつけていたと思うのですよ。
ガンガンに怒った。

アホかお前は! 死んで何の得がある! バカモン! 生きろ! 生きる可能性を追求しろ! 死んだように生きても意味あるかぁ!ドアホ!

と言いたい。
どうしても僕はそう言ってしまう。
叱りつけずにはいられないのです。

ま、性分でしょうが。

実際、この通夜の席で、お経を上げていた坊主が、読経の後、したり顔でわかったような説教をこんこんとやってたのですが、そこでもすごく腹がたった。
本当に日本の仏教は腐ってますわな。話してる内容に意味がないことはなはだしかったんですよ。みんなねむい顔して聞きもせずに「やりすごし」ていた。まるで役人の挨拶やなぁ。これは。そういう死んだように生きてる役人的な説教とかが僕は大嫌いなんです。

僕の「友達の友達」は、多分おそらく不況で仕事がなく、そういう意味で自暴自棄になったわけです。
そういう人間の葬式で、なんで「宗教法人税」が免除されてる特権階級の坊主風情に、説教されなアカンねん? と、思ってしまう。

税金払うのが辛いくらいに追いつめられて、それで「もうええか、命にかかわるけど飲もう」とか、ヤケになった人間の通夜なんやぞ? 税金払ってないお前らが、堂々と顔向けできるんか? できるわけないやろが、と思う。

おまえら、そういうところが、人間として最低だという自覚はないのか? ああ、ないんやなぁ、これが。 
で、こんなクソ人間を許していてええんか! と思うけど、みんなそれが当たり前やと思ってるんやなぁ。ああやれやれ。これが日本の仏教の現実。友達の友達も浮かばれんわ。

(この後、日本の仏教のクソ加減を延々書いたのですが、本論と関係ないのでものすごーーーーく自重して割愛。日本仏教は本当にクソです。)

一つ前のアーティクルでも書きましたが、不況で不安になった人間には、座禅やら瞑想やらの基礎的な心の修行がものすごく役に立つのです。

せめてなぁ、そうい座禅講座を無償で年に5000回やるとかやってみろよと坊主に対しては要望する。
せめて、そういう活動があれば「友達の友達」は死なずに済んだ。そういう予防対策もまともにやらずに、「お通夜といいますのは、夜を通してお灯明を」とか、通夜会場で、わけのわからん自分勝手な屁理屈をとうとうと述べられると、正直、あまりに腹が立って「ええかげんにせいドアホ!偉そうに説教たれたかったら、その前にお前が税金払え!」と立ち上がって大声を張り上げてしまいそうで、我慢するのに苦労するのであります。

「分家は自分で墓を建てないとアカンのですよ」みたいなあからさまな販売促進の屁理屈ばかり世間に流してる日本の仏門のレベルの低さを嘆きつつ、それでもやっぱり瞑想は効果があるよ、座禅をするのも意味があるよと、この「友達の友達」みたいにヤケになってしまう人を、まずはなんとか、考えすぎてしまってる「思考の中断」を勧めたくなる私なのではあります。

そこに確実に救いはあるんですからな。瞑想。座禅。内観。こういう役立つ実用的ノウハウを、エセ宗教家でしかない仏門の徒から解放して、普通に日常でどんどん活用すべきです。あいつらにこれを広めようという真剣さはないですから。自分の身や心は、自分で救うのだ。はい。
リーマンショックの時、かなりの期間、仕事がなくて、ものすごい不安に陥りました。

で、その時に「これは良いなぁ」としみじみ思ったのが「瞑想」であります。

自分の身の回りに起きたことを、何も足さず、何も引かず、ありのままに見つめて、現実的対処を取るために必要な「平常心」が養われるのでありますね。これが本当に良かった。

不安に陥ると、小さな問題でも、それこそ針小棒大に必要以上に大問題と捉えてしまったり、あるいは、その時その時で的確に対処していれば大事に至らないのに、現実直視を恐れて無視し、よけいに事態を悪化させてしまう。人間の心というのは、とても不安定なもので、危機が迫ると、このように「余分に足し」たり、「軽く見て引い」たりしがちなわけです。

でも、実際の問題というのは、その時その時で現実的な姿をしていて、現実的な対処の方法を取れば、まぁたいていは問題にはならないわけです。でも足したり引いたりすることで、問題が一人歩きしておかしな事になってしまうわけです。

