ということで、またフラガールの紹介。我ながら好きやなぁ。

で、今日はメモリアルボックスの方のご紹介でありまして。

映画も好きだったんですが、このメモリアルボックスがまた良くて。

というのは、映画の中でフラを踊っていたフラガールたち、それぞれの練習風景とかのドキュメンタリーが入ってたからなんですね。それが良かったのです。僕が期待していた「フラガールたちの練習と青春群像」みたいなことは、こっちのドキュメンタリーの方で満喫できました。これがかなり僕的にはヒットでして、「ああ、メモリアルボックス買って良かったぁ!!!」と満足したのであります。

映画では、ほんと、フラガールたちってほとんど前に出てこないですから。蒼井優としずちゃんくらいのものだし。

でも、映画をご覧になった方はわかると思うのですが、この映画の魅力は、なんと言っても、クライマックスのフラガールたちの見事に踊りきる姿なわけです。まさに踊りが主役の映画なんですね。

確かに、蒼井優はキチンと踊りきってましたが、蒼井優だけじゃなくて、フラガール全員が、実に見事にフラ(というかタヒチアンダンスらしいのだけど)をちゃんと踊っていて、その全員が一斉にレベルの高い踊りを踊っているというところがまた、この映画の迫力を何倍にもしている、素敵なところなのです。

●この素晴らしいフラを、彼女たちは、いかにして身につけたのか?

というのが、このドキュメンタリーで描かれているわけなんですよ。これが実に良かったのであります。学びのステップをドキュメンタリーで見るって言うのは、本当に面白い。

当然、常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンズ)という実在の施設があるわけですし、そこでフラを踊り、教えている方が教師となって、新人女優やら女優の卵やらを教えるわけです。

みんなそれぞれに、多少はバレエをやっていたとかですね、かじったことはあるとは言うものの、ほぼ全員が素人。まったくフラの経験がないというような人たちなんです。

それをクランクインまでの三ヶ月か、せいぜい踊りのあるシーンのクランクアップ前五ヶ月くらいで、映画のクライマックスを盛り上げるのにふさわしいくらいの素晴らしい踊りが、ひととおり踊れるくらいに仕上げないといけないわけです。

できるの? そんなこと?

って感じなんですよね。

人を感動させるってのは、そんな生半可なことじゃないですから。

で、こういう「学び」に関するドキュメンタリーとか、僕はもう、もともと、ものすごく興味を持って見てしまう人なんです。なので、どういう手順で教えていくのかとか興味津々だったんですが、いや、ここがやっぱりすごい。

もうね、ひたすら基本、なんですよ。
全然フラの振り付けとか教えない。
とにかく基本。
柔軟体操とか基本ステップとか、あるいはクラシックバレエの基礎とか。とにかく基本基本基本で、基本ばっかり徹底して練習させてるわけです。

「とにかく基本ができてなくては、振り付けに入れませんから。」

と、映画で松雪泰子が演じた「東京から流れてきた教師」のモデルにもなった、カレイナニ早川先生はおっしゃる。実際に何人、何十人ものダンサーを育ててきた人だから、やっぱり違いますわなぁ。どれだけ時間が無くて、促成栽培がしたくても、へんなテクニック的な教え方はしない。「基本からみっちり」。これだけ。いや、さすがであります。

で、フラというかタヒチアンダンスっていうのは、「腰フリ」が入るんですね。腰に腰ミノつけて踊ると、腰ミノが、実にあざやかに宙を舞う。

「フラガール」を見た人なら、あの腰ミノの動きの見事さはよくご存じだと思うのですが、この腰の動きというのが、なかなかできないらしくて。

もう、できない人は泣きそうな感じなわけですよ。同じように腰を動かしているのに、腰ミノがぴくりとも動かない。全然動かない。宙を舞わない。

できてない人には、これは辛いだろうなぁとは思うんですね。だって回りはできてるんだから。だけど、できてないものはできてないからしょうがないんだよね。先生とか指導助手の人とかは、ただひたすら「そのうちちゃんとできるようになるから」と言ってなだめて、で、また、ひたすら基本練習ばかりを繰り返す。そういう事なんですね。

今年の6月16日の日記、「基礎に手間取り飽きてまう」でも書きましたが
http://diarynote.jp/d/12917/20070616.html
ほんとうに、この「基礎のできていない状態」というのは辛いんです。自分にだけ才能がないような、「あいつらと俺とは別だ」みたいな気持ちになって疑心暗鬼になっていく。「できてない」というのは、そういう世界ですから。

で、それが「突然出来る」ようになるまでは、「できねー」っていうのが延々続くんですね。「多少マシになってきた」とかいうのが、いまいち実感できない。もうずっと、ひたすら「できない」なんですよ。

でも、そこを諦めずにがんばる。基礎を固める事に力を費やす。あわてて、基礎もできていないのに、ワンステップ省略して、振り付けを覚えようとしたりしない。基礎のステップと動作練習を繰り返す。ひたすら。

単純で、つまらなくて、飽きてしまうような単調な練習の繰り返しなんだけど、でも、それをえんえんやる。とにかくやる。ごちゃごちゃ考えない。ただひたすら基本をやる。

そうすると、ある日突然、腰ミノが宙を舞うんですね。ある日突然。ほんとに。

「ああっ! できたよ! できた!!!」

って彼女たちは喜ぶ。もう本当によろこぶ。心底うれしいんだと思う。もう本当にそれだけなわけです。うれしい。それだけ。

もうね、これが良くて。
僕もウクレレ練習してますが、はじめてロールが出来たときのうれしさとか、たまらないものがありましたしねぇ。ものすごい感激なんです。ほんとに。「できるようになる」っていうのは、本当にうれしいんです。

この練習プランを立てた、カレイニナ早川先生の言葉を引用すると、

「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」

ってね。

いやぁ、「そうなんやろなぁ」って思うわけです。
僕なんか、ほんとうに基礎のできていない事柄の方が多いから、「そうだねぇ、その通りだねぇ」と、実感持って語ることはできないんですが、でもそうなんだろうと思う。基礎が出来てしまえば、振り付けなんて一発ではいる。そう思う。きっときっとそうなんだ。僕はそれほどの体験はないけど、でもやっぱり、そうなんだろうって思う。

でもねぇ、この基礎を身につける期間ってのを、やっぱり普通の人は耐えられなくて、あわてて「時間もないから、まず振り付けを覚えて…」って考えちゃうわけですよ。ほんと、わかってない人間はどうしてもそういう方向に行っちゃう。僕もそういう失敗ばっかりやってきたよなぁって思うんです。

で、基礎を飛ばしていきなり、振り付けを覚えると、練習の途中で、体が動かせなくて、というか、まぁ具体的に言うなら「腰ミノがふれなくて」かな? そういうことがひっかかってしまって「振り付けが覚えられない」になってしまうわけです。もうそれは悲惨ですね。「全然覚えられない!」にしかならないんだから。基礎が出来てないっていうのは、そういう事なんです。全然できない!っていう絶望感しかやってこない。

で、こういう場当たり的なやり方を普通だと思ってやって、その絶望感にぶち当たってしまうと、とたんに言い訳を言い始めるんでうすね。

「振り付けが覚えられなかったので、私は踊りに向いてない」とか。で、そういう言い方が、多分世間的にも成立してしまったりするんでしょうね。基礎ができていなくて、高度な事ができていないのを、難しい課題のせいにしてしまう。いや、それは確かにその通りなんだけど、でもそれは、振り付けが難しいんじゃないわけですよ。単に基礎が出来てないだけなわけです。

習い事って、たいていみんな同じなんですよね。基礎が出来てないと難しい。でも、「できた!」って実感がないと面白くないから、難しい課題を先にやろうとして、基礎練習をすっとばしてしまうんですね。で、基礎をすっ飛ばしてるから、全然できない。それで挫折する。で、挫折した理由に「●●は難しい」とか言う。

●●のところは何が入ってもいいわけです。「英語は難しい」でも「楽器演奏は難しい」でもなんでもいい。とにかく「難しいからできなかった」と言って、「僕の努力不足ではないよ。ほんとに難しいんだもん。」って言うわけです。

でもなぁ、ちゃんと出来てる人もいてるよ? って思うわけです。その出来てる人と出来てない人の違いって何? って思う。それをいつも思う。
で、その違いって、結局、基礎を大事にしてるかどうかなんよなぁ。とどのつまり。

で。

これは、多分、人生の全てに応用できる事なんだろうと思うわけです。

まず生きて行くには、「人生の基礎」をみっちりやらないといけないんじゃないか?って思うわけですよ。

「人生の基礎」というと何かというと、失敗したらそれを自分の責任として受け入れるとか、間違った事をしたときに「ああ、恥ずかしい」と感じるとか、ゴメンナサイと謝るとか、何かを教えてもらったらありがとうと感謝するとかですね。そう言うことが基本でしょう。基礎ね。
まず、そういう、「人生の基礎」をみっちり身につける、というか、味あわないといけないんじゃないかなぁって思うんです。

そういう人生に対する態度は人生のすべての事、それこそ、踊りでもなんでも、学習というものの伸びを促進する、良い成長剤にもなるんだと思うんです。

たぶんね、ちゃんとゴメンナサイとかありがとうが言える人は、何を習っても修得が早い。不思議な気もするけど、でもそういうものなんですね。たぶん「教え」という、すばらしいギフトを受け取る気構えができているかどうか? って事なんでしょうね。それができているかどうかで、「先生」の教えを吸収できるかどうかが決まってくるんだと思う。

だから、ありがとうとかゴメンナサイっていうのは超大事なんだろうと思うのですよ。

自分の失敗を認めるという基礎なくして学習は成立しないんですね。で、失敗した時に、ちゃんと「ああ、恥ずかしい」「カッコ悪い」と顔から火が出るくらい恥ずかしい思いを「実感」しないと「感じる」という心の基礎力がつかないし、それと同じ事で、回りのみんなに、「ありがとう」と感じる感謝の気持ちなくして、他者との結びつきはありえないわけです。当然、「師」から何かを学ぶって事もできるはずがないのです。

だから、先生の言う事を聞くという、1年生の課題ができてなくて、自分なりのやり方をする、という2年生の課題ができるわけがないのです。

でも、世の中、自分が基礎ができていないのを棚にあげて、「私の知らないところに、私の知らない正しさがあるなんて信じられない」と言うとか、国語のテストで「感じ方は自由だろ」と自由記述方式の設問を否定するとか、「誰かの正しいやり方に従うなんて、一番つまらない」とか言うとか、そういう「自分なりで良い」というような間違った個人主義ってのがのさばっててイライラします。

それでうまく行くなら別にそれでもいいんだけど、たいていうまく行ってないしね。ほんと。

結局、はずせない基本っていうのはあるのであって、その基本が出来ていないとその先は、何をどうやったって、たどりつけないわけです。どうしても絶対に、どうあろうと無理なんですね。

幸せになるためには、だから基本をみっちり、というのは外せないんだと思うのですよ。不幸というのは、ようするに基本が身に付いてないって事だと思う。ほんとうに。アダルトチルドレンの概念を学んでから、よけいそう思うようになりました。対人関係の基本やら、本当に大切な家族との関係やらの「基礎」が身に付いてなくて、何を学ぼうともうまく行くわけないよなぁって思う。

特に、こういう踊りとか、スポーツ系はよけい基礎が大事でしょうね。フルマラソンを走るためには、走るのも大事だけど、まず日々歩いてるとかの基礎がなきゃやばいと思う。一日に一万歩も歩いてないメタボ人間が、「毎日歩く」もしないままに走ったりしたら、腰を悪くするだけでしょう。腰を悪くしてしまったら、走るどころか、歩くのすら辛くなる。そういう事です。

「基礎をすっ飛ばしたい。」

と思うのは勝手だけど、それをすっ飛ばしている限り、どうしたって絶対に、永遠にたどり着くべき所にはたどり着かない。これが、この数年ずっっっと考えてきた、人生の基本だなぁと、最近は思うのですよ。

逆に言うと、本当に賢い人は、まず基礎からキチンと固める。それが一番近道で早いと知ってるんでしょうね。親に教えられたか、良い先輩がいたか、そう言うことはわかりませんけど、賢い人は基礎をすっ飛ばさない。まず最初にみっちり基礎をやる。それさえやれば、後が自由自在で、「振り付けが一発で入る」ということを、体で知ってるという人がいてるわけです。

そういうことなんよなぁ…って最近はつくづく思うのです。

というのは、僕が歳を食って来たからです。

人生の残り時間は、それほど多くはない。

だからこそ、です。

だからこそ、基礎をていねいにやらなければならない。

いまからでも遅くない。

とにかく基礎からていねいにやらないといけない。

基礎を飛ばしたら、それこそ、ただ遠回りをするだけなのです。

ということで、もう一度、カレイニナ早川先生の言葉を書いておきたい。

「短い期間ですから、まず基礎からやりました。毎日毎日基礎ばーっかりやってましたら、みなさん不安になりまして、どうして?どうして?ってなってましたが、基礎が出来ていなくて、振り付けに入る事はできませんからね。しかし、(基礎ができて)振り付けに入りましたら、1時間で一曲、パシーッと入りましたものね。早い人は30分で入りました。やっぱり基礎が大切なんです。」

まず基礎。
ひたすらそれだと思う。

いろんな意味で、「フラガール・メモリアルボックス」
良かったです。
えー、どういうわけか、家具について書きたくなってしまいました。
なんでかなぁ。よくわからん。

でも、ずっと思ってたことが、もの凄くあって、はっきり言って、日本の洋風家具(テーブル・ソファ・ベッドなどなど)はどれもこれも、どうしようもなくダメダメなのだ、という事を、この際、はっきり書いておきたいと思うのであります。

別に家具に詳しい訳じゃないよ。でも、日本で生活する普通の日本人として「おかしいやんけ、おまえらアホか!」という事がどうしても、どうしても、どうしても言いたくなってしまったので、書いてしまいます。

結論から先に書くと、

●欧米の家具のスタイルそのままが日本の生活にマッチするわけないやろ!ドアホ!

という事であります。

もうね、これを私は言いたい。すごく言いたい。

数年前に中国に行ったのですが、はっきり言って同じアジアである中国とすら、家具という点では折り合いはつかないんだと僕は思う。

日本には日本特有に事情と暮らしがあるんであって、そこを踏まえた上で家具を設計しろ、バカ!と言いたくなるのであります。

中国から日本に帰ってくるとね、いかに日本が狭い国なのかが、嫌というほどわかるのですよ。
もうね、島国でね、山と海との間に挟まれた、わずかな空間に、じっと息を潜めて生きているのが日本人なのだというのが嫌でもわかっちゃう。

中国みたいにね、ただひたすら、何もない、広大な土地だけが、ずんべらぼうにビトーっと広がっている国とは「空間」の捉え方そのものが違うよなぁ」って思わざるを得ないわけです。

はっきり言って、布団が生まれて、それを押し入れに入れるっていう生活は、国土が狭いからです。広ければ、あんな「折りたたみベッド」なんてものを発明しませんよ。

で、ベッドみたいに「敷きっぱなしの布団」を考えるなら、その上でなんでもできる「畳」に進化するのは当然です。昔むかしは、畳って「ベッド」だったんだから。

で、です。

もうね、いいかげん、あのベッドの「ヘッドボード」というのをやめなさい。

邪魔だ! あんなもん。

それから、ソファの肘掛け。
椅子の肘掛けも一緒!

邪魔。
不要!
いらん!
あんなもん。

なんであんなもんがついてる、欧米の真似っこデザインばっかりチヤホヤするかねぇ。

いやまぁ、しょうがないんよね。戦後の数十年くらいしか、テーブル・チェア・ベッドの生活してないねんもん。そら、練り込みが浅いのは当然です。

でもねぇ、そんな大陸の文化をそのまま真似ても、不便なだけだっつーの。いいかげん、家具を作ってる奴らも気付けよな。鈍感か、おまーらは。

あと、四つ脚のテーブルね。

いらん!あんなもの。T字脚にしろ!それをスタンダードにしろ!日本の住宅は狭いんだ。四つ脚だと、椅子を後ろにドーンと引かないとテーブルから立てないんだよ!!!空間のムダそのものなの!いらん! あんなもの。

ベッドのヘッドボードも同じ。ようは枕が落ちないようにってつけてるだけでしょ? 落ちないって。そんなもの。バカか、日本の家具デザイナーは。ほんとに。自分たちの生活を、もっとちゃんと見ろ。観察しろ!って言いたくなる。

あ、日本の環境が特殊なので、海外からの輸入家具に至っては、もう最初から話にならないので、論外ね。

前に、マンションでフローリングの部屋で暮らすために、ベッドに関してはずいぶん悩んだわけです。で、こういう事は自分で悩んでいても話にならないので、子供の頃からずっとベッドで寝ていて、布団で寝たことがないという知り合いに、いろいろ教えてもらったわけですよ。そしたら、

「マットレスが大事。あれは使い捨て。買い換えるつもりで買いましょう。」

という事と、

「とにかく、ヘッドボードがついてるベッドだけは、絶対にやめなさい。あんなムダなものはない。」

という事を強く言っておられた。

ねぇ。
知らなかったら、聞く、ですよ。
これこそ、生活者の実感。真実の声。

「ああ、そういうことなんや」って思いました。で、その人に「そうですよね、どうしたってヘッドボードなんていりませんよんね。でも、なんでヘッドボードのあるベッドしか売ってないんでしょ?」って聞いたら、「そら、みんな知らんからやろ。」って、こともなげでした。

そうなんよね。ベッドで寝るとか、ベッドのある生活とかしてみないと、あのヘッドボードが、いかに邪魔であるか。どれほど不快でうっとおしくて、ムダの極みであるかということに、誰も気づけないわけです。

ほんと、ええかげんにしてくれって思う。あんなくだらん商品を、いつまでも作ってるんじゃないよ、バカが。ほんと、そう思います。
くだらんことするな、ボケ。おまえ、実際にそのデザインの家具を自分の部屋に入れてみろ! そんな無意味な板が部屋の空間ににょきっと立ってる不気味さとくだらなさが、どれだけこっけいか、すぐにわかるって。ほんとに。

ベッドの頭部部分に腰掛けてちょっと休むとか、靴下をはくとか、そういう事すらできないし、視界も遮られて、部屋自体が、ものすごく狭く感じるのですよ。
ああもう、ほんとうにうっとおしい。

ソファや椅子の肘掛けも一緒ですわね。人間の動作や動きを、不必要に制限するだけの役割しか、ほぼありません。全然快適でない。あんなものがあるが故に、生活が不快になるのであります。

そりゃまぁね、自室が20畳で、リビングが50畳って言うなら、べつにそういう作りでも、腹は立たないけどさ。そうじゃないもんさ。違うもん。ここは日本で欧米ではない! 断じて違う! 島国の狭い狭い平地に、へばりつくように、みんな生きてるんだよ。

だから、もういいかげんに、くだらない欧米の真似っこのデザインの家具は作らないでくれ。日本人のための、日本人による、私自身が快適に過ごせる家具っていうのを作ってくれって思う。ほんとに。

でね。

でも、これが、実は、まともなテーブルと椅子っていうのも、世の中には存在してるんです。

どこにあるかというと、ファミレスとか、飲み屋とか、そういう外食産業の備品。

ああいう店のテーブルとか椅子ってね、全部特注というか、お店のオペレーションを練りに練って考えて設計されてるんですね。

だからムダがない。
さっと座れて、ぱっと立てるように、椅子には肘掛けはついてないし、テーブルだって、T字脚とか、あるいはセンターにものすごく重い鋳鉄の一本脚があるタイプだったりするわけです。

あれ、たいてい特注ですから。ものすごく金がかかってる。

で、ファミレスとか飲み屋で何時間も居座ってて、トイレに席を立つのに、「ああ、出にくいなぁ」とか思ったことあります? ないでしょ? そりゃそうです。店オペレーションが安定して進むように、そういう無駄な動きが出ないように設計されてるんだから。

四つ脚のテーブルなんか置いた日にゃ、椅子を後ろに引く空間をテーブルごとに見込んでおかないといけないから、同じ店舗面積なのに席数がガクンと減って儲からなくなっちゃうわけですから。

でもね、たまに行くレストランで、トイレにすっと行けるのに、なんで、毎日暮らす、じぶん家のテーブルが、ムダに後ろに椅子を引かないと立つこともできない設計なのよ! おかしいやろ、それは。

でも、市販の家庭用の食卓テーブルって「四つ脚でオシャレ〜」とかばっかり。

じゃかぁしいわ!オシャレとかそんなことどうでもええんじゃ!トイレに行くときにさっといかれへんかったら、それは欠陥商品じゃ、ボケ!

