今日は、おもいつくままダラダラと書きたい。

生まれてきて、死ぬまで、人間は一人なんだと思う。自分自身の考えや思いも、そう簡単には共有できない。

親や子供も別人格で、まぁ基本として他人と変らない。「俺の子だ」「あたしの子よ」と言ったところで別人は別人って事です。

で、そういう思いがあるからこそ、確かな交流や気持ちのやりとりが出来たときがうれしい訳だと思う。

人間は生まれてから死ぬまで、ずっとひとりなんだ。だからこそ友達と話して意気投合するとか、考え方が共鳴しあった時にとても喜びを感じる。考え方の近い人に出会って、一緒に何かを成せる時というのが、すごくうれしく感じるって事です。

だから、そういうお互いの意志表明とか考え方の確認とかの、確認行為もないのに、形だけ「通じ合っていることにしておく」というような態度が、僕はとても嫌いですね。うそっぱちばっかりだと思う。

でも、多いんだよなぁ「〜という事にしておく」って態度を取る人。まぁ、摩擦を起こさずに生きて行くには、必要な態度なのかも知れないけれども、そういう建前だけしか存在してないような人もいるので首をひねるのだけども。

建前って、本当に嫌いだ。
大嫌い。

音楽をやると、楽器の間でちゃんとチューニングして、音を揃え、正しく和音を構成した楽譜に則って演奏すると、とても素敵なハーモニーが生まれます。

しかし、これを、楽器を適当に持ち寄って、ルールもキイも決めずに演奏したところで、それは音楽とは言わないわけです。

建前って、まさにこの「キイも決めずに勝手に楽器を弾いてるだけの状態」を「みんななかよく演奏している」と言い切るような事なんですよね。

なんやねん、それ。

って思ってしまう。

キチンと歴史の勉強もせずに、欧米の文化やさまざまな思想とかの流れを自分勝手な思いこみだけで判定するとか、人間関係論やら心理学やら学ばないうちから私は人間関係のエキスパートでござい!みたいに言ってるとか。
そういうのは全部偽物だよなぁって思う。

でも、じゃぁなんでもかんでも学んでからしか発言できないのかって言うと、そんなバカな事はあるわけもないのですよね。

ようは簡単で、

●わからないものはわからないと言う。
●考え方が変ったら、どういう理由で変ったかを言う。

この2つの基礎的ルールを、キチンと踏襲してれば、基本的に問題はないわけです。

「考え方が変る」の中には「学習して身につけたので、私の持っていた考え方は間違っていたことがはっきりしました。」という表明が入ります。

で、ちゃんと体系的に学んでいくと、「最初、私は●●●と思っていましたが、いろいろ調べて学習していくと、▲▲に関しては私が間違っていました。」という事がたくさんあります。

で、これこそが「学ぶ」ということなのであります。

まぁ、当たり前の事を言ってるんですが、でも、こういう当たり前の事ができない人がけっこういてるわけです。
特に依存心の強い人は、ここいらがキチンとできてませんね。たいてい。

アルコール依存、ギャンブル依存、子供依存。依存するからダメなんだよなぁ。ひとりで立ってみたらいいのに。ひとりで立ってみたら、本当の意味で、「倒れそうになった時に助けてくれる人のありがたさ」がわかる。自分で立たずに何かに依存してるから、そういうありがたさがわからないんだと思う。

そういうありがたさが分っていない人はとにかく、

●わからないことを「わからない」と言えない。
●考え方が変ったという事を表明できない。

のです。

というか、

●わかってないのにわかったフリをして体面を保とうとする。
●ひとつの考え方にとらわれて、それに固執する。

という事になります。

よーく考えたら分りますが、こういう態度を取っている限り、永遠にその人に「成長」はありえないわけですね。
わかってないのに「わかってない」「知らない」と言えない訳だから、誰からか教えてもらうという事ができないし、質問する能力も持てない。

また、考え方の変更もできないわけだから、新しい考え方を吸収することも無理ですわね。

前進も進歩も成長も改善も、いっさいが存在できなくなってしまうのが、この「体面を保とうとする心」とか「考え方の変更を表明できない視野の狭さ」とかの意識の問題点なわけです。

体面とか、特定の考えへの固執とか、ほんとうにダメだと思う。柔軟性がない。

で、こういう、「自分の無知の受け入れ」とか「より正しい概念の受け入れ」とかは、自分がこの世にたった一人なのだとわかっているからこそできる事なのですね。

たとえば、裸の王様を思い出しましょう。裸の王様は「目に見えない立派な服」を「着ている事になっていた」わけです。で、その「なっていた」部分を誰が支えていたかというと、回りにいてる臣下のものたちなわけです。

本当は裸でしかないのに、臣下のものが「すばらしい服でございますねぇ」と言ってくれるから「着ていること」にしておけたわけです。まぁ、アホな話です。

これは、回りに「自分のウソを塗り隠してくれる人」がいてるから出来ることなんです。自分一人ではできない。でしょ?回りでウソを塗り固める人が頷いてくれるからウソが「ホント」のように見えて安心できるわけです。これこそが依存症の罠そのものなんですね。煙草を吸うのは中毒でしかないけど、それを「おいしい」と言ってごまかしてるのと同じです。自分をごまかしてるんですね。自己欺瞞という奴です。

お酒やギャンブルで、自分の本来の姿を直視できない人も、まわりの臣下のものどもに「ウソの上塗り」をさせている人も、結局は同じ精神構造ですね。自分自身に頼るのではなく、自分以外のものに頼っている。親子関係で言うと、本当は無知な親でしかないのに、親としての権威だけを子供に押しつけて、それで安心している、なんて構造があります。

こういう事を考えていくと、「ひとりであること」がどれだけ大切な事か、わかってくるはずです。裸の王様は、まず、自分が裸であるという事を、丘を吹く風が、自分の体にそよそよと当たっている事に、まず気付かないとダメだってことです。そこに幸せは、ちゃんと存在しているのですよ。で、それは自分ひとり、たったひとりだからこそ気付ける事なのです。

で、この世に自分たった一人だと分っていれば、回りに自分のウソを塗り隠してくれる人を求めたり、配置したりする必要はなくなります。つまり回りの人間に無理矢理「ウソをつかせる」という不幸な行動を押しつけずに済む、ということなわけです。つまり回りも幸せにできる。まず自分が囚われた心から解放されれば、回りの人間も解放される、という事ですね。

僕は、世の中のムダと罪悪のほとんどは、こういうウソの隠蔽から生まれると感じていて、そういう行為にすごく敏感に反応してしまうんですね。

このウソの隠蔽を、親と子供の間でやってる人は、「私は親だ、言うことを聞け。」と裸の権力を振り回して、子供に従わせ、親の権威を保つ事をしようとやっきになる。まさに体面を保つ、ですね。でも、それは親も子も両方とも不幸だ。ものすごく不幸だ。だから裸の王様は、自分の肌に当たる風を感じないといけないってことなんですね。それがつまりは「ひとりでいること」なんです。

でもどうも、体面を保つということばっかりやってると、そのうち、わからない事を「わからない」と素直に言う事ができなくなるようなんですね。恐ろしいことに。多分パターン化して抜け出せなくなってるんでしょうねぇ。

当人は「体面を保つ」事が自分にとってどれだけデメリットのあることか気付いてないことが多いように感じるのですが、わからないことを素直に「わからない」と言えないという事は、ようは「知る機会の放棄」ですから、ストレートに「バカ直行便」なわけですよ。でしょ?

ようは、日々、「アホになっていく」なわけです。

これはもう、すごくはっきりわかる。
単純な話です。
知らない事を知らないままにすることを良しとしているんだから、それはアホなんですね。他に言いようがない。

たとえば、こういうアホな事をやっている、迷惑な上司と部下の関係とか、身の回りで見る事はないですか?
知らない事を素直に知らないと言えない上司がいて、その上司を「おー、よちよち」とあやしている部下。そういう関係。

実にくだらない。

くだらないんですが、これがまた、すごく多い。「裸の王様」的な会社の仕組みとか、親子関係がね。もう、本当に、世の中にあふれかえってる。

ちょっと待ってくれよなぁ、って思うんですよ。
そんなことしてたら、みんなアホにしかならんやないか、って。
学ぶ機会の放棄・拒絶ですからなぁ。そらあきませんで。

とにかく裸の王様がすべきことは、とりまきの言葉を忘れて「俺裸やんけ」と気付くことですわなぁ。自分の肌をそよぐ風を感じろって事でして。

そして、人間は風そよぐ大地の上に、たったひとりで生きているというのが、すべての人間にとっての当たり前の状態であり、そこを実感している事が、生きる事の基礎の基礎なんだってことを、はっきりと気付くべきだってことです。

まぁ、ようはそういう事ですね。

東洋体育の本

2007年4月28日 読書
東洋体育の本
ちょっと気になって、アマゾンで検索したのですが、僕のお気に入りの、「東洋体育の本」って、あんまり売れてない感じですね。増刷もかかってないみたいだし。

うーん。困った。

しょうがないから、アマゾンの頁だけリンクしておきましょう。

http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4796638911/249-9767057-8485143

この本、作者は津村喬さんと言って、関西気功協会を立ち上げた人としても知る人ぞ知る。書籍はムック形式で、いくつものエッセイをまとめたような本なのですが、日本や中国など、アジア圏で、親しまれている体操や健康法などを網羅的に紹介してくれている本で、実は隠れた名著なのです。

まず、医食同源にたとえられる、中国や日本に流れる「東洋の生命観」という大枠の考え方から説き起こして、西洋風の「体育(たいいく)」というよりは、「体育(からだそだて)」の発想で自分の体とのつきあいを考えようと提案している本でして、僕は随分この本の影響を受けています。

内容としては、太極拳からはじまって、日本の操体道、西式健康法、リンパマッサージ、経絡指圧、気功法、自発動功、綜統医学、真向法、野口整体、などなど東洋医学・体育の「かんたん体操」やマッサージ、考え方などの総カタログになっていまして、西洋の「競い合うスポーツ」とは一線を画した、「生活の中の、いますぐできる健康体操」の解説本になっているのです。(イラストも豊富で、ソワイショウとか金魚運動とか、基本的な体操の仕方も手に取るようにわかります。素晴らしい!)

この一冊で考え方や、自分の体とのつきあい方、世界の捉え方まで大きく学習することができて、とても実りの多い本です。まさに名著と言えましょう。

この本に出会ったのは、ちょうど僕が始めて働きだして二年ほどした頃で、原稿書きのために、夜遅くまで仕事をして、全然運動もせず、いろいろな意味で精神的にまいってしまって、会社をクビになる前後の事だったのです。

心の危機に、「からだそだて」の考え方がしみいるように入ってきて、次の仕事を見つけるまでの間に楊式の太極拳を習いに行って、とてもおだやかな安らぎを得たことが忘れられません。

僕が働いていた時は、ちょうどワープロが出始めの頃で、個人的にNECのPC-9801Fあたりを買ったというような頃でした。

で、コンピュータというのは、まさに西洋文化の塊のようなもので、これはこれで実に便利なもので、素晴らしい!とは思ったのですが、こと、体のことに関しては、どうにも西洋的なアプローチである「競争」が前提になったような捉え方や、競技としてのスポーツ、あるいは、人間を全体で捉えるのではなく、部位ごとに分析的に捉える考え方が「体というものを考えるには、あまり適していないアプローチだよな」と思ったのですね。

で、当時の僕の印象としてあったのは、

●頭脳のターボチャージャーがPC(西洋文化)
●心のターボチャージャーが太極拳(東洋文化)

というポジショニングだったんですね。
とにかく西洋風の、

・競技/競争/数値/分析的

というやり方が、「からだ」というものに関しては、全然向いてない気がしてしょうがなかったわけです。
デジタル化によるパソコンやワープロでの知的分野の合理化手法というのは、「さすがは西洋文化!」という感じで、たいしたものだ、という感じがあったのですが、「パソコンで自分の能力をパワーアップしたら、それとバランスを取るために、こころのパワーアップも必要だよな。で、それは多分西洋的なアプローチでは病気になるだけだわ。やっぱ心のパワーアップを図るなら、それは東洋の太極拳のようなものなのではないか?」というのが、僕的には結論だったのです。

特にアジア人の場合、パソコンという機械の設計思想の中に内在している「キャリアアップの思想」「自己責任の緊張感」みたいなものは、ちょっとそのままそれだけを受け取ったら、精神的に耐えられないって気がするのですね。

だって、パソコンのデータって、「消えてしまうように設計されている」んですよ? 違います? もともと「自由に消せる」という権利・自由度が与えられているのだけれども、それは「自己責任」でバックアップを取っておかないと、自分の努力の結果が、この世から跡形もなく消えても、誰にも文句言えない、という仕組み・考え方で作られているんですよね、PCって。

この「自己責任」の発想こそ、欧米の文化なわけでして。

日本の家電メーカーがパソコンを作ってたら、データ削除のコマンドなんて、「管理メニュー」の、一番奥の、特殊な操作方法をした時にだけでてくる「特殊操作メニュー」の中に押し込められてるはずです。ユーザーに責任の重さを感じさせない、責任はメーカーの側が取るってのが、日本文化の基礎ですからな。

でもパソコンは違う。設計思想から欧米ですから。精神的に疲れるんですよ、もともと。だから、結局、欧米の「自己責任」の思想で貫き通されたパソコンという道具においては、

●気を抜いたら、あなたの作ったデータも消えちゃうよ。

というのが当たり前の大前提であり、そこが便利でもあるけど、面倒なところでもあるわけです。

「データ消えちゃうかもよ。」

という、この緊張しまくりの構造こそ、まさに欧米文化なわけです。

なので。

緊張すると体も硬くなりますからな。「からだそだて」に関しては、もう、リラックスするために、絶対、東洋文化が良いなぁと、私は思ったわけです。

特に、若くてパソコンの可能性を実感すればするほどに、心や体の問題に関しては、どんどん東洋志向が強まりまして、ほんとに、「からだ」の問題に関しては、全然西洋文化に興味が持てなくなってしまってるのですねぇ。