瞑想をすると、このあたりが「適正サイズ」になるんですね。そこがよろしい。「よけいな事は考えてもしゃーないわな。」とも思うし、「あー、まぁそれでも、この問題が大問題になってもまずいから、この程度の対処はしておこうか。」と、そこそこ適正な対応が取れるようになる。ものすごーーーーーく「平常心」という奴になるわけです。

「平常心」なんて、人格的に優れた人にしかないものだ、とか思ってましたけど、瞑想をある程度やると、即物的にそういう人格の優れた人のような態度が手に入るわけですよ。「インスタント偉人」というか。そういう、「すぐ手に入る解決策」があるというのがすごいわけです。実際、毎日15分くらい、一週間も続ければ、かなりの精神的安定が得られます。かなり良いです。

で、この瞑想がすごいところは、お金が一切かからないところなんですね。(笑) いや、ほんと。座って半眼になってる程度で良いわけです。必要なのは時間だけ。それもせいぜい15分程度。その割に絶大な効果があるわけですよ。

いまヨーロッパの金融危機がはじけつつあるので、今年は春以降、大変な状況が生まれる可能性もなきにしもあらずです。ですので、、ちょっと瞑想などもやっておいて損はないかもしれません。

瞑想には、いろいろなやり方があるし、僕も専門家じゃないので、みなさん自分でいろいろ調べて試されたら良いと思うのですが、とりあえず、先日NHKでやってた「能の簡単トレーニング」というのが、シンプルかつわかりやすかったので、そのまま転載しますね。

(NHK:ためしてガッテンホームページより転載)-----------------------------------

【実習コーナー】1日15分!脳の簡単トレ

まずは楽な姿勢をとります。
いすに座っていても、寝た状態でもかまいません。
そして軽く目を閉じます。
次に、小川が流れている情景を思い浮かべます。
どんな川でも結構です。
小川のほとりに座って、ゆったりと流れる川面を見つめているイメージです。
次に、その小川に葉っぱが流れている情景を思い浮かべます。
何枚でも構いません。
この情景が思い浮かんだら、次に自分の心に目を向けます。
感情や物といったいろいろな思考が湧き起こるでしょう。その湧き上がってきた思考をすっと葉っぱに乗せて川に流してしまいます。
この時、無理に流そうとしなくて結構です。
途中で引っかかってもかまいません。
沈んでしまってもかまいません。
その場合は、もう一度すっと葉っぱに乗せて川に流してみます。
いろいろな思考が湧き起こるので、その度に葉っぱに乗せて流すという事を繰り返してください。
このトレーニングを1日10分~15分程度、毎日続けてください。
朝起きたとき、お風呂上り、夜寝る前、いつ行っていただいてもかまいません。
無理をすると効果は得られません。
あまり無理をせずに行うようにしてください。

(転載終了)------------------------------------------------------------

まぁ、僕は基本的に座禅に近い形で、座って目を半眼にして、自分の呼吸を数えるというやり方をしてますが、これはもう本当にいろいろですよね。マントラを唱えるとか、湧いてきた雑念をそれぞれ「不安」「雑念」「執着」とラベリングして捨てていくとか、自分の体の筋肉の動きに意識を集中するとか、色や画像をイメージするとか。

上記のためしてガッテンにおいては「不安病」全般に対する療法として、この瞑想が取り上げられていたわけです。不安病というのは、パニック症候群であったり、全般性不安障害であったりいろいろですが、おそらくは、心の病気の多くで効果があるのではないでしょうかね? 別に病気でなくても、一般人誰でも、普段から瞑想とか座禅とかの習慣を持っておくと、とても良いと思われます。

というのは、瞑想をすると、脳の「背内側前頭前野」が鍛えられるという話もありまして、ようは脳みその筋トレという側面があるからなんですね。実際、瞑想をすることで、背内側前頭前野が厚くなったというようなことがあったようです。また、瞑想をやり慣れてる人と、経験の少ない人では脳波の安定度が違うんですね。日々座禅をやっている僧侶の方などは、安定的にアルファ波が出ているのですが、経験のない素人だと、5分もするとアルファ波が低下して眠たくなってしまうようです。
僕も限度は15分くらいなんですね。15分くらいやってると眠たくなってしまう。逆に言えば、「一回やってみよ。」と思って試してみて、5分とたたずに眠たくなったとしたら、それはかなり前頭前野が弱ってると考えても良いのではないか? と僕は思います。