そういう風にしか思わないのですよね。
結局、生活している人の実感まで考えて設計しているような、まともな家具デザイナーなんて、日本にはほとんどいてないってことですわ。

あーつまらん。
ほんとうにつまらんですね。

ベッドで言うと、無印良品の「足つきマットレス」くらいかなぁ、まともな商品って言うと。
ほかにまともなベッドを見たことがないですよ。ほんとに。

欧米のカッコだけ真似て、自分たちの生活そのものを、ちゃんと直視してないんだと思うんですよね。

それは、別にデザイナーが悪いんじゃなくて、一般消費者が「カッコいい家具」にあこがれるからいけないんだ、というところはあるにしても、それでも、ものづくりをするなら、もっと我々自身の生活を、もっと素直に普通に見つめ直してもいいんじゃないかねぇって思いますよ。

ここは日本であって、中国みたいにだだっ広いだけの世界じゃないんだと。三畳一間の茶室に宇宙空間を見いだす、日本文化の国なんだと。そう言うことも、ちょっとは考えてデザインしなきゃ、デザインしましたとは言えんだろうが、って僕は思うのですが、さて、みなさま、どう思います?
人間の成長段階っていうのを考えると、

●甘く→●厳しく→●優しく

というようにたどってしまうのではないか? と最近思います。

最初は自分に対して甘いんですね。ものすごく甘い。何をやっても、自分の未熟さは棚に上げて、なんであっても他人のせいにしてしまいます。

正直言って、何かに依存しているような状態の人間は、みんなこれでしょうね。自分に甘く甘くしている。だから依存対象にずるずるべったりで、それでうまく行ってないのに、自分の甘さにも気づけないと。

まぁそんなもんでしょう。

で、そういう人が一番多いんだと思います。

で、そういう甘い甘い状態の中から、自分を客観的に見る力を少しずつ身につけて、ありのままの状態の自分を見れるようになってくる。

この「ありのままの自分」すら見れない人も、ものすごく多いとは思いますが、まぁ、少なくとも仕事の上での自分のありのままの姿くらいなら、世間にもまれているうちに受け入れざるを得ないから、直視するようになってきます。

で、この直視ができない人は、いつまでも「依存」の世界に入ったままになるんでしょうね。ゲームばっかりやってるとか、親子関係のベタベタした関係の中に埋没してしまうとか、自分の責任を棚にあげて、いつもイライラ怒ってるだけだとか。

でも、自分を直視できるようになると、「このままではダメだ!」となります。ある意味、自己否定ですね。自分に厳しくなるんです。

で、この数年、僕はずーっとこれでありました。

自分の弱いところを直視して、自分に厳しくして、弱いところを強化して、なんとかまともになっていこう! という感じだった。

んー、でもねぇ、これはこれであんまり意味ないって事に気付いてきたんですねぇ。

はじめのうちは良いんですよ。自分に厳しくしてると、いろいろな能力が伸びますし、勉強する気力も湧くし、いろいろ実行していって成果もあがる。

でもね。

人間一人で生きてる訳ではないわけですよ。

自分だけ能力を伸ばしたところで限界がある。周りみんなが能力を開花させないと、自分の環境が良くなるという事はないわけです。

そういう「自分だけ」の限界に気付いてくると、この「自分に厳しく」でアプローチしていた人間は、結局「なんでみんな努力せんのや!」と、イライラと怒ることになってしまうんですね。

それって、何かに依存して、自分で努力もしないで、だからうまく行かないで、それでイライラ怒ってる人間と一緒やん!

ねぇ?
でしょ?

ちゅう事は、自分に甘いままでも、自分に厳しく努力するのでも、どっちもダメって事やん!

あー、嫌になるなぁって思ってたわけです。

いや、ほんと、自分に厳しくして、自分なりに努力を続けて行くと、周りのサボりとか、すごく腹が立つようになるんです。

でもね、この「怒り」ほどムダな感情はないんですよねー。ほんとにまぁ、生産性が低いというか、マイナスにしか働かないんです。怒るのは、本当に損だよなぁって思う。

じゃ、どうすりゃいいのか?

って事を考えて行くと、とどのつまり行き当たるのが「自分に優しくする」って事なんですね。

「努力できないのはしょうがないじゃないか。努力する、なんて、本当に大変なんだから。」

と、当たり前の事をキチンと認めるって事ですね。ここまでは、自分に「甘い」のと実は、ほぼ同じなんですね。

で、「自分に甘く」というのと「自分に厳しく」「自分に優しく」の違いは、自分の問題点を直視して解決しようとするかしないかの違いなんです。問題があるのに解決しないって言うのは、不快な状況がずっと続くってことですから、こんな気持ちの悪い、「自分に優しくない」状態はないわけですから、「自分に甘い」っていうのは、すごーくしんどいわけです。辛くて苦しくて大変なままの状態です。

「厳しく」と「優しく」は、だから「問題点は解決せなしゃーないな」という腹のくくり方をしている態度、って事です。でそこは共通なんですけど、この後の

●方法論

が違うのが「自分に厳しく」と「自分に優しく」の違いなんですね。

方法論、なんですよね。実は。

厳しくする、というのは、ようは根性論なんです。どういうやり方、努力の仕方が良いかは分からんけども、とにかく頑張るというのが、「自分に厳しく」なわけです。

でも、「自分に優しく」というのは、それとは違って「どうやって努力すれば、いちばん効率的か?」と考えるとか、「根性論ではなくて、自然とやる気が出るようにするにはどうしたらいいのだろう?」と考えるとか、「自然と努力したくなるような環境を整えよう」と発想するとかの方法論の取り方なんです。

で。

この方法論の違いっていうのが、ここしばらくとっても気になってたことなんですけど、この違いを生み出す根本は、とどのつまり、自分を直視した上で、そういうダメな自分を受け入れて、それでも良いじゃないかと優しくするって事なんですね。

で、もうひとつ言うなら、ダメな自分を受け入れはするけれど、それは諦めることとは全然違って、「まぁ、それでもなんとかなるだろう」と楽観的になって、「なんとかこの問題点が解決しますよう、神様よろしくお願いします。」と祈るというか、運命にゆだねてしまう事のように思います。

なんちゅうかね、自分で自分の問題だけでも解決しよう! とか思うから周りが見えなくなっているのでありまして、自分を含めた周りみんなが、うまく行くように祈るというかね、なんかそういう感じ。

そういう感じで毎日何かしらコツコツと努力してると(ここはけっこう重要な気がする。努力は何かしらやってないとやっぱりダメな感じがする。)突然ある日、はたと良い解決策を思いついたり、誰かが良い解決策を持ってきてくれたりする。

なんかね、なんかそういう感じがありますね。

で、こういう「自分に優しくする」というアプローチって、とどのつまり、まず「自分を直視して」それから「自分に厳しくして」それから「厳しいだけじゃダメなんだ」と知ってというような段階を踏まないと到達しないんじゃないかなぁ? って気もするんですよ。

まぁ最初から「自分に優しく」が出来るような幸せな人もいてるんでしょうけどね。

んー、なんかね、最近はよくそういう事を考えてます。
自分に甘いだけの人が、いきなり「自分に優しく」はなれない気がする。とりあえずはいったん、「自分に厳しく」を通り抜けないと、なかなか自分に優しくはできないのかなぁって思うのですよ。

だからとにかく、みんな厳しくでも優しくでもいいから、とにかく「問題は解決して幸せになるぞ」って思わないと始まらないってことかなぁ。

とにかくね、みんながね、幸せになるのが一番いいんですよ。結局。

自分の身の周りの人が、みーんな、できるだけたくさん、幸せになる。それが一番だよなぁ。

ほんとにそう思います。
DVD ハピネット・ピクチャーズ 2007/03/16 ¥3,990 昭和40年、福島県いわき市は炭鉱の町だったが、石炭から石油へエネルギー源が変わり、閉山が続いていた。その危機に炭鉱会社が目をつけたのは観光。いわき市にレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」と作ろうとする。目玉はフラダンスのステージだったが、ダンサー募集に集まったのは素人の娘たち。ダンス教師として東京からプロのダンサ…

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ふと気付くと、この異様に大好きな、特別で特殊な映画の事を、僕はこっちの日記に全然書いてなかったんですねぇ。
しまった!!!
大間抜けであります。

もうね、ほんとにね、異様に好きなんです。
これこそが日本なんだよ。一番素敵な日本人なんだよって気持ちと、ウクレレ大好きな気持ちと、ハワイという島国の文化と運命と日本という島国の運命と、人間が努力することの素敵さと、そういうあんなこんなが全部一本につまっていて、もう私的には評価不能なんですね。

点数つけろと言われたら100点以外につけようがない。だってジェイク・シマブクロのテーマソングを聴くだけで胸がつまって涙が出そうになっちゃうもんなぁ。

ということで、いちおうDVDはスタンダードエディションの分を貼り付けてありますが、当然ながら私はメモリアルBOXの方を購入しております。
もう、とにかく大好き。なんでもいいんだ、とにかく良いのだ。それだけ。他に言う事はない。
この映画に関しては、誰かが悪口を言っていたとしても「見たんだねぇ。ならそれでいいよ。うんうん。」とニコニコしてしまう。もう別格で好きだなぁ。

単純に僕は、これは日本人の心の故郷、生き抜く力の根源そのものだと思ってます。

だって、これ、ほぼ実話ですから。ほんとに。
もうたまらん。また泣けてきた。

ちゅうことで、以下今年の2月4日のmixiの日記から転載。

大きく、日本の文化論みたいな事も書いてますので、良かったら読んでみてください。

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ちょっとこのごろ映画づいておりますが、今日はフラガールを観てまいりました。

しかし、なんだ? この映画は! 実に素晴らしい!!!
いやー、大好きですよ。いい。

話題になってたときは、何故か興味が湧かなかったんですが、よくよく考えてみればハワイだし、フラだし、ウクレレともつながってるじゃん! と、後から無茶苦茶に気になってきまして、観たくてたまらなくなってたのですね。

でも上映は終わってるし、DVD発売は三月だし、どうしたものかと。
で、たまたま、今日はホール上映があったので出かけてきたのでした。35mmじゃなくて16mmなのかなぁ。まぁ、そんなことはどうでもいいですけど。
いやー、面白かった。素晴らしいですな。

まぁあの、フラの映画だし、どうしてもひいき目に、良い評価を出してしまいたくなるので、今回点数はつけないですけど、つけるのなら百点満点(明らかにひいきの引き倒しですが。)ですなぁ。

たぶん良くない点も多々あるとは想うんだけど、それはそれ、どうでもいいや。フラだし。ハワイだし。そういう事の日本映画だ、というだけで、もう私的には満点なので。あばたもえくぼっちゅうか、あばたがうまく見つけられませんでした。

フラはハワイの民族舞踊で、これこそがハワイ文化の伝統の本質でして、ウクレレはそれに色をつけるための付け足しにしかすぎないですからなぁ。
ちゃんとフラを分ってる人が監修してるというのが良く伝わってきたし、フラ独特の動きに「言葉の意味」が乗っている手話的特徴を、うまく映画の中にも活用してるし、踊りもキチンとしていて良かったのであります。

また、出てくる曲もちゃんとしてたし、そこも良かったですな。牧伸二師匠で有名な「やんなっちゃった節」も、ちゃんと原語のタフワフワイで出てきたし。みなさまごぞんじのブルーハワイもあった。(アロハオエが出てこなかった気がしたのだけどどうだっけ? まぁなくても、ジェイク・シマブクロが曲をつけてるから良しとしよう。)

なんでしょうね。泣いて笑ってケンカしてって、そのまんまやけど、面白くて泣けて楽しく元気の出る映画ってことで、とても良いです。

あと、蒼井優がやたらと良かったですねぇ。落語が好きなもので「タイガー&ドラゴン」も見ていて、あの番組に蒼井優が出ていて、「こりゃぁなかなか良い女優さんだ」と思って見ていたのですが、いや、この映画でも実に良いです。フラを踊ってる時の蒼井優は、まさにぴったんこのはまり役という気がしました。奇跡のような配役だ。

あ、松雪泰子もすんごく良かったんですがね。はすっぱな流れ者の女ダンス教師。なんちゅか、一種昔のヤクザ映画の流れですわな。旅の遊び人が地方へ流れてやってきて、そこで一悶着起こるという話。松雪さんの方は奇跡の配役とかではなくて、彼女の努力だろうなぁ。それが実を結んでる。

富司純子さんも良かったし、豊川悦司も良かった。岸部一徳ももうけ役。
僕はもうちょっとフラガールたち一人一人の青春群像に焦点を当てて描くのかと思っていただけに良い意味で期待を裏切られましたね。

炭坑町でしかなかった常磐で、温泉があることを利用して、温水で椰子の木を育て、常夏のハワイを日本に出現させるというとんでもない発想の娯楽施設を作るという物語。

運営するのは炭坑会社。生き残りのための必死の計画。そういうビジネス的な背景がちゃんと描かれていて、なおかつそれをなんとか乗り越えようとしているというところが実に素晴らしい。これは映画の素晴らしさというよりは、現実の素晴らしさなのかもしれませんけども。日本人、すごいやん! って感じもある。

で、炭坑からオイルへと、時代の変化が押し寄せる中で、自らが変るしかないという変化への対応というのが大きな時代の流れとして描かれていて、そういうところがまた良いわけです。青春群像も見たかったけど、時代の変化の話の方が大きな流れで見ることが出来て好きだなぁ、僕としては。

炭坑から常磐ハワイアンセンターですよ。このジャンプぶり! ここが素晴らしい! しかもダンサーは全員炭坑夫の娘ですよ。プロなんか呼んでないんだから。すげぇ!

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映画の感想はこんなところなんですが、ちょっと雑学的に、思うところを少し書いておきたいです。

まず、ハワイと日本という国の関係について。

これは共通項は「島国」という事です。なので実は、文化はまったく違うというのに、親和性は高い。不思議となじみが良いのです。

なんでもないように思えますが、この「島国同志の親近感」というのはバカにできないものなのです。

たとえば、ハワイと同じく島というなら沖縄があります。沖縄という島は、まさに日本の縮図でして、その矛盾がそのまま吹き出したような場所です。でも、基本として日本本土人は沖縄が好きです。それは多分、同じ島国だからでしょう。沖縄の人がどう思ってるかは良く分かりませんが、そういう気がします。

同じように日本人はハワイも好きです。これも同じ島国だからだと思います。

で、戦前、日本はアジア各地に侵略を行ったわけでして、その点、韓国の人たちからは恨まれています。(やはり創氏改名を強引にやったという点で恨まれてるんだと思う。)

ところが、韓国は半島文化ではありますが、島国文化ではないんですね。似ているようでいて、実は大陸文化の中の一勢力でしかないのです。

で、戦前は日本はおなじように台湾をも占領して自分たちの土地としてさまざまな政策を行ってきたわけですが、実は台湾の人たちというのは親日本という方方が多い。台湾のお年寄りには日本語をちゃんと話せて日本に対して親近感を抱いてくださっている方がけっこう多いのだそうです。

この韓国と台湾の違いはいったい何だ? という時に、やはり島国と大陸文化の違いというのが大きいのではないか? というのが、例の小林よしのりの説なのですが、僕はこの説に賛意を示したいわけです。

というのは、ウクレレが好きでハワイの歴史とかも多少聞いたりするし、日本の歴史や沖縄の歴史、台湾の歴史をみても、どの国も「時代に翻弄される」という嵐の中をかいくぐって、なんとか生き残ってきた国ばかりだからなんですね。

それっていったいどういう事? ってずっと思ってたんですけど、この「フラガール」を見ていて、大きな当たり前の事実に気がついたんですね。

島国っていうのは、文化的にジャンプするしかない運命なんです。ようするに、大陸の文化のように、日々日常から、異文化同志の交流があって、時代の変化や文化の変容がゆっくりと日常から徐々に浸透していく環境にはないってことですね。

砲丸外交という言葉がありまして、ようするに日本の歴史における「黒船」ですが、武力でもって重い扉をこじ開けさせるというやり方です。

この砲丸外交に近い扱いを、島国はどうしてもされてしまう。されてしまうも何も、実はそういう具合に「大陸」の側で物事が大きく変ってしまってから後にしか、新しい文化はやってこないような構造なわけです。それが島国だってことです。

これが普段から国境の向こうに外国があるという環境なら、少しずつでも他国の動きを感じ取る事ができるんでしょうが、島国にはそれが無理なんですね。

だから、世界の時代が大きく変化する時、島国に住む我々は、常磐ハワイアンセンターの誕生のように、炭坑夫の娘からフラガールへとジャンプすることが、どうしても必要になってしまうのです。

変化がゆるやかに来るのならいい。でも島国では多くの場合、変化は砲丸外交のように、急激な形で、とても性急にやってくるのです。

だから常磐ハワイアンセンターのように、うまくジャンプすることができればいいんだけれど、たとえばこの数年の自殺者の増大とか児童虐待の流れとか、失敗すると精神的にも辛い思いをするし、フォローするのが大変になるわけです。

で、ここまで話を進めたときに、僕の頭の中をよぎるのは地政学の話です。
地政学というのは、戦争を勧めるときに地の利を考えるというような所から発生した学問で、地域や文化配置的な側面から戦略を練るときの考え方をまとめたような学問らしいのですが、(詳しくはないです。日本では戦争につながるような学問は忌み嫌われて、まともに成長してませんから。日本人が一番弱い分野でしょう。たぶん。)その地政学の考え方に、ランドパワーとシーパワーとリムランドというのがあります。

ランドパワーというのは大陸の権力ですね。ハートランド、つまり人が住む中央部を握ったとても強い力をもつ経済圏であったり軍事領域だったりが中央にあって、その中央部を握った者が大きな権力を取ります。

で、シーパワーというのは大陸ではなく海の真ん中にいて、他国と隣り合わせず、ランドパワーのように異文化との調整過程が少ない権力の事です。

このランドパワーとシーパワーは、大きくは異なる体系にいて、価値観も政治の進め方も全然違うわけです。
で、リムランドはこの2つの力にバランスされながら存在しているということだと思います。あんまり詳しくは勉強してないので、その程度の知識しかないですが。

で、シーパワーはイギリスのような国が代表ですね。そして、イギリスは島国です。ヨーロッパ各国のように大陸の中に異文化が共存している事を前提とした国の形ではありません。まず海という大きな境界線ありきで、その前提無しに他国との政治取引は成立しない国です。

で、実は、アメリカもまたシーパワーの代表なのです。他国との境界線を自国内にはあまり多く持っていません。カナダくらいのものです。(あと南米と。)

まぁ日本はリムランドに入るしかないんだろうと思いますが、あくまでリムランドというのは周辺国家というような事だけでして、大きくはシーパワーかランドパワーかという二分法で考えるというのが地政学らしいので、それに従うなら、日本はシーパワー的文化体系に属するわけです。

逆に言うなら、アメリカも島国だってことです。で、まさにアメリカがやっていることは黒船にせよ近年のイラク侵攻にせよ、島国特有の「性急なジャンプ」に等しい。

で、イラク侵攻というのは、アメリカが日本を民主化(民主化と民主主義国家というのとは全然別物です。民主化というのは、力で無理矢理民主的な政治手法を植え付けるというやり方で、まぁ日本人がやった創氏改名とおなじことです。)することに成功したから、同じやりかたでイラクも「民主化」できると踏んで失敗したという事なんだろうと僕は見てます。

日本はうまくいったのよ。そら。同じ島国同士だから。日本人がジャンプしてあわせてやったんだよね。

でも、日本が韓国ではうまくいかなかったように、アメリカもイラクでは民主化は大失敗ですね。
それはランドパワーのあり方とシーパワーのあり方をごちゃ混ぜにしてしまったからだろうなと、最近では思います。

で、そんな事を思うと、この映画に出てきた「炭坑夫の娘からフラガールへのジャンプ」っていうのは、しかしまぁ、なんと上手にジャンプしたもんだろうか? って思うのです。

でも、別にそのジャンプに地政学も地域の歴史も必要はなかったわけですよ。ただ、自分たちの出来ることをコツコツと積み重ねて、その向こう側を思い描くだけで良いわけで。

そういう意味で、この映画っていうのが、事実を元にしているだけに客観的な評価が全然できないという理由であったりします。

良いも悪いもねぇんだよ。時代が変るんだから、やるしかねぇっぺ。って感じ。
ジャンプするしかないんですね。いくら無謀に見えても。

まぁ、実は、僕がカエルが好きっていうのも、この「ジャンプ」を意識させるからなんですけどね。

長々書きましたが、この感想と映画は、まるっきり関係ないです。まったくもって僕の単なる思いこみでありまして。
楽しめる映画ですので、ぜひみなさまもどうぞご覧くださいませ。

ではでは。
ISBN:489451267X 単行本(ソフトカバー) 石井裕之 フォレスト出版 2007/06/27 ¥1,365

http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/489451267X/249-9767057-8485143

この石井裕之さんの本は何冊読んだだろう? 6冊目か7冊目だと思う。
肩書きが「パーソナル・モチベーター」となっていて、なんじゃそりゃ? と思ってしまうのだけど、ようは「やる気をださせる人」って事ですね。

石井さんはもともとカウンセリングとかを本来の職業として持っている人で、多くの心を病んだ人、あるいはそこまで行かなくても引きこもりになってしまった人を社会復帰させたり、心の内面をサポートする仕事を本気でやっている人で、僕はとても好きな方です。

で、どの本も面白くて、人間関係における単純なテクニックとか、いろいろあるけれど、もう本当に、目からウロコという事が多いのです。

で、この「心のDNA」はどうかというと、これが「書籍としては」すごくつまらない。いや、いいこともたくさん書いてあるんだけど、いままでの著作に比べると格段に落ちる。
っちゅうか、内容的にはすごい事も書いてるんだけど(集合無意識の時代ごとでの変化の話とかはすごいと思う。)でも、新しすぎて、実例を実感できない僕には、いまひとつ迫って来ないのであります。

ところが!!

