※09.6.12追記 最近、このページが「世界不況 原因」のキーワードでyahooで1位にきてるということがわかったので、記事の末尾に、私が書いたこのテーマに関連する日記へのリンクを貼っておきました。興味のある方はどうぞごらんください。

※09.7.5追記 「不況、不況」と暗い話ばっかりなのもつまらないので、不況脱出の方向性についてもちょっと調べて書きました。
●不況にはもう飽きた。お金よりエネルギーの方が、より根本問題だ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907051007574317/
をご覧ください。

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えー、不況です。
それも100年に一度とか言う不況だと世間は騒いでます。

が、あんまりどういう構造で不況になってるのかという事に関して、「いちばん大きなところからつかむ」という事を書いてる人が少ないので、ちょっと書いてみたいです。
まず、先日、リンクさせてもらってるどん太さんのところに書いたコメントが好評だったので、その内容をちょっと修正して転載します。
これが自分でも短くわかりやすく書けたと思うので。



(修正・転載開始)-------------------------------

何故、いま不況なのか?

それは企業で言えば、会社側が内部留保とかで、企業ばかりが利益を取って、社員に手厚く報いないからです。銭がなければ買えない。だから不況なんです。当たり前の事です。

単純に、大衆という一番数の多いところの購買層の購入率が下がってるから不況なわけですよ。至極当然ですよね。別に不思議でも何でもない。

じゃあ、なんでこういうアホな事を大企業がやるかというと、アホな株主が株主至上主義を振り回すからです。

で、そういう問題が何故起きるかというと、税金を払わなくても良いような超金持(南の島の小国のタックスヘイブンに資産を置いているような金持。国家というしがらみを超えて世界的な投資をしているような連中。)の持ってる資産が、全地球上の資産の半分を超えてるからだ、という話がありまして、僕はそれに深く納得するんですよねぇ。

資産が、大衆から企業に移転され、その企業の資産が企業売買や資産の切り売り、あるいは投資のための借金等で通貨の形で超金持に流れて、結局資金が金持の間でだぶつき、大衆層に銭がないという、そういう大きな構図が、現在の世界不況の発生原因でしょう。

「企業と派遣の構造」が、全世界で見ると拡大して「超金持と企業」の間で存在してるというわけです。

で、超金持たちの投資が、数年前から、うまく回らなくなりだして、それで無理に戦争とかを起こして、無理矢理ニーズを作って(都市の破壊と再生によるニーズ)回そうとしてたわけですけど、それもやっぱりうまくいかなかったと。

で、アメリカという借金大国が生み出した、無責任な投資信託システムの「金融工学」のせいでサブプライムローンが破綻し、借金で金持の振りしていたアメリカに、クルマを売って稼いでいた日本の自動車産業も、いままさに痛い目にあっているという、そういう流れですわね。

アメリカやヨーロッパは、まだワーキング・プア対策がそれなりに整っている部分もありますけど、日本だと、親切な個人が運営しているNGOが自殺者を個人的にひきとめるとかの、ささやかな行動くらいしかセーフティネットが存在しないわけで、実に心許ないです。

若者のワーキングプア問題をサポートしてるのも、「NPO法人自立生活サポートセンター・もやい」みたいな、ほんとうに小さな個人でしかなかったりします。

考えなしの小泉が、「改革だぁ!」というワンフレーズポリティクスで、システム全体をひっかき回したツケがどんどん大きくなってきてるなぁと思います。本当に困ったことです。

(修正・転載終了)-------------------------------




というような話ですね。

ついでなので、いくつか解説をつけておきます。

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まず、こういう構造で不況の嵐が吹き荒れてますし、来年はもっとひどくなるのがわかってるんですから、とにかく真っ先に必要なのは、切り捨てられる人たちをサポートするセーフティネットの充実ですわ。

欧米だと宗教団体等が炊きだしとかを日常的にやっていて、そこにボランティアで出かける人も多くて、それなりに定着もしてるんですけど、日本はだいたい宗教団体がダメですから。困っている人を、ただ助ける、思想も教義の受入も関係なく助けるとか、そういう活動をしてるところが全然ないですからなぁ。

いきなり見るに見かねて立ち上げたNGOとかになってる。そこがもうすでにダメでしょう。日本の宗教団体は、もっともっともっともっともっともっと深く反省しまくりまくりまくらなアキませんわ。なんでワープア問題のテレビ番組で、「もやい」みたいな個人が必死になってしゃべってるねんちゅう話でね。

ほんまに弱者に対する優しさがないです。宗教にそういう心根がないんよな。強者にすり寄る発想しかない。


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それから、上記の文章の中で、株主至上主義の事を書きましたが、こういう話を書くと「そうだ、そうだ、会社は株主の持ち物じゃないぞ!」とか言うアホが出てくるので、「何を間抜けな事を言うとんねん、アホな事言うな! 会社は株主の物じゃボケ!」と、先にクギを刺しておきます。

そういう原則とか根本ルールが間違ってるわけじゃないっちゅうの!

そうではなくて、現実問題として、持ち主が必ずしも賢いとは限らない、というだけの話です。そういう個別問題と大きなルールの運用とをごちゃまぜにした言い方をするな!低脳が! と僕は思ってしまう。

賢い株主なら、経営は経営の専門家である現場にまかせますが、アホな株主はゴチャゴチャ口を挟んで台無しにします。それだけの話ですがな。個別問題は個別問題として、正しく対処しないといけない。

ホリエモンがフジテレビを買って好きにしようとした時でも、ホリエモンが「経営陣を入れ替える」とか発言するのを聞いて「アホやなぁホリエモンは」としか思わなかったのですよ。

こんなもの、商品購入になぞらえて考えればすぐわかる。

フェラーリのクルマを買ったら、そのクルマはその人のもの。別に世界最高レベルのエンジンを取り外して、自分で作ったエンジンを載せようが、それはその人の勝手。それはその人がアホというだけの話しです。

で、まず最初に指摘しないといけないのは「こいつアホや!」なのであって、「買ったら自分のものという考え方は間違いだ」ではないのですよ。何をトチ狂った指摘をしておるのか? トンチンカンも良いところだなぁと思うわけで。

だから、アホを正しくアホと指摘できない無知・無能こそが問題なんです。

なので、アホ対策は必要ですが、でも「会社は株主のものではない」という考え方は明確に間違い。もっと正しく「アホな持ち主もいてる」という現実認識をしないとダメです。「会社は株主のものではない」とか言うてる経済評論家とかは、完全にバカです。

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ということで、そういう「持ち主がアホ」という話の超拡大版がタックスヘイブンに名前を登録してるような金持たちの話なわけです。

きゃつらは、金は持ってますけど、この地球が、いかに現場の人間の汗と涙と知恵と力と勇気で動いているのかを知らない。

人間個人の能力や才能が開花することで、奇跡のようにシステムがうまく働いているという細目がみえていない。

数字のゼロを増やすところしか見えてない「アホ」なわけです。そういう数字を増やすことだけに血道を上げてきたのだから、これはもうしょうがないのです。

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で、この不況の本質的な解決策ですが、一番良いのは、そういう「超金持」たちの、金を取り上げることです。

具体的には、「地球住民税」ですね。
そういう資金をワーキングプア問題をサポートするためにドッカンドッカンとつぎ込むのが、まずは必要なんですけどね。
それができれば、一番良いと思います。

でも、「地球政府」ってのがないですから、そういう仕組みが実行されていないわけです。だから、こういう不況が生まれてしまうんですよ。
はやく「地球政府」を作って、そういう「グローバリズム」で商売してる奴らから金をふんだくってばらまかないといけないんですけどねぇ。
それをさせないように、させないように、各国の政治体制や政治家をあやつってるのが、彼らグローバルな超金持ですから。地球政府なんて、うまくできないわけです。

ほんとに、そこが困りものなんですよねぇ。

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とはいえ、こういう問題に真正面から切り込んでる人たちもいてるようです。

ただし、多くはマイナーな存在として黙殺されてたりします。
なんせメディアとかは、そういう金持たちに支配されてると言ってもおかしくない状態ですから。

タックスヘイブンの金持たちを監視せよ! と動いてるような人たちって、多くはNGOとかの個人レベルの活動だったりするんですよねぇ。

ビルダーバーグ会議のウォッチャーとか、三極会議のウォッチャーとか。詳しくは知りませんけど、そういう金持同士で集まってはゴソゴソやってる内容をつまびらかにしようとしてる一群はいてるって事です。

そういうあたりの人間に、もうちょっと注目しないといけないですよね。
「よく知らないけど」とか言ってる場合じゃないのかも知れない。

奴らはバレないように、バレないように、いろいろ動いてるわけですからな。


ちょっと冷静に考えて欲しいんですけど、ヨーロッパもアメリカもアジアも、一斉に雨が降るとか自然現象にそんなおかしな事はないですよね?
でも、この世界同時不況は一気に同時並行してやって来てる訳です。だからこれは人為的というと言い過ぎですけど、全世界をカバーしてる仕組みの何かが原因で起きていることだと考えるのが自然でしょう。

で、その原因として考えられる、一番大きな事実は、「地球政府がないのを良いことに、個人資産ばかり増やしている奴がいる」事なんですよね。

こういう事を、日本の地域的な問題の視点からとかは把握しようとしてもできないと思うのですよ。

まず「大きな枠組みから理解する」ってのが、ほんとに死ぬほど大事なのだ! って言うふうに、僕は思うのであります。

最近は、そういう事をすごく感じますです。消費税を上げてる場合やないねん。超金持から金をふんだくる仕組みを、全世界の首脳が連携して作らないとダメなのよ、実際には。そしたら消費税上げなんか不要になりますって。絶対に。なんでワシらが払わなアカンねん。ほんまに。

超強烈な累進課税の、「地球住民税」が、あれば、こんな世界同時不況なんて来ないよ。マジに。

いやほんま。

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関連記事リンク

09/06/12 地球税がないから全世界同時不況になったのですよ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906122012448297/

09/05/29 「百年に一度の大不況」じゃないんだよね。80年だもの。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200905291447272791/


副島さんがアメリカ経済崩壊を言い当てた「やがてアメリカ発の大恐慌が襲いくる」は、この日記でも5年前に紹介してます。

http://12917.diarynote.jp/?month=200404



久しぶりに「倫社の帝王」を書きます。

前から一度書かないといけないなぁと思ってた項目に、「ノブレス・オブリージュ」があります。これは、「高貴なるものの責任」とでも訳せばよいのでしょうか、財産、権力、社会的地位を得た者が負う責任の事なのですが、この概念を知っているかいないかで、いろいろな事象に対する評価のあり方がかなり変るし、物事の判断基準なども大きく変ると思うのですね。

日本にはこういうモノはないのですが、欧米では、法を超えて、それこそ倫理的な徳目として、この「ノブレス・オブリージュ」が求められて、社会的な大きな「圧力」になっています。
このあたりの知識は、少なくとも僕の場合は、たとえばWinnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ライブドアのニッポン放送株買収問題、ハッカーの問題などに関して、大きく判断のよりどころになりました。

「ノブレス・オブリージュ」は、もともと、貴族が自発的に、無私の行動を行う事がベースになっていて、まぁ一種の「プライド」のようなものなのでしょう。そういう種類のものですから、明文化されてませんし、法的な義務でもなく、何か法律上の処罰があるというわけでもありません。

しかしそれでも、この「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会を支える根本的な重要な文化になっていまして、それは、広く一般常識にまでなっている概念ですから、法律やら金銭問題を超えた、より大きな判断基準になっている、という事ですね。つまり、法律や金銭契約よりも大きな社会的圧力と考えて良いと思います。

たとえば、細目は省きますが、僕の大好きな「スパイダーマン」では、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というのが主要テーマになっています。自己利益だけを考えて行動したが故に、その結果、自分の大切な育ての親の命を失わせてしまったと反省している主人公ピーター・パーカー、という設定があって、スパイダーマンという大きな力を得た限り、それを社会に還元していく責任があるのだとするテーマがあるわけです。

