広告・販促の最先端やなぁと思う。
2007年11月28日Wiiで新作情報やDS体験版を配信する「みんなのニンテンドーチャンネル」
http://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/20200.html
上記のような記事がありますが。
昨日、自宅に戻るとWiiのドライブスロットが青く光っていて、「なんじゃらホイ」と見てみると、あらたなチャンネルがダウンロードできますよーというお知らせメールが来てたのです。
で、さっそく「みんなのニンテンドーチャンネル」というWii用のソフトをオンラインでダウンロード。見てみると、これが面白い。
「みんなのニンテンドーチャンネル」という番組は、Wiiの「チャンネル」というサービスの中のひとつとして配信されるわけですが、起動させると、いきなりプロモーションビデオが始まるのです。
今回は12月発売の「WiiFit」というWiiにつなげる体重計の宣伝なのですが、いきなり開発者として、宮本さんが出てきてしゃべる。もう、まさにテレビなんですが、普通のテレビと違うのは、こっちの意志で、メニュー選択して映像を見れるってところ。ある意味読書に近い感じでプロモーションビデオが見れる。
WiiFitに関してだけでも、そのテレビCMやら、ソフトの監修をしたインストラクターの方のインタビューやら、いくつも映像コンテンツが入ってるので、なかなか楽しい。インタビューは4分くらいでボリューム感も頃合い。(長すぎると見る気がしない。)
そのほかWiiのソフトに新作紹介のコンテンツやら、DSの体験版ソフトのダウンロードやらができるようにもなっているし、市販ソフトを自分の好みで検索したり、自分が遊んだソフトの評価とかもできるようになってたり、メニューも豊富。
で、これらは、ようするに任天堂からの「宣伝」ですから、全部無料ですわな。けっこうお得感があるのが面白いのであります。宮本さんのインタビューなんて、ちょっとした雑誌の記事みたいに楽しめる。っていうか、映像でしゃべってるぶん、こっちの方が上か。
任天堂中心の番組内容ではありますが、今後はサードパーティーからの販促情報とかも流れてくるだろうし、「Wii用宣伝番組」がWiiの中に登場した、という感じで、なかなか楽しいのであります。
私は、広告やら販売促進の仕事を生業としているので、「ああ、本当に最先端の広告・販促手段がここに誕生してしまったなぁ」という感慨が深かったです。
いままでにもインタラクティブにメニュー選択で映像を見せるような販促物はいくらでもあったし、それこそ雑誌に付録でついてたりと、いろいろ見てきました。
最近は商品販促用の映像をDVDで見る事も多く、そこでもメニューで選択式で短いプロモーションビデオを見たりはしてきました。
いや、実際、いままで任天堂は、そういうDVDを使った店頭販促用のビデオっていうのも、毎月お店に配信してたはずです。
でも、それがこうしてWiiを通じて家庭に入ると、もう今や意味が全然違う。毎月であろうが、毎週であろうが、日々そういうプロモビデオを自在に配信できるわけですからな。
で、これがまた、インターネットで配信している宣伝サイト、というのとも全然違う。いや、技術的にはそういう構造なんでしょうけど、ユーザーインターフェースがWiiのWiiリモコンだっていうのが全然違うわけです。
Wiiリモコンっていうのは、簡単に言うと「テレビマウス」ですからね。マウスでパソコンを操作するような気軽さで、テレビ操作ができる。それがリモコンという「棒」でやれる。ホワイトボードを差し棒で指示するというか、そんな感じで見ていけるわけです。
なんちゅうか、自然なんですよ。ものすごく。テレビのリモコンでチャンネルを変える感覚とものすごく近い。でも、それでけっこうなインタラクティブ操作ができてる。
とりあえず、任天堂のWii/DSの宣伝しかやらないんだろうけど、この仕組みで他の生活消費財企業向けのチャンネルを作ったら、ものすごく面白いよなぁって思う。ほんとに。旅行パンフとかいいんじゃないか? 映像で旅先の映像が見れて、そのままチケットの予約や宿が取れたりしたら、ものすごく強力ですわなぁ。飲食店紹介とかでもいいだろうし。
これは本当にものすごいよなぁって思う。
もう、ゲームとかいらんで。任天堂は。
家庭向け広告代理店で食って行けます。確実に。
電通なんか目やないっちゅうくらい。ものすごいです、これ。
ラベルが違うっちゅう奴ですなぁ。ほんまに。
なんか化け物みたいなすごさですわ。
WEB2.0とか、良く言うけど、そういうのを超えてますな。
ちゅうか、ここまでやってはじめてWEB2.0やろ、ちゅうことか。
パソコンで何かやってる間はWEB2.0とか言うな、ちゅうことですわな。
まぁ、とんでもなく革命的なもんができてしまった、という感じがしました。昨日、この「みんなのニンテンドーチャンネル」というものを見て。
完全に時代が変わったなと。そう思いました。
ほんまにとんでもないわ。これは。
そうそう、DSのゲームの体験版もダウンロードできてしまうんですよ。無線で。いま、お店に置いてあるDSステーションがそのまま家庭に入ってしまったって話なんですがね。まぁえらいこっちゃね、これは。ほんまに。
とにかくファーストインプレッションがすごかったので、日記に書きたくなりました。いやほんま。
http://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/20200.html
上記のような記事がありますが。
昨日、自宅に戻るとWiiのドライブスロットが青く光っていて、「なんじゃらホイ」と見てみると、あらたなチャンネルがダウンロードできますよーというお知らせメールが来てたのです。
で、さっそく「みんなのニンテンドーチャンネル」というWii用のソフトをオンラインでダウンロード。見てみると、これが面白い。
「みんなのニンテンドーチャンネル」という番組は、Wiiの「チャンネル」というサービスの中のひとつとして配信されるわけですが、起動させると、いきなりプロモーションビデオが始まるのです。
今回は12月発売の「WiiFit」というWiiにつなげる体重計の宣伝なのですが、いきなり開発者として、宮本さんが出てきてしゃべる。もう、まさにテレビなんですが、普通のテレビと違うのは、こっちの意志で、メニュー選択して映像を見れるってところ。ある意味読書に近い感じでプロモーションビデオが見れる。
WiiFitに関してだけでも、そのテレビCMやら、ソフトの監修をしたインストラクターの方のインタビューやら、いくつも映像コンテンツが入ってるので、なかなか楽しい。インタビューは4分くらいでボリューム感も頃合い。(長すぎると見る気がしない。)
そのほかWiiのソフトに新作紹介のコンテンツやら、DSの体験版ソフトのダウンロードやらができるようにもなっているし、市販ソフトを自分の好みで検索したり、自分が遊んだソフトの評価とかもできるようになってたり、メニューも豊富。
で、これらは、ようするに任天堂からの「宣伝」ですから、全部無料ですわな。けっこうお得感があるのが面白いのであります。宮本さんのインタビューなんて、ちょっとした雑誌の記事みたいに楽しめる。っていうか、映像でしゃべってるぶん、こっちの方が上か。
任天堂中心の番組内容ではありますが、今後はサードパーティーからの販促情報とかも流れてくるだろうし、「Wii用宣伝番組」がWiiの中に登場した、という感じで、なかなか楽しいのであります。
私は、広告やら販売促進の仕事を生業としているので、「ああ、本当に最先端の広告・販促手段がここに誕生してしまったなぁ」という感慨が深かったです。
いままでにもインタラクティブにメニュー選択で映像を見せるような販促物はいくらでもあったし、それこそ雑誌に付録でついてたりと、いろいろ見てきました。
最近は商品販促用の映像をDVDで見る事も多く、そこでもメニューで選択式で短いプロモーションビデオを見たりはしてきました。
いや、実際、いままで任天堂は、そういうDVDを使った店頭販促用のビデオっていうのも、毎月お店に配信してたはずです。
でも、それがこうしてWiiを通じて家庭に入ると、もう今や意味が全然違う。毎月であろうが、毎週であろうが、日々そういうプロモビデオを自在に配信できるわけですからな。
で、これがまた、インターネットで配信している宣伝サイト、というのとも全然違う。いや、技術的にはそういう構造なんでしょうけど、ユーザーインターフェースがWiiのWiiリモコンだっていうのが全然違うわけです。
Wiiリモコンっていうのは、簡単に言うと「テレビマウス」ですからね。マウスでパソコンを操作するような気軽さで、テレビ操作ができる。それがリモコンという「棒」でやれる。ホワイトボードを差し棒で指示するというか、そんな感じで見ていけるわけです。
なんちゅうか、自然なんですよ。ものすごく。テレビのリモコンでチャンネルを変える感覚とものすごく近い。でも、それでけっこうなインタラクティブ操作ができてる。
とりあえず、任天堂のWii/DSの宣伝しかやらないんだろうけど、この仕組みで他の生活消費財企業向けのチャンネルを作ったら、ものすごく面白いよなぁって思う。ほんとに。旅行パンフとかいいんじゃないか? 映像で旅先の映像が見れて、そのままチケットの予約や宿が取れたりしたら、ものすごく強力ですわなぁ。飲食店紹介とかでもいいだろうし。
これは本当にものすごいよなぁって思う。
もう、ゲームとかいらんで。任天堂は。
家庭向け広告代理店で食って行けます。確実に。
電通なんか目やないっちゅうくらい。ものすごいです、これ。
ラベルが違うっちゅう奴ですなぁ。ほんまに。
なんか化け物みたいなすごさですわ。
WEB2.0とか、良く言うけど、そういうのを超えてますな。
ちゅうか、ここまでやってはじめてWEB2.0やろ、ちゅうことか。
パソコンで何かやってる間はWEB2.0とか言うな、ちゅうことですわな。
まぁ、とんでもなく革命的なもんができてしまった、という感じがしました。昨日、この「みんなのニンテンドーチャンネル」というものを見て。
完全に時代が変わったなと。そう思いました。
ほんまにとんでもないわ。これは。
そうそう、DSのゲームの体験版もダウンロードできてしまうんですよ。無線で。いま、お店に置いてあるDSステーションがそのまま家庭に入ってしまったって話なんですがね。まぁえらいこっちゃね、これは。ほんまに。
とにかくファーストインプレッションがすごかったので、日記に書きたくなりました。いやほんま。
Ron Paul 2008 (その3「通貨発行権の謎」)
2007年11月22日えーロン・ポールの話はmixiとこっちと両方でやっておりますので、mixiに書いたものを、こっちにも転載。
-------------------------------------------
うーん。Ron Paul の話、あんまりウケてない気がするんですが、僕的には「どっひゃー」という事があまりに山盛りなので、まだ続けます。
えーと、どこから書けばいいか悩みますが。
まず、ドル覇権は終焉に近づいておると。これはよろしい。
で、それを立て直すためには、「兌換性のある貨幣を発行しなければいけない」とRon Paul は言ってるわけです。
じゃ、これをすぐにアメリカ政府ができるのか? というと、実は無理なんです。
この「実は無理」って事が、本当は一番重要なんですね。アメリカ政府には、通貨発行権がないんです。知ってました?
なんでよ? なんでないのよ? っていうと、これが通貨発行権は「連邦準備銀行」が握っているからなんですね。
まぁ俗に言うFRBです。(正確にはちょっと違うけど、ここではFRBとしておきます。)
私ら日本人から見たら、「FRBが発行しても別にかまへんやん。どうせ政府機関のひとつでしょ。」てな気持ちにしかなりませんが、そこが実は全然違うのでありまして、FRBというのは純然たる私企業なのですよ!
びっくり!
ここ、大事なので、よーく考えて欲しいのですが、世界の基軸通貨とは何か? というとドルでして、で、その基軸通貨が私企業によって発行されている、ってことなわけですよ。
これ、かなり大きなペテンなんです。
で、あまりに大きすぎて、誰も気付いてないわけです。
ドルというのは、正しく、「連邦準備券」なんです。
で、Ron Paul は、その連邦準備銀行をなくすとはっきり言ってるわけです。
「俺たちアメリカの通貨を、私企業が発行するなんざぁ許さねぇ。通貨発行権は政府の専権事項だ」
と言うとるわけです。
これね。実は銀行家の意見とはまっこうから対立するんです。
日本銀行においてもおなじですが、「通貨発行権は、国の中央銀行の専権事項であって、政府によるコントロールがあってはならない」とするのが銀行家の意見なんですよ。
「市場に流通する通貨の量は、実体経済の動向を正確に把握している銀行こそが決定すべきである」というのが、銀行家の意見でして、私、実は、ずっと「そうだそうだ」と思ってきた人間なんです。
市場の動向というものは「神の見えざる手」が働く、自然の働きなのだから、市場本来が持つ動きを大切にするべきだ、と私は思ってたんですね。
でもね。
どうもこの「銀行家」ってのが、怪しいんですよ。何をやっているやらわからない。
連邦準備銀行は私企業とか書きましたが、そこに名を連ねているのは、世界的な財閥の長たる人間ばかりでして、影で何をやっているやらまったく不明なわけです。
で、たとえば日本の場合は中央銀行というと日本銀行でして、これは政府機関だから安心だなとか勝手に思ってたんですが、実はこれも、確かに日本政府の資本保有率が50%を超えてるから(55%だそうです)政府機関と言えなくもないんですが、逆に言うと45%も政府とは関係のない資本が入り込んでるんですね。
結局FRBにせよ、日本銀行にしろ、公的な場で通貨発行量の決定・確定のプロセスや背景をつまびらかにしてはいない、って事なわけですよ。問題はここにあるんですね。
どうも、実際にはよくわからないんですけど、銀行家同士というのは、国際的な金融家同士として、いろいろ裏でつながっていて、あらゆる策略を張り巡らせて、なにやらやっているやもしれないという疑念があるわけです。
その疑念のひとつひとつを、ここでは書かないですけど、通貨発行権というような重要な事柄が、日本であれアメリカであれ、公になっていないというのは、考えてみたらものすごくおかしなことなんですね。
で、それをロン・ポールは「それはおかしい!FRBをつぶせ!」と言ってるわけです。だから、かなり過激です。国際資本家を敵に回すような事を言ってる。まぁ軍産複合体はそういう国際金融家とつながっているというのはかなり確実な見方ですから、(「国を超える」という考え方はストレートに「敵にも味方にも武器を売って稼ぐ」ということでありまして、かなり危険なのです。)そういう事もひっくるめて、ロン・ポールは、イラク戦争は即刻やめよう!と言ってるのだと分かるわけです。
実際、ウィキペディアで連邦準備銀行を調べてみると、
「1907年にロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する恐慌が起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱した。
その対策として、J.P. モルガンやポール・ウォーバーグやジョン・D・ロックフェラーの後ろ盾の元に、1913年に、ウッドロー・ウィルソン大統領がオーウェン・グラス法に署名し、
同年多くの上院議員が休暇中の12月23日に、ワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した。」
となってるんですね。まさに資本家の大立者が、よってたかって、議会の休みにガサゴソと成立させた仕組みがFRBで、最初からかなり怪しい存在だってってのがわかります。
(なにより実はこのときのウッドロー・ウィルソン大統領自身が、この法案を成立させてしまったことを非常に後悔してるそうです。詳しくは知らないのですが。乗せられてだまされて署名しちゃったんでしょうな。とんでもない話ですわ。いや、ほんま。)
アメリカのFRBなんて、日本には関係ないとすぐに思っちゃうわけですけど、ドルが世界の基軸通貨で、それを中心に世の中が動いてるとするなら、すべてはつながってくるわけです。
どこでどうつながるのかはわからないけど、というか、わからないようにそういう人種は動くわけですから、「関係ない」と思わずに、ロン・ポールみたいなアメリカの底力みたいな人とこそ連動しとかないといけないよなぁって思うわけです。
なんちゅうか、この手の話をすると単純に「嫌米」とかのレッテルを貼って終わりとかになる人も多いわけですけど、そういう事ではなくて、地球全体の全体像をざっくりとでもつかまえておいて、それから「ここの部分はおかしいのではないか?」とか「ここは良いよなぁ」とか思うようにしたいと私は思うわけです。いやまぁ、いろいろ視野を広げるってのは面倒かつしんどいんですが、焦らず、ゆっくり、ちょっとずつね。
で、そういう時に、こういうロン・ポールの動画みたいなのは「このおっさんは本気で言うとるよなぁ」とか、そういう事がじんわり伝わってくるので、ありがたいし、良い判断基準になるよなぁってことなのであります。
ロン・ポールの話をえんえんやってるのは、そういう事なわけであります。
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うーん。Ron Paul の話、あんまりウケてない気がするんですが、僕的には「どっひゃー」という事があまりに山盛りなので、まだ続けます。
えーと、どこから書けばいいか悩みますが。
まず、ドル覇権は終焉に近づいておると。これはよろしい。
で、それを立て直すためには、「兌換性のある貨幣を発行しなければいけない」とRon Paul は言ってるわけです。
じゃ、これをすぐにアメリカ政府ができるのか? というと、実は無理なんです。
この「実は無理」って事が、本当は一番重要なんですね。アメリカ政府には、通貨発行権がないんです。知ってました?
なんでよ? なんでないのよ? っていうと、これが通貨発行権は「連邦準備銀行」が握っているからなんですね。
まぁ俗に言うFRBです。(正確にはちょっと違うけど、ここではFRBとしておきます。)
私ら日本人から見たら、「FRBが発行しても別にかまへんやん。どうせ政府機関のひとつでしょ。」てな気持ちにしかなりませんが、そこが実は全然違うのでありまして、FRBというのは純然たる私企業なのですよ!
びっくり!
ここ、大事なので、よーく考えて欲しいのですが、世界の基軸通貨とは何か? というとドルでして、で、その基軸通貨が私企業によって発行されている、ってことなわけですよ。
これ、かなり大きなペテンなんです。
で、あまりに大きすぎて、誰も気付いてないわけです。
ドルというのは、正しく、「連邦準備券」なんです。
で、Ron Paul は、その連邦準備銀行をなくすとはっきり言ってるわけです。
「俺たちアメリカの通貨を、私企業が発行するなんざぁ許さねぇ。通貨発行権は政府の専権事項だ」
と言うとるわけです。
これね。実は銀行家の意見とはまっこうから対立するんです。
日本銀行においてもおなじですが、「通貨発行権は、国の中央銀行の専権事項であって、政府によるコントロールがあってはならない」とするのが銀行家の意見なんですよ。
「市場に流通する通貨の量は、実体経済の動向を正確に把握している銀行こそが決定すべきである」というのが、銀行家の意見でして、私、実は、ずっと「そうだそうだ」と思ってきた人間なんです。
市場の動向というものは「神の見えざる手」が働く、自然の働きなのだから、市場本来が持つ動きを大切にするべきだ、と私は思ってたんですね。
でもね。
どうもこの「銀行家」ってのが、怪しいんですよ。何をやっているやらわからない。
連邦準備銀行は私企業とか書きましたが、そこに名を連ねているのは、世界的な財閥の長たる人間ばかりでして、影で何をやっているやらまったく不明なわけです。
で、たとえば日本の場合は中央銀行というと日本銀行でして、これは政府機関だから安心だなとか勝手に思ってたんですが、実はこれも、確かに日本政府の資本保有率が50%を超えてるから(55%だそうです)政府機関と言えなくもないんですが、逆に言うと45%も政府とは関係のない資本が入り込んでるんですね。
結局FRBにせよ、日本銀行にしろ、公的な場で通貨発行量の決定・確定のプロセスや背景をつまびらかにしてはいない、って事なわけですよ。問題はここにあるんですね。
どうも、実際にはよくわからないんですけど、銀行家同士というのは、国際的な金融家同士として、いろいろ裏でつながっていて、あらゆる策略を張り巡らせて、なにやらやっているやもしれないという疑念があるわけです。
その疑念のひとつひとつを、ここでは書かないですけど、通貨発行権というような重要な事柄が、日本であれアメリカであれ、公になっていないというのは、考えてみたらものすごくおかしなことなんですね。
で、それをロン・ポールは「それはおかしい!FRBをつぶせ!」と言ってるわけです。だから、かなり過激です。国際資本家を敵に回すような事を言ってる。まぁ軍産複合体はそういう国際金融家とつながっているというのはかなり確実な見方ですから、(「国を超える」という考え方はストレートに「敵にも味方にも武器を売って稼ぐ」ということでありまして、かなり危険なのです。)そういう事もひっくるめて、ロン・ポールは、イラク戦争は即刻やめよう!と言ってるのだと分かるわけです。
実際、ウィキペディアで連邦準備銀行を調べてみると、
「1907年にロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する恐慌が起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱した。
その対策として、J.P. モルガンやポール・ウォーバーグやジョン・D・ロックフェラーの後ろ盾の元に、1913年に、ウッドロー・ウィルソン大統領がオーウェン・グラス法に署名し、
同年多くの上院議員が休暇中の12月23日に、ワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した。」
となってるんですね。まさに資本家の大立者が、よってたかって、議会の休みにガサゴソと成立させた仕組みがFRBで、最初からかなり怪しい存在だってってのがわかります。
(なにより実はこのときのウッドロー・ウィルソン大統領自身が、この法案を成立させてしまったことを非常に後悔してるそうです。詳しくは知らないのですが。乗せられてだまされて署名しちゃったんでしょうな。とんでもない話ですわ。いや、ほんま。)
アメリカのFRBなんて、日本には関係ないとすぐに思っちゃうわけですけど、ドルが世界の基軸通貨で、それを中心に世の中が動いてるとするなら、すべてはつながってくるわけです。
どこでどうつながるのかはわからないけど、というか、わからないようにそういう人種は動くわけですから、「関係ない」と思わずに、ロン・ポールみたいなアメリカの底力みたいな人とこそ連動しとかないといけないよなぁって思うわけです。
なんちゅうか、この手の話をすると単純に「嫌米」とかのレッテルを貼って終わりとかになる人も多いわけですけど、そういう事ではなくて、地球全体の全体像をざっくりとでもつかまえておいて、それから「ここの部分はおかしいのではないか?」とか「ここは良いよなぁ」とか思うようにしたいと私は思うわけです。いやまぁ、いろいろ視野を広げるってのは面倒かつしんどいんですが、焦らず、ゆっくり、ちょっとずつね。
で、そういう時に、こういうロン・ポールの動画みたいなのは「このおっさんは本気で言うとるよなぁ」とか、そういう事がじんわり伝わってくるので、ありがたいし、良い判断基準になるよなぁってことなのであります。
ロン・ポールの話をえんえんやってるのは、そういう事なわけであります。
Ron Paul 2008 (その2:「ドル覇権の終焉」)
2007年11月17日えー、おとといロン・ポールに関して書いて、ミクシィと「だいありーのーと」の両方にアップしたのですが、私の言葉足らずで、ミクシイの方では言いたい事が適切には伝わらず、「だいありのーと」では事情を良く分かってる見ず知らずの方から、えらく強い賛同をいただいてしまいました。(sawarbi1972さんコメントありがとうございました。)
僕の気持ちとしては、「知り合いから賛同をもらいたい」という事だったので、「全然目的達成できてないやん、あかんやん」という事なわけですが、これはちょっと説明が大変なので手間がかかるのはしょうがないかなぁ、という感じです。
ということで、まず、ロン・ポールが言ってることで、非常に重要な「ドル覇権の終焉」という演説の日本語訳があるので、それをまずリンクしておきます。(勝手リンクで申し訳ないんだけど。)
国際情勢の分析と予測
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/17e00ac8bbebb39a36575c083c1874be
英語原文はこちら
http://www.house.gov/paul/congrec/congrec2006/cr021506.htm
えー概略、この演説の内容がどういうことかというと、「ドル覇権というものが終わろうとしている」という事なんです。
で、ロン・ポールが人気だ、という事は、当のアメリカ人自身が、ドル覇権を終わらせる事に賛成しているという事でもあります。
そこが大事なところなんですね。
いま石油がものすごく高くなってますが、これは石油が高いのではなくて、ドルが暴落しているからです。
で、実はドルの暴落がドルの暴落と言われずに石油の高騰と言い換えられてしまうかというと、世界的にいままで石油の決済通貨がドル建てだったからです。ドル以外での石油の取引は事実上なかったんです。
でも、とうとうユーロ建ての石油決済をするところ国が出てきて、ドル覇権そのものが危うくなっているというのが現状なんですね。
で、これは、ニクソンショック以来の重要な世界の動きだろうと考えられるんです。
第二次大戦後アメリカは、膨大な「金=gold」の保有量を背景に金との兌換紙幣(金と交換できる紙幣)として、ドルを世界の通貨基軸にすることに成功したわけですが、それをニクソンが「金との交換はやめました」と言ったわけです。
現実問題として、この時にドルには実物経済に担保するものがなくなったので、「ドル覇権」そのものは、ここで終わるのが当たり前だったわけです。
しかし、その後も基軸通貨としてのドルは生きながらえたわけです。
なんでか?
それが実はドルによる石油決済というルールだったんですね。いわば金の変わりに石油で兌換できるという仕組みにしたということなんですね。
石油は金のように金のみで通貨として使われた事もないですし、決済をドルで! というだけでは本来意味をなさないわけですが、アメリカの武力を背景に、他の通貨での取引を認めさせずにきたので、そのうそっぱちが、なんとか数十年は保てた、という事なわけです。
で、いまは、その張り子の虎がはがれ始めた段階だ、という事なんですね。
で、ロン・ポールが言ってるのは「もう、そういう張り子の虎はやめよう。ドルを金との兌換紙幣に戻そう」と言うことなんです。
(実は、この金との兌換紙幣に戻そうというのは「ちょっとそれはしんどいんと違うの?」と僕は思ってますが、まぁ、それは別の話なので。)
ロン・ポールは、現在の金兌換の保証のない「紙切れ」にしかすぎないドル発行はやめて、政府が金兌換を保証した、アメリカ国民にも安心感のある新ドルとの併用にして、徐々に体制以降にしていくべきだと言ってるわけです。
金との兌換時代も石油決済通貨の時代も含めて、ドルはずっと通貨基軸だったので、「なんでもドルでオーケー」という時代が長く続いて、とにかく金が必要なら印刷して刷ればいいじゃん、という実に無責任な体制が定着してしまったんですね。
で、その無責任な体制を、どうごまかしてきたのかというと、他国を攻めて、その国の財産を横取りしたり、あるいは武力を背景にドルを日本や中国などに無理矢理買わせ、それでしのいで来た、という事でもあります。
日本もアメリカに対しては膨大な額の日本円を渡して、それをドルで受け取っています。
だから、ドル覇権が崩壊したら、その日本が持つドルは全部とは言わないまでも半分くらいはパァになります。(そのくらいドルが暴落しても全然おかしくない、という話です。兌換性を持たせずに世界中にばらまいたわけですから、総量はものすごいわけです。その総量に合わせて考えれば、ドル一枚の価値はものすごく低いってことです。)
お金というのは信用創造であり、不換紙幣である方が良いのだという考え方もあるのかも知れません(このあたりは僕の想像で、そういう事を言ってる人がいるのかどうかも知りませんが)。でも、どちらにせよ、紙の通貨は、使ってる人が「こんなもん、単なる紙切れやないか」と思い始めたら、それで価値はジ・エンドなわけです。
で、いまは、ドルに対して、そのジ・エンドと感じてる人が増えてきているという事なわけです。ロン・ポールの人気なんかは、完全にそれです。
そういう意味で、ドルというものを、現状の不換紙幣である状態を何らかの兌換紙幣にして、正常化させよ、とまともな事を言ってるのがロン・ポールであって、これはなんでもない事のようにみえて、実ははっきりと言う事自体に大変勇気の必要な事なのだ、という事ですね。
これが、まず一点です。
で、もう一点話があって、「では、どうやって不換紙幣を兌換紙幣にするのか?」というところで、ものすごく大きなペテンがありまして、そのペテンを見破らない限り、「政府が発行する兌換紙幣」というものが成立しないんですけど、この話の解説もやりだすと長くなるので、また次回。
僕の気持ちとしては、「知り合いから賛同をもらいたい」という事だったので、「全然目的達成できてないやん、あかんやん」という事なわけですが、これはちょっと説明が大変なので手間がかかるのはしょうがないかなぁ、という感じです。
ということで、まず、ロン・ポールが言ってることで、非常に重要な「ドル覇権の終焉」という演説の日本語訳があるので、それをまずリンクしておきます。(勝手リンクで申し訳ないんだけど。)
国際情勢の分析と予測
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/17e00ac8bbebb39a36575c083c1874be
英語原文はこちら
http://www.house.gov/paul/congrec/congrec2006/cr021506.htm
えー概略、この演説の内容がどういうことかというと、「ドル覇権というものが終わろうとしている」という事なんです。
で、ロン・ポールが人気だ、という事は、当のアメリカ人自身が、ドル覇権を終わらせる事に賛成しているという事でもあります。
そこが大事なところなんですね。
いま石油がものすごく高くなってますが、これは石油が高いのではなくて、ドルが暴落しているからです。
で、実はドルの暴落がドルの暴落と言われずに石油の高騰と言い換えられてしまうかというと、世界的にいままで石油の決済通貨がドル建てだったからです。ドル以外での石油の取引は事実上なかったんです。
でも、とうとうユーロ建ての石油決済をするところ国が出てきて、ドル覇権そのものが危うくなっているというのが現状なんですね。
で、これは、ニクソンショック以来の重要な世界の動きだろうと考えられるんです。
第二次大戦後アメリカは、膨大な「金=gold」の保有量を背景に金との兌換紙幣(金と交換できる紙幣)として、ドルを世界の通貨基軸にすることに成功したわけですが、それをニクソンが「金との交換はやめました」と言ったわけです。
現実問題として、この時にドルには実物経済に担保するものがなくなったので、「ドル覇権」そのものは、ここで終わるのが当たり前だったわけです。
しかし、その後も基軸通貨としてのドルは生きながらえたわけです。
なんでか?