とにかく毎日、あるいは数日に一回でも良いのでしょうけど、継続的に座禅・瞑想をするのは精神衛生上、非常に良いと僕は思います。

まだまだ、不況の風は止まず、政治も本当にダメダメで、いろいろ不安な事が続く日々です。賢く対処の方法を身につけておくに越したことはありません。

「瞑想」は、金もかからず、効果も高いと実感してますので、もしよろしかったらみなさんお試しくださいませ。

ねこ背は治る!──知るだけで体が改善する「4つの意識」 [単行本(ソフトカバー)]
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4426112990

少し前から、母がどうにも猫背で歩くようになり、足を引きずった老人特有のヨチヨチ歩きになりつつあったので、「これはいかんなぁ」と頭を悩ませておったのです。
歳を食ってからは、とにかく足腰が弱ったら終わりなので、毎日、無理にでも散歩には行かせてたのですが、猫背で歩いていたのでは逆効果になりかねないわけです。
良くいてますよね、お年寄りで歩幅が小さくヨチヨチ歩く老人。あれは足の筋肉が弱ってしまってああいう歩き方しかできなくなったということなんですよ。

そんなことになったらやばししなぁ。どうしたものかなぁと考えていたときに、たまたま書店で見つけて読んだのがこの本なのです。
立ち読みで、さらっと流し読みしただけで、その内容のシンプルさに「おお!」とうなり、即買い。数日後には母の猫背歩きが解消。いまではしゃんとした姿勢で散歩してます。

いや、とにかくすごい効果ですわ。

こういう画期的な知識が得られるという事がときたまあるから、本屋巡りはやめられないのでありますよ。
山根一眞の「袋ファイル整理法」が載ってた「スーパー書斎の仕事術」に出会った時も画期的!と思いましたが、この本もそういうたぐいの一発解決の感覚があって、かなりのお気に入りです。

実際、僕自身もけっこうな猫背の方でしたので、この本の解決策には「おおおおおお」と感激せざるを得ないのです。
なんせ、読んでいる端から改善されていきますから。すごいんですから。

それも、「毎日努力して、コツコツ訓練したら治る」とかの努力系ではないのですよ。本の帯にも書いてありますけど、本当に「治療・トレーニングは必要ありません!読んで『知る』だけであなたの体が変わります。」そのものなんです。

これはノウハウとか努力とかそういう世界とは一切関係がない、


●正しい知識を得たら、その場で一発で治る。


という種類のものなんですね。
ここ、大事なので、もう一回書きますけど、


●正しい知識を得たら、その場で一発で治る。


という種類の「問題」というものは、あるんですよ。
「正しい考え方」を身につけていないから問題が解決していない、というような実につまらない問題が、世の中にはごちゃまんとあるんですね。

たかだか小さな、小さな「正しい知識」を得ていない程度の事のために、えんえんと、ものすごく長い時間、悩まなくて良い問題なのに、ずーーーーーっと引きずり倒したままになってしまう、ということが世の中にはあるんです。

こんなアホな、ムダなことはないわけです。

そんなん一発で解決するやん。

ということです。

で、それは正しい知識が身に付いてるかどうか? だけのことなんですね。そういう種類の知識というのはあるのです。
だから、「本を読まなくてはいけない」のですよ。
ほんとに。

無知なまま「??????」とわかりもせずにグダグダやってるのは、ほんとうに、ほんとうに時間の無駄ですからねぇ。

もう一回、しつこく書きますけど、


●正しい知識を得たら、その場で一発で治る。


なんてことはザラにあるのであります。


ということで、この本をアマゾンで検索してみると、星五つ。16人中評価のうち14人が満点でした。

この14人、ほとんどが、ようは前から「私は猫背でいかんよなぁ」と思ってた人らしく。

でも、その気持ちはよく分かるんですよねぇ。いや、ほんとにタイトルの通りで、ねこ背が一発で治っちゃうんですから。

まぁ単純に書いてしまうと、(1)呼吸を深くして(2)体の重心をかかと寄りにする。という2点でOKということになるんです。
本当にエッセンスを文字にしたら、この20字足らずで言い切ってしまってると言っても良いくらいの話なんですね。

でも、この2点を体の構造がどうなっているのか? をものすごーく簡単な説明図と、誰にでも分かる説明の仕方と、いますぐ試せる実験で納得させて、「いやでも猫背が治ってしまう」ように仕向けてるのがこの本の良いところです。