法に従っているかどうか? の前に、個人個人の心の中の倫理観というものがあって、それがまず大切なわけです。スパイダーマンは別に法に従って正義を成しているわけではなくて、「ノブレス・オブリージュ」で社会貢献をしているのです。

大事なのは、スパイダーマンというものがコミックスだ、ということです。ニッポンでは大人でもマンガを電車の中で読むのが当然のようになってますが、欧米では違います。はっきりくっきり「幼稚な媒体」と考えられているんですね。大の大人が堂々と読むものではない。そういう差別的なメディアなんです。

しかし、そういう差別的なメディアの中にすら「ノブレス・オブリージュ」の概念が生きているという事なんですね。大変一般的で、誰でもが「なるほど、そりゃそうだ」と思う、言わずもがなの「あたりまえ」の常識的概念なわけです。

つまり「強い権力を持ったものには、その力の強さに応じて社会的責任が伴うのは当たり前のことだ」という事がかなり強烈に世の中に定着しているということなのです。ということなので、同じような企業でも、トップ企業と二番手企業なら、権力・パワーの大きさが違いますから、トップ企業の方に「ノブレス・オブリージュ」の責務・徳目はより大きく求められるのが当然ですし、誰もがそれを要求するって事なんですね。

で、それを要求するのが当たり前であれば、いくら企業の側に社会的責任感や社会貢献意識がなくても、行動せざるを得なくなってくるわけです。企業イメージがガタっと落ちますから。そう言う意味では、法律より怖い、強い拘束力を持っているわけです。それが「ノブレス・オブリージュ」なわけです。

同じパソコンOSでも、マックのアップルなら、社会貢献的活動をちょろっとでもやれば、ものすごく高く評価されますが、トップのマイクロソフトだと「そのくらい当たり前だ」と評価されません。逆に「これこれの配慮が欠けている」と、厳しく厳しく厳しく批判されますし、それは「ノブレス・オブリージュ」の考え方からすれば、しごくまっとうで、当たり前のことなんですね。バコスコに叩かれ、批判されて当然なんです。

日本の場合は、「和」の概念が法律を超えて優先される社会的規範で、「みんな一緒に」とか「同じ価値観を共有して」というような事が大事にされますが、欧米はそういう概念はありません。
欧米では競争があたりまえで、才能のあるものがトップになるのが良いことだと考えられているわけです。ひとりひとりが異なる個性を持っていて、それを最大限に活かすことで、力の差が出てしまうのは当然だという事ですね。より才能のあるものが勝ち上がることこそが、「個性に基づいた平等だ」という考え方です。

日本の文化がもともとは「どういう行動をしていても、給料は同じように出すよ」という「結果の平等」をベースに成長してきたのに対して「ひとりひとりの行動の結果に対して、平等に同額支払うよ。」という「機会の平等」が欧米(この件に関しては特にアメリカかな?)の考え方です。

で、この「機会の平等」を、単なる弱肉強食にしてしまわないための、重要な安全装置として、この「ノブレス・オブリージュ」という倫理観が大切にされてるわけです。

しかし、この数年から10年くらいの間で、日本は「小泉改革」とやらのバカ騒ぎのせいで、法的なルールや、社会の構造だけを欧米から押しつけられて取り込んでしまって、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような大衆文化にまで根ざした倫理観の取り込みまでは行えなかったわけです。

だから、その結果として、ホリエモンの事件なんかがあるんですね。ホリエモンが株を買ったら、その株を持った人間が会社の持ち主ですから、ニッポン放送はホリエモンのものです。こういう所有の概念は資本主義の根幹ですから、変更などできません。株主資本主義は間違ってるとかごちゃごちゃ言う文化人もいましたが、それはお前らが間違ってる。ここまで重要な基本ルールは変更不能です。

しかし、じゃあ、ホリエモンが経営陣を平気で入れ替えてオーケーかというと、法的にはオーケーでも、「ノブレス・オブリージュ」の観点からはとんでもないバカとしか言いようがないわけです。

放送業界というのは、人を育てるのに10年とかかかる世界ですし、電波というのはそれこそ電波帯という「限りある資源」を活用する社会資本ですから、その運営には専門的な知識経験がどうしても必要なんですね。それを簡単に「経営陣の首をすげ替える」なんて言うのは愚の骨頂、バカのすることです。

バカのすることなんだけど、それは法的には大きく間違いではない。そういう事ですね。

わかりやすく言うなら、「ホンダの車を俺が買った。だから好きにしていい。エンジンを俺が作ったものに入れ替える。」と言ってるのと同じなわけです。これはバカでしょ? まぁそういう事ですね。法的には別にそういう事をしても何ら問題はないけど、バカだと蔑まれる。会社としては致命的でしょう。

しかし、日本にはそういう法を超えるルールとしての「ノブレス・オブリージュ」のような事が一般大衆には定着してないから、そういう部分での批判が全然出ないわけですよ。で、どうして良いかわからないから、「株主資本主義は間違ってる」とかのよけい混乱するような意見が出てきたり、書籍が発売されたりして、どうして良いのかわからなくなっちゃう。みんな右往左往して悩むってなことになってしまう。従来の日本的文化だけではやっていけないので、どうしよう? ってなっちゃうわけです。

僕の場合は、前々から書いてますが、小室直樹先生の御本で、この「ノブレス・オブリージュ」の考え方を、そうとう前から学んでおりましたから、そういう世の中の変化に関しても、さしてあわてず騒がずで対応できましたし、問題の本質がよく見えました。だからやっぱり、まず勉強しておくという事が大切なんですね。

で、そう言うことを考え合わせていくと、Winnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ハッカーの問題も良く見えてくるんですね。

たとえばハッカーという言葉は、当初「法を守らない悪人」というようなニュアンスがありましたが、そうではなくて、コンピュータシステムの穴を見つけ、それを改善しようとする善人、正義の味方という側面があるのだよ、とか言われるようになってきたわけです。

でも、そういう個別の言葉の定義を考えるより、そのハッカーのやってることが、「ノブレス・オブリージュ」に沿っているかどうかを考えれば、善と判定されるか悪と判定されるかだいたいわかってしまうわけです。

ようするにハッカーというのは、より大きな仕組みに対しての批判勢力としてなら「ノブレス・オブリージュ」を体現する存在として、社会から認められるってことなんですよ。単純にそれだけのことです。

だから「より大きな仕組みへの対抗勢力」ではないものは善とは認められず消えていく運命にあります。

単純にわかりやすいもので言えば、ファイル交換ソフトのナップスターですね。あれは、アーティストのような、才能ある個人が迷惑をこうむるばかりの仕組みですし、より大きな企業体への批判性も持っていなかった。単に著作物の泥棒ソフトだ、というだけですから、結局は生き残りはできませんでした。有料化されて正当なものになろうとしたけど、最終的には消えてなくなっちゃった。ま、当然ですわね。ようするにハッカーのように、「社会的な大義」がないってことなんです。

ところが、しかし!

日本人って、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような社会的概念や倫理観というものとかに、無茶苦茶弱いので、ナップスター、あるいはWinnyとかを、「ピア・トゥ・ピア技術の可能性」という側面から擁護したりするんですね。技術至上主義っちゅうか、なんちゅうか。

そんなもんアカンっちゅうねん。大義がないやんけ、大義が! としか私は思わないし、まぁ、大きくそれが常識っちゅうもんなのですが、「技術の可能性を潰すのは良くないことだ」とか平気で言うのよなぁ、日本のオタクは。いやいや、大義がなけりゃ、それは技術の悪用でしかないよってことでして。

まぁ、僕に言わせれば、まったくのバカです。っちゅうか、ようは多分お金を払わずに著作物を泥棒すること自体のスリルがおもしろいとか、そういう低脳な欲求でしかないと思うんですけど、なんかヒドイ話よなぁって思うのです。幼稚というか、単なる子供の発想です。

ひどいのになると、物作りの現場にいて、著作権を守る側の仕事をしているのに、Winnyで映画を泥棒して見てる、なんていうのがいてるわけですよ。いやー、それは自分で自分の首を絞めてるだけやろ、アカンで、それは、としか思わないんですが、いったい何なんでしょうか、あれは。

Winnyみたいな泥棒ソフトは、本来お金を払って見ていた人までお金を払わずに著作物を見るようになるので、その差損は、いきおいDVDとかの単価に上乗せされます。ようは正規の著作物の値段が上がるわけで、誰にとっても迷惑なだけ、存在価値はゼロなんですよね。なんでこんなバカなものが世の中に出回ってしまったかと呆れるばかりです。あんなものに存在価値はまったくないのに。

Winnyの技術的価値も実はゼロです。不特定多数に対するファイルアクセスの仕組みとかは、たとえば、世の中にある無線LANのフリースポットや、フレッツ・スポットなどですでに実用化されているし、インターネットを使って特定の人間がクローズドグループでファイル共有する仕組みも高度なネット企業の基礎技術としてキチンと社会に根付いておりますからWinnyに意味なんかありません。

そういう社会に根付いた仕組みとWinnyとの違いは、その不特定多数の人間個々を特定しようと思ったときにできるかどうか? の違いだけです。Winnyにはそれがない。つまり単純に個人名を隠して泥棒ができる泥棒育成ソフトでしかないので、あれはダメ! というのが私の判断であります。「ノブレス・オブリージュ」のような、高尚さなんて、かけらもない。まぁあんなもの使うのはゴミ人間みたいなもんです。ここははっきりくっきりキッパリと言い切ります。

しかし、困ったことに、いまや世の中はワールドワイドに広がっていて、たとえば、欧米でのハッカーたちの動きがカッコ良いものとして日本に伝わってきたりして、で、肝心の「ノブレス・オブリージュ」の倫理観すらないパァな原日本人が「泥棒は良いことだ」とか勘違いするわけです。

ちがうっちゅうねん。それは。
そのカッコ良さの根幹は「ノブレス・オブリージュ」やっちゅうねん。そこをわかりもせずに表面的なことだけ真似してもアカンっちゅうねん。
何を勝手な勘違いしてんねん! ちゅう話なわけですよ。

かくして、日本では泥棒行為がかっこいいかのように思われる。そこに「ノブレス・オブリージュ」なんてものは、かけらもない。アホの極みです。
かっこ悪いよなぁって思うんだけど、そういうところに行ってしまってる人は抜け出せないみたいですなぁ。

多分、なんらかの社会に対する不満があるんだろうと思うんだけど、その自分の内面の不満を、キチンと整理すらできてないわけですよ。だからそれを匿名で社会の仕組みを超える事で解消してるんでしょうなぁ。なんか情けないです。ほんまにかっこ悪いと思う。

で、自己正当化を探して技術の進化がとか言ってる。ああいう人種が本当にバカで嫌いです。

で、また、「ノブレス・オブリージュ」も知らないような人間は、こういう話しになると、すぐに法律の問題と勘違いして、日本の法律のあれやこれやをごちゃごちゃとほじくり返すという、どうでも良い些末な話に入っていってしまって、それでよけいに混乱するわけです。法律は慣習が基本。その慣習は倫理がベース。倫理は宗教によって異なる。だから国が違えば対処法も異なる。そして自分たちの問題は、自分たちで学習して対応策をひねり出すしかない、って事です。

で、その対応策をひねり出すには、外国の文化は外国の文化として客観的に学習し、日本の文化は日本の文化としてキチンと学ぶという基礎からの学習がどうしても必要という、それだけのことなのです。

そういう意味では、「ノブレス・オブリージュ」の概念を学ばせてもらった小室直樹先生には、本当に深い学恩を感じるわけですよ。9月18日の日記「おおまかな理解ということ」

http://diarynote.jp/d/12917/20070918.html

でも書かせてもらいましたが、まず大きな概念から大づかみに理解していくことの大切さを、しみじみと味あわせてもらえたと思うのです。小さな枝葉の知識で右往左往することなく、世の中の動きを大きな流れで捕まえる、重要な視点を授けていただいたと思うのですね。世界標準の大きな学問的常識、モノの見方を、まず教えていただいたという気がしてます。10年前に読んだ小室先生のご著書が、10年の時代の流れの中で、脈々と物事を整理しつつ僕の頭の中に入れてくれたという感じが強いです。