それが実はドルによる石油決済というルールだったんですね。いわば金の変わりに石油で兌換できるという仕組みにしたということなんですね。
石油は金のように金のみで通貨として使われた事もないですし、決済をドルで! というだけでは本来意味をなさないわけですが、アメリカの武力を背景に、他の通貨での取引を認めさせずにきたので、そのうそっぱちが、なんとか数十年は保てた、という事なわけです。
で、いまは、その張り子の虎がはがれ始めた段階だ、という事なんですね。
で、ロン・ポールが言ってるのは「もう、そういう張り子の虎はやめよう。ドルを金との兌換紙幣に戻そう」と言うことなんです。
(実は、この金との兌換紙幣に戻そうというのは「ちょっとそれはしんどいんと違うの?」と僕は思ってますが、まぁ、それは別の話なので。)
ロン・ポールは、現在の金兌換の保証のない「紙切れ」にしかすぎないドル発行はやめて、政府が金兌換を保証した、アメリカ国民にも安心感のある新ドルとの併用にして、徐々に体制以降にしていくべきだと言ってるわけです。
金との兌換時代も石油決済通貨の時代も含めて、ドルはずっと通貨基軸だったので、「なんでもドルでオーケー」という時代が長く続いて、とにかく金が必要なら印刷して刷ればいいじゃん、という実に無責任な体制が定着してしまったんですね。
で、その無責任な体制を、どうごまかしてきたのかというと、他国を攻めて、その国の財産を横取りしたり、あるいは武力を背景にドルを日本や中国などに無理矢理買わせ、それでしのいで来た、という事でもあります。
日本もアメリカに対しては膨大な額の日本円を渡して、それをドルで受け取っています。
だから、ドル覇権が崩壊したら、その日本が持つドルは全部とは言わないまでも半分くらいはパァになります。(そのくらいドルが暴落しても全然おかしくない、という話です。兌換性を持たせずに世界中にばらまいたわけですから、総量はものすごいわけです。その総量に合わせて考えれば、ドル一枚の価値はものすごく低いってことです。)
お金というのは信用創造であり、不換紙幣である方が良いのだという考え方もあるのかも知れません(このあたりは僕の想像で、そういう事を言ってる人がいるのかどうかも知りませんが)。でも、どちらにせよ、紙の通貨は、使ってる人が「こんなもん、単なる紙切れやないか」と思い始めたら、それで価値はジ・エンドなわけです。
で、いまは、ドルに対して、そのジ・エンドと感じてる人が増えてきているという事なわけです。ロン・ポールの人気なんかは、完全にそれです。
そういう意味で、ドルというものを、現状の不換紙幣である状態を何らかの兌換紙幣にして、正常化させよ、とまともな事を言ってるのがロン・ポールであって、これはなんでもない事のようにみえて、実ははっきりと言う事自体に大変勇気の必要な事なのだ、という事ですね。
これが、まず一点です。
で、もう一点話があって、「では、どうやって不換紙幣を兌換紙幣にするのか?」というところで、ものすごく大きなペテンがありまして、そのペテンを見破らない限り、「政府が発行する兌換紙幣」というものが成立しないんですけど、この話の解説もやりだすと長くなるので、また次回。
Ron Paul 2008
2007年11月15日コメント (2)
数日前から、ロン・ポールという人を紹介したくてたまらなかったのです。
このロンポールという人は、来年の大統領選挙に立候補している独立系の候補者です。まぁ正直、二大政党制で、所属する共和党が、この人を候補に立てるとは考えられないので、大統領になることはまずありませんから、事実上「泡沫候補」としか言えない、という事になります。
が、しかし、いまアメリカでは、この泡沫候補でしかないロン・ポールの人気がインターネットを中心に、若い人の間でものすごく高まっているらしいのです。
まずは動画を見てください。日本語字幕もついてますから、何を言ってるのかくらいはわかるはずですので。
Ron Paul
http://video.google.com/videoplay?docid=1094521977173934414&hl=en
さて、なんていうんでしょうか。僕もね、この動画を見てるだけで、熱くて立派な人柄がイヤでも感じられてしまって、もう何回くらい見たかなぁ。たぶん10回に近いくらい見てしまってます。この数日で。
僕的にはどういう意図で何を言ってるのかもわかるので、ウルウルしてしまうくらいに感動してしまうんですが、解説がないと、ちょっとわかりにくい所もあるので、解説をしておきますと、ここで紹介されている動画は共和党の中の候補者同士のテレビ演説会での動画でして、その中のロン・ポールのところだけをまとめたものなのです。
共和党というのは、いちおうアメリカの保守政党であり、企業やお金持ちの味方で、単純に言えば民主党が貧乏人の味方、共和党はブッシュを応援していてイラク戦争を推進してる党でもあります。
そういう党の中にあって、イラク戦争は即刻やめるべきだと言い、低所得者層の貧困を問題視して発言しているロン・ポールはパッと見は「みんなの中で一人だけおかしな事を言う変な人」と見られがちなんですね。
実際その共和党のテレビ演説会でも、会場は共和党支持者ばっかりだからブーイングや嘲笑という反応が多いわけです。
でも、そこで気落ちせずに堂々と自説を語る。そこが良いんであります。
で、実際、このテレビ討論会では、最後に視聴者からの投票を受け付けるコーナーがあって、そこで他の候補を圧倒して二番人気についてしまったらしいのですね。
さぁ、ここからです。
いままでだったら、「へぇ、おもしろい人がいるね」というだけで終わってしまうんでしょうけど、いまの時代、インターネットがあります。そこには、ロン・ポールが何年もずーっと語ってきた事のビデオとかが、普通に蓄積されてるわけですよ。YoutubeとかGoogle動画とか。
そういうものを見ると、このロン・ポールというおっさんが、言ってることが十何年、二十年以上、何も変っていない、ブレのない、一本スジの通った主張だ、という事が嫌でも分ってきてしまったわけなんですね。
それで一気に人気に火がついたというところがあるんです。
政治家というのは、とくに重要な職に就けば就くほど、嫌らしい横槍や妨害が入ってしまって、思ってることとは逆の事を言わざるを得なくなったりしますし、
(今回の小沢一郎の辞任騒ぎも、そういう部分がかなり大きいだろうと想像できます。アメリカの給油推進派のなんらかの工作にまきこまれて「死んだふり」するしかなくなったんじゃないかと。)
そういうゴタゴタにまきこまれていない傍流の人だからこそ、スジが通っているという側面はあるものの、それでもやっぱり、スジが通っているというのは分りやすいし、納得もできるわけです。
実際、このロン・ポールというおっさんは、共和党の中でももっとも古くからあるリバータリアンの系列に属する人なんですね。アメリカ合衆国、建国の時の理想を忘れるな、という立場の人で、実はイラク戦争を推進させているネオ・コン、ネオ・コンサバティブというのは、もともと民主党にいて、社会主義的理想国家を作ることを夢見ていた連中が共和党に鞍替えしてワーワーやっているという現実があるわけです。ロン・ポールから見れば、いまの共和党の方向なんて、党を作った時の方向性とは全然違うおかしな意見にしか見えないわけです。
共和党の中でもいろいろな考え方の人がいてるわけですが、このロン・ポールが属するリバータリアンというのは、もともと、
●政府は小さければ小さい方が良い
という「小さな政府」を掲げている考え方の派閥(?)で、アメリカ建国の精神に則り、国民が自活的に生きることこそ重要で、個人の自由に対して国や政府がごちゃごちゃ言うな、という考え方を持っている一派なんですね。
政府が小さい方が良いという考え方ですから、いまのアメリカの「世界の警察」路線には大反対。「なぜ、よその国のもめ事で、我らアメリカの若者が血を流し、命を失わなければならないのか。」と考える考え方です。アイソレーショナリズム、孤立主義とか訳されたりしますが、他国に不干渉で行くという考え方なんですね。「同盟は結ばず通商によって国交を保つ」という考え方です。
政府が小さいほうが良いと考えているから、実は福祉も反対なんです。口でかっこの良い事を言うだけじゃない。「税金を減らせと言ってるのだから、福祉を充実しろとは言えない。そこは自分でやるから、とにかく税金を減らせ。」という考え方です。福祉的な部分も国にやってもらうんではなくて、自分たちでどうにかすりゃいいじゃないか、という考え方です。
で、ここからが日本人にはちょっとわかりにくいんでしょうけど、まず海外派兵に反対なので、銃規制に反対なんです。わかりますか?これ。たぶん、先の動画を見てても、このあたりがスキっとは理解しにくかったと思うんですが、これはつまりこういうことです。
「自分の国は自分で守る。よその国の人間が攻め込んできたら、俺の家は俺が銃で守るから、海外派兵はいらない。」って事なんですよ。だから銃規制をするという事は自分で自分を守る手段の放棄であり、それは際限のない海外派兵の拡大を意味するという事なわけです。
かの有名な俳優にして映画監督でもある、クリント・イーストウッドもガチガチのリバータリアンでして、だから銃規制に反対するし、終末治療のチューブを引っこ抜く映画を作るわけです。
欧米は日本のように「派閥」という仲良しグループではなく、このような「考え方」、政治信条でグループを組みますから、そういう意味ではわかりやすいのですな。同じ政治グループにいる人は、同じ考え方で、同じ事を言っている。
とくにこのリバータリアンは建国の自主独立の精神を忘れるな!という一派ですから、その首尾一貫性は見上げたものがあるわけです。
それが、このインターネットの動画時代とピタ!と一致したんですね。「なんやこのオッサン、昔からずっと同じ事言うとるやんけ。たいしたもんやな!」と人気が出てきたわけです。「がんばれ!ロン・ポール」という声が、いまや相当に大きくなってきてるらしいんです。
動画で納得したあと、日本で言うミクシイ、アメリカならマイ・スペースでしょうけど、そういうSNSで、口コミの形で「ロン・ポールはすごい」という噂が広がったわけです。
この間もロン・ポールを応援している人たちの間で「寄付を1日に集中させて、ひとつのムーブメントにしようぜ」という動きがあったらしいのですが、それで一日で4億円くらい集まっちゃったらしいんですね。なんかすごいよなぁって思う。
といってもまぁ、アメリカの大統領選挙なんて、何百億というお金をかけてメディアを動かすお祭り選挙ですから、ロン・ポールが大統領になるなんて事はないんでしょうけども、ここまで来たら、こういう「小さな政府要望」について、他の候補も議題にしないわけには行かなくなりますから、無駄な動きというわけでもないでしょう。
そういう意味で、このロン・ポールというおっさんはすごく面白いですね。
書きたい事は、まだ他にもあるんですが、それはまたという事にして、とりあえず、今日はここまで。
あ、ちなみにタイトルの Ron Paul 2008 というのは、ロン・ポールの公式サイトにおける大統領選挙のスローガンですね。言ってる事が首尾一貫してるから、「言ってることはいつもと一緒だよ。2008年は大統領選挙でそれを言うのさ。」という感じがあって、僕的には気持ちよくて好きなスローガンです。はい。
このロンポールという人は、来年の大統領選挙に立候補している独立系の候補者です。まぁ正直、二大政党制で、所属する共和党が、この人を候補に立てるとは考えられないので、大統領になることはまずありませんから、事実上「泡沫候補」としか言えない、という事になります。
が、しかし、いまアメリカでは、この泡沫候補でしかないロン・ポールの人気がインターネットを中心に、若い人の間でものすごく高まっているらしいのです。
まずは動画を見てください。日本語字幕もついてますから、何を言ってるのかくらいはわかるはずですので。
Ron Paul
http://video.google.com/videoplay?docid=1094521977173934414&hl=en
さて、なんていうんでしょうか。僕もね、この動画を見てるだけで、熱くて立派な人柄がイヤでも感じられてしまって、もう何回くらい見たかなぁ。たぶん10回に近いくらい見てしまってます。この数日で。
僕的にはどういう意図で何を言ってるのかもわかるので、ウルウルしてしまうくらいに感動してしまうんですが、解説がないと、ちょっとわかりにくい所もあるので、解説をしておきますと、ここで紹介されている動画は共和党の中の候補者同士のテレビ演説会での動画でして、その中のロン・ポールのところだけをまとめたものなのです。
共和党というのは、いちおうアメリカの保守政党であり、企業やお金持ちの味方で、単純に言えば民主党が貧乏人の味方、共和党はブッシュを応援していてイラク戦争を推進してる党でもあります。
そういう党の中にあって、イラク戦争は即刻やめるべきだと言い、低所得者層の貧困を問題視して発言しているロン・ポールはパッと見は「みんなの中で一人だけおかしな事を言う変な人」と見られがちなんですね。
実際その共和党のテレビ演説会でも、会場は共和党支持者ばっかりだからブーイングや嘲笑という反応が多いわけです。
でも、そこで気落ちせずに堂々と自説を語る。そこが良いんであります。
で、実際、このテレビ討論会では、最後に視聴者からの投票を受け付けるコーナーがあって、そこで他の候補を圧倒して二番人気についてしまったらしいのですね。
さぁ、ここからです。
いままでだったら、「へぇ、おもしろい人がいるね」というだけで終わってしまうんでしょうけど、いまの時代、インターネットがあります。そこには、ロン・ポールが何年もずーっと語ってきた事のビデオとかが、普通に蓄積されてるわけですよ。YoutubeとかGoogle動画とか。
そういうものを見ると、このロン・ポールというおっさんが、言ってることが十何年、二十年以上、何も変っていない、ブレのない、一本スジの通った主張だ、という事が嫌でも分ってきてしまったわけなんですね。
それで一気に人気に火がついたというところがあるんです。
政治家というのは、とくに重要な職に就けば就くほど、嫌らしい横槍や妨害が入ってしまって、思ってることとは逆の事を言わざるを得なくなったりしますし、
(今回の小沢一郎の辞任騒ぎも、そういう部分がかなり大きいだろうと想像できます。アメリカの給油推進派のなんらかの工作にまきこまれて「死んだふり」するしかなくなったんじゃないかと。)
そういうゴタゴタにまきこまれていない傍流の人だからこそ、スジが通っているという側面はあるものの、それでもやっぱり、スジが通っているというのは分りやすいし、納得もできるわけです。
実際、このロン・ポールというおっさんは、共和党の中でももっとも古くからあるリバータリアンの系列に属する人なんですね。アメリカ合衆国、建国の時の理想を忘れるな、という立場の人で、実はイラク戦争を推進させているネオ・コン、ネオ・コンサバティブというのは、もともと民主党にいて、社会主義的理想国家を作ることを夢見ていた連中が共和党に鞍替えしてワーワーやっているという現実があるわけです。ロン・ポールから見れば、いまの共和党の方向なんて、党を作った時の方向性とは全然違うおかしな意見にしか見えないわけです。
共和党の中でもいろいろな考え方の人がいてるわけですが、このロン・ポールが属するリバータリアンというのは、もともと、
●政府は小さければ小さい方が良い
という「小さな政府」を掲げている考え方の派閥(?)で、アメリカ建国の精神に則り、国民が自活的に生きることこそ重要で、個人の自由に対して国や政府がごちゃごちゃ言うな、という考え方を持っている一派なんですね。
政府が小さい方が良いという考え方ですから、いまのアメリカの「世界の警察」路線には大反対。「なぜ、よその国のもめ事で、我らアメリカの若者が血を流し、命を失わなければならないのか。」と考える考え方です。アイソレーショナリズム、孤立主義とか訳されたりしますが、他国に不干渉で行くという考え方なんですね。「同盟は結ばず通商によって国交を保つ」という考え方です。
政府が小さいほうが良いと考えているから、実は福祉も反対なんです。口でかっこの良い事を言うだけじゃない。「税金を減らせと言ってるのだから、福祉を充実しろとは言えない。そこは自分でやるから、とにかく税金を減らせ。」という考え方です。福祉的な部分も国にやってもらうんではなくて、自分たちでどうにかすりゃいいじゃないか、という考え方です。
で、ここからが日本人にはちょっとわかりにくいんでしょうけど、まず海外派兵に反対なので、銃規制に反対なんです。わかりますか?これ。たぶん、先の動画を見てても、このあたりがスキっとは理解しにくかったと思うんですが、これはつまりこういうことです。
「自分の国は自分で守る。よその国の人間が攻め込んできたら、俺の家は俺が銃で守るから、海外派兵はいらない。」って事なんですよ。だから銃規制をするという事は自分で自分を守る手段の放棄であり、それは際限のない海外派兵の拡大を意味するという事なわけです。
かの有名な俳優にして映画監督でもある、クリント・イーストウッドもガチガチのリバータリアンでして、だから銃規制に反対するし、終末治療のチューブを引っこ抜く映画を作るわけです。
欧米は日本のように「派閥」という仲良しグループではなく、このような「考え方」、政治信条でグループを組みますから、そういう意味ではわかりやすいのですな。同じ政治グループにいる人は、同じ考え方で、同じ事を言っている。
とくにこのリバータリアンは建国の自主独立の精神を忘れるな!という一派ですから、その首尾一貫性は見上げたものがあるわけです。
それが、このインターネットの動画時代とピタ!と一致したんですね。「なんやこのオッサン、昔からずっと同じ事言うとるやんけ。たいしたもんやな!」と人気が出てきたわけです。「がんばれ!ロン・ポール」という声が、いまや相当に大きくなってきてるらしいんです。
動画で納得したあと、日本で言うミクシイ、アメリカならマイ・スペースでしょうけど、そういうSNSで、口コミの形で「ロン・ポールはすごい」という噂が広がったわけです。
この間もロン・ポールを応援している人たちの間で「寄付を1日に集中させて、ひとつのムーブメントにしようぜ」という動きがあったらしいのですが、それで一日で4億円くらい集まっちゃったらしいんですね。なんかすごいよなぁって思う。
といってもまぁ、アメリカの大統領選挙なんて、何百億というお金をかけてメディアを動かすお祭り選挙ですから、ロン・ポールが大統領になるなんて事はないんでしょうけども、ここまで来たら、こういう「小さな政府要望」について、他の候補も議題にしないわけには行かなくなりますから、無駄な動きというわけでもないでしょう。
そういう意味で、このロン・ポールというおっさんはすごく面白いですね。
書きたい事は、まだ他にもあるんですが、それはまたという事にして、とりあえず、今日はここまで。
あ、ちなみにタイトルの Ron Paul 2008 というのは、ロン・ポールの公式サイトにおける大統領選挙のスローガンですね。言ってる事が首尾一貫してるから、「言ってることはいつもと一緒だよ。2008年は大統領選挙でそれを言うのさ。」という感じがあって、僕的には気持ちよくて好きなスローガンです。はい。
粗食のすすめ (新潮文庫)
2007年11月10日 読書
ISBN:4101056218 文庫 幕内 秀夫 新潮社 2003/04 ¥500
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101056218/249-9767057-8485143
今年は健康な生活というのが自分にとって重要なテーマになっていて、毎日1万歩歩くとか、食べる量を減らしてダイエットするとか、いろいろやっております。
まぁおかげさまで、7キロほど痩せてちょうどいい感じかなとは思ってるわけですが、テレビや新聞などでの、最近の食に関する話題を聞いていて、すごくおかしな気分になってしまいます。
たとえば、赤福の話とかで言うと、まぁ赤福自体、僕はけっこう好きで、ちょくちょく買っては食べてたわけです。
で、その原材料名とか見ると「小豆、餅粉、砂糖」だったかな? それはもう、ものすごくシンプルで添加物のたぐいが全然入ってなかったわけですよ。
まぁ、比較的、良心的な商品とは言えるんですね。
でも、あんこのついた餅に関して言うと、好きな人なら知っていると思いますが、おいしいのは一日だけです。
たぶん浸透圧の関係で一日以上経つと餅がかたくなってしまってぜんぜんおいしくなくなってしまうんです。
これは別に、腐ったとかなんとか、そういう「食えない・危険」な状態になったわけではないのですが、まぁ商品としては、もう全然ダメって事になるわけです。
こんな餅のかたくなった商品を店頭に並べていたら、「まずい餅だ」という事で会社が潰れてしまう。
だから「賞味期限」というものが設定されていて、「これを過ぎて食べたら、おいしさは保証しまへんで。」という事なわけです。
このあたりの「賞味期限問題」はやたらと最近話題になってますが、ようは賞味期限というのは「おいしさ」の問題で食の安全とか健康とかとは、ちょっとまた違う話なんですね。
でも、たとえばエッセイストの神足裕二とかは、「昔は匂いをかいで食えるかどうか自分で判断してたものだ。自分の体で判断せよ。」とか言う話をする。いやまぁ意見としては、すごく正しいと思うんだけど、なんか問題の本質から遠ざかってるような気がするわけです。
お菓子としてのアンコ餅や大福のたぐいなんて、大量生産されているものなら、各種の増粘多糖類とかで、「何日たっても柔らかい餅」のものが、赤福の半値以下でスーパーに並んでるわけです。
そういう薬だらけの餅は、たぶん匂いをかいでも古いかどうかわからないし、そういう餅をまた、平気でみんな食べてるわけですよ。
そういう僕だって、もともとアンコ類が好きなこともあって、けっこう食ってるわけです。
このあたりの食品添加物の話に関しては、
食品の裏側―みんな大好きな食品添加物 (単行本)
安部 司 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4492222669/249-9767057-8485143
が事情をよく表していて、すごく面白かったんです。ずーっと売れてますよね、この本。
だから、そんな事を考えていくと、赤福はけっこう「まし」な存在なんです。
でも、しかし!
本当の問題は、実はそんなところにはないわけです。
問題の本質は、「なんで、甘いお菓子をそんなに欲しがるのか?」ってところにある。
何より、もっと問題は、「上白糖くらいまで、精製してしまった白い砂糖なんて、実は薬物と同じなんじゃないの?」という、本質的な問題があるわけですよ。
これは、あんまり世間で問題にはしませんわね。
だって「砂糖」なんて、普通に料理で使ってるし。
ねぇ?
でも、正直、赤福を食べる時でも、僕は「この砂糖、というもの自体が大問題なんだよなぁ。」と思いつつ食べていたわけです。
黒糖とかなら、まぁ良いのですが、砂糖はかなり問題だと思うのですよね。
なんていうのかな、砂糖を口にすると、食に対する自分の欲求そのものが狂ってしまう感覚を覚えるのです。
やたらと何個も赤福を食べたくなるとかですね、あるいはお茶が欲しくてしょうがなくなるとかです。
「おいしくて、つい、もう一個食べちゃうのよね」とか、「おまんじゅうにはお茶が良くあうのよ。」とか、普通に言ってるけど、どうもそれは違うんじゃないか? って思えてきたんですね。
それは砂糖の中毒症状なだけなんじゃないか? って。
いやまぁ、ここまで言い切ってしまうと問題発言になってしまうんでしょう、多分。でもやっぱり、あまりに精製度の高い食品というのは、「おかしい」と思ったほうがいいんだと思うのです。
化学調味料だって、サトウキビからできてるから自然由来の製品だ、とか無茶な事を言ってたりするけど、精製度を高めてしまったら、なんだって薬剤と一緒ですわなぁ。
塩だって、電気的に取り出す方法だと、ほとんど塩化ナトリウムであって、にがり分のない不自然な「薬剤」だと考えてもおかしくはないと思う。
で、です。
こういう「精製度が高すぎる」って事の根本はどこから来たのか?って事を考えていくと、ようは「白米」に行き着くんですよね。
玄米を精製したものが白米ですから。
で、やっと、この表題の本の幕内さんの話になるんですが、この方は、精製して落としてしまったヌカの部分に、どんな微量元素が入っていたのかを人間はまだ発見してないんじゃないのか? みたいな事を言っておられるわけです。
ビタミンがどうとか言うけど、それはたまたま人間が発見したから名前がついてるだけで、もっと大事なものを失ってしまってるのかも知れないわけです。
その代表例が繊維質ね。繊維質なんて不要なものだと思われていたんだけど、実はこれが、体内の余分なものを掃除してくれる重要な機能を持っていて、そういう機能の大切さを発見したのは、つい最近なんだって話ですわね。
そういう具合に考えていくと、昔ながらの玄米食とか、あるいは3分つき、5分つきのお米、あるいは、胚芽米とかをキチンとたべて、それにわずかな野菜と魚を中心とした少量の動物性タンパク質があれば、健康維持には問題がないはずだ、としてるわけです。
昔からの伝統食は、その地域の人間の体にあった食べ物で、それで、その地域の人種が種族を長らえさせてきたのだから、そこに重要な知恵があるはずだ、という考え方をされてるわけです。
これにねぇ、僕は大賛成なんですよ。
なんちゅか「おいしい」ものを食べるとか、すごくウソくせぇ!って思うわけです。砂糖にしろ化学調味料にしろ、そういうものに慣れてしまった体が「おいしい」と思う感覚こそが、実は「薬剤依存の中毒体質」なのではないか? って思う。
不自然なものを「おいしい」と勘違いする生活に、日本人は慣れすぎたんじゃないか? って思うんですね。
だから、こと食に関しては、僕は「おいしさ」をベースにした考え方は、あまり重視しない事にしてるんです。「ほんとうのおいしさとは何か?」なら考えるけど。
幕内さんのたとえ話で面白いのは、「日本人が欧米風の食生活をするのは、石炭ストーブに石油を入れるようなもの」というくだりですね。
伝統的な食生活(=石炭)をしていれば、キチンとカロリーも燃焼されるけれど、石炭ストーブに石油(パンや肉類など)を入れてるから不完全燃焼を起こしていて、うまく燃えない状態になって太ってしまうと。
食物繊維や、まだ発見されていないかも知れない微量元素やらはストーブで言うなら「空気」みたいなもので、(実際ビタミンB2とかはタンパク質の吸収に関わる栄養素ですから、説明として合理的です。)そういう微量元素も適量に取るべきだと。
で、そういう微量元素を「主食」以外で取るから、たくさんの量が必要になって、ストーブの中で空気も足りず、不完全燃焼になってしまう、体に残るっていう悪循環になっていく、という話です。
キチンとご飯でカロリーを補給していれば、ちゃんと燃えていくのに、ご飯を押さえて副食でバランスを取ろうとするから、肉も食い、油を取り、砂糖を取りというところへ行ってしまうんだということですね。
子供や若い人には、まず主食たるご飯をちゃんと食べさせなさいと。そうすれば、カロリーが足りて、甘いものを欲しがったりはしないと。まず、そこが間違ってるんだって話なんですね。
この本を読んで、僕なりにすごく実感したのは、「●●健康法」とか言って、そういうのを読んだとたんに「●●」ばっかり食べて、他を食べない人って言うのが続出するじゃないですか?
あれって結局「これさえ食べておけば大丈夫」という完全食品を求めてる行動ですよね? で、その発想そのものが、考えたらすごくおかしいと思いません? なんで「これさえ食べとけば大丈夫」というような超偏り思考に、「みんな」がなるのか?
ふと思ったんですが、それって「米」の事と違うの?
みんな「米」を求めて「これさえ食っておけば大丈夫」思想を無意識に発動させてるんと違うの?って思うわけです。
結局、日本人という体に、そういう文化が染みついてるんだと思うわけですよ。
で、おそらく「白米」ではない、玄米とか胚芽米とかは、そういう「完全食」に近い存在なんでしょう。日本人にとっては。
だって「主食」と「副食」という考え方自体が、日本独特の考え方なんだもん。
お米は水田の技術で、同じ田んぼで毎年米を作れるけど、麦はそういうわけにはいかないのよな。連作障害が起きるから。だから、「ずーっとパンばっかり食う」とかができないわけですよ、欧米の環境では。
で、しょうがないから肉を食ったり、そのほかの食材で穴埋めしてるわけ。地域ごとで、食文化は違っていて当たり前だって話です。
こういう大前提から、キチンと考えないとダメよなぁって、つくづく思うのです。
あんまり長々書くのもあれなので、このあたりでやめますが、食に関しては1980年あたりだったか、アメリカで出た「マクガバン報告」ってのがあって、この報告に触れてない書籍は、基本的には信用しないというのが僕のスタンスなんですが、さすがにこの本ではそういうところはキチンと押えてる。さすがです。
牛肉の狂牛病騒ぎの時にも「全頭検査しないとダメだ」とか、「国産ならいい」とか、「オーストラリアの牛ならいい」とか、いろいろ言ってた人がわんさといたけど、もっと大事なことは、「肉なんか食っていて良いのか?」っちゅう話なわけですよ。
牛乳も最近すごく人気が落ちましたよね。やっぱり牛乳なんて、日本人の体にあんまり合ってないんだと思うよ、それは。たぶん。
もっともっといろいろ紹介したい内容がわんさと入っていて、すごく良い本でして、いろいろ書きたいのですが、まぁ、ここまで。文庫だし、多くの方に読んでいただきたいと僕は思いました。
で、この本をどこで知ったかというと、食とは全然関係ない「年収10倍アップ時間投資法」(勝間和代・著)だったりするわけですよ。
だから本は多読しないといけないんですね。
どこにどんな基礎的な良書の紹介があるやらわかったもんじゃないから。いやほんと。
こんなに良い本があるなんて、ちーとも知らなかったもの。私。
多読しないと、こういう本にはなかなか出会えないっていうのが、これまたこの国の不幸なところよなぁ。
うーむ。
まぁそんなことで。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101056218/249-9767057-8485143
今年は健康な生活というのが自分にとって重要なテーマになっていて、毎日1万歩歩くとか、食べる量を減らしてダイエットするとか、いろいろやっております。
まぁおかげさまで、7キロほど痩せてちょうどいい感じかなとは思ってるわけですが、テレビや新聞などでの、最近の食に関する話題を聞いていて、すごくおかしな気分になってしまいます。
たとえば、赤福の話とかで言うと、まぁ赤福自体、僕はけっこう好きで、ちょくちょく買っては食べてたわけです。
で、その原材料名とか見ると「小豆、餅粉、砂糖」だったかな? それはもう、ものすごくシンプルで添加物のたぐいが全然入ってなかったわけですよ。
まぁ、比較的、良心的な商品とは言えるんですね。
でも、あんこのついた餅に関して言うと、好きな人なら知っていると思いますが、おいしいのは一日だけです。
たぶん浸透圧の関係で一日以上経つと餅がかたくなってしまってぜんぜんおいしくなくなってしまうんです。
これは別に、腐ったとかなんとか、そういう「食えない・危険」な状態になったわけではないのですが、まぁ商品としては、もう全然ダメって事になるわけです。
こんな餅のかたくなった商品を店頭に並べていたら、「まずい餅だ」という事で会社が潰れてしまう。
だから「賞味期限」というものが設定されていて、「これを過ぎて食べたら、おいしさは保証しまへんで。」という事なわけです。
このあたりの「賞味期限問題」はやたらと最近話題になってますが、ようは賞味期限というのは「おいしさ」の問題で食の安全とか健康とかとは、ちょっとまた違う話なんですね。
でも、たとえばエッセイストの神足裕二とかは、「昔は匂いをかいで食えるかどうか自分で判断してたものだ。自分の体で判断せよ。」とか言う話をする。いやまぁ意見としては、すごく正しいと思うんだけど、なんか問題の本質から遠ざかってるような気がするわけです。
お菓子としてのアンコ餅や大福のたぐいなんて、大量生産されているものなら、各種の増粘多糖類とかで、「何日たっても柔らかい餅」のものが、赤福の半値以下でスーパーに並んでるわけです。
そういう薬だらけの餅は、たぶん匂いをかいでも古いかどうかわからないし、そういう餅をまた、平気でみんな食べてるわけですよ。
そういう僕だって、もともとアンコ類が好きなこともあって、けっこう食ってるわけです。
このあたりの食品添加物の話に関しては、
食品の裏側―みんな大好きな食品添加物 (単行本)
安部 司 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4492222669/249-9767057-8485143
が事情をよく表していて、すごく面白かったんです。ずーっと売れてますよね、この本。
だから、そんな事を考えていくと、赤福はけっこう「まし」な存在なんです。
でも、しかし!
本当の問題は、実はそんなところにはないわけです。
問題の本質は、「なんで、甘いお菓子をそんなに欲しがるのか?」ってところにある。
何より、もっと問題は、「上白糖くらいまで、精製してしまった白い砂糖なんて、実は薬物と同じなんじゃないの?」という、本質的な問題があるわけですよ。
これは、あんまり世間で問題にはしませんわね。
だって「砂糖」なんて、普通に料理で使ってるし。
ねぇ?
でも、正直、赤福を食べる時でも、僕は「この砂糖、というもの自体が大問題なんだよなぁ。」と思いつつ食べていたわけです。
黒糖とかなら、まぁ良いのですが、砂糖はかなり問題だと思うのですよね。
なんていうのかな、砂糖を口にすると、食に対する自分の欲求そのものが狂ってしまう感覚を覚えるのです。
やたらと何個も赤福を食べたくなるとかですね、あるいはお茶が欲しくてしょうがなくなるとかです。
「おいしくて、つい、もう一個食べちゃうのよね」とか、「おまんじゅうにはお茶が良くあうのよ。」とか、普通に言ってるけど、どうもそれは違うんじゃないか? って思えてきたんですね。
それは砂糖の中毒症状なだけなんじゃないか? って。
いやまぁ、ここまで言い切ってしまうと問題発言になってしまうんでしょう、多分。でもやっぱり、あまりに精製度の高い食品というのは、「おかしい」と思ったほうがいいんだと思うのです。
化学調味料だって、サトウキビからできてるから自然由来の製品だ、とか無茶な事を言ってたりするけど、精製度を高めてしまったら、なんだって薬剤と一緒ですわなぁ。
塩だって、電気的に取り出す方法だと、ほとんど塩化ナトリウムであって、にがり分のない不自然な「薬剤」だと考えてもおかしくはないと思う。
で、です。
こういう「精製度が高すぎる」って事の根本はどこから来たのか?って事を考えていくと、ようは「白米」に行き着くんですよね。
玄米を精製したものが白米ですから。
で、やっと、この表題の本の幕内さんの話になるんですが、この方は、精製して落としてしまったヌカの部分に、どんな微量元素が入っていたのかを人間はまだ発見してないんじゃないのか? みたいな事を言っておられるわけです。
ビタミンがどうとか言うけど、それはたまたま人間が発見したから名前がついてるだけで、もっと大事なものを失ってしまってるのかも知れないわけです。
その代表例が繊維質ね。繊維質なんて不要なものだと思われていたんだけど、実はこれが、体内の余分なものを掃除してくれる重要な機能を持っていて、そういう機能の大切さを発見したのは、つい最近なんだって話ですわね。
そういう具合に考えていくと、昔ながらの玄米食とか、あるいは3分つき、5分つきのお米、あるいは、胚芽米とかをキチンとたべて、それにわずかな野菜と魚を中心とした少量の動物性タンパク質があれば、健康維持には問題がないはずだ、としてるわけです。
昔からの伝統食は、その地域の人間の体にあった食べ物で、それで、その地域の人種が種族を長らえさせてきたのだから、そこに重要な知恵があるはずだ、という考え方をされてるわけです。
これにねぇ、僕は大賛成なんですよ。
なんちゅか「おいしい」ものを食べるとか、すごくウソくせぇ!って思うわけです。砂糖にしろ化学調味料にしろ、そういうものに慣れてしまった体が「おいしい」と思う感覚こそが、実は「薬剤依存の中毒体質」なのではないか? って思う。
不自然なものを「おいしい」と勘違いする生活に、日本人は慣れすぎたんじゃないか? って思うんですね。
だから、こと食に関しては、僕は「おいしさ」をベースにした考え方は、あまり重視しない事にしてるんです。「ほんとうのおいしさとは何か?」なら考えるけど。
幕内さんのたとえ話で面白いのは、「日本人が欧米風の食生活をするのは、石炭ストーブに石油を入れるようなもの」というくだりですね。
伝統的な食生活(=石炭)をしていれば、キチンとカロリーも燃焼されるけれど、石炭ストーブに石油(パンや肉類など)を入れてるから不完全燃焼を起こしていて、うまく燃えない状態になって太ってしまうと。
食物繊維や、まだ発見されていないかも知れない微量元素やらはストーブで言うなら「空気」みたいなもので、(実際ビタミンB2とかはタンパク質の吸収に関わる栄養素ですから、説明として合理的です。)そういう微量元素も適量に取るべきだと。
で、そういう微量元素を「主食」以外で取るから、たくさんの量が必要になって、ストーブの中で空気も足りず、不完全燃焼になってしまう、体に残るっていう悪循環になっていく、という話です。
キチンとご飯でカロリーを補給していれば、ちゃんと燃えていくのに、ご飯を押さえて副食でバランスを取ろうとするから、肉も食い、油を取り、砂糖を取りというところへ行ってしまうんだということですね。
子供や若い人には、まず主食たるご飯をちゃんと食べさせなさいと。そうすれば、カロリーが足りて、甘いものを欲しがったりはしないと。まず、そこが間違ってるんだって話なんですね。
この本を読んで、僕なりにすごく実感したのは、「●●健康法」とか言って、そういうのを読んだとたんに「●●」ばっかり食べて、他を食べない人って言うのが続出するじゃないですか?
あれって結局「これさえ食べておけば大丈夫」という完全食品を求めてる行動ですよね? で、その発想そのものが、考えたらすごくおかしいと思いません? なんで「これさえ食べとけば大丈夫」というような超偏り思考に、「みんな」がなるのか?
ふと思ったんですが、それって「米」の事と違うの?
みんな「米」を求めて「これさえ食っておけば大丈夫」思想を無意識に発動させてるんと違うの?って思うわけです。
結局、日本人という体に、そういう文化が染みついてるんだと思うわけですよ。
で、おそらく「白米」ではない、玄米とか胚芽米とかは、そういう「完全食」に近い存在なんでしょう。日本人にとっては。
だって「主食」と「副食」という考え方自体が、日本独特の考え方なんだもん。
お米は水田の技術で、同じ田んぼで毎年米を作れるけど、麦はそういうわけにはいかないのよな。連作障害が起きるから。だから、「ずーっとパンばっかり食う」とかができないわけですよ、欧米の環境では。
で、しょうがないから肉を食ったり、そのほかの食材で穴埋めしてるわけ。地域ごとで、食文化は違っていて当たり前だって話です。
こういう大前提から、キチンと考えないとダメよなぁって、つくづく思うのです。
あんまり長々書くのもあれなので、このあたりでやめますが、食に関しては1980年あたりだったか、アメリカで出た「マクガバン報告」ってのがあって、この報告に触れてない書籍は、基本的には信用しないというのが僕のスタンスなんですが、さすがにこの本ではそういうところはキチンと押えてる。さすがです。
牛肉の狂牛病騒ぎの時にも「全頭検査しないとダメだ」とか、「国産ならいい」とか、「オーストラリアの牛ならいい」とか、いろいろ言ってた人がわんさといたけど、もっと大事なことは、「肉なんか食っていて良いのか?」っちゅう話なわけですよ。
牛乳も最近すごく人気が落ちましたよね。やっぱり牛乳なんて、日本人の体にあんまり合ってないんだと思うよ、それは。たぶん。
もっともっといろいろ紹介したい内容がわんさと入っていて、すごく良い本でして、いろいろ書きたいのですが、まぁ、ここまで。文庫だし、多くの方に読んでいただきたいと僕は思いました。
で、この本をどこで知ったかというと、食とは全然関係ない「年収10倍アップ時間投資法」(勝間和代・著)だったりするわけですよ。
だから本は多読しないといけないんですね。
どこにどんな基礎的な良書の紹介があるやらわかったもんじゃないから。いやほんと。
こんなに良い本があるなんて、ちーとも知らなかったもの。私。
多読しないと、こういう本にはなかなか出会えないっていうのが、これまたこの国の不幸なところよなぁ。
うーむ。
まぁそんなことで。
うーん。びっくりだ。
2007年11月5日小沢さんが辞任したねぇ。
うーん。なんだ、これは?
さっぱりわからん。
さっぱりわからんのだけど、ひとつだけ小沢さんは、すごく良い事を言ってる。
「福田総理は、国連に従い、特定の国の軍事作戦の支援活動をしない、と決断された。」と会見で明言してる。
辞任前の最後っ屁だ。すごい。
「福田総理は政策の大転換をされた。」とすごく持ち上げている。確かに、そこを納得したのならすごい。
だって「アメリカとの同盟より国連決議を優先する。」だもんな。小泉とはえらい違いだ。小泉のバカは憲法も無視して無理矢理派兵したし。
「日本は、特定の国の軍事作戦の支援活動をしない。」
いいなぁ、これ。
同盟は同盟でいいんだけど、よその国の軍事作戦の手伝いを、「いや、これについてはやりません。やらないです。」くらいは言って良いのだ。
でしょ?
「福田総理は、そう明言された。」と言って、さっさと舞台から降りちゃった。小沢さん。
降りた理由はわからんけど、「福田総理は特定の国の軍事作戦の支援活動をしないと明言した」ってのは重要な一言ですぞ。
それについては「それは良いね。」とだけ賛意を表明しておきたい。
よその国の事に、あんまり首を突っ込まない方がいいよ。やっぱり。そう思う。うん。
とにかく、いま言えるのは、それだけだなぁ。
うーん。なんだ、これは?
さっぱりわからん。
さっぱりわからんのだけど、ひとつだけ小沢さんは、すごく良い事を言ってる。
「福田総理は、国連に従い、特定の国の軍事作戦の支援活動をしない、と決断された。」と会見で明言してる。
辞任前の最後っ屁だ。すごい。
「福田総理は政策の大転換をされた。」とすごく持ち上げている。確かに、そこを納得したのならすごい。
だって「アメリカとの同盟より国連決議を優先する。」だもんな。小泉とはえらい違いだ。小泉のバカは憲法も無視して無理矢理派兵したし。
「日本は、特定の国の軍事作戦の支援活動をしない。」
いいなぁ、これ。
同盟は同盟でいいんだけど、よその国の軍事作戦の手伝いを、「いや、これについてはやりません。やらないです。」くらいは言って良いのだ。
でしょ?