だから太極拳をそれなりにやってた人間としては、たとえば、マラソンとか「バカじゃねぇの?」とか思ってしまう。時間かかりすぎやん。その割に効果ないし。つまらねぇって思う。

実際、ジョギングですら、僕はちょっとクビをひねるんですよね。
ジョギングの創始者であるジェームス・フィックスという人は、52歳の若さで亡くなったのですが、どうも、ジョギング中に心臓マヒで死んだらしい。ジョギングですらこれです。「はげしく動かないとスポーツじゃない」とでも思ってるんでしょうね。アホな話です。

この十数年で言うと、やっと欧米のスポーツ理論も東洋の考え方に近づいてきたらしくマフェトン理論あたりは、けっこうまともだと思うのですよ。いわく、「心拍数で180-年齢を超えない程度の緩い運動をこそベースにせよ」というもので、これは単純に言ってしまえば、「早歩き以上の運動は体を壊すので注意せよ」ということなのです。

体を壊さずに競技の成績を伸ばそうと思ったら、まず基礎体力として、「早歩き程度の運動を、まずやりなさい」ということです。で、そこがキチンとできていないのに、走るとかの強度の強い運動をすると、体調が悪くなったり、健康をそこなったりするということなんですね。

食べ物においても、似たようなことがあります。
それは、これまた有名な「マクガバン報告」であります。

アメリカでは、1960年代に国民一人当たりの医療費が世界一高くなってしまい、医療費によって国政が破綻しかねないというところまで行った訳です。
なので、いったい健康というものを実現するには何が必要なのかなどを調査した「マクガバン報告」というものがまとめられたのです。確か1970年くらいのことだったはずです。

だいたい健康について語るにおいて、この「マクガバン報告」を知らないというのは話にならないわけでして。
マクガバン報告においては、有名な話ですが日本食が高く評価されました。
「ガンや心臓病などの増加は食生活の誤り」という、まさに東洋の医食同源の考え方がマクガバン議員によって、アメリカ国政に報告されたわけですよ。そして「肉ばっかり食ってたらアカン。日本人みたいにシーベジタブルを食え!」ってなった。

たぶん。おそらくは、この報告がアメリカ人の食生活を大きく変容させて、アメリカ国内で牛肉の売れ行きが多少落ちて、その影響で、米国産の牛肉が日本に流れてきたんだと思うのですよ。

それが1985年頃の「牛肉オレンジ交渉」ってものになったのだろうと思われます。
この後、日本では焼き肉屋がいきなり急増したわけでね。ほんとに。それまでそんなにたくさん牛肉なんて食ってなかったんだし。で、吉野屋が伸びたのも、この「牛肉オレンジ交渉」の後です。

つまりは、アメリカ人がマクガバン報告で「和食が健康に良いのだ!」と気付いたが故に、日本人は牛肉を食わされたって事なんですよ。大きく、20年くらいのスパンで物事を捉えるとね。

だいぶ話ははずれてしまいましたが…。

という事で、こういう大枠の事は分っていながらも、まともなダイエットもしてこなかった馬鹿な私は、腹が出まくりまして、「これはイカン!」と、最近はひたすら歩いております。まぁ、一日1万5千歩くらいですな。そのくらいは歩かないと。それがベース。基礎。下支え、であります。

(また太極拳を始めようかなぁ、とかも思ってたりするのですが。)

ともあれ、やはり日本人には東洋の健康スタイルが性に合うわけで、そういう意味では、石原結實(いしはら・ゆうみ)さんあたりも、たいした医者だと思うのですよね。あの人、漢方の人だしねぇ。実践的で優れてると思う。

まだまだ、いろいろ書きたいことはあるんですけど、それより何より、この「東洋体育の本」という名著が、あまり手軽には入手できないのだという事実の方が、僕的には残念至極だし、くやしいし、寂しいですねぇ。

なんかね、津村喬さん、ムックという事で、雑誌と同じく売り切りで原稿を書いてしまったらしいんですよねぇ。
だから、この本が売れても、著者の津村さんには一銭も入らないし、出版社も力が入ってないわけですよ。内容の良さを理解してないから。

困った事だよなぁ。ほんとに良い本なのに。

うーむむむむ。
ISBN:4844062042 単行本 岡本 浩一 ライオン社 2006/09 ¥830
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062042/249-9767057-8485143

ちょっと、「はてな」にもブログを持っていて、そっちで書いた内容をこっちにも転載しておきます。
もう半年も前の書き込みですけども、けっこう精神的にしんどかった時の日記なのに、冷静に自己分析していて、自分で感心してしまった。

ま、書籍紹介でもありますので、その意味でも一部修正してお送りします。

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ここしばらく、精神的に辛いと言うか、学びの大きい事とかあったので、その反動というのがあって、最近連続して書いてるんですが。

まぁ、それはそれとして、精神的に落ち着いてる人なら、仕事をして、お休みを取って、また仕事をしてというパターンで毎日を過ごされると思うのです。

で、これが大脳生理学的には、けっこう重要な事らしいんですね。

たとえば「勉強をしてからテレビを見る」のか、「テレビを見てから勉強する」のかとか、どういう順番で勉強するのがいいのかとかを、よく考えないといけないようです。

そんなこと、どっちでも同じように思えるんですけど、記憶の定着という意味からは、しっかり勉強してからリラックスする方が、勉強の記憶が定着しやすいらしいんですね。

このあたり、

「上達の型」を身につける―能力アップの実践心理学

という本をいま読んでいて、とても面白いです。

この岡本浩一さんの本はどれを読んでも、本当に面白くて好きなんですが、もう、何度も紹介していますが、上記の本とともに、

「上達の法則」―効率のよい努力を科学する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4569621988/249-9767057-8485143

という書籍も、とてもおもしろかったので、おすすめしておきます。(この「ひとよみにっき」でも何度も紹介してます。)

で、この岡本さんのご本によれば、せいいっぱい頑張ったら、その後はすぐに休む、というのが良いみたいなんですね。

だから本当はここの日記も一週間書いたら一日休む、くらいの方がいいんだと思うんですね。運動なんかもマフェトン理論とか見ると3週間トレーニングして一週間を調整期間にするとか普通にありますしね。(マフェトン理論も面白いのですが。)

で、このあたり、「成長する」という事を頭に置いておきたいと思うのですよ。

勉強しても、忘れてしまっては単なる娯楽と変わりません。定着するから長期記憶になって人生に対する収穫になるわけです。

たとえば恋愛やら、仕事での人間関係のトラブルやらでも同じ事だと思うのですよ。何かうまくいかなかった出来事にぶつかる。そしたらそれをキチンと整理して記憶して、次の機会に活かす。

それが「成長する」ということで、つまりは「体験した出来事から学ぶ」って事なわけですね。

ということは、体験した出来事は、つねに自分なりに整理して、長期記憶として保管し、次の機会に活かせないと「学んだ」ことにはならないってことなんです。

自分の失敗をキチンと直視して、そこから逃げない。自分の「弱いところ」「弱点」「嫌なところ」を抑圧せずに、勇気を持って直視して、ありのままの「ダメな自分」を自覚して、そしてそれを受け入れる。

そういう事をした上でないと、自分の失敗の原因を把握できないし、そうやって、ありのままの原因把握さえすれば、そうそう同じ失敗を繰り返すこともないわけです。

で、この自己をありのままに見て整理するとかをせず、次の機会に活かせないのが「依存」なんですね。

たとえば、自分の嫌な現実を直視したくないから、お酒に逃げるとか、ギャンブルにはまるとか。自分を直視しないわけですよ。自分から逃げる。自分の弱点や弱みを直視しないためには、どんなごまかしでも活用してやるぞ! てなもんで、お酒やギャンブルだけじゃなく、恋愛(らしきもの)に逃げたり、子供に逃げたりという人間関係へ逃げたりする。

これ、実は当人は「休んでる」つもりなんですけど、全然休んでなくて、パンツのゴムひもみたいなユル〜いストレスをヒタヒタと感じながら、それを直視せずに代償行為でごまかしてるわけですよ。

でもやっぱり勉強するというのと同じで、心に少し負荷はかかるけれども、現実をはっきりと見つめて、それを受け入れる、という事をしないといけない。そうしてはじめて、自分というものがわかるわけで。

で、そういうしんどい事をしたら、やっぱりちょっと「休む」ってのが必要なんですね。その休み方は人それぞれでしょうけど、とにかく「判断の停止」=「アポケー」の状態に、いったんは自分を置かないとダメなんだろうなぁと思うのです。

ちょっとボーっとするというか。

無意識に身をゆだねるというか。

そういう、ある意味「考える事の放棄」とか「意志の遺棄」みたいな状態、ちゅうぶらりんの状態を、計画的に自分の生活に入れておかないとダメだよなぁと思うんです。

そういう「休み」があってはじめて、自分の現実を直視する力も復活するわけですしね。

なので、休んでない人は酒とかギャンブルとか、そういう代償行為に走りやすいと思う。依存して代償行為をするっていうのは、ようは、朝から晩まで、月月火水木金金、ストレスにさらされたままの状態って事だろうと思うし。

結局、休むっていうのは、自分を直視してるかどうか、って事なんだと思うんですよ。疲れている自分を、客観的に実感する、みたいな事だと思う。
それはもう、「全部お休み」でないとおかしいのよね。

酒も休む。ギャンブルも休む。子供依存も休む。全部休む。何もしない。わざと何もしない。考えない。ただ、この世に自分ひとりきりが存在している。そういう感覚かなぁ。そういうのを、まず感じないと休みにならないし、辛いことを乗り切る力にもならないって思う。

みんな、うまく休んでね。

いやほんと。
うぎゃ〜。超うれしい。
ミクシにも書いたけど、ほんとにうれしいので、こっちにも書きます。
最近ゲームしなくなったけど、ナイツは別だなぁ。
ミクシでナイツのコミュを見てみたら、やっぱりナイツファンは「ゲームは最近ほとんどしてないけどナイツは別」って人が多かった。なんか泣きださんばかりの勢いで喜んでる。
その気持ちが実によくわかるのよねぇ。
うむ。

ということで転載。
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なんたるこった!
あの超名作「NiGHTS」が帰ってくるそうです。!!!

つっても、誰もわからんか。とほほ。
でも知られざる名作ゲームなんですよ。
なんとWiiで続編だそうです。
まぁ、当時のプロデューサーの中裕二氏はセガをやめてるから、関わらないんでしょうけど、実制作に関わっていた飯塚氏がディレクションするみたいなのでまぁいいでしょう。

先に、どんなゲームだったのかの映像をYouTubeから引っ張っておきましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=Dfwo64ReGxI&;;eurl=http%3A%2F%2Fwww%2Egamespark%2Ejp%2Fmodules%2Fnews%2Findex%2Ephp%3Fp%3D1612

セガのサターンというゲーム機で、アナログスティックを使ってキャラクターを移動、ABボタンでスピード加速というもので、空中を飛んでいるような感覚を感じさせてくれるゲームでした。

ナイツが飛んでいる時に生まれる光の軌跡が輪を描くと、その軌跡に囲まれた物体が吸い込まれるように消えて得点になるとか、空中に浮いている各種のゲートなどのギミックをちゃんと通過すると光の軌跡が長くなるとか、そういう仕掛けがいくつもされていて、やればやるほど楽しめる、それこそ奇跡のような素晴らしいゲームでした。

が。

まぁ、あまりに時代が早すぎたんでしょうね。鈍感で、真のクリエイティブという事が分っていないヲタクなゲームファンからは理解されなかったし、単にゲーム空間を3D化さえすればゲームが進化すると考えていた単純バカなゲームファンからは「3Dじゃなくて2.5Dだ」と批判されたりしたんですが、感受性が豊かで、新しい表現をしっかりキチンと理解しようとすることのできる、「わかる人」にはわかる面白さだったので、根強く深い人気を獲得して、ずーーーーっと続編希望の声が絶えなかったのです。

(「わかる人」ってのは、ようするに普通の人のことです。ゲームヲタクにはちょっと理解できなかったみたいですねぇ。で、あんまり「普通の人」はゲームしないのよね。)

日本ですらあまり売れなかったのに、アメリカではより一層売れなくて、商業的には失敗作だったのですが、その売れなかったアメリカですら、歴代のベストゲームに挙げられる事が多かったのだそうです。

まぁ、つまり、それだけ名作だ、という事ですね。売れなかったし、ゲームの濃いユーザーというかヲタクからはバカにされていたのに、いろんな所でベストゲームとして選ばれてきたわけですから。

実際、本当に僕はこのゲームが大好きで、もう何十時間遊んだか分らないくらい遊び倒しました。本当に何度遊んでも、気持ちが良くて、楽しくて飽きない、不思議なソフトでした。
夢のようなひとときを味わいましたねぇ。

でも、こういう真に新しいというか、従来にない仕組みっていうのが、なかなか現れなくなってしまったから、僕はゲームに興味を失ってしまったのかもしれないんですが、まぁそれは別の話。

今度はWiiという実にナイツにぴったりのハードで再登場するので、「ああ、11年経って、やっと時代がナイツに追いついて来たのかなぁ。」と感慨深いですね。(11年も経ってたんだ!と驚きましたが。11年も経ってるのに、いまだにナイツ並に「新しい表現を確立」したゲームって現れてないような気がします。)

やっぱり、本当に新しいものが定着するには、それだけの環境が必要だし、多くの人の理解という時間のかかる工程がどうしても必要なんだろうなぁと思います。

たぶん傾きセンサーとかをうまく使って楽しむゲームになるんだろうと想像してるんですが、考えただけでも楽しいです。おもしろそうだなぁ。

という事で、関連情報をリンクしておきましょう。

●新作画面
http://www.yukawanet.com/byozine/log/2007/03/wiinights.html

http://www.nintendo-inside.jp/news/202/20205.html

http://www.dengekionline.com/data/news/2007/4/2/6751dc4c140a807f64d13e5e027a2450.html

http://eg.nttpub.co.jp/news/20070402_09.html

http://www.gamespark.jp/modules/news/index.php?p=1612

ああ、楽しみだ。
随分昔の話ですが、「おつり」を隠した事があります。

なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。

忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。

で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。

不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。

で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。

そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。

で。

そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。

ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。

確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。

だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。

僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。

が。

じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?

なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?

という事です。

その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。

ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。

うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。

で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。

ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。

たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。

だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。

これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。

ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。

だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。

どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!

もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。

まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。

よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。

で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。

だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。

「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。

父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。

そういう事だったんですね。

でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。

なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。

まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。

だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。

一番望んでたのは、それでしたねぇ。

で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。

こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。

違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。

だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。

で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。

だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。

そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。

なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。

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でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。

ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。

エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。

っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。

だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。

わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。

うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。

人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。

親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。

「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。

で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。

困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。

でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。

ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。

で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。

だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。

ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。

子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。

まぁ、そういう事ですわ。
長らくテレビを見ていない。

いろいろ理由はあるのですが、基本的に「くだらないから」というのが理由でしょうね。

とにかくつまらない。
特に報道番組がダメになりました。たぶん、小泉政権ができて、田中真紀子人気が沸いたあたりからどうしようもなくなってしまったのだと思います。

一昨年の郵政選挙の時などは、参議院での否決に腹を立てて衆議院を解散したという、無茶苦茶な事をやってる小泉の法理論的問題点を、マスコミがまったく問題にしませんでした。

もうね、日本のマスコミは、あの時点で終わってるわけです。役に立ってない。クソとかカスとか、そういう存在です。

今年は「あるある」の捏造事件から始まってマスコミのダメさがうんぬん言われてますが、もう、それより以前から、本当に全然ダメだったわけですよ。

まぁ、ちょっとしたお笑いタレントの馬鹿馬鹿しい番組とかは、逆に内容がないのが分っている分、罪がない。まだマシです。

でも、そういうお笑い番組ですら、最近はもうYouTubeで見るようになっちゃったし、まぁそれで充分なんですな。積極的に見たいと思わない。

テレビなんかに時間を使うくらいなら、本を読む、英語の勉強をする、日本や欧米の歴史を知る、ウォーキングする、友人と会う、自分の内面を探る、展覧会に行く、映画館に行く、繁華街を歩く、本屋をぶらつく、ウクレレを弾く、仕事する、これからの自分を考える、花を飾る、などなど、やるべき事はたくさんあります。

すでにアメリカでは、テレビを見ているのは低学歴の低所得者層であるという明確な社会区分があるようですね。
日本もどんどん同じようになってきていて、結局、前の小泉くんの郵政選挙ではテレビしか見てないような、何も考えてないアホな層がこぞって「小泉さんしかいてないやん」と郵政改革賛成に票を投じてしまったわけです。テレビCMもひどかったしね。
政治がCMで決まるようになったら、もう終わりだなぁって僕は感じます。

郵政の問題は「改革」に反対してる人はひとりもいなくて、「改革の内容をもっと考えよう」という人と、「なんでもいいから適当に変えとけ」という人とのチョイスでしかなかったわけです。

そういうアホな状態で、「改革、イエスかノーか!」とやって、500兆円もの資金を、国内に環流させるのではなく、国際金融資本の手にゆだねて、海外にしか投資が動かなくなってしまう法律に賛成させられたわけです。

小泉は国賊ですよ。

だから、僕はもう、テレビなんか見たいとも思わない。

最近で言うと「ハケンの品格」だ。

あのなぁ、仕事奴隷に品格なんかねーんだよ!という世間のうっぷんを、逆に湖塗するための誤魔化しのための番組であることが見え見えで、嫌になってくる。

日本はアメリカの属国になり果てていて、年次改革要望書などに見られるように、アメリカの財界からの変革要求に「へいへい」と従っているだけにしかすぎない。

その大きな構図を、まず日本人のひとりひとりが、正しく自覚しないとダメなのに、そこのところはあんまり自覚しないんだよね。

だってテレビでも新聞でも年次改革要望書の話なんて出てこないもんなぁ。

ある程度世界の流れに従うことは必要で、その意味では日本人は世界の常識を知らなすぎる「土人」ではあります。(そのあたり勉強不足の人はもっと勉強しなくちゃいけない。勉強不足で反米!とか叫ぶのが、いちばん大国のいいカモなのです。いちばんマヌケ。)

しかし、守るべき文化だって日本にはあるのだから、そこは大切にしないといけない。
で、そのバランスは、本当にいろいろ知っていこうという態度と意識がないとダメなんだと思うのですよね。

で、そのために、誰にでも出来ることの第一歩が「テレビはくだらない。」と知る事だと思う。

テレビはくだらないんだ。
とくに政治関係の番組。
誰も本当の事なんか言ってないもん。

つーか言えないんだよ。
言ったらホサれるの。

だからまず、「テレビはくだらない」と知ってください。

で、実は新聞も、ほぼダメです。
これも日本では地方紙とか独立系の新聞社が少なすぎて、中央によるコントロールがきつすぎる。
東京のキー局の重要人物数人と話がつけば、日本全国に情報管制が完全に敷かれる状態になっているというのがテレビと新聞の系列化によって実現してしまっている、いまの日本のメディア状況なわけですよ。

だからテレビ・新聞「だけ」しか見てないと、パァーになります。

いまわずかに、そういう「上の人たち」の意向と関係なく、独自の言論を行っているのは、日本全国に何百とある小さな良心的な出版社のみでしょう。

だから本を読まないといけないんです。
他に真実を伝えてくれるメディアがないからです。

出版文化だけが、わずかに国際金融資本のからみ手から逃れています。
なんせ、あまりに中小で玉石混淆だから。統制のしようがないんですな。
これも潰そうと年次改革要望書では再販制度に手を入れようとしてたんですが、草の根レベルでの強い反対に押されて、再販制度改革は立ち消えになりました。
ほんのわずかではあるけれど、民衆レベルの勝利です。

だから本を読め。
読まない奴はダメだ。

たくさん読むのだ。
そして「良い本」を選ぶのだ。

くだらない本を何冊も読んで、そのくだらなさとウソ臭さを知って、自分の「真実を見抜く目」を育てて、それから、真に良い本をみつける力を持つ。

そういう事が必要なんですね。

だから玉石混淆の石からどんどこやっていくしかない。

玉も石も混ざっていたからこそ、統制されずに済んだんだよね。だから手間でも「石」から読め!

で、「玉」に出会うまで続けろ!

そういう事ですね。

最近、ほんとうに、そういう部分にしか、この国の未来はないなぁとつくづく、しみじみ思うのです。

で、僕なんか、まだまだ全然勉強不足ですからな。

だからもう、ゲームとかやってるヒマがないんだよなぁ。残念だけど。選んでやらないと時間がもったいない。

まぁさすがに40過ぎたら、そういう賢い時間の使い方に気を配らないとおかしいと思うのですよ。残り時間のカウントダウンも始まってるんだから。

ま、そういう事をつくづく、しみじみと感じていて、で、多くの人に言いたいのは、とにかくまず「テレビはくだらない」と気付いてくださいと言うところまでですね。

そこでちゃんとテレビの電源を消せるかどうかは、それこそ、その人の品格にかかわる事でして。

まず「テレビはくだらない」そう思ってみる、という事をしてほしいです。

これはもう、切実に、真剣に、この国の未来=私の将来のためにそう願います。

まず「テレビはくだらない」そう思ってください。頼むから。
書店に行くと、「99.9%は仮説」とかいうタイトルの新書が売ってまして。

「はぁ? いまごろ何言うとんねん?」

という気分になってしまった。

まぁ、小室直樹先生あたりを読んでいれば、科学の方法として「すべては仮説である」という事は、常識中の常識、当たり前の中の当たり前、すべてを学習するための基礎の基礎であるということは、言わずもがなでわかっていることなのだけれど、なんでいまさら、こんなタイトルの本が出てくるかなぁとため息が出てしまったのです。

とは言っても。

まぁ小室さんの本を読んでる人の方が少ないし、いまの大学受験産業の仕組みの中では「最初から決まっている答えを覚えるのがベンキョウ」という事になっているから、こういう当たり前の事が、さも珍しい考え方であるかのように、書店に出てきたりするんだろうなぁと逆の意味で感心してしまいました。

科学というのは、99.9%ではなくて、100%仮説です。仮説だからこそ、検証による確認が必要で、そのすべての仮説は検証実験によってのみ、わずかに担保されているに過ぎないのであります。

「たぶん、こういうことやろ」と誰かが考えて、その考え方が正しいかどうかを検証実験する。

つまり、「検証実験をする」という態度は「すべてが仮説である」という前提なくして成立しないわけですよ。でしょ?

真に正しい「真理」であるなら、検証する必要はない。
(数学の公理と、神学における道徳観などは検証はされませんがね。これは逆に検証したらアカンもの、ということになります。)

これが当たり前の学問的態度やねんけどねぇ。

実際、人間がなぜ生きてるか、なんてことは科学では解き明かすことが出来てません。まったくの人工で、生命を作るということも無理です。

だからその意味では、「真理」というのは、常に神とかの「宗教」の側に存在することで、科学というのは「検証がなされた後の、繰り返し再現性があると認識されている出来事」のひとかたまりでしかないわけです。

だから科学の側に「真理」などというものは、あるわけがない。これが当たり前の常識なわけでして。

しかし、どうも、こういう、物事の大きな大きな枠組みが分っていない人の方が、どうやら多いようですねぇ。

うーん。そうか、そうなのか。

「大抵の科学は100%仮説に決まってるやないか!それなくして検証するという重要な過程が成立する訳ないやんけ!アホか!」と思うんだけど、そう思う私の方が、どうにもマイナーな存在らしいのですね。困ったことに。

うーむむむむ。

科学はすべて仮説である、という当たり前の事が分ってない人ほど、科学を宗教のように扱って、宗教とは何か? という事を学ぼうとしない。

ユダヤ教、キリスト教(プロテスタント・カソリック)、イスラム教、仏教、儒教、神道、道教あたりは、ざくっと、その「構造」「考え方」くらいは押さえておかないと、心の安寧も得られないってものなんですがね。ほんとうは。科学なんて単なる仮説やから、何の頼りにもならないのである。

でも、日本人ってこのあたりの事が分ってないから、宗教を「こわいもの」と思ってるのよなぁ。別に怖いもんじゃないよ。
っちゅうか、知らずに無茶苦茶な捉え方をしてる方が、よっぽど危険でっせ。宗教心に篤い国で、ものすごく失礼な事をして、嫌われるとかの可能性もあるし。

勉強しよう!本を読もう!と言うと、科学的仮説ばーーーっかり勉強してしまう人も多いんだけど、いやー、それは違うやろ、とか思うのよなぁ。本当に。

歴史とか宗教とか、他にもっと勉強せなアカン項目があるんと違いますか? と思うねぇ。

あと、偉い人の経験談を読むとか。そう言うことも大事。物事は「体系」なのよね。「体系」。関係性の中でこそ真実らしきものは姿を現すのであって、分析的に科学的アプローチを繰り返しても、本当に大事な話にはたどりつけないって思う。

なので、あえて言うなら「ネット検索より本を読め」って事になる。

あ、話がズレてきたので、今日はここまで。

とにかく、「99.9%は仮説」というタイトルが、なぜ書籍のタイトルになるかを改めて考えて「あ、そうか!みんな科学を真理やと勘違いしてるんや!」という事に気付いて愕然としてしまった、という話です。

仮説やからこそ科学やねんで〜〜〜〜!!!!!

と、私は声を大にして叫びたくなったのでありました。

なんか情けないわ。私は。
ちょっといろいろ本を読んでいて思った事があるので、書いてみたい。

それは人間の認識力という問題。認識力というのはものすごくあやふやだという話なんですね。

知ってる人には有名な話ですが、マゼランが世界一周で、南米最南端のフェゴ島に到着した時の話ですが、マゼランが乗ってきた大型帆船4隻が、フェゴ島に住む人たちには「見えなかった」のですね。

大型帆船から島に乗り込むために、マゼランたちが使った小さな船は彼ら原住民にも「見えた」んです。しかし大型帆船は「見えなかった」のです。

だから、彼ら島の住民にはマゼランがどうやってやってきたか想像もつかなかったし、わからなかったのだそうです。

あとから、大型帆船を「船」と認識していない、ということがマゼランたちにもわかって、「あの大きなものは、我々の船なのだ」という事を、くりかえしくりかえし説明して、それでなんとか理解できたみたいなんですけど、とにかく認識していないものは「見えなかった」わけです。

で、これと同じ話は、実は日本の黒船到来の時にも逸話が残っています。確か司馬遼太郎の「竜馬が行く」に書いてあったのだと思うけれど、黒船が来航したので、幕府の役人が秘密裏に接触しようと、近くの人間に案内をしてもらったが、到着したのに「黒船はどこにおるのだ!」と怒ったというのですね。ようするに大型船の大きさが予想外の大きさだったので、船と思わなかったんでしょう。

似た話はまだまだあって、登山経験のない人がヒマラヤを見たくて、ツアーで出かけ、ヒマラヤにもっとも近い標高の高い村から、その峰峰を見たときに「まったく見えなかった」のですね。その人は、ヒマラヤの雪に覆われた山肌をずっと雲だと思っていたのです。ガイドに「もっと大きい、高い山が、そこのあると思ってくださいね」と説明されて、はじめてその世界有数の山の雄大さを知ることになるのです。

ここに出てきた話は、みんな最終的には「見える」ようになったわけだから、それで良いのですが、みんなが見えているのに自分だけ見えてないとイライラしたり腹がたったり、大変なわけですよ。
でもそれは、自分の経験とか認識力だけに頼ったままだから、そうなるわけですね。

身の回りに、もっと大きな真実をキチンと教えてくれる人がいて、その人の話を「理解しよう」と思って素直に聞けば、真実はちゃんと見えてくるわけです。

自分の経験とか感覚とか「だけ」に頼ると、そういう大きな真実って言うのは見えてこないんですね。自分の感覚をフィードバックする校正装置としての「知識」とか「他者からのアドバイス」というものを活用しないと、山も見えないわけです。

それで思うのが、「鉄砲伝来」という事。あれは学校の歴史の時間には「鉄砲伝来、1543年」とか暗記するだけの事になってますけど、鉄砲が来たという事は、それに伴って、おおむね、ヨーロッパの文化・文物がやってきたという事なわけですよ。

