どうしても最近、ここに書く事がほとんどなくて困ります。

でもまぁ、ちょっと書かないともったいない感じもするのでちょっと書きましょう。

最近は子供を預けて仕事をしてるので、保育園というのがなかなか面白くて新鮮です。
預けに行くのは私が行き、引き取りはうちの奥さんが行く。そんな感じ。

良く保育園が足りないから幼稚園とひとつにしたらいいのにとかいう話が出ますが、実際に保育園に行くと、まず施設の設備から違いますからな。子供用の便器とか、うんちをした子を洗える大型の洗面台とか。まぁ幼稚園にそういう設備をつけるのはなかなか難しいでしょう。それはよく分かります。
幼稚園は文部科学省が統括していて「教育」の場ですけど、保育所は厚生労働省がまとめていて「福祉厚生」として保育しているというのは根本的に別の事やなぁと思います。

0歳児、1歳児、2歳児、3歳児なんて、それぞれに全部課題が違う。その異なる課題にそれぞれに対応するわけやからなかなかに大変やろなぁと思います。
おそらくうちの子は、トイレトレーニングも保育士さんにかなりの部分をやっていただくことになるんやろうなぁと思う。
(その分、おむつが布おむつなのがけっこう大変。毎日おむつとおむつカバーを6セットずつ、親が洗うということになっている。そういう園の方針なのだからしょうがないですな。)

しかし、こうして書いてみると、子育て日記とかをネットに書きたくなる気持ちがよく分かりますなあ。
日々やってる事に関して書くのが一番簡単だし、また上の文科省と厚労省の話みたいな事もけっこう色々気づきとしてあったりするし。

同年代で子供がすでに大学生という友人(♂)がいてるのですが、だいたい彼は幼稚園と保育所の違い自体を全然知らんかったしねぇ。
なんやそれ、とは思うものの、まぁ奥さんを専業主婦で養っていけるだけの財力があったのだから良しとしよう。

でも、いざ子供を保育所に預けてみると、コミュニケーション能力などなどを考えても、親にとっても子供にとっても良いことの方が多いように感じます。
親も広く社会を知ることができるし、子供も子供のころから他人というか社会に慣れていて、生きやすいのではないか? という気がする。

保育所によっては学童保育(小学生などを、小学校が終わった後も親が帰るまで預かってくれるような仕組み)も併設してるところもあるので、(というか、うちの子の保育所はそういう場所)子供によっては、赤ちゃんの時から小学校を出るくらいまでずーっと保育所に通う子もいたりするそうで、幼稚園より、小学校より長い付き合いになったりもするらしい。

へー。そんなん知らんかったわ。

ということですわ。

そういう場所で育った子は、「世渡り力」が違いますわなぁ。地域情報も密接に入ってくるやろし。友達関係とかでも小学校しか行ってない子よりうんと有利という気がする。そんなことないの?
親が僕の友人みたいに「保育所と幼稚園の違い」も知らんかったら、これ、かなりのハンデなんと違うん? って思う。

世の中、広いよねぇ。地域社会といえども。
そういう感じを受けております。

個人メルマガを始めたら、その方が面白いし、メリットも大きいので、こっちに全然書かなくなってしまいました。
いかんなぁということで、ちょっと書きます。

ということで報告がてら。

昨年、子供が生まれまして、子育てがすごく面白い。
いやー、かわいい。完全に親ばかをやっております。

そういう事もあって、ここに書かなくなっちゃったというのもあるなぁ。
ここの日記書いてるより、子供を観察してるほうが面白いし、幸せですからなぁ。
どうもすみませんね。

あと、Windows8.1 を昨年の秋に導入。今年に入って8インチタブレットも購入。
良いですね、Windowsタブレット。

Winタブ持ってみて、あらためて気づいたけど、iPadにせよandroidタブレットにせよ、officeソフトは互換品しかないわけですよ。
それって結局仕事でつかえないのね。フォントの違いとかでレイアウトが崩れる心配あるし。レイアウト崩れがあると、得意先の人と意思の疎通が図れなかったりするわけですよ。電話でPDF見ながら話すとかパワポのデータ見ながら話すという時に「はぁ?」ってなっちゃうと、その時点でコミュニケーションが成立しないので、もう本当にアウトなわけです。

ということはタブレット人気とか言っても、本当に「ネットを見る」とか「写真を見せる」とかだけで、結局、エクセルで見積りも書けないし、パワポで企画書も書けない。何か「作る」ということができないのですわ。意味ないじゃん!

ちゅうことですわ。
その当たり前のことに改めて気づきまして。

で、そうなると、この数年、やたらiPhoneのいろいろなアプリをこねくり回してWindowsと連携させようとしてたのが、すごく馬鹿らしくなってきました。iPhoneマガジンとか見ても買う気も失せた。

とりあえず、使い慣れてるWindowsアプリが動く方がええわ。

となっちゃうのだなぁ。

携帯も、電話とメール類(LINEとか)専用に先祖返りして良いよ、とか思う。
まぁ、カメラは欲しいからそのあたりは機能アップして欲しいし、カメラをスキャナ的に使うようなソフトは便利なので良いけど、もうアプリがどうとかより電池が持つとか、そういうことの方が期待したい事柄ですな。テザリングとか。

うーん、なんかパソコンの話題ばっかりになってしもた。
まぁええか。
そんな感じの今日この頃です。

同じマンションの3階から1階への引っ越しなので、たいしたことはないのですが、どうにも仕事がいっぱいに詰まっていて、読書もできないのが辛いです。

今月は多分読書は2冊が限度だろうなぁと。

で、いま読んでるのが中田安彦さんの「日本再占領」。

これがすごく面白い。久々の傑作だなぁ。いや、まだ途中までしか読んでないので結論は下せませんが、かなり良いです。

ウィキリークスが出てきたことで、政治や社会、報道などに関する基本的立ち位置のようなものが、全メディアで変わらざるを得ないと思うのですが、そういう新しい視点に立った上で、日本の1300年の歴史を「考え方」の上で総点検している本というようなところ。

この「考え方の総点検」みたいなところが、とてもスケールの大きいアプローチなので面白いんですよねぇ。

また改めて書評は書きたいと思いますが、この本はかなりのお薦めになると思う。

しかし、「本を読む」という、ただそれだけのことが、そう簡単にはできないんですよねぇ。今年はいろいろなことがあって、かなり読書量が減っております。やばいです。

で、読書量が減ってしまって思うのは、「知らないことを知るには時間がかかる」ということでして、自分のよく知らない分野の本を読むと、かなり時間がかかるんですよね。基礎知識が足りてないから、スッと頭に入ってこないわけです。

比較的、よく知った内容なら、復習みたいなもんですからサッサと頭に入るのですが、全然知らなかった知見だと、理解するだけでも時間がかかります。

いま日本の多くの人は、ほとんど本を読んでないですから、いまから読書習慣を持ちなさいと言っても、なかなか難しいのかも知れません。

でも結局、世の中の大事なところを決めるのは「読書人階級」なんだと思います。

別に何かすごい事をしてるわけではないんですけど、それでも「世界標準の常識」があるかないかは、ものすごく重要で、それはやっぱり、「うちのパソコンはメモリが500ギガあって」とかメモリとHDを間違えているような人の意見が、少なくともパソコン関連の世界では通用しないように、「解る人には解る」という「常識の海」というものがありまして、「解る人同士」では、別に仲が良かろうが悪かろうが、そう言うこととは関係なく「ま、確かにそうだわな。」と意志が通じてしまうというのはあるわけです。