「福田総理は、そう明言された。」と言って、さっさと舞台から降りちゃった。小沢さん。
降りた理由はわからんけど、「福田総理は特定の国の軍事作戦の支援活動をしないと明言した」ってのは重要な一言ですぞ。
それについては「それは良いね。」とだけ賛意を表明しておきたい。
よその国の事に、あんまり首を突っ込まない方がいいよ。やっぱり。そう思う。うん。
とにかく、いま言えるのは、それだけだなぁ。
10月に読んだ本/月に10冊本を読む
2007年11月2日 今月読んだ本
(2008/06/14記入)ずっと「今月読んだ本」を書いてるのですが、
考えたら、記帳し始めた2007年10月の分を、この「ひとよみにっき」には載せてなかったので、整理がてら掲載することにしました。
このころはまだ「パラパラと拾い読みしただけ」というのも「読んだうち」にしてたんだなと思って、「ああ、そうなんや」と驚いてしまいました。
いまは、とにかく最後まで全部読む、という形で月10冊行かないって感じですねぇ。
うーむ。
------------------------
9月の終わりに
仕事に活かす!本200%活用ブック (単行本)
日本能率協会マネジメントセンター (編集)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482074450X/249-9767057-8485143
というムックをザザっと読みまして(最近この手のムックが良く出てますが、特定のテーマをザザザと眺めるには、なかなか便利です。)その中に、本田直之さんのインタビューが掲載されていて、そこに、「だまされたと思って、とにかく今読んでる量の倍、本を読んでみてください、自分と仕事に大きな変化を感じるはずです」という事が書かれていて、「おお、それは面白い。いますぐでもできるではないか!」と思って、10月は集中して本を読んでみました。
(あ、本田直之さんは、レバレッジシリーズでヒットを飛ばしてる方ですね。ここの僕の日記でも3月8日に取り上げてます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=367354010&;;owner_id=1337153
なかなか面白い本でした。)
僕の場合、通常、月に熟読する本が3〜4冊、その他、飽きるとかとばし読みとか、買っただけ(笑)とかの本まで含めて10冊から15冊は読んでると思うのですが、ちょっと熟読・完読する冊数を増やそうと思って、とにかく最後まで読むというやり方でやってみました。
手帳に「今月の一冊目」とか付けながらやったので、けっこう楽しかったです。
実は5月から英語の練習を強化してやりだして、それは毎日続いてたんですけど、そういう事をしだすと、電車の中で英語の練習とかしたりして、本を読まなくなってたんですね。自分ですごく実感してたんです。
で、9月はとうとう1冊しか熟読しなかったんですね。パラパラ読みは何冊かやってましたが、全部途中で放棄。「これはひどい状態だなぁ」と思って、テコ入れのつもりでやったんですが。
熟読すると雑な読み方とか、買うだけとか、そういうテキトーな事はしなくなりますねぇ。この方が良いように思う。
で、ムダに本を買わなくなった。(ここがなかなかによろしい。)買うだけ買って、途中までしか読んでなかった本がけっこうたまってたのですが、それをとにかく片付けていきました。
やってみると、英語の方もうまく時間を作ってやっていけるし、チャレンジしてみるものだと思いましたね。
という事で、読んだ本は以下の11冊とプラス1。(12冊目は半分だけです。11月にこぼれてしまいました。)
●レバレッジ勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/447979218X/249-9767057-8485143
●細切れビジョンでなんでもできる
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763197290/249-9767057-8485143
●ミリオンセラーのつくり方
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4828412883/249-9767057-8485143
●WEB進化論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4480062858/249-9767057-8485143
●へんな会社のつくり方
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4798110523/249-9767057-8485143
●ゆるすということ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763184210/249-9767057-8485143
●年収10倍アップ時間投資法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887595867/249-9767057-8485143
●人生に奇跡を起こすノート術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4877710523/249-9767057-8485143
●わたしの5分間革命
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4893614711/249-9767057-8485143
●なぜ私たちの英語は10秒でネイティブ発音になったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4408403474/249-9767057-8485143
●頭が良くなる思考術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887594143/249-9767057-8485143
●ドル覇権の崩壊
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4198620105/249-9767057-8485143
WEB進化論もずっと読む気が出なくて読んでなかったのですが、やっと読み終えた。(うーん、やっぱりかなりダメダメなダメ本でした。そこは、はっきりくっきりと理解できました。)
ついでに、WEB進化論の著者梅田さんがいてる「はてな」の社長である近藤氏の「へんな会社の作り方」を読むと、こっちは無茶苦茶に面白い。「こいつ、よーわかっとるなぁ。」という感じ。前から近藤氏のことはすごく興味を持ってウォッチングしてたので、これはとっても面白かった。
で、これで「WEB進化論」「へんな会社の作り方」「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか」と、これからのWEBの方向性みたいなことをテーマにした3冊を読めたので、かなり立体的にわかってまいりました。
この3冊の中で、やっぱり「WEB進化論」がいちばんわかってないし、ダメダメだなぁ、という事がはっきりわかったので、僕的には安心。
やっぱり「多読」は意味が大きい、というのがはっきりわかりました。
ま、このあたりは、また整理して書きます。
(ただ、上記の本田直之氏も、ムックの「本200%活用ブック」でも、やっぱり「WEB進化論」は勧めてるんですよねぇ。みんな必読本扱いしてる。でも、実質は相当にひどいダメダメ本でした。なんでこんな事が起きるのか? その秘密も、実は読み解けたんですけど、それはまた書きます。)
多読は効果が無茶苦茶に高いですな。で、やっぱり熟読しないとアカンなぁという気になりました。しっかり読み込まないとダメだわ。
もう、ザザっと読むとか、買うだけとかはやめようと思いました。
あと、本をノートにまとめるとか、実戦するとか、捨てるとか、いろいろありますが、ちょっと本気で本をちゃんと読もうという気になったですね。
やっぱり本です。
WEBもいいけど、やっぱり本。
で、10冊読むっていうのだけでもけっこうしんどいんですけど、ここで紹介した本田直之さんで月30冊、この間紹介した「年収10倍」の勝間さんで月50冊なんですねぇ。勝間さんはフォトリーディングの講習も受けてるしなぁ。
僕も受けようかなぁ。速読は意味が大きい。
あ、でもまず、普通の速度でいいから「たくさん読む」っていうのを先にやらないとね。ステップを飛ばすのはダメなんですよね。成長が楽しくなくなってしまうから。うむ。
あとは、読んだ本をマインドマップでまとめる話とか書きたいんですけど、それはまた。(マインド・マップも実に面白いです。)
考えたら、記帳し始めた2007年10月の分を、この「ひとよみにっき」には載せてなかったので、整理がてら掲載することにしました。
このころはまだ「パラパラと拾い読みしただけ」というのも「読んだうち」にしてたんだなと思って、「ああ、そうなんや」と驚いてしまいました。
いまは、とにかく最後まで全部読む、という形で月10冊行かないって感じですねぇ。
うーむ。
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9月の終わりに
仕事に活かす!本200%活用ブック (単行本)
日本能率協会マネジメントセンター (編集)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482074450X/249-9767057-8485143
というムックをザザっと読みまして(最近この手のムックが良く出てますが、特定のテーマをザザザと眺めるには、なかなか便利です。)その中に、本田直之さんのインタビューが掲載されていて、そこに、「だまされたと思って、とにかく今読んでる量の倍、本を読んでみてください、自分と仕事に大きな変化を感じるはずです」という事が書かれていて、「おお、それは面白い。いますぐでもできるではないか!」と思って、10月は集中して本を読んでみました。
(あ、本田直之さんは、レバレッジシリーズでヒットを飛ばしてる方ですね。ここの僕の日記でも3月8日に取り上げてます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=367354010&;;owner_id=1337153
なかなか面白い本でした。)
僕の場合、通常、月に熟読する本が3〜4冊、その他、飽きるとかとばし読みとか、買っただけ(笑)とかの本まで含めて10冊から15冊は読んでると思うのですが、ちょっと熟読・完読する冊数を増やそうと思って、とにかく最後まで読むというやり方でやってみました。
手帳に「今月の一冊目」とか付けながらやったので、けっこう楽しかったです。
実は5月から英語の練習を強化してやりだして、それは毎日続いてたんですけど、そういう事をしだすと、電車の中で英語の練習とかしたりして、本を読まなくなってたんですね。自分ですごく実感してたんです。
で、9月はとうとう1冊しか熟読しなかったんですね。パラパラ読みは何冊かやってましたが、全部途中で放棄。「これはひどい状態だなぁ」と思って、テコ入れのつもりでやったんですが。
熟読すると雑な読み方とか、買うだけとか、そういうテキトーな事はしなくなりますねぇ。この方が良いように思う。
で、ムダに本を買わなくなった。(ここがなかなかによろしい。)買うだけ買って、途中までしか読んでなかった本がけっこうたまってたのですが、それをとにかく片付けていきました。
やってみると、英語の方もうまく時間を作ってやっていけるし、チャレンジしてみるものだと思いましたね。
という事で、読んだ本は以下の11冊とプラス1。(12冊目は半分だけです。11月にこぼれてしまいました。)
●レバレッジ勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/447979218X/249-9767057-8485143
●細切れビジョンでなんでもできる
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763197290/249-9767057-8485143
●ミリオンセラーのつくり方
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4828412883/249-9767057-8485143
●WEB進化論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4480062858/249-9767057-8485143
●へんな会社のつくり方
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4798110523/249-9767057-8485143
●ゆるすということ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763184210/249-9767057-8485143
●年収10倍アップ時間投資法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887595867/249-9767057-8485143
●人生に奇跡を起こすノート術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4877710523/249-9767057-8485143
●わたしの5分間革命
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4893614711/249-9767057-8485143
●なぜ私たちの英語は10秒でネイティブ発音になったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4408403474/249-9767057-8485143
●頭が良くなる思考術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4887594143/249-9767057-8485143
●ドル覇権の崩壊
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4198620105/249-9767057-8485143
WEB進化論もずっと読む気が出なくて読んでなかったのですが、やっと読み終えた。(うーん、やっぱりかなりダメダメなダメ本でした。そこは、はっきりくっきりと理解できました。)
ついでに、WEB進化論の著者梅田さんがいてる「はてな」の社長である近藤氏の「へんな会社の作り方」を読むと、こっちは無茶苦茶に面白い。「こいつ、よーわかっとるなぁ。」という感じ。前から近藤氏のことはすごく興味を持ってウォッチングしてたので、これはとっても面白かった。
で、これで「WEB進化論」「へんな会社の作り方」「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか」と、これからのWEBの方向性みたいなことをテーマにした3冊を読めたので、かなり立体的にわかってまいりました。
この3冊の中で、やっぱり「WEB進化論」がいちばんわかってないし、ダメダメだなぁ、という事がはっきりわかったので、僕的には安心。
やっぱり「多読」は意味が大きい、というのがはっきりわかりました。
ま、このあたりは、また整理して書きます。
(ただ、上記の本田直之氏も、ムックの「本200%活用ブック」でも、やっぱり「WEB進化論」は勧めてるんですよねぇ。みんな必読本扱いしてる。でも、実質は相当にひどいダメダメ本でした。なんでこんな事が起きるのか? その秘密も、実は読み解けたんですけど、それはまた書きます。)
多読は効果が無茶苦茶に高いですな。で、やっぱり熟読しないとアカンなぁという気になりました。しっかり読み込まないとダメだわ。
もう、ザザっと読むとか、買うだけとかはやめようと思いました。
あと、本をノートにまとめるとか、実戦するとか、捨てるとか、いろいろありますが、ちょっと本気で本をちゃんと読もうという気になったですね。
やっぱり本です。
WEBもいいけど、やっぱり本。
で、10冊読むっていうのだけでもけっこうしんどいんですけど、ここで紹介した本田直之さんで月30冊、この間紹介した「年収10倍」の勝間さんで月50冊なんですねぇ。勝間さんはフォトリーディングの講習も受けてるしなぁ。
僕も受けようかなぁ。速読は意味が大きい。
あ、でもまず、普通の速度でいいから「たくさん読む」っていうのを先にやらないとね。ステップを飛ばすのはダメなんですよね。成長が楽しくなくなってしまうから。うむ。
あとは、読んだ本をマインドマップでまとめる話とか書きたいんですけど、それはまた。(マインド・マップも実に面白いです。)
現在完了って、ネーミングが間違ってない?
2007年11月1日うーん。
どうでもいいことなんですが。
ちょっと英語の学習してて思ったのだけど、「現在完了」って、どう考えても、文型に対する命名間違いと思いません?
haveを使った文型なんだし、これはどう考えても、
●現在保持
ですよ。
現在保持文型。
そう説明っつーか、命名してれば、こんなに文法書だってややっこしい時系列図とか出さなくても解説できたはずだよなぁ。
文法書とかで良く出てくる説明は「現在のある時点から、過去のある一点を見ている状態で日本語にはない」とか書いてる。
いや、あるって。「保持」でしょ、保持。適切に説明できる言葉が見つからないからと言って、「ない」というのはウソだよなぁ。
have(has)+過去分詞
なんだから、hadじゃない。つまりこれは現在の文章ですよ。「いま持ってるよー」って事じゃん。haveなんだから。文章は頭からしゃべって、それで理解していくしかないんだから、頭から理解していったらええんやんか。むずかしく考えずに。
have(has)と来た限りは、意味的には一意に「持ってるよー」にしかならないって。だって、"I have ..."としゃべって、その後にどんな言葉が来るかわからんのだから。だからhaveはやっぱり「持ってる」だよ。「いま持ってるんよ、何をかって言うとね」となって、過去分詞の状況を持ってたりするわけで。
で、その後に過去分詞が来たときに「ああ、ついさっきの状況を『持って』るわけね。」と理解できるんじゃんか。そういう事をひっくるめて「完了」と言いたかったんやろけど、それはやっぱり大意としては「保持」よなぁ。なんでhaveが来てて「完了」やねん? おかしいやろ、それは。命名として間違っとる。
「have+過去分詞」が完了を表してるわけじゃないよなぁ。日本語に訳すと、そういう訳しかたにしかならないだけでさぁ。
だいたい、文法書には、
「現在完了には、完了、継続、経験、現在完了進行形があります。」
とか書いてあるんやけど、この言葉自体がなんだかヘンだと思いませんか?
「大阪地域には、大阪、神戸、京都、奈良があります」
みたいな説明なんよね。いや、それはちゃんと、
「近畿地方には、大阪府、兵庫県、京都府、奈良県、滋賀県、和歌山県があります。」とか、階層を明確にしてしゃべれって事ですよ。
大阪の中に神戸があるとかおかしいやん。それと一緒で、なんで、完了の中に継続とか進行形とかがあるんよ。なんで継続してることが完了やねん!頭が狂ってるとしかおもえませんぜ。というか、状況が未整理で、全然何もわかってないパァ状態と同じでしょうが。これは。
ちゃんと「完了した、経験した、継続している、進行中である事を、『いま、現在保持している』という文型が現在保持文型です。」とか整理しろっちゅうねん。
その一言がちゃんとしてたら、「現在から過去を見ている文で…」とか変な説明は一切不要になるではないか。
なんなんだ、これは。
ということで、私は勝手に「現在完了型などという文型はない。現在保持文型(文型とすら言えない)というカタチがあるだけである。」と規定してしまうのだ。(ホンマかよ!)
だって、その方が、どう考えても分かりやすいねんもんなぁ。
ま、そんなことで。
どうでもいいことなんですが。
ちょっと英語の学習してて思ったのだけど、「現在完了」って、どう考えても、文型に対する命名間違いと思いません?
haveを使った文型なんだし、これはどう考えても、
●現在保持
ですよ。
現在保持文型。
そう説明っつーか、命名してれば、こんなに文法書だってややっこしい時系列図とか出さなくても解説できたはずだよなぁ。
文法書とかで良く出てくる説明は「現在のある時点から、過去のある一点を見ている状態で日本語にはない」とか書いてる。
いや、あるって。「保持」でしょ、保持。適切に説明できる言葉が見つからないからと言って、「ない」というのはウソだよなぁ。
have(has)+過去分詞
なんだから、hadじゃない。つまりこれは現在の文章ですよ。「いま持ってるよー」って事じゃん。haveなんだから。文章は頭からしゃべって、それで理解していくしかないんだから、頭から理解していったらええんやんか。むずかしく考えずに。
have(has)と来た限りは、意味的には一意に「持ってるよー」にしかならないって。だって、"I have ..."としゃべって、その後にどんな言葉が来るかわからんのだから。だからhaveはやっぱり「持ってる」だよ。「いま持ってるんよ、何をかって言うとね」となって、過去分詞の状況を持ってたりするわけで。
で、その後に過去分詞が来たときに「ああ、ついさっきの状況を『持って』るわけね。」と理解できるんじゃんか。そういう事をひっくるめて「完了」と言いたかったんやろけど、それはやっぱり大意としては「保持」よなぁ。なんでhaveが来てて「完了」やねん? おかしいやろ、それは。命名として間違っとる。
「have+過去分詞」が完了を表してるわけじゃないよなぁ。日本語に訳すと、そういう訳しかたにしかならないだけでさぁ。
だいたい、文法書には、
「現在完了には、完了、継続、経験、現在完了進行形があります。」
とか書いてあるんやけど、この言葉自体がなんだかヘンだと思いませんか?
「大阪地域には、大阪、神戸、京都、奈良があります」
みたいな説明なんよね。いや、それはちゃんと、
「近畿地方には、大阪府、兵庫県、京都府、奈良県、滋賀県、和歌山県があります。」とか、階層を明確にしてしゃべれって事ですよ。
大阪の中に神戸があるとかおかしいやん。それと一緒で、なんで、完了の中に継続とか進行形とかがあるんよ。なんで継続してることが完了やねん!頭が狂ってるとしかおもえませんぜ。というか、状況が未整理で、全然何もわかってないパァ状態と同じでしょうが。これは。
ちゃんと「完了した、経験した、継続している、進行中である事を、『いま、現在保持している』という文型が現在保持文型です。」とか整理しろっちゅうねん。
その一言がちゃんとしてたら、「現在から過去を見ている文で…」とか変な説明は一切不要になるではないか。
なんなんだ、これは。
ということで、私は勝手に「現在完了型などという文型はない。現在保持文型(文型とすら言えない)というカタチがあるだけである。」と規定してしまうのだ。(ホンマかよ!)
だって、その方が、どう考えても分かりやすいねんもんなぁ。
ま、そんなことで。
なんでもないこと、いろいろ。
2007年10月27日えー、なんとはなしに近況報告的なことが書きたくなったので、ちょっと書いてみます。
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●携帯を落とした話。
英語の練習をやってるわけですが、この間ひさしぶりに電車の中で練習をしまして。
で、いつも時間を計ってるわけです。一ページあたり何分でできるかと。最初は一ページに二十分とかかかるわけです。音読しつつ暗唱してとか繰り返すから。
でも、日々やってると、10文を2分とかでやれるようになってくるんですね。
で。
この時間計測に、携帯のストップウォッチ機能を使ってるんですね。毎日のことですから、いまや携帯は通話に使うよりメールに使うよりストップウォッチ機能が重要になってたりするんですが、測ってる間はカバンの中にほおりこんだり、ポケットに入れたりするわけですよ。携帯を。
でも、その日はなぜか、ひょいと座席のシートの上に置いてしまいまして、で、電車が駅についた時にあわてて降りたのでそのまま忘れてしまったんですね。カバンに入れたつもりになってたわけです。
で、家に帰ってからカバンを開けて、「ない!」ってなりまして、あわてまくったわけですが、まぁいろいろ紆余曲折があって、ふたたび手元に戻ってきました。駅員さんありがとう。って感じなんです。
が、ここで学習したことがいくつかあるので、みなさまとシェアする気持ちで整理しておきますと…。
●携帯は落としても出てくる事が意外に多い。
●落とし物ケータイは、各キャリアのお店に届けても受け取らない。
●すべてのケータイは警察に集められ、警察から各キャリアに番号とともに「調査依頼」が出される。
●調査依頼を受けたキャリアは番号の持ち主に「郵送」で紛失した携帯があったと顧客に連絡する。
●紛失した携帯は、番号停止はすぐに行える。
●携帯を紛失しても、電話番号は変更せずに「機種変更」で新しく携帯を手に入れることができる。
というような事です。
この経験でわかった事は、携帯は紛失したからと言って、すぐに機種変更とかしない方が良いかな?って事ですね。出てくる可能性はけっこう高いように思います。
ただ、数日間は手元に携帯がない環境になるわけで、これが耐えられないという人が多いのでしょうね。
あと携帯の中にだけ連絡先を入れていてバックアップがない場合の辛さはあるでしょう。
私の場合はバックアップはたいていあったので困らなかったんですが。まぁ、今年の春に携帯を変えた友人がいて、その男とは連絡がつかなくてちょっと困りましたけど。バックアップ取ってなかったし。
まぁ、とにかく、落とした! と思っても、あわてずに、固定電話とかメールとかで、つながりのある人には連絡しておくというのが良いですね。
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●仕事の話
一年半ほど前に、いつも一緒にお仕事をしている印刷会社の人たちと「ネットの時代やし、インターネットで集客する仕組みを作りましょうか?」という話をしていて、それを実際に形にしてみたのですね。
特定の印刷物に絞って、ニーズを明確にして、「うちはこれの専門家ですよ。パッケージで全部やりますよ。」というような形にして、サイトを作ったわけです。
ネットのキーワード広告も出して、サイトオープンしたのが、去年のちょうど今ぐらい。年明けからちらほらと仕事が発生し始めて、少しずつ仕事が増えてきて、一年たった今では、けっこうな売り上げになってきてます。
っちゅうか、仕事が詰まってきて全部は片付けられないよなぁっていう感じ。
ネットってすごいね。いやしかし。
そこの印刷屋さんは、なかなか賢い人たちなので、こういう事を、積極的に考えるし、チャレンジするし、一緒に仕事をしていて実に楽しいです。
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●一人合奏の話。
ウクレレをずっとやってるのですが、最近、また教室のアンサンブル(=合奏)の教科書が新しく増えたので、少し難しめの合奏のスコアとか出てきたのですね。
で、合奏の練習というのは、いくつかあるパートを個別に練習するしかないわけですよ。みんなが集まるのは、教室でだけだし。
そうすると、自宅では複数のパートがひとつになった状態を聞くことができないんですね。
これがつまらないので、前は手持ちのボイスレコーダーにどれかのパートを入れて、それを再生して一人合奏とかしてたんです。
でも、これも2パートくらいなら、まぁやれなくもないんですが、3パートくらいになると面倒くさくてやる気になれないわけですよ。何かと手間ですから。
でも、先日、こんな便利なものがあるのを知りまして。
BOSS MICRO BR
http://www.roland.co.jp/products/jp/MICRO_BR/index.html
なんちゅうんでしょう。文庫本サイズのミニミニ・デジタル・ミキサーとでも言うんでしょうか。(あ、確認したら文庫本よりはるかに小さかった。手帳サイズかな?と思って自分の手帳とくらべてみたら手帳より数ミリ小さい。すげー。)4トラックの音源の同時再生ができて、それぞれのトラックに編集用のサブトラックが8本ずつ、計32トラックがあって、相互にリミックスできるから、けっこうな事ができるというもの。
それだけじゃなくて、エレキギターのエフェクターも内蔵していて、ドラムスのリズムパターンも内蔵(パターンの編集構成ができるので、ようは簡単なドラムパートなら、この機械にまかせておくことができる)してる。
録音したデータは各トラックを好きな位置に音像を定位したうえでステレオMP3データとして焼くこともできて、なおかつ、MP3プレーヤーとしても使えるし、MP3データをベースにして、自分の演奏を重ねることもできるし、ボーカル入りの曲ならセンター音の低減化でカラオケ状態にまでできるという高機能。
入力もエレキギターの普通の大きさのジャックもついてるし、マイクも内蔵してて、もうまさに言うことなし。
なんだこれ! すげー!!!ってなもんです。
もう、これは、すごく良いオモチャだなぁと思って、つい買ってしまったのであります。
いや、携帯も戻ってきたしね。携帯が出てこなかったら機種変更でお金がかかるところだったから、まぁ買ってもいいかと思って。
でも、これだけ多機能で2万5千円ですからなぁ。ものすごく安いと思う。だって、チューナー機能も付いてるのですよ。チューニングマシンとして使える。デジタルチューナーってそれだけ単品で買えば5000円くらいするしねぇ。リズムマシーンとしても使えるんだし、エフェクターにもなるし、小さいし、これは本当に良いです。
ただ欠点が2つだけあって、リズムパターンに3拍子がないのと、内蔵スピーカーがないってこと。この2つだけが欠点ですなぁ。
うーん。
でも、それほど大きな問題ではないので、私的には大満足。これはなかなか良いです。たっぷり遊べそうです。
--------------------------------------
●携帯を落とした話。
英語の練習をやってるわけですが、この間ひさしぶりに電車の中で練習をしまして。
で、いつも時間を計ってるわけです。一ページあたり何分でできるかと。最初は一ページに二十分とかかかるわけです。音読しつつ暗唱してとか繰り返すから。
でも、日々やってると、10文を2分とかでやれるようになってくるんですね。
で。
この時間計測に、携帯のストップウォッチ機能を使ってるんですね。毎日のことですから、いまや携帯は通話に使うよりメールに使うよりストップウォッチ機能が重要になってたりするんですが、測ってる間はカバンの中にほおりこんだり、ポケットに入れたりするわけですよ。携帯を。
でも、その日はなぜか、ひょいと座席のシートの上に置いてしまいまして、で、電車が駅についた時にあわてて降りたのでそのまま忘れてしまったんですね。カバンに入れたつもりになってたわけです。
で、家に帰ってからカバンを開けて、「ない!」ってなりまして、あわてまくったわけですが、まぁいろいろ紆余曲折があって、ふたたび手元に戻ってきました。駅員さんありがとう。って感じなんです。
が、ここで学習したことがいくつかあるので、みなさまとシェアする気持ちで整理しておきますと…。
●携帯は落としても出てくる事が意外に多い。
●落とし物ケータイは、各キャリアのお店に届けても受け取らない。
●すべてのケータイは警察に集められ、警察から各キャリアに番号とともに「調査依頼」が出される。
●調査依頼を受けたキャリアは番号の持ち主に「郵送」で紛失した携帯があったと顧客に連絡する。
●紛失した携帯は、番号停止はすぐに行える。
●携帯を紛失しても、電話番号は変更せずに「機種変更」で新しく携帯を手に入れることができる。
というような事です。
この経験でわかった事は、携帯は紛失したからと言って、すぐに機種変更とかしない方が良いかな?って事ですね。出てくる可能性はけっこう高いように思います。
ただ、数日間は手元に携帯がない環境になるわけで、これが耐えられないという人が多いのでしょうね。
あと携帯の中にだけ連絡先を入れていてバックアップがない場合の辛さはあるでしょう。
私の場合はバックアップはたいていあったので困らなかったんですが。まぁ、今年の春に携帯を変えた友人がいて、その男とは連絡がつかなくてちょっと困りましたけど。バックアップ取ってなかったし。
まぁ、とにかく、落とした! と思っても、あわてずに、固定電話とかメールとかで、つながりのある人には連絡しておくというのが良いですね。
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●仕事の話
一年半ほど前に、いつも一緒にお仕事をしている印刷会社の人たちと「ネットの時代やし、インターネットで集客する仕組みを作りましょうか?」という話をしていて、それを実際に形にしてみたのですね。
特定の印刷物に絞って、ニーズを明確にして、「うちはこれの専門家ですよ。パッケージで全部やりますよ。」というような形にして、サイトを作ったわけです。
ネットのキーワード広告も出して、サイトオープンしたのが、去年のちょうど今ぐらい。年明けからちらほらと仕事が発生し始めて、少しずつ仕事が増えてきて、一年たった今では、けっこうな売り上げになってきてます。
っちゅうか、仕事が詰まってきて全部は片付けられないよなぁっていう感じ。
ネットってすごいね。いやしかし。
そこの印刷屋さんは、なかなか賢い人たちなので、こういう事を、積極的に考えるし、チャレンジするし、一緒に仕事をしていて実に楽しいです。
-----------------
●一人合奏の話。
ウクレレをずっとやってるのですが、最近、また教室のアンサンブル(=合奏)の教科書が新しく増えたので、少し難しめの合奏のスコアとか出てきたのですね。
で、合奏の練習というのは、いくつかあるパートを個別に練習するしかないわけですよ。みんなが集まるのは、教室でだけだし。
そうすると、自宅では複数のパートがひとつになった状態を聞くことができないんですね。
これがつまらないので、前は手持ちのボイスレコーダーにどれかのパートを入れて、それを再生して一人合奏とかしてたんです。
でも、これも2パートくらいなら、まぁやれなくもないんですが、3パートくらいになると面倒くさくてやる気になれないわけですよ。何かと手間ですから。
でも、先日、こんな便利なものがあるのを知りまして。
BOSS MICRO BR
http://www.roland.co.jp/products/jp/MICRO_BR/index.html
なんちゅうんでしょう。文庫本サイズのミニミニ・デジタル・ミキサーとでも言うんでしょうか。(あ、確認したら文庫本よりはるかに小さかった。手帳サイズかな?と思って自分の手帳とくらべてみたら手帳より数ミリ小さい。すげー。)4トラックの音源の同時再生ができて、それぞれのトラックに編集用のサブトラックが8本ずつ、計32トラックがあって、相互にリミックスできるから、けっこうな事ができるというもの。
それだけじゃなくて、エレキギターのエフェクターも内蔵していて、ドラムスのリズムパターンも内蔵(パターンの編集構成ができるので、ようは簡単なドラムパートなら、この機械にまかせておくことができる)してる。
録音したデータは各トラックを好きな位置に音像を定位したうえでステレオMP3データとして焼くこともできて、なおかつ、MP3プレーヤーとしても使えるし、MP3データをベースにして、自分の演奏を重ねることもできるし、ボーカル入りの曲ならセンター音の低減化でカラオケ状態にまでできるという高機能。
入力もエレキギターの普通の大きさのジャックもついてるし、マイクも内蔵してて、もうまさに言うことなし。
なんだこれ! すげー!!!ってなもんです。
もう、これは、すごく良いオモチャだなぁと思って、つい買ってしまったのであります。
いや、携帯も戻ってきたしね。携帯が出てこなかったら機種変更でお金がかかるところだったから、まぁ買ってもいいかと思って。
でも、これだけ多機能で2万5千円ですからなぁ。ものすごく安いと思う。だって、チューナー機能も付いてるのですよ。チューニングマシンとして使える。デジタルチューナーってそれだけ単品で買えば5000円くらいするしねぇ。リズムマシーンとしても使えるんだし、エフェクターにもなるし、小さいし、これは本当に良いです。
ただ欠点が2つだけあって、リズムパターンに3拍子がないのと、内蔵スピーカーがないってこと。この2つだけが欠点ですなぁ。
うーん。
でも、それほど大きな問題ではないので、私的には大満足。これはなかなか良いです。たっぷり遊べそうです。
後退する事が、実は進歩だったりする。
2007年10月20日 読書
ISBN:4860641345 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2006/10 ¥1,890
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
5月から表題の書籍で英語の練習を続けております。
内容は中学英語の復習。
そらもう、ものすごく簡単。むずかしい単語なんかひとつも出てこない。
で、中学1年から3年までの基礎的な文法項目を一見開きに一項目、10個の例文を左に日本語、右にその英文という形でならべて、79見開きにまとめただけのものです。
まさに「中学校3年分の例文集」でしかありません。
(あ、もちろん全文の音源CDはついてますが。)
で、これをどうするかというと、左の日本文を見て、すぐさま右の英文が出てくるように、ひたすら練習、トレーニングするという、それだけであります。
それだけなんですけど、これがかなり難しい。文章を頭の中で組み立てるのに時間がかかるし、すらっとくちに出して言えない。頭では分かっていることを、口でスッと言えるようにするまでというのが大変なわけです。
もうね、ひたすら練習あるのみです。5月から毎日せっせと練習してますが、いつまで経っても終わりませんねぇ。5か月かかって、やっと半分を超えたあたりです。ひ〜っ! 大変だわ、これは。
一般動詞とbe動詞の使い分けなんか、いつまで経っても体に入らないことはなはだしいですな。do で言うべき所を is で言ってしまって、「どうすんねん!」ってなってつまるとか。そんなんばっかし。
しかし、半分を超えたところで、少し実感できる事がありました。
というのは、ウクレレとの関連性を感じてきたのであります。
なんちゅうかね、ギターやウクレレのコード(和音)を覚えるのと、ちょっと似てるかもなぁって。
ウクレレやらギターをやったことのある人なら分かると思うのですが、コードを弾くためには、複数の指を同時に弦の上に置いて和音を出さねばならないので、指の形をしっかりと体に覚えさせないとだめなわけです。
人差し指で押さえてる弦は、隣に中指で押さえてる弦があるわけですけど、指の形がちゃんとしてないと中指が人差し指で押さえている弦にあたってしまって、人差し指で押さえてる弦が鳴らない、なんてことが起こります。これは初心者はみんなやる失敗。
だから指の形をしっかり整えないとちゃんと音が出ないわけですが、その「形」に持って行くまでが大変なんですね、最初は。
中学の時にギターを買って、コードを覚えようと四苦八苦したことが昨日のように思い出されます。荘村清志さんがNHKでギター講座とかやっていて、必死に練習したものです。
でも、この指の形がキチンとできたからとて、それだけじゃ全然ダメなんですね。曲を弾くという場合は、この「キチンとした指の形」を、リズムに沿って、パシ!パシ!とチェンジしていかないといけない。
それはもう、考えるとかなんとかではなくて、リズムに合わせて指がヒョンヒョンと形を変えていかないといけないわけで、最初は「こんな曲芸みたいなことが出来るか!」とか思ったものです。
でも、それをやって弾いてる人がちゃんといてるわけですからねぇ。ようは自分が出来てないってだけの話で。いやホント。
で、この「瞬間英作文」を頭からやってると、自分がいかに「指の形を整える」ことすらできてなかったかが嫌でもわかる。
で、ちゃんと文法に沿った文章をスラッと言えるようになるためには、表題の文法項目を、ちゃんと文法の参考書とか読んで学習のし直ししないと、やっぱり納得して覚える事はできないんですね。なので、平行して文法の復習もして…。
そういや、ギターのコードを覚える時でも、和音の理論とか勉強したら、一気に覚えやすくなったもんなぁって思うわけです。トニック、ドミナント、サブドミナントとかの和音の種類ね。
あとマイナーコードとメジャーコードとか。
なので、いまやってるこの本の、自分のレベルが、ウクレレやギターで言えば、どのくらい低い位置であるのかというのが、ものすごーーーく良く分かってきた。
コードの指の形も、まだちゃんとできてないレベルやんかってことなんですけどね。
まぁ文章で書かれた英文とかなら、ゆっくり読めるから、まだマシなんですけど、でもそれでは、実戦ではまったく役に立ちませんしね。
結局、中学の時からいっこうに進歩してなかっただけってことなんですけどね。
で、表題に戻るのです。
●後退する事が、実は進歩だったりする。
です。
というのは、もう10年も前に一念発起して英語を身につけよう!と思い立ちまして、それで最初に手を出したのが、天声人語の英語版だったのですね。
英語が苦手で苦手でどうしようもなかったから、とにかく急いで追いつかねば、という気持ちがあって、新聞とかで普通に出てくる単語から言い回しから、どんどん身につけていかねば、とか思ったわけです。
でも当時は「it の複数形は it’s ?」というレベルだったわけで、まぁ、手始めの教材としてはとんでもなく高尚すぎたわけですよ。
で、その後、初心者向きの教材にどんどんレベルを下げていったのですが、本当に中学レベルの復習は流す程度で、またすぐに単語の暗記とか、文章課題の読み解きとか、そっちに走ってたわけで。
で、その変転変化の歴史をたどると、もう正直、
●実務英語レベル
↓
●大学受験レベル
↓
●高校の授業レベル
↓
●中学の授業レベル
という具合にやってる課題がどんどん後退してきてるのですよ。
「これやってみよ! んん? あれ? 難しいな。どうしよ。ちょっとレベル下げてみよか。」
というのを半年から1年単位くらいでやってきた感じですね。
で、何年もかけて、課題を下げてきた。
まさにアホです。
それなら最初から基礎からキチンとやっとけよって話なんですね。
でも、基礎は時間がかかるんです。だから、ついすっ飛ばしてしまう。できてないのに、できてることにしてしまうんです。それで何年も何年もムダにすることになります。
本当に賢い人は、多少時間がかかっても、基礎を徹底的にやるんでしょうね。それが一番の近道だということをよく知っている。
「Cのコードは、こことここを押さえたらいいんでしょ、知ってるよ。」
なんて言うのは知識として知ってるだけで、それはもう、何の役にも立たない。パッ、パッとコードチェンジができて、なおかつ全弦の音がちゃんと鳴ってないと音楽にすらなっていないって事です。
やっぱり基礎なんですね。
実務英語より、中学英語。
走るより、歩く。
基礎を身につけるために、簡単な事を嫌と言うほどやらなくてはいけない。もう、出来た! と思ったところから、もう一度定着のために10回繰り返してやっておくという、そういう執念深さが必要なわけです。
しつこく、しつこく、しつこく、しつこく基礎なんですね。やっぱり。どこまで行っても基礎。ひたすら基礎。何があっても基礎。そのくらいで行かないといけない。
この本、いまの調子で行くと、終わるのは来年の1月くらいになりそうなんですけど、いまはそれを遅らせてでも、もう一度復習のために、この本の最初の方から苦手なところをもう一回おさらいしていこうかなと思ってるくらいです。
-------------------------------
で、そういうスキル習得について、ちょっと、別の勉強法の本を読んでいて、「ああ、それはあるかもなぁ」と思ったのが、TVゲームの悪影響の話なのです。
テレビゲームばっかりやってると、スキル習得のこらえ性が身に付かなくなるのではないか? という批判なんですね。
前に、「ゲーム脳の恐怖」とか、まるっきり検討違いで、検証性すらない、パァなゲーム批判がありましたが、ああいうゲーム批判ではなくて、「この意見には一理あるなぁ」と思った批判が、
●ゲームの主人公は、あまりにお手軽にレベルアップしすぎる。しかし、現実のスキル習得はそんなに簡単ではない。そこが問題だ。
と言う点なんですね。
TVゲームやビデオゲームであまりに簡単に「レベルアップの快感」になれてしまうと、現実のスキル習得の単調で時間のかかるところを耐えて身につけて行くという事ができなくなってしまうのではないか? という指摘なんですが、これ、当たってると思うのですよね。
その言葉を言った人曰く、
●現実のスキル習得に挫折して、またゲームのレベルアップのお手軽さに逃げるというゲーム依存体質になってしまう。
との事でした。
ああ、言えてる!!