たとえば、地球儀。地球は丸かったのだ、ということが、少なくともこの時点で信長・秀吉・家康という最高権力者には伝わっていたわけです。

しかし、その知識も日本で一般化するまでには、ここからまた200年以上かかってます。

それから、メガネというか、レンズ。これも、この時代には日本に来ている。なんと徳川家康はメガネをかけていたんです。老眼だったらしいけど。

それから、「黒人」。これも信長の時代に日本に連れてこられていて、信長が家来に命令して黒人の肌を洗わせています。墨でも塗っているのではないかと疑ったらしいんですね。
(しかし、洗って確かめるというところに信長らしさがありますなぁ。まぁそれはそれとして。)

信長は、この黒人を気に入り、自分が大名行列みたいに市中を練り歩く時の先頭に、この黒人を立ててるんですな。もう、周りの人間はびっくり仰天です。

で、その横に通訳のためか、誰か白人が一人ついてたらしいんですけども、その人間がメガネをかけていた。
で、実は、このメガネがまた、当時の一般民衆にはびっくり仰天だったので、「信長は黒い人と目が四つある人間を引き連れて歩いていた」と話題になったのだそうです。

目が四つある人、だよ。すごいでしょ。なんだあれは! という、そういう驚きですわね。

信長は、こういう具合にオープンにしてしまって隠さないから面白いのだけれど、実際のところ、メガネにしても黒人にしても当時の人間には見ること自体が難しい訳だから、

●黒い人
●目が四つある人

と聞いても、黒い服を着ている人間とかしか想像できないだろうし、目が四つのほうに至っては、本当に目が四つある人を想像したでしょうな。
でも実際に肌の黒い黒人は存在しているし、メガネをかけている人を横から見たら、屈折率の加減で、レンズの中の目玉と、実際の目玉の両方が見えるということもあるだろうから、まさに「目が四つある人」はいてる、という事になるわけですよ。

でも、アタマのかたい人ほど「そんな化け物みたいな人間はおらんよ」と否定するという事になるわけです。

(ちなみに、豊臣秀吉は、手の指が六本ある特異体質の人でした。信長は秀吉を「サル」とも呼びましたが「六つ」とも呼んでたそうです。まぁ時折そういう人もいてるらしいので、おかしなことでもありません。)

しかし、こういうスゴイ事実とかを、そのまま「黒い人がいる」と文章で書いても、これはやっぱり、なかなか伝わらないのですね。読む側に「読み解く力」がないと、なかなか難しい。

やっぱり「黒い人とは書いてあるが、これは黒い服を来た人の事だろう」とか、自分の理解できる範囲の話に、内容をひんまげて読んでしまうんですね。

あんまり本とか文書とか、そういうものの「読み込み」というのをキチンとやってない人は、こういう「理解できる範囲の答え」に飛びついてしまうわけです。

で、実は、日本の知識層の知識の多くが、そういう「自分勝手な解釈」の積み重ねになっていたりするので、話はやっかいなんです。

「黒い人とは書いてあるが、ようは黒い服を着た人の話だろう。」と理解するのではなくて、「いや、黒い人と書いてあるのだから黒い人がいたのだと解釈すべきだよ。」と言える人にならないといけないわけです。

この自分勝手な解釈のひんまげというのが、本当に問題でねぇ。

たとえば、信長の「桶狭間の戦い」というものも、20年くらい前は「狭間(はざま)」なので、山の上から馬に乗って駆け下りていく信長の軍勢、みたいな表現が多かったわけですよ。司馬遼太郎の「国盗り物語」でもそうだったんじゃないかなぁ?

しかし、史実を比較的現実に忠実記載しているだろうことで評価の高い「信長公記(しんちょうこうき)」には、ちゃんと「おけはざまやま」と記述があるのですね。「おけはざま山」です。

で、その山の下から上に向かって駆け上って行ったとか、明確に記述がされてるわけです。

けど、ぼやっとしか読まない人には「狭間」という谷のイメージと、時代がもっと前になりますが、同じ奇襲作戦ということで義経のひよどり越えがごっちゃになって、「駆け下りた」イメージになってたわけですよ。

このあたりを明確に指摘したのが、小室直樹博士の「信長の呪い」だったわけですが、まぁそれはそれとして。

ようは、人間はちゃんとしたガイドとなる知識を持っていないと、いまそこで起きている事実を、事実として認識すること自体ができないんだよ、という事が言いたかった事なわけでして。

ヒマラヤは「俺が思ってるより、はるかにはるかに大きいんだ!」と無理にでも思って見ないことには「見えない」んですね。

で、これは欧米からやってきた知識の大半がそういうものだと思います。まぁ法律であれ、なんであれ、みんな日本人は「黒い人というのは黒い服を着た人のことだろう」ばっかりやってるんですな。実際。いや、そやないよ、ということは言っておきたい気がします。だってそういう理解の仕方って百害あって一利なしやもんなぁ。何の得もメリットもない。

黒人はおるし、メガネもあるわけやからねぇ。

ほんま、ひんまげた解釈は、ただ単に混乱を増加させるだけでしかないと思います。まったくのムダ。

でも、そういうムダに固執するのが日本の大衆の文化なのかもしれません。

はぁ、困ったもんだ。
03月09日付 朝日新聞の報道「東京大空襲、国を提訴 被災者ら112人」へのコメント:

この記事、実はけっこう気にしてるのです。
よくわからん記事だとは思いますが、私は、

「旧日本軍が中国・重慶で繰り返した爆撃などが米軍の作戦に影響を与えた点についても責任を明確にしたい考えだ。」

のところを注視したい。大空襲って、日本が先に中国にやってるんよなぁ。実は。
(でも、これもウラはあるのであって、いきなり日本が悪いにはならないと思うのですが。)

でも、日本人がこの重慶の空爆のことを知らないのは問題だと思ってます。

これ以上は書かないけど。

今日はここまで。
最高支配層だけが知っている日本の真実
ISBN:488086210X 単行本(ソフトカバー) 副島国家戦略研究所 成甲書房 2007/02/15 ¥1,890

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売れているのだそうである。この本。
と言っても別に驚かない。
少なくとも梅田のブックファーストあたりでは、一番人のよく見る一階の棚で平積みどころか、棚にドドンと十冊くらい平積みで並んでいる。

やっと世の中が副島さん一派の知性に追いついてきた感じがして感慨深い。

もともと、世に言う「陰謀論」というのは、よほどの裏付けがない限り、語るべきではないと私は考えていたのだけれど、副島さんと、そのお弟子さんたちは、コツコツ、コツコツと公開情報や海外の文献などをたんねんに読み込んで、とうとうここまでの本、というか論文ですな、そういう業績を築き上げてくれました。

ずっと副島さんところの会員制サイトで会員を続けていて、応援してきたかいがあったというものです。

簡単に師弟関係を紹介すると、先日紹介した憲法言論の小室直樹先生が、副島隆彦の先生にあたります。小室先生は僕も大尊敬していますが、それは副島さんも同じ事。「学恩」というものを感じています。

この「学恩」というものは、「そうか!そうだったのか!」というアハ体験なしには感じる事ができないもので、結局いろいろなことに継続的・持続的に疑問を持ちつつ学習していかないと実感できないのかも知れませんが、一度そういう体験を得ると視野の広大な広がりや考え方の大転換が行われるだけに、ものすごく大きな喜びを感じられるものなのですね。なので「学恩」というのは大きい。

それはそれとして、この「日本の真実」という本は、副島さんのお弟子さん達が書いた本です。
副島隆彦さんも重要な一編を載せてますが、一編だけです。主役はお弟子さんたちでしょう。
で、そのお弟子さん達の書いている内容が充実している。そこが素晴らしい。

これで、小室-副島-その弟子という三代の流れができたことになります。僕としては、この流れが存在しているということがとてもうれしい。

ここで紹介しているアマゾンの書籍の画像には「オビ」がついていないので、わからないですけれども、実際の本には「真実はやがて世の中にじわじわと広がる。」というキャッチコピーが添えられているんですね。そのじわじわというのはまさに、師弟関係の教えあい、切磋琢磨しあう過程を含めた「時間という熟成装置」のことだよな、と思うのです。

この二三年で言うと、僕としては、副島さんの原稿とかより、そのお弟子さんである「アルルの男・ヒロシ」こと、中田安彦さんのブログ

http://amesei.exblog.jp/

のほうを、けっこう楽しみにしていたりする。実に視点が現実的で、なおかつ物事の「ウラ」読みもキチンと押さえていて面白いのだ。
いやまぁ、基本的には副島さんのファンなんですけどね。
でも、こうしてお弟子さん達が育っているというのが、実にすばらしい。あえてたいそうに言うなら、まぁ日本の宝です。いや、ほんとに。

最近では、ベンジャミン・フルフォードの一連の書籍や発言とか、小林よしのりのインタビューを目玉に持ってきて、けっこう書店でアピールした、「アメリカの日本改造計画」

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E8%A8%88%E7%94%BB%E2%80%95%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%AB%96%E3%80%8D-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4872577442/sr=8-1/qid=1172353988/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books

とか、かの重要書籍と言える「拒否できない日本」

http://www.amazon.co.jp/%E6%8B%92%E5%90%A6%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E3%81%8C%E9%80%B2%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4166603760/sr=8-1/qid=1172354152/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books

とかの注目度も上がってきているようで、大変よろこばしいことであります。(この本も遅ればせながら、やっと最近読み始めました。)

僕は単なる「嫌米」というのは、嫌いでして、これらの書籍のように、キチンとした裏付けを持って「ここが良くない」と、誰が見てもグゥの音も出ないような「論破」をすることこそが大切だと思うのです。

そう言う意味では、ちゃんと根拠となる情報の出どころを開示し、引用は引用としてつまびらかにするやり方(そういうやりかたが本来、当たり前でして、自分の感覚や妄想をごちゃごちゃ語るのは、最初から話にならないんですが、土人の国、日本では、そういう妄想論議も別に間違った事ではない、みたいな風潮になっているので困ってしまいます。)が、主流になっていきそうな感じがあってうれしいものです。

すでに、日本においては、新聞やテレビというマスメディアにおいて「言論の自由」は完全になくなっております。それはもう、あの「郵政解散」の時にはっきりわかった。マスメディアが小泉に荷担した。話にならない。

なので、いま日本における「言論」というものは、書籍を中心にした出版文化においてのみ成立しているという、実にあやうい状況なのです。

正直言って、インターネットもダメです。キチンとした「体系」を頭に入れた上で検索すれば、かなりの事が分るのですが、テレビの白痴的内容を見ただけでキーワード検索しても、電通あたりが雇った、アルバイトの書き込みによる大量コメントにしかたどりつけないのです。

自分で勉強してない人は、真実にたどりつけない。

そういう世の中になってしまってるわけです。

日本の出版社というのは、それこそ中小の小さな会社がひしめきあって、いろいろな書籍を、いろいろに出しているので、なんとか「言論統制」から逃れられていると言えます。

しかし、この部分も、たとえばアマゾンとかで、一括して押さえられてしまう可能性もないことはないわけで、本当に意識して「真実」を探すスタンスで物事を見ていかないと、何もわからないってことにしかならなくなってしまうなぁと思うのです。

とは言うものの、この「日本の真実」が売れていたり、ベンジャミン・フルフォードが頑張っていたり、「拒否できない日本」がちゃんと売れていたり、「年次改革要望書」の話が、普通に世の中に出てきたりする状況は、実に良いことだと思うのであります。

もっとちゃんと理解しないといけないですよね。

そういう意味では、いま公開中の映画「バブルへGO」という奴も、アメリカによる金融コントロールによりバブル→バブル崩壊へ進んだという認識のもとにコメディ映画にしたてあげて「俺たち騙されちゃったんだよ。」をちゃんと描いてるらしく、実に興味深い。あの映画も見に行かなくっちゃ。

昔の「私をスキーに連れてって」の馬場さんが監督してるらしいけど、馬場さんも学習したってことだよね。やっぱり勉強しなきゃなぁ。

で、勉強するなら、「書籍」で、なおかつ、「ひとつのジャンルで複数冊(最低10冊)は読む」という「体系を押さえる」というやり方が正しいし、賢いだろうって思う。
(なので、このレビューも関連書籍をいくつも紹介してるのですが。)

こういう日本・アメリカの関係性を、日本が収奪されてしまっている側なのだ、というように捉えている流れは、やっぱり副島隆彦さんの「属国・日本論」

http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%9E%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E5%89%AF%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%BD%A6/dp/4772704302/sr=8-1/qid=1172355598/ref=sr_1_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books

からこそ始まっている訳で、そういう意味では、この「属国・日本論」の「政治・経済・文化のすべてを帝国と属国の関係で読み解く」という大きな枠組みでの視点を提供した書籍の存在意義は、とても大きいと言わざるを得ないわけです。

まず我々が、「属国に暮らしていて、帝国からの縛りを受けている」という事実を直視しない事には、なにも始まらないわけです。「日本には日本独自の文化がある!」とかなんとか、自国の文化のカラの中に閉じこもっていても、何の意味もない。

敵を知れば百戦あやうからず、という事で、まず敵の文化ややり方を「正しく」学習した上で、対抗策を考えないといけないわけです。

しかし、いまの日本、自分たちが「属国である」という事実を認める事すらできない、情けない感情論の方が「普通」なわけです。

はっきり言って「帝国」の方が、人材も豊かだし、高度な情報も山盛り集まっているのです。だから、その事実を正しく把握して、相手側の知識を分捕ってこないといけない。そうでなきゃ対抗できるわけがないのです。

まぁ、そんなこんなをひっくるめて、小室-副島-その弟子という流れから、こういう書籍が生まれて、しかもそれが支持されているという事に、大いに安心感を感じておる私ではあります。
少し前(07年1/27日)にmixiで書いた映画の感想。
なんとなくこっちに転送しておきたくなりました。