だから、「わけのわからん事を言ってる奴」は、単にスルーされるだけということですね。

みんな忙しいしさぁ。
本ももっと読まないと追いつかないし、自分の知らないジャンルの本は読むだけでも一苦労だしね。

何も知らないのに好き勝手言ってる人の相手なんか、そりゃまぁしてられないわね。


だからもう、相手にしないことにしたんだ。わけのわかってない人は。
自分で勉強してね。

ま、そう言うことだと思います。

まえもちょっと書いたのですが、最近、1日のアクセス数がコンスタントに100を越えるようになってきてるんですね。

で、どんなキーワードで検索されたかを、管理画面で見ることができるので、チェックしてるのですが、毎日、最低でも60回くらいは、各種検索サイトからのアクセスがあるんですよ。
だから、残りが、この「だいありのーと」内の方々からのアクセスなんでしょうね。

リンクをさせていただいてる方からの「あしあと」は、せいぜい一日に2人くらいですから、リンクしてない方からのアクセスもまぁ20アクセスとか30アクセスとかなんですかね? 1アクセスをどう定義してるかでも数字は変わるので良く分からないですけども。

ともあれ、はっきりしてるのは、ここの「だいありのーと」のつながりよりも、外からのアクセスの方がはっきりと多いって事なんですね。

キーワードを見てると、トレックの7.5fxとかの自転車の話もけっこうあるし、田中角栄の勉強法(「本を一貫目ほど買ってこい」と言うやり方。)のアクセスもいまだにずっとありますし、ツイストリング・ノートのアクセスも毎日のようにあります。
で、このあいだも書いた「世界大不況の原因」ネタね。いまは、これがかなり多いです。

mixiもやってますけど、最近、mixiよりこっちの「だいあり」の方が面白くなってきていて、それはやっぱり、こういうアクセスの「広がり」がわかるからだと思うのですね。
自分の書いた記事が、誰かにとって、わざわざ調べてまで読みたくなる価値があるんだと思うと、けっこう楽しいです。

これだけアクセスがあるのは、書き続ける事ができたからというのも大きくて、それはやっぱり数打ちゃ当たる、っていうのがあるからなわけです。
で、その続けるに際しての原動力は、やっぱり、ここが「日記を相互に読み合える」という仕組みを持っているからですよね。
mixiも面白いけど、あそことここが違うのは、意外にここは「外への広がり」を肯定してるところかも。

いまやmixiも紹介制はやめて、いくらでも自由に入れるようになったらしいですけど、「足跡」とかの機能は、もうみんな真似してますしね。
そうなると、外からのアクセスが手軽にわかる機能がついてるっていうのは、かなり大切かもしれませんな。

まぁ、かなりコツコツと書き続けないと効果は見えてこないし、yahooやらgoogleで1番のキーワードを取らないと「傾向」とかも見えないですけど、いざ体験してみると、かなり面白いですよね、これは。

「足跡」と「キーワード解析」の内と外の両方の機能が、両輪になってるんだよなぁ、多分。ようは、内も外も両方見ないと、おもろない、っちゅうことですかねぇ。

なんちゅうか、私には、けっこう面白いです。はい。

ということで、

街なかの写真屋さんというのは大変な歴史を持っているという話。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906141004075873/

の続き。

前のメッセージで書きましたが、街なかの写真屋さんというのは、店頭DPE機時代にすごく儲かったわけです。
今の「液晶画面で写ったかどうかを確認する作業」を全部有料でやっていたのだから儲からないわけがないんですね。
しかも、
●現像料
と、
●同時プリント料
という二重請求が当たり前だったわけです。

現像代\1,200+プリント1枚30円とか普通でした。これで24枚撮りのフィルムを同時プリントで頼むとプリント代が720円で、あわせて2000円近くになったわけです。
で、あんまり儲かるので過当競争になって、安売り合戦が激化したわけですが、その時に、現像代は基本料金として値下げせずに、プリント代金の方を下げるというやり方が流行ったんですね。

●プリント代0円!

なんていうのが出てきたわけです。これが今に至る「業界の遺恨」なのですね。

まぁ、当時はプリント代競争でも良かったのですが、これがデジカメ時代に入ると、デジカメには「現像代」というものが存在しなくなっちゃったわけです。稼ぎの基本部分がなくなってしまった。なので、時代の変化で、いきなりものすごく稼ぐのがしんどい業種に変わってしまったわけです。

世間の皆さんは「プリント代なんて安いもの」という意識だけがありますから、とにかくプリント代で比較するような風潮だけが残ってしまってるわけですね。「オタクの店はプリント代いくら?」と質問されるに違いないと、業界全体が考えてたし、そういう考え方をベースにするしかなくなっちゃったわけです。

なので、デジカメ時代に入ってもプリント単価の競争という構図は残りまして、現在で言うと、写真店の店頭即日プリント代が1枚30円~40円、ドラッグストア経由で1~2日待ってのプリントが1枚20円程度(受け取りに行くので郵送費不要)、インターネットで写真データをアップロードして、郵送でプリントを送ってもらうサービスが10円~20円程度(郵送費別)という事になります。

(どのお店も、たいていはボリュームディスカウント=大量発注割引の仕組みはあると思いますので、一概には言えないんですけども。)

写真のプリントが1枚20円だと、どういう事になるかと言うと、一日に500枚プリントして、やっと1万円の売上、5000枚プリントして、やっと10万円の売上、ということになるわけです。1人のお客さんで十枚~数十枚プリントが普通なので、一日に数万円の売上は上げられますが、原価や場所代などの必要経費を差し引いていくと、それほど大きく儲かる商売ではないというのは、すぐにわかると思います。

昔のように「確認のためだけにプリントする」なんて事はありませんし、写真の多くは「ディスプレイ」で見て終わり、というものになってしまってプリントされることが減ってしまったわけです。
プリントするにしても、パソコン用のプリンタがあるから、それでプリントしたりします。

(ちなみに、パソコン用のプリンタで写真印刷をすると、用紙やインクの値段を合わせると、1枚40円前後になります。プリントの失敗やら、プリント前の赤目処理等、手間まで考えれば、写真屋さんでプリントする方がお得です。念のため。)

なので、写真屋さんにプリントを頼む必要自体が、かなり減ってきているわけで、そういう意味では写真店さんは、店舗面積を縮小したり、人手を減らしたり、いろいろ工夫しながら、運営していかなきゃならないんですが、人気のあるお店であればあるほど、プリントする機械に人間が張り付いていなきゃならないんですね。

自分でパソコン用プリンタで写真を印刷したことのある人なら、写真のトリミングやら、色調補正など、かなりの手間がかかると言うことがわかると思うのですが、街の写真店さんは、そういう作業をすべて、一枚一枚、目視でやっておられるわけです。

店頭DPE機を何台用意して、何人体制でやっているかはそれぞれでしょうけれど、とにかく、一日に数千枚の写真をプリントしないとペイしないわけですから、それを全部1枚1枚目視しながらプリントをされてるんですね。
まぁ大変な作業です。

写真は全部一枚ごとにレイアウトも違えば色調も違うし、内容もまちまちですけど、たとえばフラッシュのせいで赤目になっている写真があったら、その赤目処理なんかを、パパパっと手直ししてプリントしたりしてるわけです。そりゃもう職人技ですな。