付録でついてるCDがいい!!
すごくいい!!
石井裕之さんの講演を、そのままCDに収めたものだけど、「71分で幸せになる話」と言って、ほんとに1時間10分くらいしかないんだけど、とっても良いのです。

僕はいろいろな意味で、涙が出て困りました。

数年前に仕事の上で発注してきた人と感情的なトラブルになって、少なく見積もっても数十万円という仕事の支払い拒否にあった事があるんですが、その時、もう怒りが収まらなかったのですね。どう考えても許せない。で、いつまでたっても、怒りが収まらない。

で、その時に、この「怒りがおさまらない自分」というものそのものが、とても悲しかったんですよ。
どうにも止らないわけです。あんまり怒ると、自分が苦しいだけなのに、なのに止らない。その止められない自分が悲しかった。自分の考え方や生き方があって、それを大切にしているから、理不尽な扱いをされると、どうしても許せなくなってしまうんですね。そういう偏狭な自分自身が悲しかったわけです。

でも実際、そういう時に、自分の心をどうコントロールすればいいのかが、さーーーーっぱりわからなかったんですが、前に紹介した「怒らないこと」という本で、ひとつの光明を感じ、「ああ、こういう心持ちになればいいのか!」という感覚を得てたのですが、今回のこの石井さんのCDで「憎しみを置く」というテクニックを得られたように感じたのです。

やっぱり深いよなぁ、石井さん。すごい。

あんまり中身を語ってしまうといけないので、このくらいにしておきますが、とにかくCDの方はもう、大収穫。これはいいなぁ。かなり感激してます。

で、この石井さんは言うのです。「考え方がすべてです。」と。悪い考えを持っている人は悪くなって行くし、良い考えを持っている人は良くなっていく。それは昨日・今日という短い期間では分らないけれど、5年とか10年とかのロングスパンでは、結果がはっきりと出てきてしまうそうです。

カウンセリングをしておられるから、極端に幸せになる人と、極端に不幸になる人の両方をサンプルとして見ておられて、だからこそ、その幸せと不幸を分ける「条件」がはっきりと分るんだそうです。

断言しておられるのは、不幸になる人は100%、誰かを憎んでいるのだそうです。自分で気付かずに憎んでいるかも知れないし、はっきりと自覚して憎んでいる場合もあるけれど、誰かを憎んでる人は、幸せになれない。100%断言できるそうです。

石井さんは仕事柄長期にカウンセリングをされる事もあるから、よけいにはっきりわかるんでしょうね。で、僕らのような普通人は、幸せになる要素と不幸になる要素が混ざり合ってしまってるから、そのあたりがはっきりとは見えないんだそうです。良いことを考えたり、悪いことを考えたりごちゃまぜなのが普通人なんだそうです。

だからつまり、幸せになるかどうかは、結局「考え方」が全てを決めるって事なんですね。

ああ、そうか、なるほどって思うわけです。
アダルトチルドレンの問題も同じ事なんですね。子供の頃に、親子関係で不満な出来事が起きたと。それを、子供の側が、「どう解釈したか」が重要なんです。親はあんまり深く考えてなかったかもしれないし、親の問題はまぁどうでもいいのですが、問題は子供の側です。

「いやな事」が親によって強制されたら、それは不幸な事なので、それを無理矢理「幸福な事」と、自分を騙して生きていくわけです。「だめんずうぉーかー」なんかもそうですわね。子供の頃に嫌な仕打ちを受けた、まさにそういう態度を持っている人を「好き」になってしまうという不幸。
これなんか、完全に「考え方」がおかしくなってるわけです。

いやな事はいやな事として、しっかり現実直視しないといけないんですね。でも、子供だからそれができなくて、自分の心の中で印象変換器を作り上げて、「悪い事でもなかった」とか「良い事だった」とか、無理矢理印象操作をしてしまうわけです。
それで全てをひっくり返して判断するとかしてしまう。そうやって、心の痛みから逃げてるわけですね。これは子供なんだから仕方ない。でも、結果として、大人になっても現実を直視できない心の態度になっちゃうと、これが大問題なわけです。

そういう現実をひん曲げて見るクセとか、考え方を持ってしまったら、そりゃ幸福になれるわけがないですわね。自分の心が痛むのを避けて、現実を素直に現実そのままとして読まないわけです。自分の妄想をこそ現実とみなして生きる。

でも、それは「現実を歪めて解釈」してるだけだから、そりゃ現実が思い通りにならないのは当たり前なんですよ。
ちょっと痛い思いをしてでも、現実をちゃんと直視すれば、現実を素直に現実のままに理解できるようになるので、自分の「考え」と現実が一致して、これは幸せになっていきます。

でも妄想でごまかすと、現実と自分の考えがズレが出てきて整合性が取れなくなって、また「妄想」の追加をするってことになっていくわけです。どんどん現実とのギャップが大きくなって、どんどん思いが実現しない、不幸な状況になっていく。

だから「妄想」で、勝手な解釈をするというのは、非常にまずいわけです。弓矢で、手元が二ミリずれたら、的のところで何メートルものズレになるように、長期の人生を考えると、この「妄想」はかなりまずい。

(でも、現実には妄想やイメージだけで物事を判断する人がものすごく多いんですけど。小泉君のイメージ戦略なんか、まさにそれですから。現実の問題を直視せずに「改革だぁ」というかけ声だけで、世の中をひっぱって行ってしまった。そら日本人が不幸になるのも当たり前だわ。)

前の彼女がケアマネをやっていて、お年寄りの生活をずっと見ていた人だったので、この「考え方のズレによる長期的不幸」という事を、実感を持って僕は感じるのです。

彼女曰く「人は生きたように、死ぬよ」って事なんです。生きたように死ぬんです。回りを大切にして生きた人は大切に看取られて死ぬし、回りに悪態をついてた人は看取られないだけでなく、たとえば、お風呂が大好きで、死ぬ前に体をきれいにしてあげようと介護してる人たちが思っていても、いろいろな事情から入れないままに亡くなってしまったとかね。そういう事になるんだそうです。それはもう見事に「生きてきたように、死ぬ」んだそうです。

これは、まさに「考え方がすべてです」という事を表しているのですね。

だから、現実を直視せずに「妄想」でごまかすってのは良くないんです。確かに現実を直視すると心は痛むけれど、そのちょっとの痛みに慣れて行くことが、弓矢の位置を二ミリ修正する事なんですね。

小さな痛みで済むものを、放置しておくと、後で修正するには、ものすごく大きな痛みを伴うという事も、おうおうにして起こります。
たとえるなら、虫歯の治療と同じですね。

虫歯というのは、基本、治りません。初期の軽いものなら、最近は人間の自己修復機能を活用して、薬だけで治すというのも出てきているけど、基本的に虫食いになったら削るしかない。だから大きくなる前に、小さいうちに削ってしまわないといけないんです。

心の態度も同じ事で、小さいズレをほったらかしにして、「妄想」でごまかす、なんて事をしてると、後の修正がどんどん大変になって行くのです。

で、石井さんは、「40くらいの大人になると、イメージしてから、それが実現するまでの時間が短くなってるはずです。」と言うのです。イメージから実現までの時間が短くなってると。で、だから悪いことを考えたら、悪いことが起きるまでのスパンも短くなってるんだとおっしゃる。

うむ。それは言えてるかもしれないと僕は思うのです。石井さんの言い方とはちょっと違うけれど、仕事においても、何事においても、ムダで効果のないやり方とかは最初から考えなくなってますからね。実現能力というものは、年齢が高くなるほどに高まるんだと思う。で、人間は無意識的に行動している部分も大きいから、悪いことを考えたら、それが実現するまでの時間も短くなってるだろうし、より大きな幸せや不幸を実現してしまう能力も身に付いてしまってるだろうと思う。

「僕の人生なんて、不幸だらけさ」と思えば、即刻不幸だらけの人生になるし、「なんて幸せいっぱいの人生なんだろう」と思えば即刻そうなる。というか、そうなるまでの時間が年々短くなっているってことですね。

で、だからこそと僕は思うのですよ。

結局、それは、子供の頃の二ミリのズレが、40くらいで一番大きくズレてきてるって事なんだろうなって。長年の蓄積で悪い方にも良い方にも実現能力が高まってしまっている。

そういう事に40代で気付いて、子供のころのサバイバルのために無理矢理「妄想」でごまかしてた部分を修正しないと、後半の人生が辛いのだろうと。

ミッドライフクライシスとか40代の危機とかの話もけっこうこの日記では書いてきたと思うのですが、ようは、そういう事なんだと思う。

考え方がすべて。

妄想が人生を誤らせる。

痛みは小さいうちに対処すべし。

人間は生きてきたように死ぬ。

って事だと思うのですよ。人間をイメージで判断しちゃいけません。内容で見るのです。他人を揶揄したりせずに、幸せを願うのです。みんなが幸せになってくれたらいいなって思う。ほんとに。

僕は、まだまだ人間ができてないので、「許し」とかはできないけれど、まぁ「怒りを置く」くらいはやれるようになってきたし、(自分の中に怒りや憎しみがあるのだと、気づけないという人も多いです。そういう人は、まずそっちを先にやらないとダメです。自分の心の溝掃除が先。順番は間違えないように。)世の中すべての人の幸せを願うほどの強力なイメージ力はまだまだ身に付いてないけれど、少なくとも身の回りの友人や仕事仲間、近親者の幸せについては、ほんとうに心から願えるようになってきました。

ほんと。幸せになって欲しいよなぁって思うんです。不幸な状態っていうのは、本当に辛い。本当に辛いんんです。で、本当に辛いから「感じない」ようにしてる人も多いんだよなぁ。

そういう人には「痛いだろうけど、感じて!自分の痛みを感じて!」って言いたい。それを避けると、よけいにズレが大きくなるだけだから。

虫歯治療を好きって人はいてないもんなぁ。

でも全部治療が済んだら、あとは定期検診だけでなんとかなるんだし。とにかく、そっちの方向に行く事を考えないと人生辛いだけだと思う。

ほんとに。
今回の選挙は、前の郵政選挙の時とは違って、アンチ小泉君の僕としては、まぁ納得の行くものでした。

しかし、本当は郵政選挙の時に、こういう結果になってなけりゃいけなかったんだと思う。

でも、そうはならなかったのは、単純に小泉君の言う「改革だぁ!」というかけ声だけの改革論を、イメージで「改革は良いことだ」と無批判に受け入れてしまった層が少なからず、というか、ものすごく多くいたからでしょう。

改革すりゃぁなんでもいいのか?新しくなれば、それで全部OKなのか? 中身もちゃんと確かめないで? そんなアホな話はない。だから、そういう単純な判断っていうのが本物の「敵」なんだよなぁって思うのです。

「改革だぁ」というかけ声を聞いても、「ん? どういう改革?わしアホやし、ようわからんわ。わかるように説明してくれや。」と問いかけて、それでわかりやすく説明しようとする(ちゃんと説明できてなくても良い)方を、僕としては信用したい。

小泉君のやり方でよくわかったのは、「改革だぁ」と言って景気をつけたら、その後説明もせずに「ドンドン行け!」とか言って無茶苦茶をする人間が、この世の中を悪くしているって事です。

「よーわからん。わし、アホやし。」

これほど強力な態度はないはずなのに、なぜかこの重要な態度を取る人間が少ない。「分かってない自分」を受け入れてないって事なんでしょうね。分かってなくても良いのだ。実際に分かってないんだから。で、分かっていない自分というものを、正しく受け入れてこそ「分からないから、勉強しよう」って事になるわけで。

(っちゅうか「わかってないな、ワシ」と思えたら、まずその段階で心の基礎体力はクリアですよ。その後勉強するかしないかは、また別のチョイスですからな。まず大事なのは自分を知るという事やと思う。)

いま、安倍君はいろいろに叩かれているけれど、本来、いまの政治に対する不満は小泉政権の時に無茶苦茶をやったツケが回ってきているだけであって、安倍君の責任はそれほど大きくはないと思うわけです。

(いや、安倍君の「美しい国へ」も読んだので、安倍君という人間が人格的にかなり問題のある人だというのは直感的にわかってたんですがね。このあたりはmixiの日記で去年の今頃に書いたんですが、まぁここでは書いてないので、読みたい方はmixiで読んでください。連絡もらえれば招待もしますよ。)

でも、まるで安倍君が全て悪いかのように、みんなゴチャゴチャ言うけど、そうやないやろ! って思う。小泉の「改革だぁ!」を「そうや、そうや!」と、わかりもせずに無批判に支持した奴がいてたという事こそが問題で、そういう我々の心のあり方をこそ、徹底批判しないとダメなんだと僕は思うのです。

で、私がいつも意見を参考にさせてもらっている副島隆彦氏も、森田実氏も今回の小沢一郎を高く評価してます。そして、小沢さんは、今回の選挙で、ヘリやら小型チャーター機まで使って山の奥まで分け入って演説したらしい。体もそれほど良くないのに。そういう部分を副島さんなんかは評価してて、僕も「そうなのか、えらいなぁ」とは思うのだけど、小沢がエライという事もさることながら、まず「わけもわからず『改革』に飛びついた浮ついた人達」についてこそ、キチンといましめないといけないって思うのですよ。

僕は民主党のマニフェストが、まさに小泉君がほっぽり出してほうかむりしていた部分を明確に指摘していて気持ちよかったのです。(「年金手帳」「子供手当」「農業を元気に」って部分ね。)(あ、でも比例は民主に入れなかったなぁ。まぁいいや。)

でも、そういう事って、普通に普通の実感を持って生きていたら、普通に気になるテーマのはずなんですよね。
でも、そこに気付かせないようにするのが「改革だぁ!」というかけ声だったりするわけです。

だから本当に小泉君の大衆にこびた政治の仕方ってのが嫌いです。で、それはみんなが嫌うべき事なんだって思うんですが、どうなんでしょ。いまだに小泉クンのファンがいたりするからなぁ。やだなぁ。

とりあえず、内容を精査しない「改革!」とかにはノーと言いたいですね。改革するのはいいけど、内容の精査こそが重要と言いたい。

ようは、安倍君とかが悪いとか、「改革が良い」とか、小沢がえらいって事じゃなくて、「わからんもんはわからん」と、自分にちゃんと問いかける事が大事って話なんだって事が言いたいのでありますよ、私は。わかってない自分をちゃんと自覚するって言うか…。ね。

ま、今回の選挙の結果で思ったのは、そんなことでありました。
「あたりまえ」という強さ。
5月の連休明けに、任天堂のWiiを買いまして。

操作性そのものの面白さには目をむいたというか「こりゃすごい!テレビMacや!」とか思ったものの、ゲーム自体は全然ちーとも面白くないので、いまやニュースと天気予報確認マシンにしかなってないんですが。

ただ、Wiiの機能の中に「みんなで投票チャンネル」というのがありまして、これだけがやたらとおもしろくて、ずーっと楽しんでおるのであります。

いったいどういうものかというと、Wiiのインターネット接続機能を使って、日常のなんでもないことについて、「どっちが多いと思う?」というのを、Wiiを持ってる人みんなで投票して、確かめるというそれだけの事なんですが、これがさすが任天堂だから日本全国版と、全世界版とがちゃんとできてしまってるのですよ。

ああ、やっぱり普及率が違うよなぁ、って思うわけですが。

で、最近おもしろかったのは、その「ワールド・アンケート」の方で、

●将来の夢はある?

っていうのがあったのであります。
この質問項目を見た時に思ったのは「アホちゃうん? 持ってるに決まってるやん! 聞くまでもないやん! なんや?この質問? あ、そうか、これは日本のスタッフが考えた質問だから、多分世界中の人がみんな将来の夢を持っているというのを、日本のスタッフだけ分ってないのかも。」と思ったわけです。

で、「将来の夢はある」に投票して、予想項目も「将来の夢はあるの方が多い」に投票したわけです。そんなもん、聞く方がおかしいというくらいに当然ですわな。

こういうアンケートは「どっちが多いかわからない」というものを尋ねるからこそ面白いと思うのだけど、これはあまりに答えが見えすぎていてつまらなかった。でも、なんでこんな設問を設定したのかなぁ?ってことなんですよ。

で、フタを開けてみたら、案の定80.3%対19.7%で、「将来の夢はある」が圧倒的に多い。

あたりまえやん!

とは思ったのですが、「でも、これ国ごとの細目はどうなってるのかな?」と思って確認してみたわけです。
この「みんなで投票チャンネル」は、そういう国別表示とかの機能も持ってますんでね。

この場合だと、「将来の夢はある」に投票した人が多い順に画面に全世界29か国(Wiiのサービスが提供されてる国ってことでしょうね。)がズラリとテレビ画面にならぶ、という訳です。(写真を掲載したので、ぜひご覧ください。)

で、見てみたら、これまた、あまりに予想通りに日本が下から二番目という低率。「あー、やっぱりそうかぁ…。」と予想していたとはいえ、あまりの「夢のなさ」にイヤになってしまいましたね。
(ちなみに最下位はオーストリア。どうなってるんやろ。オーストリア。日本よりひどいとなると、かなりひどかろう。他人事ながら心配になってしまう。)

これ、具体的数字は出なくて、国ごとに左右に伸びた棒グラフで示されるだけなんですが、最下位の3国、ドイツ・日本・オーストリアだけガクンといきなり率が下がるのが、これまたショックで。ヒトラーの影響のあったドイツとオーストリアであり、天皇の日本ですわなぁ。うーん。あまりに端的すぎる。

順位を見てると面白いのはブラジル・メキシコ・ペルーとか暖かい南米が上位で、まさにラテン系で、スウェーデン・アイルランドと寒い国ほど順位が低いっていう「温度差」がそのまま順位になってるような形になってるってことなんですね。面白いなぁ。

それでも、1位のブラジルが「持ってない人」10%くらいで、26位のスイスで20%強なのに、ドイツ・日本・オーストリアだけが、いきなり30%を超えてるし、日本・オーストリアは、40%に近いくらい「夢を持ってない」人が多い。

飛抜けて夢のない国だ、って事ですね。我々の国は。

ここのところをね、勘違いしないで欲しいよなぁって思うのですよ。「夢を持ってない」のがアブノーマルなのであって、夢があるのが圧倒的に「当たり前だ」って事なんです。

「夢なんかなくても当たり前」とか思わないで欲しいんですよね。

確かに日本は保護政策が充実「してた」し、その保護政策のおかげで何も考えなくても生きていけるようになって「ました」。(すでに過去形ですがね。残念ながら。)
僕はそういう保護政策そのものは日本らしいやり方として高く評価してるんですけど、それでも何がノーマルなのか、という事くらいは意識しておいて欲しいって思うわけです。

ひとりひとりの人間が国の体制などとは関係なく、力強く生きていて、その自分の生き方自体に活力があるから、「将来の夢がある」という事になるんだという事が、やはり、まず当たり前の事実なんだってことですね。

でも日本の場合はこのアンケートのように夢のあるなしの比率が6:4と、拮抗しているかのように見えてしまうわけです。日本国内の感覚だけを頼りにしてるとそうなってしまうんですね。

6:4に近い7:3という感じの結果だけを見ると「夢がある人もいて、ない人もいて、人間いろいろが当たり前やん」という気にもなってしまうわけです。だから「夢がなくても当たり前」とか思ってしまうんですね。

日本という国の状況は、そういう状況なんだと思う。

でも、それはやっぱり間違いで、「夢がないのはアブノーマル」と考えた方が良いわけです。日本のいまの状態は、やっぱりまともではないから。多分、日本では無宗教がふつうということになってたりするから、こういう結果になるんだと思うんだけど、そこは正しく認識して欲しいなぁって強く思いますね。

このあたりはまさに、

●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

の代表例ですから。

夢があるから幸せに感じるのだし、夢がなければ生きていて辛いんです。こんな事は当たり前で、わざわざアンケートを採るようなことでもないんだとおもいます。通常、「夢がない」という人を見たら「ああ、それは生きづらいやろね。なんか将来への夢を見つけないと不幸だよ。」という反応があたりまえなんです。で、それは夢がない人を蔑んでいるんではなくて心配してるわけですよ。夢を持ってるのが普通なんだから。

夢なんて、そんなに大それたものではなくて、たとえば「ちょっとおなかをへっこませたい」とか、「健康に、普通に生涯をまっとうしたい」とか、「日々できるだけ笑顔で毎日を過ごしたい」とかで充分なわけです。そういう、すぐに手に取れるような事をキチンと願うことこそが、本当に大事な夢なんですよ。

それこそ、ばくぜんと「ずっと幸福でいたい」でも充分だろうし。別に「納税額日本一になるくらいの大金持ちになりたい」とか「ホノルルマラソンで優勝したい」とかでもかまわないし、夢は大きい方が良いのは良いけど、まずは「幸せになりたい」とかでいいんだと思う。誰だってそう思ってるし、それを実現するために努力してるわけだから。

良くないのはやっぱり無気力だと思うのですよね。「子供も作ったし、残り人生絞りかすみたいなものだ」とかは、やっぱり「アブノーマル」です。

たしかに日本は、それが「アブノーマルである」と気づけないような環境ではあるんですよ。でも、アブノーマルはアブノーマルなんです。ノーマルではない。概略、それはちょっとおかしいと思わないといけない。

このあたり「茶封筒の論理」と僕が呼んでいるものと、とても重なるところが大きいと思うのです。

どういう事かというと、広告や販売促進の仕事をしていると、時折、「封筒を独自のサイズで格好良くデザインしてお客さまにアピールしたい」という事を考えるお客さんが出てくるんですが、「いやー、それは普通の茶封筒のままにしといた方が良いですよ。」と説得する事が多い事から名付けた法則なんです。

茶封筒というのは、専用の機械で大量に作ってるんですね。だから安いんです。で、お客さまとのやりとり、コミュニケーションというものが頻繁なほうが、商売としては順調ということなわけです。繰り返し行う事ですから。

だから、「個性的な封筒」なんてものを作ったら、茶封筒の30倍くらいの値段になって、とんでもない価格にはねあがって、肝心の得意先さまとのやりとりそのものがしにくくなってしまうわけです。

だからこそ、いろいろな企業で、あたりまえのように普通の茶封筒を普通に使っているし、大事なのはその中に書かれている「内容」なのだから、封筒を独自に作るなんてことは、あまりやらないのです。

普通の事というのは、ダサイとか、かっこ悪いとか思いがちだけど、そんなことは決して無くて、当たり前の出来事が、当たり前に存在するようになった、当たり前の確かな理由というものがあって、その「当たり前の強さ」こそが、この世の現実を動かしている強さなのです。

そういう「あたりまえの強さ」をわかっている人間から見ると、広い世間を分ってない人が「夢のある人もない人も半々くらいだろう」とか思ってる事自体に、「そんなアホな考え方はちょっと改めた方が良いんじゃない?」と忠告したくなってしまうわけですよ。

で、「夢がないのはアブノーマルだよ」って僕は思うし、そう教えてあげたりするんだけれど、たとえば「夢がある人もいて、ない人もいて、人間いろいろが当たり前やん」とか思ってる人や、「子供も作ったし、残り人生絞りかすみたいなものだ」とか平気で言う人は、僕が「そういう夢がないのはアブノーマルなんだよ」と言うと、バカにされたとか、個性を否定されたとか、蔑まれたとか、そういう風に感じてしまうのですよね。困ったことに。