一度体で納得してしまうと、「あ、そういう事やったんや。なるほどね。」と思って、次からは自然と自分で「あるべき姿勢」に自己修正してしまうのですよ。いや、ほんま。

とにかくずっと本だけは日々読み続けてますけど、こういう面白い事があるから読書がやめられないわけでしてねぇ。
いやまぁ、そりゃ小説とか、そういうのも面白かったり感動したりもするから、それはそれでいいのですけど、こういう問題解決系で「おお!」と思わせる本のビックリ感というのは、また、全然違ったエクスペリエンスがありますなぁ。

「猫背が治る」とか「猫背解消」とか銘打たれた本がけっこう出てるんですが、この本を読んだ後に「治療・トレーニング系」の本とか読むと、本当に、

「アホか、こいつ。」

と思っちゃいますからねぇ。
別に悪気があるわけでもないやろし、トレーニングを勧める人は本当にそれが良いと思って書いてるのだと思うのですが、それでもこういう、


●正しい知識を得たら、その場で一発で治る。


系の本を読んでしまった後では、「アホちゃうん?」と思わざるを得ない。「こいつ、自分が無知な事も知らずに一所懸命なんやわ。あー、可哀想に。」と判定せざるを得ない。
で、方向違いの努力をしている人に「アホちゃん?」と言うと、ものすごく怒ったりするんですけどね。うーん、いやー。アホはアホやで。どこまで行っても。悪いけど。


いや、ほんとに。そうなんだからしょうがないですわ。
スターウォーズじゃないですけど、「上には上がある」のですよ。慢心は敵ですわな。僕も良く陥りますので、自己批判を含めてそう思うのであります。

実際、この本のサブタイトルに書かれてあるとおりで、



●知るだけで体が改善する



わけですよ。現実問題。

「あ、人間の体ってこうなってるんや。」
「あ、こういう構造やから、こうするのがええんか。」
「ありゃ、言われたとおりにやったら、自然に背筋が伸びてしもたわ。」
「こりゃよろしな。ああ、らくらく。」

っちゅう感じですからなぁ。


こういう事が伝えられるから本というのは素晴らしい。
で、この知識で言うと、「体の構造」という全体観があるかどうかがかなり重要なんですね。
頭のてっぺんからつま先までの「全体」。
その把握があった上で、呼吸と肺の関係、肺と肋骨の関係、肋骨と背骨の関係、重心と足の骨の関係、重心とカカトの関係、というそれぞれの「関係」とか「つながり」を認知して、その全体像に部分として組み込むと。

そういう「全体と部分」の関係をキチンと書いてあるから納得できるわけです。

これは書籍でないと、ちょっとできない事なんですね。

これをネット検索で読んでも、どうせ「部分」にしかヒットしないから、問題解決には至らないわけです。ネットでは、「どこからどこまでが全体」なのかが、ちょっとわかりにくかったりもしますし。
何より、この手の「健康ネタ」は、誰しもが「部分のつまみ食い」でわかった気になりがちですからねぇ。
そういう「部分のつまみ食い」が、一番誤解を招きやすいというのに、ネットユーザーはどうしても、そういうアホな事をしてしまいがちです。


それではアカンのよ!


部分のつまみ食いは、百害あって一利なし。


部分のつまみ食いではダメなのです。



一冊、通して、まるまる読む。
そして問題の「全体像」をちゃんと知る!


ちゃんとやる!



ちゃんとやる。


そういうことが、本当に大事なんですね。


ちゅうことで、「全体観」をつねにキープしている「書籍」という媒体は、ネットの時代だからこそ、本当に重要なわけです。ですから、ほんっとうに、本を読まない人は「バカ」なんですよ。
ほんとうに。

逆転裁判(実写版)
昨日から公開になった、カプコンのゲームの映画化作品である「逆転裁判」を、昨日、レイトショーで見てきました。

いや、しかし、あの長い原作を、よくもまぁあそこまで破綻無く一本にまとめ上げたものだと、本当に感心してしまいますね。三池崇史監督は実にすごい。特に、原作が持つコメディ調の雰囲気を、独自の映像表現と間合いですくい上げてるところや、証拠データが法廷の空間に3Dデータとして浮かび上がるなどのアイディアは、ゲームの映画化という意味で白眉であります。