だから「学恩」というものはすごいのですよ。ほんとにそう思う。ひと月やそこいらでは、なにもわからないけど、こうして10年を振り返ってみると、そういう知識があるかないかで、ものすごく大きな差が出来ると言うことが実感としてよくわかります。

知識がないのは、暗闇でたいまつがないのと同じです。まず学習。それありきだと思う。

ああ、しかし、「ノブレス・オブリージュ」の事だけで、ここまで書けるとは思ってなかった。自分でもびっくりですが、でもやっぱり重要な知識は、それだけの広がりを持っているという、そういう事です。はい。
ちょっといろいろ本を読んでいて思った事があるので、書いてみたい。

それは人間の認識力という問題。認識力というのはものすごくあやふやだという話なんですね。

知ってる人には有名な話ですが、マゼランが世界一周で、南米最南端のフェゴ島に到着した時の話ですが、マゼランが乗ってきた大型帆船4隻が、フェゴ島に住む人たちには「見えなかった」のですね。

大型帆船から島に乗り込むために、マゼランたちが使った小さな船は彼ら原住民にも「見えた」んです。しかし大型帆船は「見えなかった」のです。

だから、彼ら島の住民にはマゼランがどうやってやってきたか想像もつかなかったし、わからなかったのだそうです。

あとから、大型帆船を「船」と認識していない、ということがマゼランたちにもわかって、「あの大きなものは、我々の船なのだ」という事を、くりかえしくりかえし説明して、それでなんとか理解できたみたいなんですけど、とにかく認識していないものは「見えなかった」わけです。

で、これと同じ話は、実は日本の黒船到来の時にも逸話が残っています。確か司馬遼太郎の「竜馬が行く」に書いてあったのだと思うけれど、黒船が来航したので、幕府の役人が秘密裏に接触しようと、近くの人間に案内をしてもらったが、到着したのに「黒船はどこにおるのだ!」と怒ったというのですね。ようするに大型船の大きさが予想外の大きさだったので、船と思わなかったんでしょう。

似た話はまだまだあって、登山経験のない人がヒマラヤを見たくて、ツアーで出かけ、ヒマラヤにもっとも近い標高の高い村から、その峰峰を見たときに「まったく見えなかった」のですね。その人は、ヒマラヤの雪に覆われた山肌をずっと雲だと思っていたのです。ガイドに「もっと大きい、高い山が、そこのあると思ってくださいね」と説明されて、はじめてその世界有数の山の雄大さを知ることになるのです。

ここに出てきた話は、みんな最終的には「見える」ようになったわけだから、それで良いのですが、みんなが見えているのに自分だけ見えてないとイライラしたり腹がたったり、大変なわけですよ。
でもそれは、自分の経験とか認識力だけに頼ったままだから、そうなるわけですね。

身の回りに、もっと大きな真実をキチンと教えてくれる人がいて、その人の話を「理解しよう」と思って素直に聞けば、真実はちゃんと見えてくるわけです。

自分の経験とか感覚とか「だけ」に頼ると、そういう大きな真実って言うのは見えてこないんですね。自分の感覚をフィードバックする校正装置としての「知識」とか「他者からのアドバイス」というものを活用しないと、山も見えないわけです。

それで思うのが、「鉄砲伝来」という事。あれは学校の歴史の時間には「鉄砲伝来、1543年」とか暗記するだけの事になってますけど、鉄砲が来たという事は、それに伴って、おおむね、ヨーロッパの文化・文物がやってきたという事なわけですよ。

たとえば、地球儀。地球は丸かったのだ、ということが、少なくともこの時点で信長・秀吉・家康という最高権力者には伝わっていたわけです。

しかし、その知識も日本で一般化するまでには、ここからまた200年以上かかってます。

それから、メガネというか、レンズ。これも、この時代には日本に来ている。なんと徳川家康はメガネをかけていたんです。老眼だったらしいけど。

それから、「黒人」。これも信長の時代に日本に連れてこられていて、信長が家来に命令して黒人の肌を洗わせています。墨でも塗っているのではないかと疑ったらしいんですね。
(しかし、洗って確かめるというところに信長らしさがありますなぁ。まぁそれはそれとして。)

信長は、この黒人を気に入り、自分が大名行列みたいに市中を練り歩く時の先頭に、この黒人を立ててるんですな。もう、周りの人間はびっくり仰天です。

で、その横に通訳のためか、誰か白人が一人ついてたらしいんですけども、その人間がメガネをかけていた。
で、実は、このメガネがまた、当時の一般民衆にはびっくり仰天だったので、「信長は黒い人と目が四つある人間を引き連れて歩いていた」と話題になったのだそうです。

目が四つある人、だよ。すごいでしょ。なんだあれは! という、そういう驚きですわね。

信長は、こういう具合にオープンにしてしまって隠さないから面白いのだけれど、実際のところ、メガネにしても黒人にしても当時の人間には見ること自体が難しい訳だから、

●黒い人
●目が四つある人

と聞いても、黒い服を着ている人間とかしか想像できないだろうし、目が四つのほうに至っては、本当に目が四つある人を想像したでしょうな。
でも実際に肌の黒い黒人は存在しているし、メガネをかけている人を横から見たら、屈折率の加減で、レンズの中の目玉と、実際の目玉の両方が見えるということもあるだろうから、まさに「目が四つある人」はいてる、という事になるわけですよ。

でも、アタマのかたい人ほど「そんな化け物みたいな人間はおらんよ」と否定するという事になるわけです。

(ちなみに、豊臣秀吉は、手の指が六本ある特異体質の人でした。信長は秀吉を「サル」とも呼びましたが「六つ」とも呼んでたそうです。まぁ時折そういう人もいてるらしいので、おかしなことでもありません。)

しかし、こういうスゴイ事実とかを、そのまま「黒い人がいる」と文章で書いても、これはやっぱり、なかなか伝わらないのですね。読む側に「読み解く力」がないと、なかなか難しい。

やっぱり「黒い人とは書いてあるが、これは黒い服を来た人の事だろう」とか、自分の理解できる範囲の話に、内容をひんまげて読んでしまうんですね。

あんまり本とか文書とか、そういうものの「読み込み」というのをキチンとやってない人は、こういう「理解できる範囲の答え」に飛びついてしまうわけです。

で、実は、日本の知識層の知識の多くが、そういう「自分勝手な解釈」の積み重ねになっていたりするので、話はやっかいなんです。

「黒い人とは書いてあるが、ようは黒い服を着た人の話だろう。」と理解するのではなくて、「いや、黒い人と書いてあるのだから黒い人がいたのだと解釈すべきだよ。」と言える人にならないといけないわけです。

この自分勝手な解釈のひんまげというのが、本当に問題でねぇ。

たとえば、信長の「桶狭間の戦い」というものも、20年くらい前は「狭間(はざま)」なので、山の上から馬に乗って駆け下りていく信長の軍勢、みたいな表現が多かったわけですよ。司馬遼太郎の「国盗り物語」でもそうだったんじゃないかなぁ?

しかし、史実を比較的現実に忠実記載しているだろうことで評価の高い「信長公記(しんちょうこうき)」には、ちゃんと「おけはざまやま」と記述があるのですね。「おけはざま山」です。

で、その山の下から上に向かって駆け上って行ったとか、明確に記述がされてるわけです。

けど、ぼやっとしか読まない人には「狭間」という谷のイメージと、時代がもっと前になりますが、同じ奇襲作戦ということで義経のひよどり越えがごっちゃになって、「駆け下りた」イメージになってたわけですよ。

このあたりを明確に指摘したのが、小室直樹博士の「信長の呪い」だったわけですが、まぁそれはそれとして。

ようは、人間はちゃんとしたガイドとなる知識を持っていないと、いまそこで起きている事実を、事実として認識すること自体ができないんだよ、という事が言いたかった事なわけでして。

ヒマラヤは「俺が思ってるより、はるかにはるかに大きいんだ!」と無理にでも思って見ないことには「見えない」んですね。

で、これは欧米からやってきた知識の大半がそういうものだと思います。まぁ法律であれ、なんであれ、みんな日本人は「黒い人というのは黒い服を着た人のことだろう」ばっかりやってるんですな。実際。いや、そやないよ、ということは言っておきたい気がします。だってそういう理解の仕方って百害あって一利なしやもんなぁ。何の得もメリットもない。

黒人はおるし、メガネもあるわけやからねぇ。

ほんま、ひんまげた解釈は、ただ単に混乱を増加させるだけでしかないと思います。まったくのムダ。

でも、そういうムダに固執するのが日本の大衆の文化なのかもしれません。

はぁ、困ったもんだ。
ということで、続き。

なので、やっぱり公僕である小泉君はもっともっと「配慮」をする必要はあると思うね。「死んだら仏様」というのは全然間違いじゃないし、この日本独特の宗教観については、それこそ公僕なのだから、官僚に指示してもっと理解してもらえるように話し合いを続けるべきだとは思うけど、それでも「配慮」がないと、そら無理だわなぁ。

で、です。

こういう中国と日本の文化の違いと、好悪の感情がどんなところで出てくるかということを、実はアメリカあたりはキチンと調べてます。

あの映画「ラストサムライ」で感心したのは、欧米人のそういう徹底した調査スタンスですな。インディアンを皆殺しにするために主人公のトム・クルーズはインディアンの文化の徹底調査に向かう。その象徴が「メモ」でした。

映画だから記号で語るしかないわけだけど、実際の調査はもっと徹底してただろうし、それはつねに行われてたはずでね。侵略する時には、まず文化を知る、なんでしょう。そして、おなじようにメモを持ってトム・クルーズはサムライを学びはじめる。

あの映画でトム・クルーズはインディアンの虐殺はいけないことだったと反省して、サムライの側につくわけだけど、大事なことはインディアンでもサムライでも、トム・クルーズは手帳に文化を書き残した、相手の文化を研究し尽くした、ということは変わってないってことです。

で、あの映画でインディアンもサムライも、手にメモを持つことはなかった。相手を知るという一番重要な「兵器」を持たなかったんです。

バカがバカのまま描かれていて、それで誰も文句言わないし、で、実際、日本人にせよインディアンにせよ「メモ」を持たなかったから殺されちゃったんだよな。

相手を知るというのは、ことほどさように強力だけど難しいことなのです。

で世界帝国であるアメリカには、地球をいくつかの地域に分けて、それぞれの国ごとに専門の「調査員」、多くは「文化人類学の学者」ということになってますが、まぁその結果が政治にも使われるので見方によればスパイとも言えるわけだけど、そういう人たちをキチンと配置してます。

トム・クルーズの「メモ」は映画だからあんなにちゃっちいけど、実際はそんな半端なものではない。
僕程度の知識でもちょっと勉強してから中国に行って、この程度のことはわかるんだから、中国専門に勉強している学者や日本専門の学者がいかに我々アジア人の内面まで正確に理解しているか、ってことです。

そういうことまでキチンと調べきった上で、アメリカのような帝国は、その使徒をマスメディアであったり、政治での次官級交渉の場だったり、そういうところに送り込んでくる。

で、ローマ帝国の時からそうだったらしいが、帝国は属国コントロールのために「分断して統治せよ」という戦略で臨んだそうです。

ようするに各地域ごとの国と国とを反目させて、それで帝国との関係を強化させるという戦略ですな。

小泉君、たぶんそれに完全に乗せられてるんだよなー。アホよなー。ほんまに。

なので、国と国というのは、ここまで文化が違うのだ、相互理解は大変なのだ、ということを、そろそろ我々日本人も理解してもいいと思う。

そういう知識を持った上で、国の政治を見た方がいい。
で、見ないと行けないのは、国内政治なんだよな。
よその国のことは我々には何もできない。
アメリカの決定はアメリカ国民がするのだから、それはアメリカにまかせるしかない。