いや、そうではなくて、「そういう考えに染まっていると言うこと自体がとても不幸な事なんだよ」「その考えこそを改めないと健康な幸福は手に入れにくいよ」っていう忠告なのだっていう事自体が見えないんですね。ほんと。困ったことです。

結局、「夢がある」と「夢がない」というのが6.5:3.5くらいの日本にいて、世界のこの圧倒的な状況を知らないままでいると、「6.5:3.5ならほとんど6:4だし、やっぱりまぁ夢があるのとないのとでは、半々とは言わないまでも、多様性のひとつと考えて良いよね。いろいろあるのが幸せだもの。」というおろかな判定にしか行き着かないわけです。

そういう考えは、「自社独自サイズの封筒を作れば、とても良い宣伝になる」と思ってる人と同じ種類の間違いをやってるって事なんです。ようは、

●誰もにとって幸せになる事は、みなが同じように実行する。

って事なんですよ。で、それはとても幸せなことで、ありがたいことで、うれしい事で、素敵な事なわけです。決してダサイ事でも、かっこ悪いことでもない。無個性なわけでもないし、非人間的な事でもない。

●誰もにとって幸せな事は、誰にとっても幸せである。

当たり前だけど、そういう事なんです。それが「当たり前の強さ」というものであって、それをバカにしていたら、決して幸せにはなれないんですね。
だからやっぱりトルストイの言う、

●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。

という言葉はとても強力だってことなんです。「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」と、つい思ってしまうかもしれないけれど、それは単に「知らない」からであって、それ以上でも以下でもないのです。知れば幸福になれるのでして、学習するというのは、そういう「当たり前を知る過程」でもあるのです。

実際、日本でだけ、「夢があるのも、夢がないのも半々だ」とか思ってるって、かなり異様な気がしませんか? 僕はします。
このグラフをしっかりと見つめて欲しいなぁと、僕は強く思うのでした。
ISBN:4166603760 新書 関岡 英之 文藝春秋 2004/04/21 ¥735
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143

今日、今年の3月31日に書いた「テレビを見ない生活」にコメントをいただきまして、ハッと気付いたのですが、ドタバタしていて、こちらの日記には、この大事な大事な本の紹介をしていなかったのですね。mixiの方では紹介してたので、こっちでも紹介したつもりになってました。なので、あわてて紹介することにしました。

先に紹介した
「最高支配層だけが知っている日本の真実」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/488086210X/249-9767057-8485143
と同じで、我々が住んでいるこの国の裏側にある問題点を、くっきり浮き彫りにしている、日本人全員の必読の書です。ぜひ読んでいただきたいです。

反米を形だけ言っていても、意味はなく、まず自分たちの足下がどうなっているのかをキチンと見据えることが大事で、それは遠くの国で戦争が起きている事を、テレビのお祭り騒ぎにあわせて合唱するより、この書籍のように、まず自分達の国がいかに被害を被っているのかを知ることの方が先なのです。

しかし、この肝心の事実を知っている人の方が少ない。そこが一番問題です。
みんな身の回りの問題に鈍感なんですよねぇ。うーむ。

まぁ、とにかく、この本だけは必読の書です。ぜひお読みください。

以下、mixiからの私の書評の転載です。
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●日本人必読の書。

前から、ずっと「読まなければ」と思いながら、読まずにおいた、この本を、やっと読み終えました。

拒否できない日本 〜アメリカの日本改造が進んでいる〜
関岡 英之 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143

「年次改革要望書」という、アメリカが日本に突きつけてくる、「日本改造計画」について、徹底的に読み込んで、その危険な本質をキチンと解説してくれている良書です。

これからの日本がどうなっていくのか(良いか悪いかは、あえて問わない。)は、この「年次改革要望書」を読めば、全部分ってしまう。言わば、この要望書はアメリカ(経済・産業界)からの「命令書」なのであります。

そういう嫌な書面の存在を明らかにした最初の書籍ですね。

前から「年次改革要望書」の存在は聞いていて、「なんで日本はここまでアメリカの属国に成り下がらねばならんのだ」と思っていたのですが、そういう事のすべてが、この「拒否できない日本」に書かれてあります。思っていた以上にヒドイですね。内政干渉なんてもんじゃないです。日本を、アメリカの州のひとつと勘違いしてる、というレベルですね。日本人独特の考え方や地域的文化というものが存在しているのだ、という事は一切考慮されていない内容です。

で、情けないのが、こういう文書の存在を、日本の政治家、とくに権力の中枢にいる人ほど、隠そうとすることです。小泉純一郎君なんかは完全にそのタイプ。自分が「アメリカの雇われ首相」であることを、国民に見透かされたくないからか、とにかく隠すし、すっとぼける。

実際、一昨年の郵政改革選挙の時に、俗に言う「郵政改革反対派」の議員さんたちが、この「拒否できない日本」という書籍を取り上げて、小泉さんに、「あなた、このアメリカからの要望書のとおりに改革をやってるだけじゃないか」とつっこんだら、小泉のヤローは「そんな書類は知りません」とかすっとぼけたわけでねぇ。みっともない奴やなぁ、小泉は。

そういう国会でのやりとりが議事録に残っているというのに、選挙の最中には、その議事録の参照ができないようになってたんですよ。知ってました? みなさん。
ほんまにとんでもない話で。

で、別にこの「年次改革要望書」って、秘密のウラ取引でもなんでもなくて、アメリカの側からしたら、「言うたもん勝ち」って感じで、各産業界からの要望をとりまとめて、堂々と「これだけの改革を日本に呑ませてやったのだ!」とネット上で自慢げに、大公開されているわけですよ。「ロビィ活動の成果報告」みたいな気分なんでしょうね。

て、ですね。おどろくなかれ、この「要望書」は、キチンと日本語訳までされていてですね、アメリカの政府ホームページに掲載されているのです。「どうだ!ここまで日本に命令してやったのだぞ!」みたいな感じで。

なので、小泉君はひた隠しにしてましたけど、秘密でもなんでもありません。以下の文章は、あなたにも読めますので、どうぞ読んでください。日本語ですから。

●2004年版
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html
●2005年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-regref20051207.pdf
●2006年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-20061205-regref.pdf

読めば分りますが、もうほんとに事細かく、重箱の隅をつつくかのように「日本の仕組みを、こういう具合に変えなさい」とウダウダ書き連ねた内容です。

で、しかも、そのほとんどが実際に採用されて、日本の経済・産業の仕組みがどんどん変えられていってるわけです。

どういうことやねん! という事ですわな。
国民の意見を反映させるより前に、この要望書の意見ばっかり聞いてる。それはもう、ほんまにひどいものなわけです。

「ひどい」代表例は建築基準法の改正(つーか、改悪)の話ですね。この改正があったのは、1998年の6月。あの阪神淡路大震災の三年後でして、この改正は「半世紀ぶりの大改正」と言われたものなわけです。
日本人の誰しもが、「阪神淡路大震災を教訓に基準法が強化されたのだろう」と思ってたわけです。というか、いちおう建前としては、教訓にしたとかなんとかは書いてあるわけですが、実際には違う。
海外のデベロッパーが参入しやすいように、強度計算とか、そういう耐久性に関するチェックが「甘く」なるように改正されているわけです。

いや、いや、いや、それは逆やろ! と思うわけですが、でも、「年次改革要望書」で、前から「日本の建築業は強度とか小うるさいこと言い過ぎ」とつつかれていたから、そこを簡素化したっつーことなわけです。

だから姉羽(だっけ?字忘れた)さんがどうとかこうとか、そんなことは些末な事なわけです。
地震という災害に鈍感な国民であるアメリカの産業界から「規制がきつすぎるから、甘くしろ」と言われて、甘くした結果が、あのアネハさんの問題という結果につながってるわけです。

そらね、アネハさんがカツラやからうんぬんとか言ってる場合やないわけですよ。
問題はこの「年次改革要望書」の方ですよ。
こんなもの、そのまま鵜呑みにして、改革やったらアカンがな!
ちゅう話です。

ちょっとだけ、この「拒否できない日本」の内容を目次で紹介しますと、

1.北京・シカゴ枢軸の怪
2.対日圧力の不可解なメカニズム
3.この世はアングロ・サクソンの楽園
4.万人が訴訟する社会へ
5.キョーソーという名の民族宗教

という5つのブロックで構成されています。

1.の「北京・シカゴ」の項目は、まさにイントロという内容で、この1.のブロックから読んでいくと、上質の推理小説を読むように、いかに小さな疑問を積み重ね、解き明かすことで、一番の本丸である「年次改革要望書」にたどりつくことになったのか、までを、著者の関岡さんの視点で読めて、大変面白いのです。

面白いのですが、しかし、この1.のブロックは、正直「イントロ」ですので、お急ぎの方は飛ばしてもいいと思います。

真に重要なのは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」です。このブロックさえ読めば、まぁ、「年次改革要望書」という存在の薄気味悪さと、うっとおしさ、怪しさが分ります。

なので、「とりあえず本論だけ知りたい」という方は、この2.のブロックだけでも、読んでください。
作者の関岡さんには申し訳ないですけども、この2.のブロックだけ立ち読みで読まれてもいいと思います。
とにかく、ひとりでも多くの人が、この「年次改革要望書」という存在の問題に気付いて、論議の対象にすることです。それこそが「日本人の国益を守る」という論点から、非常に重要です。

一刻も早く、お読みください。ほんとうに。2.のブロックだけでもいいから。

続く、3.4.5.のブロックは、さまざまな論文、文書などを駆使して、日本とアメリカの文化の違い、いや、それどころか、ヨーロッパの「大陸系」の国々と、アメリカ・イギリスの文化がいかに異なるのか。(先の私のフラガールの感想文にも書きましたが、地政学的な違いですね。それそのものです。)
いかに訴訟社会で、競争を良しとする「特異」な文化をアメリカが持っているのか、という「アメリカは文化的に異常であるのに、その異常を世界に押しつけてる論」を徹底して展開していて、実に読み応えがあります。

読み応えはあるのですが、これもまた、関岡さんの「持論の展開」の部分で、実に深い洞察力のある、すばらしい内容ではあるのですが、ここもまた、お急ぎの方は飛ばしてもらってもかまわないかと思います。

とりあえずは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは、どうしても読んで欲しいなぁ、日本人なら。と思うわけです。

っていうか、阪神淡路大震災を体験した関西人として、建築基準法の「改悪」がアメリカの差し金でしかないっていう事実が、もう心から情けない。悲しい。許せない。わけです。

だから、この2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは読んでください。ほんとに。
立ち読みでもいいです。
(できれば、ちゃんと買って、全部読んでください。)

本当に「日本人全員必読の書」です。

ぜひとも読んでください。

この本を読んだ後で、この2月13日の予算委員会で、亀井静香がやった「代表質問の時間を利用した、大演説」の動画を見ると、この演説が、いかに内実をともなったものであるかが実感としてよくわかります。

http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=33410&;;;media_type=wb

まぁ、実に見事な大演説です。
後半の安部君への質問攻勢は、「すごい」という人もいるけど、まぁどっちでもいいや。出だしの20分くらいがとか、すごい。
東国原知事が談合をなくして…とか言ってるけど、談合もまた、地方経済のバランス調整行為なのだ、ということも、ちょっとは考えなきゃダメだよって思う。
いやまぁ、昔ながらのやり方が全部良いとも言わないけどさ。

ともあれ、この「拒否できない日本」は必読です。
今日は、また私のmixiからの転載。基礎は大事っちゅう話ですが。
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えー、タイトルは、お笑いコンビ「レギュラー」の、あるある探検隊ネタのひとつ。

これがねー、好きでねー。

「基礎に手間取り飽きてまう。」

うーん、そうなんよなー。あるある。それはあるね。あるあるやね。

ちゅうことなんですが。

ここ半年くらい、えいご漬けをやったり、高校の教科書の音読をやったりしてたんですが、どうにも自分の実力が上がっているという実感がまるでない。

「何かが欠けてるんよなー」と思って、ちょっとフラストレーション気味だったんで、一度学習進行の程度をマップ化してくれている書物、「英語上達完全マップ」(去年の1月20日、4月11日の日記で紹介。)
http://diarynote.jp/d/12917/20060120.html
http://diarynote.jp/d/12917/20060411.html
を読み直してみると、「うーん、そうか、僕はまだ高校レベルに入るのは早かったんだ」というのが良くわかりました。中学英語の基礎が、体に全然入ってない。ダメ。練習不足。

なので、情けないけれど、ふたたび中学生のテキストを取り出してきて音読しなおす事にしました。

で、やり直してみると、良く分かるのが、まさに、「基礎に手間取り飽きてまう。」を、僕はやってたのだなぁという事ですね。

中学生レベルのテキストの音読って、飽きるんですよ。ほんとに。ほんとにつまらない。だから、早く卒業したくて、とりあえず大急ぎで100回音読して、それで良し!って事にしてしまってました。

そうではなくて、ちゃんと「完全マップ」には「完全なリピーティングができるまでやる」となっていて、100回というのは、あくまで目安という事だったわけです。

僕はねぇ、基礎ができてないから、多分100回じゃ足りないんだよね。まぁ150回から200回くらいはやらないとダメなんじゃないかなぁ。
前に100回音読をやってから、約一年間が空いてしまったので、効果半減してるしねぇ。また最初からやりなおしって感じです。
何をやってるんだか。アホな話です。

で、こういう事があるから、「基礎に手間取り飽きてまう。」ってのが笑えるし、深い。

漫才もきっと同じよねぇ。滑舌とか声の大きさとか、そういう基礎にすご〜く手間取るに違いない。ダウンタウンも始めて見たときは、そういう基礎がなってなくて「なんじゃ? こいつら? 話にならんやないか。」って思ったもんなぁ。ネタそのものは面白いと思ったけど。

やっぱ基礎ですわね。
基礎に飽きると、人生をムダにする。
そういうことですなぁ。

ちゅうことで、「完全マップ」にはちゃんと書いてあったのに、書かれたとおりにやってなかった部分を、いま改めてやりなおしてるのですが、それは「ポーズ入り教材を自分で作る」という部分。

音声教材はずーっとそのまま音声が流れて行きますが、これをダブルカセットなどでポーズを入れつつダビングしなさい、って書いてあったのですね。

「別に、練習のたびに自分でポーズを入れて練習してもいいけど、ストレスが高くて練習しにくいよ。一度作ってしまえば、後が楽。」

って、ちゃんと書いてあったのに、そういう手間を面倒がって、作らなかったのですよ。「まぁいいや」って。

でも、そのせいでリテンション(文章の記憶保持時間)が、鍛えられていないよな、と思ったので、今回ちゃんと作ってみたのですね。

そしたらこれが!!!
すごい!!!
強力!!

まぁ歩きながらでも風呂に入りながらでも、それこそこの教材だけで、いくらでもリピーティング練習ができる。
で、やっていると、「ああ、そうか、こういう記憶保持の部分ができてなかったんや!」というのが、自分でも実感できてすごい。

「ポーズ入り音声ファイル」というのが、どれだけ強力なツールであるか、まったく理解してなかったのだなぁと、つくづく思うわけでして。

先達の言う事は、ちゃんと聞け。ちゃんとやれ。っちゅうことですけどね。適当に流すなっちゅうねん。ほんまに>ワシ。
せっかくええことを教えてくれてるのに、何やってんねん、アホが。ねぇ?

やっぱりね、「基礎に手間取り飽きてまう」ってのが、失敗の本質の相当に大きい部分ですな。それは本当に、つくづく思います。先達の話をちゃんと聞く、受け取るってのも、「基礎」のひとつやしね。

どうしたって、土台ができてなくて、二階を建て増す事は出来ないのだ。それは直視するしかないって事ですね、やっぱり。

はぁ〜。やれやれ。

ま、そんな事で。
先日、i先生の話を書いたら、「いい先生ですね」という感想をいろいろいただきましたので、また少し、このエピソードから、いまになって学び直した「気づき」を、シェアする気持ちで書いてみたいと思います。

表題にも書きましたが、最も重要な事は、

●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。

という事なんですね。

前々から、ここではアダルトチルドレンの話をいろいろと書いてきましたけども、ようはアダルトチルドレンっていうのは、自分の心が傷つかないように、「痛み」をいかに避けるか? ということに四苦八苦している人間であるように思うのです。

親が自分から離れて行ってしまったり、思い通りのケアをしてくれなかったり、そういうさまざまな「恐怖」から逃れるために、恐怖や痛みを「感じないようにする」という思考を持つようになってしまったという事ではないでしょうか?

もちろん幼い子供が、精神的な苦痛を避けるために、たとえば屁理屈とか自分勝手な解釈とかで「世界」を説明して、それで恐怖から逃げて安心するというのは「サバイバル」の生き方として、仕方ない部分はあると思うのです。

でも、やっぱり、「痛みも喜びも同じ感じ取り能力の結果」なのですから、ずーっと「痛みを避けて生きる」ばっかりをやっていたら、「喜びも感じ取れない人生」になってしまうのは、当たり前だと思うのですね。

だから「痛み」を避けていてはいけないんだと思うのですよ。痛みを避けるために、何かおかしな理屈を出して、それでその場をごまかすというような事をやってはいけない。

僕の高校の時の体験で言えば、自分の「ズル休み」という負い目を、i先生によって、別の角度からビシ!っと叱ってもらった事で、僕は顔が真っ赤になるほど恥ずかしい思いを感じて、「痛み」を引き受けざるを得なくなったわけです。

でも、その「痛み」があったからこそ、高校生活後半の幸福な時間は訪れたのです。
それが何故か?と言えば、単純に言ってしまえば「痛み」を感じることで、感じ取り能力そのものがパワーアップして、「喜び」もちゃんと感じ取れるようになったから、なんですね。

アダルトチルドレンは、いつも変な「屁理屈」というヨロイを着込んでいて、それで「痛み」から身を守る事ばっかりやってるんですけど、そういうヨロイを着てるから、風のそよぎの気持ちよさも感じられないし、おしりがかゆい時も掻けなくてイライラするわけです。

アダルトチルドレンの「イライラ」って、本当にそういう種類のイライラなんです。

だから「痛くてもかまわない!」と思ってヨロイを脱がないとダメなんだけど、そこの踏ん切りがつかないわけですよ。

そういう時に、i先生のように「正しく叱ってくれる人」がいてると、キチンと痛みを感じ取れて、それで自分のもともと持っていた感じ取る能力が活性化して、イキイキと生きて行ける、という側面があるわけです。

だから、アダルトチルドレンはたいていの場合「人を傷つける行為は悪い事だ」と思っていて、そこから一歩も動けなかったりするんですが、「正しい事を正しいと実感させるために叱る痛み」は、必要な痛みなのだ、という事くらいは、ちゃんと学んだ方がいいと思うのですよ。

このあたりは「痛みから学ぶ」というやり方をやっていくしかないんですね。

たとえば、自分が間違った発言や行為を行った時に屁理屈で自己正当化を図るとかやりがちなんですけど、そういうムダな事はせずに。

「あ、俺が間違ってたんや」とか、「あ、俺が知らんだけなんや。あーかっこ悪ぅ。」とかの気持ちを正しく持つ事が、すごく大事だと思うのですよ。

痛みをちゃんと受け取る、という事こそが、実は「幸せを受け取る」方法そのものでもありまして、それは痛みを感じる事が、ストレートに「喜びを感じ取る方法」なのだって事なんですね。

ここが、すごく大事なポイントだと思うんです。

痛みを感じ取るのは「痛い事」なんですけど、それを感じ取れない人は、やっぱり「喜び」も感じ取れなくなって行ってしまうんですよ。

国語のテストができなくて、「小説の問題の答えは、感じ方でいろいろのはずだから、正解ひとつだという問題形式そのものが間違っている」というような理屈は、まさに、この「自分が間違っている事を感じ取らないようにする屁理屈」そのものでして、ようは「知らない自分の恥ずかしさ」を避けてるだけなんですね。

その恥ずかしさを感じ取る事こそが幸せになる道なのに、と僕は思ってしまいます。

そういう自分の間違いを、恥ずかしく思えない人が、人の優しさをありがたく感じたり、人とのふれあいを大事にしたりとかできるわけがないのであって、それはもう倫理観がどうとか、道徳律がどうとか、宗教心がどうとか言う前に、もっと単純に、

●恥じる心=感じ取る力=幸せになる力

だという、ものすごくシンプルかつストレートな仕組みが、人間の心と体に備わっている、という、そんな単純な事実がわかってないというだけなんですね。

「痛みは感じたくないけど、喜びだけ感じたい」という、甘い話は、まぁ、大枠としては存在しない、というわけです。

そういうシンプルな仕組みというか「心の構造」を、30年も経って、改めて実感した、という事です。

だから「恥じる力」もない人は可哀想です。幸せを感じ取る力も少ない訳ですから。そりゃ人生重荷でしょう。辛いでしょう。

でもそれは「恥じる痛み」を避けた、アンタが悪い。心を鈍感に、ナマクラなものにしてしまったあなた自身の責任だよって事ですね。

まぁ、鈍感なままでも、それはそれで人生なのだし、とやかく言う事でもないのかも知れないのですが、こういう具合に屁理屈のヨロイで身を守ってる人は、先の国語のテストを否定した彼のように、自分の感じ取り能力の低さを正当化するために国語のテスト形式が間違ってる、というような無茶を言い出すので困るのです。

もう、そこまで行ってしまうと、手のつけようがないのかなぁとも思うのですが。

あまり話がとっちらかってもいけないので、ここまでにしますけれど、一番大きくて重要な事は、

●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。

という事に集約されるよなぁ…。と、思っている今日この頃であります。
このあいだ、ふと昔の事を思い出して、けっこう重要な事に気付いたので、その事をちょっと書きます。(内容長め。)

というのは、僕にとって、高校二年の11月から後の高校生活と、それまでの一年生、二年生前半までの生活では、もうまるで色合いが違ってしまったんですよ。

親しい友人もおらず、何の変化もなく、ただ通学しているだけの、おもしろくもなんともない、灰色の高校生活1年半が、「ある事件」をきっかけに、明るく楽しく、友人もでき、恋人もでき、前向きで幸せな生活に変ったという、そういう極端な差につながったという、そういう話なんです。

で、そこまで大きな変化が生まれた、そのきっかけが「どういう事」だったのかが、ふと明確に思い出せるようになったんです。というか、自分でも未整理だった自分の内面の変化が、いまになって手に取るようにわかったという事かな?