主要登場人物が相互に絡み合う、複雑な過去の事件も、かなり省略はあるもののキチンと紹介されているというのに、あの「トノサマン」まで一応は登場するし、かの姫神サクラらしき人物やら、原作の入門編を兼ねた第一話の山野 星雄まで、カツラ飛ばしのシーンごと再現されている。まぁ、原作ファンとしては満足するしかないサービスっぷりで、その内容の濃さに驚いてしまいます。

三池崇史監督自身が原作の1-3までをやり終えて制作にとりかかったらしく、映画の冒頭でいきなり、シリーズを通して繰り返しテーマとして描かれている霊媒師の綾里家の描写から始まるというのが「やってくれるじゃないか」という気分にさせてくれるのであります。
映画としても、総合的に見て、けっこう楽しめる内容だと思いますのでおすすめです。

----------------

それはそれとして。
この「逆転裁判」という作品は、いろんな意味で時代の転換点を象徴していて、そういう意味でも、僕はとても重要な作品なんだと思っています。

だいたい、「裁判」というドライな仕組み自体が、日本人のウェットな心情とはそぐわないはずだったのです。20世紀までの日本であれば。

たとえば、それまでの「裁判」と言えば、遠山の金さんとか、大岡越前の「大岡裁き」とかが主流だったわけです。
「大岡裁き」なんてものは、母親が2人いて、「子供の親はどちらか?」という問題を、越前が「子供を両方から引け。そうすれば母親が分かる。」と言って引っ張らせ、手を離した方を「子供が痛がっているのを可哀想に思った」という理由で母親として認定するという話です。人情話と言えば言えるけれども、「いま、ここで引っ張らずにいたら、一生子供と一緒に暮らせない、それは嫌だ」と思ったら、たとえ子供が嫌がっても、強く引っ張る方が親だという解釈だって成り立つわけです。つまり、

●裁判官の心証次第

というのが、日本の司法制度だった、と言っても過言ではないのです。

しかし、証拠を中心にして、検察と弁護側が「攻める側」と「守る側」という立場を違えて論議を尽くすというのが、いまの日本で採用されている裁判制度の「本当のあり方」なわけですね。

この「本当のあり方」というのを、わかりやすく解説してくれて、何も分かっていない「大岡裁き」レベルの一般大衆に教えてくれたのが、この「逆転裁判」だったのだと僕は思っているわけです。

検察と弁護側で「異なる立場」を守るというのが、非常に重要で、少なくとも2つの複数の視点で物事を検証するという2重の仕組みがそこで守られるわけです。検事は被告を「有罪」と見て証拠固めをし、弁護側は被告を「無罪」と見て証拠の解釈を成立させる。これは「真実に近づくための役割分担」という事であって、別に検事が悪者で、弁護人が正義というわけではありません。当然、検事が正義で弁護士が悪なのでもない。同じ被告を「有罪という視点から見る」と言うことと、「無罪という視点から見る」という2重の見方を「必ず行う」というセーフティーネットとして機能させている、と言うことなのです。

この2方向からの見方を徹底させると言うことを、ある程度、誇張・強調して描いているのが、この「逆転裁判」で、「逆転」のタイトルが示す通り、本当に「もう有罪間違いなし」という状況から、証拠と証言の矛盾を突くという「解釈」だけで無罪を勝ち取るような大逆転の連続になるのが実に面白かったわけです。

●すべては、モノの見方次第。

なのであって、それを仕組みとしてパッケージ化してるのが「裁判」という洋風の制度なんだよ、というのが、実にわかりやすかったわけです。
それが「逆転裁判」というゲームの真骨頂でありました。
そういう裁判制度が持つシステムのあり方の「こころ」というか、考え方の根本をおもしろおかしく強調しながら教えてくれた啓蒙的作品だったと言っても良いと僕は考えていたのです。

実際、この数年で、日本の司法制度が、実は本質的にどこまで行っても「大岡裁き」しかやっていない、前近代的な仕組みでしかなかったんだということがフロッピーディスクデータ改ざん事件の前田検事などで明らかになってきましたし、(前田・大坪二人をトカゲの尻尾切りで済ませようとしてますが、本質は法務省のトップ連中が「大岡裁き」程度の発想しかないのは明白です。ああいうのは徹底糾弾しないといけない。)このゲームの中でも狩魔豪という「証拠のねつ造・隠蔽」検事が登場します。(ああ、ものすごいネタバレ。)