そういう作業を朝から夜まで、ずっとやっている。なんというか頭の下がる思いでありますよ。

正直言って、あんまりそういう仕事ってしたくないなぁって思うんです。少なくとも僕は。一枚数十円程度なのに、そんなに手間をかけて、しかも何千枚も処理しないといけない。それはもうぞっとする作業です。




でもね。




ここが大事なところなのですが。

そんな大変な仕事を、どうして続けておられるんですか? と写真店の店主さんに話を聞くと、少なくとも、そういう人気店の店主さんはみな、「やっぱり写真が好きですから」と答えられるわけです。

で、その「写真が好き」という言葉の裏には、「写真というものは、本当に良いものなのだ」という熱い熱い想いがしっかりとあるんですね。

その写真の一枚一枚が、とても大事な人の写真だったりするわけですよ。

感動するのは、地域でずっと写真店を経営し続けていると、赤ちゃんの写真をプリントしてるうちに、その子が大きくなって小学生になって、修学旅行に出かけて、大学を卒業して、結婚をして、その子供までが生まれてと、ずっと写真でその生活をつぶさに見る、なんてことがあったりするわけです。親子二代を写真で見ていたりするんですね。

プリントが写真店さんに残っている訳ではないですけれど、それぞれの被写体となった人たちの人生とともに、その数十円の写真がアルバムなどになって、それぞれの家庭に残っていたりする。

そこがとても楽しくて、やりがいのある仕事なんだそうです。

まさに写真は、その人の心と人生を写している、不思議で素敵な存在なんですね。

で、その面白さ、不思議さに、誰もが魅入られてしまうし、写真店をやっている人も、写真を写す人も、そこが面白くて写すしプリントしてながめるわけです。

それが写真という存在の魅力の根源で、この魅力を大切にしている限り、「街の写真屋さん」という商売は必要だし、残っていくんだろうなぁと、僕はしみじみと思っているのです。

ということで、「写真は、その人の心と人生を写している、不思議で素敵な存在なんだ」という話は、また続きを書きます。
書き出すと長くなっていかんですな。
うむ。

この間、プライベートなメールで写真の話を書いた事がありまして。
その影響で、ふと、ここで「街なかの写真店さん」について書いておきたくなりました。

というのも、この数年、というか、かれこれ10年近く、仕事で街なかの写真店さんの販売促進のお手伝いしてるんです。
で、その中で写真店さんを直接取材することも多くて、街の写真屋さんの経営の変転変化をいろいろを見聞きしていて、ちょっと書いてみたいなぁって思ったんです。

何より言いたいのは「写真」という媒体の面白さと、根強い人気という事なんですね。というのは、この写真店さんが、とにかくものすごい「技術の変革」に翻弄され続けてきた業種であって、であるにも関わらず、ものすごく苦労と工夫を重ねながらでも、いまだに「街の写真屋さん」という業態が成り立っているし、またこれからも成立し続けるんだろうなぁ、って思うからなんですね。

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写真の歴史そのものは、実は最初のダゲレオタイプが発明されたのが1940年ごろで、日本にやってきたのが1948年、鎖国終了が1858年ですから、あまり世界とタイムラグなしで日本にも技術が入ってきてるものなんですね。

で、たぶん明治・大正・昭和の初期までは、おそらくは「街の写真館」というのがあって、そこで「写真師に撮ってもらう」のが写真だったのだろうと考えられます。この時代の事は僕には良く分からないんですが。

ただ、35mmフィルムカメラの誕生が1925年(大正14年)でして、それを考えると、

●一般の人間が写真を撮る

という文化は、おそらく昭和に入ってから始まったんでしょう。

なので、普通の人が「自分の撮った写真を見て楽しむ・知り合いに見せる」というような行為は、まさに「昭和の文化」と言っても良いんですね。本当につい最近の風俗・風習だ、ということになります。

写真師に撮ってもらうものから、自分で撮る時代に変わっていくというだけでも、かなりの大変革だったんだろうな、とは思うのですが、そのあたりの事はリアルタイムには知らないので、なんとも言えません。

しかし、「自分で撮る」ようになった、この昭和の時代ですら、写真屋さんにおいては大きな技術変革が次々にありまして、商売の形態がゴロゴロ変わってるんですね。

大きく分けると、

1)白黒写真時代
2)カラー写真時代
3)店頭DPE機時代
4)デジカメ誕生
5)カメラ付きケータイ

というような流れになります。で、この時代の変化にあわせて、写真店さんというのは、

1)白黒写真時代-----→写真の「先生」
2)カラー写真時代---→受付所の「管理人」
3)店頭DPE機時代----→儲けるための「商売人」
4)デジカメ誕生-----→衰退産業の代表例
5)カメラ付きケータイ-----→コミュニケーション業の魁(さきがけ)? さてどうなるか?

というような「役割の変更」をしてきてます。
簡単に説明すると、白黒時代は現像やら紙焼きやらの方法を教えたり、撮り方を教えたり、機材の提供をしたりという「先生」だったわけです。

で、その後カラーフィルムの登場によって裾野が膨大に広がって、個人店舗ではこなしきれなくなってメーカーによる巨大ラボが現像紙焼きをやってた時代があったわけですね。
そういう時代の写真屋さんはお客さんの現像注文を取り次ぐだけの取次店でしかなかったわけです。

しかし、その後「45分ですぐにプリント!」という店頭DPE機が登場します。これは世界的ヒットでありまして、この機械によって写真は、「今日撮影したら今日プリントが見れる」という存在に変わったんですね。で、このDPE機がスーパーとかに入って「買い物をしてるうちにプリントできます」というサービスとして定着しました。

これは本当に大ヒットしまして、写真屋さんも大もうけできたんですね。
いま、デジカメだと、撮ってすぐに液晶画面で「ちゃんと撮れたかな?」と確認しますけど、この「確認のために見る」という部分を全部、わざわざプリントして見ていた時代が我々人類には存在していたんですよ。いまやこうして説明しないとわからなくなっちゃってますが。

だから、この「確認プリント」はとてつもなく大きな市場だったので、ものすごく、ものすごく儲かったんです。だいたい「現像代」というのと「プリント代」というのとで二重にお金を取ってましたから。

なので、この時代に、ものすごくたくさんの参入者が出てきたんです。「稼げる仕事だ!」と言うことで、この商売に入ってきた人がたくさんいたわけです。
なので、この時代の街の写真屋さんは、「商売人」としての側面がかなり大きかったわけです。

が、しかし、これもまた長続きしませんで、あっと言う間にデジカメが誕生して状況を変えてしまいます。液晶でその場確認できるようになったら「確認プリント」なんて誰もしなくなっちゃった。もう全然儲かりません。次々に業界から撤退です。

そりゃもう、潮が引くようにサーッと消えていったということですね。

しかし。

それでもやっぱり写真屋さんを続けてる人はいてるわけですよ。
言わば、衰退産業の中で、その殿(しんがり)を務めている人ですね。
やっぱりカメラ好きの人がいたり、海外旅行や結婚式やらで写真を撮ってプリントとして残したいと考える人がいてます。そういうのは紙に焼いて残しますから、その役割を担う商売というのが必要なわけです。