すごく言えてる!
って思うのです。
僕はゲーム好きではあるんですけど、ゲームオタクとどうも肌が合わないのは、このあたりの違いなんですね。
ゲームばっかりして、全然勉強しない人間っていうのが、よくわからない。
ゲームでスキルアップの面白さを体感したら、その感覚を現実社会にも応用して、学習することで武器をレベルアップしてヒットポイントを上げようとか考えたら、人生面白くなるのにって思うんですが、そういう健全な「ゲームの応用」に行かないんですよね、ゲームオタクは。ひたすらテレビゲームをしてるだけで。
それはなぁ、違うよなぁって思うんですが。
ビデオゲームなんて、まぁひと月もあれば、ゲームクリアに必要な「スキル」なんて身に付いてしまいます。で、その「スキル」は、ゲームの中だけでしか役に立ちませんからな。ああ、もったいない。
面白いゲームは楽しめばいいと思うんだけど、次から次にゲームしてるってのは、やっぱり僕はおかしいと思うんですけどねぇ。
どうなんやろ。ゲームは本当に面白いと思えるものだけ遊べば、それで充分ですわ。僕は。
--------------------
という事で、この本一冊終えるのに、10か月では無理という感じになってきてるんですが、実は、この本には続刊として
「スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング 」
という本も出てまして、これも練習する予定なんですよね。そうなると、この2冊をやるだけで20か月以上かかることになるので、丸二年を費やすことになります。
うげー。膨大な時間だなぁ。うーむ。
でもウクレレでの学習過程をあてはめると、まぁそのくらいかかって当たり前なんだよね。しゃーないわな。
という事でテレビゲームもテレビを見る事も、ちょっと控えて、ひたすら練習の日々ですな。
うむ。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
5月から表題の書籍で英語の練習を続けております。
内容は中学英語の復習。
そらもう、ものすごく簡単。むずかしい単語なんかひとつも出てこない。
で、中学1年から3年までの基礎的な文法項目を一見開きに一項目、10個の例文を左に日本語、右にその英文という形でならべて、79見開きにまとめただけのものです。
まさに「中学校3年分の例文集」でしかありません。
(あ、もちろん全文の音源CDはついてますが。)
で、これをどうするかというと、左の日本文を見て、すぐさま右の英文が出てくるように、ひたすら練習、トレーニングするという、それだけであります。
それだけなんですけど、これがかなり難しい。文章を頭の中で組み立てるのに時間がかかるし、すらっとくちに出して言えない。頭では分かっていることを、口でスッと言えるようにするまでというのが大変なわけです。
もうね、ひたすら練習あるのみです。5月から毎日せっせと練習してますが、いつまで経っても終わりませんねぇ。5か月かかって、やっと半分を超えたあたりです。ひ〜っ! 大変だわ、これは。
一般動詞とbe動詞の使い分けなんか、いつまで経っても体に入らないことはなはだしいですな。do で言うべき所を is で言ってしまって、「どうすんねん!」ってなってつまるとか。そんなんばっかし。
しかし、半分を超えたところで、少し実感できる事がありました。
というのは、ウクレレとの関連性を感じてきたのであります。
なんちゅうかね、ギターやウクレレのコード(和音)を覚えるのと、ちょっと似てるかもなぁって。
ウクレレやらギターをやったことのある人なら分かると思うのですが、コードを弾くためには、複数の指を同時に弦の上に置いて和音を出さねばならないので、指の形をしっかりと体に覚えさせないとだめなわけです。
人差し指で押さえてる弦は、隣に中指で押さえてる弦があるわけですけど、指の形がちゃんとしてないと中指が人差し指で押さえている弦にあたってしまって、人差し指で押さえてる弦が鳴らない、なんてことが起こります。これは初心者はみんなやる失敗。
だから指の形をしっかり整えないとちゃんと音が出ないわけですが、その「形」に持って行くまでが大変なんですね、最初は。
中学の時にギターを買って、コードを覚えようと四苦八苦したことが昨日のように思い出されます。荘村清志さんがNHKでギター講座とかやっていて、必死に練習したものです。
でも、この指の形がキチンとできたからとて、それだけじゃ全然ダメなんですね。曲を弾くという場合は、この「キチンとした指の形」を、リズムに沿って、パシ!パシ!とチェンジしていかないといけない。
それはもう、考えるとかなんとかではなくて、リズムに合わせて指がヒョンヒョンと形を変えていかないといけないわけで、最初は「こんな曲芸みたいなことが出来るか!」とか思ったものです。
でも、それをやって弾いてる人がちゃんといてるわけですからねぇ。ようは自分が出来てないってだけの話で。いやホント。
で、この「瞬間英作文」を頭からやってると、自分がいかに「指の形を整える」ことすらできてなかったかが嫌でもわかる。
で、ちゃんと文法に沿った文章をスラッと言えるようになるためには、表題の文法項目を、ちゃんと文法の参考書とか読んで学習のし直ししないと、やっぱり納得して覚える事はできないんですね。なので、平行して文法の復習もして…。
そういや、ギターのコードを覚える時でも、和音の理論とか勉強したら、一気に覚えやすくなったもんなぁって思うわけです。トニック、ドミナント、サブドミナントとかの和音の種類ね。
あとマイナーコードとメジャーコードとか。
なので、いまやってるこの本の、自分のレベルが、ウクレレやギターで言えば、どのくらい低い位置であるのかというのが、ものすごーーーく良く分かってきた。
コードの指の形も、まだちゃんとできてないレベルやんかってことなんですけどね。
まぁ文章で書かれた英文とかなら、ゆっくり読めるから、まだマシなんですけど、でもそれでは、実戦ではまったく役に立ちませんしね。
結局、中学の時からいっこうに進歩してなかっただけってことなんですけどね。
で、表題に戻るのです。
●後退する事が、実は進歩だったりする。
です。
というのは、もう10年も前に一念発起して英語を身につけよう!と思い立ちまして、それで最初に手を出したのが、天声人語の英語版だったのですね。
英語が苦手で苦手でどうしようもなかったから、とにかく急いで追いつかねば、という気持ちがあって、新聞とかで普通に出てくる単語から言い回しから、どんどん身につけていかねば、とか思ったわけです。
でも当時は「it の複数形は it’s ?」というレベルだったわけで、まぁ、手始めの教材としてはとんでもなく高尚すぎたわけですよ。
で、その後、初心者向きの教材にどんどんレベルを下げていったのですが、本当に中学レベルの復習は流す程度で、またすぐに単語の暗記とか、文章課題の読み解きとか、そっちに走ってたわけで。
で、その変転変化の歴史をたどると、もう正直、
●実務英語レベル
↓
●大学受験レベル
↓
●高校の授業レベル
↓
●中学の授業レベル
という具合にやってる課題がどんどん後退してきてるのですよ。
「これやってみよ! んん? あれ? 難しいな。どうしよ。ちょっとレベル下げてみよか。」
というのを半年から1年単位くらいでやってきた感じですね。
で、何年もかけて、課題を下げてきた。
まさにアホです。
それなら最初から基礎からキチンとやっとけよって話なんですね。
でも、基礎は時間がかかるんです。だから、ついすっ飛ばしてしまう。できてないのに、できてることにしてしまうんです。それで何年も何年もムダにすることになります。
本当に賢い人は、多少時間がかかっても、基礎を徹底的にやるんでしょうね。それが一番の近道だということをよく知っている。
「Cのコードは、こことここを押さえたらいいんでしょ、知ってるよ。」
なんて言うのは知識として知ってるだけで、それはもう、何の役にも立たない。パッ、パッとコードチェンジができて、なおかつ全弦の音がちゃんと鳴ってないと音楽にすらなっていないって事です。
やっぱり基礎なんですね。
実務英語より、中学英語。
走るより、歩く。
基礎を身につけるために、簡単な事を嫌と言うほどやらなくてはいけない。もう、出来た! と思ったところから、もう一度定着のために10回繰り返してやっておくという、そういう執念深さが必要なわけです。
しつこく、しつこく、しつこく、しつこく基礎なんですね。やっぱり。どこまで行っても基礎。ひたすら基礎。何があっても基礎。そのくらいで行かないといけない。
この本、いまの調子で行くと、終わるのは来年の1月くらいになりそうなんですけど、いまはそれを遅らせてでも、もう一度復習のために、この本の最初の方から苦手なところをもう一回おさらいしていこうかなと思ってるくらいです。
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で、そういうスキル習得について、ちょっと、別の勉強法の本を読んでいて、「ああ、それはあるかもなぁ」と思ったのが、TVゲームの悪影響の話なのです。
テレビゲームばっかりやってると、スキル習得のこらえ性が身に付かなくなるのではないか? という批判なんですね。
前に、「ゲーム脳の恐怖」とか、まるっきり検討違いで、検証性すらない、パァなゲーム批判がありましたが、ああいうゲーム批判ではなくて、「この意見には一理あるなぁ」と思った批判が、
●ゲームの主人公は、あまりにお手軽にレベルアップしすぎる。しかし、現実のスキル習得はそんなに簡単ではない。そこが問題だ。
と言う点なんですね。
TVゲームやビデオゲームであまりに簡単に「レベルアップの快感」になれてしまうと、現実のスキル習得の単調で時間のかかるところを耐えて身につけて行くという事ができなくなってしまうのではないか? という指摘なんですが、これ、当たってると思うのですよね。
その言葉を言った人曰く、
●現実のスキル習得に挫折して、またゲームのレベルアップのお手軽さに逃げるというゲーム依存体質になってしまう。
との事でした。
ああ、言えてる!!
すごく言えてる!
って思うのです。
僕はゲーム好きではあるんですけど、ゲームオタクとどうも肌が合わないのは、このあたりの違いなんですね。
ゲームばっかりして、全然勉強しない人間っていうのが、よくわからない。
ゲームでスキルアップの面白さを体感したら、その感覚を現実社会にも応用して、学習することで武器をレベルアップしてヒットポイントを上げようとか考えたら、人生面白くなるのにって思うんですが、そういう健全な「ゲームの応用」に行かないんですよね、ゲームオタクは。ひたすらテレビゲームをしてるだけで。
それはなぁ、違うよなぁって思うんですが。
ビデオゲームなんて、まぁひと月もあれば、ゲームクリアに必要な「スキル」なんて身に付いてしまいます。で、その「スキル」は、ゲームの中だけでしか役に立ちませんからな。ああ、もったいない。
面白いゲームは楽しめばいいと思うんだけど、次から次にゲームしてるってのは、やっぱり僕はおかしいと思うんですけどねぇ。
どうなんやろ。ゲームは本当に面白いと思えるものだけ遊べば、それで充分ですわ。僕は。
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という事で、この本一冊終えるのに、10か月では無理という感じになってきてるんですが、実は、この本には続刊として
「スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング 」
という本も出てまして、これも練習する予定なんですよね。そうなると、この2冊をやるだけで20か月以上かかることになるので、丸二年を費やすことになります。
うげー。膨大な時間だなぁ。うーむ。
でもウクレレでの学習過程をあてはめると、まぁそのくらいかかって当たり前なんだよね。しゃーないわな。
という事でテレビゲームもテレビを見る事も、ちょっと控えて、ひたすら練習の日々ですな。
うむ。
5月から、また英語の自主トレに力を入れだして、毎日ほんのちょっとずつ練習とかしてるんですが、そうなると本当に本が読めなくなってしまって、先月はひと月で一冊読んだだけでした。
(築山節さんの「脳が冴える15の習慣」でした。これは名著!すばらしいです。)
ちょっとこれはやばいなぁと思って、通常の倍くらい読むようにしようと考えて、今月は10冊読むと決めて読んでます。
先月からいきなり10倍ですから、とんでもないわけですが、まぁ通常でも3冊から4冊くらいは普通に読んでたので、そういう意味では倍ですね。で、途中まで読んでほったらかしにしてたものを読み切るというのもすれば、まぁ10冊くらいはいけるんじゃないの? と思ってチャレンジしてみたわけです。
が、いざやってみると、思ってたより、うんと簡単でありました。本を読むと決めたら英語の練習は集中して時間を取るように変ってきまして、もうあまり電車の中では練習しなくなり、電車内では読書、起き抜け、寝る前が英語というパターンが自然と出来てきました。
で、ただいま16日目で5冊終了です。
内容の軽い書籍を一冊、トイレに置いて、トイレに入った時に2ページ〜4ページ読むというのも組み込んでみたので、これはこれで一冊読み終わると思うし、まぁ無理なく10冊読めそうですね。
で、読んでみてわかったのは、やっぱり情報量が多い方が、絶対に得だってことでした。ちょっとやってみただけで、読書がいかにお得なのかがはっきり分りました。これはもっと読まなきゃダメだなぁ。ほんと。
とくに、あまりに内容がトンチンカンなので、途中で読むのをやめていた「ウェブ進化論」と、はてなの近藤氏が書いた「ヘンな会社のつくり方」の両方を読んで、「ウェブ進化論」の梅田望夫氏が、どうトンチンカンなのかがはっきりわかって、トンチンカンにイライラしてたのがすっきりして収穫でした。
「わかってへん人は、どこまで行ってもわかってへんだけなんやなぁ、やっぱり」という事で納得が行った、みたいな話なんですけど。まぁ、このあたりは、機会があったら書きましょう。
ともかく、大量に読むというのは、やっぱり効果高いですな。読まないとわからない。やっぱりそうですわ。
ということで、なんとか月10冊のペースは維持しようと思います。(本当は速読を習いに行くべきなんだと思うのですけどねぇ。10万とか20万とか出せば教えてくれるんだしなぁ。うーむ。)
とにかくやっぱり勉強ですね。ひたすらそう思う出来事でありました。
(築山節さんの「脳が冴える15の習慣」でした。これは名著!すばらしいです。)
ちょっとこれはやばいなぁと思って、通常の倍くらい読むようにしようと考えて、今月は10冊読むと決めて読んでます。
先月からいきなり10倍ですから、とんでもないわけですが、まぁ通常でも3冊から4冊くらいは普通に読んでたので、そういう意味では倍ですね。で、途中まで読んでほったらかしにしてたものを読み切るというのもすれば、まぁ10冊くらいはいけるんじゃないの? と思ってチャレンジしてみたわけです。
が、いざやってみると、思ってたより、うんと簡単でありました。本を読むと決めたら英語の練習は集中して時間を取るように変ってきまして、もうあまり電車の中では練習しなくなり、電車内では読書、起き抜け、寝る前が英語というパターンが自然と出来てきました。
で、ただいま16日目で5冊終了です。
内容の軽い書籍を一冊、トイレに置いて、トイレに入った時に2ページ〜4ページ読むというのも組み込んでみたので、これはこれで一冊読み終わると思うし、まぁ無理なく10冊読めそうですね。
で、読んでみてわかったのは、やっぱり情報量が多い方が、絶対に得だってことでした。ちょっとやってみただけで、読書がいかにお得なのかがはっきり分りました。これはもっと読まなきゃダメだなぁ。ほんと。
とくに、あまりに内容がトンチンカンなので、途中で読むのをやめていた「ウェブ進化論」と、はてなの近藤氏が書いた「ヘンな会社のつくり方」の両方を読んで、「ウェブ進化論」の梅田望夫氏が、どうトンチンカンなのかがはっきりわかって、トンチンカンにイライラしてたのがすっきりして収穫でした。
「わかってへん人は、どこまで行ってもわかってへんだけなんやなぁ、やっぱり」という事で納得が行った、みたいな話なんですけど。まぁ、このあたりは、機会があったら書きましょう。
ともかく、大量に読むというのは、やっぱり効果高いですな。読まないとわからない。やっぱりそうですわ。
ということで、なんとか月10冊のペースは維持しようと思います。(本当は速読を習いに行くべきなんだと思うのですけどねぇ。10万とか20万とか出せば教えてくれるんだしなぁ。うーむ。)
とにかくやっぱり勉強ですね。ひたすらそう思う出来事でありました。
ノブレス・オブリージュ
2007年10月11日 ■倫社の帝王 コメント (2)久しぶりに「倫社の帝王」を書きます。
前から一度書かないといけないなぁと思ってた項目に、「ノブレス・オブリージュ」があります。これは、「高貴なるものの責任」とでも訳せばよいのでしょうか、財産、権力、社会的地位を得た者が負う責任の事なのですが、この概念を知っているかいないかで、いろいろな事象に対する評価のあり方がかなり変るし、物事の判断基準なども大きく変ると思うのですね。
日本にはこういうモノはないのですが、欧米では、法を超えて、それこそ倫理的な徳目として、この「ノブレス・オブリージュ」が求められて、社会的な大きな「圧力」になっています。
このあたりの知識は、少なくとも僕の場合は、たとえばWinnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ライブドアのニッポン放送株買収問題、ハッカーの問題などに関して、大きく判断のよりどころになりました。
「ノブレス・オブリージュ」は、もともと、貴族が自発的に、無私の行動を行う事がベースになっていて、まぁ一種の「プライド」のようなものなのでしょう。そういう種類のものですから、明文化されてませんし、法的な義務でもなく、何か法律上の処罰があるというわけでもありません。
しかしそれでも、この「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会を支える根本的な重要な文化になっていまして、それは、広く一般常識にまでなっている概念ですから、法律やら金銭問題を超えた、より大きな判断基準になっている、という事ですね。つまり、法律や金銭契約よりも大きな社会的圧力と考えて良いと思います。
たとえば、細目は省きますが、僕の大好きな「スパイダーマン」では、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というのが主要テーマになっています。自己利益だけを考えて行動したが故に、その結果、自分の大切な育ての親の命を失わせてしまったと反省している主人公ピーター・パーカー、という設定があって、スパイダーマンという大きな力を得た限り、それを社会に還元していく責任があるのだとするテーマがあるわけです。
法に従っているかどうか? の前に、個人個人の心の中の倫理観というものがあって、それがまず大切なわけです。スパイダーマンは別に法に従って正義を成しているわけではなくて、「ノブレス・オブリージュ」で社会貢献をしているのです。
大事なのは、スパイダーマンというものがコミックスだ、ということです。ニッポンでは大人でもマンガを電車の中で読むのが当然のようになってますが、欧米では違います。はっきりくっきり「幼稚な媒体」と考えられているんですね。大の大人が堂々と読むものではない。そういう差別的なメディアなんです。
しかし、そういう差別的なメディアの中にすら「ノブレス・オブリージュ」の概念が生きているという事なんですね。大変一般的で、誰でもが「なるほど、そりゃそうだ」と思う、言わずもがなの「あたりまえ」の常識的概念なわけです。
つまり「強い権力を持ったものには、その力の強さに応じて社会的責任が伴うのは当たり前のことだ」という事がかなり強烈に世の中に定着しているということなのです。ということなので、同じような企業でも、トップ企業と二番手企業なら、権力・パワーの大きさが違いますから、トップ企業の方に「ノブレス・オブリージュ」の責務・徳目はより大きく求められるのが当然ですし、誰もがそれを要求するって事なんですね。
で、それを要求するのが当たり前であれば、いくら企業の側に社会的責任感や社会貢献意識がなくても、行動せざるを得なくなってくるわけです。企業イメージがガタっと落ちますから。そう言う意味では、法律より怖い、強い拘束力を持っているわけです。それが「ノブレス・オブリージュ」なわけです。
同じパソコンOSでも、マックのアップルなら、社会貢献的活動をちょろっとでもやれば、ものすごく高く評価されますが、トップのマイクロソフトだと「そのくらい当たり前だ」と評価されません。逆に「これこれの配慮が欠けている」と、厳しく厳しく厳しく批判されますし、それは「ノブレス・オブリージュ」の考え方からすれば、しごくまっとうで、当たり前のことなんですね。バコスコに叩かれ、批判されて当然なんです。
日本の場合は、「和」の概念が法律を超えて優先される社会的規範で、「みんな一緒に」とか「同じ価値観を共有して」というような事が大事にされますが、欧米はそういう概念はありません。
欧米では競争があたりまえで、才能のあるものがトップになるのが良いことだと考えられているわけです。ひとりひとりが異なる個性を持っていて、それを最大限に活かすことで、力の差が出てしまうのは当然だという事ですね。より才能のあるものが勝ち上がることこそが、「個性に基づいた平等だ」という考え方です。
日本の文化がもともとは「どういう行動をしていても、給料は同じように出すよ」という「結果の平等」をベースに成長してきたのに対して「ひとりひとりの行動の結果に対して、平等に同額支払うよ。」という「機会の平等」が欧米(この件に関しては特にアメリカかな?)の考え方です。
で、この「機会の平等」を、単なる弱肉強食にしてしまわないための、重要な安全装置として、この「ノブレス・オブリージュ」という倫理観が大切にされてるわけです。
しかし、この数年から10年くらいの間で、日本は「小泉改革」とやらのバカ騒ぎのせいで、法的なルールや、社会の構造だけを欧米から押しつけられて取り込んでしまって、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような大衆文化にまで根ざした倫理観の取り込みまでは行えなかったわけです。
だから、その結果として、ホリエモンの事件なんかがあるんですね。ホリエモンが株を買ったら、その株を持った人間が会社の持ち主ですから、ニッポン放送はホリエモンのものです。こういう所有の概念は資本主義の根幹ですから、変更などできません。株主資本主義は間違ってるとかごちゃごちゃ言う文化人もいましたが、それはお前らが間違ってる。ここまで重要な基本ルールは変更不能です。
しかし、じゃあ、ホリエモンが経営陣を平気で入れ替えてオーケーかというと、法的にはオーケーでも、「ノブレス・オブリージュ」の観点からはとんでもないバカとしか言いようがないわけです。
放送業界というのは、人を育てるのに10年とかかかる世界ですし、電波というのはそれこそ電波帯という「限りある資源」を活用する社会資本ですから、その運営には専門的な知識経験がどうしても必要なんですね。それを簡単に「経営陣の首をすげ替える」なんて言うのは愚の骨頂、バカのすることです。
バカのすることなんだけど、それは法的には大きく間違いではない。そういう事ですね。
わかりやすく言うなら、「ホンダの車を俺が買った。だから好きにしていい。エンジンを俺が作ったものに入れ替える。」と言ってるのと同じなわけです。これはバカでしょ? まぁそういう事ですね。法的には別にそういう事をしても何ら問題はないけど、バカだと蔑まれる。会社としては致命的でしょう。
しかし、日本にはそういう法を超えるルールとしての「ノブレス・オブリージュ」のような事が一般大衆には定着してないから、そういう部分での批判が全然出ないわけですよ。で、どうして良いかわからないから、「株主資本主義は間違ってる」とかのよけい混乱するような意見が出てきたり、書籍が発売されたりして、どうして良いのかわからなくなっちゃう。みんな右往左往して悩むってなことになってしまう。従来の日本的文化だけではやっていけないので、どうしよう? ってなっちゃうわけです。
僕の場合は、前々から書いてますが、小室直樹先生の御本で、この「ノブレス・オブリージュ」の考え方を、そうとう前から学んでおりましたから、そういう世の中の変化に関しても、さしてあわてず騒がずで対応できましたし、問題の本質がよく見えました。だからやっぱり、まず勉強しておくという事が大切なんですね。
で、そう言うことを考え合わせていくと、Winnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ハッカーの問題も良く見えてくるんですね。
たとえばハッカーという言葉は、当初「法を守らない悪人」というようなニュアンスがありましたが、そうではなくて、コンピュータシステムの穴を見つけ、それを改善しようとする善人、正義の味方という側面があるのだよ、とか言われるようになってきたわけです。
でも、そういう個別の言葉の定義を考えるより、そのハッカーのやってることが、「ノブレス・オブリージュ」に沿っているかどうかを考えれば、善と判定されるか悪と判定されるかだいたいわかってしまうわけです。
ようするにハッカーというのは、より大きな仕組みに対しての批判勢力としてなら「ノブレス・オブリージュ」を体現する存在として、社会から認められるってことなんですよ。単純にそれだけのことです。
だから「より大きな仕組みへの対抗勢力」ではないものは善とは認められず消えていく運命にあります。
単純にわかりやすいもので言えば、ファイル交換ソフトのナップスターですね。あれは、アーティストのような、才能ある個人が迷惑をこうむるばかりの仕組みですし、より大きな企業体への批判性も持っていなかった。単に著作物の泥棒ソフトだ、というだけですから、結局は生き残りはできませんでした。有料化されて正当なものになろうとしたけど、最終的には消えてなくなっちゃった。ま、当然ですわね。ようするにハッカーのように、「社会的な大義」がないってことなんです。
ところが、しかし!
日本人って、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような社会的概念や倫理観というものとかに、無茶苦茶弱いので、ナップスター、あるいはWinnyとかを、「ピア・トゥ・ピア技術の可能性」という側面から擁護したりするんですね。技術至上主義っちゅうか、なんちゅうか。
そんなもんアカンっちゅうねん。大義がないやんけ、大義が! としか私は思わないし、まぁ、大きくそれが常識っちゅうもんなのですが、「技術の可能性を潰すのは良くないことだ」とか平気で言うのよなぁ、日本のオタクは。いやいや、大義がなけりゃ、それは技術の悪用でしかないよってことでして。
まぁ、僕に言わせれば、まったくのバカです。っちゅうか、ようは多分お金を払わずに著作物を泥棒すること自体のスリルがおもしろいとか、そういう低脳な欲求でしかないと思うんですけど、なんかヒドイ話よなぁって思うのです。幼稚というか、単なる子供の発想です。
ひどいのになると、物作りの現場にいて、著作権を守る側の仕事をしているのに、Winnyで映画を泥棒して見てる、なんていうのがいてるわけですよ。いやー、それは自分で自分の首を絞めてるだけやろ、アカンで、それは、としか思わないんですが、いったい何なんでしょうか、あれは。
Winnyみたいな泥棒ソフトは、本来お金を払って見ていた人までお金を払わずに著作物を見るようになるので、その差損は、いきおいDVDとかの単価に上乗せされます。ようは正規の著作物の値段が上がるわけで、誰にとっても迷惑なだけ、存在価値はゼロなんですよね。なんでこんなバカなものが世の中に出回ってしまったかと呆れるばかりです。あんなものに存在価値はまったくないのに。
Winnyの技術的価値も実はゼロです。不特定多数に対するファイルアクセスの仕組みとかは、たとえば、世の中にある無線LANのフリースポットや、フレッツ・スポットなどですでに実用化されているし、インターネットを使って特定の人間がクローズドグループでファイル共有する仕組みも高度なネット企業の基礎技術としてキチンと社会に根付いておりますからWinnyに意味なんかありません。
そういう社会に根付いた仕組みとWinnyとの違いは、その不特定多数の人間個々を特定しようと思ったときにできるかどうか? の違いだけです。Winnyにはそれがない。つまり単純に個人名を隠して泥棒ができる泥棒育成ソフトでしかないので、あれはダメ! というのが私の判断であります。「ノブレス・オブリージュ」のような、高尚さなんて、かけらもない。まぁあんなもの使うのはゴミ人間みたいなもんです。ここははっきりくっきりキッパリと言い切ります。
しかし、困ったことに、いまや世の中はワールドワイドに広がっていて、たとえば、欧米でのハッカーたちの動きがカッコ良いものとして日本に伝わってきたりして、で、肝心の「ノブレス・オブリージュ」の倫理観すらないパァな原日本人が「泥棒は良いことだ」とか勘違いするわけです。
ちがうっちゅうねん。それは。
そのカッコ良さの根幹は「ノブレス・オブリージュ」やっちゅうねん。そこをわかりもせずに表面的なことだけ真似してもアカンっちゅうねん。
何を勝手な勘違いしてんねん! ちゅう話なわけですよ。
かくして、日本では泥棒行為がかっこいいかのように思われる。そこに「ノブレス・オブリージュ」なんてものは、かけらもない。アホの極みです。
かっこ悪いよなぁって思うんだけど、そういうところに行ってしまってる人は抜け出せないみたいですなぁ。
多分、なんらかの社会に対する不満があるんだろうと思うんだけど、その自分の内面の不満を、キチンと整理すらできてないわけですよ。だからそれを匿名で社会の仕組みを超える事で解消してるんでしょうなぁ。なんか情けないです。ほんまにかっこ悪いと思う。
で、自己正当化を探して技術の進化がとか言ってる。ああいう人種が本当にバカで嫌いです。
で、また、「ノブレス・オブリージュ」も知らないような人間は、こういう話しになると、すぐに法律の問題と勘違いして、日本の法律のあれやこれやをごちゃごちゃとほじくり返すという、どうでも良い些末な話に入っていってしまって、それでよけいに混乱するわけです。法律は慣習が基本。その慣習は倫理がベース。倫理は宗教によって異なる。だから国が違えば対処法も異なる。そして自分たちの問題は、自分たちで学習して対応策をひねり出すしかない、って事です。
で、その対応策をひねり出すには、外国の文化は外国の文化として客観的に学習し、日本の文化は日本の文化としてキチンと学ぶという基礎からの学習がどうしても必要という、それだけのことなのです。
そういう意味では、「ノブレス・オブリージュ」の概念を学ばせてもらった小室直樹先生には、本当に深い学恩を感じるわけですよ。9月18日の日記「おおまかな理解ということ」
http://diarynote.jp/d/12917/20070918.html
でも書かせてもらいましたが、まず大きな概念から大づかみに理解していくことの大切さを、しみじみと味あわせてもらえたと思うのです。小さな枝葉の知識で右往左往することなく、世の中の動きを大きな流れで捕まえる、重要な視点を授けていただいたと思うのですね。世界標準の大きな学問的常識、モノの見方を、まず教えていただいたという気がしてます。10年前に読んだ小室先生のご著書が、10年の時代の流れの中で、脈々と物事を整理しつつ僕の頭の中に入れてくれたという感じが強いです。
だから「学恩」というものはすごいのですよ。ほんとにそう思う。ひと月やそこいらでは、なにもわからないけど、こうして10年を振り返ってみると、そういう知識があるかないかで、ものすごく大きな差が出来ると言うことが実感としてよくわかります。
知識がないのは、暗闇でたいまつがないのと同じです。まず学習。それありきだと思う。
ああ、しかし、「ノブレス・オブリージュ」の事だけで、ここまで書けるとは思ってなかった。自分でもびっくりですが、でもやっぱり重要な知識は、それだけの広がりを持っているという、そういう事です。はい。
前から一度書かないといけないなぁと思ってた項目に、「ノブレス・オブリージュ」があります。これは、「高貴なるものの責任」とでも訳せばよいのでしょうか、財産、権力、社会的地位を得た者が負う責任の事なのですが、この概念を知っているかいないかで、いろいろな事象に対する評価のあり方がかなり変るし、物事の判断基準なども大きく変ると思うのですね。
日本にはこういうモノはないのですが、欧米では、法を超えて、それこそ倫理的な徳目として、この「ノブレス・オブリージュ」が求められて、社会的な大きな「圧力」になっています。
このあたりの知識は、少なくとも僕の場合は、たとえばWinnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ライブドアのニッポン放送株買収問題、ハッカーの問題などに関して、大きく判断のよりどころになりました。
「ノブレス・オブリージュ」は、もともと、貴族が自発的に、無私の行動を行う事がベースになっていて、まぁ一種の「プライド」のようなものなのでしょう。そういう種類のものですから、明文化されてませんし、法的な義務でもなく、何か法律上の処罰があるというわけでもありません。
しかしそれでも、この「ノブレス・オブリージュ」は、欧米社会を支える根本的な重要な文化になっていまして、それは、広く一般常識にまでなっている概念ですから、法律やら金銭問題を超えた、より大きな判断基準になっている、という事ですね。つまり、法律や金銭契約よりも大きな社会的圧力と考えて良いと思います。
たとえば、細目は省きますが、僕の大好きな「スパイダーマン」では、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というのが主要テーマになっています。自己利益だけを考えて行動したが故に、その結果、自分の大切な育ての親の命を失わせてしまったと反省している主人公ピーター・パーカー、という設定があって、スパイダーマンという大きな力を得た限り、それを社会に還元していく責任があるのだとするテーマがあるわけです。
法に従っているかどうか? の前に、個人個人の心の中の倫理観というものがあって、それがまず大切なわけです。スパイダーマンは別に法に従って正義を成しているわけではなくて、「ノブレス・オブリージュ」で社会貢献をしているのです。
大事なのは、スパイダーマンというものがコミックスだ、ということです。ニッポンでは大人でもマンガを電車の中で読むのが当然のようになってますが、欧米では違います。はっきりくっきり「幼稚な媒体」と考えられているんですね。大の大人が堂々と読むものではない。そういう差別的なメディアなんです。
しかし、そういう差別的なメディアの中にすら「ノブレス・オブリージュ」の概念が生きているという事なんですね。大変一般的で、誰でもが「なるほど、そりゃそうだ」と思う、言わずもがなの「あたりまえ」の常識的概念なわけです。
つまり「強い権力を持ったものには、その力の強さに応じて社会的責任が伴うのは当たり前のことだ」という事がかなり強烈に世の中に定着しているということなのです。ということなので、同じような企業でも、トップ企業と二番手企業なら、権力・パワーの大きさが違いますから、トップ企業の方に「ノブレス・オブリージュ」の責務・徳目はより大きく求められるのが当然ですし、誰もがそれを要求するって事なんですね。
で、それを要求するのが当たり前であれば、いくら企業の側に社会的責任感や社会貢献意識がなくても、行動せざるを得なくなってくるわけです。企業イメージがガタっと落ちますから。そう言う意味では、法律より怖い、強い拘束力を持っているわけです。それが「ノブレス・オブリージュ」なわけです。
同じパソコンOSでも、マックのアップルなら、社会貢献的活動をちょろっとでもやれば、ものすごく高く評価されますが、トップのマイクロソフトだと「そのくらい当たり前だ」と評価されません。逆に「これこれの配慮が欠けている」と、厳しく厳しく厳しく批判されますし、それは「ノブレス・オブリージュ」の考え方からすれば、しごくまっとうで、当たり前のことなんですね。バコスコに叩かれ、批判されて当然なんです。
日本の場合は、「和」の概念が法律を超えて優先される社会的規範で、「みんな一緒に」とか「同じ価値観を共有して」というような事が大事にされますが、欧米はそういう概念はありません。
欧米では競争があたりまえで、才能のあるものがトップになるのが良いことだと考えられているわけです。ひとりひとりが異なる個性を持っていて、それを最大限に活かすことで、力の差が出てしまうのは当然だという事ですね。より才能のあるものが勝ち上がることこそが、「個性に基づいた平等だ」という考え方です。
日本の文化がもともとは「どういう行動をしていても、給料は同じように出すよ」という「結果の平等」をベースに成長してきたのに対して「ひとりひとりの行動の結果に対して、平等に同額支払うよ。」という「機会の平等」が欧米(この件に関しては特にアメリカかな?)の考え方です。
で、この「機会の平等」を、単なる弱肉強食にしてしまわないための、重要な安全装置として、この「ノブレス・オブリージュ」という倫理観が大切にされてるわけです。
しかし、この数年から10年くらいの間で、日本は「小泉改革」とやらのバカ騒ぎのせいで、法的なルールや、社会の構造だけを欧米から押しつけられて取り込んでしまって、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような大衆文化にまで根ざした倫理観の取り込みまでは行えなかったわけです。
だから、その結果として、ホリエモンの事件なんかがあるんですね。ホリエモンが株を買ったら、その株を持った人間が会社の持ち主ですから、ニッポン放送はホリエモンのものです。こういう所有の概念は資本主義の根幹ですから、変更などできません。株主資本主義は間違ってるとかごちゃごちゃ言う文化人もいましたが、それはお前らが間違ってる。ここまで重要な基本ルールは変更不能です。
しかし、じゃあ、ホリエモンが経営陣を平気で入れ替えてオーケーかというと、法的にはオーケーでも、「ノブレス・オブリージュ」の観点からはとんでもないバカとしか言いようがないわけです。
放送業界というのは、人を育てるのに10年とかかかる世界ですし、電波というのはそれこそ電波帯という「限りある資源」を活用する社会資本ですから、その運営には専門的な知識経験がどうしても必要なんですね。それを簡単に「経営陣の首をすげ替える」なんて言うのは愚の骨頂、バカのすることです。
バカのすることなんだけど、それは法的には大きく間違いではない。そういう事ですね。
わかりやすく言うなら、「ホンダの車を俺が買った。だから好きにしていい。エンジンを俺が作ったものに入れ替える。」と言ってるのと同じなわけです。これはバカでしょ? まぁそういう事ですね。法的には別にそういう事をしても何ら問題はないけど、バカだと蔑まれる。会社としては致命的でしょう。
しかし、日本にはそういう法を超えるルールとしての「ノブレス・オブリージュ」のような事が一般大衆には定着してないから、そういう部分での批判が全然出ないわけですよ。で、どうして良いかわからないから、「株主資本主義は間違ってる」とかのよけい混乱するような意見が出てきたり、書籍が発売されたりして、どうして良いのかわからなくなっちゃう。みんな右往左往して悩むってなことになってしまう。従来の日本的文化だけではやっていけないので、どうしよう? ってなっちゃうわけです。
僕の場合は、前々から書いてますが、小室直樹先生の御本で、この「ノブレス・オブリージュ」の考え方を、そうとう前から学んでおりましたから、そういう世の中の変化に関しても、さしてあわてず騒がずで対応できましたし、問題の本質がよく見えました。だからやっぱり、まず勉強しておくという事が大切なんですね。
で、そう言うことを考え合わせていくと、Winnyなどのファイル交換ソフトに対する問題や、ハッカーの問題も良く見えてくるんですね。
たとえばハッカーという言葉は、当初「法を守らない悪人」というようなニュアンスがありましたが、そうではなくて、コンピュータシステムの穴を見つけ、それを改善しようとする善人、正義の味方という側面があるのだよ、とか言われるようになってきたわけです。
でも、そういう個別の言葉の定義を考えるより、そのハッカーのやってることが、「ノブレス・オブリージュ」に沿っているかどうかを考えれば、善と判定されるか悪と判定されるかだいたいわかってしまうわけです。
ようするにハッカーというのは、より大きな仕組みに対しての批判勢力としてなら「ノブレス・オブリージュ」を体現する存在として、社会から認められるってことなんですよ。単純にそれだけのことです。
だから「より大きな仕組みへの対抗勢力」ではないものは善とは認められず消えていく運命にあります。
単純にわかりやすいもので言えば、ファイル交換ソフトのナップスターですね。あれは、アーティストのような、才能ある個人が迷惑をこうむるばかりの仕組みですし、より大きな企業体への批判性も持っていなかった。単に著作物の泥棒ソフトだ、というだけですから、結局は生き残りはできませんでした。有料化されて正当なものになろうとしたけど、最終的には消えてなくなっちゃった。ま、当然ですわね。ようするにハッカーのように、「社会的な大義」がないってことなんです。
ところが、しかし!