我々は自分の足元を見ることだ。
できることをやる。
それが物事を成就するのに、一番大切なことだと思う。

「アジア人どうし仲良くすべし」というのが、私が尊敬する副島隆彦の言葉だけれど、その「仲良く」には、こういう距離の離れた文化の違いをも乗り越えるべし、「メモ」という武器を持つべしという意味も、大きくふくまれている(はずだと思う。直接聞いた訳じゃないし。)

ともあれ、今回の組閣はあやういね。

大事なことは、日本人の「祟り神」信仰を大事にする気持ちと同じ気持ちで、中国人の「歴史の時空保存信仰」をも大事にするってことだと思う。自分の国を愛するという気持ちがないと、相手の国の気持ちも想像できないと思う。

(なので無宗教の施設を作ってどうたらとかいうのは、より一層中国との距離を遠ざけるだけだから、よろしくないんじゃないの? って思う。そういう「実感」のない判断が一番あやういよなー。)
小泉首相の組閣が終わって、なんだか危うい感じがしたので、ちょっと書く。

基本的に私は靖国参拝には賛成の人で、「死んだら仏さま」なのだからA級戦犯合祀も、まぁ良かろうと思ってる。靖国に関しては勉強がまだまだ足りないので、考え方が変わるかも知れないから、まだわからんけど、大枠、日本人が日本人の文化を大切にするのは悪いことではない。

が、しかし、ものごとにはバランスというものがある。参拝は違憲という司法からの判定も出ているという段階で参拝するというのはどうか? 外相に麻生氏、官房長官に安部と対中国強硬派を持ってきて、親中国の福田氏をはずすということまでやってる。

いくらなんでもなぁと思う。

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数年前に中国まで旅行に出かけた。この日記で旅行記を書こうと思いつつ、ずっとそのままになっている。

中国に出かけるまで、僕は中国がものすごく嫌いだったのだ。いろいろあるのだが、中国人は、「残忍な行為を好む傾向が強い」と感じていたからだ。

いくつも例証は出さないけれど、とにかく「死者に鞭打つような行為」というのがとにかく多い。それは日本人として強い拒否感があるのですよ。

が、しかし、なのである。

この「死者に鞭打つ行為への拒否感」というのは、もともと日本人の宗教観に原因があるのだ、ということを忘れてはならんのですね。

それは「祟り」の概念です。

日本人には「祟り」の概念がある。死者は死んだ後「仏様」というスーパーパワーを手に入れるので、「死者に鞭打つ行為」は、「祟られるから良くない」という無意識の縛りがあるわけです。

日本人の宗教観というのは、いわばガラパゴス島みたいに古代の宗教がそのまま温存されてしまったような純朴なところがあって、そこがまた良いところでもあり、頼りないところでもあるのだと思うのだけど、とにかくこの「死者は仏というスーパーな存在になる」という発想だけは、相当に強いみたいだ。

だから私を含めて日本人は人殺しが嫌いだ。残忍な人殺しはスーパーな祟り神を生み出し、この世に祟りをなすから、みんなが迷惑をこうむる、と考えている。

憲法9条を絶対に変えてはならない、とするのも、この「祟り神」の精神があるからこそだと私は思うのだ。文化というものは、一夜にして変わるものではない。

とまぁ、自分が何故「残忍な人殺しが嫌いなのか」ということに関しては分析が終わっているので、中国人の残忍な殺人行為に対しても「大目に見る」ということができて良いはずなのに、それができなかったのですな。

で、いまや中国はアジアの大工場になろうとしているし一度見ておくのも仕事の役に立つと思って中国まで旅行してきたのだけれど、そこで僕は「中国人の残忍な殺人行為」が何故行われるのかが、透けて見えたのですな。

それ以来、基本的に私の「中国人嫌い」はなくなっちゃった。あれは「文化」だ。外人である私がゴチャゴチャ言ってもしょうがない。ってなった。

とにかく中国は広い。行かなきゃわからんかもしれませんが、ひたすら広大な土地が、ただ膨大に広がってるだけなのだ。関西国際空港から上海の浦東空港まで行ったわけだが、もともと旅行があんまり好きじゃないので、まず関西国際空港の広さに圧倒されて「広いなー」と思うわけだけれど、浦東空港に着くとその二三倍は広い。

もうレベルが違う。
まさにスケール=モノサシが違うのだ。

で、ここではじめて納得する。中国という国にはまともな組織体系は生まれず、肉親・血縁関係だけが重要な「社会を構築する要素」なのだ、ということに。

本では読んで理解していたつもりだったけど、実際に行ってみれば、なるほどなーと納得する。そら、日本みたいな「隣組」的な組織は生まれないよなーって。血縁以外の「社会とのふれあい」が、もともと希薄なのだ。社会を日本人みたいに地域社会からの積み上げで考えたりはしないんだろうなとは思うわけです。

で、もっと「なるほどなー」と納得させられたのは寒冬寺にでかけた時のこと。
まぁ実に日本のお寺が中国の真似なのだというのが良くわかった体験だったのだけれど、そのことはちょっとまた別の機会に書くとして、それより重要だったのが、中国人の死者に対する意識のあり方なんですな。

中国人にとって、死者というのは、膨大なる時間の流れの中の、特定の時代の道しるべみたいなものであって、死者はその生きた時代、あるいは死んだ時点に永遠にとどまり、その過去の時点を永遠に生きていく存在なのだなーということなのです。

これはそうせざるを得ないよなーというのが良く分かった。隣組もなく、血縁だけが信じられる価値観だからこそ、人と人が利害を超えてつながるには、「みんな、あの偉い○○さんの子孫じゃないか」という形でつながるしかないんですな。

歴史上、偉大な人というのは、その歴史という霊のための空間に完全冷凍保存されるのです。お寺というのは、その過去という時空を見物に行く博物館みたいなものなのだ。

だから、歴史上の「悪人」は、もうずーーーっと悪人のままです。僕は直接見たわけではないけど、「悪人」とされる人は原寸大の銅像を建てて、見に来た人がツバをかけるとかもするそうです。悪い奴は、そこまでして蔑むわけです。

まぁ悪い奴もご先祖様だしねぇ。そら悪い奴は悪いやつとして、日々ツバをはきかけてでも、「悪いこと」と明確化しとかないと精神的、内面的な安定がはかれないのかも知れない。

で、こういう「血縁こそが人のつながり」という発想があるからこそ、政府の役人には高潔さが求められるし、その高潔さを謳うのが儒教だったりするんだなぁというのが良くわかった。

で、話はどんどんすっ飛ばすけれど、「真に血縁関係に客観的な政府役人」を求める発想があったからこそ「宦官」というものが生まれたんだなぁと、実感で良く分かったのだ。

宦官ですよ。オチンチン切り落とす、ですよ。信じられない。でも、それは必要だったからこそ生まれたんだねぇ。
オチンチン切り落としたら子供は生まれないからね。ということは、もっとも重要な「血縁関係」というしがらみから解放されて、真に「世のため人のため社会のため」の政治が行える、という発想なんだと思うのだ。

中国では昔から親戚へのえこひいきというのが、悪政を生み出してきたという背景がそこにはあるからなんだけども、まぁそういうようなことも、実際に行ってみて良くわかったってことです。

過去の「悪人」には徹底してひどい仕打ちをし、宦官まで生み出す究極の「社会優先思想」。(それは社会優先なんてできない、家族・血縁優先こそが人の性であるという絶対的な事実があるからこそ、なんだけど。)

こういう文化的背景がある国の人間が恨みで殺人を犯すとしたら、そら「こいつを歴史のこの時代に悪人として閉じこめる」ために「惨殺」しなければならなくもなるわけです。

で、そういう文化を知らない我々日本人が「祟り神」の思想でその行為を見るから「あなおそろしや」になるわけでねぇ。

さぁ、ここまでわかれば、靖国のA級戦犯合祀で首相参拝というのが、中国人にとっていかに「許されないこと」であるのかがわかるというものです。

長くなったので、いったんここで切ります。
宗教の問題が日本人にとって難しいのは、自分たちが信じている概念が「言葉」として定着されてないからでしょうね。
戦争反対をお題目のように唱えている人も、その実、「人を殺すと祟られる」という祟りの概念からそう考えているのだという自覚まではないし。
ここが自覚できた上で主張するなら落ち着いた論議にもなるんですけど「祟られたら怖い」という無意識の恐怖心から論議すると単なるヒステリーにしかならない。
このあたりが日本人の弱点なんだよなーと思う訳です。

自分たちが無意識に信じている概念を自覚していない。

これがなかなかに大きな問題なんですなぁー。

ヒステリックな主張をする人に「なに怖がってるの?」と聞いても、まぁ無意識だからまともに「恐怖の理由」も答えられないってことにしかならない。

えらいこってす。
このあたり、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、ユダヤ教にせよ啓典宗教は理屈が「言葉」で明確になってるから論議しやすいですわね。

井沢さんは「悪いことをクチにするのが良くないことだから日本人は論議下手」という言い方をするけれど、それもあるかもしらんけど、それ以前に論理がキチンと「教典」などで明確化されてないのが、もっと大きいんだろうと思う。

ということで「トラックバック」なるものを、はじめてやってみた。
そうかー、DiaryNoteもトラックバックできるようになってたんだ。知らんかった。(笑)

(と書いたけど、トラックバックできてなかった。なんで?知ってる人誰か教えて!)
この日記は「倫社の帝王」の項目に入れてます。
倫理・社会という観点から物事を見るとどうしても宗教の話にならざるをえなくて、それはまだまだ途中なんですね。
世界の宗教と日本の宗教観の違いの話をして、それから、日本人が無意識に持ってる「たたり」とか「けがれ」意識の話もしなくちゃいけないし、いろいろ明確にしとかないといけないことは数多い。

でも、それより先に、ちょっと「勉強の方法」ということに関して書いておいた方がいいかなぁという気もしてます。

僕の場合は「倫社」というものが、それこそ何の抵抗もなくアタマに入ってきた人なわけです。それこそ高校のクラス40人中で飛抜けて倫社の成績だけは良かった。(自慢じゃなくて単なる事実。なんせ化学は劣等生だったし。)

得意科目というものは、「勉強の方法」が不要なんですね。自然と身に付く。勝手にアタマに入る。

でも問題は不得手な項目をどうするか、なんですね。
倫社なんて僕は得意だけど、他の人は得意じゃないのだから、学習の方法とか、そういうことを書いておかないと意味ないなと、ふと気づいたわけです。
得意な科目のことをいくら書いても、それって向き不向きの話だから、世の中の役に立たないですしね。

世の中は実際には不得手な事柄ばかりが押し寄せてくる。それでもなんとかするしかない。そういう時に、いったいどうやって対処したらいいのか、なわけです。その方が大切だなと。

で、そういう時のために書物というのは大きな効果を発揮します。何か自分で対応しなくてはいけなくて、学習する必要がある時、どうやって対応するか、を教えてくれるのが書物なんです。

不得手項目にもパパパっと対応できる方法があるなら、それを獲得しておくのが得策です。そのために書物は役に立つし、その時に、「効率的な勉強の方法」というのはあるのでありまして、だから、そういう話をしようと思い立ったわけです。

僕の場合、不得手項目の学習には、「田中角栄の勉強方法」が、とても役に立つと思ってます。
それはどういう方法かというと、「関連項目の書物を一貫目ほども買ってくる」というやり方です。

これは昨年お亡くなりになった田中角栄の元秘書である早坂茂三さんがエッセイで書いておられたことなんですが、田中角栄という人は、とにかく実に良く勉強する人だったそうで、官僚が舌をまくほど、何事につけ良く知っていたし、問題の解決法まで見据えた法案作成まで自分ひとりでできてしまう人だったそうなんですが、その勉強の仕方が上記の一言なわけです。