パソコンでホームプリンタ出力というのも楽しいのですが、そういうものも、何年も色あせがしないよ、という商品が出てきたのは、つい最近でして、それもどこまで色あせしないのかは、まだ検証されてないんですよね。本当に長年の歳月にさらされていないので、実際のところはわからないんです。でも銀塩プリントの方は少なくとも数十年の歴史がありまして、かなり長期間保存のノウハウとかがたまってるわけです。だからそういう点まで含めると、衰退産業の中で殿としてがんばってる人たちには大きなアドバンテージはあるわけです。

商売人が消えた後に残ってるのは、本当に写真が好きで、写真によるコミュニケーションの重要性を心底理解している人たちばかりなんですね。
市場が縮小していくわけですから、真に役立つ部分を理解していて、深くて多様なノウハウを持っている「写真屋さん」しか残れないわけです。
ちゃんと撮影スタジオを持っていて、記念写真やら証明写真を撮影できて、大事な写真を色あせせずに大判に引き延ばすとか、アルバムにして渡すとか、そこまでのことが的確にできる人だけが商売としてやっていけてるわけです。

で、いまはケータイ電話にカメラが常備され、パソコン用のホームプリンタが家庭に普通に入った時代です。なので、日常でカメラを持っている機会は多いし、結果がすぐ見れるので、一般人の写真の腕そのものもかなり上がっています。なのでシャッター数自体はどんどん増えていますし、その質も高いんですね。

なので、自宅でパソコン用のプリンタでプリントする人も出てきますが、いかんせん設定等かなり面倒なわけでして、単なるプリントならまだしも、パネルにするとかアルバム形状にするとなると、面倒でやらない。
でも、写真屋さんで手軽にそれをやってくれるなら利用したい、という人も増えていて、いまは「フォトブック」という、子供の写真とか、旅行の思い出とか、1テーマで一冊、両面プリントできれいにアルバム化するようなプリントが人気になってきてます。

プロの写真屋さん用のプリンタは、この両面プリントとか、色あせしないプリントをデジタルでやるとか、いろいろまた新しい技術革新が行われていて、また新たな「コミュニケーション業」としての写真屋さん、というものが改めて見直されてきていて、いまの時代に、逆に新たに「写真屋さん」になりたいという若い層も出てきてるんですよ。

いまトイカメラとか人気ですし、本当にプライベートな感覚で良い写真を撮る人が増えてきてますし。そういうのを、自分のセンスで生活に取り入れたいというニーズが日々ちょっとずつ高まっているという感じなんですね。

ということで、この50年くらいをふり返っても、写真業というのは

●写真の先生→●受付所の管理人→●儲けるための「商売人」→●衰退産業の代表例→●次代のコミュニケーション業

と、ものすごい変転変化を繰り返してきてるわけですね。

で、そのたびに、業態そのものが根本から変わるくらいの発想と役割の転換をしなくてはならなかったし、いま「親子2代でずっと写真屋をやってきてます。」と言うようなお店は、そういう流れを全部体験してきておられるわけなんです。

で、そういう大変な変転変化があっても、それでも写真店さんが写真屋さんを続けてる理由というのは何か? というと、それはやはり、写真というものが、それだけ、とても魅力的で、誰もに愛されている媒体だから、ということになるんですね。

結局、そこに尽きるんですが、長くなるので、文章を割ります。
続きはまた。


ちょっと、このところ自転車、それもスポーツ自転車っちゅうか、そういうのが欲しくて、自転車関係の本をちょこちょこ読みあさってるんですが、そういう中から分ってきたことは、

都市で車に乗ってる奴はバカだ。

という事でしたねぇ。
う~ん、他に言いようがない。

特に石油の無駄遣いという観点からはどうしようもなくダメダメだねぇ。レジ袋の削減とかエコバッグとか言う前に、「クルマから降りよ、自転車に乗れ」なんだねぇ。
いやほんとに。

これからは

都市部でクルマに乗ることは恥ずかしいこと。

にならざるを得ないんだろうなぁって思います。

なんちゅうかね、都市部ってのは、信号機があるわけですよ。で、これは高速道路みたいに信号なしにするわけにはいかないわけですわね。ということは必然的にストップアンドゴーを繰り返すことになるわけです。なので、都市部でのクルマの速度なんて平均で25㎞くらいなんだってさ。
いや、実は、渋滞がなければもうちょっとは速いんだろうとは思うのですが、渋滞してるから。いろんなところで。そういう事を考えると、まぁ25㎞なんだってさ。

でね、「なんで渋滞してるの?」っちゅうと、これが「クルマが多いから」だもの。原因はクルマ自身なわけですから。そら、まずクルマの数を減らすことが、クルマの性能を活かすためにも必要って事な訳です。

で、しかも、都市部での乗車率っていうのは、平均1.5人なんだってさ。これにバスが入ってるのかどうかは知らないけど、まぁバスは入ってない数字でしょうな。タクシーは入ってると思う。
1.5人だよ? でも、これ、都市部としてはまだ多い方らしい。ドイツかどこかだと1.2人とかね、そんなことらしいです。

まぁなんちゅうか、書類一枚届けるのにクルマに乗ってるアホウばっかりってことですわな。

いやー、まずそれを削減しなけりゃイカンですよ。

約二年ほど前に、大阪の市内の下町も下町っていうような場所に18年ぶりくらいで引っ越したんですがね、路地っちゅうか、通りの雰囲気が、なんかすごく変わってるわけです。家が新築でたくさん建ってるんですな。

それが新築のほとんどが3階建てで、一階が車庫付きなわけですよ。

これがね。

どうも好きじゃない。

見るだけで醜い。醜悪なんだよなぁ、すごく。

何が醜悪かというと、玄関という家の顔がクルマという「機械」に占領されていて、どうにも人の暮らしている、イキイキとした印象が生まれないわけです。なんか狭っくるしい感じがする。「クルマさま」に土地の相当部分を明け渡して、人間さまがその横を申し訳なさそうに入っていくというイメージがすごく強いんですよ。なんかイビツな気がする。

で、クルマがそうやってデカイ面をさらすとね、下町特有の「路地の植木」というのを置く場所が無くなっちゃうんです。だから、昔と比べると、すごく殺風景なんだよなぁ、これが。

あれはイカンって思うんですよ。なんか根本的な事が大きく間違ってるって思う。

たしかに、大型のホームセンターとかが市内に出来ていて、それこそクルマがあれば、かなりの生活雑貨はそこで調達できるし便利は便利だろうって思うんですよ。でも、それって本当に幸せ?なんか違う気がする。

和歌山の田舎へ通うこと2年、暮らすこと半年という期間を経て、田舎の生活にとってクルマがなければどうしようもないっていう事が嫌でもわかったわけなんですが、それって、僕はやっぱり「仕方なく」することだと思うのですよ。本質的には「貧しい暮らし」だと思う。

徒歩と公共交通(電車・地下鉄・路面電車・バス・タクシー)が充実していて、お年寄りから子供まで移動の自由がキチンと担保されているっていうのが、まず「都会の重要要件」だと思うのですよね。そこに「自家用車」っていうチョイスが本当に必要なのか? って事です。

イラん!そんなものは必要ない!

のですよ。

ちゅうのはね、自転車とクルマの投影面積比を考えたら分るんです。自転車って、クルマのなんと7分の一の面積しか必要ないんですよ。知ってました? 奥さん!