その「ある事件」が「どのように」僕を変えたのか、それがいったい「何故」だったのか、当時の僕にはまるで理解できてなかったけど、なんといま頃になって、「ああ、そうか!
」と実に良く分かるようになってきたという事ですね。

驚いた事に、自分の内面の変化を、解説できるくらいにキチンと理解するのに30年近くもかかったのだ、って事なんですが。

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僕が通っていた高校は、自分の学力に合う高校が自分の学区内になかったがために「調整校」ということで、電車で20分、徒歩まで入れたら45分くらいかかる、少し遠いところにあったのですね。

なので、1年2年の間は、もう完全に「帰宅部」になってました。早く家に帰ってテレビでも見てる方がいいって感じですね。自宅近くの方が、まだ都市部だったし、田舎の学校の近所で遊んでいてもつまらないって感じだったのです。

しかしまぁ、そんな事をしてると、学校での友達も幅が狭くなるし、部活にも入ってなかったから、人生そのものがまったく広がらないわけですよ。

でも、それは、いまにしてみれば、他の人間との関係を、どうやって取り結んだらいいのかが、いまひとつ分ってなかったという事だったんだと、いまになって見えてきたんですね。ノウハウを持ってなかった訳です。でも、当時はノウハウがないからだ、とは考えてなかったんですね。

「なんかおもろない」って奴です。理由のない不満。あるでしょ? みんな。そういうの。でも、「なんかおもろない」って、結局は「単に知らないだけ」なんですよね。ただ、何を知るべきなのか? が分ってないって事だけなんですね。

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とにかく、高校二年の10月の僕には、そういう問題が見えていないから、「毎日がなんとなくつまらない」と思ってたわけです。

で、あんまりつまらないものだから、一日だったか二日だったか、学校をさぼったのですよ。まぁ、自分から行動を起こしたのは良いとして、実に後ろ向きですねぇ。それはそれとして。

学校をさぼったところで、別にやりたい事があるわけでもなく、家に帰るわけにも行かないので、大阪市内を一人でうろちょろしてただけなんですけどね。なにかアテがあるわけでもなく。実に無意味な「サボリ」でした。

そんな事を週に一度、二回くらいやったんだと思います。

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だいたい、うちの父親というのが、ACですので、自分に直面できない人で、寝過ごしたとか、気分が乗らないとか、そういう時に会社に電話して休んだりしてたわけです。休む事自体は別に問題ないんだけど、まぁ情けないというか、カッチョ悪いというか、わざわざ、ざーとらしいガラガラ声を作って、ゼェゼェハァハア言いながら会社に電話して「休みます」とかやってたわけです。別にそんな声作らんでもいいのに!(笑)

でもまぁ、多分僕はその時、父親の真似して「ゼイゼイハァハァ」と声を出して電話したはずなんですよねぇ。公衆電話かどこかから。あーカッチョ悪い。(笑)
そういうやり方しか知らないんだからしょうがないですけど。

そんなもの、別に普通の声で、「今日は調子が悪いので休みます。」で良いのですよ。それは。本来。ね? 休みたけりゃ、休んでいいんだから。ガラガラ声を出すなんてのは、自分に「俺は嘘をついている」と不要な罪悪感を刷り込むだけで意味がない。まぁ可愛らしいけどね。(笑)

でもまぁ、実は「連絡」は、しているのだから、そこはマトモです。休む奴は何も言わずに休むしね。ねぇ?

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ともあれ、そんなことを多分その10月に二回ほどやったんだと思うんですよ。

そしたら、担任の i先生から呼び出された。「うわっちゃー、サボリがばれたか。」とか思ったわけですよ。で、おそるおそる、叱られるかと思いつつ先生のところに行くと職員室ではなくて廊下で、ものすごく軽い感じで「シゲ君。休んだのはええんやが、いちおう二回も休んでるしお医者さんの診断書がいるからもらってきてくれるか。書類上必要なんやわ。」と言われたわけです。

ああ、そうか。う〜ん。でもなぁ、そんなもんありませんがな。どないしよかなぁと思いつつ、軽い調子で言われたし、まぁいいかと、ほったらかしにしてんですが、数日後にまた先生から声をかけられて「どうや。もらってきたか?」と言われたのですな。

で、「いや、まだもらってません。」と言うと「そうか。まぁ面倒やしな。わかった。ええわ。診断書なしでもええように、ワシが処理しといたるわ。特別やぞ。」と、これまた軽い調子で言われた訳です。

で、「良かったぁ、助かった。」と思って、数日すると、また先生が声をかけてきて「お、シゲ君、例の診断書やけどな、いらんように取りはからっといたから。もう、持ってこなくてもいいから。」と言ってくれはったわけです。

で、「助かったぁ」と思って「はい、わかりました。」とその場を離れようとすると、そのi先生は「ちょっと待ちなさい。こっちに来なさい。」と人のいてない所に連れて行って「君、診断書がいらないように私が取りはからってあげたのだから、そういう時は『ありがとうございます』とお礼を言うものやろ。それを言わないのはイカン!」と、いままでの軽い調子とは全然違う、非常にキツイ調子で、烈火のごとく怒られたのです。

「こう言うときは、ちゃんとありがとうと言いなさい!ありがたいと感じているときに、それを言わないのは、とても良くない! すごく良くないことだ!」

とまぁ、本当にものすごく叱られたんですよ。烈火のごとく怒るとはこの事かというぐらいに叱られたのです。それまでが軽い調子だっただけに、無茶苦茶に心にグサッときたわけです。

本当に「i先生のおかげで助かった〜」と思っていただけに、「ありがとうございます。」の一言を言わなかった、言えなかった自分が、それはもう、顔から火が出るほどに恥ずかしかったんですね。
恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいの勢いです。

で、そうやって叱られてはじめて、「助かりました。ありがとうございます。」と言って、それで許してもらえたんですね。で、そこから後は、もう別に何のおとがめもなし。そのままでした。

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当時、この出来事が、僕にとってどういう意味があったのか、自分でもまったく自覚はなかったんですが、この事件の後、僕の高校での生活は一変してしまったんですよ。自分でも理由はまったくわかってなかったんですけど、部活にも入り、彼女もでき、180度異なる高校生活を送る事になったんですね。

高校前半と後半では、まるっきり違う人間なのではないか? というくらいに生活のパターンから、モノの見方から、すべてが変ってしまったんです。

で、多分、僕自身の内面の変化は「二日間のサボリ事件」が一番大きかったはずなのですが、なんでそのi先生の「叱り」が、そんなに効果的だったのかが、ずっと自分でもわからなかったのです。

多分i先生は、僕の「サボリ」はわかってらしたんだと思うんですよ。ただ、それを問いただしても、言い逃れするだけとわかってたから、そのまま嘘を嘘として芝居として付き合ってくださったんでしょう。で、その嘘の芝居の上で、「ありがとうございます」と言うべきところで言わなかった僕に対して叱った。つまり僕にとってわかりやすい、有無を言わせず「ああ、僕が間違ってるな」とはっきりしている状況を作ってから、そのタイミングで叱った、という事だと思うのです。

いや、なかなか大した先生なんですけど。実にありがたい先生で、僕はいまだに忘れられない方です。

でも、じゃあ、「叱られて恥ずかしい想いをしたこと」と、「充実した高校生活」。これが、どうつながるの? というと、全然つながらないわけですよ。自分の中での論理的なつながりが全然ないわけです。さっぱりわからない。

わからないんだけど、自分としてはその「二日間のサボリ事件」こそがスタート地点なんです。そこから変わった! というのが気持ちの上で、はっきりとあるわけです。でも、何故そうなったのかの説明が全然、さーっぱり、まったくできなかった。自分でも何故そうなるのかがわからなかったわけです。

でもね。
最近ようやくわかってきたんですね。

これはつまり「自分の事を恥ずかしく思う」ことで「感じる心」を取り戻したって事なんです。簡単に言うと。

自分のやっている事が、恥ずかしくて恥ずかしくてしかたない。顔から火が出るほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。そういう気持ちになったからこそ、「感じる心」が取り戻せたんですね。

それまでは多分「自分の心を感じないように」と、リミッターをつけていたんだと思うのですよ。なんせACですから。嫌な事や辛いことから逃げようとしますしね。「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまう。けれど、感じる心を弱くすると、当然ながら「喜び」とか「楽しみ」を感じる心も小さく小さくなってしまうんですね。だから「(助かった〜!)ありがとうございます!」という感謝の言葉が出てこない。

ようは、そういう構造になってしまってるわけです。

だから、このi先生の「叱り」は、僕の感情のリミッターを外すのに、とても効果が高かったわけです。「恥ずかしい!!!」と思う心こそが、幸せを感じる心そのものなわけです。だって、まさに「感じる能力」そのものですから。

まず、この「感じる心を取り戻した」というのが、おおきなひとつの原因なんですね。

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で、もうひとつ別の側面での原因があります。それは「社会的規範の内的獲得」とでも言いましょうか。「自分の判断は間違っていない」という自信みたいなものが生まれたという事でもあります。

つまり「父性」の獲得というような事なのかも知れません。

前にも書きましたけど、うちの父は、父親にも母親にも見捨てられたような状態で祖父母に育てられた、苛酷な子供時代を過ごしていたので、父性も母性も、あまり得られなかった人なんですね。だから当然のごとく、僕も「父性」を得る事無く育っていたのでありますよ。

でも、この「i先生」に叱られて、はじめて僕は「父性」とは何かを体感したという事なんだと思うんです。

別の言い方をすれば、「正しい価値基準の獲得」とか、良い意味での「権威主義」の獲得という事かもしれないですね。

もっと別の言い方をするなら、線グラフとか棒グラフを書く時の「原点ゼロ」の獲得と言っても良いかもしれません。基準点、ってことでしょうね。

何が正しくて、何が間違っていて、という事が、親には教えられていなくても、そして、自分にはわからないものであったとしても、それは家の外の社会にはキチンと存在していてるって事ですね。それがわかったんだと思う。

家の中の基準値しか知らなくても、子供は家庭の外へ出ます。社会に触れます。社会に触れている自分の中にも、友達との関係とか、いろいろな情報源とかから善悪の判断例とかをいろいろ体験してますし、実感してきています。そういう経験の蓄積があります。

その経験を統合して、自分なりの「善悪の価値基準」みたいな事は、親に教えられなくても、多少は身に付いてきてるわけです。まさに「親はなくても、子は育つ」という奴です。

ただ、そういう実感は育ってきていても、身の回りの人間関係にキチンと反映させるだけの「確信」がないわけですよ。「これで正しいのだ」という自分自身への信頼がない。自分の心の中の価値観と親のやっている行動や、家の中のルールとが、うまくかみ合わない。(そらそうですわね。親がそういう「正しい社会ルール」を知らないのだから。それはしょうがないです。知らないものはしょうがない。)

そういう「家の中と外との違い」みたいな事を考えると、どっちが正しいのかわからなくなって(なんと言っても、自分の家が一番気楽ですから、家の中のルールの方が正しいと感じがちなんですね。まだ幼いから。)自分の判断への信頼がゆらぐ。自分に自信が持てなくなってしまうわけです。だから何事にも真剣になれないし、中途半端だから、友達もできないし、学校もおもしろくないわけです。「帰宅部」をやってるしかなくなってしまう。

でも、それでも高校で1年半は過ごしているわけですから、「自分の中に育ってきた基準」というのは、実はそれなりに出来上がっているわけです。で、その基準に照らし合わせて「良い」ことなら、やっぱり良くて、「悪い」事ならやっぱり悪いんだ、という実感が、この「I先生のキツイ叱り」によって、持てた、という事なんだと思うのです。

「感じる心」を取り戻したことで、自分の感じ方そのものに自信が持てたって事ですね。

「あ、やっぱり恥ずかしいと思うような事はしたらアカンのや!」という自覚が持てた。だから「自分が恥ずかしいと思うような事は最初からしなければええんや!」という自覚が生まれた、という事ですね。

「悪い事してるよな」と思っている時に叱られると「あ、やっぱりこれは悪いことだったんだ」という自覚が生まれて、自分の「悪いことしてるよな」という感覚自体が正しいとわかる、という事なんです。

つまり、「自分が家の外でなんとなく蓄積してきた倫理観は間違っていなかったんだ」という確信を得られたという事なんですね。そういう効果が、この「i先生」の叱りにはあったんです。

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で、この自信は、この「顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした」からこそ得られたわけです。

あれだけ恥ずかしい想いをしたのだから、もう二度とあんな恥ずかしい事はしたくないという気持ちでもあります。で、それは「家の中の特殊ルール」ではなくて、自分が小・中・高と、身の回りの人間とやりとりしてきた中で得られた事で判断しても、大方間違うことはないんだ!という、そういう確信につながったんだと思うのです。

「自分で『悪い』と感じた事に対してはちゃんと謝ればいいし、『うれしい』と思った時には、ちゃんとありがとうと言えばいいんだ。それだけの事なんだ!」という確信が得られたということだったんですね。

当時はそこまで論理的に整理は出来てなかったのですが、いまにして思えばそう言うことだったんだと、よくわかるのです。

6月2日の日記「『感じ方』は自由なのか?」でも書いた事ですけど、世の中には「大事なところに引く赤線」があって、それは「自分の興味で引く緑線」とは別にあるんだ、と自覚できた瞬間だったんだと思うのです。

風邪でもないのにガラガラ声で電話して休む父親の社会に対する態度とは別に、「自分の感じている事を正直に出さないのは良くない!」と叱りつけるi先生のような社会的な正しい権威もちゃんと存在しているという事なわけです。

それが僕の中ではっきりとわかったという事なんだと思うのですね。

それはつまり、何が恥ずかしい事で、何が恥ずかしくないかという「価値判断」の軸が自分の中にもちゃんと存在していて、それは先生が言ってる事が「正しい」と分かるくらいにはキチンとしたものなのだ、という事なんです。

●先生の言うことももっともだ。

と思えるから、叱られたことが「恥ずかしい」わけですからね。
三色ボールペン勉強法で言うなら「ここは赤線だ!」ってわかったって事です。で、家の中のルールは「あれは緑線だったのか。」と整理できた、という事でもあるわけです。

別に否定する必要はないけど、緑線は赤線ではない。で、やっぱり大事なのは赤線であって、社会的に求められるのは「大事なところに引く赤線」なんです。「自分の興味で引く緑線」ではない。

だから、そういう倫理観が、このi先生に叱っていただいた事でキチンと確立されたんです。自分の倫理観に自信が持てるようになった。「機能するルール」を見つける事ができたって事なんです。概略そういう事なんです。

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で、30年近くもたって、やっと本格的にわかってきたことは、ちゃんと赤線を引く作業をし続けている人は、同じ時に同じタイミングで同じ部分に赤線を引くんだって事ですね。

高校当時も「自分の倫理観は、ちゃんと高校生活には通用する、機能する感じ方なんだ」という確信は得られてたのですが、歳を重ねるごとに、その通用する範囲が広がってきてるんですね。

単純に言えば書物等をちゃんと「大事な部分に引く赤線」を意識しつつ読むことで、歴史という「時間」の拡大と、海外という「空間」の拡大が得られてきたってところがあります。(時間軸・空間軸を拡大するのはすごく意味があります。より大きな視点が得られますから。)

視点を広げれば広げるほどに「より大きな太い赤線」というものを感じ取れるようになっていきます。

アダルトチルドレンの知識もそういう「大事な赤線」のひとつですし、トルストイの言う「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」も「大事な赤線」そのひとつでしょう。

自分一人でいるときは緑線だけで良いけれど、自分以外の人間と関係を保つためには赤線こそが大事だって事なんですね、単純に。赤線は異文化をつなぐルールなんです。

だから、自分が赤線の存在に気付いてもいない人が緑線しかわかっていない事を理由に「赤線なんて間違いだ」とか「赤線なんて存在しない」とか言う人がすごく間違っていて腹が立つわけです。人間関係そのものを否定している。他者と交わるためには、緑線をいったん横において、赤線を優先させないといけないんです。

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なのに、6月2日の日記で書いた若冲展に並んでいた男みたいに「国語のテストが間違ってる」とか、「自分が知らない・わからない」事を理由に、「大事な赤線」の存在を否定するというアホの極みをやる奴が出てくるんですね。

これは本当に困った事なんです。

赤線の存在自体を理解していない。ものすごく重大な欠陥なんです。

で、ものすごく重大な欠陥だからこそ、そこに気付いている、この男の彼女は、やさしくていねいな口調で「それは受け取る能力がないってことなのよ」と事実をちゃんと伝えてあげてるわけですね。

でも、この男はそれでも「論説文ならわかるけど、小説の場合は感じ方はいろいろで良い」と屁理屈を繰り返しこねるわけです。

なんでか?

感じたくないわけですよ。
自分が間違っているのだ、という事を感じたくない。

なぜ感じたくないかというと、心にグサリと痛みを感じるからです。痛いからイヤって思ってる。
まぁ、それも無理ないのかもしれない。ACの場合は子供の頃に、そういう痛みから逃れるために「感じないように」屁理屈こねるクセがついてしまってますから。

でも、ほんとうに、この「痛み」こそが「感じる心」そのものですから、この痛みを避けるというのは自分の感じる能力を否定していることにしかならない訳なんですけどね。「受け取る能力がない」のも当然なんですよ。痛みを避けてる=自分の感じる心を否定している、だから。

痛いのがイヤで「恥ずかしい思いを避けている」という事なんですけど、本当に単純にそれだけの事でしかないんですよね。そんな痛みなんて一瞬なのに。すぐに自然に痛みがおさまって、もっともっと大きな気づきにたどりつけると言うのに。

多分、恥ずかしい思いをする、と言うことこそ、自分の倫理観に自信を持つ、最上のチャンスなんですよ。実際には痛いけど(笑)


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で、少なくとも僕にはそういう経験があるから、やっぱりACに対しては、ついつい「叱」ってしまうんですねぇ。i先生みたいに上手には叱れないけど、とにかく叱る。

「お前は恥ずかしい目をしないといけないんだ! 恥ずかしく思え!」と鬼のように怒る。どうしても、つい。

まぁ、それだけ高校の時の体験が強烈だったと言うことでしょう。大事な事だと思うから強く叱っちゃう。

でも、この「感じ方はいろいろ」という男みたいに、ACは、そうやって叱られると「揚げ足取りばっかりするな!」と、反発するんですよねぇ。

赤線の存在を知らないから、それがどれだけ大きな欠陥であるかがわかってないんです。

だから、問題がとても小さな事だと勘違いしてるんですね。だから「揚げ足取りだ」とか思おうとしてしまう。

でも本当はそうじゃない。知らない事こそ大問題だし、その原因は、「恥ずかしい思い」を避けてるから、なんですよね。で、ちゃんとした倫理観なんて、自分が恥ずかしい思いをしなけりゃ、身に付くはずもないのですよ。

痛みの中にこそ「ありがとうございます」を素直に言える、「自然と赤線を引ける自分」への道が待っているのに、その入門口である「恥ずかしい思い」を避けてるんですね。

まぁ、当人がその門をくぐらない限り、幸せへの扉は開かないのですけどねぇ。痛いのがイヤなんだろうなぁ。ちょっとは痛みも感じろっちゅうねん。アホが。って思うわけですが。

でも「わからないから知らない」彼らは「知らない事は間違っている。」と言う。

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できない。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
とわかってない言い訳を繰り返す。

そんなアホな! と僕は思う。
ちゃんちゃらおかしい。子供の理屈だ。
単に「知らんだけ」やんけ。
で、知ろうとしてないだけやん。
で、なんで知ろうとしないかというと、自分の過ちを認める恥ずかしさを避けてるだけ、という堂々巡りがあるだけ。

あーつまらん。

間違った事を言ったら「間違ってました、ごめんなさい。」と言うと決まってるし、それをしないと人間の関係性は成り立たない。生き方は無数でも言うべき事はひとつで、それが「機能するルール」です。

で、ここには、この僕が体験して大転換が起きた「恥ずかしい思いを受け取る」という、大きな溝があるよなぁと、つくづく思ってしまうのです。痛みをキチンと受け入れる。それが大人になるためにどうしても必要な心構えなんですけどねぇ。

まず、自分が間違った事をした時、言ったときに、キチンと「恥ずかしい思い」をしないといけないんですよね。そうでないと正しくゴメンナサイなんて言えないし。

で、その間違いを指摘してもらえた時には「間違いを指摘してくれてありがとう」と言えなければならない。それ以外に取るべき態度はないのです。そんな所に「多様性」なんかない。それは緑線ではなくて赤線としてこの社会にキチンと存在していることなのです。

ただまぁ、ACのほとんどは赤線の存在自体に気づけてなかったりするから、気づくのは大変なんやけどね。
で、だからこそ、僕は自分の体験から「恥ずかしく思え!」と言うんですが、それはACからしたら、恥ずかしさを強要しているようにしか捉えられないんですねぇ。困ったことに。うむー。
だから「小さな事をギャースカ言う、揚げ足取りだ!」とか言うんですよね。ACは。

赤線の存在が実感できないってことが大問題だからこそギャースカ言うわけですけど、彼らはそれを「小問題」としか思ってないのだから本当に不幸だと思う。

ま、僕自身まだまだ「自分の間違いを認めて恥ずかしい思い」をしていかなきゃと思っているので、相手してられないんですけどね。

ま、そういうことです。
おとといの「感じ方」は自由なのか?で書いた事の続きなんですけど、ふと気付いた事があるので、ちょっと書いてみます。

「感じ方は自由なんだから、人それぞれでかまわない。」という言い方が、なんかすごく不自然でおかしなものに思えていて、なんでだろう? って考えたんですけど、わかりました。

それは、

●自分が「感じて」いる時に、他の人の「感じ方」を考えてるヒマなどあるはずがない。

からなんですよね。

最近、この問題を考えていて、昔、顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした時のことをいろいろ振り返ってたんですけど、ほんと、恥ずかしくて恥ずかしくて「穴があったら入りたい」とか想ってる時って、他の人がどう感じているか? なんて考えてる余裕はないですよね? 思いません?