とにかく本を「一貫目ほとも買ってこい」なんです。
たとえば政治家連中とゴルフをせねばならなくなった時でも、秘書の早坂さんに「一貫目ほとも買ってこい」とゴルフの入門書やら何やらを買いに行かせる。まぁ大きな書店のゴルフ関連本の棚の一段分くらいは買ってくるわけです。

これを田中角栄は入門書から順に一気に読んでいくそうです。で、どうなるかというと、これでゴルフが一気にうまくなったりするわけです。

書物なんて机上の論理だからいくら本だけ読んでも役に立つまいと思ってる人は大間違いなんですね。まず、一気にその世界の大枠、概略を知ってしまう。これほどムダのない「指針」はないわけですよ。そうなれば、あとの練習がすべて目的にかなう。ムダがない。
ま、そういうことなんでしょう。

だから勉強するなら、「これだ」という特定のジャンルを決めて、一気に一貫目、そこまでできなくても、まぁ10冊くらいの書籍を、バババババーと読んでしまうのが一番効率的です。

これはねぇ、ほんとうに良い勉強法なんですね。なんせ同じテーマで本を読んだら、同じことが繰り返し「薄く」「深く」「角度を変えて」何度でも出てくる。これだけで復習の効果があるし、複数の見方から身につけることで、自分なりの見方というものも立てやすくなります。
また業界やら、そのテーマでの常識とか大きな流れみたいなものも一気にわかってしまう。
本当に賢い勉強方法だなぁと思います。

で、ここで僕は「田中角栄の勉強法」と名付けましたけど、僕はこの勉強の仕方は早坂茂三さんの書籍を読むより先に立花隆氏の書いた本などで知ってたわけです。

立花隆氏も同じやり方をしている。まずテーマを決めたら、書店でそのジャンルの本棚の前に立ち、入門書から高度そうな内容のものまで、一気に10冊くらいを選び出して、それを買うというところから話を始めてるんですね。

これが実に印象的だったんです。

というか、田中角栄と立花隆ですよ。この因縁のふたり。田中角栄を「総理の犯罪」という形で追い込んでいったジャーナリストと、不世出の庶民宰相、世紀の天才政治家が同じ勉強法で知識を身につけていたというところまで因縁というか、なんというか。

まぁ、それだけ汎用性のある勉強法だと見るのが一番賢いんでしょうけどね。

そんなことで、僕は勉強するなら、特定テーマに関しては一気に数冊から十冊くらいは、とにかく一気に読むようにしてます。
専門用語にしてもすぐに頭に入るし、その概念の「使える範囲」がどの程度なのかとか実例などもよく見えてくる。
一冊一冊をていねいに読まなくても、それぞれが相互補完関係になるから、「読んでるうちにわかるようになる」という効果も出てきます。

また、すでに入門書で読んで知っている内容なら、それこそサササっと飛ばし読みできるから、小難しい本でも余分なところを読まずに済ませるなんてこともできるわけです。
総合的に見て、実に効率的な知識の習得が可能になる。

勉強するなら、まずこれだよなーとつくづく思っておるのです。

勉強なんて大変だ、やっかいだと思っている方には、ともかくこの方法をお勧めしたいです。
実に効果的。

ま、そんな話でした。
神は理不尽である。

10年前の阪神大震災の時にそう感じた。

人間が積み重ねてきたものなど、一瞬のうちに葬り去ってしまえるのだ。泣き叫ぼうが、すねて無視しようが、自分をごまかして妄想にひたろうが、自然の驚異というすざまじいまでの力には人間はまったくの無力である。

まず、そういう現実認識があった。

阪神大震災の時、日本の政府は、ごく普通の一般市民を守ることもできなかった。海外から飛んできたNGOの救助犬のほうがはるかに役に立っていたし、人の命を救っていたのではないか。確か政府の担当大臣が現地に着くより救助犬のほうが早かったはずだ。

なので「日本の政治体制は遅れているのではないか」という気持ちが強く出た。そしてそれは、私の命を救ってくれないくらいにダメダメなのではないかと思った。

だから、この大地震を海外のメディアはどう報道しているのかが気になった。大まじめなメディアではない。日本で言えば三流の大衆紙などでの、口汚い評論家の意見などが知りたかったのだ。

なので35才だったが、そこから英語の勉強をはじめた。「Itの複数形はIt’s」というレベルだったし、lとrの音は聞き分けることも発音することもできなかった。ruler(ルーラー。定規のこと。)を聞いても聞き取れないし、ましてや口真似することすら無理だった。発音記号と発音のCDを使って口を動かしまくって、何時間もかかって、やっとruler一単語が発音できた。

異文化というのは、そのくらい遠い文化なのだとわかった。

そんなこんなをして、世界の側から見た日本、外から見た日本についてずーっと考えてきた十年だったみたいに思う。

で、結局、この十年に思ったことは、日本人は「神は理不尽である」という厳正なる事実さえ受け取れず、現実を曲げて妄想するることくらいしかできない民族なんだということだった。

海外の宗教、とくに一神教の多くは神は理不尽であるということを基本的には受け入れている。

十年前の一月十七日に神戸の道路はなんとか知り合いを救いたいという人であふれていたが、そんな車の群れに遮られて、緊急車両さえ移動できない状態だった。「私権の制限」を含む緊急時の法令が定まっていなかったからだ。これだけでも我々は大きく反省すべきことなのだ。

しかし実際の「私権の制限」を含む法律は、我々が阪神大震災で学んだことを基準にして立法はされず、イラクとアメリカのもめごとにまきこまれる形で成立してしまった。
なんと情けないことであるか。

大切なのは、我々の命である。
よその国のことなど知らない。

我々の命をいかにして守るかという論点から、論議されるべきだったはずだ。
しかし、そんな論議はされない。テレビにそんな論点は紹介されない。最初から排除されている。行ったこともない国の動向やら、戦争を仕掛けた国がどうやらとかまびすしい。

そんなことどうでもええやんけ。

それより「私権の制限」の必要性を我々がもっとキチンと勉強すべきやったん違うんか。法律って何や? 国って何? 我々は民主主義というものを正しく理解しているのか。いや、それよりも「みんしゅしゅぎ」でいいのか?
そんな、あんなこんなや、そんなこんなを、もっと自分の身近なところから考えなアカンの違うんか。

考えもしないから、よくわかってる他国のええようにされてるだけや。

つくづくそう思う。

我々国民がバカなのだ。とにかく、それが何よりの問題なのだと言うのが、この十年の結論だ。
他に言うことはない。

それでも、と思うのだ。
われわれはまだまだ賢くなれるのではないかと。
せめて自分たちのことを自分たちでキチンと考えられる人間になっていけるのではないかと。

そしてそれは別によその国のことを考えることではないと思う。

まず自分だ。
自分の頭の中だ。
理不尽な現実を真正面から受け止められる知力と体力を身につけることだと思う。

そうなるのだ。

すくなくとも私はそうなる。
ISBN:4101189218 文庫 江原 啓之 新潮社 2003/10 ¥500

去年の春あたりからずっと「倫社の帝王」を書きかけのままにしてたので、その続きを書こうと思うんですが、どうにも基本的な「宗教」の話の入り口だけで話しが止まってしまうんですな。

なんでそうなるかというと、純粋に論理とか倫理という価値中立的なところで論議されずに、感情的というか、単なる反発心だけで「この人、変」とか言われそうな気がするからなんです。

で、どうしてそういうことになるのかが、いまいちよく分かってなかったんですが、この江原さんの本を読んで、自分の中でひとつの納得が生まれたのです。

一言で言うと、「宗教と霊の世界は全然別物」ということが、スキッと理解できたからです。

やはり宗教というのは宗教学というか、社会学とかの学問的に捉えないと日本人である僕には理解しにくいんです。
逆に言うと一神教の世界は、はっきりとは良く分からないですが、そうとうにキチンと「考え方の体系」として確立されている、ということなんですね。

でも、日本人には、この「考え方の体系として確立されている」ということ自体がわからない。
宗教が「考え方なのだ」という点で、もう理解不能だと思うのですよ。
逆に宗教について語った瞬間に「こいつは霊的なあやしい世界に首を突っ込んでいる人間か?」という色眼鏡で見られてしまう。

いや、違うんよ、それは。

と言いたい。

言いたいのだけども、日本人特有の多神教的考え方だと「宗教なんてええかげんでテキトーなもんや」程度の認識しかできなくなるので、やっぱり霊的な事柄と宗教とか不可分になってしまうんよなー。

ごっちゃまぜ。

ちゃうっちゅうに。

そこをごっちゃまぜにしてるからアカンのに。

ということで、その「あやしい」霊的体験の急先鋒というべき江原さんの本を読んでみたわけですわ。

すると、これが実に納得行く。
「ああそうか」とわかる。

江原さんも、この宗教と霊的体験のごっちゃまぜ状態に困ってる人だったわけです。
江原さん曰く「霊の世界は実在します。でもそれは外国みたいなもので、現世の人間には知覚できない。だから、霊界とのやりとりを一手に引き受ける商社みたいな存在が必要になってきて、それが宗教です。」と書いておられる。

あー、わかりやすいなー、これ。
って思うのよ。
江原さん曰く「だから霊的体験と宗教とは全然別のものです。」と言うわけ。霊的体験というのは直接海外に行くようなものなんだって話で。

そうよそうよ、それよそれ。
私はね、海外に直接行く話は全然する気はないんですよ。
そうではなくて、商社の違いを正しく知っておきましょうってことなわけです。

で、日本には、その「商社」の存在すらないに等しいというのが実際のところなんですから。

たとえばお笑いの話で言うと、関西のお笑いだとなんでもかんでも「ヨシモト」とか思われるけど、実際には吉本も松竹もあるわけですよ。だから「鶴瓶とかオセロとかアメリカザリガニとか、吉本は強いね」とか言われたら「それはみんな松竹じゃ」とか言いたくなるでしょ。

前に一度テレビのテレホンショッキングで、誰だか東京のタレントが「関西の吉本系のタレントさんはすごいですよね、鶴瓶さんとか上岡さんとかノックさんとか、みんな人気ありますし。」とか言ってた。全部吉本と違うやんけーって思った。なんやねんそれはと。

で、日本人の宗教観というのは、この吉本と松竹その他との区別もついてない関東のタレントよりひどいレベルなわけですよ。個々の宗教の基本的な違いもわかってない。

で、宗教はお笑いタレントとはわけが違うわけですよ。宗教観というのは、人間の生き方とか価値観の基礎の基礎の、そのまた基礎、大前提を決定しまくってるわけですから。

これを知らずして何を語ることもできゃせんのです。それこそ、世界レベルでの社会の動きを、それなりに理解しようと思ったら、まずこの宗教観をキチンと知るというところからはじめなきゃしょうがない。

そうしない限り、多分日本人の多神教的な素朴な感覚だけでは、世界のシビアな動向など理解したり読み取ったりできるはずもないわけなんですね。

いや別に「語る」とかまで行かなくてもいいのだ。
日本には世界の宗教の考え方が勝手に流れ込んできていて、それに一般人が翻弄されて精神的にダメージを受けているって部分もあるから、ちょっと他国の宗教について「客観的」に理解するだけで、そうとうに気持ちが楽になるし精神的な平安を得ることも可能なわけですよ。
ここが一番重要なんだよねー。
でも、これがわかってないって人が、これまた多い。

で、不安だから「バカの壁」に走る。「多神教が良いんだ」という「自分の文化にひきこもれ」という内容ですわな、あれ。
アカンってそれでは。
いつまでたっても心の平安は得られんっちゅうに。
自国の文化と他国の文化を冷静にちゃんと見極められる目を持たないと。なんでもごちゃまぜで、それで「多神教でござい」では日本人の心の不安定はいつまでたっても治らん。
ちゃんと多神教と一神教くらいは区別して理解せんと。

一神教の人間は多神教なんて原始的で未整理な遅れた宗教としか思ってないし、事実そうなのですよ。それは一神教でないと、商社として成立しないというか、そういうことなわけです。