で、その面積で1/7という自転車(ただしスポーツ自転車ね。ママチャリじゃダメ。)の平均時速はっていうと、交通法規を遵守して20㎞~25㎞なんだってさ。なんと渋滞を含む、都市部の車の移動速度とほぼ同等なんですな。

しかも! です。
たとえば書類一枚を届けるのなら、クルマだと駐車場確保のために、かなりの時間ロスが生まれるわけですよ。で、都市部の「お客さま用駐車場」の完備されてないビルなんかに出向く時なんてのは、近くのコインパークに止めて、そこからえっちらおっちら歩く! 歩く! 歩く!

でも自転車なら、ビルの前に駐輪して、サッと上に上がっていけばオーケーなんですよね。
(ここで、「それは違法駐輪なんじゃないのか? 景観上問題があるんじゃないか?」とか考えた人は、間違ってないけど、世界の大きな流れには取り残されてる人なので、そのことについては考えるな。無知なまま考えても意味はない。)

だから実は、メッセンジャー(都市部で自転車便をやっているニイチャンたち)は「都市部では自転車が最速っすよ。断言します。」と言うのだそうです。
僕は乗ってないからなんとも言えないんですけどね。でも、事実みたいよ。クルマは現実問題、「遅い乗り物」なんだってさ。

で、もっと恐ろしいことを言うなら、クルマって図体がデカイから、制動距離が長いんですよね。わかりますか?制動距離。 ようするに車間距離のことです。ブレーキを踏んでから止るまでの距離。同じ25㎞で走っていても、クルマだと

余分に空間が必要。

なんですよね。つまり、駐車スペース(自宅;会社)+制動距離 を考えると、都市の「空間コスト」が恐ろしく大きい。って事な訳です。

ようするに、遅いは、空間はムダに食うわで、完全に、

柄がデカイだけのバカ。

なんですよ。

そんなものに乗っていて「ああ、道が混んでるな。」もないものなんですよ。「お前がクルマに乗ってるから道が混むんじゃ、ボケ! 用もないのに乗るな!マヌケ。さっさとクルマから降りろ!」ちゅうことですわ。

で、ガソリンは燃やし倒し。で、その実、自転車より低機能。遅い。

だから、どう考えても、都市部でのクルマ利用(自家用車)っていうのは、ムダの極みなんですよ。

もちろん、お年寄りのドアトウドアの移動(介護とかね)とかにはクルマが最適なので、そういう部分にはクルマを利用すればいいんですけどね。でも、そういう「必要なところにクルマを使う」にしても、いまの個人所有の自家用車の多さではクルマのメリット自体が生きてこない。

ようはクルマが増えすぎってことなんですよね。

ちゅうことで、今後10年か20年かはわかりませんが、おそらく少なくとも都市部の道路の2車線中1車線は「自転車専用レーン」になっていくだろうと思われます。
なんかとんでもない夢想社会のように聞こえるかもしれないんですが、この2週間くらい、いろいろ読んでいくと、最終的にそういう結論にしかならないのよなぁ。ほんまに。
どう考えても、

個人所有の車が多すぎる。

というところにしか、原因を見つけられないんだもの。いまの状況が異常なんですよ。

実は、すでに道路交通法が昨年の6月から一部変わりまして、「自転車の車道走行の原則」が徹底されはじめております。
都市交通っていうのを考えれば、そうならざるを得ないのですよ。

考えてもみてくださいまし。誰かがクルマから降りて自転車に乗る。たったそれだけの事で、道路の利用可能空間が7倍広がるって事なんですから。自家用車に勝ち目はまったくなしなんです。ちゅうか、クルマの本来の性能を出すためにも、書類一枚のためにクルマに乗ってる人間はクルマから降りなきゃダメって事ですな。

それに加えて、環境、メタボ、高齢化、などなどの問題を総合的に見ていくと、そこにしか道がないって事になるのですなぁ。
いやホンマに。
他に選択肢、ないもん。
このままクルマが増えても、メリットまったくなしなんよなぁ。ほんとに。

自家用車をお持ちの方。ちょっと真剣にお悩みくだされ。

よそで健康関連のブログをやってるもので、こっちではその手の話を全然書いてなかったのだけど、ちょっと書いてみたくなったので、書いてみます。

1年半ほど前のこと。あるある大辞典だっけ? あの番組が問題になって打ち切りになる前後から、ダイエットっていうのが気になりだしまして。随分腹が出てたので。
それで、まず食事制限からはじめたのであります。

いろいろ本も読んでみたけど、現実的で効果がありそうだったのは、石原結實(いしはらゆうみ)さんのやり方・考え方でした。
ザクっと言うなら「人間、あんまり食わない方が、耐性がついて健康になる。」っちゅう話です。半日断食とか週末断食とか勧められてます。

それはまぁ、大きな理念なんだけど、現実的にどうしたら良いか、という事で、「朝は忙しいだろうから、野菜ジュース(ニンジン・リンゴジュース)で済ませて、昼飯は蕎麦程度、夜はつきあいもあろうし何食っても良いよ」というやり方を提案されてるのですね。

で、基本的に僕もこれを真似て、ダイエットしました。去年の1月に170cmで70kgだったのが、去年の春には65kgくらいまで下がって、そこで安定してたんですが、去年の冬前に「粗食のすすめ」を読んで玄米食に目覚めてから、玄米のうまさにしばらくはまってしまって、今年の初めに、また70kgに戻ってしまったのであります。(冬場のダイエットは難しいよなぁって思った。今年の課題だなぁ。)

で、今年は春から、こりゃいかんと、またまたダイエットのやりなおし。3月の頭にほぼ70kgだったのですが、現在64kg前後になってます。あと1kgか2kgほど絞って、そこで安定させたいなと思ってるんですが。

こまかい事は省きますが、食事制限は微量栄養素をいかにキチンと取るかがポイントなので、野菜ジュースは重要。空腹感が出るか出ないかは、そこにかかってるんですな。逆に言えば、野菜ジュースを飲んでりゃ、食事制限は、そうしんどくない。(あと豆乳も大事。)でも、ジュースばっかりだと食物繊維が取れないのが問題でねぇ。いろいろ工夫中です。

しかし、去年は「体重は減ったけど、腹が凹まない」という問題にぶつかって、途中から運動をするということにしたわけです。

で、何をするか? と考えて、現実的なのはやっぱり「歩く量を増やす」だったんですね。なので万歩計を買って、とにかく歩いた。大阪在住なので、地下街をやたらと歩くというのが、雨の日でもできることなので、大変効果的。

それと階段! エスカレーターとか使わない。とにかく階段を上り下りする。
それから、ごくあたりまえに普通の筋肉トレーニングですね。これも自宅でできる腕立て伏せとか腹筋とかが、結局は一番だなぁというのが僕的な結論。雨が降ってもできるしねぇ。

水泳も一時期やってみたけど、わざわざ出かけるっていうのは続かないですな。やっぱり日常生活の中に運動を組み込まないと絶対量が足りない。週に一度ジムに通って1時間運動するくらいなら、毎日10分自宅でWiiFitする方がはるかにマシ。(あ、いまは毎日WiiFitしてます。これはなかなか良いです。)ジムなんてよほど刻苦勉励しないと週に二回とか行かないもんなぁ。しんどいのはキライ。やっぱり通勤時間とかに運動を組み込むのが圧倒的に正解なんですね。

でも実は、腹が凹むかどうかは、どうも運動量とかはあんまり関係ないみたいなんですよねぇ。それより骨盤の歪みの矯正の方が、はるかに効果が高いみたいです。骨盤が歪んでると、腹筋が伸びてしまって、力を入れられず、内臓がだらしなく外側に出てしまうということのようだなぁ。ある程度運動して、骨盤も矯正してやると、腹筋も背筋も全部使う方が「ラク」になるみたいであります。