電車に乗らないっていうのは、悪い言い方すると「都会人ではない」って事なんですよね。良くも悪くも。

田舎に住む人は、見ず知らずの人と、おなじ時間と空間を共有することの大切さと面倒くささを最初から放棄してる。

なんせ車があるから。

でも、電車に乗るっていうのは、「みんな一緒に生きている」という実感を持つという意味があるんだよね。
そこの大切さを分らない人は田舎者だと思う。いい意味でも悪い意味でも。自分の家族だけが大事で、世の中の流れがどうなっているかとかに興味が持てないタイプ。

最近はコーナンとかができてきて、大阪とか東京とかに住んでいても、生活の基盤が車になっていて、電車に乗らないって人がけっこういてる。

そういう人には、この「それでもボクはやってない」は、あんまり切実な問題として実感出来ないんだろうなぁと思うんだけど、それは要するに日本の司法の問題点とか、いま、自分が住む国の政治体制とかがどうなっているのかに対して鈍感というかトンチンカンでしかないって事なんだよ、と言っても、やっぱり多分それは車やバイク生活している人にはわからないだろうなぁって思う。

でも、とにかく、この映画だけは、そういう人にも見て欲しいんですね。

「お願いやから見てくれ。」と懇願したくなる。お前ら、アホのままでええんか? ほんまに。アンタの知らんところで、どんどん国が悪くなって行ってるんやで。実際。わかってんの? とか言いたくなる。

たぶん、電車に乗るか乗らないかが、都会人か田舎者かを分ける境界線なんやろなぁと、実は思っている私。

ともあれ、この「それでもボクはやってない」は、日本人なら絶対に必見の映画です。

必見。
絶対に見るべし。
そういう映画。

そういうものはある、という代表例ですな。たぶん。

この映画見てない奴と、基本的にはあんまり話をしたいとは思わないもんなぁ。ほんまに。

必見です。

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映画、「それでもボクは、やってない」を見てまいりました。

で、感想は「必見。必ず見よう!」で終わり。他に言うべき事が何もない。

「Shall we ダンス?」の周防監督11年ぶりの新作で、痴漢えん罪事件を扱った社会派作品。前作とはガラリと雰囲気は変わって笑うところなんか全然ない作品です。

しかし、ウソのない、事実が持つ力だけでグイグイ引っ張る二時間二十三分は実に素晴らしく、観客は、男であろうが女であろうが、誰もが一瞬たりとも目をはなすことのできなくなる、力強さを持っています。

監督の周防さんが「体感90分」と言っているのはその通りで、「どうなるんだ!」という気持ちだけで、あっという間に最後まで見終わって、確かに時間感覚としては、90分ドラマを一本見た程度の負担しか残りません。

逆に負担がかかるのは、裁判の現実を知った、この国の現実という心の重さでしょうね。

痴漢してないのに間違われたら、どれだけ恐ろしいことになるのか、という怖さですが、それと同時に日本の司法システムが持つ、根本的な「壊れ方」がまざまざと見せつけられるというのがその本質です。

まったくの無実なのに、罪人としてしか扱われない裁判の現実。

その恐ろしさが、万里の長城のような堅牢・頑迷な壁として我々の周りに立ちふさがっている閉塞感。

この見た後の心の重さこそが、この映画の本質で、だからとにかく、「必見。必ず見ること!」と言うしかないのですね。

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というところまでが、標準的感想。「とにかく見てくれ!」としか言いようがない。

でも、本当は、この「裁判」というものに横たわっている問題の本質とは一体何なのか? という部分が、多少は見えているところもあるので、この映画を「どう理解すべきか」ということのために、少し解説を書いておきます。

見る前から「絶対見なくては」と思っていたわけで、見終わった今も、あらゆる人に「一食抜いても、飲み会すっぽかしても、見て欲しい」という意見は変わらないんですが、でもあまりに映画がよく出来過ぎていたので、少し客観的意見も言いたくなってきました。

まず言いたい事は「裁判というものは、欧米から移植された仕組みである」という事ですね。基本的に日本人の心情にそぐわないものなんです。

欧米では、基本的に一神教ですから「裁くのは神である」という意識が強いわけです。「最後の審判」というものを神様がやってくれるわけだから、人間がいろいろ裁くこと自体を「間違っていて当然」としているわけです。

この部分が日本人とは決定的に違うわけでして、欧米では裁判というのは、「おろかな人間が行った、現世での仮の取り計らい」でしかないという大前提があるわけです。

だから、この映画の冒頭に出てくる「十人の真犯人を逃しても、一人の無辜(むこ:無実の人)を捕らえることなかれ」という言葉とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉が出てくるわけです。

国家というものは、大変な力を持っているわけですが、そういう強大な力を持ったものが暴走することを戒めるために、これらの考え方は存在しているわけです。

具体的に言うなら、国、つまりは警察が事件を立件させる、刑事裁判においては、検察側が挙証責任(つまり「こいつが犯人である」という証拠を提示する責任)を負わねばならないわけです。無実の側が「私は犯人ではない」という証拠を出す必要が一切無いというのが、本来の裁判というものなのです。

挙証責任は検察にあり、です。

だから、刑事事件で、犯人であるかどうかが判然としない場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。つまり「有罪ではない」と判定するのが裁判というものの基本中の基本なわけです。

ちょっと考えたら分かりますが、国家みたいな強力な機構が、自分勝手に力を振りかざしたら、一個人なんて逆らいようがないわけです。あっという間に踏みつぶされてしまします。

だから、「そういう踏みつぶしだけは、どうあってもやってはならない」という近代国家としての常識というものがあって、そこを守っていなければ、まともな裁判の仕組みとは言えないって事になるわけです。

実にまっとうな考え方ですわね?

いちおう近代国家というものは、そういう考え方の上に成り立っていて、だからこそ「推定無罪」という言葉があります。いくら、どんなに犯人として疑わしい人間であっても、有罪確定が出るまでは全員「無罪」として扱うということなんです。

このあたり、日本語で書くと「有罪」と「無罪」で「シロクロ決着つけようやないか」という話であるかのように聞こえますが、英語で書くと「guilty」と「Not guilty」という言い方をしますから、ニュアンスがまるで違う。

「有罪か」「有罪ではない」か、だけなんです。ようするに被告人に罪を問えるだけの確かな証拠があるかどうか? だけが問われるのが、近代的な裁判の仕組みで、無実かどうかは一切問われないんです。本来は。

なので、「どう見ても絶対にあの人が犯人だよなぁ」と分かっていても、証拠不十分で「有罪とは判定できない」=「無罪(Not guilty)」となるのが、まともな裁判のシステムだ、ということになるわけです。

このあたりで有名なのが、O.J.シンプソンの判例でしょうけど、まぁあんまり突っ込んで書くのはやめましょう。とにかく検察の側に黒人に対して差別意識の強い警官がいたから、証拠に客観的正当性が感じられず、「Not guilty」になりました。

でもね。これ、日本でなら間違いなく有罪判決が出ているんです。なぜなら、そこまで有名になった裁判は国民全員が注目しているから、下手に「無罪」なんてやってしまったら「どう考えても殺人者としか思えない人間を野放しにするのか!」と国民から突き上げを食らうからなんですね。

それこそ裁判官や司法そのものが非難囂々で全国民から責め立てられる。

わかります?

日本においては、「推定無罪」をやると、国民が司法を責めるわけですよ。
それはつまりどういう事に言い換えられるかというと「疑わしい奴はつかまえておいてくれ」なわけです。

もうね、はっきり日本人の感性では「推定有罪」こそが「国民の利益」なんですよ。
ここのところを自覚しておかないと、実はこの裁判問題というのは簡単には判定できないんですね。

「松本智寿夫は、とにかく証拠なんかなくても死刑になってくれなきゃ嫌だ。そうでないと落ち落ち寝てもいられん。」というのが、実は日本人の感性なわけです。で、なんでそうなるのかというと、「最後の審判」があるとは思っていないからなんです。宗教的な意味での「心の平安」がもともとないから、「疑わしい奴を閉じこめて、シャバを安心できるところにしておいてくれ」という「お題目」を唱えているわけです。

それが日本人の心の実感なんだから、これはもうどうしようもない。そういうものなんだもの。

だから、「疑わしきは罰せよ」という、本来の裁判のシステムの理念とはかけ離れた発想が成立してしまって、痴漢犯人かどうかわからない、この映画の主人公は、とてつもない「国家暴力」に巻き込まれていくわけですよ。

ようするに、我々のその「あやしい奴を社会から排除しておいてくれ」という気持ちこそが、この冤罪のしくみの「真犯人」なわけです。

「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「Not guilty」「立証責任」とかは、もう近代国家における「裁き」の基本中の基本で、この部分が壊れていたのでは近代国家とは言えないわけです。欧米の裁判の仕組みを移植するのであれば、この理念の部分をこそ移植しなければ、仕組みそのものが成立しないんですね。

言うならば「推定無罪」の考え方のない裁判の仕組みは「削除の仕組みはあるのに複写の機能のないワープロ」みたいなものなわけです。あるいはデータ削除はできるのに、copyコマンドのないOSと言ってもいいかもしれません。要するに基本仕様を満たしていないってことなんです。

だから、この映画に出てくる裁判官の態度とか検察の態度とかで「理不尽な!」と感じるところは、本当にどうしようもなく「壊れて」いると言って差し支えないわけです。本当に本当に、正真正銘、無茶苦茶なわけですよ。つまり日本に、まともな司法のシステムは存在していない、ということになるんです。

でも、です。

実際には、僕の中にだって「松本智寿夫は死刑で当然よなぁ。でないとたまらん。」という気持ちがありますね。証拠とかなんとかではなくて「あいつしか他に犯人がおるわけないやんけ。なんとかしてくれ。証拠とかどうでもええわい!」と思ってしまってる。

こういう気持ちが僕の中にある、ということこそが、まともな裁判システムの成立を邪魔しているわけです。
そこが良くわかるだけに、この映画は辛いんですねぇ。
やっぱり日本人にO.J.シンプソンの「Not guilty」は耐えられないやろしなぁって思ってしまう。

ということで、この「それでもボクはやってない」は、本当に素晴らしい映画なんですが、以上のような事で実に辛い。逆に言うなら、上記のようなことを真剣に学習するには最適の教材で、大岡越前の名裁きの時代に戻らずに、「近代裁判」の仕組みを、もっと正しく使うようにするという選択をするのであれば、この映画を見て学び、「松本智寿夫の裁判もちゃんとまともに証拠が出たのかなぁ」とか考えられるように自分をしつけるしかないってことです。

大岡裁きも近代裁判もどっちもあんまり好きじゃないけど、まぁ結局は近代裁判を選ぶしかないんだろうなぁという事で、それならばぜひ、この映画を見て「Not guilty」の必要性くらいは学習しておきましょうよ。というのが、まぁボクの言えるギリギリの意見陳述だなぁというところです。
ISBN:4797671459 単行本 小室 直樹 集英社インターナショナル ¥1,890

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ふっと、このロングセラーというか、非常に評判の良い、素晴らしい書籍のことを、キチンと紹介したくなったので、書いてみたいと思います。

この本は、数年前に「痛快!憲法学」というタイトルで発売された書籍の愛蔵版で内容は全く同じ。
小室直樹さんの憲法に関する基礎知識を欧米の歴史とともに解説していて、「編集者シマジ」という無知なる対談相手を生徒役に、授業のような形式で書かれている書籍であります。

痛快!憲法学
http://www.amazon.co.jp/%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6-Amazing-Study-Constitution-Democracy/dp/4797670312

読みやすく、わかりやすく、日本人が学ぶべき欧米の文化と歴史を説明した上で、その文化体系の上に成り立っている「憲法」というものを、あくまで学問的立場から、過不足無く解説している書籍です。

僕はこの本を、現代ビジネスマンが通読するべき書籍のNo1として推薦したいのですね。

この10年、いろいろな本を読んで勉強してきたわけですが、その10年の中でもっとも役に立った、ベスト1を選べ、と言われたときに、この本を選ぶ事になるよなぁ、ということなんです。

こういう想いは、別に僕だけのものではなくて、アマゾンでの評価を見ても、この本、(特に元になった「痛快!憲法学」の方の評価ですが。)誰もが☆五つの最高評価をしています。
それだけの価値はある本だと言えるでしょう。

で、その「痛快!憲法学」が素晴らしかったので、この「日本人のための憲法原論」が出たときは、一瞬続編か?と思ったのですが、なんのことはない、「痛快!憲法学」が内容が素晴らしかった割に、ムック風のあざとい装丁だったので(なんせ集英社だったから、表紙は江口寿司の描く女性イラストだったし、中面には北斗の拳のケンシロウがバンバンに出ているというキワもの的装丁だったのです。)それを改めて、きちんとした普通の単行本の形に直した、というだけだったのですね。

ようするに装丁と判型が変わっただけで、内容はそのまま、という事なんですが、逆に言えば、それだけ内容が良い、という事でもあります。

小室直樹という人はアメリカに留学して、あらゆる学問を学んで日本に帰ってきて、東大の学長候補とまで言われたのだけれど、結局は学者としてこういう書籍を書いて糊口を稼ぐ在野の知識人として生きる道を選んだ人です。

まぁ、そういう長になるような権力闘争に向いてなかったんでしょうね、純粋に学者なんだな、という評価が多いようです。

しかし、在野の知識人とはいえ、この多くの人がまともに書籍を読まなくなってしまった日本の書籍界で、ずっと本を書くだけで生きてきた人ですから、その内容の深さ、確かさは折り紙付きです。

で、数ある小室本の中でも、この「痛快!憲法学」は出色の出来。最高傑作と言っても良いほどの内容なのです。

このあたりの事は、小室先生の少々ウケを狙ったあざとい表現の仕方(出版界で生きて行くには、多少のフカシも必要ですからなぁ)に批判的な人達ですら、この本に関してはナンクセをつけてないんですね。
そのくらい内容の良い本だ、という事です。

アマゾンの評価をていねいに読んでいくとわかりますが、この本に対して低い評価をしてる人というのは、相当、かなり、よっぽどの知識の持ち主なんです。
この本の内容を批判しようとしたら、そりゃもう、この本と同等の厚みのある古今東西の名著を読み調べした上でないと批判ができない。(でも、それを実際にやってる人がいてたりします。すごいね、世の中というのは。まさに上には上がいる。あ、すごくトンチンカンな評価をして☆一つとか書いてる人もいてますが、ちょっと恥ずかしいですね。下には下がいるということか。)