わっちゃー、えらい失敗してしもた!どうしよ。恥ずかしい!かっこ悪い!うげー!

って感じですよね。
そういうもんやと思う。

こういう風に「感じている最中」に、ほかの人がどう感じるから、私はこう感じるとか、そんな七面倒くさいことができるはずがないよねぇ。
感じる時は自動的に感じるもので、他の人がどうとか判定してるヒマもないですよ。

だから「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方自体にえらく違和感を感じるわけですわ。

多分、そういう言葉って、いったん自分が感じている事を中断して、他の人と比較して、それで「感じていいかどうか」を測定してるんですよね。

いったん「感じることをやめて」回りを見てから感じようとしてる。
「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方には、そういう不自然さがあるなぁって気付いたのです。

感じるっていうのは、自動的に起こる事だから、そこで「感じないように」していない限り、「××な感じ方があっていい」という言い方は出てくるはずがないって思うわけです。

ものすごい不自然やわなぁ。

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で、この話に伴って、高校時代に体験した出来事が、僕にとってすごく大きな出来事だったのだと、いまになって気付いたので、また書きます。

ああ、そうか、そういう事だったのかと、いまになって気付いたのですよ。
僕にとって、けっこう深い重大な気づきです。
ま、それはまた書きます。
「感じ方」は自由なのか?
今日は京都相国寺で催されていた若冲展が明日最終日という事で、「これは見に行かねば」と見に行って参りました。

その様子はmixiのほうで書いたので、まぁ、また転載しますが、ここでは、そこで並んでいた時に、隣にいたカップルの会話が耳に入ってきて、久しぶりにイライラっときたので、ちょっと愚痴るつもりで書きます。

とにかく若冲展は異様な人気で、待ち時間が無茶苦茶に長かったのですが、そうなると、そういうカップルの言い合いというか「かみ合ってない話」とかも聞いてしまうわけですよ。

で、話の内容はようするにこういう事です。

●学校の国語のテストで、問題に小説等が選ばれて「この文章があらわす心情を述べよ」とかあるけど、あの設問はおかしい。

と、男が主張してるわけです。

●感じ方は人それぞれなんだから、小説でそれを問題にすることがおかしい。

と言ってるわけ。

で、女の子の方は、

●いや、それは「受け取り能力」を測るものだからそれで良いのだ。作者がどういう意図で、そう表現しているのかを、「受け取る」こともできなければ、それはコミュニケーションになっていない。

と男の考え方を全面否定した事を言ってるわけです。いや、言い方は、すごーく優しい言い方なんですけどね。でも、ようは男の意見をまっこうから完全に否定してるわけです。

で。

結論から先に書きますけど、これは、この女の子の方が完全に正しい。
確かに「受け取り方」は自由ですし、どう感じようが受取手の勝手ですが、文章には作者というのがいて、その作者が意図していた内容があるからこそ、文章は文章として成り立っているわけですよ。

だから、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。

ところがだ!

こういうバカに限って「感じ方は人それぞれなんだから。」という事に無茶苦茶にこだわるわけですよ。

で、しつこく言うわけ。

「いや、そりゃさ、論説文とか解説文とかで意味の読み取りとかが大事っていうのは分るけど、小説では受け取り方は自由でええやんか。感じ方は人それぞれなんだから。」と、くだらぬ食い下がりをしてくるわけ。

聞いてて、イライラっと来ましてね。ムカムカきた。
そんなものね、感じ方はいろいろだけど、全然重ならない、個別事情を抜きにして、「悲しい」心の動きには「悲しい」という言葉を割り当てて、その意味と「感じ方」を共有してるからこそ、言葉に意味があるんやないか、ドアホが! お前が「理解する能力」「自分が感じた事を複雑な言語表現で的確に理解する能力」がないだけの話やないか!アホか!

としか思わなかったわけです。

自分の心で起こった感情が、世間一般で言う「悲しい」なのか「怒り」なのかの区別もついていない、「感じる能力」の欠如した人間だから、「感情を表現するとはどういう事か」がわからなくて、「感じ方は人それぞれで良い」という言い訳に逃げてるだけやんけ! っちゅうことなわけですよ。

まえに、ここの日記でも紹介しましたが、例の齋藤孝さんがやっておられる「三色ボールペン読書法」が、良い具体例なんですね。

日本の小説の名作を生徒達に読ませて、「大事と思う所には赤線を、個人的に興味を持ったところには緑線を、大事かどうかわからないけれど、少しひっかかったところに青線を引きなさい。」という風に教えて、三色ボールペンを手に読書指導していくと、「読み込む力のある生徒」は、徐々に赤線を引く場所が共通化されていくって言うんですね。みんな同じ場所を「大事」と思うようになるって事なんです。

って言うか、これはね、それが当たり前なわけですよ。「こう読み取って欲しい」と思って作者は書いているのだから、キチンと読めている人の「大事なところ=赤線」の位置が同じになるのは当然なのです。そうでしょ?

当たり前。
自明の理。
それがバラバラだったら逆におかしい。

緑線はどこに引こうが勝手だけれど、赤線はみんなが同じなのが当たり前なんです。

この、すごく大事なことが、このバカな男にはわかってないわけですよ。
ほんまにアホやと思う。

でも、この「感じ方は一人一人自由だから」というのを、延々、延々、繰り返して主張しよるんですよね。

違うっちゅうねん。それはお前がアホなだけや。

世間にはちゃんと赤線と緑線の区別がついていて、赤線は赤線として処理できる「受け取り能力」のある人がちゃんといて、お前にはその「大事なところはどこか」を読み取る能力がないというだけの話なんじゃ、ボケ!

と、懇々と説教したくなる衝動を抑えるのに苦労しましたですよ。ほんとに。

ようは、自分が「アホ」であるという事を認めたくないだけの話なんですよ。

回りはみんな「ここが大事なポイントだ!」と分っているのに、自分だけわからない。それはつまり「理解する能力がない」という事でしかなくて、ここで「ああ、俺には能力がないんだ」と状況が分れば「理解する能力を身につけなくてはいけないんだ」って方向に進むこともできるんですが、それを「感じ方は人それぞれ」という屁理屈に逃げてるわけです。

まぁだいたい8割の人が、同じ位置に赤線を引いてるのに、この男は、みんながなんでちゃんと同じ場所に赤線を引けるのかがわからなくて、緑線を赤線だと言い張ろうとしているわけです。

いやー、それは通用せんのよ、やっぱり。

自分が赤線を引く能力がないことを理由に、「赤線なんて要らない!おかしい!」と主張してるにしか過ぎないわけだから。
それはやっぱり通用せんのよなぁ。可哀想だが。

で、実は人間が成長していく過程というのは、こういう場合に「あ、俺は分ってないんや」と気付く事が最初に必要なわけですよ。
その気づきがない限り、永遠に緑線と赤線の違いがわからないままですから。

ほんとにね、腹が立つのは、こういう「赤線の存在」が分ってない奴は、自分がわかっていないという事を理由に「赤線なんてウソだ!」とか平気で言うって事なんですよ。

お前、何無茶苦茶言うてんねん! っちゅう事なんですけどね。
でもそういう事を言うんです。こういう人は。

実際、このアホな男の「読み手の感じ方はそれぞれ。国語の問題にそれを出す事がおかしい」論こそ、まさにこの「自分がわかってない事を理由に、世間に流通している常識を否定して平気」というアホの極みなんですけど、これがいかにアホな話であるかを、たぶん、このアホな男はわかってないんですよねぇ。

まぁ、普通なら近づきもしないんですが、さすがに展覧会で並んでいると、イヤでも耳に飛び込んできますからなぁ。もう拷問に等しかったですね。

じゃかぁしわボケ!お前がアホなだけじゃ!
テストの点数が悪かったからと言って屁理屈こね回した言い訳するなドアホ!
お前が「どこが大事か」をわかってないだけじゃ。それを「個性」とは言わん!「アホ」と言うのじゃボケナス!

と言いたかったですがね。

まぁ、これ以上言うとケンカにしかならないとわかったらしく、賢い女の子が黙りましたけど。

ほんまにアホな奴でした。
自分がアホなだけというのが分ってない。
可哀想なものです。

で、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんですよね。

いつまでも「感じ方はそれぞれや!」と緑線の事しか言えないから、赤線の存在に気付くこともできないわけですからねぇ。

ま、そんなことを感じた今日この頃でございます。
今日は、mixiに書いた日記を、一部修正して転載。
あまりに印象深いことだったので。

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えー、実は先日、仕事の上で賞をいただきまして。それもある社団法人の広告賞のカタログ部門の部門金賞でして、得意先でも「ずっと金賞が欲しかったのに取れなくて」と言われていたものをいただけたのですよ。

で、本日5月28日(月)は、その広告賞の金賞の授賞式だったのです。

東京は、総武線信濃町駅そばの明治記念館が会場だったんですね。いやなんちゅうか格式を感じる、良い場所だなぁとおもったんです。
明治神宮外苑も近いし、木々の緑も美しくて。

「信濃町かぁ、いい場所だなぁ。」とかね。

しかし、あなた、そんなこたぁ、どうでもいいんですよ。

それより今日の、強烈な「死」のニュース2つ!
●松岡大臣自殺
●ZARD坂井泉水40才脳挫傷で死亡
の方がショックだったのですよ。

って言うのはね、この二人、二人とも、「信濃町の慶応病院」で亡くなってるのですよ。

なに、それ!
慶応病院って信濃町の駅の目の前じゃん!
私ゃ、今日、目の前で「ああ、これが慶応病院ね」とか見てたっていうの!

で、なんで私が、信濃町に出かけた日に、そういう事が起きるの!

それも松岡大臣とZARDですよ。同時ですよ。そこに私の金賞ですよ。何がなんだかどうなってるのか、わけわかりません。怖いです。

もうね、あまりに強烈でして、多分一生忘れられそうにない一日でありましたです。はい。

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まぁ以上なんですが、ここでは追加して、一言書くと、この賞がいただけたのも、ほめられて「ありがとうございます」と言ってたからだと思うのですよねぇ。

ほめられて「ありがとうございます」と言うということは、「ほめられてうれしい」という立場表明になります。

ちょうど、ここで書いた「ほめられて謙遜するのではなく、まずありがとうと言おう」と、「ありがとう」を言い続けていたクライアントさんからの仕事が、この賞を取れたクライアントさんですから。

人間として一番素晴らしいのは、愛情を与える人間なわけですけれども、その前に「与えられた愛情を正しく受け取れるかどうか」というのもありまして、ほめられたら「ありがとう」と言うというのは、まさにその「受け取り方」の問題なんですね。

それを言わずに謙遜するっていうのは、ようするに愛情の拒否なんですよ。実は。
世の中は愛にあふれているのに、拒否しているのがACなんですね。

で、「ありがとう」と言うというのは、正しく愛情を受け取る事なので「お、嫌がってないな」と、また愛情がいただけるわけです。まず「受け取り方」ってのがあるって事なんですけどね。

で、この「受け取り方」を正しくキチンとやっていると「ほめてやったら喜びよる。嫌がってはいないんだな」というのがはっきりしますから、クライアントさんがまた「面白い仕事」や「大きな仕事」を持ってきてくださるわけです。

つまりは、「ありがとうございます」の連続の結果が、この金賞になったのだなぁ、と思うわけです。

だからやっぱり、愛情は、正しく受け取らないといけないんですね。

あと、間違いを指摘されたら、やっぱり「指摘いただき気付くことができました。ありがとうございます。」だろうなぁって、つくづく思うのです。
これも最近、とても大きな気づきがありまして、また書きますけど、叱ってくれる人なんて、そうそういてないわけですよ。だから「叱り」も本当に大きな愛情なんですね。

だからやっぱり間違いを指摘されたら「ありがとうございます」って言わないといけない。

いや、実は、これはまだまだ僕にはできてませんけどね。
でも、そうやっていかないといけないと思います。

ま、そんな事で。
Video Game カプコン 2007/04/12 ¥5,040

かの超名作の「逆転裁判」シリーズの続編です。逆転裁判1〜3までがひとつのお話しで3部作として成立しておりまして、今回は主人公や登場人物まで変えて、「新章開廷」と銘打って登場した作品です。

もともとはゲームボーイ用のソフトで私は逆転裁判1〜3は全部、大興奮で遊んだものです。ゲームボーイは持ち歩きできますから、電車の中でやったりして、たいていは仕事の合間に1週間とか2週間でやり終えてたんですね。その間、大変幸福でありました。

で、逆転裁判1〜3が人気だったので、時代が変りニンテンドーDSになってから、DS用にリニューアルされた「逆転裁判1」(正式名称は「逆転裁判〜蘇る逆転〜」)が発売されたのですね。それが去年。これがまったく同じ内容かというとそうではなくて、ニンテンドーDSのタッチペンなどの機能を使った新しいストーリーがオマケとして1話追加される形で発売されていたわけです。

正直、逆転裁判1〜3の出来が、あまりに良く、奇跡のようなバランスを保っていたシナリオだっただけに、DS版のオマケシナリオには、あまり期待していなかったのですが、このオマケシナリオをやるためだけにDS版逆転裁判を購入。で、やってみると、オマケシナリオの出来が素晴らしかったんですね。

「おお、これは良い!」という内容。
普通、トリロジーが終わった後にそれを超える作品とか、なかなかできるものではないので、すごいな、これはと思ったわけです。

なので、この「4」も、4月12日発売で、記憶では4月15日くらいにいきおいこんで買ったわけです。超期待!ですよ。

ですが、やっていくうちに、日々どんどんやる気が失せて、ひと月以上かかって、やっと昨日終わりました。

なんだこりゃ? って気分がとても強いんですねぇ。なんだかちーとも感激できん。

どうしてこんなに面白くないのかと思いながら、ゲームの終わった後で出てくるタイトルロールを見ていると、1〜3のシナリオを書いておられた巧舟(たくみしゅう)さんの肩書きが「原作・監督」になっている。

「シナリオじゃない!!!」

なにそれ。

別人の作品?

それなら、この違和感は分るんだけど。

ああ、そうか、逆転裁判はカプコンの中でも人気シリーズになっちゃったから、セールスのために別チームでも作るという事にしたのかぁ、と事情が読めてきたのであります。

実際すでに30万本をセールスしていて、シリーズ最高の販売数になっているようです。

カプコンという会社はもともとシナリオには力を入れている会社でして、昔、「ゲーム用のシナリオライターというのを育成せねばならん!」と、フラッグシップというシナリオ専門の子会社まで持っていたのですが、この10年のゲーム市場の縮退で、子会社はカプコン本体に吸収されたんですね。

そんな事情もあって、巧さんに書かせるのではなく若手のライターに書かせるとかしたんじゃなかろうかと、想像してしまうわけですが。

内容的にはニンテンドーDSの機能をふんだんに使っていますし、表現ノウハウも蓄積していけるだろう、若手も育つし、セールスも良いと、悪いところはないわけですが、いかんせん、シナリオがグシャグシャになってしまった。

まぁ、しょうがないとは思うんだけど、今回は本当にシナリオが問題。

従来の逆転裁判シリーズでは、

●検察と弁護側の対立構図

というのは、当たり前ですが絶対に崩していなかったのですね。シリーズ後半になって、登場人物同士の心の交流が生まれて、弁護側と検察側が一体になって真実を追究するというような、「お話し」独特のウソも多少はありましたが、それでも検察・弁護の対立構図こそが法廷というシステムの基礎ルールなのだから、そこは絶対に外していなかったんですね。

検事が弁護士と同様の意見で事件を追及する時はものすごく逡巡していたし、何より「俺の立場からは、この意見は言えんのだ、おい弁護士、お前が気付かないでどうする。気付け!」というような、立場を守りながらも、ギリギリの線で「協力」するという構図だったわけです。そこがまた面白かった。

法廷の対立構図というのは、論理的に事件を追及する上での基本構図、基本理念、ルールなわけですから、そこを崩したら法廷システムそのものが破綻する。それはできない。そういうことなんです。

ところが、今作の新しい検事キャラクターは「真実追究こそが大切なのさ!」と検事側なのにあからさまに弁護側に立ったりする。

なんじゃそりゃ?
なわけですよ。
法に対する理念もへったくれもない。
真実なんかわかるわけがない。だからこそ、弁護側と検察側が立場を違えて徹底討論するから意味があるのであって、「真実らしきもの」に向かって弁護側も検察側も突き進むなんてのは「冤罪生産装置」にしかならないわけですよ。本来。

このあたりのシビアさがなくてつまらないわけです。今回の4は。

従来の1−3は、霊媒師が出てきて死人がよみがえって証言するとかありましたけど、そこまでフィクションをやっても破綻しなかったのは、この厳格な法廷システムをシナリオの上で厳守していたからなんですね。

また、どんなに無茶なシナリオだ、と思っても、必ず「証拠で語る」という手順は外さなかった。事実に語らせる手法ですね。そこは絶対に外さなかった。だから霊媒師が出てきても、検事が弁護側と協力しても、ギリギリの線でバランスしていたわけです。

「法」に対する正しい理解があったと思うのですよ。

でも、今回の4にはそれがない。これは決定的というか致命的なミスだろうなぁ。

なにより「なんじゃこりゃ」と思ったのが、今回新たに登場したシステムで「現在と過去を行き来できる」というのがあるんです。

ストーリーを複雑にしすぎてしまって、法廷ドラマだけでは整理しきれなくなったのかもしれませんが、よくよく見てみると、現在の時点で、過去にさかのぼり、過去の人物から「証拠品」を得て、現在の法廷に出す、とかしてるんですね。

うーん。

いや、その。

「過去に起きた事件の重要な証拠」を、どこで見つけるか? とかこそが、物語としての醍醐味なんと違うの?って思ってしまうんですなぁ。

なんでそこを、こんなにあっさり味にしてしまうんだと。

で、「証拠品に語らせる」というのは「実際に起きた事実をこそ重視する」という絶対的なルールで、この表現方法は、その重要な点を完全にスポイルしてしまうわけですよ。
証拠品を見つけるのにタイムマシンを使いましたとか、そういう話にしかなりませんからなぁ。

で、今回、もっともガックリきたのが「裁判員制度」。

なんちゅうか「裁判員制度バンザイ」みたいな形で、法律はあなたの気持ちで変るのよ、みたいな事を言ってるのが情けない。

このあたりは、映画「それでも僕はやってない」を見て、日本の司法の杜撰さ、ひどさに怒りまくり、なおかつ日本の「裁判員制度」が、いかに骨抜きで、本場の「陪審員制度」と大きく異なるのか、「裁判員制度」とは名ばかりで、実際には「話題の裁判」だけを、「裁判官が一般の裁判官をリードする形」で判定する、まさに「カッコだけのシステム」なのだ、というあたりを、知っている僕としては、全然わかってないよなぁと憤慨するしかないわけで。

ちゃんと裁判員制度がどんなものなのかとか、調べとけよな。
あれはかなり怪しい制度なんやぞ。ほんまに。
って思う。

考えてみれば巧舟のシナリオは、事実と証拠に基づくディベート(反論しあう事で正否両面からキチンと検証するやり方)を、ディベートの意義や重要性を理解してない日本人に分らせた、という意味ですばらしかったのだなとつくづく思うのです。

ようは日本人全員に「これを学べ!」と挑戦していた気概があったわけです。

でも、今回の逆転裁判4には、それがない。あるのは「裁判員制度で民衆の意見を入れるのが正義だ」という、つたない、幼稚な判断で終わってるってだけで。

まぁゲームですから。幼稚でも良いと言う言い方はできるのかも知れませんけどねぇ。

まぁ、このまま「5」が出るなら、もう、やる必要はなしだなぁ。
頑張ってるとは思うんだけどねぇ、「4」。
でもダメだね、これは。

僕的には「逆転裁判4」は、ストレートに映画「それでもボクはやってない」ですな。あれこそが正しい「逆転裁判トリロジー」の続編です。

で、あの映画ですら「裁判員制度」にすごく期待してるフシがありましたけど、「裁判員制度」は司直の民衆操作制度にしかならねーよ、いまのままじゃ、って言うのが僕の危惧するところですね。

やっぱり、日本人には論点をキチンと対立させて事実をあぶり出していくというような方法論自体が無理なんだろうなぁって思うだけで。
国の成り立ちが欧米とは異なりますからなぁ。
はてさて。どうしたものかと情けなくなるです。

ともあれ、これは「裁判」ではなくて、幼稚なゲームのためのゲーム。お子様向けアニメです。

まぁ巧舟さんも、もうしばらくは書けんやろうしなぁ。こうするしかなかったと思うから、文句は言いませんが。

逆転裁判1〜3で、「裁判」というシステムを正しく理解した人は、ぜひ「それでもボクはやってない」をご覧ください。

そして、日本の司直がいかに歪んでいるかを、その目でお確かめいただきたいです。

その方が、はるかに意義があるし、おもしろいです。本当の意味での「4」が、そこにあります。
例の「裸の王様のやるべきこと1/2」が発端となって、いろいろコメントがついたので、整理の意味も兼ねて、また、いろいろ書きます。

今回は、「一番大きな枠組み」について書きます。
最近わかった事は、

●ACの回りはACだらけ
であり、
●ACは、「全体枠組み」を理解してない
●ACは、機能するルールと機能しないルールの区別がつかない。

ということが、最も問題だと気付いたという事です。

それに加えて、ACの場合は、

●「権威」への過剰反応。
●実感のない行動を「学ぶ」困難。

という2つの「ハンデキャップ」があるというのが僕の意見なので、そのことについても書いておきます。

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まず、大きな構造の把握から考えていきましょう。

もともとAC(アダルト・チャイルド)とはAdult Child of Alcoholics(アルコール依存症家族で育った人)だったわけですが、その後、多くの不幸な親子関係に同様の状況が見られたと言うことで、