人体の骨格標本を思いだしてみるといいけど、腹回りには背骨以外に骨なんかなにもない。つまりは、筋肉で支えてるわけですな。だから骨盤を正しい位置に矯正すると、背筋も腹筋も、特に運動では鍛えにくい腹の内側のインナーマッスルも全部がバランス良く働いて、腹が締まるというわけです。24時間、すべての筋肉が均等に少しずつ働いている状態にしてやるのが良いようです。この1年くらいで実感したのはそういう事ですね。

骨盤矯正には腰回し体操が良いみたいで、WiiFitのフープダンスとか、書籍で言うと、SHINOさんの美腰ダイエットあたりが代表選手かなぁ。デューク更家さんの「ウォーキング考」でも、「まず、ちゃんと立つ事!骨盤を安定させて仙骨を立てる事!」という事で、足の重心をカカト→親指の付け根→反対側の足の親指の付け根→カカトと回転させる方法が書いてあって、「これって腰回しやん!」って思ったのでありますよ。

ともあれ、最近は、腹筋をゆるめて腹をボテッと出した状態で立ってるよりも、背筋も腹筋も少しずつ緊張してる状態で立ってる方が楽で、そうなると腹ボテにはならないんですな。「ああ、そういう事やったんや!」と目ウロコでした。メタボ・腹ボテのためにランニングするとか、何の効果もおまへん。全くのムダであります。

とは言うものの、やっぱりもうちょっと体脂肪率を減らしたいので(現在22.1くらい)、何か運動はしなくちゃなぁと思ってたんですが、知り合いのデザイナーの男の子(って言ったって、もう30才だけど)が、かなり体を絞ってたので、どうしてるか聞いてみたわけです。

彼は週末にサッカーをやってるので、かなり激しい運動だし「やっぱりそのくらいしないとダメかなぁ」と聞くと「いや、違いますよ。僕が痩せたのは多分、自転車通勤ですよ。」と言うのですね。聞くとサッカーも多少は影響がありそうだけど、自覚的に効果があったのは自転車なんだそうで。毎日片道15分程度しか乗ってないらしいのだけど、それで下半身が一気に締まったと言うのです。

「シゲさんもぜひ自転車通勤してみてくださいよ。絶対痩せますよ。やっぱり毎日やってるのが、一番効果的なんですよ。僕、本でも書こうかなと思いますわ。そんな特別な事をやるとかしても続かないしダメですって。簡単で毎日できる事やないと。」

とのたまう。

いや、その通りやで! と言う事になって、4月から自転車通勤を始めてみたのですが、これが実に気持ちいい。いまの季節、最高だなぁ。

自転車も実は使い方でして、たとえば、駅まで徒歩10分のところを、急いでいるからと自転車に乗って5分にするとかは逆に運動量が減ってるだけなので意味ないのですね。運動単位は最低10分から、なので、やっぱり連続して15分くらい乗ってないと意味がない。

なので、事務所の最寄り駅から3駅ほど自宅に近い場所に自転車駐車場を借りて、そこから事務所に通うようにしたのであります。地下鉄3駅分を自転車で移動すると、だいたい15分でしてちょうど良いのです。

もう少し遠い駅にしたかったのだけど、定期で借りられる駐輪場って、大阪市内にはけっこう少ないんですよねぇ。

カロリー消費には有酸素運動が大切って言うけども、それは速筋を鍛えても効果が低く、遅筋をたっぷり動かしてやる必要があるわけで。そうなると全筋肉の70%を占める下半身をゆったりと動かす「歩く」というのが効果が高いわけですが、歩くのが普通になってくると、もう少し負荷をかけたくなるわけで。でも、どう負荷をかけるか? ってのが難しかったんですね。ひたすら歩く時間を延ばすしか方法がなくて。

でも自転車に乗って、よくわかったけど、このラクさ加減は、まさに遅筋の活用だなぁ、遅筋に負荷をかけてるよなぁって実感するのです。まぁ坂道とかは速筋も使わざるを得ないけど、普通に道を走ってる時はゆるやかーに負荷がかかってる。

で、何より良いのは、腰に負担がかからない事。だって座ってる状態と同じなんだもの。座ったままの状態で、太ももやら腰回りにだけ負荷がかかる。あー、これは良いわと、改めて実感したのです。

走ったりすると足から腰にかけて全体重が乗っかるわけで、どう考えても体に良いわけがないって思うんですよ。「走る」という行為自体、普通そんなに毎日やるような動作じゃないもんなぁ。

太ってるから走る。なんて人が多いのだけど、それは根本的にものすごくおかしいわけです。これは「いつまでもデブと思うなよ」に出てたことだけど、体が重いから走る気になれないわけですよ。だから先に痩せないとダメなわけ。食事制限が先。

標準体重より3kg重い人が走るっていうのは、3kgの赤ちゃんを抱いて走るって事な訳でね。ヤメなさいって言うの、そういう事は。ほんとに。「いつまでもデブと」の岡田氏は運動を一切しないで痩せたんですよね。で、痩せたある日、急いでたので駅の階段を駆け上がったら、その軽さ、快適さに驚いた!って言うわけです。

そうだよなぁ。って思う。太ってたら運動リスクは大きいから運動しない方がいいですよ。腕に重りをつけてるドラゴンボールの悟空みたいなものなんだもん。「太ったから運動」っていう考え方は、だから、かなりおかしい。

だいたい、もともとエアロビックな運動が必要と叫ばれ出したのは車社会バリバリのアメリカからで、そのアメリカを中心に爆発的に起こったのがジョギングブーム。ランニングよりゆるやかだから良い、てな事を言われてたのだけど、1984年にジョギングの教祖と呼ばれていたジェームス・フィックス氏が心臓病でジョギング中に急死すると一気に熱がさめて、「ウォーキングが良い」という言い方に変わったわけで。だからランニングなんてもっとよろしくないのじゃないかなぁ、というのが、私の考え。

まぁプロのアスリートは必要があってやるのだからしゃーないけどね。でもそこには必ずスポーツ障害という問題がドーンと存在してるしなぁ。ランニングってのは多分かなりハードなスポーツでしょう。

マラソンが趣味の上岡竜太郎も、「マラソンなんて体にええわけないやないですか」と言ってたりする。あの人は正しいよなぁ。本質をよくわかってると思う。村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」も、立ち読みで読みかけたのだけど、出だしに「走ることというと健康のためという事があるが」みたいな話を書いてるところを読んで「わ、こいつアホやわ」と思って読む気が萎えた。昔は好きだったんだけどなぁ、村上春樹。こういう事を書くなら、もうちょっと勉強して欲しいって思う。

ともあれ、車にばっかり乗ってて、それで歩くこともしなくなったから、穴埋めに走るなんていうのは、アメリカンな、バカの極みだと思うのですよ。走るのと歩くのは全然別の運動で穴埋めにはならんのです。

でもどうも、ウォーキングですら、「一日一万歩」ってのが多すぎるという問題を含んでるようなのですよねぇ。デューク更家さんもそう言ってるし、「百歳まで歩く」の田中尚喜さんも言ってる。ちゃんとした骨盤とか姿勢とかが整わずに歩いてると、歪みがひどくなるばかりだそうで。