で、そりゃまぁ確かに霊的体験で言えば、海外まで直接行けば何事でも真実はわかるかも知れませんが、そんなものは特殊な人にしか体験できないし、何も現世にいながら霊界のことを知らなければならなということもないわけですよ。
心が平安に暮らせればそれでいいんだから。

だからちゃんとした商社がある国は、まぁ押しなべて多くの人が安定した心の平和を供給してもらえてるというようなことなわけです。
日本には、この商社がない。それは多神教だから。家庭内手工業でとどまっているのが日本の宗教だから、です。

だから何です。国を司る政治を「心の外の政治」とするなら、宗教というものは「心の内面を司る政治」と考えてもいいわけです。

そういう捉え方をしないと全然駄目なわけ。
「イスラム教は目には目を歯には歯をとか言うやん。あーこわいこわい」とか言うてても、何の意味もあれへん。なんでそういう言葉が生まれてきたかの背景を「知識」として知っておかないと。

そういう根本的なことが、みんなわかってないと思うのよねー。

で、そういう「霊と宗教の完全分離」というのを、キチンと指し示してくれた、という意味で、この江原さんの本はなかなかおもしろかったんですね。
私的には去年読んだ中でも、そうとうに影響力の大きかった本でした。

ちなみに、「霊」の世界においても日本は遅れてるのよなー。江原さん、イギリスで霊媒師修行してきてるんよな。で、「ははぁ、なるほど。霊そのものの存在証明をするという、そういうやり方があったのか。」と感心してしまいました。

駄目駄目よ、ほんと。日本の内側だけ見てても。ほんと。
ISBN:4344007166 単行本 小林 よしのり 幻冬舎 2004/12 ¥1,000
12月11日のところに感想書いてあるので読んでください。

しかし、ここの本のリンクは不便よなぁ。思った過去の日にリンクできん。

基本的に小林よしのり批判を書いてます。批判というほどではないけど。
今日ひさしぶりに「わしズム」を見た。
あの、よしりんが、やっと「相対主義から脱して一神教(倫理)を希求せねばならない」と書いてた。

やっとか。遅いよ、よしりん。

そんなもん、八百万の神みたいな価値相対主義で、一神教の論理に勝てるわけないやんか。最初から勝負は見えてる。

別にキリスト教に入らなくてもいいから、「多神教では一神教の首尾一貫した方針に太刀打ちできん」くらいは、瞬時に理解しろよなー。ほんまに。

社会的な問題において、明確な基準値がなかったら、そら完璧に負けてしまうよ。それは論理的に至極当然な帰結やん。そのくらいは素直に受け入れてくれよ。

その「当たり前」を受け入れてから後よ、何をなすべきかとか何を考えるべきかというのは。

911以降、小林よしのりはずーっと反米とか言ってたけど、その肝心のところがわかってないんよなーとか思って距離とってた。

アメリカとイスラム圏の戦いなんてさ、価値相対主義くらいしかわからない日本人には、到底理解でけへんねんって。で、それを見てアメリカがどうとかイスラムがどうとか、言えるわけないよ。

そんなもん、日本人にはあの争いの実際の「感覚」とか肌触り自体が理解不能だって。絶対。

だからマスコミとかがイスラム側に加担したり、あるいはアメリカ側に加担したりするのを見て、僕はずーっとしらけてた。

「なんで理解できるはずもないことを、わかった気になって批判したり論評したりするんやろ。ムダムダムダ。もっと勉強しましょ。」

でしかなかった。

正直言って、一神教のガチっとした規範があって、その「規範のある社会」同士が、21世紀の情報戦をも含めて争ってるわけですよ。

そんなもん、たかがアジアの片田舎の一神教の成立、社会的規範を決めるための基準値も明確でない日本人に、その争いの本質はとうてい掴めないし理解できるわけもないのであります。

イスラム教では金利は取ってはいけないとかの明確ではっきりした規範があるだろうし、だから競争重視のアメリカ的な資本主義はイスラム圏にはなかなかなじまないのだろうし、いまのニューヨークにいてる金融を動かすような先進のユダヤ人は既存の宗教の枠を超えて自分の能力の限界まで生かすことこそが神の意思に従うことだ、くらいは考えてるだろう。

だろう。

とは書くけどね。それもまた学習してきた知識による推測でしかない。だってワシは日本人で八百万の神で育ってるねんもん、そんなイスラムとアメリカの争いの「実感」の部分までは理解でけへんよ。それこそ神様やないねんから。

そやのになんで、反米とか親米とかいえるのよ。
アホくさい。

わからないものは、じっくり観察して、より真実に近いところを暴く。

そういう態度こそが大事なんと違うんかねぇ。
そうなると、日本人には宗教、とくに一神教が、全然、まーったく、ちーとも、さーっぱりわからない存在なんだから、それをこそ、まず「学習」して理解する必要があると思うけどなぁ。

別に信心する必要はないのよ。どうせ八百万の神で育ってきたんだし、そこから離れることは、まぁできん。
逆に言うと、そういう具合に「どうしても手離せないもの」こそが自分の文化なんだから、なにもわざわざ「ワシの文化とは何か」とかも考える必要もない。身についてる感覚こそが、自国の文化なわけだし。

となるとやっぱり、外国の文化とは何かを冷静に学習することこそが、何より重要なのよ。
なんで「アメリカキライや」とか「欧米は堅苦しい」とかになるかなぁ。
それは単に「わからんから落ち着かない」だけじゃん。自分が理解していないという事実を冷静に認識できていないから、「わかっていない不安」がやたらと大きくなってるだけの話やん。

わからんことは「わからん」と言えばそれで良いのだ。
別に無理してわかる必要もないし。

でもなぁ、よしりんも相当に勉強してる人なんだけど、そういう人でもやっぱり、そういう自分の「わからん」を素直に受け入れることが出来てないんよなぁ。
で、その「わかってない不安」を「何々はキライだ」とか「反なになに」とかやるのよなー。

あほくさい。

わからんことを「わからん」とせずに、無理して無理やりな解釈をこじつけたりするから、よけい当たり前の真実が見えなくなってしまったりする。

「相対主義では明確な基準を導き出せない」なんていうのは、論理的に必然の帰結やん。これは何をどういじくっても無理なもんは無理って奴です。
なのに、それを受け入れたくないわけよ。我々は。
一神教のような明確な基準値を導入しなければ、社会規範を明確化するなんていうのは無理なの。絶対に。
そんなもの、物事を論理的に考えれば二秒でわかるやろうに。

あほくさい。

だからこそ、明治政府は一神教の代わりに現人神の天皇制などというとんでもない代替物を作ったわけやし。
欧米に留学した当時の日本人はみんなそういうところでドヒャーっと驚いて叩きのめされて帰ってきたに違いないのよ。
夏目漱石だってそうだろうし、西周だってそうだろうし島崎藤村だってそうだろうし、みんなたぶんそうなんだ。

(伊藤博文あたりはイギリスで洗脳されて帰ってきた感じがあるけど。そうでなければ天皇制をキリスト教の代わりにするとか思いつけないような気がする。日本人の発案じゃないんじゃないのか?って思うのよなー。わからんけど。)

でもなぁ、よしりんでも三年かかってるもんな。そら一般人には「八百万の神々では世界には通用しない」なんていう事実は受け入れがたいやろなー。
そら「バカの壁」がぎょーさん売れるのも当たり前やわなぁ。

何が、「一神教的な硬直した考え方に多神教的考え方を入れることが大事。」だよ。
そんなん「一メートルは100センチでも105センチでもまぁ、気持ちで変えてええよ」と言うてるのといっしょやん。話にならん。

それで通用するなら苦労はせんわい。あほ。

でもなぁ、ほんと。よしりんで三年やもんなぁ。
大変ですわ。実際。
で、うまく説明できるかどうかわからんけど、その、やっとわかったことを、できるだけわかりやすく、書いてみます。

●(1)ヤハヴェ・ゴッド・アッラーは同一人物である。

まず最初に重要なのが、ユダヤ教における「ヤハヴェ」、キリスト教における「ゴッド」、イスラム教における「アッラー」は、名前こそ違うものの、これらはすべて「同一人物」なのだ、ということ。だから「別の神を信じる」という捉え方自体がもう、根本的に「ミステーク」なんです。つまり。

●(2)それぞれの宗教間で同一人物と知っている。

これはユダヤ教の人は「キリスト教徒はヤハヴェのことをゴッドと呼びよる。」と知っていて、キリスト教徒は「イスラム教徒はゴッドのことをアッラーと呼びよる。」と知っているということなんです。相互にこれは当然のように知っている、ということなんです。

それもね、別に宗教に詳しい専門家だけが、そう考えているのではなくて、ごく普通の一般人がみんな、「いろんな宗教はあるけど、この世界、地球、宇宙を作った、創造主はひとりに決まってますがな。まぁ呼び名はちょっと違うけどさ。」とわかってるということなんですよ。

「そんなこと説明以前じゃん。」そう思ってる。
たとえばカソリックとプロテスタントも争っていますが、これなど同じキリスト教内での考え方の違いですからね。

●(3)この世を作った人が何人もいてたらおかしい。

だって、この世界そのものを「創造」した人ですよ? そんな人が二人も三人もいてるなんてややっこしいこたぁないんですよ。考え方の違う仕組みで組み上げられていたら、こんなに精緻に生き物が生まれて死ぬ仕組みなんか作れるはずがないと捉えているわけです。(ここで共同制作者としてとかなんとかへんな理屈をつけてチャチャを入れないこと。宗教のように世界の標準となって多くの人に伝える考え方は、もっとシンプルで簡単でないと通用しないということです。)
つまりね、「世界はひとつ」、なんです。

●(4)この世はひとつである。

一神教が生活の中に存在している海外の人たちは、ごくごく当たり前の「一般的知識」として、たぶん「世界はひとつ」と思っている。そういう考えが定着している、ということなんでしょうね、きっと。
お題目ではなしに、具体的な現実として、世界は本当に、たった「ひとつ」なんです。世界はひとつに決まってる。取り替えるスペアのある世界なんてない。まぁ事実そうなんだし。

ユダヤ教徒と、キリスト教徒と、イスラム教徒が一緒に生きてたら、そう考えるしかないわけでしょう。それだけのことなんだろうと思う。違う宗教が同じ大陸で顔をあわせながら同居して生活してるんだから。

我々は、いくら考え方が違っても、同じこの地球で生きていくしかない。それが逃げようの無い現実であり、それを直視しない人生などありえない、ということなんですね。

たぶん、この「違う考え方との同居」という点で日本人は現実直視するのが下手なんでしょう。あたかも別の世界、別の地球、別のルール体系の別の宇宙が存在すると思い込みたがる。

でも、考え方は違っても、人間が生きているこの場所、大地、地球はたったひとつなんです。もともとひとつ。だから、いま、この場所で、異なる文化と関わりながら、相手を観察し、理解し、距離を取りながらも用心し、ある時は信頼して、ある時は必要な取引をしながら生きていくしかない。

そのくらいの認識は、欧米の大の大人なら持ってて当然ということなんでしょう。でも、この当たり前の感覚が日本人にはとても少ないってことなんでしょうね。

●(5)ミステイクと言われても仕方ない。

宗教の教義は違っていても、この現実というものは、たったひとつであり、そのたったひとつの現実を考え方の異なる人間たちとでも(イヤイヤであっても)、ともに生きていくしかない。それが現実なんだ、ということなんです。たぶんね。(僕は日本人で八百万の神々の発想しかないので、「たぶん」と想像で書くしかないのだけれど。)

おそらくは、欧米ではそれが当たり前なのに、そんなあたり前の部分に、日本人特有の「八百万の神々」の概念を無意識に持ち出してきてしまって、「違う神(クリエイター)を信じているから宗教戦争は起きるのだ」などと言ったのだから、ミッキーも「ミステイク」と言うしかなかったんだろうなと。
だって、欧米の人たちは、誰も「違う神」なんか信じてないねんもん。同じクリエイター=創造主を信じてるんやから。