ともあれ、ごく普通の一般的な日本人なら、まぁそこまで深い知識は必要ないので、とりあえずこの本を読んでおけば、世界的な歴史的名著10冊分くらいの知識を、コンパクトに短時間に学べるというような本なわけです。

最初の「痛快憲法学」が出たのが2001年の4月。読んですぐに僕は「すごい!」と思ってたわけですが、世間的にどうなのかがわからない。でも、とにかくもう、本当にすごいと感心したのでありました。

そうこうしているうちに、アマゾンを見てみれば、この6年でレビューが36本ついていて、平均評価が☆5個中4.5。
ものすごい高さです。
この一冊に感激した人が、やっぱりそれだけはいた、ということですね。

読みやすくて、面白くて、それでいてタメになる。

しかも、こういう愛蔵版まで出るほどに評価が上がってきた、という事なわけです。

小室先生のご著書というと、この本以外の数多くの本は、僕が知る限りでは「中小企業の社長」というような人が、相互に教えあって「読め」「読め」とやっているというのが、一番印象的です。

中小企業の社長というのは、あまり実利のない読書というのはやってるヒマがありません。経営とか資金繰りとか、やらないといけない事が山のようにあるからです。

しかし、そういう人達の多くは、国内市場だけでなく、海外市場にも手を伸ばして、自社の展開を世界に広げなくてはならず、そう言うときに「世界の常識」を、とにかく手軽に簡単に素速く手に入れることが必要なわけですね。

で、そういう世界の常識を入手するための羅針盤として、小室先生のご著書が、とても役立つということなわけです。

法律の仕組みにせよ、学問の体系にせよ、日本国内にあるものは、その多くが海外の「真似っこ」であって、正しく真似るならまだしも、気分・雰囲気だけを真似ていて、その本質を何も学ばないまま日常を過ごしている、というのが我々一般人の姿なので、国内学問だけやっていても、ちーとも役に立たないわけです。

中小企業の社長なんかは、海外の海千山千のビジネスマンとも対等に丁々発止の交渉をすることが必要ですから、そういう場で小室先生のさまざまな著書が好んで読まれている、という事でもあるわけです。

それはつまり、小室先生が書いておられる内容が、世界の法体系であったり、文化であったりを、特段誇張することもなく、ストレートにわかりやすく、歴史や基本概念から解説していて、ウソ・間違いが少ないという事の証しでもあります。実際にそういう交渉や相互理解のために大きく大きく役立つからこそ、社長同士の間で「読め」「読んだか?」という声がかけられるわけですね。

実は、このあたりの社長たちの事情というのは、僕は知らなかったのですが、知り合いのコピーライターが一人いまして、その男に僕は、会うたびに「小室直樹はすごい。読むべきだよ」とずっと言ってたんですが、全然そいつは読まなくて、で、その男が、ある中小企業の社長ばかりが集まる勉強会に定期的に参加するようになってから、それらの社長さんから「君、小室直樹くらい読んでおかないとアカンよ。」と手渡されたという話を聞いて、はじめて知った、というような事なんですけどね。

「そやから言うたやろが。小室直樹は読めって。ほんまにもう!」と文句を言ってたわけなんですがね。なんでワシの言うことは信用せんと、そういう社長の言うことなら信用すんねん!みたいな話ですが。

まぁ、ともあれ、小室先生の本は、どれもこれも一定の水準は超えていて、そのくらい素晴らしいという話なんですけど、そういう各種ある小室本の中でも、この本に関しては、やっぱりアタマひとつ抜け出ていると思うのですね。

●よみやすさ
●おもしろさ
●内容の重要度

この三つが、実にうまくマッチしたと言えると思うのです。

だから、この10年で、僕が読んだ書籍の中でベスト1であって、まずはこの本を読みなされとお勧めすることになるんですね。

昨年、うちの事務所では、5年一緒にやっていたデザイナーの女の子が、広い世間をもっと見てみたいという事で退社して出ていったんですが、本当に前向きで、よく勉強する子だったんで、次の事務所への就職祝いも兼ねて、この本をプレゼントしたんですね。

「この10年読んだ本の中で、いちばん役に立つ本やと思う。それも、そこいらの部課長クラスのビジネスマンやなくて、中小企業とかの社長さんクラスの人が読んでる本やから、小さな企業のトップとも対等に話をするのに役に立つよ。」と言って手渡したわけです。

まぁ、その後、最後まで読んだかどうかは知らないんですけどね。

ともあれ、出版から5年たって愛蔵版が出るほどの評価を受けたというのは、「ああ、この国もまだ、見捨てたものではないな。ちゃんと読書人階級というものが、正しい知性を支えるべく頑張っているし、それを伝え広めようとしているんだなぁ」というのを感じた出来事ではあったわけです。

憲法というのは、ひとつの国の文化を反映していて、それは字句だけを追いかけていてもわかるものではなくて、欧米の歴史(その歴史の中には権力者の首をはねた流血革命もあれば、100年にわたって戦争をし続けた悲しい教訓も含まれているということであり、あまり生半可な表面的知識だけで物事を見てはいけないという事なんですが。)基礎から知ることが不可欠なんですね。

そして、日本の国というのは、法体系や文化体系を欧米と中国から接ぎ木のようにその場その場で組み合わせて輸入してきただけだから「知の体系」というものがおおざっぱに捉えきれていないわけです。

でも、欧米化の波はインターネットをはじめとして、向こうのほうから勝手にやってきて、それに対して「体系」も知らないままに場当たり的に断片的知識だけで対処していると、それはどうしても「なるほど!」という納得を得られなくてイライラしたり、ストレスが溜まってしまったりするものなのです。

しかし、欧米の歴史の概略から押さえていれば、そこまでのイライラを感じる必要はない。「ああ、欧米人なら、こういう考え方をしよるよなぁ。でも日本人のワシとしては、こう考えるよなぁ、さてどのへんでバランスしたものやろか。」とゆったりと構えていられるわけです。まさに心の栄養になるんですね。

そういう意味で、この本は多くの人に読んでもらいたいと思うし、おそらく愛蔵版が出たというのも、この本のそういう側面を出版者側が自覚して、それで出したものだろうと思うのです。

このあたりの基礎知識なしに、法律の問題や、個人の責任の話や、これからの日本社会のあり方などなどは、何をどう論議をしても、それは正しい知識をふまえていない、単なる妄想でしかないんですね。だって我々は欧米人ではないのだから。

そういう意味で、この本は必読です。本当に大事だと思います。

超お勧め。

うーむ、しかし、なんでこの当たり前の「お勧め」をいままで普通に書いてこなかったのかなぁ。うーん。まぁいいや。

ま、ええもんはええんや、ごちゃごちゃ言わずに読まんかい! っちゅうことですわ。

しかし「痛快!憲法学」のユーズド版(中古・古本)が、2400円とか、6800円とかしてるのにはびっくりだなぁ。
良い本はこういう形で読み継がれるわけです。
Video Game 任天堂 2006/01/26 ¥3,800 ニンテンドーDSを用いた英語学習ソフト。耳で聴いた英語の音を文章で書き取る「ディクテーション」と呼ばれるトレーニング方法で、「英語を聴いて書く」勉強ができる。DSから聞こえてくる英文を聴いてタッチペンで書き取り、手書き文字認識機能で答え合わせをする仕組みだ。 プラトから発売されたPC版ソフトの改訂移植版だが、キーボードではなくタッチペンで入力することで、手書き感覚で学べる点がミソ。
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ちゅうことで、ちょっと「えいご漬け」のレビューなんぞをやってみましょう。

去年の4月に、やっとニンテンドーDSが買えて、そこから後、ずっと「えいご漬け」をやっておりました。だいたい、本体を買うのに時間がかかったよ。売ってないんだから。本当は二月に「えいご漬け」は発売されていて、出てすぐにやりたかったんだけど。

英語の文章の読み上げがあって、それを手書き入力で書き取りしていくという、ただそれだけのソフトですが、この「聞いて書く」というのは、デクテーションと言って、英語学習においてはけっこう力のつく方法なのだそうです。

基本は画面に文字数に応じて黒い四角ベタの「■」がたくさん並んでいて、その下に日本語訳が出ている状態で書き取りをするというものです。この状態なら、文字数と日本語訳からの推測で書き取りするのもそうしんどくはない。

でもまぁ、それでは練習にならんよなぁと思って、文字数表示も日本語表示も消せるので、いっさい画面に表示のないモードで練習しておりました。

練習の後は、一日一回、テストを受ける事が出来るのですが、この成績の表示方法が、上から順にS,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロマークと、10段階になってます。初日こそ「ピザ」のスペルがわからなくてEランクでしたが、すぐに順調にランクはあがり、SとAAAの間を行き来するという感じにまでなってきてたのが、去年の10月ごろでありました。

でもまぁ、なんだかんだと忙しく、結局三ヶ月ほどやってなかったのですが、またまた再開。そしたら休んでたギャップは大きくて、いきなり「E」クラスに逆戻り。まいったなぁとは思ったものの、次の日かその次の日には「S」が出まして元通り。いままたふたたび練習中というところであります。

実はすでに一回最後までやり終えていて、いまは2周目なんですけどね。簡単な内容だったらやり直さないんだけど、例文の読み上げ速度が意外に速い。けっこうナチュラルスピードなんですよ、このソフト。だから、これはいいやと思って、もう少し練習することにしました。

とまぁ、けっこう簡単に書いてるけど、当然英文法の再学習とか、中学英語、高校英語の音読とかもやってるから、この「えいご漬け」だけでここまで伸びたわけでもないんですがね。
それでも「えいご漬け」は、各種ある英語学習ソフトの中でも、相当に効率の良い、便利なソフトだという気はしますねぇ。
なかなかいいです。

ニンテンドーDSだから、持ち歩きも便利で、最初は「電車の中でできる!」と思ってたんですが、残念ながら聞き取りソフトなので、電車の中ではすごく聞き取りにくい。どうしても点数がさがっちゃうんですねぇ。

なので私は安いノイズキャンセリングヘッドフォンまで買ってしまいましたが。

このソフトをやってて気付いたのは、自分のスペリングの弱さでありました。書いてなかったからねぇ。TOEICも受けたけど、あれは全部選択問題ばっかりでスペル能力は必要ないんですよね。
えいご漬けは、スペルを間違って覚えてるとかすると、そらもう、一気に成績が落ちる。いやほんと。

ともあれ、英語に関する基礎力をつけるには悪くないソフトだと思います。いやまぁ、このソフトだけでなんとかしようってのは多分甘いんだろうとは思うけど。はい。

でもまぁ、おすすめ。ニンテンドーDSを持ってる人はぜひ。
ウクレレの事をもう少し。

ウクレレ大好きで、日々ずっと楽しんでる訳ですが、このウクレレが、どうにも楽しくない時が一時期ありました。

そりゃもう、何をどうやっても面白くないんですな。弾ける曲を練習しなおしても面白くないし、簡単な基礎練習をやっても面白くない。

で、面白くないとミスが増えます。で、ミスが増えるとよけいつまらなくなる。

なんだぁこれは? と、もう大変悩んでおったわけです。

悩んでいた時はウクレレ教室に通い出して三四ヶ月たった時だったから、何をやっても楽しかったし、いろいろ課題も見えていた時期で、「あれも練習したい、これも練習したい」と、いろいろごちゃごちゃとやっている時でした。気持ち的には飽きるはずがない、というような段階だったわけですね。

でまた、仕事も忙しくて、山のように原稿を書いてもいたんですね。だから合間の楽しみであるウクレレが「楽しくない」ものになってしまうと、それこそ面白くなくて「うーん困ったなぁ」と思っておりました。

が、しかし、なんで面白くなかったのかは、それからしばらくして判明することになったのでありました。

ある日突然、腕が痛い。手が痛い。
腱鞘炎であります。
まぁ二週間ほど右腕が全然使えませんでした。(笑)

ウクレレどころではなくて、仕事もできない。しょうがないので音声入力ソフトは導入するわ、慣れた愛着のあるJISカナ入力とはおさらばして、ローマ字入力に転換するわ、仕事の環境の大変な大変更までせねばならなくなってしまったわけですが。

仕事でキーボードは打つ、仕事につまったら気分転換にウクレレを弾くという事で、心の気分転換はできていたけれども、指の肉体的休息は得られず、全然休むヒマがなくて指や腕が悲鳴をあげてたんですね。ようするにやる気が出なくなっていたのは、「疲労」のせいだったわけです。

肉体的な疲労が、ゆっくり、うっすらと蓄積していて、「気分」にまで影響していたわけです。

ははぁ、こんな事もあるのか。

と新たな発見をしたものです。気分として楽しいものだから、自分が疲労してるんだという事に気付かなかったわけです。精神的には楽しくてしょうがないんだけど、体が拒否反応を起こしていたわけで。

なんと言うのでしょうか。やっぱりバランスなんですね。つねに「全体を見渡す意識」というのが必要なんです。

で、前に紹介しました岡本浩一さんの「上達の法則」
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8A%E9%81%94%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87%E2%80%95%E5%8A%B9%E7%8E%87%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%84%E5%8A%AA%E5%8A%9B%E3%82%92%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4569621988

の続編とも言える書籍、「スランプ克服の法則」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E5%85%8B%E6%9C%8D%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4569629814

という本を読んだら、ちゃんとスランプの原因のひとつに「肉体的疲労」がリストアップされていて、「肉体疲労に気付かないこともあるから注意が必要だ」という事までキチンと書かれてあったのでした。

まいった。やっぱり岡本さんの本は優れている。大したもんだと感心したわけなんですが。

そう考えてみると、ウクレレ教室のカリキュラムの組み方が実にうまい。基本が「月に3回の練習」となっているのですね。

月曜日が練習の日なので、「毎週月曜を練習とかすりゃぁいいのに、なんで中途半端に月三回なんだよぉ」と思ってたのですが、どうもこれ、こういう教室運営の長年のノウハウの結果であるように思えるんですね。