そういう意味では自転車だって、安全かどうかはわかりゃしないのだけども、それでも日常的にこれだけ使われていて、自転車で心臓マヒで死んだという話も聞かないし問題はないだろうとは想像がつく。

なにより、ようよう考えてみると、ヨドバシカメラの梅田店とかに行っても、自転車売り場が最近はどんどん拡張されてたんですよね。あれはやっぱり、こういう「健康のために自転車に乗るのが、かなり良いぞ」って気付いた人が増えてたからなんだろうなとつくづく実感。

実際、自転車通勤すると、昼ご飯とかを食べに出るときにも自転車を使うので、けっこう事務所近くの面白いお店とか開拓できて、そういうところも面白いわけです。最近では、通勤途中の気になるお店とか覗いたり入ったりして、かなり楽しい。

雨の日はさすがに乗るつもりはないので、地下街を歩いて階段を使い、晴れの日は自転車通勤という、このパターンでしばらく続けようと思うのです。

本当は自宅から事務所まで自転車で移動するのが良いのでしょうけど、いまは本当に普通のファミリーサイクルをそのまま使ってるだけなので、長距離ってのはちょっとしんどいのですよね。うーん。そのうち良い自転車を買って、自宅から事務所まで自転車通勤に変えようかなぁ。

まぁ、これから、夏の暑い日、そして冬の寒い日にどうするか、というのはこれからの検討課題なので、乗り続けるかどうか不明確なんですけどね。夏・冬はお休みにしようかなぁ。ま、とにかく今は、やたらと気持ちが良いので楽しいです。まぁ、朝から取材に出かけないといけないので乗らないとか、雨が降ってるから乗らないとかがあって、二日に一度くらいの頻度なんですけどね。

歩く、でもなく、走る、でもない、ちょうど良いバランスで、自転車ってのはかなりいいなぁ。例の勝間和代さんも自転車を最大限に活用してる人ですけど、いろいろ考えていくと、都市部では自転車っていう選択肢に行き着きやすいんですよね。

気持ちを前向きに積極的にするには、筋肉量を増やすって事がけっこう大事なんですよね。(それも遅筋。ふだんの日常動作を司る筋肉ね。家事でもなんでも気軽にやるってことがやる気を作るって事です。考えたら当たり前なんだけど。家事も重要だなぁ。掃除洗濯。ま、これは思い切りさぼってますけど、私は。)

自転車と電車を組合わせて通勤すると、体のためには、一番効率的な気がする。

最近、ガソリン税がうんぬんって話があるけど、あんなのあれですよ、東京・大阪あたりの大都市圏に住んでいて、自動車に乗ってるような人間からだけ、バリバリに税金を取って、それを地方に振り分けたらいいんだって思う。で、できたら地方でも電車の路線を造るのがいいんだけどなぁ。路面電車とか。

地方の人って、公共交通機関がないから、クルマにばっかり乗っていて、歩かないから、本当に体力ないんよね。ちょっと歩くとなると「ええー!そんなに歩くの?」とか言う。まことによろしくない。

でも、まぁそれは公共交通機関が不十分なんだからしょうがないわけですよ。

でも都市部は違うんですよね。電車でもバスでも、充分に環境は整ってる。整ってるのに、それを使わず、ガソリン燃やして、道路を道ふさぎしている「都市部クルマ族」ってのが大量にいてるわけですよ。これはイカンと思う。

まぁ確かにホームセンターとかが都市部にドカーンとできてる現実とかがあるから、一概にクルマなんかなくても良いとは言えないけど、それでも都市部でクルマに乗るとかは根本的にムダだと思うんですよねぇ。都市部の一般市民でクルマを持ってる人からは、ガンガン税金を取った方が、いろんな事がうまく行くはずですよ。

まぁ、そういう事を考えるとやっぱり自転車だなぁ。
通勤という毎日の作業に組み込むって事が大事でね。
ものすごーく軽い負荷。
ほんのちょっとだけの簡単作業。
それを、毎日飽きずに続けられるようにする。

日本人がなんだかんだ言っても、「会社勤め」をするっていうのも、そういう健康面でのメリットがけっこう大きいと言うことを無意識に実感してたからじゃないのか? って思うんですよね。それはやっぱり農耕民族としての民族的な文化なんだろうなぁ。DNAに刻まれてる。で、それを現代的にすると自転車ツーキニストになるってことじゃないかなぁと。

でも、自転車で移動するには環境がいろいろと不便なんですけどね。信号の切り替わり時間とか。でも、そういう事は別にしても、やっぱり都市部での自転車っていうのはかなり意義ある存在ですな。自転車ツーキニスト。これがやっぱり、いろんな意味で良いチョイスだわなぁって思う昨今であります。
今年も、あと三十分くらいになってきました。
この「だいありーのーと」で知り合わせていただいた方へは、年賀状より、一年のお礼の方が合うなぁと思うので、感謝の書き込みです。

ほんとうにありがとうございました。

今年はプライベートで婚約(と言っても家族で写真を撮っただけですが)したり、いろいろと変化も大きかった年で、いいことがたくさんありました。

しかしそれより何より、何か「生きやすさ」みたいなものを感じ取れた年であった事が大きいように思います。

正しく望めば、願いはかないます。
そういう当たり前のことが実感できた気がする。それが一番大きな収穫だったかな。

みなさまの今年が良い年であればいいのですが。
そして来年がみなさまにとって、素晴らしい一年になりますように、お祈りして今年一年を締めくくらせていただきます。

感謝、多謝。
ほんとうにありがとうございました。

ではまた来年。

ホタルの夜。

2005年6月11日 日常
この日記を書いているのは、2006年の1月27日なのだけど、ふと半年も前のことが書きたくなってきたので、ちょっと書きます。

あんまり、こういう公の場所でプライベートのことを書くのは好きでもないんですがね。でも、なんか幸せだなぁという実感がいろいろとあるので、たまにはこういうことも書きたくなったのであります。

もともと大阪生まれの大阪育ちなので、天然のホタルというものを見たことがない。でもしかし、彼女はもともと和歌山の生まれで、しかも、季節イベント重視、自然との触れあい好きと言う人なので天然のホタルを見に行くことが好きという人なのであります。

ということで、和歌山の山の中へホタルを見に行くことになりました。しかも、両方のオカン付きで。
母同士は、ともに旦那が他界していて、しかも同い年ということで、けっこう仲良く楽しくやっているのである。いままでにも高野山に四人で出かけたり、温泉に行ったり、いろいろ遊んでるのだけれど、これがまた、けっこう楽しい。

だいたい血液型が全員違うのだ。私はAB、彼女がA、うちの母親がBで、彼女のお母さんがO。なので、四人で会うと全員、意見も考え方も、物事を見てる視点も感じ方も、話すタイミングもぜーんぶ違うので、もうずーっと車の中でわいわいガヤガヤと話している感じにどうしてもなってしまうのだけど、これがけっこう楽しい。

ケタケタ笑ってる母親を見ていられるというのは安心なものである。また彼女のおかあさんが楽しい人で、道に迷った時など、車から顔を出し、見知らぬ土地のおじさんに「このへんでホタルのよく見えるところというとどのへんでしょうな」とか聞いてくれたりする。

ということで、そのまま道もわからずにどんどんと山の中へと入って行ったのだけど、走っているとボヤっと光が動く。「ありゃ、このあたりがそうと違うか?」ってことになって、道ばたに車を止める。もう暗くなってるからどこが何やら良く分からないけれど、道の下に流れる谷側の川端にはちらほらとホタルが見える。実に幻想的。