日本人って、こういう「ノブレス・オブリージュ」のような社会的概念や倫理観というものとかに、無茶苦茶弱いので、ナップスター、あるいはWinnyとかを、「ピア・トゥ・ピア技術の可能性」という側面から擁護したりするんですね。技術至上主義っちゅうか、なんちゅうか。
そんなもんアカンっちゅうねん。大義がないやんけ、大義が! としか私は思わないし、まぁ、大きくそれが常識っちゅうもんなのですが、「技術の可能性を潰すのは良くないことだ」とか平気で言うのよなぁ、日本のオタクは。いやいや、大義がなけりゃ、それは技術の悪用でしかないよってことでして。
まぁ、僕に言わせれば、まったくのバカです。っちゅうか、ようは多分お金を払わずに著作物を泥棒すること自体のスリルがおもしろいとか、そういう低脳な欲求でしかないと思うんですけど、なんかヒドイ話よなぁって思うのです。幼稚というか、単なる子供の発想です。
ひどいのになると、物作りの現場にいて、著作権を守る側の仕事をしているのに、Winnyで映画を泥棒して見てる、なんていうのがいてるわけですよ。いやー、それは自分で自分の首を絞めてるだけやろ、アカンで、それは、としか思わないんですが、いったい何なんでしょうか、あれは。
Winnyみたいな泥棒ソフトは、本来お金を払って見ていた人までお金を払わずに著作物を見るようになるので、その差損は、いきおいDVDとかの単価に上乗せされます。ようは正規の著作物の値段が上がるわけで、誰にとっても迷惑なだけ、存在価値はゼロなんですよね。なんでこんなバカなものが世の中に出回ってしまったかと呆れるばかりです。あんなものに存在価値はまったくないのに。
Winnyの技術的価値も実はゼロです。不特定多数に対するファイルアクセスの仕組みとかは、たとえば、世の中にある無線LANのフリースポットや、フレッツ・スポットなどですでに実用化されているし、インターネットを使って特定の人間がクローズドグループでファイル共有する仕組みも高度なネット企業の基礎技術としてキチンと社会に根付いておりますからWinnyに意味なんかありません。
そういう社会に根付いた仕組みとWinnyとの違いは、その不特定多数の人間個々を特定しようと思ったときにできるかどうか? の違いだけです。Winnyにはそれがない。つまり単純に個人名を隠して泥棒ができる泥棒育成ソフトでしかないので、あれはダメ! というのが私の判断であります。「ノブレス・オブリージュ」のような、高尚さなんて、かけらもない。まぁあんなもの使うのはゴミ人間みたいなもんです。ここははっきりくっきりキッパリと言い切ります。
しかし、困ったことに、いまや世の中はワールドワイドに広がっていて、たとえば、欧米でのハッカーたちの動きがカッコ良いものとして日本に伝わってきたりして、で、肝心の「ノブレス・オブリージュ」の倫理観すらないパァな原日本人が「泥棒は良いことだ」とか勘違いするわけです。
ちがうっちゅうねん。それは。
そのカッコ良さの根幹は「ノブレス・オブリージュ」やっちゅうねん。そこをわかりもせずに表面的なことだけ真似してもアカンっちゅうねん。
何を勝手な勘違いしてんねん! ちゅう話なわけですよ。
かくして、日本では泥棒行為がかっこいいかのように思われる。そこに「ノブレス・オブリージュ」なんてものは、かけらもない。アホの極みです。
かっこ悪いよなぁって思うんだけど、そういうところに行ってしまってる人は抜け出せないみたいですなぁ。
多分、なんらかの社会に対する不満があるんだろうと思うんだけど、その自分の内面の不満を、キチンと整理すらできてないわけですよ。だからそれを匿名で社会の仕組みを超える事で解消してるんでしょうなぁ。なんか情けないです。ほんまにかっこ悪いと思う。
で、自己正当化を探して技術の進化がとか言ってる。ああいう人種が本当にバカで嫌いです。
で、また、「ノブレス・オブリージュ」も知らないような人間は、こういう話しになると、すぐに法律の問題と勘違いして、日本の法律のあれやこれやをごちゃごちゃとほじくり返すという、どうでも良い些末な話に入っていってしまって、それでよけいに混乱するわけです。法律は慣習が基本。その慣習は倫理がベース。倫理は宗教によって異なる。だから国が違えば対処法も異なる。そして自分たちの問題は、自分たちで学習して対応策をひねり出すしかない、って事です。
で、その対応策をひねり出すには、外国の文化は外国の文化として客観的に学習し、日本の文化は日本の文化としてキチンと学ぶという基礎からの学習がどうしても必要という、それだけのことなのです。
そういう意味では、「ノブレス・オブリージュ」の概念を学ばせてもらった小室直樹先生には、本当に深い学恩を感じるわけですよ。9月18日の日記「おおまかな理解ということ」
http://diarynote.jp/d/12917/20070918.html
でも書かせてもらいましたが、まず大きな概念から大づかみに理解していくことの大切さを、しみじみと味あわせてもらえたと思うのです。小さな枝葉の知識で右往左往することなく、世の中の動きを大きな流れで捕まえる、重要な視点を授けていただいたと思うのですね。世界標準の大きな学問的常識、モノの見方を、まず教えていただいたという気がしてます。10年前に読んだ小室先生のご著書が、10年の時代の流れの中で、脈々と物事を整理しつつ僕の頭の中に入れてくれたという感じが強いです。
だから「学恩」というものはすごいのですよ。ほんとにそう思う。ひと月やそこいらでは、なにもわからないけど、こうして10年を振り返ってみると、そういう知識があるかないかで、ものすごく大きな差が出来ると言うことが実感としてよくわかります。
知識がないのは、暗闇でたいまつがないのと同じです。まず学習。それありきだと思う。
ああ、しかし、「ノブレス・オブリージュ」の事だけで、ここまで書けるとは思ってなかった。自分でもびっくりですが、でもやっぱり重要な知識は、それだけの広がりを持っているという、そういう事です。はい。
升の市・住吉寄席
2007年10月7日mixiに書いた日記だけど、こっちにも載せておきたくなったので、転載。
最近mixiは画面デザインが変って、ものすごく見にくくなったので、よそに移ろうかなぁとか思ってます。個人的な知り合いとかたくさん呼んでしまってるから、移るとなるとみなさんに声かけをしないといけないのが面倒。ほんとにあのデザインは嫌なんよなぁ。うーん。困った。
ともあれ、転載です。
---------------------
えー、私、大阪は住吉大社の近くに住んでおるわけですが、実は本日、その住吉大社で地元の振興会と米朝一門による落語会がありまして、見に行って参りました。
mixiには、全国の方がおられますので、ローカル情報をちょっと解説すると、毎年正月になると、神社の参拝人数の話が出てますが、そのトップニュースに良く取り上げられているのが住吉大社でありまして、けっこう有名で、由緒ある神社でもあります。
で、ここへ、母親孝行も兼ねまして、母親を呼んで出かけたわけですが、良かったのは会場であります。
住吉大社には「神館(しんかん)」と言う建物がございまして、これが有形重要文化財なんやそうでございます。(口調が落語っぽくなってきた。)
そういう建物の中で落語が聞けるというだけでもおもしろいのですが、これに加えて、なんとなんと、人間国宝、桂米朝さんの座談も聞けるという事ででかけたわけです。
なんと重要文化財のなかで人間国宝を見れるというですね、まことにありがたいお話しなのでございます。
入ってみれば、実に気持ちの良い空間でありまして、ガラス戸の向こうにお庭が見えるんですが、そこにある楠(くすのき)が樹齢800年。通常は門がしまっていて、外からは見えない場所の大木だったので、感慨深いものがありました。
さて出演者と演題ですが、
●ときうどん 桂吉の丞
●禍は下から 桂すずめ
●替わり目 桂千朝
●ちしゃ医者 桂雀三郎
●座談 桂米朝
というラインアップだったわけですが、人間国宝、米朝師匠もおん歳82歳だそうで長い話はもう無理とおっしゃり、特別サービスに小話を2つやってくださってそれでおしまい。あとは直接の弟子である桂すずめと桂千朝がお相手をしながら座談会という形でありました。
大阪に住んでいながら、実は米朝師匠の落語を生では聞いたことがないというのを、今日改めて悔やんでしまったわけですが、それでも直接お顔を拝見できて、私的には大変満足したのでありました。
関東の方にはなじみがないかもしれないので、ちょいと説明しておきますと、米朝師匠には何人も弟子がおられまして、たとえば、昔のウィークエンダーのレポーターとして泉ピン子と並んでいた、桂朝丸、現在の桂ざこばさんとか、東京でも爆笑王として有名な故・桂枝雀(かつら・しじゃく)さんも、米朝さんのお弟子さんです。
また、10年に一度の天才と言われながらも若くしてお亡くなりになった桂吉朝(かつら・きっちょう)さんも米朝さんのお弟子さんです。(このあたりになると、関東の人には全然わからないと思いますが。)
将来を嘱望されていた、弟子二人が亡くなってしまって、米朝師匠はご健在という事で、なんとも言えず感じ入るところが多かったのですが、上記にある桂吉の丞が吉朝の弟子、桂雀三郎が枝雀の弟子でして、米朝さんからは孫弟子にあたる人です。
雀三郎さんは、焼き肉食い放題のヨーデルを唄って人気が出たり、ギターを弾いたりと器用でおもしろい落語家さん。師匠の枝雀さんの自由闊達な空気が育てた枝雀ファミリーの重要人物でございます。
孫弟子まで出て、その幅の広い人材に、ああ、やっぱり米朝一門がいて良かったなぁと、しみじみと思うのです。
というのは、東京だと鈴本演芸場だとか落語の定席の小屋がございますが、大阪には、ついこのあいだ天満の天神さんの横に天満天神繁昌亭が出来るまで、そういう落語を定期的にやる小屋というのがありませんで、地域寄席など地道な活動で笑いの伝承をやってきたのが米朝一門、という側面があるからなのです。
(他にもいろいろやっておられる方もおられますが。)
そういう地域・地元との密着の中の寄席っていうものの、なかなかに良い形が、この升の市・住吉寄席であるなぁと感じた次第です。
というのも、紹介が最後になりましたが、演者の中にある「桂すずめ」というのは、知る人は知っている、女優の三林京子さんなのですね。
関東の人で知ってる人は、ちょっと少ないかも知れませんが。
この三林京子さんというのは、もともと住吉大社のそば、粉浜の住人。まさに地域住民なのでございまして。
そういう方が出ているというところも楽しいところですが、しかし、「いつのまに三林京子は落語家になっとったんやー!!!」という事の方が、私的にはびっくりでございましたが。
なんか知りませんが、米朝師匠の最後の弟子なんやそうです。でも稽古はつけてもろてないっちゅう話で、なんやようわからんのですが、まぁ女優と落語家と二足のわらじで食っていけるからええやろ、となったようで。
この三林京子さんも、もともとは文楽(人形)の演者の娘さんで、米朝師匠とは子供の頃からのお知り合いだったそうです。
こういう歴史とかつながりが、そのまま残ってるのが、大阪文化の良いところかも知れません。
ともあれ、落語としての今日の目玉は、実は千朝さんの「替わり目」がいちばん良かった。雀三郎さんのちしゃ医者も、かなり、ダイナミックにうけておりましたし、「ニン」が話と合っていて実に良かったのですが、それでもやっぱり千朝さんの「替わり目」が、僕的には良かったかなぁ。
千朝さんは一時期、先に紹介した吉朝さんと並んで「正統派落語は千朝、おもしろ落語は吉朝が米朝の落語を継ぐ」と言われていたのだそうですが、経済的な理由から、落語家を廃業して、他の職業に就いておられたそうです。
しかし、その同門の才能ある落語家の廃業が吉朝さんを刺激して、発憤していろいろ頑張られた時期になるそうで、千朝さんが廃業している間に吉朝さんは正統派落語を身につけたわけです。
僕は残念ながら吉朝さんの落語は生で一回だけしか見てないのですが、亡くなる前年くらいで、もっとも円熟している時期。それはもう見事なものでした。
で、今日は廃業後、同門の人間から「あいつの才能は惜しい」と復活を遂げた千朝さんの落語を聞いたのですが、おどろくなかれ、まくらは夢路いとし喜味こいしの「物売りの声」のネタで、話の展開、くすぐりには、枝雀さんを彷彿とさせる爆笑路線があり、途中で瞬間、しんみりさせる小ネタをはさんで、定番のところで落とすという「おもしろ・本格落語」。なんちゅうか、こんどは「吉朝さんの分も取り戻すぞ」という感じを感じるのです。
こうして文化というのは伝承されるのだなぁと、つくづく思うのです。
そんなこんながあって、感慨深く、玉砂利の上を歩いて住吉大社を後にし、帰り道では、地元で古くから続く洋食屋「やろく」で食事をして帰った、今日この頃なのでございます。
最近mixiは画面デザインが変って、ものすごく見にくくなったので、よそに移ろうかなぁとか思ってます。個人的な知り合いとかたくさん呼んでしまってるから、移るとなるとみなさんに声かけをしないといけないのが面倒。ほんとにあのデザインは嫌なんよなぁ。うーん。困った。
ともあれ、転載です。
---------------------
えー、私、大阪は住吉大社の近くに住んでおるわけですが、実は本日、その住吉大社で地元の振興会と米朝一門による落語会がありまして、見に行って参りました。
mixiには、全国の方がおられますので、ローカル情報をちょっと解説すると、毎年正月になると、神社の参拝人数の話が出てますが、そのトップニュースに良く取り上げられているのが住吉大社でありまして、けっこう有名で、由緒ある神社でもあります。
で、ここへ、母親孝行も兼ねまして、母親を呼んで出かけたわけですが、良かったのは会場であります。
住吉大社には「神館(しんかん)」と言う建物がございまして、これが有形重要文化財なんやそうでございます。(口調が落語っぽくなってきた。)
そういう建物の中で落語が聞けるというだけでもおもしろいのですが、これに加えて、なんとなんと、人間国宝、桂米朝さんの座談も聞けるという事ででかけたわけです。
なんと重要文化財のなかで人間国宝を見れるというですね、まことにありがたいお話しなのでございます。
入ってみれば、実に気持ちの良い空間でありまして、ガラス戸の向こうにお庭が見えるんですが、そこにある楠(くすのき)が樹齢800年。通常は門がしまっていて、外からは見えない場所の大木だったので、感慨深いものがありました。
さて出演者と演題ですが、
●ときうどん 桂吉の丞
●禍は下から 桂すずめ
●替わり目 桂千朝
●ちしゃ医者 桂雀三郎
●座談 桂米朝
というラインアップだったわけですが、人間国宝、米朝師匠もおん歳82歳だそうで長い話はもう無理とおっしゃり、特別サービスに小話を2つやってくださってそれでおしまい。あとは直接の弟子である桂すずめと桂千朝がお相手をしながら座談会という形でありました。
大阪に住んでいながら、実は米朝師匠の落語を生では聞いたことがないというのを、今日改めて悔やんでしまったわけですが、それでも直接お顔を拝見できて、私的には大変満足したのでありました。
関東の方にはなじみがないかもしれないので、ちょいと説明しておきますと、米朝師匠には何人も弟子がおられまして、たとえば、昔のウィークエンダーのレポーターとして泉ピン子と並んでいた、桂朝丸、現在の桂ざこばさんとか、東京でも爆笑王として有名な故・桂枝雀(かつら・しじゃく)さんも、米朝さんのお弟子さんです。
また、10年に一度の天才と言われながらも若くしてお亡くなりになった桂吉朝(かつら・きっちょう)さんも米朝さんのお弟子さんです。(このあたりになると、関東の人には全然わからないと思いますが。)
将来を嘱望されていた、弟子二人が亡くなってしまって、米朝師匠はご健在という事で、なんとも言えず感じ入るところが多かったのですが、上記にある桂吉の丞が吉朝の弟子、桂雀三郎が枝雀の弟子でして、米朝さんからは孫弟子にあたる人です。
雀三郎さんは、焼き肉食い放題のヨーデルを唄って人気が出たり、ギターを弾いたりと器用でおもしろい落語家さん。師匠の枝雀さんの自由闊達な空気が育てた枝雀ファミリーの重要人物でございます。
孫弟子まで出て、その幅の広い人材に、ああ、やっぱり米朝一門がいて良かったなぁと、しみじみと思うのです。
というのは、東京だと鈴本演芸場だとか落語の定席の小屋がございますが、大阪には、ついこのあいだ天満の天神さんの横に天満天神繁昌亭が出来るまで、そういう落語を定期的にやる小屋というのがありませんで、地域寄席など地道な活動で笑いの伝承をやってきたのが米朝一門、という側面があるからなのです。
(他にもいろいろやっておられる方もおられますが。)
そういう地域・地元との密着の中の寄席っていうものの、なかなかに良い形が、この升の市・住吉寄席であるなぁと感じた次第です。
というのも、紹介が最後になりましたが、演者の中にある「桂すずめ」というのは、知る人は知っている、女優の三林京子さんなのですね。
関東の人で知ってる人は、ちょっと少ないかも知れませんが。
この三林京子さんというのは、もともと住吉大社のそば、粉浜の住人。まさに地域住民なのでございまして。
そういう方が出ているというところも楽しいところですが、しかし、「いつのまに三林京子は落語家になっとったんやー!!!」という事の方が、私的にはびっくりでございましたが。
なんか知りませんが、米朝師匠の最後の弟子なんやそうです。でも稽古はつけてもろてないっちゅう話で、なんやようわからんのですが、まぁ女優と落語家と二足のわらじで食っていけるからええやろ、となったようで。
この三林京子さんも、もともとは文楽(人形)の演者の娘さんで、米朝師匠とは子供の頃からのお知り合いだったそうです。
こういう歴史とかつながりが、そのまま残ってるのが、大阪文化の良いところかも知れません。
ともあれ、落語としての今日の目玉は、実は千朝さんの「替わり目」がいちばん良かった。雀三郎さんのちしゃ医者も、かなり、ダイナミックにうけておりましたし、「ニン」が話と合っていて実に良かったのですが、それでもやっぱり千朝さんの「替わり目」が、僕的には良かったかなぁ。
千朝さんは一時期、先に紹介した吉朝さんと並んで「正統派落語は千朝、おもしろ落語は吉朝が米朝の落語を継ぐ」と言われていたのだそうですが、経済的な理由から、落語家を廃業して、他の職業に就いておられたそうです。
しかし、その同門の才能ある落語家の廃業が吉朝さんを刺激して、発憤していろいろ頑張られた時期になるそうで、千朝さんが廃業している間に吉朝さんは正統派落語を身につけたわけです。
僕は残念ながら吉朝さんの落語は生で一回だけしか見てないのですが、亡くなる前年くらいで、もっとも円熟している時期。それはもう見事なものでした。
で、今日は廃業後、同門の人間から「あいつの才能は惜しい」と復活を遂げた千朝さんの落語を聞いたのですが、おどろくなかれ、まくらは夢路いとし喜味こいしの「物売りの声」のネタで、話の展開、くすぐりには、枝雀さんを彷彿とさせる爆笑路線があり、途中で瞬間、しんみりさせる小ネタをはさんで、定番のところで落とすという「おもしろ・本格落語」。なんちゅうか、こんどは「吉朝さんの分も取り戻すぞ」という感じを感じるのです。
こうして文化というのは伝承されるのだなぁと、つくづく思うのです。
そんなこんながあって、感慨深く、玉砂利の上を歩いて住吉大社を後にし、帰り道では、地元で古くから続く洋食屋「やろく」で食事をして帰った、今日この頃なのでございます。
うーん、ファンタスティック!
2007年10月1日
昨日、mixiに書いたんですが、なんとなくこっちにも転載しときたくなったので。画像は一作目のF4「超能力ユニット」ですが、内容的には二作目の「銀河の危機」のレビューです…って一作目の評価もしてるけどね。ジェシカ・アルバが好きなんよなぁ。多分。
ちゅうことで転載。
------------------
今日は、来週がちょっと忙しくなりそうだったので、見ておかないと、そのまま見損ねてしまうに違いないファンタスティック4の映画版第二作「銀河の危機」を見て参りました。
えー、知らない人は全く知らないと思うのですが、これはアメリカンコミックスが原作です。マーベルという出版社のマンガで、スパイダーマンと同じ出版社ですね。
ま、説明しだすとキリがないので、その程度にしておきますが、スパイダーマンは好きだけど、ファンタスティック4はあんまりよく知らない僕としては、前作を「見たいなぁ」と思いつつ、劇場公開時に見逃してしまったんですよ。
で、ずっと見たいなぁと思ってたらDVDがけっこうお安い値段ででていたので「まぁいいか」と買って見たわけです。
そしたら、これが思ってたより大当たりで。
いや、内容は軽いし、物語なんてないに等しいんですよ。とくに前作のファンタスティックフォーは。
パッケージを見たら上映時間が105分とかになってて、「1時間45分? えらいコンパクトにまとめたね。」とか思ってたわけです。
で、前作では上映時間が短い割に、4人の超人が誕生するまでが、やたらとゆっくりと描かれるわけですよ。ていねいに。それもかなり原作に沿って。
「おおお、おい、大丈夫か? これで後半まで行けるか?」とか思うんだけど、ドラマとしては面白いわけです。
で、いざ4人の超人が誕生したら、こんどは、4人それぞれの特徴、●消える●燃える●伸びる●固いという特性をネタにした小さなエピソードがどんどこ続いて、いっこうに大きなストーリーが進まないんですな。
でも、それぞれ個々のエピソードがコミカルでユーモラスで楽しくて、全然飽きないわけです。で、何より、キチンと個々の「人間」が描かれてたんですね。
で、後半の盛り上がりは、一気に大爆発って感じで、あっという間に終わってしまったんですが、いやなに、それはそれでかなり楽しくて「おもろかったやん、これ」って印象だったんですよ。
やっぱりユーモア=ヒューモアで、人間性って事なんでしょうね。そういうところで楽しめたって思う。
なので、この続編も多少は期待してたんですよ。
期待はしてたんですがね。
●ファンタスティック・フォー「銀河の危機」公式サイト
http://movies.foxjapan.com/f4_2/index.html
ここで紹介している、予告ポスターを見て、僕的には、すごく不安になったのです。
だってあなた、シルバーサーファーですよ、これ。
ご存じない方にはわからないでしょうが、これまたマーベルコミックスでは大人気のキャラクターなわけです。
詳しいストーリーを知ってる訳ではないけれど、そんな大ネタをやるとなると、これは大変な事になるよって思ったわけで。
もう説明しませんけど、シルバーサーファーといえば、ギャラクタスの使いとして地球にやってきたっていう、そういう話で、ギャラクタスが出るって事は大宇宙叙事詩とか、とんでもないお話しになっちゃうわけですよ。
そんなん、あり得へんわ! って思う。
どうすんのよ。ギャラクタスも出すの? どうなの?
(このあたりわからない人にはさっぱりわからない話でしょうが、そういうものだと思って受け流してくださいませ。)
もうね、それだけでも気になって「どうすんねん、実写映画として成立するんか? そんなもん?」とやきもきしてたわけですよ。
ただ、CGで描かれたシルバーサーファーがやたらと良くて、それだけに、ウーンと唸らざるを得ないわけです。
「このシルバーサーファーはええよなぁ。うーん。」って思ってた。
で、映画の情報がオープンになってくると、なんと前作での宿敵だったドクター・ドゥームまでまた出てくるって言うわけですよ。
おいおいおい、そんなに詰め込んで大丈夫かよと。
どう考えても破綻するぞ、ストーリーが。
って思って、予告編を見ると、いちおう地球が破滅するという危機がやってくるというお話しなので、世界中が舞台になってるわけですわ。
「うわー、そこまで話広げるんかよ! よけいにやばいがな。」
ちゅう話でしてね。
しかも、予告編を見ると、そのごった煮の中に、主人公であるゴム人間と透明女の結婚話も入ってるみたいだし、透明女の弟である火の玉ボーイの恋愛も匂わせるシーンがあったりするわけよ。
あかん。
これはあかん。
絶対パンクする。
破裂する。
まとまるわけがない。
無理。
ダメ。
ファンタスティックフォーも終わった。
と思ってたわけです。
やばいよなぁ、いくら売らんかなでも、それだけ宣伝要素を詰め込んだら無理が来るって!と思ってたんです。
でも、それでもシルバーサーファーは見たい。CGのシルバーサーファーはイカす! という事でチケットのネット予約をしようと、上映時間を見たら…。
また105分(くらい)かよ!!!!
って事なんですな。
何それ。
どうよ、それ。
これだけ詰め込んで、105分?
大丈夫?
いや、無理やろ、それ。
アカンって。
やめとけって。
でけへんって。
無茶や。
と言う気持ちで、もう破綻した、どうしようもない、切り貼り映画でも、まぁええわ! 見たろやないか! と、やけくそで見に行ったんですよ。今回。
で。
感想。
いやー、よくまとまってる。軽くて、あっけらかんとしてて、ただ面白いだけという前作からの流れはそのままに、ちゃんと映画としてまとまってるし、これだけの無茶な内容を破綻もさせずに、見事に一本にまとめてるんですわ。
いやー、たいしたもんだ。
しかも、たとえば、軍とファンタスティック4との対立関係とかですね、そういう構図とかも描かれていたりするのです。そういう設定とかも面白いしね。小ネタにキレがある。
で、シルバーサーファーについて、あんまり詳しくなかったので、ちょいといろいろ調べてみたら、シルバーサーファー自体にけっこうバックストーリーとかもあって、それを上手に本編に応用・採用してるんですな。原作のけっこう裏ネタとかをうまく入れてる。
それだけでも感心するんですが、今回素晴らしいのは、ちゃんと家族愛とか、登場人物の成長とか、そういうのがキチンと描かれてるところなんですね。いやま、それも軽く、なんだけど。
でもって、もひとつ良いのが、前作にもあったユーモア精神というのが、キチンと引き継がれている事なのです。
お笑い要素がちゃんとある。
という事で、僕的には、かなり高評価なんですよねぇ、このファンタスティックフォーの続編、「銀河の危機」は。いやまぁ前作も面白かったんだけど。
こういう肩の力の抜けた軽い娯楽作って言うのが、大勢で見る「映画」という媒体には、一番適しているっていうのが僕の意識の中にはあって、そういう意味でも「良いなぁ、これ」って思うのですよ。
なんちゅうか、そういう意味でやたらと気に入ってしまった映画であります。
でもまぁ、100点満点で75点くらいかな。そんなに無茶苦茶に期待するような映画でもないのですよ。でも、だからこそ良いって部分もあるわけでして。
いやなかなか、面白かったです。
できたらDVDで前作を見てから見てください。
もちろん、前作を知らずに見てもほとんど何の問題もなく楽しめますけど。
いやー、100分程度でこの内容なら、僕は大満足だなぁ。映画館も上映時間が短いと、一日に何度も上映できるから利益が上がってお得なんですよね。そういう意味でも偉いよなぁ、この監督はって思う。
そういう映画です。おすすめ。
ちゅうことで転載。
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今日は、来週がちょっと忙しくなりそうだったので、見ておかないと、そのまま見損ねてしまうに違いないファンタスティック4の映画版第二作「銀河の危機」を見て参りました。
えー、知らない人は全く知らないと思うのですが、これはアメリカンコミックスが原作です。マーベルという出版社のマンガで、スパイダーマンと同じ出版社ですね。
ま、説明しだすとキリがないので、その程度にしておきますが、スパイダーマンは好きだけど、ファンタスティック4はあんまりよく知らない僕としては、前作を「見たいなぁ」と思いつつ、劇場公開時に見逃してしまったんですよ。
で、ずっと見たいなぁと思ってたらDVDがけっこうお安い値段ででていたので「まぁいいか」と買って見たわけです。
そしたら、これが思ってたより大当たりで。
いや、内容は軽いし、物語なんてないに等しいんですよ。とくに前作のファンタスティックフォーは。
パッケージを見たら上映時間が105分とかになってて、「1時間45分? えらいコンパクトにまとめたね。」とか思ってたわけです。
で、前作では上映時間が短い割に、4人の超人が誕生するまでが、やたらとゆっくりと描かれるわけですよ。ていねいに。それもかなり原作に沿って。
「おおお、おい、大丈夫か? これで後半まで行けるか?」とか思うんだけど、ドラマとしては面白いわけです。
で、いざ4人の超人が誕生したら、こんどは、4人それぞれの特徴、●消える●燃える●伸びる●固いという特性をネタにした小さなエピソードがどんどこ続いて、いっこうに大きなストーリーが進まないんですな。
でも、それぞれ個々のエピソードがコミカルでユーモラスで楽しくて、全然飽きないわけです。で、何より、キチンと個々の「人間」が描かれてたんですね。
で、後半の盛り上がりは、一気に大爆発って感じで、あっという間に終わってしまったんですが、いやなに、それはそれでかなり楽しくて「おもろかったやん、これ」って印象だったんですよ。
やっぱりユーモア=ヒューモアで、人間性って事なんでしょうね。そういうところで楽しめたって思う。
なので、この続編も多少は期待してたんですよ。
期待はしてたんですがね。
●ファンタスティック・フォー「銀河の危機」公式サイト
http://movies.foxjapan.com/f4_2/index.html
ここで紹介している、予告ポスターを見て、僕的には、すごく不安になったのです。
だってあなた、シルバーサーファーですよ、これ。
ご存じない方にはわからないでしょうが、これまたマーベルコミックスでは大人気のキャラクターなわけです。
詳しいストーリーを知ってる訳ではないけれど、そんな大ネタをやるとなると、これは大変な事になるよって思ったわけで。
もう説明しませんけど、シルバーサーファーといえば、ギャラクタスの使いとして地球にやってきたっていう、そういう話で、ギャラクタスが出るって事は大宇宙叙事詩とか、とんでもないお話しになっちゃうわけですよ。
そんなん、あり得へんわ! って思う。
どうすんのよ。ギャラクタスも出すの? どうなの?