一ヶ月というのは、4.5週ですので、月曜日というのは4回から5回あることになります。で、僕のクラスの場合は「第一月曜はお休みで月三回」となっておりまして。

ようするに「お休み」が計画的に組み込まれておるわけです。この予定の組み方だと二週間あるいは三週間くらい休みになる事も出てくるわけですが、これが逆に「月のリズム」になってくるわけです。

単に「毎週月曜」だけだと、「週のリズム」しかないんですね。でも、月に一週は最低でも休みがあると「月のリズム」が組み込まれることになる。視点が一段階、上のレベルに上がるわけです。

具体的にはそんな難しい事までは考えてなくて、こういう変則的なスケジュールの中に身を置くと、それこそ機械的に「毎週行けばいいんだ」という単純な発想にはならずに、いやでも「今日は練習のある日だったかな?どうかな?」と考えざるを得ないのですね。教室で配られた予定表(名刺サイズの予定表をくれるので、それを財布に入れておりますが。)を見て確認する作業が必要になるわけです。

で、この「今日はどうだっけ?」と確認する作業が、まさに自分を振り返る行為そのものになってるわけです。お休みがあるから、その間の週にウクレレ以外の事もできる。肉体的にも精神的にも余裕が生まれるわけです。ここが思ってた以上に重要なわけです。

自分との対話、ですね。

何かをやってる自分、というのは、それはそれで偉いのですが、ちゃんと休んでる自分もまた偉いわけです。休息を取るということは必要な事であって、その必要な事をキチンとやっているかどうか、という事です。

だから長く続けるには「休みの管理」というのが必要で、それは言い方を変えるなら「計画的にサボる」という事でもあります。

まずは、これが必要なんですね。何事をするにしても。
この「計画的にサボる」という事無しに、何事かを長期的に成し遂げるというのは、相当に難しいようだ、というのが、この時に気付いた出来事でした。

楽しい気分を維持するためには、「計画的にサボる」という事が必要なわけです。

ものすごく抽象的な言い方になりますが、「やっていないことが、やってる事になる」とでも言いましょうか。「『やらない』をやっている」と言いましょうか。そういう気分が大切なんですね。

もっとひっくり返して言うなら、「休む」から、「続けるかやめるか」を自分に問いかけることができる、とも言えるわけです。単に毎週やるだけというのは惰性にしか過ぎません。

愛情と惰性は違う。違うけれども、じゃぁどう違うのよ? って事でもあります。

惰性でやってると、本当に自分がそのことを「好き」なのかどうかも、よくわからなくなってくるんですね。だから好きなことを、いったんさぼって、「続けるのか、やめるのか」を自分に問いかけないといけないわけですね。さぼる事も大切な意志なわけです。だから、本当に愛情があるなら、上手にサボらないといけない。

まぁ、さぼり過ぎるのも問題なんですがね。
去年の年末は仕事が忙しすぎて、二回連続してウクレレ教室をお休みしたんですが、そうすると一ヶ月休んだことになってしまって、久しぶりに教室に行ったら、指ならしの基礎練習で、すでに腕が痛い。なまってたんですねー。腕が。それも筋肉ごと落ちてる。握力が落ちてるからネックを握る力が落ちてたわけで。

どっひゃーでしたな。
あんまりさぼると、こういう揺り戻しがあるのかぁ! でありました。
やりすぎもいけないけど、さぼりすぎもダメって事ですな。

ともあれ、続けるというのは「日常」にするという事ですから、無理して続くわけはないのであります。どう上手に生活に組み込むのかが大切。で、そのためには、まず「休み」をちゃんと組み込むこと、というのが大事なわけでありました。

ともあれ、趣味は自分の楽しみでありまして、まさに自分を愛することの基本であります。
そこから見えてくる事は多々あるなぁと感じております。
久しぶりに、ウクレレの話が書きたくなりました。
趣味として長々続いてるわけですが、なんだか知らず、やたらと楽しいです。

ウクレレ教室に習いに行ってる訳ですが、ここのチームもまた、仲が良くて。

決して「超うまい」というわけではないんです。素人ですから。でも、まぁ、簡単な楽譜なら初見でそこそこ弾ける人たちばかりなので、何をやっても楽しめるんですね。レベルが似てるから楽しいのかも知れない。

もともとウクレレというのは、最初から「ヘタレ」の楽器でして、頑張るような楽器ではなくて。そういう意味で言うと、教室に来てる人たちも「そこそこでええやんか」という幸せな発想をしてる人たちばかりで、そこがまたいいのかも知れない。

ウクレレという楽器は、本当に軽い楽器でして、何と言っても有名なのは、「やんなっちゃった節」の牧伸二さん。漫談で使ってるのはやっぱり調子が軽いからですね。

一時期牧伸二さんも流行に遅れを取るまいとギターに持ち替えてネタをやったらしいんですが、ギターは大きいし音が重い。それでネタがどうしても重くて暗くなっちゃうので、結局ウクレレに戻ったんだそうです。

僕たちの教室でも「ウクレレをやりたいって人に重い人とかいてないよねー、ワハハ。」とか言って笑っております。

うちの教室は他にフルートだとかサックスだとか、いろんなコースがあるんですが、その他の楽器とのコンビでの発表会とか企画されてました。で、それに出るかどうか、という話で、、「うーん、他の楽器の人たちとやっていけるかしら?そこが問題やわね。」という事で、参加は難しいのではないかと、みんな意見の一致をみました。

「だってあたしらええかげんやもんねぇ」って事なわけですが。(笑)
「キチンと真面目にやるような人ならウクレレなんかせぇへんもんねぇ」って話でして。
いやまぁウクレレでも、けっこうな事はできるんですけどね。ウクレレで二重奏でバッハのメヌエットなんかやったら、なかなか良いものなんですが。それはそれとして。

ともかく、軽くて、ええかげんで、そういうところが楽しくて続いてるという感じ。長い人は4年。僕で3年を超えました。今後も、このメンバーで行きたいよなぁって感じであります。

ウクレレを好きな人はえてして、こういう軽くてええかげんな人が多い。そこが良いわけでして。

そういう意味では、牧伸二師匠が、坂上二郎さんが脳梗塞で倒れたときにやった事の話が、すごーく好きでして。

ゴルフ場で倒れて、一命はとりとめたものの、半身不随とかの可能性もあって、精神的に落ち込みかけていた二郎さんの枕元に、牧伸二師匠は「心に太陽を」って書いて置いておいたって話でね。

いい話だなぁって思うのです。

大事なのは、心に太陽があるかどうか。そして、その太陽は、自分でともす灯りなんですね。

これがまた「書いてあった」というのがいい。形にして残してるっていうのがね。だってずっとそこに置いておくじゃないですか。ということは、ずっと励まされるってことでねぇ。で、読むのも簡単だし、書くのも簡単だ。でも、シンプルだけど効果がある。お金も全然かかってなくて、見方によったら、すごく「ええかげん」。でも、それなりにちゃんとお見舞いの効果はある。ね?
まるでウクレレみたいなお見舞いでしょ。

ああ、しかし、いい話だなぁと思って。
昭和九年会の芸人さん、ほんとに仲いいですよねぇ。うらやましい。

なんとなく、ホワッと、そういう話が書きたくなったので、書いてみました。
ちょっとiPhoneのことが気になってネットで記事を読んでいたら、こんな話題が載ってまして。

http://ascii24.com/news/i/topi/article/2007/01/10/667110-000.html

なんとおちゃめなジョブスであろうか。
いいなぁ。

で、この記事の途中に、

(引用開始)-----------------------------
ステージに返り咲いたジョブズ氏が、リモコンを持ってスピーチを始めようするが、Macのハードディスクがスリープしてしまったのか、まったく反応ナシ。リモコンを変えたり、いろいろと工夫をするがやはり動かない。

以前はこうした“事件”の後は、怒り狂って社員をクビにしていたジョブズ氏だが、今回はそんな自分の性格を知る観衆達に向かって「今頃、舞台裏はテンヤワンヤだ」と笑って見せ、「あれは私の高校の頃………」と突然、今回の発表とはまったく関係のない話を切り出してみせた。
(引用終了)-------------------------

というようなことが書いてありました。
で、この後に変なポーズの話題を出して爆笑をさそうわけだけど、この、今までだと「怒り狂って社員をクビにして」いたジョブスが、いかにして「笑いを取る」ところへ進化したのか?
僕はそこに深い興味を覚えますなぁ。

いろいろあったんだろうなぁ。たぶん。すげぇなぁ。人間として。

先日からずっと書いてますが、怒りは「不要」なもので「猛毒」なんです。
でも、そう言うことも、鍛えれば、こういう具合に「笑い」にまで持って行ける。
「そうか、そうなんやなぁ」とつくづく思う。

怒るタイミングでギャグを出す。

これはもう、すごい成長ですよねぇ。これを目指さねばって思う。
それこそ、まさに「ユーモア」なのだと。
ユーモアとはヒューモアで、人間性の事なのだと。
怒ってるより、笑ってる方がいいじゃんって事でしょうねぇ。

だいたい、人間、年食ったら、怒ったら怒りっぱなしになる「保続」現象なんてものがあるわけだから、怒りのスイッチが入る前にギャグに転換させる訓練をせねばとおもいますなぁ。

うーん。親父ギャグとかの採用も考えよう。
「布団が吹っ飛んだ。」とか。こち亀の大原部長じゃないけど。より良いおっさんになっていくために、必要な事かもなぁ。

ともあれ、やっぱりジョブスは優れております。
iPhoneもすごいなぁと感心したけど、それより何より、ジョブスのこの成長に感心した。
人間は成長できるんだって思うねぇ。すばらしいです。
思いませんか? みなさん。
最近思うのは、少しずつだが、自分が自由になってきているなぁ、という事です。

これは「怒りをなくす」と平行して起きてきているような気がする。

自由というのは、自分をコントロール下に置いているということなんですね。

このあたり、実はアダルトチルドレンは自己コントロールが下手くそだったりしがちなんです。

一度怒ると止らないとか、一度決めたルールが変えられないとか、なんだかんだ。

そこには「自己欺瞞」って奴がのさばっているんですね。まぁ一言で言うなら「言い訳」です。

斉藤孝さんの本で「『できる人』はどこがちがうのか」というのがありまして、そこに「癖の技化」という言葉が出てきます。

「クセの技化」

です。
意味分りませんね。(笑)
これは、ようするに、自分のクセを「技」のように自在に使いこなそうという話なんです。

たとえば「こもる」という言葉があります。
これがコントロールできていない状態が「ひきこもり」ですね。そして、意識的にコントロール出来ている状態が「山ごもり」とか作家が執筆活動のためにホテルで集中作業する「カンヅメ」などがあるわけです。

この「こもる」という作業は、もともと「こもる」事が苦手な人には、作家のように「技」とすることは難しいわけです。できない人にはできない。そこに「個性」が出てくる。誰にでも活用可能な「ノウハウ」とは違うわけです。その人の得意技、ということです。

で、それは実は、うまくコントロール出来ていないのなら、単なる「悪癖」でしかないわけです。でも、うまくコントロールできるのなら、それは「得意技」になるわけですね。

この「コントロールできるかできないか」こそが、自由であるかどうかの分岐点なわけです。

で、僕的には、怒りのコントロールが少しできるようになって来たことが、この「自由度」を随分高めてくれたように感じています。

人間の心というのは、どこがどうつながっているのか、自分でもなかなか分らないもので、自分では「怒り」とは思っていなかったものが「怒り」だったりするので、怒りのコントロールは、生活全体にけっこう大きな効果があるように感じています。

抑圧とか自己欺瞞というのは、一種の怒りだったりしますからね。というか、自分の親に対する怒りの感情を隠すために自己欺瞞をしてたとかもけっこうありますからねぇ。

「問題の認識・解決」と「怒りの感情」とは、まったく別のものであり、何も「問題が起きた」からと言って「怒りの感情に身をまかせる」必要などまったくないのだ、ということが、先日の「怒らないこと」という本で、概略だけでも納得できたのが、やっぱり大きいですね。

怒りは、まったくムダなものであって、必要性のないものであると。(いやまぁ社会正義としての怒りというのは、使い方次第で必要というのはあるんでしょうが。)

で、「怒りをなくす」に集中していると、ほんとうに「自己コントロール感」が高まってきて、気持ちがいいです。

で、そのコントロール感がキチンと整っていると、自分の個性を悪く受け取ってしまう「自己嫌悪」が、自分の個性を「あるものだからそれで良いのだ」という「自己肯定感」に変質していくように感じますね。

だから、「こもるのが平気」という個性は、自己コントロールができていないと「引きこもり」になってしまうわけですが、自己コントロールが出来ていれば「やまごもり」という「クセの技化」に転化できるわけです。

ここには個性というものへの「嫌悪感」→「肯定感」という感情の変質があるわけです。やっていること、行動している事の内容は変らない。でも実は質的転換をしていて、その質的転換の起きている変化のポイントは「自分で自由にコントロールできているかどうか」なわけですね。

で、自由というのは、フリーダムとリバティの2つの英語を、福沢諭吉がひとつにまとめて(というかフリーダムの訳語だろうなぁ。多分。リバティは金持の自由って部分があるし。)作った翻訳語なわけですが、「自らを由とする」という事を、その本質として意訳しているわけです。

これ、ようよう考えると、実に名訳なんですね。福沢諭吉は、もっと勉強しないといけないなぁと思ってるんですが、とにかく「自由」というのは名訳です。

個性という個別の事柄までひっくるめて、「よしとする」ことが自由なんです。
怒りのコントロールでも同じ事で、別に怒りの感情が湧くことが間違っているのではなくて、それが出てきた時に、さっと「問題と感情」を分離して、怒りのところを「なくして」しまえれば良いということになります。
なかなかやりにくいことだけども、これはけっこうできるようになってきたと思う。

もう3年も前に書いた日記
http://diarynote.jp/d/12917/20031107.html

でも紹介しましたが、背面跳びを発明したオリンピックの金メダルアスリートであるフォスベリーは、別に「新しい飛び方」を模索していたわけではなかったという話が、やっぱり面白いと思うのですね。