道から見下ろす川一帯にホタルが光っては消える美しさ。ほんとうに小さな光だから、車が通ったりすると見えなくなってしまう。でもけっこう穴場は知られているのか、次々に車がやってきては止まり、何人かの人が谷をのぞき込んでいる。

不思議なことに、多少のズレはあるものの、何メートルも何十メートルも離れているのに、ホタル同士の点滅のサイクルはあまりズレがない。何か連絡しあってるのだろうか。沢一帯がクリスマスツリーのように、薄青い、はかない光で飾られている雰囲気だ。

「いやーきれいだねー」としばらく見入っていたのだけれど、あたりを見回すと、少し遠くにもホタルがいてるようだったので、少し道の奥の方へと入ってみる。するとそれこそ真っ暗で何も見えないような通りになったのだけれど、もうすぐ近く、顔の前をホタルが通るような感じでなんとも言えない不思議な空間になっている。

谷からポーッと小さな光が、いくつも昇ってきては、道路の僕たちの前を通り過ぎて、そのまま山側へとゆっくりと上がって行く。

「ほら、あんなに高いところにもホタルがいてるわ」と指さしながら山道をすこし歩く。暗くて気がつかなかったけれど、この暗い道にも、とても大勢の人がいた。子供がいて年寄りがいて、夫婦連れがいて。街なかの縁日のような人の集まりだけれど、縁日のように裸電球で照らされるということもなく、周りにいる人たちの顔も良く分からない。わかるのは「わはー」とか「ほぉぉ」とか、ためいきとも感動ともつかない、小さなしゃべり声だけ。

どこの家族も、それぞれに、小さな幸せを携えて、こんな山奥まで来たんだろうなという感じがして良いものだった。

充分ホタルを堪能して、その夜は彼女の実家で四人とも泊まって帰ったのだけれど、実に楽しい一夜でありました。

うん。楽しかったよ。
今日、電車に乗ろうとしてエスカレーターに立っていると、後ろから誰かがぶつかってきた。

「なんだぁ」と思って、横を見ようとしたらすかさず「すみません」と声が返ってきた。

で、よくよく見ると、手には白い杖。目の見えない高校生くらいの男の子なのよねー。エスカレーターどんどん階段みたいに登ってたんだねー。

目が見えないから、とりあえず左側(大阪では左側を空けます。)をどんどん登ってきたわけだ。

でも目が見えないから誰かと肩くらいはこすってしまうかも知れない。でも、とにかくどんどんどんと登っていくわけよねー。

「ぶつかったら謝ればいいや」

って感じ。

ちょっと気になって、その後もしばらく目でその後姿を追ってたんだけれど、床の案内板を踏みながら、これまたどんどんホームを進んでた。自分がそういう案内板の上に立ってると気づいてない人にはドスンとかけっこうぶつかってるんだよなー。

たぶんぶつかるたびに「すんません」って声をかけてるんだろうなー。

なんかねー、かっこ良かったんだ、それ。
すげーかっこ良かった。
いいなぁ。いま思い出すと涙出そうだねぇ。

目が見えないのにエスカレーターをどんどん登ってくっていうのがまず、けっこう大変だと思うのよ。いつエスカレーターの終わりが来るかとか、慣れるまで大変だろうなと思う。

でも、それをやってるんだろうねぇ、普段から。慣れてたもん。

で、普通はぶつかる前に「すみません」って言って駆け上がっていくんだけど、彼にはそれができない。できないから、ぶつかってから素早く「すみません」と言うという技を見つけたんだと思う。

そういうのがもう全部ね、かっこいいんだ。
自分の環境とかに文句言うんじゃなくて、そのまま受け入れて、なおかつ目の見える人がどう思うのかという社会性まで考えて、それで自分の「やり方」を見つけ出してるんだよなー。

ああ、かっこいいよなー。
すげーかっこいい。

ああ、またホロリときちゃいそうだよ。
努力とコミュニケーションと、自分の強い意志と。
全部がかっこいいのだぁ。

階段で片側をあけるとかさ、床の案内板とかさ、そういう、「世の中にあるもの」も、そのまま使ってるしさ。それも最大限に。
そういうところもイカスよなぁ。

「あるもんは使わせていただきましょ」だ。

片側空けとか案内板とかは、つい「かっこだけ存在するもの」とか思いがちだけど、こんな風に積極的に使ってくれると「ああそうだ、凄く意味あるものだよねぇ」とか思いなおせるしさ。そういう「誰もに役立つもの」がそこにあるのだ、そういう社会に生きているのだ、と思えるということも豊かな感じがあってうれしいじゃないか。

そういうことまでひっくるめてカッコいいよなぁと思った。

当人はカッコとかなんとか考えちゃいないと思うけどさ。


少し仕事も詰まっているのだが、仕事ばっかりしてると気分的に詰まってしまうので、日曜ではなく土曜日を「休み」にした。

このところこのパターンが多いのだが、けっこう良い。(詰まってる仕事は日曜日にやるんだけどね。)

でまぁ、ちと遊びに出たりして、ついでに散髪することにした。行きつけの理美容店があるから行ったのだけど、その店は基本的には「理髪店」であり、ようするに客がほとんどというか、まず男ばっかりの店なのだ。

なのに、今日は客に女性がいたのだ。ビビビビビックリ。

かれこれもう10年近く通ってる店だが、いままで一度として女性客と遭遇したことはない。なんつーか居心地があまりよろしくないのである。

こっちはメガネをはずしてるので顔の確認はできないのだが、可愛らしい声で、やたらと雑談をしているのだ。気になってしょうがない。

たぶんあれだね、カットしてる男の美容師さん目当てだねたぶん。とにかくやたらと話かけてるのよなー。いいんだけどさー。すぐ隣でそういうことされると聴く気がなくても聞き耳立ててしまうから、肩にキンチョーが走るんだよねー。

いわく、もともと大阪出身なのだけれど、仕事の都合で静岡まで出かけただの、その静岡で妻子ある人から言い寄られて困っただの、こっちに戻ってきてジャンジャン横丁のすし屋に入ったら値段が高いのにまずくて困っただの、高校時代に内緒でお酒を飲んだはいいけど、はじめてのことで量がわかってなくて焼酎をジョッキで何杯も飲んで酔いつぶれて大変なことになって、それ以来怖くてお酒は飲めなくなっただの……。

あぁあぁあぁーーーやめてくれー。話が面白すぎるよー。聴いちゃうよー。聞き耳立てちゃうよー。聞きたいけど露骨に顔を見るとかもできないし、(見たところでメガネがないのではっきりとは見えないし。)本当に肩がコリコリになってしまう。

もう何年も通ってるお店ですけど、ここまで肩が凝ったのは初めてでした。つーか、この店、肩のマッサージもやってるんだけど、逆効果だよ。いやはやまったく。

でも、ふと気づいたんだけど、男の美容師さんを気に入って、お店に客として出かけたら、ヘアスタイルのカルテとかで住所や名前まで書いていくもんなー。普通。ついでに電話番号とかまで聞かれるもんなー。「私あなたが好きです」みたいなアプローチしとけば、あとは男の気持ち次第でどうにでもなるんよなー。

というようなことがわかって、その彼女の奇異なくらいの目立ち会話の意味と目的がおぼろげながらに理解できて納得してしまいました。

いやー、ホント。今日はすごいもの見た気がする。うむ。

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