●Adult Child of Dysfunctional Family(機能不全家族で育った人)

というように呼び名が変ってきていますよね?
じゃあ、なんで「機能不全」って呼ばれるのよ? って事なんですね。

アルコール依存だけでなく、バクチ狂いだったり、子供との共依存だったり、さまざまな状況はあるけれど、この言葉はそれらを「機能してない家族」という呼び名でまとめてるわけです。ひっくるめて「機能していない」んです。

では。

「機能する」というのはどういう事か? 大事なのはここです。
「機能する」というのは「人間関係が円滑に機能する」って事なんですね。当然家族関係も人間関係ですし、家族関係こそが人間関係の基本ですから、ここが歪んでるとどんな人間関係も、円滑に回らないって事になる。

で、こここそが、一番大事なところなんですが、ACというのは、

●「機能する関係」を体験したことがない。

ってことなんですよ。人間関係が円滑に回る体験をしていない。

普通に「機能している親子」などであれば、ここでの「機能する」という事がどういう事なのか、すぐにわかる。親が子供のために稼いできたり、ご飯を用意したり、社会で生きていくための基本ノウハウを教えたりするってことです。

特に注意したいのは、社会で生きていくための基本ノウハウの部分ですね。これは「しつけ」と言い換えてもいいですが、ここでは分りやすく簡単に、

●間違った事をした時に「ごめんなさい」と謝る。
●知らない事を「わかりません」と素直に言う。
●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこぶ。

という3つの言葉で代表させておきます。
「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」という言葉を発するタイミングと使い方を日常で正しく「普通」に使うって事です。

こういう基本ができてないと、人間関係が円滑に回りません。通常、「機能している家族関係」では、これらは普通に行われています。機能する、というのは、そういう人間関係が円滑に回る、という事を示すわけです。

これらの対人行動は、分っている人には「何を当たり前の事を…」と思うような事なんですが、逆にACには、この「当たり前」の事が理解できないのです。

ここのところの溝はかなり大きいのです。

幸福な環境に育った人間は、こういう当たり前の話を書くと「そらそうやろ!当たり前ですがな。」と感じるのですが、ACだらけの機能不全家族で育つと、こういう当たり前のことを「単なる建前でしょ。」とか「とおりいっぺんの表面的な考え方だ」とか「絵に描いたような当たり前さがウソくさい」と捉えてしまうのです。

何故ACが、こういう話を「建前」と捉えてしまうかというと、こういう当たり前の対応によって、「人間関係が円滑になった」という体験を家庭内で、ほとんどしていないからなんです。

「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」と口にすることで、身の回りの人間関係が好転していったという体験が非常に少ないのです。だから「ウソ臭く」感じるのですね。実感を持てないわけです。

しかし、ACではない家庭では、こういう言葉が、ごく普通に使われるわけです。だから実感として「必要なことだ」というのが分っているし、「大切だ」と経験則で身に付いているわけです。実感がある。

この、「実感がある」というのと「実感が持てない」という大きなギャップがあるがために、ACにも理解できる言葉として「機能する」という言い方が出てきたのだと思うのです。

「自分の行動や言動が、自分の幸せ達成や、身の回りの人間関係の好転に役立ちましたか? どうですか? どうせなら、役立つ行動をした方が良いですよね? 冷静に自分の行動・言動が自分の幸せ達成に対して効果があったかどうかをチェックしてみてくださいね。」

というのが「機能」という言葉の意味するところなんです。
普通の人間なら、「当たり前の挨拶を大切にする」とか言えば、それだけで「良いことだ」という実感があるわけですが、ACには、その実感がない。あっても弱い。

もちろん、「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」というのは、ひとつの例として出してるだけで、そのほかにも色々なパターンがあって、ACは、それらの「機能するノウハウ」を、さまざまな分野において、たくさん学んでいかないといけないのです。(逆に言えば、学べば身に付くし、人間関係も円滑になって「必ず」好転するって事で、学びがいはすごくありますが。)

実際の話、ACが、これらの決まり文句を言うべき場面に遭遇した時に、どういう行動・言動をしがちかというと、

●間違った事をした時に「こういう考え方もある」と別の考え方を述べて言い逃れをする。
●知らない事でも「知ったかぶり」または「無視」して権威(自分の精神の安定)を保つ。
●ほめてもらっても「いえいえ、大したこと無い」と自己卑下する。(喜び・興奮の拒否)

という事が多いのです。

まぁ大抵は「心の痛みを感じないようにするための防護手段」なんですけど、子供の頃から「感じないようにする」ばっかりやってるから、「感じたときに、どう対応するべきなのか」がわからなくて、とにかく「感じずに済む」方法を選ぼうとしてしまうんですね。

僕自身がACだったので、このあたりの精神構造はよくわかるのですが、いろいろ学習する中で、たとえば

●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこびを示す。

というのは、必要な事だと理解したので、意識して「ありがとうございます」と口にするようにしました。学習して身につけたということです。

仕事の上で「●●の評判、良かったですよ。」とか言われた場合、いつも「いえいえ、大したことはしてません」という謙遜した言い方をしていたのを、まず「ありがとうございます」とほめてもらった事に対する感謝の言葉を、真っ先に述べるようにしたんです。

この時、僕はACですから、そう言う事が当たり前だという「実感」もないですし、正しいという感覚もなかったんです。でも、いろいろ本などで知識を仕入れて、どうやら、そういう具合に口にすることが「機能する態度なのだろう」という予測はついたので、実際に試してみた、という事です。

そうしたらどうなったのか?

考えてもいなかった事が起こりました。まずひとつは気恥ずかしい思いでした。大したことしてないのに、ほめられて「ありがとうございます」と言ってる自分が面はゆいというか、気恥ずかしいのです。(幸せな、普通の人にはわからない感覚かもしれません。)

でも大事なのはその次で、次の瞬間に「ああ、でも、この人は本当に心からほめてくださってるんだ。ありがたいな。」という気持ちが湧いたのです。「ありがとう」と言うから「感謝の気持ち」をキチンと心から体験できたのです。言葉にあとから感情がくっついて、やっとこういう場合の「ありがとう」の感情を手に入れる事ができたわけです。

これを体験できただけでも大収穫ですよね?

でも、実は、まだまだ後が続きます。

そうやって、相手の方からのほめ言葉をキチンと受け取ると「ああ、そうか、少なくとも僕は、目の前のこの人からほめられる程度のキチンとした仕事はやり遂げているのだな。」という実感が生まれたのです。そういう「自信」が湧いたのです。

自信であり、自己肯定感であり、自尊心ですね。そういう思いが生まれたのです。

これは、ほめられたら反射的に「いえいえ…」と謙遜ばかりしていた時には感じることのできない体験でした。「ありがとうございます」と、相手に対して感謝するという事は、そのままストレートに自分の行動を認める行為になりまして、それは自分に感謝したのと同じ効果が生まれるんです。それを実感しました。

これもまた、本当に大きい気づきでした。

結局「いえいえ」と謙遜していたのは、AC特有の「感じるのが怖い」という恐怖心から、一番最初に訪れる「気恥ずかしさ」を回避していただけだったんですね。そこで「恥ずかしい思い」をするのが怖くて、それで「いえいえ」と謙遜していただけなんです。「感じる」ことから逃げていたわけです。

たしかに、大したことはしてないと思っていたから、「ありがとうございます」と言うのは気恥ずしいわけです。だから最初に「ありがとうございます」を言うというのは、小さな勇気は必要でしたが、でも、本当に、ただそれだけの事でした。

「感じない」ようにしていて、小さく閉じこもっているから、「気恥ずかしさ」の次にやってくる、本当の自尊心や感謝という大きな果実を味わえないわけです。

で、話はまだまだ続きまして、この「ありがとうございます」と、まず一言言うというのは、「いえいえ」と謙遜するより、実は手間のかからない簡単さがあるんですね。

考えたらわかりますが、「いえいえ…」と言い始めた限りは、「いかに大したことないか」というのを説明する手間が必要になるんです。どういうところが大したことないのか? というのを個別具体的な事例に沿って、微に入り細をうがち、「自分がいかに大したことをしていないか」を解説するという手間が絶対に必要になるんですね。

ところが、まず「ありがとうございます」と感謝の気持ちさえ述べてしまえば、そこでコミュニケーションの基本は済んでるわけです。だから、「いえいえ」と謙遜するのは、あくまでオプションで、どうしても言いたい、という気持ちが強い時にだけ言えば良いことになるわけです。

これに気付いたとき、いかに楽だったか。

逆に言えば、いままでひたすら謙遜していた作業が、いかに面倒で、手間で、その割に「機能」していなかったかが、はっきり分ったのであります。

つまり、「個別事情を語る」というのは、ものすごく手間で、その割に効果がない、「機能しない」という事なんです。まさに「機能不全」そのものです。でも、「感じないようにすること」を子供の頃から頑なに守っているACは、最初の「気恥ずかしさ」を感じるのを避けるがために、ものすごい労力を使って、「ありがとうと言えば良い」というルールから逃げるわけです。

もう、ムダの極みなんですね。

こういう類の「ルール」は、世の中にたくさんありますが、それはひとつずつ学んでいくしかないわけです。

しかも!!!

ACは、親から「機能している関係」を学んでいませんから、親が「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかを言ってる場面に遭遇してなくて、それが実感として良いこととはとうてい思えないわけです。

それは「知らない」からなんですね。
体験してないからわからない。

でも!

ここで多くのACが間違うんです。「そういう時の『ありがとう』は実感を伴わないから偽物だ!」って感じの間違い方です。自分の実感がないから偽物で「お題目」と認識してしまう。

いやいやいやいや、いやいやいや。

それはね、あなたが「知らない」から実感がないだけで、でもって、「知らない」のだからこそ、学ばなければならない事柄なんですよ、と、すでに学習した私は言うわけです。

結局ACは、世の中に

●機能するルール

と、

●機能しないルール

が存在しているという事がわからないわけです。ACの親は肝心の「機能するルール」の簡単で便利で、深く自分の内面を育ててくれる「機能」の事を知りませんから、「機能しない」自分の身勝手を子供に押しつけてしまいます。

押しつけるどころか、それは「私が親なのだから、言うことを聞け」と権威で強制する拷問と化している事も多いわけです。「機能しないルール」を押しつけるわけですよ。

しかし、それは「機能するルール」が存在している、と言うことを知らないからなんですね。

で、子供の側は「機能しないルール」を押しつけられる事で「権威主義」が大嫌いになってます。だから、自分で納得できない「ルール」には徹底的に反発します。

確かに「機能しないルール」に反発するのは別に良いのですが、ACは「機能するルール」を体験した事がないので、「機能するルール」まで反発の対象にしてしまうんですね。

で、その時の言い分が「そんなルールを私は知らない。それは押しつけだ!」と言う言い方になるわけです。

しかし、子供の頃から「機能するルール」の「機能した体験」を持っていないACが、「機能するルール」を良いモノだと実感して受け入れるというのは、もう不可能に近いんですね。

ただ冷静に「機能するかどうか?」を判定した上で、「とにかく試してみる」とかをするしかない。
まぁ、ありていに言うなら「四の五の言わずにルールに従う」ってことを、とにかくやってみるしかないわけです。

だから、ACの現実として存在している「AC脱出のシナリオ」は、

●機能するルールを見つけて、それを学習して身につける。

しか存在してないわけです。しかも、その学習過程は、

●体験していない行動なので「実感」は伴わない。

んですよ。ここがACのハンデキャップであり、辛いところなんですが、こればっかりはしょうがないんです。「これだ!」と思ったやり方をコツコツ身につけるってことを、日々やり続ける。それ以外に道はないんです。

で、それをやっていくと、本当に「機能する」という事の快適さ、便利さ、気持ちよさ、幸福感というものが、どんどん味わえるようになっていくわけです。それはもう天と地の差です。

でも、ACは「感じないでおく世界」にとどまっている事が「自分の実感として正しい」と思い続けていて、それで「機能しない行動」ばかりを取るという事になるわけです。

で、悲しいのは、「親と違う行動を取っていれば、それは押しつけられたルールではなく、自分で選びとった自分らしいルールなのだから正しいのだ」と思いこんでるわけです。

いや、いやいやいや、いくら「自分らしい」と感じられても「機能しない行動」なら、意味はないし、そんなものを子供に押しつけたらダメですよってことなんですね。

そういう「自分勝手な自分らしさ」というような、正しいように見えて実は正しくない「機能しないルール」ではなくて、「ほめられたら、ありがとうと言う」とかの「正しいルール」というのを選び取らないといけない。

で、そういう「機能するルール」は存在していて、それを守らない限り、間違ったルールを押し通してる事にしかなってないんだよって事なんですね。

で、その間違ったルールを押し通してるから、子供に「正しいルール」を教えられなくて、ACが親から子へ遺伝のように伝わってしまうという、そういう構造なわけです。

個別には、自分の思いというのはあるし、謙遜のネタが全部個別的に違うのと同じように、個別にそれぞれ「思い」があるのも当然なんですけど、まず「ほめられたら、ありがとうと言う」というルールは、黄金のルールとして厳然と存在していて、それは守らない限り「機能しない」んですよ。

ところが、

●「機能するルール」と「機能しないルール」

の見分けもつかないACは「ルールはとにかく守って身につけるしかない」「四の五の言わずにやってみろ」とか言われると「機能しないルール」を押しつけられたようにしか感じられなくて、ひたすら反発します。少なくとも僕の知っているACまたはACとおぼしき人間、数人の反応は以下のようなものです。

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(あたりまえです。でも、共有すべきルールは厳然としてあります。)

もう、見事に「機能しないルールへの反発」が先に来るんです。
「ルールを守ることで、自分の人生が開けて行くこと」というところに意識が行かない。

共有すべきルールをキチンと守らないと、結局、損するのは自分なんです。

で、それを知らない・実感できないのは、親もACだったから子供の頃に教えてもらえてなかった、というだけの話です。

で、それを知らなくてもなんとかやっていけるのは、身の回りにいる人がACだらけだからです。

とにかく大枠として、世の中には、

●機能するルール
と、
●機能しないルール

というものがあって、ACはえんえん、親子代々、「機能しないルール」ばかりを身につけてしまう、ということなんです。で、そしてそういう悲しい事が起きる理由は、ACが、

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(共有すべきルールが見えてなくて、「押しつけを避ける」が先に来る。)

という間違った考え方に固執してるからなんです。
明確にそれは間違いで、それは正すより他に幸せになる方法はないんです。
単純にそれだけ。
機能しないものは機能しないのですよ。それは。いつまで経っても。

大事なのは、自分の「機能しないルール」をいったん横に置いて、「機能するルール」を試してみること。
それしかないんです。

で、この試行錯誤においては「自分の実感」であるとか、「自分の生き方」っていうのは全然通用しないわけです。
だっていままでそれで成功・機能してきた事がないんだから。それは絶対に無理なわけですよ。

で、こういう事を大前提に考えた時に、世界の文豪、トルストイの、以下の一言がすごい!と思ったのであります。

●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

すごい!!!!!

本当にすごい!

これ、まさにACの不幸をそのままに言い当てています。「ありがとう」の一言で済むところを、えんえん個別別個の「大したことない理由」を探し回る自己卑下の構造とか、完全にこれにあてはまります。幸せな人は、みんな、とってつけたように「ありがとうございます」としか言わない。仮に「大したことないですよ」と言ったとしても「ありがとうございます」と感謝した後にしか言わない。幸せな人はみんな一緒。

でも、不幸な人は「ありがとうございます」とは言わずに、いかに自分が大したことないかを一生懸命に考えて自己卑下する。確かに親と子の意見も自己卑下の理由も別個にオリジナルなものだったりするけど、「ありがとうございます」という「機能するルール」を守っていないという事では一緒。

まさに、
●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
って事なんです。

(まぁ、こう書いた上でトルストイは「一様な幸福な家庭など描いても小説にならん。さまざまに異なる不幸な家庭を描く。」と言った人なんですけどね。トルストイもACくさい。いや、わかりませんけど。)

ともあれ、一番大きな構図として、世の中には

●機能するルール
と、
●機能しないルール

があって、ACは、

●「良いものだ」という実感がなくても、「機能するルール」を学ぶようにしなければ、幸せにはなれない。

という事だけははっきりしてるんです。
この部分こそが、ACのハンデキャップなんです。
「機能するルール」を実感持って感じ取れない。
ACのもっとも不幸な点です。
そして「機能するルール」と「機能しないルール」の区別が付かず、「押しつけられたルール」すべてに反発するという間違いを犯します。
重要なのは「機能するかどうか」なんです。その行動で人間関係が円滑化するかどうか。良くなるかも知れないと想定できるなら、たとえ実感がなかろうと、気恥ずかしい思いをするのがイヤだと思っても、経験も実感も無いことを試すことに恐怖や苦痛を感じても、とにかく試してみるしかないんです。

それ以外に方法はない。
現実問題、ほかに方法はない。

で、不幸なままでいるよりは、幸せを目指した方がよい。

大枠の大枠として、そういう事です。

別に不幸なままでいたいなら、それはそれで自由なんですけどね。
でも、それはハッキリと「不幸」なんです。
まぁ小説のネタにはなるだろうけど。
5月4日に書いた「裸の王様のすべきこと」のその1・その2とも、なぜかとても反応をいただきまして、いくつかコメントをいただいたわけですが、その中でいろいろ実感できた気づきがいくつかありましたので、シェアする気持ちで書きますね。

ひとつは、AC(アダルトチルドレン)と気付いた人の多くが身の回りのACとの関係にけっこうとまどっているって事ですね。

で、これは考えたらものすごく当たり前の事だと思い至りました。
まず基本、親子関係のゆがみの中で育っていて、それが成長過程で「あるべき姿」に気付くわけですから、ようはそれまで気付いていなかった「ゆがみ」に気付いていく過程がACからの脱出プロセスなんだってことです。

だから、自分がACであると気付いた途端に、身の回りの関係のいくつもが「ヘンだ!」「気持ち悪い!」ってなるのは至極当然だったのですわ。

親子関係、兄弟関係、友人関係。ACであった人間は、すべての人間関係に、その「ゆがみ」を反映させ続けてきてるわけです。それはひっくり返して言えば「回りみんなが気付いてないAC」って事ですね。

このあたりは、考えたら当たり前の事なんですわ。

で、この「気づき」というのは、人それぞれでタイミングも違うし、学んでいる過程も違うのだから、それこそ「時が薬」で、待つ事を学ぶとかするしかないんでしょう、きっと。

で、学べない人はどうしても学べないから、それはもう距離を置くしかない。単純にそうするしか他に道はないってことでしょう。

整理すると、

●ACの回りはACだらけである
●回りのACの気づきは手伝っても良いが大抵は難しい。
●回りのACの気づきは当人まかせにするのが基本。
●あまり回りのACに関わると自分の成長が引き戻される。
●学べない人は学べないのだと受け入れる。

という事になるだろうなと思います。
当然、学べない人とは疎遠になるしかないわけですが、それはもう仕方ないですね。

自分がACだと気付いた人は、たぶん、みんな相当に苦労してるんやなぁと思いました。お疲れ様です。>みなさま。

で、そういう状況の中で陶子さんがコメントしてくださった、以下の文章が僕としては、とても大きな気づきになりました。

>「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」

という一行です。

「ああ、そうか!」と、改めて気付き直したという感じです。ACは、いろいろ自分の感情をごまかして生きていて、いろいろゆがみがあるわけですけど、その「ゆがんでいる状態」を「ありのままだ」と思いたいわけですよね。

いまにして思えば、確かに自分もかつてそうだったんだと思い直せるのですが、変化の過程で、そんなアホな思いこみは真っ先に捨ててしまったので、そういう勘違いを抱いているという事すら忘れてしまっていたのでした。

ACだと身の回りに歪んだ人間関係しか存在してないので、「ゆがんでるのが”ありのまま”だと認識してしまってるのですね。

でも、それは完璧に間違いで、「ゆがんでない人間関係の方が健全で、その方が気持ちも良いし、人生のすべての面において有益である。」という事なんです。まぁ当たり前の話ですが。

でも、こういう事を書いても、歪みのまっただ中にいてる人間は自分の人間関係に対する歪んだ感覚が「歪んでいる」とは気づけないわけです。
当たり前で、健全で、健康な関係を敵視するというか、健全さに嘘っぱちさを感じてしまうわけです。(ここがすでに歪んでるんですが。笑)

でも、確かに自分もそうだったよなぁって思うのですね。

じゃぁ、この歪みの矛盾を、僕自身がどうやって克服してきたのかなぁ…って事を振り返ると、いまにして思えば、ものすごく基本の基本からやり直してるわけです。

それはいったい何か? というと、「喜怒哀楽を味わう」ってことなんですね。

人間は生きている訳ですから、喜怒哀楽という感情が湧いてくるのが当たり前なんです。

だから、まずこれを、ゆったりと味わう事が「生きる」上での一番の基礎なんです。

人によったら「何を当たり前の事を書いてるねん」と思われる方もおられるかもしれませんが、ACというのは、実は、まずこの基本中の基本である「喜怒哀楽を味わう」というところが歪んでしまってることが多いんですね。

それこそ、「喜怒哀楽をありのままに味わう」という事が、まず出来てなかったりするんです。

たとえば、僕の場合だと、好意を持ってくれてる女の子の感情に気付かなかったとかですね。
まぁ一般的に「鈍感」とか言いますけど、ACの鈍感は天然の鈍感とはちょっと違っていて「気付いているのに気付きたくない」という、歪んだものになります。
気付くこと自体が怖いんですね。気付くは傷つくの第一段階でもあるから。

でも、しかし、そんな事してたら、人生はいつまで経っても始まらないって事になります。

で、まぁ、いろいろな過程は経ましたが、最終的に僕がたどり着いたのは「人生というものは喜怒哀楽を味わうためにあるものだ」という事で、それを自然に味わう事こそが人生の意味なんだって事な訳です。