(このあたりわからない人にはさっぱりわからない話でしょうが、そういうものだと思って受け流してくださいませ。)
もうね、それだけでも気になって「どうすんねん、実写映画として成立するんか? そんなもん?」とやきもきしてたわけですよ。
ただ、CGで描かれたシルバーサーファーがやたらと良くて、それだけに、ウーンと唸らざるを得ないわけです。
「このシルバーサーファーはええよなぁ。うーん。」って思ってた。
で、映画の情報がオープンになってくると、なんと前作での宿敵だったドクター・ドゥームまでまた出てくるって言うわけですよ。
おいおいおい、そんなに詰め込んで大丈夫かよと。
どう考えても破綻するぞ、ストーリーが。
って思って、予告編を見ると、いちおう地球が破滅するという危機がやってくるというお話しなので、世界中が舞台になってるわけですわ。
「うわー、そこまで話広げるんかよ! よけいにやばいがな。」
ちゅう話でしてね。
しかも、予告編を見ると、そのごった煮の中に、主人公であるゴム人間と透明女の結婚話も入ってるみたいだし、透明女の弟である火の玉ボーイの恋愛も匂わせるシーンがあったりするわけよ。
あかん。
これはあかん。
絶対パンクする。
破裂する。
まとまるわけがない。
無理。
ダメ。
ファンタスティックフォーも終わった。
と思ってたわけです。
やばいよなぁ、いくら売らんかなでも、それだけ宣伝要素を詰め込んだら無理が来るって!と思ってたんです。
でも、それでもシルバーサーファーは見たい。CGのシルバーサーファーはイカす! という事でチケットのネット予約をしようと、上映時間を見たら…。
また105分(くらい)かよ!!!!
って事なんですな。
何それ。
どうよ、それ。
これだけ詰め込んで、105分?
大丈夫?
いや、無理やろ、それ。
アカンって。
やめとけって。
でけへんって。
無茶や。
と言う気持ちで、もう破綻した、どうしようもない、切り貼り映画でも、まぁええわ! 見たろやないか! と、やけくそで見に行ったんですよ。今回。
で。
感想。
いやー、よくまとまってる。軽くて、あっけらかんとしてて、ただ面白いだけという前作からの流れはそのままに、ちゃんと映画としてまとまってるし、これだけの無茶な内容を破綻もさせずに、見事に一本にまとめてるんですわ。
いやー、たいしたもんだ。
しかも、たとえば、軍とファンタスティック4との対立関係とかですね、そういう構図とかも描かれていたりするのです。そういう設定とかも面白いしね。小ネタにキレがある。
で、シルバーサーファーについて、あんまり詳しくなかったので、ちょいといろいろ調べてみたら、シルバーサーファー自体にけっこうバックストーリーとかもあって、それを上手に本編に応用・採用してるんですな。原作のけっこう裏ネタとかをうまく入れてる。
それだけでも感心するんですが、今回素晴らしいのは、ちゃんと家族愛とか、登場人物の成長とか、そういうのがキチンと描かれてるところなんですね。いやま、それも軽く、なんだけど。
でもって、もひとつ良いのが、前作にもあったユーモア精神というのが、キチンと引き継がれている事なのです。
お笑い要素がちゃんとある。
という事で、僕的には、かなり高評価なんですよねぇ、このファンタスティックフォーの続編、「銀河の危機」は。いやまぁ前作も面白かったんだけど。
こういう肩の力の抜けた軽い娯楽作って言うのが、大勢で見る「映画」という媒体には、一番適しているっていうのが僕の意識の中にはあって、そういう意味でも「良いなぁ、これ」って思うのですよ。
なんちゅうか、そういう意味でやたらと気に入ってしまった映画であります。
でもまぁ、100点満点で75点くらいかな。そんなに無茶苦茶に期待するような映画でもないのですよ。でも、だからこそ良いって部分もあるわけでして。
いやなかなか、面白かったです。
できたらDVDで前作を見てから見てください。
もちろん、前作を知らずに見てもほとんど何の問題もなく楽しめますけど。
いやー、100分程度でこの内容なら、僕は大満足だなぁ。映画館も上映時間が短いと、一日に何度も上映できるから利益が上がってお得なんですよね。そういう意味でも偉いよなぁ、この監督はって思う。
そういう映画です。おすすめ。
複合プリンタとPDF
2007年9月29日あんまり、この日記で書くネタでもないんですが、急に書きたくなったので、ちょっと書きます。
3年ほど前から、複合プリンタというのが人気でして。プリンタとスキャナが一体化していて、FAXとしてもコピー機としても使える、というものですが。
この複合機を最初に力を入れて売り出したのがHP(ヒューレットパッカード)で、私は、プリンタに関してはHPのファンなのであります。
まぁ、このあたりは関係ない話ですが。
で、最近の複合機というのは、スキャナを使って、ボタン一発でPDFファイルをつくるという機能がついておりまして。
これがけっこう好きでよく使っております。
仕事が広告関係なもので、サムネイルと言って、手書きでパンフレットの下書きのレイアウト案なんかを考えて送信することが多いのですが、これをもうずっとファックスでやりとりしてたわけです。
でも、この複合機を買ってからは、もう全部PDF。手書きで書いたA4用紙を読み込ませると、PDFファイルとしてパソコンに取り込めるので、それをメールに添付して送るだけであります。
なんかねぇ、これがやたらと快適なんですね。手書きで書いたサムネイルをスキャンするわけですが、FAXと違って、スキャンしたデータはパソコンに残ります。なので、自分の書いたものが全部残っている。いつでも一覧できる。なかなかにありがたいのであります。
自分の書いたものがまとまって保存されてると、なかなか気分がよろしい。仕事してるよなぁとか思えるし。(笑)
で、このPDFファイル送信というのが、やたらと気に入ってしまったので、最近では、パワーポイントで書いた企画書とかでも、できるだけPDFファイルで送るようにしてるのであります。
PDFに関してはソースネクストの「いきなりPDF」を使ってますが、こういうソフトがあると便利ですな。ほんとに。
パワーポイントのファイルをそのまま送るのではなくて、なんでPDFにするかというと、ひとつにはサイズが小さくなるからです。パワーポイントだと、何も考えずに貼り付けた大きなサイズの写真とかは大きいサイズのままファイルに張り付いてますからね。大した内容でもないのにファイルサイズだけがやたらと大きいってことになる。
PDFにすると、そのあたりは自動的に圧縮したサイズのデータにしてくれるみたいでありがたいのであります。
また、レイアウトが崩れるって事も少ない。WINDOWS同志なら問題ないんですが、相手がMacだったりするとフォントの違いでレイアウトが崩れるんですね。それがPDFだと比較的マシなんです。
ちゅうことで、最近はもう、なんでもPDFだよなぁって思います。レイアウトを含む情報をHTMLメールでとか考えたこともあったけど、それもいまや考えないですな。メールにPDF添付。これが一番。WORDとかのファイルをそのまま貼り付けるとマクロウィルスの心配もありますからな。そういう心理的負担もPDFならないし。
スキャナのついた複合機があると、意外とパソコンの使い方が変るよなぁって思うのですよ。
複合機を買うと名刺整理ソフトってのがついてくるんですが、これも意外に使えるのでビックリしたもののひとつ。
「文字を自動でテキストにするのなんて、精度が低かったら役に立たないよ」って思ってたんですが、なんのなんの、スキャンして名刺そのものの画像データごと保管するから、文字認識はどっちでも良いわけです。画面で見れば読めるし。
スキャナのガラス面に名刺を8枚とか並べて一気にスキャンすれば、それぞれを別々の画像として自動認識してくれるので、これも思ってたより簡単だったところ。だいたい月に一度くらい1スキャンすれば、名刺は全部デジタル化できますなぁ。なかなか面白いです。
スキャナの可能性は他にもあって、感心したのは、得意先のある中企業の担当の女性。パワーポイントと、スキャナを完全にファイルバインダーとして使ってるんですね。
打合せでノートにメモした、手書きのイラストとキーワードの落書きを、そのままスキャナで取り込んで、パワーポイントに貼り付けて、その他の関連資料と一緒にまとめてたりするわけです。
もうね、粗々もいいところで、説明されなきゃなんのことかわからない落書きなんですけど、それでだいたいのイメージはつかめるしね。賢い使い方だなぁと思って、僕もけっこう真似しております。やっぱり子供を持っていて企業で働く女性って頭ひねって効率化を考えてるんだなぁってつくづく思うのですよ。すげぇな。ほんとに。
僕は、それを真似て手書きのメモをスキャンして、画像編集ソフトでキーワードをコピーペーストしてパワポに貼り付け、KJ法的に使うというのをやってます。
自分のホームページを作るのに、アイディアを仕事の合間に手帳やらノートやらコピー用紙やらにメモしてたんですけど、いざそれをまとめるとなると、書き写すのが手間でね。で、スキャンしてパワポでまとめたというような次第。
スキャナも使える複合機を買うなら、ADF(オートドキュメントフィーダー)のついたものにしたいものですが、最近はADF付きの機種でも2万円台とかあるんよなぁ。
あ、いまHPのサイト見に行ったら17850円とかあった。くっそー。私が買った時は、ADF付きでこんな安い機種はなかったぞ!4万円くらいしたはずなのに。
でもやっぱりADFは必須です。複数枚読み込めないと何かと不便だし。
ともかくプリンタ複合機は面白いですよ。
ブラザーのMyMio(マイミーオ)も面白いですな。あれもちゃんとADF付きだし。
プリンタと言えば、エプソンとキヤノンが二大メーカーなんでしょうけど、正直言ってどっちの製品もおもしろくもなんともない。年賀状印刷の事と、写真プリントの事しか考えてないもんなぁ。
僕は年賀状を出さない人だし、写真プリントは写真屋さんで頼んだ方が早くて安くて仕上がりも良いと思うから、ホームプリントで年賀状とか写真プリントなんてどうでもいいんだけどなぁって思う。
(ホームプリンタで写真を出すと、画像ソフトでの調整からはじまってプリントまでの手間の時間がすごくかかって、しかもインク代を考えると別にホームプリンタの方が安いというわけでもない。で、写真プリントでインク切れになって、肝心の書類のプリントができなくなったら困るじゃん!写真プリントってインクがバカみたいに減るし。そのくせ、ホームプリンタは水に弱くて色あせもしやすい。お店プリントなら値段も変らず銀塩プリントで長持ちする。どう考えても自宅プリントにメリットなんかこれっぽっちもない。なのに、なんでエプソンもキャノンも、そういう宣伝ばっかりするかなぁって思うのだ。まぁエッチな写真のプリントを自宅でこっそりしたいって人が少なからずいてるから、そこが本当のニーズなのかもしれんけど。)
そういう事を考えるとADFみたいな実用性のある機能を標準でつけてるブラザー、HPは良いなぁって思うのですよ。さすがに最近はエプソンも複合機がメインの商品になってきてるけど、それでもADFはまだつけてない。
まぁ、一般人を狙って、数多く売るなら、やっぱり年賀状と写真プリントなんでしょうね。やれやれ。ほんとはもっといろいろ便利なのに。
ちゅうことで、これはデジタルとアナログをいかに融合するべきか、という、よそのブログに書くべき内容だったなぁと思いつつ、とりあえずアップしておきませう。
3年ほど前から、複合プリンタというのが人気でして。プリンタとスキャナが一体化していて、FAXとしてもコピー機としても使える、というものですが。
この複合機を最初に力を入れて売り出したのがHP(ヒューレットパッカード)で、私は、プリンタに関してはHPのファンなのであります。
まぁ、このあたりは関係ない話ですが。
で、最近の複合機というのは、スキャナを使って、ボタン一発でPDFファイルをつくるという機能がついておりまして。
これがけっこう好きでよく使っております。
仕事が広告関係なもので、サムネイルと言って、手書きでパンフレットの下書きのレイアウト案なんかを考えて送信することが多いのですが、これをもうずっとファックスでやりとりしてたわけです。
でも、この複合機を買ってからは、もう全部PDF。手書きで書いたA4用紙を読み込ませると、PDFファイルとしてパソコンに取り込めるので、それをメールに添付して送るだけであります。
なんかねぇ、これがやたらと快適なんですね。手書きで書いたサムネイルをスキャンするわけですが、FAXと違って、スキャンしたデータはパソコンに残ります。なので、自分の書いたものが全部残っている。いつでも一覧できる。なかなかにありがたいのであります。
自分の書いたものがまとまって保存されてると、なかなか気分がよろしい。仕事してるよなぁとか思えるし。(笑)
で、このPDFファイル送信というのが、やたらと気に入ってしまったので、最近では、パワーポイントで書いた企画書とかでも、できるだけPDFファイルで送るようにしてるのであります。
PDFに関してはソースネクストの「いきなりPDF」を使ってますが、こういうソフトがあると便利ですな。ほんとに。
パワーポイントのファイルをそのまま送るのではなくて、なんでPDFにするかというと、ひとつにはサイズが小さくなるからです。パワーポイントだと、何も考えずに貼り付けた大きなサイズの写真とかは大きいサイズのままファイルに張り付いてますからね。大した内容でもないのにファイルサイズだけがやたらと大きいってことになる。
PDFにすると、そのあたりは自動的に圧縮したサイズのデータにしてくれるみたいでありがたいのであります。
また、レイアウトが崩れるって事も少ない。WINDOWS同志なら問題ないんですが、相手がMacだったりするとフォントの違いでレイアウトが崩れるんですね。それがPDFだと比較的マシなんです。
ちゅうことで、最近はもう、なんでもPDFだよなぁって思います。レイアウトを含む情報をHTMLメールでとか考えたこともあったけど、それもいまや考えないですな。メールにPDF添付。これが一番。WORDとかのファイルをそのまま貼り付けるとマクロウィルスの心配もありますからな。そういう心理的負担もPDFならないし。
スキャナのついた複合機があると、意外とパソコンの使い方が変るよなぁって思うのですよ。
複合機を買うと名刺整理ソフトってのがついてくるんですが、これも意外に使えるのでビックリしたもののひとつ。
「文字を自動でテキストにするのなんて、精度が低かったら役に立たないよ」って思ってたんですが、なんのなんの、スキャンして名刺そのものの画像データごと保管するから、文字認識はどっちでも良いわけです。画面で見れば読めるし。
スキャナのガラス面に名刺を8枚とか並べて一気にスキャンすれば、それぞれを別々の画像として自動認識してくれるので、これも思ってたより簡単だったところ。だいたい月に一度くらい1スキャンすれば、名刺は全部デジタル化できますなぁ。なかなか面白いです。
スキャナの可能性は他にもあって、感心したのは、得意先のある中企業の担当の女性。パワーポイントと、スキャナを完全にファイルバインダーとして使ってるんですね。
打合せでノートにメモした、手書きのイラストとキーワードの落書きを、そのままスキャナで取り込んで、パワーポイントに貼り付けて、その他の関連資料と一緒にまとめてたりするわけです。
もうね、粗々もいいところで、説明されなきゃなんのことかわからない落書きなんですけど、それでだいたいのイメージはつかめるしね。賢い使い方だなぁと思って、僕もけっこう真似しております。やっぱり子供を持っていて企業で働く女性って頭ひねって効率化を考えてるんだなぁってつくづく思うのですよ。すげぇな。ほんとに。
僕は、それを真似て手書きのメモをスキャンして、画像編集ソフトでキーワードをコピーペーストしてパワポに貼り付け、KJ法的に使うというのをやってます。
自分のホームページを作るのに、アイディアを仕事の合間に手帳やらノートやらコピー用紙やらにメモしてたんですけど、いざそれをまとめるとなると、書き写すのが手間でね。で、スキャンしてパワポでまとめたというような次第。
スキャナも使える複合機を買うなら、ADF(オートドキュメントフィーダー)のついたものにしたいものですが、最近はADF付きの機種でも2万円台とかあるんよなぁ。
あ、いまHPのサイト見に行ったら17850円とかあった。くっそー。私が買った時は、ADF付きでこんな安い機種はなかったぞ!4万円くらいしたはずなのに。
でもやっぱりADFは必須です。複数枚読み込めないと何かと不便だし。
ともかくプリンタ複合機は面白いですよ。
ブラザーのMyMio(マイミーオ)も面白いですな。あれもちゃんとADF付きだし。
プリンタと言えば、エプソンとキヤノンが二大メーカーなんでしょうけど、正直言ってどっちの製品もおもしろくもなんともない。年賀状印刷の事と、写真プリントの事しか考えてないもんなぁ。
僕は年賀状を出さない人だし、写真プリントは写真屋さんで頼んだ方が早くて安くて仕上がりも良いと思うから、ホームプリントで年賀状とか写真プリントなんてどうでもいいんだけどなぁって思う。
(ホームプリンタで写真を出すと、画像ソフトでの調整からはじまってプリントまでの手間の時間がすごくかかって、しかもインク代を考えると別にホームプリンタの方が安いというわけでもない。で、写真プリントでインク切れになって、肝心の書類のプリントができなくなったら困るじゃん!写真プリントってインクがバカみたいに減るし。そのくせ、ホームプリンタは水に弱くて色あせもしやすい。お店プリントなら値段も変らず銀塩プリントで長持ちする。どう考えても自宅プリントにメリットなんかこれっぽっちもない。なのに、なんでエプソンもキャノンも、そういう宣伝ばっかりするかなぁって思うのだ。まぁエッチな写真のプリントを自宅でこっそりしたいって人が少なからずいてるから、そこが本当のニーズなのかもしれんけど。)
そういう事を考えるとADFみたいな実用性のある機能を標準でつけてるブラザー、HPは良いなぁって思うのですよ。さすがに最近はエプソンも複合機がメインの商品になってきてるけど、それでもADFはまだつけてない。
まぁ、一般人を狙って、数多く売るなら、やっぱり年賀状と写真プリントなんでしょうね。やれやれ。ほんとはもっといろいろ便利なのに。
ちゅうことで、これはデジタルとアナログをいかに融合するべきか、という、よそのブログに書くべき内容だったなぁと思いつつ、とりあえずアップしておきませう。
おおまかな理解、ということ。
2007年9月18日最近、良く思うのは、「おおまかな理解」ということの大切さです。
インターネットの時代になって、こまかな、ヲタク的な、知識の羅列的な情報ばかりが、やたらと取り上げられることが多いのですが、そういう事は枝葉末節だろうと思うのです。
大事なことは「大づかみに全体を把握する事」だと思うのです。
細部だけを追いかけていくと、具体性だけを追いかけすぎて、個別事項が矛盾している事にすら気付かなくなったりしますが、全体性を意識しながら、物事を大づかみに捉えていくと、世の中の大きな流れがざっくりと見えてきて、物事への対処もキチンとできるし、予測や予想も外れることが少なくて、安心感が出てきます。
これはたとえば政治のようなきな臭い世界の話でもそうだし、男女の恋愛なんかに関しても同じだと思うのです。
たとえば、わかりやすく恋愛を例に出すなら、付き合ってる女の子の身長や体重、好みなどなど、個別の情報も大切だけど、その人がおかれている環境、たとえば地域社会の状況だとか、職業上の社会的変化、環境などを大づかみに知っておく方が相手も安心してくれます。
また、もっと大きく、「平均値としては男性の方が背が高く、女性の方が背が低い」「男性は道案内に東西南北や道路名などの抽象概念を使うのを好むが、女性はビジュアルで看板などを頼りに案内する」というような男女差みたいな事も、大づかみに把握しておいた方が、行き違いが少なくなるというものです。
でも、このあたりの「大づかみが大切なんだよ」という話をすると、たとえば男より背の高い女性が「そんな一般論に意味はない!」とか怒ったりするわけですけど、それはちょっと違うよなぁって思うのですね。男女の背の高さの平均値の違いを知っていればこそ、女性で背が高くてそれを気にするという事がどういうことなのかを、より良く思い至れるわけです。
これを単に、男性が自分と同じくらいか少し高いくらいの背の高さの「男性」をイメージして理解しようとしても、上っ面の理解にしかならないわけです。平均値が低い中で高いからこそ、精神的に大変なわけですから。でしょ?
同じ事は、「世界の中の日本」という事に関しても言えます。
世界の中の日本と言うことを考えるのなら、まず大づかみに「世界の常識」を先に知っておく必要があるわけです。
日本の中の事だけ見ていても世界はわからない。まず、世界全体で見たときに、いろいろな出来事やテーマがどういうところに平均値が求められているのか? というのを、それなりに知っておく必要があります。
これはもう、自分の国の中に答えはないのだから、学習するしかないんですね。僕も勉強不足だし、手探りでコツコツと蓄積していくしかないので、時間もかかるから、本当の「世界の常識」というものとは、けっこうズレがあるかも知れないわけですが、それでもちょっとずつでも知っておいた方が良いわけです。
で、これも、こういう事を言うと「外国かぶれ」であるかのように言う人がいたりするわけですが、その見方自体がすでに日本の内側しか「見ようとしない」、おかしなモノの見方だと思うのですよね。
大事なことは「平均身長の低い女性という性の側にいながら、背が高いという個性を持った人の特殊性の理解」であるのと同じように、日本という国の良さや悪さや特殊性と誇るべき部分というのを、冷静に、正確に「測定」するために「大づかみ」が大切だ、って事なんです。
逆に言えば「外国かぶれだ」とか言うような人は、世界を知りたくないだけなんですね。現実を知ろうとしてないだけ。それはおかしいと思うんだけどなぁ。
たとえば、これも何度も例に出しますけど、親子の共依存とかもそうです。個別の親子関係とかの細目は、まぁ難しいから突っ込まないにしても、概略、大づかみに、世の中を知るモノサシとして、「アダルトチルドレン」という考え方、計算尺のようなものがあるので、それを実用的に利用する、使うと捉えれば良いと思うのです。まず大づかみに世の中を把握するってことですね。
で、その中で、自分の状況がどのくらいの偏差値であるのかを知っていく。それで、物事は自然と修復されます。
(でも、気付きたくない人は、このモノサシがあるという事自体を拒否しますからねぇ。本当に困った事です。この6月2日の日記「感じ方は自由なのか」http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書きましたが、国語のテストで、テストの設問が間違ってる!と言ってるアホな男のようなものです。なんでああいうアホな発言をしてしまうんでしょうか? そんなに自分の「偏差」を知るのは怖い事なのかなぁ? 怖がるからどんどん偏差値が下がってしまうんだと言うのに。)
自分の偏差値さえちゃんと直視できれば、とりあえずは対処の方法は見えるのです。偏差値がある、モノサシがある、ということは、とても安心できることで、そのモノサシを頼りに自分育てをしていけるという事でもあるのです。
だから、まずザックリと、物事の全体像を知るという事が、とてもとてもとてもとてもとてもとても大事なのです。
それは前から書いている、「幸福な人は一様に同じだが、不幸な人は個別に個性的である」という事と重なります。
まず全体概要を知るという事が、ものすごく大事なんですね。
本を一冊読むなら、まず目次にざっと目を通すかどうか、というような事です。それをしているかどうかで、読み方だって全然変ります。
法律やら思想やら、あるいは日常の幸せ感、ということにしても、実は本当は「大づかみ」から入っていく方がよくわかるし、安心感があるのですね。
たとえば日本の法律は、黒船がやって来たときに、西洋風の法体系がないと、不平等輸出入をされるっていうので、無理矢理フランスかどこかの法典を日本語に翻訳して移植したというとんでもないものだったりするわけです。
これも「法学」という大づかみな考え方から言えば、こんなおかしな事はないわけですよ。なんでかというと、普通、法律というのは慣習法でして、日常慣習になっているならわしを明文化して、定着させたものが法律になってきているわけですから。
だから普通、西洋では法というのは基本的には日常生活の常識とか、お作法のたぐいの集大成的なものになっているわけです。
でも、日本は明治維新の時に、そういう「慣習」を、外国から移植しちゃったわけです。
そら、なかなか理解できませんわな? 実感できないのが当たり前です。だから日本では「法」というのは、単なる「お題目」のように感じられていたりするわけです。
しかし、実際には、法律ひとつとっても、ヨーロッパの歴史(市民社会というものが生まれ、資本主義が生まれてきた経緯というような意味での歴史ね。)を背景にして、ひとつずつ積み重ねてきた結果なわけですから、日本人にはよくわからない。
でも逆に言うなら、そういう歴史背景を知った上で、日本の法体系とかを考えれば「ああそうか、そう言うことなのか」というのがわかって、とても安心感を得ることができるわけです。
だから、たとえば「歴史」というのも大づかみのための良いモノサシ、道具ですわね。そういうものを、まず知るという事が日常生活での不満や不安を解消するのに、すごく役立つわけです。
ちょっとしたもめ事に、すぐ「警察に言うぞ」とか、幼稚園児みたいな事を言う人がいたりするけれど、警察は民事不介入だから、そんな事には関わらないんよ、とか、そういう当たり前の事がわかってれば「警察は役に立たない!」とか見当はずれな事は考えなくても済む。
そんなどうでもいいことで腹を立ててもしょうがないじゃろって事なんですが、まぁ、このあたりはなかなかわからないみたいですねぇ。
最近わかって来たのは、結局枝葉末節にこだわるというのは、要するに「大づかみ」をしていない、自分の偏差値をみたくない、知りたくないからなんでしょうね。
そんなに怖いかなぁ、自分の偏差値を知るって事が。
英語のTOEICなんかも同じですね。あれは偏差値を知るために行くテストで、何回でも受けて自分の偏差値を知って、それで学習の糧にするためには、けっこう正確で便利なものです。資格試験みたいに合格・不合格ではないから、とても便利だなと思います。
まだ400点くらいなので、偉そうな事は言えませんが、でも、この偏差から伸ばしていけば良いというだけで、ありのままの自分を直視するには、とても便利な道具です。
自分勝手な思い上がりを打ち砕かれるのが怖いんでしょうけど、そういう種類の思いこみは、実用上役に立たないし、逆に自分を不幸にさせるだけなのだから、打ち砕いた方が良い事なんですね。
自分の知らないところに正しい「幸せになる方法」があって、それを自分が知らなかった、とか、そういう事は、受け入れがたいかも知れないけれど、受け入れた方が、そりゃ幸せなんですよ。
ちゃんと知りさえすれば「そういう方法は使わない」とか「なるほどエッセンスはわかった。だから自分なりにアレンジする」とか、そういうのは自由だし。なにもそのまま従う必要もありません。女性の平均身長がわかったからと言って、背の高い女性の背が低くなるわけでもないし。ただ、状況を正確に把握して、よりよい対処方法を考える事ができるというだけの事です。
というか、ムダな考えをしなくなるって事が一番重要かな? 依存症って、ようするに、ありのままの自分を知るのが怖くて、枝葉末節の方ばかりを見よう、見ようとするって事だから。
そういう意味では、最近の安倍ちゃんのトートツ辞任も、大づかみに考えれば「アメリカの犬だった小泉政治には、すでに国民が疲れていて、結局はそういうやり方に批判的な福田はんが大勢の合意を得やすい」って事の「枝葉末節」にしかすぎないわけで。
このあたり、政治評論家の森田実さんあたりが、一年半とか二年ほど前から「小泉の次は福田でまとまる」と言っておられたのが、そのままの姿で現れてるわけです。ネットの枝葉末節にこだわる事しか出来ないこざかしい連中が「小泉の次は安倍じゃん!また森田が外した。逆張り評論家だね。」とか言ってたのがひどく腹立たしかったのですが、まぁ、そういう事です。
5年とか10年とか、長期の展望に立って、大づかみに物事を見るとかが出来ない人が、表層的にごちゃごちゃ言うだけなんだなぁって事ですね。
大づかみの知識や、大きく物事を考える事のできない人は、最終的に、大きなところで世の中に裏切られて、それでいつもイライラしていなければならなくなります。
それはあまりに、非建設的です。
まず大づかみに全体像を把握する。世の中全体とか、地球全体とかですね。そういう見方を心がけるだけで、平常心とかは全然変ってきますからね。心の安心感と平穏さを得る事ができる。そこはとても大切だと思います。
-------------
しかし、なんですな、安倍ちゃん、辞任したのが9月12日で、911の次の日だったってあたりが、すごく意味深ですなぁ。
なんかアメリカのものすごくエライ人が「お前、911のこの日になっても、まだ特措法延長に決着ついてないんかい!やめてまえ!」と怒鳴られたという感じがするのは、勝手な妄想でしょうか。
小泉君はアメリカの手先そのものを演じきった人ですが、安倍ちゃんは愛国派なので(でもおぼっちゃんで腰は全然据わってないし、屁のつっぱりにもならんのやけど。)それ故にアメリカからは「あやしい奴」と睨まれてたらしいのですよ。カルトオブヤスクニとか言われて。
小泉のヤローは、愛国心そのものがなかったので、平気で日本をアメリカに売り渡せたわけですが、そういう悪人にすらなれんかったんやろうなぁ、安倍ちゃんは。情けない奴です。ま、その方がいいですけど。
大づかみに考えるなら、昔ながらの日本文化を、とにかくちょっとずつでもいいから取り返したい、というのが、小泉改革なんぞという、アメリカ追従政権の後のすさんだ荒れ地にいてる日本人の共通の思いだろうと僕は思っていて、大きくはそっちの方向に文化や政治は流れるのでしょう。
いくらアメリカの力が強くても、たとえば、法の運用体系はヨーロッパとアメリカでは全然違うみたいで、(このあたりは「拒否できない日本」を読んで、とても良くわかりました。やっぱりアメリカは「反イギリス」というのが国の出自なんよなぁって、これも「大づかみ」に思ったのであります。)日本にアメリカの無茶苦茶な訴訟社会が移植されたら、そらもうたまったものではないです。それはやっぱり嫌やなぁと思うし、国民が文化的に、無意識レベルで拒否するよな、それは、って思う。
サブプライムの問題でアメリカの経済そのものが失速していくだろうし、今後どうなっていくかは予断を許さないところがありますが、大づかみに言って、日本人は日本人なんだから、自分たちの文化を捨てる事はできはしないのだってところで、いろいろまとまっていくんじゃないかな? って思いますね。
でも、とにかく、まずは「おおづかみ」です。大づかみ。日本の事もさることながら、地球レベルで、まずざくっと見るって感覚。そのざくっと見たなかに日本をポジショニングして、それで落ち着きのいいところを探すって感覚ですね。
それが現実的な対処の方法だと思います。
結局「勉強せなアカンよなぁ」って事に行き着くんですけどね。
ま、そんな事で。
インターネットの時代になって、こまかな、ヲタク的な、知識の羅列的な情報ばかりが、やたらと取り上げられることが多いのですが、そういう事は枝葉末節だろうと思うのです。
大事なことは「大づかみに全体を把握する事」だと思うのです。
細部だけを追いかけていくと、具体性だけを追いかけすぎて、個別事項が矛盾している事にすら気付かなくなったりしますが、全体性を意識しながら、物事を大づかみに捉えていくと、世の中の大きな流れがざっくりと見えてきて、物事への対処もキチンとできるし、予測や予想も外れることが少なくて、安心感が出てきます。
これはたとえば政治のようなきな臭い世界の話でもそうだし、男女の恋愛なんかに関しても同じだと思うのです。
たとえば、わかりやすく恋愛を例に出すなら、付き合ってる女の子の身長や体重、好みなどなど、個別の情報も大切だけど、その人がおかれている環境、たとえば地域社会の状況だとか、職業上の社会的変化、環境などを大づかみに知っておく方が相手も安心してくれます。
また、もっと大きく、「平均値としては男性の方が背が高く、女性の方が背が低い」「男性は道案内に東西南北や道路名などの抽象概念を使うのを好むが、女性はビジュアルで看板などを頼りに案内する」というような男女差みたいな事も、大づかみに把握しておいた方が、行き違いが少なくなるというものです。
でも、このあたりの「大づかみが大切なんだよ」という話をすると、たとえば男より背の高い女性が「そんな一般論に意味はない!」とか怒ったりするわけですけど、それはちょっと違うよなぁって思うのですね。男女の背の高さの平均値の違いを知っていればこそ、女性で背が高くてそれを気にするという事がどういうことなのかを、より良く思い至れるわけです。
これを単に、男性が自分と同じくらいか少し高いくらいの背の高さの「男性」をイメージして理解しようとしても、上っ面の理解にしかならないわけです。平均値が低い中で高いからこそ、精神的に大変なわけですから。でしょ?