ゲームの中の狩魔のねつ造・隠蔽工作なんて、それこそ体を張った大変な隠蔽工作で、本来そこまでやらないと証拠の改ざんのしようがない、というのが「当然」なのに、フロッピー前田の低知能なねつ造のレベルの低さといい、あのフロッピー前田程度のお気楽改ざんが事件になってしまってるということは、現実としては証拠の厳格な保管なんてこと自体がないに等しいのだということが嫌でも透けて見えてきます。

ほんと、この「逆転裁判」のゲーム版をやった後で、フロッピー前田の事件記事を、読みなおして欲しいものです。いかに日本の司法システムがでたらめかつ、えーかげんかが、よーーーーーーーくわかるから。いやほんま。
もう、現実がマンガで、ゲーム内司法制度の方がまとも、というとんでもない状態に成り下がっているわけです。

結局、この欧米の検事側と弁護側で役割分担をして戦う裁判制度というものは、ディベートの仕組みそのものなのです。役割を分担して、違う角度から真実を追究するという仕組みは、別にケンカをしてるのではなくて、より幅広い見方をするための、最低限、最小限の「システム化」なわけです。

そりゃもちろん、検察と弁護というニ律対向という形だけでなく、3つの立場とか、4つ、5つの立場とか、より多くの立場からの見方があった方が良いわけですが、まずは最低限2つの見方を両方とも見る、という「保証」がなければならない、ということですね。たった二つ、ニ律対向を実現するだけでも、証拠遵守とか、ルールは数多くあるわけですから。

結局、「裁判官だけの心証判定」というのは、単に「単独の見方」でしかなく、そうしないための最小限のシステム「せめて2つの見方を徹底する」というのが近代的な裁判の仕組みであり、ディベートはそういう「多様な見方」をするための、入り口の入り口であると言えます。

はっきり言って2律対抗であるディベートの仕組みを受け入れられない人が3律、4律対向の考え方をするなんて事は絶対に無理なのでありまして、「AかBか2つに一つというのは乱暴だ」とか言う言い方をする人がいてますけど、「ならどうしたらいいの?」と聞いたときに、「心情を考える」とか、「細部の違いをすくい取る」とかなんとかごちゃごちゃ言うのですが、ようは複数の意見を採用せずに、「Aであると言ったらAなんだ」をごり押しする「単数の意見で押し切るやり方」が良いという、無茶苦茶な意見ばかりであることがほとんどなんですよね。ここが本当に困った事なんです。

つまり「多様な見方が必要だ」と言ってるように見えて、実は、昔ながらの「『大岡裁き』が良い=単数の見方(心証)が良い」ということしか言ってないバカが多いわけです。で、どうも日本の法務省のトップ自体が、そういうバカばかりらしい。やれやれだなぁ。ホントにどうにかして欲しい。

知ってる人は知ってると思いますが、ディベートは、論議するテーマを決めて基礎的資料を揃えたあと、「賛成」の側に回るか「反対」の側に回るかは決まってないんですよね。サイコロで決めたり、くじ引きで決めたりするんだそうです。
そんなもの、基礎資料をしっかり読み込んでテーマとなる議題への理解が深まっていれば、それこそ論理構築は賛成の側でも反対の側でも自由に言えなきゃダメなわけです。

実際僕もコピーライターですからよく分かりますが、昔コピーライターの募集で筆記試験があったところは、良く特定テーマに関する賛成意見と反対意見の両方のコピーを書け、というのを出しておりました。当然ですよね。そういう事をするのがコピーライティングの仕事なんですから。

だから、キチンと調べて勉強してる人は、賛成派に回っても、反対派に回っても強いのです。
ようは、どれだけ深く考えているか? こそが問われるわけですから。

そしていま、大衆が、より深く考えるように変わって来つつある、ということなんではないか? と僕は思います。

昨日も「逆転裁判」のレイトショーで入ったスクリーンが、思ったより座席数が多かったので「へぇー、こんな大きなスクリーンでやる映画やったんや!」と感心してしまったくらいでした。

日本はゆっくり変わりつつあるんだな、というのを感じましたね。

ともあれ、「逆転裁判」、なかなか面白い映画ではありました。

(追記:えー、ただし、「逆転裁判4」は、どうもシナリオを、あの巧さんが書いてないらしく、どーーーーーーーしようもない駄作です。まさに上記のような事がわかっていないままに書かれたっぽい。逆転裁判やるなら1,2,3だけで。4はやめましょう。ほんとに4はダメ。あれはあかん。ほんとにだめ。いやー、もう、ほんとにやめてくれ。)

1 2 3 4 5 6 7 8 >

 

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索