傷つく事を恐れていて、人生を前に進める事はできない、って事です。当たり前なんだけど。
こういう基本の基本のところを、少なくとも僕は時間をかけて、ていねいに学んでいったし、その結果、自分がACであるという事も受け入れられるようになったんだよな、と、その過程全体を思い起こしたわけです。

で、裸の王様の話にもどりますが、裸の王様をやってる人間は、自分が裸の王様であることに気付きたくないわけです。

それはなんで気付きたくないかというと、気付いたら恥ずかしい想いをして、自分の心が痛むからですね。

自分の心を痛ませたくない。

だから、痛みを感じないようにする。

という事で「感じているのに感じていないことにする」とか「感じてはいけない」みたいな事を、えんえんやってるんですね。ACは。

しかし、現実は「痛みを感じる事が人生である」わけです。歩いていれば転ぶこともあるし、転んだらすりむくし、すりむいたら痛い。当たり前のことです。でも、すりむいて痛いから、歩かないでおく、なんてことはできない。なんせ人間は生きているから。

結局、痛みは進んで受け入れて、感じていくしかないんだと、ここは現実を受け入れるしかないんですね。痛みを味わう事も人生なのだから。

もちろん、痛みを感じずに成長できれば、それに越したことはないんだろうけど、小さな痛みを、まず受け入れて始めて、大きな痛みを感じなくて済むように「学習」できるという事が人生には付きものなので、やはり小さな痛みは受け入れるようにしないと、それは学べないわけです。

どんな痛みでもそうですが、痛みから逃げていると、どんどん痛みは深く大きくなって根治の難しい根腐れ状態になってしまいます。

ちゃんと痛みを味わえば「痛いなぁ、なんとかならんかなぁ」と思って、ちゃんと「手当」することを学びます。痛いのに「痛くない」などと歪んだままだと、まずこの「手当をする」という事ができない。

たとえば僕は最近はウクレレを趣味として心の安定を図ってますけど、これも、いくつも痛みを味わったからこそなわけですよ。「痛いのは辛いなぁ」と思うから、それを癒す「手当」の手段を得たわけです。だからこそウクレレが大好きなんですね。

これ、「痛みを味わう」という過程無しには、ここに至る事はなかったと思います。

で、痛みを怖がっていた間は、「痛みは癒える」という事がわからない。それを知らないわけです。

ウクレレの練習でもそうですが、学ぶという事は、自分の失敗を、失敗としてちゃんと認識して、そこを修正していく過程の事を言います。

こんなものね、初心者の間は失敗ばっかりですから、それこそ「痛み」の連続なわけですよ。

でも、まず最初に「自分の失敗を受け入れて味わう」という事をしない限り、傷は癒えないわけです。
これは、少し離れてロングスパンで見てみれば「自分の失敗を受け入れる、許す」という事な訳です。

つまり、
「痛みを味わう」=「自分を許す」
という事になります。

まず、これ。
これができないとダメなんです。
成長はない。

つまり「痛みから逃げてはいけない」なんですね。
「痛みとは人生の意味である。味わえ。」なんですね。

これが基本の基本なんです。
まず基本。

ところがACは、子供の頃に親との関係で、どこかで「感じてはいけない」という刷り込みがされてることが多いから、「痛みを感じて、やがてそれが癒えていく」という自然なプロセスを、受け入れないようにしていたりするんです。

いや、それは不自然やろ。物事の道理に反する。

って思うんだけど、そういう風に条件付けができてしまってるんだからしょうがないよねぇ。

だから「あんた、裸だよ」とか指摘しようものなら、全力で否定しにかかってくる。ようするに「痛みを感じないように」しようとするわけです。

いや、「感じないようにする」って事そのものが不自然だから、それ。

でもACは、その「感じる」って事すら「感じないように」していて、「感じない」=「ありのまま」だと勘違いしてるわけですからね。

これはかなり重症なんですよねぇ。

一番唖然とするのは、こっちが「あんた裸じゃん」と指摘したら、指摘されて恥ずかしい思い=痛みを感じさせられたから、「暴力をふるわれた」と言われた時ですね。

なんじゃそりゃ。

「わ、恥ずかし!」とか気付いて自分の間違いを修正していくのは、人生の成長には欠かせない事だから、有益だと思って伝えているのに「恥ずかしい=痛い思い」を感じさせるから暴力だ!と言われた日にゃ、唖然とするしかないんですけど、ACは感じる事自体を抑制してるから、こういう事になってしまうんですね。

でもねぇ。

まぁ、あれです。「喜怒哀楽を味わう」という、基本の基本もやってないなら、そら「痛い思いをさせた=極悪人」にもなるわなぁと。

生きていたら、気持ちよさを感じるのと同時に、辛さや悲しさも、キチンと感じていかないとダメなんだけど、自分に都合のいい感情だけ味わおうとか甘い事考えたりしてるんだろうなぁ。

痛い思いをするからこそ「二度とあの痛みは味あわないようにしよう」と注意深く、深みのある、回りに安心感を与えられる人間に成長できるわけで、痛みから逃げてる人はずっと小物のままですわねぇ。

まぁ、それも生き方なのかもしれないから、ほっておくしかないわけですが、手間はかかっても、基本の基本、「すべての感情をキチンと味わう事の必要性」あたりから、やり直してもらうしかないですわなと。

そういう、ステップの長さというか、学習の段階の違いみたいな事を感じた、という事ですね。

ということで、

●「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分」

なんて、完璧な間違いなんですけど、それが間違いであると気づけないんだからしょうがないですわね。

で、恐ろしい事に、こういう勘違いをしてる人は、「気づけない愚かさ」をこそ愛してくれ、それこそ愛だ、とか言う、とんでもない勘違いをしてたりするんですよねぇ。

いやー、それは「心の病気をうつしたい」というとんでもない暴力だから、さすがに逃げるしかないよー。って言うしかないんだけどねぇ。

痛いものは痛い、でも痛みは癒える、という自然で当たり前の感覚の中にいたら、そんな「感じないようにしている裸の王様になれ」なんて命令は聞けないですわね。あまりに不自然で。

「一生おしっこするな」

と言ってるに等しい。
でも、「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。

いや、それは無理ですから。
服を着てなかったら寒いと感じるのが当たり前ですから。
感じなさいって。
いやほんと。

まぁ、そういう気づきを、いろいろとみなさまからはいただきました。ほんと、ありがとうございますです。
こういう事が整理して理解できたので、イライラが相当に減りましたわよ。私は。ほんと、みなさまのおかげであります。

同じような事柄でイラついてる方も多いと思うので(ACと気付いた人の回りはACだらけの法則がありますからな。)、この気づきをシェアできれば幸いかと思いましたです。

ということで。
この数年、世の中の流れとか、社会の動きについて、知り合いと話をしたり情報交換するときに「ん?この人、随分遅れてるなぁ。世界標準の考え方とは、相当ずれてるぞ。」と思う事がどんどん増えてきたんですが。

これ、冷静に考えると、どうも、僕がお付き合いさせていただいている、お得意先の会社さんの影響が、相当に大きいのだ、ということが、最近になってヒシヒシと分ってきました。

ようするに、けっこう優れた会社なんですよ、この得意先さん。

初代で会社を立ち上げた会長(いまは相談役ですが)は、テレビにも出るし、本も出してヒットさせてるし、なかなか面白い方なんですが、その下で、雇われで動いていた番頭社長(故人)がすごく偉くて、この人のおかげで、世界的企業になったんですが、この番頭社長が、会長に対して「あなたの息子を社長にしなされ」と進言して、会長の息子後を継いだという経歴の会社でして。

この初代と二代目(息子)ってのが全然考え方が違って面白いんだよなぁ。親子で立場がまるっきり違うんよねぇ。初代はとにかくイケイケドンドンで、発想も面白いんですが、二代目はその無軌道な初代の尻拭きアンド整合性の確立に邁進って事になります。それはもう二代目(息子)は緻密に考えるタイプにならざるを得なくて、全然課題が違うんですわ。

これはもう、どこの企業でも同じでして、私のようにいろんな会社さんとお付き合いしてると、小さな会社から、大きな企業まで、初代(親)と、二代目(息子・娘)の会社の引き継ぎというのが、あまりにパターンにはまりすぎてて、おもしろ過ぎて笑ってしまうくらいです。おもろいよなぁ。どこもかしこも、ほぼ同じパターンです。(たまに全然違うパターンもありますが。)

まぁ、ともあれ、二代目で会社が伸びた場合、たいてい二代目が偉いんですがね。ものすごく努力してるんだよなぁ。二代目は。オヤジのやり方とか参考になんてしてられないんですよ。時代も違うし、だいたい会社の規模がまるっきり違うから。親と子は別人だし、価値観もまるっきり違うし、生きる世界自体が違う。ほんまに。そうならざるを得ない得ないんですね。まぁ、それはそれとして。

この会社さんの場合は、企業買収を繰り返して、世界企業になられたのですよ。

特定の分野に特化して、世界市場でシェアを伸ばし、弱い分野は海外の会社を買う。そういう事をやってきた会社さんなんですね。

で、そういう会社の世界的な進出アプローチを、いろいろな製品のパンフレットを作りつつ、現場レベルでの問題等うかがいながら仕事をご一緒させていただいたので、それはもう、世界の常識みたいな事をとても勉強させてもらえたと思うのです。

海外の会社を上手に購入して伸びて来た企業さんだし、「会社を買う」と言うことが、あとあとどういう事になっていくのか、ということなんかも、折に触れ見てきたから、あのホリエモンの騒動の時は、なんとも世間の反応がバカに見えて仕方なかった。

もう単純にね、会社は株主のものなんですよ。それはもうどうしたってそうなんです。

でも、ホリエモンみたいなのは、単純に「アホな買い物をしてる金満家」というだけのことです。投機的に買うと言う発想自体が「アホの極み」ですから。

たとえば、トヨタの車を買って、「エンジンは親戚のおじさんが作ってるからそれに載せ替える」とか言う奴がいたらアホでしょ?そら自分が買った車なんだから好きにしたらいいけど、アホはアホです。

で、ホリエモン事件なんて、ただそれだけの事ですよ。大きくはいろいろあるんだけど、アホはアホ。それだけ。ほかに言う事なんてない。

ただし、「会社を買う」という概念を日本人は、あんまり学んでいなかったからアタフタしただけって事ですな。そういう意味で、別に堀江くんはおかしな事をしたわけでもないでしょう。アホやったけど。アホよなぁ、あいつ。ちゃんと勉強したアホとでも言うのかなぁ。

それに引き替え、あの時の一般人は「勉強してない普通人」だったわけで、「会社を買う」という事自体がわけわからん、とかになってたわけですよ。
ま、概略そういう事ですわね。

買い物ってね、難しいんです。会社の購入なんて、それこそ何年もの先の計画があって、それに合わせて資金計画と必要保有ノウハウとのかねあいまで考えて買わないといけないから。アホには簡単には買えない。そういうものです。

まぁホリエモン事件に関してはその程度の事なんですけど、あのとき「会社は誰のものか」とかヒステリックにいろいろ言う人とかいたじゃないですか。
あの辺がね。なんだかなぁって思う。

資本主義において「所有」の概念は、どうしたって外せない、基本の基本ですからね。そんなもののあり方を、どうのこうの極東の田舎者の日本人がどうこう言っても始まらないんですよ。それはどうしたって。
世界のルールなんだし。そんなもの、世界のルールにあわせてやっていくしかないよ。しょうがないもん、それは。

で、実際に、日本の企業で海外の優れた会社を買収しながら伸びてきた会社の仕事を、僕はしてるんだしさぁって思ったわけです。そういう立場の日本の企業だってあるもんさ。

ねぇ?

ちゅうことで、最近は「あ、こいつ遅れとるな」とか感じても、それはたまたま、優れた会社さんとお付き合いさせてもらえてる幸運で、良い情報がいただけてるだけなんだ、自省すべし!と、発想が変ってきたんですよね。

ほんまに優れてる会社さんやしねぇ。たとえば、僕みたいな外注スタッフも、すごく大切にしてくれるし。こういう事自体が、まぁ珍しいんでしょうな。だから、あんまり、これを基準に考えてはイカンなと。世間はもっとひどいのだと。そう思うように考えが変ってきたのでありますよ。はい。

まぁ、そういう話です。
もう長らく、自分の事務所で仕事をしているわけですが。

最近思うのは、自分の事務所を持つという事と、一人暮らしをしていた経験とが、重なるよなぁって事です。

事務所を持っていると言っても、フリーで一人で仕事をしているわけだから、なんでもかんでも一人でやるしかない。
それこそ、本棚の片付けから掃除まで全部です。

で、これって一人暮らしと同じ事なんですよね。一人暮らしで靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下は、いつまでもどこまでも、ずっとそこに出たままで、自分で洗濯機に入れて、洗剤を入れて、スイッチを押さない限り、きれいになって出てくる事はないわけです。

で、これが「自己責任」ですわ。
別に難しいことでもなんでもありませんわね。
自分の事は自分でする。それだけのことでしょう。それが一番シンプルでわかりやすい。自分でちゃんとしていなかったら、それは自分に跳ね返ってくるっていう、それだけの事です。

ですが。

これがどうも、誰かと一緒に暮らすと、「ついでに洗濯機に一緒にほおりこんでおいてくれる」とか「洗っておいてくれる」とかがあるので、その当たり前の「自分が動かない限り、靴下はそのままだ」という事がわかってない男がいたりするわけです。

特に、一人暮らしの経験がないとか、あったとしてももの凄く短いとか、そういう人間は「靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下はそのままである」という事が分ってない。

なんかねぇ、これがねぇ、すご〜く大事な事のように、最近になって思うのですよ。

仕事の上でもプライベートでも、この「放りだした靴下はそのまま」という自己責任感のない人(特に男に多い。)って、どこかで肌が合わないというか、ベタベタした感じがあってイヤ。

自分で靴下を洗濯機に入れるのが当たり前だと思ってる人は、誰かがついでに靴下を洗ってくれると、すごく恐縮してしまうのですよね。

「放りだしたままで申し訳ない。ありがとう。」という言葉や気持ちが自然に出て、「しまう」。

この「出てしまう」ってところが大事なのですよ。
「こう言うときにはお礼を言うものである。」というようなノウハウではないわけです。自分の経験に裏打ちされた感覚・感情で「申し訳ない」「ありがとう」が言えるし、何より自然に出てくる。

ここが大事だと思うのですよね。

で、これが言えない男は、けっこうたくさんいてるとは思うのですけど、やっぱり言っちゃ悪いけど経験不足、一種の社会的カタワという気がしてしまうんです。

別に仕事なんかできなくてもいいし、金儲けもできなくていいし、それこそ色んな欠点があってもいいけど、自分が片付けなかった靴下は、片付けてないんだから片付いてないのが当たり前なんだと自分のサボリをキチンと自覚できる人でないといけないと思うのですよね。

いやまぁ、おれは同じ靴下を三日ははき続けるんだ、という大胆な人がいても別に良いわけですが、その場合でも、どこに靴下を脱いだのか忘れちゃったら3日連続で履くという事自体できないわけですしね。

この辺、ほんとに、親がかりで大人になって、自炊や一人暮らしの経験もないまま「大人」になって、そういう当たり前の現実とキチンと向き合っていないものだから、子供の発想のまま大人とか「親」とかやってる男って、考えたらすごく多いんだろうなと思ったら、ゾッとしましたな。

離婚した女性の話とかも、けっこう聞くトシになったからねぇ。そういうのを、よりいっそう感じるようになってきた。
(ただまぁ、ここで男と女の「清潔感」の感じ方の平均値の違いという、また全く別の問題もあるんだけど、それはまた別の話なので、ここではちょっと触れないでおきます。)

基本的に、一人暮らしもしたことない男は、おこちゃまですわな。基本。いやほんとに。ほんとにそれは思う。特に自己責任とかの考え方とかで、それは如実に感じますねぇ。

会社でも、「部下の女の子」に頼りっきりの上司とか、けっこういてるのかもなぁ…。まぁ、大手の会社だけでしょうがね。中小では、そんなオコチャマを飼ってる余裕はないですしね。

ま、なんか、そんな事をふと思いました。
なんだかんだ書いてますが、身の回りに「裸の王様」がいてると、迷惑なんですよね。単純に。

「わしの服はすばらしいじゃろ」
「ええ、ええ、まさに。」

とかやってるのを見て、必死に「お前、裸やんけ!」と言うのをこらえなければならない。

これが辛い。

裸の王様は、ものすごい迷惑なんですよ。心の風通しが悪すぎて、イライラする。本来、さっさと「裸じゃ風邪ひくし、服を着ておかないとだめだよ。」で済むものが、全然そういうまともな話にならない。
ひたすら「裸」の話題を避けていかないとダメ。

もう、実にうっとおしい。
単純な話、そういう裸の王様ご一行とは、一緒に出かけることもできない。だって、回りから好奇の目で見られたときの言い訳とか考えないといけないから。

ムダ。もの凄いムダ。

たとえば、子供の前でだけ「えらそうな父親」「きちんとした母親」を演じるのに慣れてしまってるとかね。
でもって、子供達もその体面を取り繕ってやるためにヒーコラ言ってるとかがあったりしてね。
で、そういう親子の横にいてる人間が、そのどうでもいい体面を保ってやらなきゃいけないいうのは苦痛以外の何物でもない。

このあたり、親子関係とか、会社の上司・部下の関係とか、友人同士のバランス関係とか、「裸の王様=部下関係」が成立している人間関係の回りにいてる人間は、そらもうものすごい苦痛にさいなまれるわけですよ。たまりませんよ、それは。ええ迷惑です。

お前が裸なんは、モロにばれてますがな。そやのに、なんで、その体面を俺たち、外の人間が保ってやらにゃならんのだ。お前が裸を「見えない服があるのだ!」と強弁するのは、お前の勝手だし、勝手にやってりゃいいが、そういう人間が回りにいてると、こっちはうっとおしくてたまらん。気が狂いそうになる。っちゅうか、裸の王様構造というのは明確に狂気の構造なので、ようするに近づくとキチガイがうつる、という事になってしまうわけです。

解決策は単純で、「お前が裸なんがイカンのや。さっさと服を着よ。」っちゅうことですな。他に解決策はありません。一切無い。裸の王様は服を着るべし。それだけの事であります。アホくさい話です。

ところが!です。現実というのは、童話の話みたいに事は単純にはおさまらないわけですよ。

裸の王様の物語においては、子供が「だってあの王様、裸だよ!」と指摘して王様が自分が裸だったことに気付くわけですね。それでめでたしめでたしです。

でも実際にはそううまくはいかない。現実の裸の王様は、自分が裸だと言うことに気付かないのですよ。

いや、気付かないというより「気付きたくない」なんですな。
もう、ほんとに、いつまでもどこまでも、えんえん、どうでもよいくだらない、うそっぱちの「見えない服」とかにこだわり続ける。いつまでもこだわる。どこまでもこだわる。

ほんまに、これがかなわんのですよ。
ほんまにかなわん。
洒落にならん。
こっちが病気になってしまう。

ものすごく気持ち悪い。

助けてくれーって思う。もう、そういうゆがんだ関係に近づくと、それだけで精神がゆがんでしまいそうになりますな。まぁ、近づかないようにしてるんだけど、そうやって離れる以外に手がないんよなぁ、そういう病状まで進んでると。

ほんと、童話みたいに「王様は、やっと自分が裸であることに気付きました」にはならないわけですよ。ほんとに。たまりませんよ、これは。

で、たいていの場合、「あんた裸やで」と、親切ていねいに言おうが、どう言おうが、言い方はどうであれ、一番指摘されたくないところを指摘された人間というのは、怒り狂って逆にこっちを糺弾してくるんですね。

なんだかなぁ。とほほほほ。助けて欲しいよ。ほんまに。

「見えない服」の思いこみが激しければ激しいほど、ようするに病状が悪化していれば悪化しているほど、この逆糺弾は強くなります。

つまり。

本当に自分が裸だと気付かなければ行けない、必然性の強い人ほど、「指摘してくれた人を攻撃する」という、アホな行為がはげしくなるわけです。

この病気とね、私はどうつきあったら良いのか、さっぱりわからないのです。
もう、お手上げなのよね。こういう病気。

昨日は、小学校からの友達と、なんだかんだと話しをしながら飲んでたんですが、その男が「やっぱり自分の間違いを直さないと自分の成長なんてないやん」と言っていたので、

「そのとおり!!!」

と、大きく頷いたのだけれども、それに添えて、

「でもな、自分の間違いを、よう認められんアホな人間っていうのも、世の中には多いねんで。」

という話をしておりました。で、

「あなたは、その自分の間違いを修正できる人だからそれで良いけれど、それを当たり前だと思ったらアカンよ。世の中には、自分の間違いを修正できずに、逆に間違いを指摘してくれた人間を糺弾するようなアホな人間がゴマンといてるのだよ。そこのところ意識しておかないと、えらい目にあいまっせ。」

という事を話しておりました。
ほんま、親切心で問題点を指摘してるのに、糺弾されたらたまったもんやないわ。

そういう事を言ったら「えええ?そんな人間おんの? 自分のミスとか指摘してくれる人なんて、なかなかおらんねんから、一番の味方やん。そんなことしたら、ほんまに何の成長もでけへんやん。」と彼は驚いてましたが。

「ちゃうねんって。一番痛いところを突かれて、怒りまくる人の方が多いねんって。僕もあなたも、痛いところを突かれたら、ああ、ありがたいと思うタイプやけど、そうではないタイプの人間もぎょーさんおるっちゅうことですわ。」

と話して、

「うーむむむむ、そうかぁ。」

となったんですがね。

ほんま、困ったことです。

私はいまだに、この問題の解決策を見いだせておりません。
まぁ、気付きたくない人は、気付きたくないから、気付かないようにしてるんだろうし、ほっとくしかないんだけどね。

ああああ、でも、ほんまにうっとおしいし、ものすごい社会の迷惑だよなぁ、裸の王様って。ええかげん気付いて欲しいわ。

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