流行のベリーロールができなかった不器用なフォスベリーは、従来からのはさみ跳びで、なんとか高く飛ぶことはできないかと、必死に模索していたわけです。自分の個性を良しとした。

だから結果として、その独自の飛び方が「背面跳び」と言われるようになっただけで、それは実は従来の「はさみ跳び」のバリエーションでしかなかったわけです。フォスベリーにとっては。

だから重要なのは、「自らを由とする」という事だけなんですね。

で、それは「引きこもり」が自由に開始したり終了したりができない故に単なる「悪癖」で、「山ごもり」が自由に開始して終了できるから「クセの技化」であるのと通じることでもあります。

自分でそれがコントロールできるのなら、それは自由だって事ですね。

で、僕の場合はそういうコントロール不能だった事柄のひとつに「怒り」があったんですけど、それがけっこうコントロールできるようになってきたのは楽しい。おもしろい。

なんか、次の人生の、良い道しるべになるような気がしております。

人生何があるかわからんしね。
だからこそ面白いんだけど。

でも、その面白さを感じるには、この「自らを由とする」がないと、なかなか辛いって事ですな。

で、一番言いたいというか、大事なことは、「自由」っていうのも、こうやって、コツコツと学習と体験と行動を繰り返して、「獲得」していくもので、決して「ほったらかしておいたら、勝手に得られるのが自由」ってことではないのだって事です。

自らをよしとするのだ、と思って、自己欺瞞や怒りとキチンと向き合って戦わないと、それは得られない。心の平和は、日々、自分自身と向き合い、ひたむきに努力しないと得られないんだなぁということです。

ま、そんな事を感じる2007年の年頭であります。
あ、こっちでは「あけましておめでとう」でした。

mixiに加えて、別にブログとかもやりはじめたので、わけがわからなくなってます。

去年は、本当にいろんな事があって、人生二転三転するくらいの年だったのだけど、まぁ、それも自分を生きている事だからそれでいいかと思うようになってきました。

で、よそで書いてる、自分の内面の変化を綴ったブログで書いた事を、ここで少しまとめて書いておこうかなと思いました。年も明けたし。

まず、怒りというものの扱い。
これは、自分が正しいと勘違いしてるから生まれるのであります。

しかし、正しい人間などというものは、いついかなる時にも存在しないのだという事が、ようやく分ってきました。
何故か。
それは「いついかなる時にも、より正しい選択は存在する」からです。つまり、人間はつねに間違っている。どんな時でもつねに、必ず、100%間違っているのです。
ここがとても重要だという考え方に到達しました。

それから、次に「老化」です。
この数年、自分の怒りをコントロールするのに手を焼いておりましたが、上記の「正しさ」と平行して、「老化」が始まっていたのだ、という事がさまざまな書籍等で見えてきました。

人間の脳は年を取ると縮むそうですが、まっさきに縮むのは前頭葉だそうです。で、ここが縮んでくると、「保続」という現象がおきるそうです。
それは単純に言うと「切り替え機能の不全」と言い換えても良いらしい。つまり、「怒り出したら、ずっと怒っている」というようなことですね。それを「保続」というのだそうです。

年寄りが、同じ事を何度も何度も言ったりするのが、それだそうです。つまり、「保続」が私には起こっていたのであります。

だから、そこから抜け出すために、僕にはウクレレが必要だったのだと、いまさらながらに気づいたのでありますね。
気分の切り替えに効果が高いのです。

指を動かすというのは、脳への直接刺激として効果が高いです。運動というのがとても効果がある。

で、「頑固親父」という言葉がありますが、これこそまさに「保続」そのものなわけです。頑固親父になるというのは、まさにボケまっしぐらの行為なんですね。気をつけなくてはいけない。

この数年で言うと、ずっとスターウォーズシリーズが気になっていて、面白くて何度も何度も見てしまうのですが、あのシリーズの中に繰り返して出てくるネタに「上には上がいる」というのがあります。

主人公が巨大な敵に襲われるのですが、危機一髪助かるのは、その巨大な敵より、もっと大きな敵が、その敵をひと呑みにするというような話です。これが多い。

で、これがまさに、「より良い選択」に通じるのですね。つまり、より大きな視野を持つ、ということです。これは敵の敵は味方だから正しいものなんかない、というような真理の追究を放棄したような価値相対主義とは違う。

真理を追究し続ける過程で、より大きな真実に近づくということです。つまり「上には上がある」ということです。
そういう上を目指すという気持ちは必要です。で、これこそが「保続」から抜け出す道なのだという気がする。立腹せずに、対立を解消する手立てだという気がするのです。

こういう具合に、「正しい」と「間違っている」を超えて「より正しい」というところにフォーカスを持って行けば、どちらも間違っていながら、より良い答えにたどりつく事ができると言う事になると考えられるわけです。
キチンと反省して成長するというプロセスも含んだまま、人と人との関係性を、無理なく取り込むことができる。

「ああ、だからジョージ・ルーカスは、あんなに何度も、上には上がある、ばっかりを繰り返して描くんだなぁ」と思ったわけです。

これは、少しまえに、書き込みいただいた陶子さんとのやりとりでの書いた「ユーモア」にも通じる事なわけです。

ユーモアとはヒューモアが語源で、「人間性」という事です。誰もが100%、必ず失敗する人間であり、でもだからこそ、上をめざすことが大切だと感じることで、正しいと間違っているの両方をひとつに統合して「人間そのもの」を受け入れ、暖かい笑いを得ることができる、という事なんだと思うのですね。

ユーモアのある人間になるというのは、ある意味、ACとかの自覚のある人間にとっては、とても大きな目標なのだと思うのですが、実はそれがとても難しい。
でも、それは多分、「上には上がある」ということを、常に意識することで、ゆっくりとでも得られるものなのかもしれないと、最近は思っております。

ま、概略、そういう気づきが、この半年くらいで得られました。いやまぁ、いろいろ大変だったんだけどね。

ま、そんなことで。
怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉
ISBN:4901679201 新書 Alubomulle Sumanasara サンガ ¥735

前々から「怒り」のコントロールがうまくいかなくて困っておりました。

理不尽な扱いをされたり、コミュニケーション相手が怒ってたりすると、どうしてもこちらも怒ってしまって、それが抑えられなかったりするわけです。

でも最近読んだ本で、その「コントロール不能感」を、大きく低減できる考え方に触れる事ができました。


それが、この本「怒らないこと」


怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉

作者: アルボムッレスマナサーラ, Alubomulle Sumanasara
出版社/メーカー: サンガ
メディア: 新書
です。

前々から、「怒り」をどう扱うかには困っていて、人によっては「怒りこそが戦うパワーだ」という人もいてたりするので、「必要なもの」と考えていたんですが、この仏教の入門書では、その部分を完全に否定して、怒りの感情そのものが悪なのだと規定してるんですね。


いわく、「怒りは猛毒である」ということなんです。


少し極論に聞こえるかも知れませんが、自分の経験を顧みるに、怒りを「猛毒」として注意深く扱う方が、現実的には物事がうまく運ぶように思えます。

実際、「怒り」にとらわれていると、物事の判断が甘くなったり偏ったりしがちですし、良い発想も出にくくなりますし、怒ってる間は同じ事を何度も頭の中で繰り返し考えていて何の発展性もないんですね。


何より重要なのは、その「怒っている時間」は、自分にとって「幸せでない」という事です。怒ってる間は「自分が不幸」なんですよ。

だから「怒り」はすべて「なくす」ようにしなくてはいけない。


この「なくす」という考え方が、非常に重要でして、「怒りを抑える」では、まったく意味がないわけです。「抑えて」しまうと抑圧されて、よけいに「なくし」にくくなる。


「怒りは抑えるものだ」と考えてしまうのは、「怒りは必要なものだから、力は残して、コントロールしよう」という発想なわけですが、ここが怒りのコントロールを難しくしてしまう根本的な、捉え方の過ちなんだろうと思うのですね。

抑えただけでは、消えていないから危険なだけなのです。

怒りは不幸そのものであり、猛毒なのだから、「なくす」「消滅」させなければいけないって事なんですね。


ここのところが論理的にすっきりしてなくて、僕は困っていたし、混乱していたんだと思うのです。やはり「怒り」そのものは、なくすべきものなのですね。

たとえば、ストレスの発散に車の運転をしてスピードを出して気晴らしをするとかも、本来的には間違いなのだと、この本では説いています。怒りのコントロール法の本などでは、こういうのが多いんですよ。いわく「誰もいないところでクッションをなぐって気晴らしすればいい」とかです。

でも、それも間違いだと、この本では説いていますし、僕も間違いだと思う。それは「怒りの再生産」であり、「怒りの拡大」であり、「抑圧された不満の増大」でしかないと思う。そうではなくて、怒りそのものを「なくす」、消滅させる事こそが重要なんだと思うのですね。

もちろん、すべての出来事がこの考え方だけで説明がつくわけではないのです。たとえば、あまりに理不尽だと思えることなどには、正しく自己主張して、正当な権利は得なければなりません。そういう自己主張は当然の権利なのだから行動し発言しなければならないのですが、別にそれを「怒り」とともに行う必要はないわけです。

そういう時は、怒りを交えずに「私はこうして欲しいです。」と心穏やかに主張すればそれで良いわけです。

実際、多くの場合、こういう主張を「怒って」行う必要はサラサラないわけです。心穏やかに主張したほうが意見として通りやすくなるくらいです。

しかし人間というものは視野の狭いもので、完璧な人間など存在しているはずもないのに、「私は正しい、あいつは間違っている。」という前提からスタートしてしまうので「怒り」がどうしても生まれてしまうわけです。


それと、その「主張すべき時にしなかった」場合も、怒りになりやすいなと、この本を読んで思いました。自分の表現力のなさによって自己主張ができなかった時には自己主張できなかった不満が抑圧されてしまって、それが「怒り」に転化してしまう時が往々にしてあるように思います。

アダルトチルドレンの問題は、まさに子供の頃の「不満の抑圧」が怒りに転化してしまった典型だろうと思います。自分の感情のつながりが論理的に整理されていない状態ですね。だから、何か特定の「悪」に対して異様に腹が立ったりするとかになる。そのくせ、なぜ「怒りの感情」がわき起こっているのかは、自覚できていないとかですね。

どうも、必要以上に立腹してしまうとかの感情の変異は、子供の頃の経験に原因があることが多いようです。子供はつねに「表現力不足」ですからね。欲求不満になってしまうことも多いと思いますし、自分の「感情の歴史」の中で、スタート地点がゆがんでしまているというのは、往々にしてあることだろうと言う気がしています。

それともうひとつ注意したいのは、40を過ぎると、「感情の固定化」が起きやすい、ということでしょうね。つまりは「老い」でして、怒ったら怒りっぱなしというのは、感情の切り替えスイッチが錆び付きはじめているという事でもあるようなのです。

「頑固ジジイ」などと言う言葉がありますが、あれなどまさにそれで、「感情の切り替えスイッチが鈍っている」という視点をキチンと持たねばならないなと、いまは感じております。

この感情の切り替えスイッチの話しは、いま読んでいる、

人は「感情」から老化する―前頭葉の若さを保つ習慣術 (新書)
和田 秀樹 (著)

http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%84%9F%E6%83%85%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E8%80%81%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E2%80%95%E5%89%8D%E9%A0%AD%E8%91%89%E3%81%AE%E8%8B%A5%E3%81%95%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A4%E7%BF%92%E6%85%A3%E8%A1%93-%E5%92%8C%E7%94%B0-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/4396110529

からの受け売りです。

この本も、またキチンとレビューしたいですね。「40代の心の危機」というテーマそのものに関する重要な書籍だと思いますので。

とりあえずそんなことで、「怒りは猛毒である」と、とりあえずは考えておくこと。それがとても重要だと思っております。
今日はmixiに書いた日記を転載。
---------------------
こんなニュースを見つけた。
●30代男子が食すポッキーはガンプラ付き
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0611/24/news057.html

ガンダムのプラモ付きポッキー。
なんでガンダムかというと、
ポッキーをサーベルとしてプラモに刺せるそうです。

く、く、くだらねー。

しかも白パッケージは極細ポッキー+白いモビルスーツガンダム。
赤と緑はシャア専用ザクと量産型ザクだそうで。

あまりにはまりすぎ。
あまりにくだらなさすぎて、面白い。
いいなぁ、このくだらなさ。

任天堂の岩田社長も「おどるメイドインワリオ」の試作品見て「くだらねぇ」と言ったそうです。
「もちろんホメ言葉」だそうで。

私はマリオよりワリオが好き。
特にメイドインワリオは一作目から素晴らしいと思っております。

社長が訊く。Wii開発プロジェクトのワリオの回が面白いんだよなぁ。
第1回 「『リモコンひとつあれば、なんでもできるぞ!』と」
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol6/index.html
第2回 「『くだらねぇ』は最高の褒め言葉」
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol6/02.html

くだらないということは、けっこう重要かもしれない。

----------------
以上転載終わり。

ちなみに、なんで私がマリオを嫌いかというと、恋人でもなんでもないピーチ姫を、なぜか理由もなしにマリオが助けに行くから、なんですね。

これ、やたらと教条主義っちゅうか、「ヘン」でしょ?
「姫」なら、城の衛兵とかが助けに行けっちゅうの。

そうでないなら恋人を救いに行くとかじゃん。
なんで縁もゆかりもないピーチ姫を助けに行くのよ? わからん。

これが「なんか面白そうだから助けに行くことにした」とかなら、私は怒らなかったのですがね。「さらわれたのだから、助けにいくのが当たり前」という常識の押しつけをされてイラっときたのであります。

常識の押しつけをされるくらいなら、「なんか知らんけどおもろそーやから行くー」の方が、はるかに高尚でありますな。
だからマリオはつまらんのだと思う。
で、やっぱりワリオが面白いんだよねぇ。

Wiiの同時発売ソフトがマリオではないってことは、僕は大変にすばらしい事だと思ってます。岩田さんえらい。
くだらないゲームを「くだらねぇ」と笑いながらニコニコと楽しむ。これこそ正しいスタンスだと思うのですよ。

あんな権威主義のマリオを顔にしたらアカンよ。最悪。
うむうむ。

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