そらミステイクですわな。

この項、まだまだ続きます。
やっと、「倫社の帝王」の一回目が書ける。距離は遠いなー。

まず表題。「違う神を信じているから宗教戦争は起きるんだ」。これこそ、日本人が一番間違いやすい勘違いの代表なんですね。

たぶん、日本人が職場や知り合い同士でたまたま宗教の話から宗教同士の争いについての話題がでた時に、いちばん支持を得やすいのが、

「俺は思うんだけどさぁ、どんな宗教だってほんとうは本質はいっしょなんだから、もっと仲良くすればいいと思うんだよ。違う神を信じているから宗教戦争は起きるんだろうけど、通じるところはきっとあるはずだから、争いは避けられるはずだよね。」

というような事を言う、ものわかりの良さそうなおじさんの意見だろうと思うんですよ。

たぶんテレビでそういう話になったとしても、こういう意見を言うコメンテーターが一人は出てきて、そんで、多くの日本人がこの意見に深くうなづいて、「そうよ、そうよ」とみんなが同意して、で、そうして同意が多かったがゆえに「違う神だからアカン論」が絶対的真実とか、そんな感じ、そんな「空気」になってしまうに違いないのであります。

「みんなねー、宗教は同じやねんからねー、いさかいせずに、なかようやったらええのにねー。」とかなんとか、どこぞの気のいいおばちゃんあたりが言いそうだよなー。

で、多分、多くの、というかほとんどの日本人が、やっぱりそう言う事を言うような気がする。

でもなぁ、これこそまさに、日本人が宗教音痴であることの代表例なんだよねー。

というか、さすがの「倫社の帝王」である私も、つい最近まで、この考え方に囚われていて、物事の本質を見るのに、見誤ってしまってたくらいです。だからまぁ、日本人のほとんどが、こういう幼い考え方に染まってしまっていたとしても仕方ないのかもしれないし、こういう認識から脱け出すのは、なみたいていではないのかも知れないなとも思うんですけどね。

かれこれ、十数年も前になるけれど、元教師の仕事仲間がいまして、その仕事仲間さんのお家に、アメリカから発音の補助要員としてミッキーという女性がやって来て、ホームステイしてたことがあったのですよ。

なので、その時期は良くミッキーを中心にみんなで集まって、飲みに行ったり、日本文化やアメリカのことについて話したりというのを、片言の英語とかでやってたんですな。

ミッキーは教師の補助をするくらいだからキチンと常識のある娘だったし、アメリカと日本の文化の違いについても、「イズ ザット ジャパニーズ カスタム?」、それは日本の慣習か? とていねいに質問してきたし文化の溝を埋めるのに抵抗の少ないコで、だから話をしてても楽しかったのですな。

でも、このミッキーに「違う神を信じているから宗教戦争は起きるんだ」というような見解を述べたら、そらまぁ非常に強く「それはまちがっている」ミステークだと断言されたのですよ。

断言だよ、断言。ミッキーは、普段そんな断定は絶対に口にしない人なんだよ? 「私はこう思うけれど、それがあなたの考え方なら、それはそれでいい。」という距離感、個人主義をくずさない人なのよ。仮に考え方に違いがあっても「それは日本の慣習なのか?それなら仕方ないけど」と、きちんと相手の立場を理解する人なわけですよ。その彼女が、「それは間違っている。ミステークだ。」と断言したわけですよ。

驚いたよねー、これは。なんなんだ、と思った。ここまで外国人は宗教の話に関してのみ、頭が固いのかよー、って感じがした。

あなただって思うでしょ? そういう異文化に理解のある、わざわざ日本にやって来てまで、極東の世界を見ようというような柔らかい頭の人が、宗教に関してだけは、いきなり「ミステーク」と断言しちゃうんだから。

で、その時は、その断言の意味が全然わからなかったわけです。何をどう「間違ったのか」自体がわからない。全然わからない。何がどうミステークなのか、こっちとしてはひたすらとまどうばかりでね。おかしな事言うたか?ワシ。別に変な事言うてないと思うけど……。って気持ちだったんですよ。

で、確かミッキーの言ってる言葉の意味を総合すると「どの宗教でもクリエイターはクリエイターだ」みたいなことだったんだけど、その言ってる意味がわからない。言葉としての意味はわかるけど、何をそんなに「ミステイク」と言われて指摘されてるのかが、さーーーーーーーーーーーっぱりわからなかったんですな。

あなたもそうでしょ?

わからんでしょ?

違います?

分かる人は相当、海外の宗教をキチンと勉強した人です。
僕はわかりませんでした。



もう、さっぱり。



で、その「わからない」を僕はもう、ずっと、十年以上ほったらかしにしたまま時が経ってしまったんです。

でも最近、世界の宗教のことをちょっとずつ勉強したら、わかったんですねー、ミッキーが言ってた「ミステーク」の意味が。やっと。今になって。時間かかったわー。嫌ほんま。

ということで、解説すると長くなるので、いちばんいいところに来て、この続きは、項目を改めます。
これは「なぜ倫社の帝王を書きたいか(4)」でもあるのだけれど、僕が言いたいことは、「考えなくても良いことで悩むのはやめよう」です。

考えなくても良いというのは、「文化の違いがあるのだから、異文化を自分の身体感覚で無理矢理<曲解>するのはやめよう」という意味でもあります。

欧米の文化を、日本の文化で類推して、それで意味が不明で悩んで、で、ムリクリに妙な理屈をくっつけて理解するとかは、無駄だからやめよう!という主張です。

日本的なヘンな理屈をくっつけて物事を理解すると、最終的には、「社員のために自殺する中小企業の社長」みたいに、悩んだあげくに自己否定する、とかに、ならざくを得なくなるんです。論理的整合性がないわけですから、それは当然なんだけど。でも、それはあまりに悲しい。

資本主義も民主主義も、憲法も法律も、パソコンも音楽も、宗教も、いまの日本にあるものの多くはよその国からの借り物です。借り物なんだから、そう簡単に実感持って扱える代物ではないんですね。全部個別に歴史があるし、そういうことをキチンと勉強しないと「取り扱い方」「どう捉えておけばよいのか」等はわかりません。

逆に、これら外国の文物を、日本人的身体感で曲解することが、どれだけおかしなことで、意味のないことであるかは、サザエさんのテーマソングをアメリカ人に説明することを考えればわかるはずなんです。

「お魚くわえたドラ猫おっかけて、
裸足でかけてく愉快なサザエさん。」

です。

このサザエさんが「愉快」なのは、晩御飯のおかずであっただろう焼き魚か何かを、そこいらの野良かなにかの猫に泥棒されて、それであわてて追いかけて行ったから、サンダルも履かずに裸足だった、ということでしょう。

でも、これ、日本人だからそう感じ取れるのであって、外国人ではなかなか難しい。ベッドでしか靴を脱がない生活をしている外国人には、裸足で追いかけているというのが意味不明です。しかも、たとえばアメリカの猫なら、まず魚は食べません。日本人は魚を良く食べるから猫も魚を食べるのであって、アメリカの猫は「欲しい」と思う猫が少ない。

だから、このサザエさんの状況は、アメリカ人には意味不明になります。欲しくもない魚を、何故か猫がくわえていて、それをどういうわけか裸足の主婦らしき女が追いかける。すごーくシュールな状況なわけです。

これを、外国人が、「このシュールな状況こそがおもしろい」と曲解して「理解」していたとしたらどうですか?なんでもない日常の、アットホームでごく普通の笑いを、難解で理解不能な、シュールな笑いとして解釈されたら「それはあまりに逆方向の理解だ」と言うしかないでしょう。
全然逆です。

でも、日本人の多くの人が、海外から移植された文物、文化・文明・技術を取り扱う時、おうおうにして、この外人から見た「お魚くわえたドラ猫問題」のようにまったく逆に取り扱ってしまっていたりするのです。

「お魚くわえたドラ猫」の「愉快」は、日本の風俗や習慣、文化があってはじめて成立している事柄で、それをアニメのサザエさんだけ見て理解できはしないのです。

おなじように、民主主義とか憲法とか、もうぜーんぶアニメの主題歌のように表面的な一部の文物でしかないのです。それらを、欧米の社会が、いかに血のにじむような人間の営みの結果として獲得したのかということを、我々日本人は何も知らない。

知らないのに、知っているつもりで、社会体制として受け入れている(受け入れさせられた、でもあります。)。
だから、平均的な日本人の、欧米からきた概念(資本主義・民主主義・憲法・法律・パソコン・宗教etc.ect.)への知識は、おしなべて「サザエさんを見た外人の、すごく妙な感想」レベルなのです。いや、ほんとに。そのくらいトンチンカンな理解しかしてないんですよ。

知ったかぶりとかではなくて、それ以前なのです。「なんのこっちゃさっぱりわからん」状態である、というのが正しい理解、ありのままの「日本人の欧米文化の理解度」でしょう。まったく逆方向に理解してても、それにすら気付かないというのが実態かなぁ。あまりに距離が遠いから理解不能という、ほんとうに、ただそれだけの状態だと思います。

誰が、「アメリカの猫は魚を食べない」って知ってます? 逆に言うなら、「日本の猫は一般的に魚を食べる」なんていうのは、アメリカ人にもびっくり、驚き、なんです。「知らない」以前に「わかるわけがない」「予想自体していなかった」「想定するはずないやろ、そんなもん」という状態です。

だから、日本においては、たとえば民主主義みたいに「わかってるはずのこと」自体がまったく理解できていない。

「民主主義とは多数決の事」とか平気で言う人がいたりするしなぁ。2ちゃんねるとかで、そういうアホなこと書いてる奴がけっこういてるんだよなぁ。あまりに「逆」すぎる、それは。多数決ほど民主主義に反するものはないんだけどねぇ。

ともかく少なくとも僕は、「お魚くわえたドラ猫を裸足で追いかける主婦」を、「このシュールな状況こそがおもしろい」と「曲解」することに、あまり大きな意義は感じないわけです。

というか、無駄でしょ、そういう理解は。意味ない。よその国の文化を理解せずに曲解だけして「安心」している、というのは、もうそろそろ日本人もやめないといけないよなぁ、と思う。

そういう「曲解」のつもり積もった、果ての果ての結果が、先に書いた中小企業社長たちの自殺になってるんだよなーと、僕なんかは思うわけです。

だから、そういう「曲解」を極力減らしたいよなーと思うんですが。

これがなかなか。
言えば言うほど理解してもらえない。

というのは、「曲解」のひどい人ほど、それに染まってしまって堂堂巡りしていて、本当の概念とか、基本の考え方の受け入れ自体ができなくなってるからなんですね。

困ったことです。

何が困ったことと言っても、考える能力のある人ほど、真面目に物事の本質を考えようとして「曲解」の程度がひどくなるという、そういう傾向が強いからなんですねぇ。

サザエさんを「シュールな笑いが良い」などと評価するところに物事の芽は吹かないし、花も咲かなきゃ、実もならないと思うんですよ。やっぱし。だからまず「考えることのできる人」は、「曲解」している自分に気付かないとだめだよなーと思う。

そのあたり、本当に理解して欲しいよなーと思うのです。
自殺者はバブル期には年間1万人くらいで、不況になってから年間三万人くらいに増えたんだそうです。(正確な数字は知りません。マメな方、調べてください。)まぁ増えた二万人がすべて不況のせいとも言い切れないでしょうが、それでも年間で一万人くらいは、そういう「解決不能な問題は、神に預ける」という簡単なガス抜きすらされずに死を選んでしまった人なのではないかと、思えて仕方ないのです。

この14年にもおよぶ不況で、そういう「欧米と日本の意識の違い」による自殺者は10万人は出たんじゃないかと僕は思う。

で、この10万という数字は、半端な数字じゃないんですね。確か、自衛隊の隊員数が陸・海・空すべてあわせても15万〜18万という数字だったはずなんです。つまり、日本の軍隊の隊員半分以上が、意識の違いとか、知識の不足その他で死んでしまっていることになるのです。