同じ事は、「世界の中の日本」という事に関しても言えます。
世界の中の日本と言うことを考えるのなら、まず大づかみに「世界の常識」を先に知っておく必要があるわけです。
日本の中の事だけ見ていても世界はわからない。まず、世界全体で見たときに、いろいろな出来事やテーマがどういうところに平均値が求められているのか? というのを、それなりに知っておく必要があります。
これはもう、自分の国の中に答えはないのだから、学習するしかないんですね。僕も勉強不足だし、手探りでコツコツと蓄積していくしかないので、時間もかかるから、本当の「世界の常識」というものとは、けっこうズレがあるかも知れないわけですが、それでもちょっとずつでも知っておいた方が良いわけです。
で、これも、こういう事を言うと「外国かぶれ」であるかのように言う人がいたりするわけですが、その見方自体がすでに日本の内側しか「見ようとしない」、おかしなモノの見方だと思うのですよね。
大事なことは「平均身長の低い女性という性の側にいながら、背が高いという個性を持った人の特殊性の理解」であるのと同じように、日本という国の良さや悪さや特殊性と誇るべき部分というのを、冷静に、正確に「測定」するために「大づかみ」が大切だ、って事なんです。
逆に言えば「外国かぶれだ」とか言うような人は、世界を知りたくないだけなんですね。現実を知ろうとしてないだけ。それはおかしいと思うんだけどなぁ。
たとえば、これも何度も例に出しますけど、親子の共依存とかもそうです。個別の親子関係とかの細目は、まぁ難しいから突っ込まないにしても、概略、大づかみに、世の中を知るモノサシとして、「アダルトチルドレン」という考え方、計算尺のようなものがあるので、それを実用的に利用する、使うと捉えれば良いと思うのです。まず大づかみに世の中を把握するってことですね。
で、その中で、自分の状況がどのくらいの偏差値であるのかを知っていく。それで、物事は自然と修復されます。
(でも、気付きたくない人は、このモノサシがあるという事自体を拒否しますからねぇ。本当に困った事です。この6月2日の日記「感じ方は自由なのか」http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書きましたが、国語のテストで、テストの設問が間違ってる!と言ってるアホな男のようなものです。なんでああいうアホな発言をしてしまうんでしょうか? そんなに自分の「偏差」を知るのは怖い事なのかなぁ? 怖がるからどんどん偏差値が下がってしまうんだと言うのに。)
自分の偏差値さえちゃんと直視できれば、とりあえずは対処の方法は見えるのです。偏差値がある、モノサシがある、ということは、とても安心できることで、そのモノサシを頼りに自分育てをしていけるという事でもあるのです。
だから、まずザックリと、物事の全体像を知るという事が、とてもとてもとてもとてもとてもとても大事なのです。
それは前から書いている、「幸福な人は一様に同じだが、不幸な人は個別に個性的である」という事と重なります。
まず全体概要を知るという事が、ものすごく大事なんですね。
本を一冊読むなら、まず目次にざっと目を通すかどうか、というような事です。それをしているかどうかで、読み方だって全然変ります。
法律やら思想やら、あるいは日常の幸せ感、ということにしても、実は本当は「大づかみ」から入っていく方がよくわかるし、安心感があるのですね。
たとえば日本の法律は、黒船がやって来たときに、西洋風の法体系がないと、不平等輸出入をされるっていうので、無理矢理フランスかどこかの法典を日本語に翻訳して移植したというとんでもないものだったりするわけです。
これも「法学」という大づかみな考え方から言えば、こんなおかしな事はないわけですよ。なんでかというと、普通、法律というのは慣習法でして、日常慣習になっているならわしを明文化して、定着させたものが法律になってきているわけですから。
だから普通、西洋では法というのは基本的には日常生活の常識とか、お作法のたぐいの集大成的なものになっているわけです。
でも、日本は明治維新の時に、そういう「慣習」を、外国から移植しちゃったわけです。
そら、なかなか理解できませんわな? 実感できないのが当たり前です。だから日本では「法」というのは、単なる「お題目」のように感じられていたりするわけです。
しかし、実際には、法律ひとつとっても、ヨーロッパの歴史(市民社会というものが生まれ、資本主義が生まれてきた経緯というような意味での歴史ね。)を背景にして、ひとつずつ積み重ねてきた結果なわけですから、日本人にはよくわからない。
でも逆に言うなら、そういう歴史背景を知った上で、日本の法体系とかを考えれば「ああそうか、そう言うことなのか」というのがわかって、とても安心感を得ることができるわけです。
だから、たとえば「歴史」というのも大づかみのための良いモノサシ、道具ですわね。そういうものを、まず知るという事が日常生活での不満や不安を解消するのに、すごく役立つわけです。
ちょっとしたもめ事に、すぐ「警察に言うぞ」とか、幼稚園児みたいな事を言う人がいたりするけれど、警察は民事不介入だから、そんな事には関わらないんよ、とか、そういう当たり前の事がわかってれば「警察は役に立たない!」とか見当はずれな事は考えなくても済む。
そんなどうでもいいことで腹を立ててもしょうがないじゃろって事なんですが、まぁ、このあたりはなかなかわからないみたいですねぇ。
最近わかって来たのは、結局枝葉末節にこだわるというのは、要するに「大づかみ」をしていない、自分の偏差値をみたくない、知りたくないからなんでしょうね。
そんなに怖いかなぁ、自分の偏差値を知るって事が。
英語のTOEICなんかも同じですね。あれは偏差値を知るために行くテストで、何回でも受けて自分の偏差値を知って、それで学習の糧にするためには、けっこう正確で便利なものです。資格試験みたいに合格・不合格ではないから、とても便利だなと思います。
まだ400点くらいなので、偉そうな事は言えませんが、でも、この偏差から伸ばしていけば良いというだけで、ありのままの自分を直視するには、とても便利な道具です。
自分勝手な思い上がりを打ち砕かれるのが怖いんでしょうけど、そういう種類の思いこみは、実用上役に立たないし、逆に自分を不幸にさせるだけなのだから、打ち砕いた方が良い事なんですね。
自分の知らないところに正しい「幸せになる方法」があって、それを自分が知らなかった、とか、そういう事は、受け入れがたいかも知れないけれど、受け入れた方が、そりゃ幸せなんですよ。
ちゃんと知りさえすれば「そういう方法は使わない」とか「なるほどエッセンスはわかった。だから自分なりにアレンジする」とか、そういうのは自由だし。なにもそのまま従う必要もありません。女性の平均身長がわかったからと言って、背の高い女性の背が低くなるわけでもないし。ただ、状況を正確に把握して、よりよい対処方法を考える事ができるというだけの事です。
というか、ムダな考えをしなくなるって事が一番重要かな? 依存症って、ようするに、ありのままの自分を知るのが怖くて、枝葉末節の方ばかりを見よう、見ようとするって事だから。
そういう意味では、最近の安倍ちゃんのトートツ辞任も、大づかみに考えれば「アメリカの犬だった小泉政治には、すでに国民が疲れていて、結局はそういうやり方に批判的な福田はんが大勢の合意を得やすい」って事の「枝葉末節」にしかすぎないわけで。
このあたり、政治評論家の森田実さんあたりが、一年半とか二年ほど前から「小泉の次は福田でまとまる」と言っておられたのが、そのままの姿で現れてるわけです。ネットの枝葉末節にこだわる事しか出来ないこざかしい連中が「小泉の次は安倍じゃん!また森田が外した。逆張り評論家だね。」とか言ってたのがひどく腹立たしかったのですが、まぁ、そういう事です。
5年とか10年とか、長期の展望に立って、大づかみに物事を見るとかが出来ない人が、表層的にごちゃごちゃ言うだけなんだなぁって事ですね。
大づかみの知識や、大きく物事を考える事のできない人は、最終的に、大きなところで世の中に裏切られて、それでいつもイライラしていなければならなくなります。
それはあまりに、非建設的です。
まず大づかみに全体像を把握する。世の中全体とか、地球全体とかですね。そういう見方を心がけるだけで、平常心とかは全然変ってきますからね。心の安心感と平穏さを得る事ができる。そこはとても大切だと思います。
-------------
しかし、なんですな、安倍ちゃん、辞任したのが9月12日で、911の次の日だったってあたりが、すごく意味深ですなぁ。
なんかアメリカのものすごくエライ人が「お前、911のこの日になっても、まだ特措法延長に決着ついてないんかい!やめてまえ!」と怒鳴られたという感じがするのは、勝手な妄想でしょうか。
小泉君はアメリカの手先そのものを演じきった人ですが、安倍ちゃんは愛国派なので(でもおぼっちゃんで腰は全然据わってないし、屁のつっぱりにもならんのやけど。)それ故にアメリカからは「あやしい奴」と睨まれてたらしいのですよ。カルトオブヤスクニとか言われて。
小泉のヤローは、愛国心そのものがなかったので、平気で日本をアメリカに売り渡せたわけですが、そういう悪人にすらなれんかったんやろうなぁ、安倍ちゃんは。情けない奴です。ま、その方がいいですけど。
大づかみに考えるなら、昔ながらの日本文化を、とにかくちょっとずつでもいいから取り返したい、というのが、小泉改革なんぞという、アメリカ追従政権の後のすさんだ荒れ地にいてる日本人の共通の思いだろうと僕は思っていて、大きくはそっちの方向に文化や政治は流れるのでしょう。
いくらアメリカの力が強くても、たとえば、法の運用体系はヨーロッパとアメリカでは全然違うみたいで、(このあたりは「拒否できない日本」を読んで、とても良くわかりました。やっぱりアメリカは「反イギリス」というのが国の出自なんよなぁって、これも「大づかみ」に思ったのであります。)日本にアメリカの無茶苦茶な訴訟社会が移植されたら、そらもうたまったものではないです。それはやっぱり嫌やなぁと思うし、国民が文化的に、無意識レベルで拒否するよな、それは、って思う。
サブプライムの問題でアメリカの経済そのものが失速していくだろうし、今後どうなっていくかは予断を許さないところがありますが、大づかみに言って、日本人は日本人なんだから、自分たちの文化を捨てる事はできはしないのだってところで、いろいろまとまっていくんじゃないかな? って思いますね。
でも、とにかく、まずは「おおづかみ」です。大づかみ。日本の事もさることながら、地球レベルで、まずざくっと見るって感覚。そのざくっと見たなかに日本をポジショニングして、それで落ち着きのいいところを探すって感覚ですね。
それが現実的な対処の方法だと思います。
結局「勉強せなアカンよなぁ」って事に行き着くんですけどね。
ま、そんな事で。
911から6年だそうです。
まぁ恐ろしいことに、あの911の出来事は、「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が、日々強まってきているようですね。
当初、あの出来事をニュースで知らされたときに、真っ先に思ったのは「ああ、アメリカに乗せられて、攻撃しちゃったバカな過激派が出てしまったんだな。」でした。
すでに日本の真珠湾攻撃自体、アメリカの「かかってこんかい!」という謀略であったことが、あの時点でほぼ明らかになってましたから、僕の意見としては「乗せられたらアカンのや」でありました。
当時はまだまだ、こういう「謀略」自体をおおっぴらに書くという事自体、抵抗のある状態だったので、はっきりとは書かなかった事が多いのですが、それでも概略「乗せられたらあきませんがな」というスタンスで、なおかつ今も基本的にはスタンスは変ってません。
戦争というのは、喧嘩と同じで先に手を出した方が痛い目を見ます。で、ずるがしこい奴らは、そこのところを熟知していて、弱い相手をいたぶって、いたぶって、窮鼠猫を噛むという状態まで追い込んでから、手を出してきたときに。「おお、お前、殴ったな」と、そこから本気で殴りかかりに来るわけです。
これが、単なる言いがかりでない証拠は、真珠湾攻撃のその日に、当時のアメリカのルーズヴェルト大統領が執務室で補佐官や夫人とともに、「日本軍の真珠湾攻撃の無線」を盗聴しながら、「やったぞ、これで参戦できる!」と小躍りしていたという事が明らかになってたからです。
つまり、ルーズベルトは日本がアメリカを攻撃することを仕組んでいて、それに乗せられた日本が真珠湾攻撃をかけてきたのをニヤニヤと笑いながら観戦していたという恐ろしい事実があるという事なのです。
だからね、私は訳もわからず「アメリカ大嫌いだ」とか言う人間が嫌いなんです。「そういう具合に大嫌いだ!と思わせるように、向こうが仕組んでるのかも知れないよ、という事も考えないといけないんですね。国民感情の扇動って事まで、きゃつらはちゃんと計算に入れてやってるわけですから。
「そんなに単純に載せられてどうすんねん。あほか、お前は。」って思う。それが乗せられて攻撃してしまった日本人が一番に心に刻んでおくべき事だと、僕は思ってたわけです。当時から。
だから911の時に一番印象的だったのは、イスラム圏の人間が「神が奇跡を起こされた!」と小躍りしてる人の映像だったのです。
「まぁ、大喜びするわなぁ。そうなるようにずっといじめてるわけやから。で、あの飛行機を乗っ取った人間は、金も力も持たず、ハイジャックという小さな力だけで、アメリカに一矢を放ったんやから、大英雄って事になるわなぁ。」
とは思ったわけです。
「アメリカに乗せられてるだけやのに、そんなに大喜びして、ええんか?」
という気持ちでした。
(ところが、小林よしのりは、アメリカのそういう裏の策略があることもわかっていながら、反米の態度をより強くアピールしてたのですよね。あの辺がちょっとわからん。そういう裏を知らずに反米!って言ってるだけなら、単なるパァーだから、まぁしゃーないと思うのだけど。)
で、です。
この「ルーズベルトが真珠湾攻撃の知らせを聞いていた」という報道がどこから出てきたかというと、実はこれが、当のアメリカなわけですよ。
アメリカでは、情報公開法っていうのがあって、どんな高度な国家機密に属する情報でも、「これこれこういう資料があるはずだから、探して出してこい」と言われたら出さねばならないという法律があるわけです。当然、国家機密ですから、機密年限というのが決められていて、その最大期限が確か50年だったはずです。
で、50年以上たったからこそ、真珠湾攻撃の日の「大統領の一日の行動記録」が、公開請求できるようになったわけです。
それまでは、「なぜ、日本軍の真珠湾攻撃をアメリカ政府当局は察知できなかったのか?」という政府批判が出ても、当時の大統領の行動が公開されてなかったからわからなかったというわけです。
で、その批判派の米国の記者が、公開法でオープンになってから、当時の記録を見せろと請求して、それでこの事実はあきらかになったわけです。
だから戦争の本当の姿は、実は50年も経ってから、やっと本当の事がわかるようになるし、それが本当にキチンとわかるのは、決して日本人の愛国者からではなくて、アメリカ人の記者からなのだ、という事は頭にキチンと入れておかなければいけないのです。
日本の浮世絵だって、アメリカとかヨーロッパの美術愛好家がいたから再評価されたに過ぎないのです。あんなあっという間に色あせてしまうものを、状態良く保存するという発想自体が日本人にはないのです。その時、その瞬間だけを生きてるチキンヘッドが日本人なんだという事を痛感しておかなければいけない。
で、911の当時は、僕の勉強の程度だと「ああぁ、アメリカに乗せられたアホな過激派が突っ込んでしまいよった」でしかなかったのですが、そういう見方自体が甘かったのだと思い知らされたのが「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」という見方でした。
「そうか。そらそうだよなぁ。」
と改めて自分の見方の甘さを痛感したのです。
ようは、戦争というのは巨大な在庫処分です。とにかくどこかで計画的に引き起こされねばならない。
冷蔵庫の食べ物にかけるラップというものがありますが、あれを作る機械は、それこそ大きなビル一棟くらいのサイズがあって、それが市場ニーズには関係なく、毎日自動的にラップを生み出し続けているんですね。
我々の日常を支えている、そんな小さな商品ですら、そういう「止められない経済機構」として動いていて、その頂点にいてる巨大コングロマリットの親方たちは、とにかく在庫処分のために戦争を起こしたいというのが日常の感覚になってるはずなのです。
新たな市場を生み出すより、都市を潰して復興するというのが一番手っ取り早い「市場ニーズの創出」なわけです。だから戦争を起こす場所なんてどこだっていいのだ。とりあえず逆らってくれるアホな民族がいたら、そこを対象にすればいいだけの事で。
そういう「カモ」にされないように我々は気をつける必要があって、だから「テロはいけない」とかアメリカがお題目を唱えていたら、そういうお題目をキチンと守って無茶な攻撃をかけられないようにしないといけないのです。面従腹背。背に腹は代えられず、って事です。
そういう事だから、911にしても、そんな小さなテロ組織の、どう転んでいくか分らない無秩序な仕掛けに頼っただけで起きたはずはなかったのですね。冷静に考えてみれば。
たとえばイラク戦争にしても、「イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている」とかが戦争をはじめる理由として語られてましたが、そんなものは何もわかってない一般民衆向けの表面的な理由でしかないのは、はじめから分っている事なのです。
だって、戦争を始めようと思ったら、実は基地の移動からはじめないといけないんですよ。補給ルートを最適に確保しなくては勝つことなぞできるわけもないんですから。そして、その基地の移動というのは、国を超えて行われるわけですから、超高度な政治的取引とともに半年以上、ともすれば三年も四年も前から交渉されなければ無理なわけです。
で、実際、大量破壊兵器がうんぬんと言われるより前から、アメリカ軍の基地の移動というのは行われていたわけです。軍事オタクとかは「なんで基地の移動があるのかしらねぇ」としか思わないけれども、そのあたりを総合的に見る人から見れば「あ、そういうことか」と最初から見えていることな訳です。
戦争が起これば、何兆円、何十兆円というお金が取引されます。関わる企業も半端ではない。だから計画は綿密に、何年も前から、二十年とかの時間を平気でかけて行われるらしいな、というのが、この数年で僕にも着実に分ってきたことです。
日本の真珠湾攻撃にしても、アメリカの意志を受けたスパイとも言うべき人間が、日本の軍の中にいてて、そいつが指揮をしたという可能性もある。というか、かなり高い。山本五十六自体があやしいという人もいてますからね。
で、「世間の声」っていうのもアテにならないんですね。たとえば、どこの国でも新聞とかテレビとかの大手マスコミは、一番すぐれた記者をアメリカの大学とかに留学させるわけですが、そこで洗脳されて帰ってくるってパターンも多いんですね。だから、マスコミ自体がすでに操作されてる部分があるのです。「風潮」なんてすぐにつくられる。
実際、郵政選挙の時なんて、マスコミはほとんと「郵政イエス」の情報しか流さなかった。多分、お偉いさんたちが、「今回は郵政の仕組みをキチンと解説するというような、政治に詳しい人に向けた報道ではなく、郵政イエスかノーかという国民全体の意志の確認が大切だ。だから内容には触れずに、みんなが選挙に参加するような番組にしよう」とか分ったような事を言ってたに違いないのです。だって郵政民営化の具体的な問題点とか、全然マスコミに出なかったもんね。で「小泉を出しておけば視聴率は取れる」だけだったもの。
それも結局は500兆円という郵貯の資金という大きなお金がからんでいたからなわけです。大金がからめば、そこまでのだましが動くという事を、私はものすごく実感してしまいました。ほんとうにあれはえげつなかった。(いまだにそういうダマシの構造に全然気付いてない人も多いですけど。)
そこまで考えれば、911も「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が一番納得行くモノの見方だなぁって事になってくるわけです。
戦争は、資本主義経済という共同幻想を人類が共有している限り、避けられない宿痾であり、それを避けるためには、よほどの知性がなければならないって事なんだろうなぁって思うのですよ。
まぁ、今後はアメリカも力が弱くなって(というか、イラク戦争は本来ベトナム並みの50万人派兵が出来ないと成功しないはずだったのに15万人しか派兵できてなかったらしい。すでに弱り目なんだそうです。)アメリカ一辺倒でもなくなっていくのでしょうが、それでも、日本人は世界的視野に立って物事を見るとか全然出来てないし、広い視野なくして、自分たちの幸せもあり得ないと思うのですよ。
で、そんな政治とか、何も知らないと言うことなら、せめて「乗せられない」ようにすることなんだと思うのね。
「アメリカはけしからん!」とか単純に言わない。そんなん乗せられてるだけやん。それより、身近な人間とのコミュニケーションをしっかり取る。分らないことは分らないと言う。
で、何かを知っている人からは、謙虚な姿勢で、つねに学ぶ態度で接する。良い本があると教えられたら読んでみる。読めない場合は「読んでないです」と言って、それ以上語らない。読む前から拒否したりしない。
で、わからない事は「わからない」と正しく言う。別に分らない事は恥でもなんでもない。「分らない自分」を恥ずかしいと思って恥じる事こそが恥ずかしい事なんだけど、そういう大切な事を分ってない人が多すぎる。
分らないときは「わかりません」と正直に言う。
これほど強い態度はないんです。
ほんとうは。
で、簡単に「分ろう」とはしない。つねに確かめて確認する。そう簡単に納得しない。
これは、自分の思いこみを正しいと仮定しない考え方です。感情論に走らない考え方。そういう事が大事だと思うのです。物事、本当に深いから。簡単には答えなんて出ない。
だからたとえば、自分がACの人は、せめて自分がACなんだと気付くくらいの事はして欲しいとか思うのですよねぇ。ACのままだと、それこそ騙され方が本当にひどくなるから。自分が悪い事でもアメリカが悪いとか言ってしまうとかするし。うーむ。
ま、ほんとに、テレビだけ見ててもダメだってことですね。はい。
まぁ恐ろしいことに、あの911の出来事は、「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が、日々強まってきているようですね。
当初、あの出来事をニュースで知らされたときに、真っ先に思ったのは「ああ、アメリカに乗せられて、攻撃しちゃったバカな過激派が出てしまったんだな。」でした。
すでに日本の真珠湾攻撃自体、アメリカの「かかってこんかい!」という謀略であったことが、あの時点でほぼ明らかになってましたから、僕の意見としては「乗せられたらアカンのや」でありました。
当時はまだまだ、こういう「謀略」自体をおおっぴらに書くという事自体、抵抗のある状態だったので、はっきりとは書かなかった事が多いのですが、それでも概略「乗せられたらあきませんがな」というスタンスで、なおかつ今も基本的にはスタンスは変ってません。
戦争というのは、喧嘩と同じで先に手を出した方が痛い目を見ます。で、ずるがしこい奴らは、そこのところを熟知していて、弱い相手をいたぶって、いたぶって、窮鼠猫を噛むという状態まで追い込んでから、手を出してきたときに。「おお、お前、殴ったな」と、そこから本気で殴りかかりに来るわけです。
これが、単なる言いがかりでない証拠は、真珠湾攻撃のその日に、当時のアメリカのルーズヴェルト大統領が執務室で補佐官や夫人とともに、「日本軍の真珠湾攻撃の無線」を盗聴しながら、「やったぞ、これで参戦できる!」と小躍りしていたという事が明らかになってたからです。
つまり、ルーズベルトは日本がアメリカを攻撃することを仕組んでいて、それに乗せられた日本が真珠湾攻撃をかけてきたのをニヤニヤと笑いながら観戦していたという恐ろしい事実があるという事なのです。
だからね、私は訳もわからず「アメリカ大嫌いだ」とか言う人間が嫌いなんです。「そういう具合に大嫌いだ!と思わせるように、向こうが仕組んでるのかも知れないよ、という事も考えないといけないんですね。国民感情の扇動って事まで、きゃつらはちゃんと計算に入れてやってるわけですから。
「そんなに単純に載せられてどうすんねん。あほか、お前は。」って思う。それが乗せられて攻撃してしまった日本人が一番に心に刻んでおくべき事だと、僕は思ってたわけです。当時から。
だから911の時に一番印象的だったのは、イスラム圏の人間が「神が奇跡を起こされた!」と小躍りしてる人の映像だったのです。
「まぁ、大喜びするわなぁ。そうなるようにずっといじめてるわけやから。で、あの飛行機を乗っ取った人間は、金も力も持たず、ハイジャックという小さな力だけで、アメリカに一矢を放ったんやから、大英雄って事になるわなぁ。」
とは思ったわけです。
「アメリカに乗せられてるだけやのに、そんなに大喜びして、ええんか?」
という気持ちでした。
(ところが、小林よしのりは、アメリカのそういう裏の策略があることもわかっていながら、反米の態度をより強くアピールしてたのですよね。あの辺がちょっとわからん。そういう裏を知らずに反米!って言ってるだけなら、単なるパァーだから、まぁしゃーないと思うのだけど。)
で、です。
この「ルーズベルトが真珠湾攻撃の知らせを聞いていた」という報道がどこから出てきたかというと、実はこれが、当のアメリカなわけですよ。
アメリカでは、情報公開法っていうのがあって、どんな高度な国家機密に属する情報でも、「これこれこういう資料があるはずだから、探して出してこい」と言われたら出さねばならないという法律があるわけです。当然、国家機密ですから、機密年限というのが決められていて、その最大期限が確か50年だったはずです。
で、50年以上たったからこそ、真珠湾攻撃の日の「大統領の一日の行動記録」が、公開請求できるようになったわけです。
それまでは、「なぜ、日本軍の真珠湾攻撃をアメリカ政府当局は察知できなかったのか?」という政府批判が出ても、当時の大統領の行動が公開されてなかったからわからなかったというわけです。
で、その批判派の米国の記者が、公開法でオープンになってから、当時の記録を見せろと請求して、それでこの事実はあきらかになったわけです。
だから戦争の本当の姿は、実は50年も経ってから、やっと本当の事がわかるようになるし、それが本当にキチンとわかるのは、決して日本人の愛国者からではなくて、アメリカ人の記者からなのだ、という事は頭にキチンと入れておかなければいけないのです。
日本の浮世絵だって、アメリカとかヨーロッパの美術愛好家がいたから再評価されたに過ぎないのです。あんなあっという間に色あせてしまうものを、状態良く保存するという発想自体が日本人にはないのです。その時、その瞬間だけを生きてるチキンヘッドが日本人なんだという事を痛感しておかなければいけない。
で、911の当時は、僕の勉強の程度だと「ああぁ、アメリカに乗せられたアホな過激派が突っ込んでしまいよった」でしかなかったのですが、そういう見方自体が甘かったのだと思い知らされたのが「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」という見方でした。
「そうか。そらそうだよなぁ。」
と改めて自分の見方の甘さを痛感したのです。
ようは、戦争というのは巨大な在庫処分です。とにかくどこかで計画的に引き起こされねばならない。
冷蔵庫の食べ物にかけるラップというものがありますが、あれを作る機械は、それこそ大きなビル一棟くらいのサイズがあって、それが市場ニーズには関係なく、毎日自動的にラップを生み出し続けているんですね。
我々の日常を支えている、そんな小さな商品ですら、そういう「止められない経済機構」として動いていて、その頂点にいてる巨大コングロマリットの親方たちは、とにかく在庫処分のために戦争を起こしたいというのが日常の感覚になってるはずなのです。
新たな市場を生み出すより、都市を潰して復興するというのが一番手っ取り早い「市場ニーズの創出」なわけです。だから戦争を起こす場所なんてどこだっていいのだ。とりあえず逆らってくれるアホな民族がいたら、そこを対象にすればいいだけの事で。
そういう「カモ」にされないように我々は気をつける必要があって、だから「テロはいけない」とかアメリカがお題目を唱えていたら、そういうお題目をキチンと守って無茶な攻撃をかけられないようにしないといけないのです。面従腹背。背に腹は代えられず、って事です。
そういう事だから、911にしても、そんな小さなテロ組織の、どう転んでいくか分らない無秩序な仕掛けに頼っただけで起きたはずはなかったのですね。冷静に考えてみれば。
たとえばイラク戦争にしても、「イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている」とかが戦争をはじめる理由として語られてましたが、そんなものは何もわかってない一般民衆向けの表面的な理由でしかないのは、はじめから分っている事なのです。
だって、戦争を始めようと思ったら、実は基地の移動からはじめないといけないんですよ。補給ルートを最適に確保しなくては勝つことなぞできるわけもないんですから。そして、その基地の移動というのは、国を超えて行われるわけですから、超高度な政治的取引とともに半年以上、ともすれば三年も四年も前から交渉されなければ無理なわけです。
で、実際、大量破壊兵器がうんぬんと言われるより前から、アメリカ軍の基地の移動というのは行われていたわけです。軍事オタクとかは「なんで基地の移動があるのかしらねぇ」としか思わないけれども、そのあたりを総合的に見る人から見れば「あ、そういうことか」と最初から見えていることな訳です。
戦争が起これば、何兆円、何十兆円というお金が取引されます。関わる企業も半端ではない。だから計画は綿密に、何年も前から、二十年とかの時間を平気でかけて行われるらしいな、というのが、この数年で僕にも着実に分ってきたことです。
日本の真珠湾攻撃にしても、アメリカの意志を受けたスパイとも言うべき人間が、日本の軍の中にいてて、そいつが指揮をしたという可能性もある。というか、かなり高い。山本五十六自体があやしいという人もいてますからね。
で、「世間の声」っていうのもアテにならないんですね。たとえば、どこの国でも新聞とかテレビとかの大手マスコミは、一番すぐれた記者をアメリカの大学とかに留学させるわけですが、そこで洗脳されて帰ってくるってパターンも多いんですね。だから、マスコミ自体がすでに操作されてる部分があるのです。「風潮」なんてすぐにつくられる。
実際、郵政選挙の時なんて、マスコミはほとんと「郵政イエス」の情報しか流さなかった。多分、お偉いさんたちが、「今回は郵政の仕組みをキチンと解説するというような、政治に詳しい人に向けた報道ではなく、郵政イエスかノーかという国民全体の意志の確認が大切だ。だから内容には触れずに、みんなが選挙に参加するような番組にしよう」とか分ったような事を言ってたに違いないのです。だって郵政民営化の具体的な問題点とか、全然マスコミに出なかったもんね。で「小泉を出しておけば視聴率は取れる」だけだったもの。
それも結局は500兆円という郵貯の資金という大きなお金がからんでいたからなわけです。大金がからめば、そこまでのだましが動くという事を、私はものすごく実感してしまいました。ほんとうにあれはえげつなかった。(いまだにそういうダマシの構造に全然気付いてない人も多いですけど。)
そこまで考えれば、911も「爆発物をビル各所に仕掛けた制御解体による米国政府の自作自演」とする見方が一番納得行くモノの見方だなぁって事になってくるわけです。
戦争は、資本主義経済という共同幻想を人類が共有している限り、避けられない宿痾であり、それを避けるためには、よほどの知性がなければならないって事なんだろうなぁって思うのですよ。
まぁ、今後はアメリカも力が弱くなって(というか、イラク戦争は本来ベトナム並みの50万人派兵が出来ないと成功しないはずだったのに15万人しか派兵できてなかったらしい。すでに弱り目なんだそうです。)アメリカ一辺倒でもなくなっていくのでしょうが、それでも、日本人は世界的視野に立って物事を見るとか全然出来てないし、広い視野なくして、自分たちの幸せもあり得ないと思うのですよ。
で、そんな政治とか、何も知らないと言うことなら、せめて「乗せられない」ようにすることなんだと思うのね。
「アメリカはけしからん!」とか単純に言わない。そんなん乗せられてるだけやん。それより、身近な人間とのコミュニケーションをしっかり取る。分らないことは分らないと言う。
で、何かを知っている人からは、謙虚な姿勢で、つねに学ぶ態度で接する。良い本があると教えられたら読んでみる。読めない場合は「読んでないです」と言って、それ以上語らない。読む前から拒否したりしない。
で、わからない事は「わからない」と正しく言う。別に分らない事は恥でもなんでもない。「分らない自分」を恥ずかしいと思って恥じる事こそが恥ずかしい事なんだけど、そういう大切な事を分ってない人が多すぎる。
分らないときは「わかりません」と正直に言う。
これほど強い態度はないんです。
ほんとうは。
で、簡単に「分ろう」とはしない。つねに確かめて確認する。そう簡単に納得しない。
これは、自分の思いこみを正しいと仮定しない考え方です。感情論に走らない考え方。そういう事が大事だと思うのです。物事、本当に深いから。簡単には答えなんて出ない。
だからたとえば、自分がACの人は、せめて自分がACなんだと気付くくらいの事はして欲しいとか思うのですよねぇ。ACのままだと、それこそ騙され方が本当にひどくなるから。自分が悪い事でもアメリカが悪いとか言ってしまうとかするし。うーむ。
ま、ほんとに、テレビだけ見ててもダメだってことですね。はい。
都市機能とダイエットは、「私財」の関係。
2007年9月8日今年は健康というのが大きなテーマになっていて、ここの日記では全然そんなことは書いてないのですが、心と体をテーマにした別のブログをやっていて、そっちではそういう話ばっかり書いてます。
で、大きくはダイエットとトレーニングと睡眠の三つに集約されつつあるんですが、半年で7キロくらい落としました。まぁ多分ちょうど良いくらいでしょう。
実はそれほど大した事はしてなくて、炭水化物を減らして、朝食は野菜ジュースのみにし、運動は毎日1万歩を目標にエスカレーターは使わない、二日に一度は筋肉トレーニングをするという程度です。
腰を悪くしたりするのはまっぴらゴメンなので、走るとか無茶な運動はせず、ひたすらウォーキングを中心にして、とにかく階段です。
歩いていて思うのは、都市部というのはなんて大きなマシンジムなんだろうか、ということですね。毎日通う駅に、どれだけ長い階段があるか。それをエスカレーターを使わずに上り下りするだけで、けっこうな運動になります。
あと、カバンをリュックから手持ちに代えました。これで腕の筋肉もつくだろうし。そういう小さい運動っていうのが効果があると思う。
やっぱり日常なんですね。日常にいかに組み込むかなんだと思う。ダイエットのためのダイエット、運動のための運動は辛いだけで続かないと思うなぁ。
実は夏の間、表を歩くのが辛いので、プールに通ってたのですが、これが続かなかった。わざわざプールのために水着を持って出るとか、そういうのはダメだなぁ。面倒くさくてやってられません。
結局、大阪に住んでるんだしと、地下街をマメに歩くようにメニューを変えましたね。ちょっと集中してやらねばならない仕事はカバンに詰め込んで、梅田あたりの喫茶店で1時間ほどこもってやるとかね。で、そのついでに地下街をぶらつきながら少し歩く。これで数千歩は稼いで1万歩に近づけるのです。このほうが日常に近いので楽です。
まぁ、どんな人でも、会社と自宅を往復してるのなら、たいてい4〜5000歩くらいは歩いてますからね。10分あるけば1000歩とか1200歩とかですから。自宅から駅までで10分、駅から会社まで10分。これで半分は歩いた事になるわけで。
外食で昼ご飯を取る人なら、少し遠目の店に行くとかすれば、1000歩や2000歩は稼げますし、仕事帰りに少しブラブラと町の中を見て歩けば、それで1万歩はすぐに達成できます。
これに階段登りと、多少の筋肉トレーニング、食事の節制を心がければ健康な体の基礎は固められると思うのですよ。
いまは自転車がけっこう魅力的で、良い自転車を買おうかなぁとかも思ってるんですが、まぁ、まずは歩きですわなぁ。歩くの大好きだし。
この間も書きましたが、正直田舎の人間は歩きません。車がないとどうしようもない生活をしてるからなんですね。車があってはじめて、都市部の60%くらいの便利さを確保できる。
でも、トシを食ってじいさんばぁさんになってくると、車の運転もできなくなってくるんですね。当人はまだまだ大丈夫と思っても、家族が「もう乗るな」と止めるわけです。
こうなると、もう、足がない。バスなんて本数は少ない上に、ものすごく値段が高いですしね。タクシーとなると、もっとコスト高です。結局、家族親戚とかの地縁を固めて「ちょっと乗せて行って!」と頼むとかになるわけで。まぁそれは人間関係が円滑になるから良い面ではあるんですがね。
しかし、とにかく歩く機会はなくなってしまうわけです。田舎の人ほど歩かない。車ばっかりだから。
「ああ、やっぱり都会っていうのは公共交通機構の事だよなぁ」って、最近はつくづく思うのです。
電車、バス、タクシー。そういう公共交通が充実している事が「都会」なんだと思う。
東京なんて、本当に地下鉄が安いですからな。どの線か忘れたけど、一区が130円とかだもんなぁ。
大阪で230円です。100円も差がある。
ようするに多くの人が利用してるかどうか、なんですね。みんなで共用している。この共用するとか、公共の道具、公共財の発想こそが「都会」なんだと思うのですよ。
ところが、田舎の方に行くと、そういう「公共財」の発想があんまりなかったりする。「私財」だけが大事なのかなぁ。「鉄道とかは待ち時間も多いし不便だ。車の方が便利。」とか普通に思ってるわけです。
えええー? そう? 車なんて、運転を自分でやらなきゃいけないんだよ? 本も読めないじゃん? とか思うのだけど、そういう風には考えないみたいなんですねぇ。なんなんやろ、あれは。
で、田舎での生活ってのをけっこう経験してから、生まれた土地に戻ってきまして、回りを見渡すと、実は大阪市内にも「車生活」という田舎臭い文化が浸食してきてるんですね。
昔からの下町で、三軒長屋とかあった場所に舞い戻って住んでるわけですが、もう軒並みどの家も建て替えていて、平屋から3階建てくらいになっていて、一階は駐車場にして車を持っている。
うーん。まぁええねんけど。
都市部に住んでいて車生活するなんて、なんてもったいないことをするんだろう? としか思わないのですね。
運動もできなきゃ、勉強もできない。アホになるだけや! とか思ってしまう。
「都会とは電車の事である」とずっと思っていて、都市部に住んでいて、この素晴らしい共有財を活用しないのは、すごくもったいないと僕なんかは思うのですね。
特に、多くの人が歩いていて、人が行き交う所を日々観察できること。これがすごくいい。時代の流れや、気分みたいなものを肌で感じることができる。電車の中での人間観察なんて、実に面白い。
これは、車じゃ無理なんだよなぁ。
見ず知らずの人がどれだけ利害関係なく共存できているかが、都会度というものなのだ、という人がいて、まさにそれこそが大事って思う。
こういう感覚がないのに、政治を考えるとか出来るんやろか? とか思う。みんな一緒に生きているという感覚がなくて、本当の意味の公共精神なんか持てるんかなぁって思うのです。
でも、都会に住んでて、車に乗ってる人までどんどん出てきてる世の中ですしねぇ。
うーん。
いや、車どころかバイクばっかりってな人もいてる。都会に住んでて、そんな事するの?なんか田舎くさいよなぁって思うのですよ。
地方の鉄道がどんどん廃線になってしまうっていうのも、ようするに「公共心」がなくなってるからなんじゃないのか?って思うのです。ここいらの事が分ってる人は廃線にしないでくれって言うのですよね。
確か法律が変って、鉄道の経営権が、地域に縛られなくなったはずで、和歌山の貴志川線を、岡山の両備グループが経営するようになったりしてますが、ああいうのは本当に頑張って欲しいと思うのです。トシを食ったら車もバイクも危なくて乗れなくなるんだから。ほんとに。で、利用する人が多いほど、料金も安くなるんだから。
自分だけが好きなときに移動できるとかの「私的メリット」みたいな事は、ちょっと横に置いておいて、みんなで出発時刻をシェアして、「公共の便利さ」を維持するほうが絶対に賢いと僕なんかは思うんですけどねぇ。
世界中の大都市で路面電車が見直されていて、今後は路面電車こそが都市部の重要交通機関だと言われているのに、日本くらいのものです、東京でゆりかもめ、大阪でニュートラムみたいなわけのわからないハコモノ行政でうんぬんしてるのは。
ああいうのは多分、「道路は一般の方のために広くあけておいて、公共の交通機関は高い空中に邪魔にならないように備えました。」みたいな発想だと思うんだけど、「それは逆やろ!」って思う。電車はみんなが使うんだから地べたでいいだよ! 車は遠くに行くときだけ、それも信号なして高速でって時だけ乗れば良いのだ。
実際、広島に出張に出かけると、路面電車がとても充実していて素晴らしいと思います。
お年寄りや車いすの人でも、わずか5?〜10cmくらいのプラットフォームの段差さえスロープ化すれば、みんなが使える交通システムになるわけで、ほんとうに誰もが使える都市交通網になってます。
ところが、なんだよ、ゆりかもめに、ニュートラムは。エスカレーターにエレベーターがないと使えない。電車に乗るまでが大事なんだから、まぁ困ったもんです。
田舎の鉄道も、「バスで代替えできる」とか行ってバス路線になって、バスになったら「利用者が減っても調整できる」「路線を車も活用できる」とか言って、結局はみんな移動できないようにしてしまったわけで。車があればいいって。
いやいや、レールがあって、駅があるから「移動する必然性」をみんなが考えるようになって、そこから文化は発生してきたんだよ。
宝塚の舞台もそうでしょ。映画だってそうだよ。なにより繁華街っていうものがそういうものだったんだから。
車なんかに乗ってても、ロードサイドの安っぽいお店しか繁盛しない。みんながバラバラになってドンドン寂しくなるだけだと思う。
先進国の都市計画では、個人所有の車というものを制限する方向で都市デザインするのが大きな流れなんだそうですな。正しいと思う。そんな「タバコ一箱買うにも車」みたいなのは、社会の仕組みとして制限するべきだと思う。
それが簡単にできるようになってるから、みんながそうするんだしね。
で、それでぶくぶく太ってダイエットだとか言ってても、なんだか本末転倒だと思うのですよ。
ちゃんと公共の精神を持って「みんなが便利で快適で幸せになるように」と考えていけば、必然的にムダでおかしな仕組みは制限されていくはずだと思うのだけど。
鉄道網を充実させて、都市部では路面電車をキチンを動かし、個人所有の車両は制限して、その代わり、優先レーンでバス路線を充実させ、歩道には自転車専用のミニレーンも設けるとかね。そういうのが良いと思うなぁ。
なんで日本はそうならないんだろう?
たぶん「公共」という概念そのものが、まだ根付いてないからよな、きっと。パブリックスペースとか、そういう考えがないんだろうなぁ。
「パブリックとは自分が利用する、自分の財産である」という発想がないんだと思う。「パブリックというのは自分がガマンする、みなさまの財産で、自分のものではない」と思ってるんだと思う。
このあたり、法律を守らないで違法なファイル交換ソフトで映画とかバカバカ見ている人間なんかにも通じるよなぁ。(違法ファイル交換ソフトの類なんて、存在価値はまったくないです。はい。キッパリ断言します。世の中を悪くするだけです。はっきりムダな存在。僕は最初から一切触ってません。公共財である著作権を破壊してどうする。意味ないやん。)
公共財っていうのは、自分の財産が増える事なんだから、それをもっと効率よく豊かに仕組んで行く方がいいに決まってる。こういう当たり前の事がわかってないから困るよなぁって思う。
世の中全部、ワシのもんや!!!!
と考えるのが、実は健全なのだって事なんですがね。
うーん。なんかこのあたり、けっこう難しいですね。
ともかく、私欲や私財を太らす事しか考えないと、当然、公共の共有財を活用しなくなりますから、出歩かなくなるし、ブクブクと「私財」である、余分な脂肪ばっかりがつくって事なんだと思うのですよ。自分だけが良ければいいんだって思ってるから、ブクブク醜く太るんだよなぁって思う。たぶんおそらくそういう事なんだと思う。
ホントは、この世すべてがみんなのものであり、それはつまり、この世すべてが、もともと自分のものなのに、そこに気づけていないから、そういう事になるんだとか、僕は思うのであります。
ま、そんな事で。
で、大きくはダイエットとトレーニングと睡眠の三つに集約されつつあるんですが、半年で7キロくらい落としました。まぁ多分ちょうど良いくらいでしょう。
実はそれほど大した事はしてなくて、炭水化物を減らして、朝食は野菜ジュースのみにし、運動は毎日1万歩を目標にエスカレーターは使わない、二日に一度は筋肉トレーニングをするという程度です。
腰を悪くしたりするのはまっぴらゴメンなので、走るとか無茶な運動はせず、ひたすらウォーキングを中心にして、とにかく階段です。
歩いていて思うのは、都市部というのはなんて大きなマシンジムなんだろうか、ということですね。毎日通う駅に、どれだけ長い階段があるか。それをエスカレーターを使わずに上り下りするだけで、けっこうな運動になります。
あと、カバンをリュックから手持ちに代えました。これで腕の筋肉もつくだろうし。そういう小さい運動っていうのが効果があると思う。
やっぱり日常なんですね。日常にいかに組み込むかなんだと思う。ダイエットのためのダイエット、運動のための運動は辛いだけで続かないと思うなぁ。
実は夏の間、表を歩くのが辛いので、プールに通ってたのですが、これが続かなかった。わざわざプールのために水着を持って出るとか、そういうのはダメだなぁ。面倒くさくてやってられません。
結局、大阪に住んでるんだしと、地下街をマメに歩くようにメニューを変えましたね。ちょっと集中してやらねばならない仕事はカバンに詰め込んで、梅田あたりの喫茶店で1時間ほどこもってやるとかね。で、そのついでに地下街をぶらつきながら少し歩く。これで数千歩は稼いで1万歩に近づけるのです。このほうが日常に近いので楽です。
まぁ、どんな人でも、会社と自宅を往復してるのなら、たいてい4〜5000歩くらいは歩いてますからね。10分あるけば1000歩とか1200歩とかですから。自宅から駅までで10分、駅から会社まで10分。これで半分は歩いた事になるわけで。
外食で昼ご飯を取る人なら、少し遠目の店に行くとかすれば、1000歩や2000歩は稼げますし、仕事帰りに少しブラブラと町の中を見て歩けば、それで1万歩はすぐに達成できます。
これに階段登りと、多少の筋肉トレーニング、食事の節制を心がければ健康な体の基礎は固められると思うのですよ。
いまは自転車がけっこう魅力的で、良い自転車を買おうかなぁとかも思ってるんですが、まぁ、まずは歩きですわなぁ。歩くの大好きだし。
この間も書きましたが、正直田舎の人間は歩きません。車がないとどうしようもない生活をしてるからなんですね。車があってはじめて、都市部の60%くらいの便利さを確保できる。
でも、トシを食ってじいさんばぁさんになってくると、車の運転もできなくなってくるんですね。当人はまだまだ大丈夫と思っても、家族が「もう乗るな」と止めるわけです。
こうなると、もう、足がない。バスなんて本数は少ない上に、ものすごく値段が高いですしね。タクシーとなると、もっとコスト高です。結局、家族親戚とかの地縁を固めて「ちょっと乗せて行って!」と頼むとかになるわけで。まぁそれは人間関係が円滑になるから良い面ではあるんですがね。
しかし、とにかく歩く機会はなくなってしまうわけです。田舎の人ほど歩かない。車ばっかりだから。
「ああ、やっぱり都会っていうのは公共交通機構の事だよなぁ」って、最近はつくづく思うのです。
電車、バス、タクシー。そういう公共交通が充実している事が「都会」なんだと思う。
東京なんて、本当に地下鉄が安いですからな。どの線か忘れたけど、一区が130円とかだもんなぁ。
大阪で230円です。100円も差がある。
ようするに多くの人が利用してるかどうか、なんですね。みんなで共用している。この共用するとか、公共の道具、公共財の発想こそが「都会」なんだと思うのですよ。
ところが、田舎の方に行くと、そういう「公共財」の発想があんまりなかったりする。「私財」だけが大事なのかなぁ。「鉄道とかは待ち時間も多いし不便だ。車の方が便利。」とか普通に思ってるわけです。
えええー? そう? 車なんて、運転を自分でやらなきゃいけないんだよ? 本も読めないじゃん? とか思うのだけど、そういう風には考えないみたいなんですねぇ。なんなんやろ、あれは。
で、田舎での生活ってのをけっこう経験してから、生まれた土地に戻ってきまして、回りを見渡すと、実は大阪市内にも「車生活」という田舎臭い文化が浸食してきてるんですね。
昔からの下町で、三軒長屋とかあった場所に舞い戻って住んでるわけですが、もう軒並みどの家も建て替えていて、平屋から3階建てくらいになっていて、一階は駐車場にして車を持っている。
うーん。まぁええねんけど。
都市部に住んでいて車生活するなんて、なんてもったいないことをするんだろう? としか思わないのですね。
運動もできなきゃ、勉強もできない。アホになるだけや! とか思ってしまう。
「都会とは電車の事である」とずっと思っていて、都市部に住んでいて、この素晴らしい共有財を活用しないのは、すごくもったいないと僕なんかは思うのですね。
特に、多くの人が歩いていて、人が行き交う所を日々観察できること。これがすごくいい。時代の流れや、気分みたいなものを肌で感じることができる。電車の中での人間観察なんて、実に面白い。
これは、車じゃ無理なんだよなぁ。
見ず知らずの人がどれだけ利害関係なく共存できているかが、都会度というものなのだ、という人がいて、まさにそれこそが大事って思う。
こういう感覚がないのに、政治を考えるとか出来るんやろか? とか思う。みんな一緒に生きているという感覚がなくて、本当の意味の公共精神なんか持てるんかなぁって思うのです。
でも、都会に住んでて、車に乗ってる人までどんどん出てきてる世の中ですしねぇ。
うーん。
いや、車どころかバイクばっかりってな人もいてる。都会に住んでて、そんな事するの?なんか田舎くさいよなぁって思うのですよ。
地方の鉄道がどんどん廃線になってしまうっていうのも、ようするに「公共心」がなくなってるからなんじゃないのか?って思うのです。ここいらの事が分ってる人は廃線にしないでくれって言うのですよね。
確か法律が変って、鉄道の経営権が、地域に縛られなくなったはずで、和歌山の貴志川線を、岡山の両備グループが経営するようになったりしてますが、ああいうのは本当に頑張って欲しいと思うのです。トシを食ったら車もバイクも危なくて乗れなくなるんだから。ほんとに。で、利用する人が多いほど、料金も安くなるんだから。
自分だけが好きなときに移動できるとかの「私的メリット」みたいな事は、ちょっと横に置いておいて、みんなで出発時刻をシェアして、「公共の便利さ」を維持するほうが絶対に賢いと僕なんかは思うんですけどねぇ。
世界中の大都市で路面電車が見直されていて、今後は路面電車こそが都市部の重要交通機関だと言われているのに、日本くらいのものです、東京でゆりかもめ、大阪でニュートラムみたいなわけのわからないハコモノ行政でうんぬんしてるのは。
ああいうのは多分、「道路は一般の方のために広くあけておいて、公共の交通機関は高い空中に邪魔にならないように備えました。」みたいな発想だと思うんだけど、「それは逆やろ!」って思う。電車はみんなが使うんだから地べたでいいだよ! 車は遠くに行くときだけ、それも信号なして高速でって時だけ乗れば良いのだ。
実際、広島に出張に出かけると、路面電車がとても充実していて素晴らしいと思います。
お年寄りや車いすの人でも、わずか5?〜10cmくらいのプラットフォームの段差さえスロープ化すれば、みんなが使える交通システムになるわけで、ほんとうに誰もが使える都市交通網になってます。
ところが、なんだよ、ゆりかもめに、ニュートラムは。エスカレーターにエレベーターがないと使えない。電車に乗るまでが大事なんだから、まぁ困ったもんです。
田舎の鉄道も、「バスで代替えできる」とか行ってバス路線になって、バスになったら「利用者が減っても調整できる」「路線を車も活用できる」とか言って、結局はみんな移動できないようにしてしまったわけで。車があればいいって。
いやいや、レールがあって、駅があるから「移動する必然性」をみんなが考えるようになって、そこから文化は発生してきたんだよ。
宝塚の舞台もそうでしょ。映画だってそうだよ。なにより繁華街っていうものがそういうものだったんだから。
車なんかに乗ってても、ロードサイドの安っぽいお店しか繁盛しない。みんながバラバラになってドンドン寂しくなるだけだと思う。
先進国の都市計画では、個人所有の車というものを制限する方向で都市デザインするのが大きな流れなんだそうですな。正しいと思う。そんな「タバコ一箱買うにも車」みたいなのは、社会の仕組みとして制限するべきだと思う。
それが簡単にできるようになってるから、みんながそうするんだしね。
で、それでぶくぶく太ってダイエットだとか言ってても、なんだか本末転倒だと思うのですよ。
ちゃんと公共の精神を持って「みんなが便利で快適で幸せになるように」と考えていけば、必然的にムダでおかしな仕組みは制限されていくはずだと思うのだけど。
鉄道網を充実させて、都市部では路面電車をキチンを動かし、個人所有の車両は制限して、その代わり、優先レーンでバス路線を充実させ、歩道には自転車専用のミニレーンも設けるとかね。そういうのが良いと思うなぁ。
なんで日本はそうならないんだろう?
たぶん「公共」という概念そのものが、まだ根付いてないからよな、きっと。パブリックスペースとか、そういう考えがないんだろうなぁ。
「パブリックとは自分が利用する、自分の財産である」という発想がないんだと思う。「パブリックというのは自分がガマンする、みなさまの財産で、自分のものではない」と思ってるんだと思う。
このあたり、法律を守らないで違法なファイル交換ソフトで映画とかバカバカ見ている人間なんかにも通じるよなぁ。(違法ファイル交換ソフトの類なんて、存在価値はまったくないです。はい。キッパリ断言します。世の中を悪くするだけです。はっきりムダな存在。僕は最初から一切触ってません。公共財である著作権を破壊してどうする。意味ないやん。)
公共財っていうのは、自分の財産が増える事なんだから、それをもっと効率よく豊かに仕組んで行く方がいいに決まってる。こういう当たり前の事がわかってないから困るよなぁって思う。
世の中全部、ワシのもんや!!!!
と考えるのが、実は健全なのだって事なんですがね。
うーん。なんかこのあたり、けっこう難しいですね。
ともかく、私欲や私財を太らす事しか考えないと、当然、公共の共有財を活用しなくなりますから、出歩かなくなるし、ブクブクと「私財」である、余分な脂肪ばっかりがつくって事なんだと思うのですよ。自分だけが良ければいいんだって思ってるから、ブクブク醜く太るんだよなぁって思う。たぶんおそらくそういう事なんだと思う。
ホントは、この世すべてがみんなのものであり、それはつまり、この世すべてが、もともと自分のものなのに、そこに気づけていないから、そういう事になるんだとか、僕は思うのであります。
ま、そんな事で。
本が読めない。
2007年9月1日最近、あまり本を読んでません。
なんでかというと、理由は単純で、また英語の練習に時間を使ってるから。
やっぱりあれだねぇ、仕事しながら勉強とかしようと思ったら、一日に1時間くらいが限度やねぇ。そんなに、なんでもかんでも勉強できるわけではないですな。
で、冷静に考えてみると、自宅から事務所に向かう電車の中、約20分くらいというのが、実に貴重な「勉強時間」なのだなぁと思うのです。
片道20分、往復で40分。これに、外食した時の食後10分とか、寝る前の10分とか、そういう切れ端の時間だけしか読書や勉強に振り当ててないんですね。結局の所。
でも、毎日の事だから、累積効果はすごく大きいんです。自宅と仕事場と、2つの物理空間があるって事が、ここではすごく重要で、仕事をするために事務所に行かないといけないっていうのが、気持ちの切り換えにもなっているし、その切り換えの行き帰りの時間がクールダウンの時間でもあり、勉強時間にもなるって事なんですね。タイミング的に無理がない。
●仕事が終わる
●駅まで歩く
●歩きながら、仕事の行く末を考える
●電車に乗って、将来のために本を読む
というようなサイクルですね。これが出来上がってるんですね。多分。こういう人はビジネスマンには多いと思うんですけどね。こういうサイクルなしに、「勉強する」なんて事ができるはずがないって思うのです。
だから、会社に通う人は、これがひとつの大きなリソースになっているなぁと思うんですよ。通勤時間は必ず存在してるわけで、その強制性が良い意味で生きるんだと思う。これが、家にいてるだけだと、よほど意志が強くない限り、定期的に本を読むなんて、できないと思うんですよね。
自営業なので、自宅で仕事をすることもあるんですが、そういう日は本当に本が読めない。日常に埋没してしまうんよなぁ、どうしても。
で、いまは、この貴重なリソースを英語の練習に使ってるから、本が読めないわけです。つくづく時間というのは有限だよなぁって思う。
時間というのは、ようするに「環境」によって創造されるって事なんだよなぁって思うのですよ。いくら「本を読め!」と言われても、テレビがあって、家族がいて、雑談したり部屋の片付けしたりとか、そういう環境の中では、やろうと思っても、まずできない。
電車の中という「本を読むしか他にすることがない」という環境があるから、「本を読む時間」というのが生まれるわけですからね。ここが、恐ろしく重要なんだと思うのです。
この間の8/13日の日記にも書いた、「自分に優しくする」ってことですね。
http://diarynote.jp/d/12917/20070813.html
自分に優しくして、まず環境を整えてやる。そうすれば、多少は勉強も進むってことなわけです。
英語に関する勉強法の本も何冊も読みましたが、それなりに成果をあげてる人っていうのは、この「環境の力」のすごさを、ほんとうに良く知っていて、「家で勉強しようと思うな」「喫茶店に勉強道具を持ち込め」とか勧めてるんですね。ようするに「自主カンヅメ」です。他にすることがない環境に自分を閉じこめるわけですね。そうしないと人間、なかなか勉強なんかやらないって事です。
これ、言えてるのよなぁ。本当に。
考えてみれば、定期的に本を読むようになったのは、一人暮らしで、定期的にファミレスに通ってた時期というのがあって、そこで読むっていうのがすごく多かったんですね。食事のついでに読む。これが相当に大きかった。(最近はこの時間が減ってるのも難点。自分で作ったりするのが増えたので。)
やっぱり、本を読むっていうだけの事でも、環境が整ってなけりゃ、無理ですわね。
フリーで仕事をし始めた最初の一年、二年というのは、自宅で仕事をしていて、プライベートと仕事の切り分けが全然できなくて、ハッと気付くと読みたい本を読むという、基本的な事すら全然できてなくて「あー、ちゃんと集中して本を読みたい」とか思ってたんですね。
それでちょっと贅沢だと思ったけど、自宅とは別に事務所を持つことにしたんです。支払いとか大変なんだけど、とにかく一人の時間をキチンと確保しないとどうしようもないって気持ちだったんですね。「いつ電話がかかってくるかわからない」とか思ってると、本当にプライベートに行動するって事が気持ち的にしんどくなるんです。
で、イメージとしては、事務所で仕事に関係する資料や、自分の興味ある本をしっかり読み込むって事を考えてたんですけど、実際には「自分の興味ある本」は事務所では読めないんですね。仕事するから。仕事の資料を読むとかだけしかしない。
結局、行き帰りの電車の中が最も重要な読書時間になってしまったということですね。
それと、プライベートと仕事の切り分けをキチンとすると、確かにイライラは格段に少なくなったんですが、意外にも重要だったのは、「通勤での徒歩時間」だったんですねぇ。つまり「歩く」という事です。
通勤すると、嫌でも歩きます。毎日。
これが良いわけです。
大阪人なので、梅田や難波を少しうろちょろしてから帰るとかすると一日一万歩というのは、それほどしんどい目標ではなくなるんですね。普通に通勤するだけで必ず4〜5000歩くらいは確実に歩きますから。一万歩なら、それに1時間弱歩く時間を足してやるだけのことでして。
なので、事務所を持って公私を切り分けたから、精神的に楽になったというのもあるけれど、なにより「嫌でも毎日歩くようになった」という環境の力が、これまた精神の安定に与える力は、もの凄く大きいわけです。
ここしばらく、田舎の生活もいろいろ体験してきたからわかるけど、田舎の人は歩かないんですね。もうずっと車だから。車がなければ生活が成り立たないから。でも、それはかなり不健康だと思う。やっぱり毎日歩かないとなぁ。
歩くという有酸素運動をしてなくてイライラして運動不足になってくると、どういう事を考えるかというと、激しい運動をして取り返そうとか思うわけですよ。歩くのではなく走るとか、あるいはジャズダンスに行くとか、週に一度でいいからヨガを習いに行こうとか、そういう「一気に取り返す」っていうのを考えてしまう。そういう発想になってしまうんですよねぇ。
でもねぇ、まず毎日歩くってのが基礎でして。歩くという基本的なところができてないと、体を壊すのが多い。これが。スポーツ選手なんてそんなのばっかりだし。老人の長生きの秘訣も、ひたすら「歩く」なんよねぇ。まず歩くのが基本。
で、歩いてると、これからの事とかをいろいろ考えて、「ああ、こういう事をしたいなぁ」とか無理のない、自然な欲求としての目標とかも湧いてくるんですね。で、それに沿って知識を得ようとか思うわけです。うまくつながっていく。そういうつながりみたいな事がすごく大事だなぁって思うのです。
とは言うものの、ほんと、英語の練習をしだして本を読まなくなってしまったので、やばいなぁと思っておりまして、「自主カンヅメ」して本が読める喫茶店等を、いまは物色してるところなんですね。
そうそう、あと、もうひとつ本を読まなくなった理由というのがあって、それは、「読書のまとめ」というのをやりだしたって事ですねぇ。
読んだら読みっぱなしはいけない。ちゃんと復習して頭に入れないと意味がないし、その知識を実践で活用して効果を実感して体得していかないと何のために読書してるのかわからなくなってしまいますからね。
ということで、本のまとめとかやりだしたら、これが効果は高いんだけど、時間がけっこうかかるので、またまた本が読めなくなってしまってるのです。
もともと、飛ばし読みも含めて、月に10冊程度しか読んでなかったのが、もういまや月に一二冊が限界になってます。恐ろしく少ない。これじゃいかんよなぁって思う。
速読とか習いにいこうかしらとすら思うんですけどね。うーむ。
ま、とにかく、いまはそんな感じであります。
本、読まなきゃなぁ〜。うーむ。どう環境を作ろうかしら。
なんでかというと、理由は単純で、また英語の練習に時間を使ってるから。
やっぱりあれだねぇ、仕事しながら勉強とかしようと思ったら、一日に1時間くらいが限度やねぇ。そんなに、なんでもかんでも勉強できるわけではないですな。
で、冷静に考えてみると、自宅から事務所に向かう電車の中、約20分くらいというのが、実に貴重な「勉強時間」なのだなぁと思うのです。
片道20分、往復で40分。これに、外食した時の食後10分とか、寝る前の10分とか、そういう切れ端の時間だけしか読書や勉強に振り当ててないんですね。結局の所。
でも、毎日の事だから、累積効果はすごく大きいんです。自宅と仕事場と、2つの物理空間があるって事が、ここではすごく重要で、仕事をするために事務所に行かないといけないっていうのが、気持ちの切り換えにもなっているし、その切り換えの行き帰りの時間がクールダウンの時間でもあり、勉強時間にもなるって事なんですね。タイミング的に無理がない。
●仕事が終わる
●駅まで歩く
●歩きながら、仕事の行く末を考える
●電車に乗って、将来のために本を読む
というようなサイクルですね。これが出来上がってるんですね。多分。こういう人はビジネスマンには多いと思うんですけどね。こういうサイクルなしに、「勉強する」なんて事ができるはずがないって思うのです。
だから、会社に通う人は、これがひとつの大きなリソースになっているなぁと思うんですよ。通勤時間は必ず存在してるわけで、その強制性が良い意味で生きるんだと思う。これが、家にいてるだけだと、よほど意志が強くない限り、定期的に本を読むなんて、できないと思うんですよね。
自営業なので、自宅で仕事をすることもあるんですが、そういう日は本当に本が読めない。日常に埋没してしまうんよなぁ、どうしても。
で、いまは、この貴重なリソースを英語の練習に使ってるから、本が読めないわけです。つくづく時間というのは有限だよなぁって思う。
時間というのは、ようするに「環境」によって創造されるって事なんだよなぁって思うのですよ。いくら「本を読め!」と言われても、テレビがあって、家族がいて、雑談したり部屋の片付けしたりとか、そういう環境の中では、やろうと思っても、まずできない。
電車の中という「本を読むしか他にすることがない」という環境があるから、「本を読む時間」というのが生まれるわけですからね。ここが、恐ろしく重要なんだと思うのです。
この間の8/13日の日記にも書いた、「自分に優しくする」ってことですね。
http://diarynote.jp/d/12917/20070813.html
自分に優しくして、まず環境を整えてやる。そうすれば、多少は勉強も進むってことなわけです。
英語に関する勉強法の本も何冊も読みましたが、それなりに成果をあげてる人っていうのは、この「環境の力」のすごさを、ほんとうに良く知っていて、「家で勉強しようと思うな」「喫茶店に勉強道具を持ち込め」とか勧めてるんですね。ようするに「自主カンヅメ」です。他にすることがない環境に自分を閉じこめるわけですね。そうしないと人間、なかなか勉強なんかやらないって事です。
これ、言えてるのよなぁ。本当に。
考えてみれば、定期的に本を読むようになったのは、一人暮らしで、定期的にファミレスに通ってた時期というのがあって、そこで読むっていうのがすごく多かったんですね。食事のついでに読む。これが相当に大きかった。(最近はこの時間が減ってるのも難点。自分で作ったりするのが増えたので。)
やっぱり、本を読むっていうだけの事でも、環境が整ってなけりゃ、無理ですわね。
フリーで仕事をし始めた最初の一年、二年というのは、自宅で仕事をしていて、プライベートと仕事の切り分けが全然できなくて、ハッと気付くと読みたい本を読むという、基本的な事すら全然できてなくて「あー、ちゃんと集中して本を読みたい」とか思ってたんですね。
それでちょっと贅沢だと思ったけど、自宅とは別に事務所を持つことにしたんです。支払いとか大変なんだけど、とにかく一人の時間をキチンと確保しないとどうしようもないって気持ちだったんですね。「いつ電話がかかってくるかわからない」とか思ってると、本当にプライベートに行動するって事が気持ち的にしんどくなるんです。
で、イメージとしては、事務所で仕事に関係する資料や、自分の興味ある本をしっかり読み込むって事を考えてたんですけど、実際には「自分の興味ある本」は事務所では読めないんですね。仕事するから。仕事の資料を読むとかだけしかしない。
結局、行き帰りの電車の中が最も重要な読書時間になってしまったということですね。
それと、プライベートと仕事の切り分けをキチンとすると、確かにイライラは格段に少なくなったんですが、意外にも重要だったのは、「通勤での徒歩時間」だったんですねぇ。つまり「歩く」という事です。
通勤すると、嫌でも歩きます。毎日。
これが良いわけです。
大阪人なので、梅田や難波を少しうろちょろしてから帰るとかすると一日一万歩というのは、それほどしんどい目標ではなくなるんですね。普通に通勤するだけで必ず4〜5000歩くらいは確実に歩きますから。一万歩なら、それに1時間弱歩く時間を足してやるだけのことでして。
なので、事務所を持って公私を切り分けたから、精神的に楽になったというのもあるけれど、なにより「嫌でも毎日歩くようになった」という環境の力が、これまた精神の安定に与える力は、もの凄く大きいわけです。
ここしばらく、田舎の生活もいろいろ体験してきたからわかるけど、田舎の人は歩かないんですね。もうずっと車だから。車がなければ生活が成り立たないから。でも、それはかなり不健康だと思う。やっぱり毎日歩かないとなぁ。
歩くという有酸素運動をしてなくてイライラして運動不足になってくると、どういう事を考えるかというと、激しい運動をして取り返そうとか思うわけですよ。歩くのではなく走るとか、あるいはジャズダンスに行くとか、週に一度でいいからヨガを習いに行こうとか、そういう「一気に取り返す」っていうのを考えてしまう。そういう発想になってしまうんですよねぇ。
でもねぇ、まず毎日歩くってのが基礎でして。歩くという基本的なところができてないと、体を壊すのが多い。これが。スポーツ選手なんてそんなのばっかりだし。老人の長生きの秘訣も、ひたすら「歩く」なんよねぇ。まず歩くのが基本。
で、歩いてると、これからの事とかをいろいろ考えて、「ああ、こういう事をしたいなぁ」とか無理のない、自然な欲求としての目標とかも湧いてくるんですね。で、それに沿って知識を得ようとか思うわけです。うまくつながっていく。そういうつながりみたいな事がすごく大事だなぁって思うのです。
とは言うものの、ほんと、英語の練習をしだして本を読まなくなってしまったので、やばいなぁと思っておりまして、「自主カンヅメ」して本が読める喫茶店等を、いまは物色してるところなんですね。
そうそう、あと、もうひとつ本を読まなくなった理由というのがあって、それは、「読書のまとめ」というのをやりだしたって事ですねぇ。
読んだら読みっぱなしはいけない。ちゃんと復習して頭に入れないと意味がないし、その知識を実践で活用して効果を実感して体得していかないと何のために読書してるのかわからなくなってしまいますからね。
ということで、本のまとめとかやりだしたら、これが効果は高いんだけど、時間がけっこうかかるので、またまた本が読めなくなってしまってるのです。
もともと、飛ばし読みも含めて、月に10冊程度しか読んでなかったのが、もういまや月に一二冊が限界になってます。恐ろしく少ない。これじゃいかんよなぁって思う。
速読とか習いにいこうかしらとすら思うんですけどね。うーむ。
ま、とにかく、いまはそんな感じであります。
本、読まなきゃなぁ〜。うーむ。どう環境を作ろうかしら。
知らない世界を知ると言うこと。
2007年8月21日唐突に書きたくなったので書いてみます。
それは「知る」という事です。
友人や知り合いなど、久しぶりに会った時に、昔と話題の種類が全然変ってなかったりすると、すごく妙な気持ちになります。
たとえば昔、マンガ好きだった奴と会って話すと、昔通りマンガの事しか話さない、みたいな…。
そういうのがもう、たまらなくつまらないのですね。
なんと言えばいいのか…。
長く生きてきて、「知らない世界を知ろう」としなかったのか、君は、っていう気持ちになります。
この半年で、住み家を、生まれた場所に戻してみたのですが、それに際して中学校時代の友人で、不動産業を営む男に、いろいろと相談に乗ってもらったわけです。
で、ちょうど10年ぶりぐらいで話をしたのですが、実に面白かった。
成長してるんですね。
「知らない世界を知る」という事をやっている。学習してるんです。いろんな事を。
で、こっちもいろいろ学習しているので、そういう話をすると、実に味わい深い。
仕事の運営の話。家庭生活の運営の話。男と女の行き違いの話。人生の中間地点にいて、どう生きていくべきかというような話。勉強するという事に関しての話。まぁほんとにいろいろ話しても充分、お互いに経験も重ねていて、思索が深まっているというのを感じるわけです。
そうだよなぁって思う。知らない世界を、知っていこうとすれば、こういう事になるよなぁって思うわけです。
知らない世界を知るためには、まず自分が「知らない」という事を自覚しないといけないんですね。
ある種の自己否定なんです。
自己否定なんだけど、あくまで「私の視野には限界があるのだ」という割り切りという種類の否定、「考え方の否定」であって、「自分自身の否定」ではないんですけどね。
逆に「強い自己肯定」があるからこそ、「ちょっとやそっとでは、私は揺るがないさ!」と「知らない世界」に首を突っ込めるんですが。
まぁそんなことで、視野を日々広げてる人間の話は、実に面白い。
しかし、これが、十年一日、話題が変らない知り合いというのもいてるわけです。興味の幅が同じ。たとえばアニメだとか。ゲームだとか。いやまぁ何だっていいんだけど、ずっと同じ種類の何かなわけです。パソコンとかね。
ようするに興味の幅、視点、そのものが狭いんです。
聞いててバカバカしくて疲れる。
なんでそういう事になるのかなぁって思って考えてたら、ようは「苦手なものには近づかない」という生活態度なんだろうな、という結論に達しました。
苦手には近づかない。
だからたとえば、歴史の知識が弱いとすると、そこはほったらかしにする。まったく強化しようとしない。
で、その代わり、「知っている事の知識の強化」を行い、世の中のすべての事を「自分の知っている世界」からの歪んだ視点だけで見る、とかをするわけですね。
いやー、それはアカンやろ。単に世間が狭いだけやんけ、とか思うんだけど、そういうバランスの悪さには気付かないんだよなぁ、そういうタイプの人間は。
ようするに「見たくないものは見たくない」だから、まぁしょうがないと言えばしょうがないんだと思うけど。
なんか、そういう事って、「そんなんで、生きてる意味ある?」とか思ってしまう。
学ぶべき事なんて、それこそ世の中に、いくらでもあるのに。
どうなんでしょうね、こういう事って。どうでもいいのであんまり考えてないですけど、そら「知ってる事にばかり詳しくなる」だけなら、あんまり考えなくて良くて、楽でいいよなぁとは思う。でもそれでいいんだろうか?
まぁ、よーわからんです。
人生は、もっと多様で、ものすごいストーリーとドラマが隠れてるよ、とか思うんですけどねぇ。
まぁ、いいや。そういう人も幸せならそれで良し。
という事で。
それは「知る」という事です。
友人や知り合いなど、久しぶりに会った時に、昔と話題の種類が全然変ってなかったりすると、すごく妙な気持ちになります。
たとえば昔、マンガ好きだった奴と会って話すと、昔通りマンガの事しか話さない、みたいな…。
そういうのがもう、たまらなくつまらないのですね。
なんと言えばいいのか…。
長く生きてきて、「知らない世界を知ろう」としなかったのか、君は、っていう気持ちになります。
この半年で、住み家を、生まれた場所に戻してみたのですが、それに際して中学校時代の友人で、不動産業を営む男に、いろいろと相談に乗ってもらったわけです。
で、ちょうど10年ぶりぐらいで話をしたのですが、実に面白かった。
成長してるんですね。
「知らない世界を知る」という事をやっている。学習してるんです。いろんな事を。
で、こっちもいろいろ学習しているので、そういう話をすると、実に味わい深い。
仕事の運営の話。家庭生活の運営の話。男と女の行き違いの話。人生の中間地点にいて、どう生きていくべきかというような話。勉強するという事に関しての話。まぁほんとにいろいろ話しても充分、お互いに経験も重ねていて、思索が深まっているというのを感じるわけです。
そうだよなぁって思う。知らない世界を、知っていこうとすれば、こういう事になるよなぁって思うわけです。
知らない世界を知るためには、まず自分が「知らない」という事を自覚しないといけないんですね。
ある種の自己否定なんです。
自己否定なんだけど、あくまで「私の視野には限界があるのだ」という割り切りという種類の否定、「考え方の否定」であって、「自分自身の否定」ではないんですけどね。
逆に「強い自己肯定」があるからこそ、「ちょっとやそっとでは、私は揺るがないさ!」と「知らない世界」に首を突っ込めるんですが。
まぁそんなことで、視野を日々広げてる人間の話は、実に面白い。
しかし、これが、十年一日、話題が変らない知り合いというのもいてるわけです。興味の幅が同じ。たとえばアニメだとか。ゲームだとか。いやまぁ何だっていいんだけど、ずっと同じ種類の何かなわけです。パソコンとかね。
ようするに興味の幅、視点、そのものが狭いんです。
聞いててバカバカしくて疲れる。
なんでそういう事になるのかなぁって思って考えてたら、ようは「苦手なものには近づかない」という生活態度なんだろうな、という結論に達しました。
苦手には近づかない。
だからたとえば、歴史の知識が弱いとすると、そこはほったらかしにする。まったく強化しようとしない。
で、その代わり、「知っている事の知識の強化」を行い、世の中のすべての事を「自分の知っている世界」からの歪んだ視点だけで見る、とかをするわけですね。
いやー、それはアカンやろ。単に世間が狭いだけやんけ、とか思うんだけど、そういうバランスの悪さには気付かないんだよなぁ、そういうタイプの人間は。
ようするに「見たくないものは見たくない」だから、まぁしょうがないと言えばしょうがないんだと思うけど。
なんか、そういう事って、「そんなんで、生きてる意味ある?」とか思ってしまう。
学ぶべき事なんて、それこそ世の中に、いくらでもあるのに。
どうなんでしょうね、こういう事って。どうでもいいのであんまり考えてないですけど、そら「知ってる事にばかり詳しくなる」だけなら、あんまり考えなくて良くて、楽でいいよなぁとは思う。でもそれでいいんだろうか?
まぁ、よーわからんです。
人生は、もっと多様で、ものすごいストーリーとドラマが隠れてるよ、とか思うんですけどねぇ。
まぁ、いいや。そういう人も幸せならそれで良し。
という事で。