これこそまさに、日本国内で行われている「戦争」なんです。半端じゃない。日本人が、それも非戦闘員が一国の軍隊の人員の半分以上の数で死んでしまっているんです。

なにがイラクだ。なにが反米だ。バカな事言ってるんじゃない。そんなマスメディアにおどらされた言動をくっちゃべってるヒマがあったら、もっと国内の、自分たちの現実を、正しく把握せよ。

あっちの事も、そら大変かも知らんけど、それより、我々の問題の方が最優先に決まっている。我々の無知の方をこそなんとかしなければ、他国の事なんか、何もできゃしないのである。アホな発言をしたら「はいアホね」で終り。世界とがっぷり組み合うだけの知的な能力は、いまの日本の国民には、ほとんど無いです。

それこそ、資本主義みたいな、基本的な欧米の「概念」も正しくは理解できておらず、それに頭を侵されて、そしてそれが正確にはわからないから、「日本風」に曲解してしまって、それでわかったことにして、で、曲解しているから世界の動向との一致感が感じられず、論理的な意味のつながりも理解できなくて、それでイライラしてるだけなのだ。

それこそ、単に混乱してるだけなんです。いまの我々はね。よその国の事はよその国のこととして正しく学び、自分たちの概念とどう違うのかすら分かってないというのが現状です。経済という怪物に押しつぶされた日本の社長たちを思うたび、そのことを厳粛に受け止めよ、と思うのです。

勉強しよう。

結局、それが結論にならざるを得ない。
だって、そんなに難しくはないんだもの。

学ぶことこそ、全ての始まりなんです。よその国から移植された概念というのは、正しく勉強すれば「なんや、そんな程度のことやったんか」ということがとても多い。

その「なんや、そんな程度のことやったんか」と得心が行くことを「勉強する」と呼ぶのです。その得心のないのはニセモノと考えて間違いない。

そうして、「異文化」を正しく「異文化」として認識して始めて、次のステップは始まるのです。

だから、この「倫社の帝王」では、そういう「文化の違い」みたいなことを、実例も交えて書いていきたいと、まぁそう思ってるのです。

下手に中途半端に知識があって、そのせいで頭の中が整理できなくて、それで苦しなってしまっている、多くの日本人のために、これを書きたいという事ですな。

いろんなところからの受け売りも多くなると思いますが、まぁそれは許してくださいまし。

てなことで、随時書いて行きます。
じゃ、なぜ、理解されにくいのに書こうとするのか、というと、それはやっぱり、その「身体感覚」みたいなものを、客観視できなくて苦しんでる人が多いからですね。

これに尽きます。

たとえば欧米の文化は日本の文化とは根本的に異なるから、その本質は「生理的嫌悪」を感じてもおかしくないくらいに違うわけです。

日本人の身体感覚で欧米の文化を受け止めるから、肉体的なルール感覚まで引き裂かれて、イライラしたり、ストレスになってしまっている人というのが、実に多いんです。

その実例としては、この10年のおよぶ不況下での自殺者の増加です。不況になる前は年間1万人だった自殺者が、不況移行3万人に増えています。とくに中年男性の自殺が多い。

これが心に痛くてしかたないのです。

死ぬこたぁないねん。死ぬな。そこまでせんでもええんや。

そう言いたくなります。

いろいろな自殺者がいてるから一概には言えませんが、胸が痛んだ代表例では、中小企業の社長たち三名が揃ってホテルで自殺したという話でした。
会社がつぶれたら、社員が路頭に迷う。取引先にも迷惑がかかる。だから自分たちが死んだら保険がでるから、それでなんとかしてやろうという決意の自殺でした。

もうね、この話ね。たまらんのよ。
そこまでする必要なんかないって。
でも、してしまうのはなぜ?

人として優しいというのもあるかも知れないし、いや自殺するなんて、その人間が弱いだけだと強く叱る人もいてると思うけど、どっちの意見もどうでもいいんです。

それ以前に、「社員達のために」という痛ましいくらいの帰属社会優先意識があるわけです。自己を滅してまでも「ヒトのため」になんとかしようとしてる。それが身体感覚として当然になってる。

んー、でもね、経済状態の悪化とかは、人間個人がどうのこうのできる事柄じゃない。台風が来て止められないのと一緒。それこそ「神の意志だ」とさっさとあきらめて「俺には責任ないもんね」と思う方が良いのです。

社員のためとか、帰属意識を出す前に、一個の個人として自分優先でいいんです。でも、日本の中小企業の社長族は、ここを割り切れない。欧米のように個人と神が契約する仕組み(タテの関係)がまったくなく、八百万の神々で、人と人のつながり(ヨコの関係)の概念だけしかないから、どうしても割り切れない。他人の目が気になる。社員を養えない自分が許せなくなる。

悲惨です。
あまりに悲惨だと思う。

これも、もともと日本の文化とは関係ない「資本主義」を、表面だけしか学べずに、実践としての「経営」に手を出しているから、内面の葛藤がグシャグシャになって起こっていることなんですね。

訳がわからないから、精神的にまいって、それで自殺してしまったとしか、僕には思えない。だから、「資本主義なんてよその国で生まれたものだし」と軽く、距離感を持って見て欲しいなと、強く思うのです。これをむりやり日本人的感覚で理解するから整理がつかなくなってしまうんだろうなと。

そういう混乱を整理するために、欧米の思想や学問は「よその国のこと」として客観的に正確に学ばなければなりません。正直言って、欧米の宗教の概論もわかってない人間には、資本主義なんて正しく理解することすら不可能なんです。

だから学んで欲しいと、強く思う。
苦しんでるのは、単に知識不足なだけだよ、と。
自分勝手な思い込みで、自分を追い込んだり、怒ったりしても、それは自分が損をするだけだよと。
こういう哲学とか、宗教の話を根っこから書くというのは、前々からやりたいとは思ってたんですが、これが、なかなか書けない。

まずは、その「書けない」理由から書かないといけないんですね。

哲学とか宗教というのは、物事をどう捉えるかの根本ルールなので、物事の良し悪しの罪悪感まで規定していたりします。

そうすると、特定のルールを無自覚に採用していると、それは「生理的嫌悪感」として認識したりするわけです。

なので、本当の「異文化」というのは、「生理的嫌悪感」を感じるものである、というのが実際のところなんですよ。嫌悪感を感じるくらい異なっていて初めて「異文化」と言えると極論を言っても良いくらいです。その「嫌な感じ」そのものを学ばなければ異文化を理解したことにはならない。

そうすると、真に異文化を理解しようとしたら、自分の中の「生理的嫌悪感」を客観的に把握した上で、「この感覚自体が視野を狭くさせているのかも。」と想定しない限り、異文化は理解できないわけです。

この生理的嫌悪は、身体感覚にまでなっていますから、本当に異文化を分かろうとしたら、実はまず自分の身体感覚から疑わないといけないんですね。

ここが実に難しい。

この「自分の身体感覚まで疑う」というのは、まぁなかなかできることではないですから。しかし、それをやってない人のほうがはるかに多いわけです。

それどころか、自分の体内にある身体感覚こそが「真実だ」と思い込んでいたりします。

ほんまにそうか? それ。

ということから話を始めないといけないんですが、その段階で、「自分の身体感覚こそが真実だ」とコミュニケーションの否定をする人のほうが多いんですね。

なので、書くのが実に難しくなる。

自分の身体感覚の無自覚な信奉というのは、単なる視野狭窄でしかないんだけどなーと思うのだけど、これはなかなか納得してもらえないんですね。

なので、「倫社の帝王」みたいな話は書くのがしんどいわけです。
書けば書くほど「それでも俺の身体感覚こそが正しいんだ」とか言われる。いやー、その態度こそが間違いなんよなー。困ったなー、なわけで。

多分僕が倫社90点だったのは、この自分の身体感覚もさらっと客観視できてたからなんだろうなぁと、最近は思うんですけど。いいことなのか悪いことなのかは別にして。

あー、なぜ「書きたいか」ではなく「なぜ書きにくいか」だけになっちゃったなぁ。

でも、長くなるわ、これは。
ISBN:4198611688 単行本 小室 直樹 徳間書店 2000/07 ¥1,890

ということで、世界の宗教をお勉強するための基本的な書籍となると、やっぱり小室先生は外せない。

やっぱり小室先生ですよ。

本当のことを言うと、まぁこの一冊を読めば、なぜ宗教を理解することが大切なのかとか、その他もろもろは全部わかっちゃうってものなんだけど、橋爪さんの本のアマゾンのレビューでもわかるように「日本人が大したことない」という視点に反感を感じる人だと、この本あたりは、全然受け入れられない可能性があるのよなぁ。

自分が無知であることを自覚すらしてない人が、どんな知識を得ようとしても、自分勝手に自分に都合のいいように曲解しかしないのですな。
それで、曲解して、よけいに混乱したりする。

なので、素直にありのままに書籍を読もうとする人にしか、勧められないんだけど、でもやっぱり、世界の宗教を概観するなら、この本です。論理的なところがすばらしいです。
ISBN:4480842586 単行本 橋爪 大三郎 筑摩書房 2001/06 ¥1,890 東京工業大学大学院教授の著者が同大学で講義している「宗教社会学」をもとにした本である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の世界4大宗教がどのように発生し変遷したか、中国から朝鮮を経て日本に入った儒教が日本特有の精神風土の中でどのように変質したかを「高校生を相手にするつもりで」語っている。だからわかりやすいが、…

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ついでなので、橋爪大三郎さんのこの本も紹介しておきます。この本も世界の宗教を概観できるのがいいです。

アマゾンの書評を見ると、伊藤延司という人が「良い本だが、日本人の宗教観は素朴すぎるとか教師的なおしつけがましさがある」というような反感を述べてます。

でもなぁ、その「日本人は素朴すぎる」というのは、橋爪さんが、最大限、読者の反感を避けるために選んだ言い方であって、本当は「日本人はあまりに宗教に対して無知すぎる、緊急に世界の常識を身につけなくては不幸だよ。」ということが、一番言いたいことだと思うのよなぁ、僕は。

日本人は本当に内面の精神性が幼いというか、ものすごい「危機」にさらされてるんだと思うのよ。ネィティブな宗教観に「論理体系」がないから。だから、物事の良し悪しを個人が必死になって考えて悩んで苦しんでるのよね。
それはさぁ、ある意味すばらしいことではあるのかも知れないけど、やっぱり無駄な面もものすごく大きいのよなぁ。

「わからんことは、わからん」

で、まぁええやんってなりにくいのですよ。日本人は。そういう意味で不幸だと思う。

ともあれ、この本は、世界の宗教がいかに成り立ってきたのかが、概略わかるので、良いです。
ISBN:406274161X 単行本 ひろ さちや 講談社 2004/06 ¥1,365
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/406274161X/503-1393334-5299133

「倫社の帝王」を連載する、とか書いてたけど、とりあえず、こういう本が出てたので、まずは書籍の紹介したほうが早いかなと。

「社会」の基礎の基礎のところに、実は宗教というのがあって、人間は行動基準に「宗教」を置いている。たいてい。

で、欧米の人間は根っこの基準を自覚してる。論理的にわかってます。ところが日本人は無自覚なんですね。宗教の専門家とかいてない。

いてないというと「お坊さんがいてる」とかいう話になるけど、仏教はやっぱりよその国の宗教やしなぁ。神道は社会の基礎を築く論理体系は、やっぱり持ちえてないと思うし。

そういう意味で、こういう本は読んでおくといいと思う。日本人は本当に宗教に関しては、幼いです。よちよち歩きと言っていいと思います。まず、そこは自覚したいです。

この本は比較的、「仏教」に肩入れした書き方なので、まだ抵抗が少ないと思うのですよ。日本人にはやはり仏教の考え方が馴染みがあるから。

でも世界を見るとユダヤ教とキリスト教とイスラム教という兄弟宗教が大きな、大きな「常識」を作っていて、その「常識」を知らないと、「世界」がさっぱり見えないということはあるんですね。

そういう意味で、各種の宗教の概略がわかる、この本はいいです。
おすすめ。

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