基礎が大事と、しみじみ思う。
2008年8月1日
今日は、「スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641574/503-1393334-5299133
の紹介文なんですが、まぁ大きくは「学ぶ」という事に関する概要的な内容であります。
けっこう面白い話が入ってると思うので、良かったらお読みくださいまし。
------------------------
えー、「スラスラ」の前に「どんどん」の話。
2007年10月20日の日記で紹介しました「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」。
2007/10/20●後退することが、実は進歩だったりする。
http://diarynote.jp/d/12917/20071020.html
「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
この本を一冊仕上げてから、英語の文法が嫌ではなくなってきたんですねぇ。面白いなぁ。
この「どんどん」って本は、中学レベルの文法項目に沿って例文が10個並んでるだけの本なんですよね。現在完了だとか不定詞だとか。そういう文法項目が80項目あって、それぞれに和文と英文が10文ずつ左右に並んでるだけなんです。
で、この800文をひたすら「日本語を見て、英文を作る」作業を繰り返し、英文を音読して体に落とし込む作業を去年、半年かけてやりました。見開きごとになめらかになるまでやって、どの見開きも、20回くらいはやり直したんじゃないかしらん。一回あたりにどの文も最低でも10回は音読したと思うので、16万センテンスを口にしたことになります。わっ書いてて自分でびっくりした。
で、次に何をやったら良いのかわからなかったんですけど、とりあえず、この本の続編である最初に紹介した、「スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング」ってのをやってみたわけです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641574/503-1393334-5299133
こっちの方はタイトルに「シャッフル」ってあるように、文法項目に沿わずにランダムに文章がならんでるんですね。だから同じような文章を作るのに比べると、けっこうしんどいわけです。
なので、実は数ヶ月手を出さなかったんですよね。でも、5月にちょっとやってみたら、これが意外に、ちゃんとできる。
いやぁ、うれしいなぁ。
で、実は、そんなに「しんどい」とも感じない訳ですよ。ある程度は構文が体に入ってるから。逆に楽しいって感じる。
これはすごいなぁって思いまして。
この本の著者の森沢洋介さんの言葉を、そのまま引用しますと、
(引用開始)-----------------------
このように、トレーニングというものは、基本過程をしっかりやっておくと後に行くほど、しんどさが減り、楽しくなっていくものです。
(引用終了)-----------------------
ってなってるんですけど、まさにそうなんですよねぇ。
書いてあることが書いてある通りに起こると、実にうれしい感じです。
やっぱりそうなんやなぁ。ほんまやったんや。
という感じです。
というのは、体に「構文ごとの例文」が入ってると、いろいろな文法書を読むのも楽しくなってくるとわかった、という事も影響してるんです。文法書を読んでも書いてある意味が体とか感覚とかで分るんです。だから読んでいて面白い。
実は、一年ほど前に、英文法に関する名著と言われる「英文法TRYAGAIN」を、
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4875685831/503-1393334-5299133
買ったんですが、これが読めなかった。もう全然面白くないわけです。書いてある意味は分るけど、「ああ、そういうことね」という腑に落ちる感覚がない。
そらおもろないですわな。
なので、本棚で眠ったままだったんですが、いまこれを再読してみると、実に面白いわけです。
「えー? なんやこれ。全然違うやん!」って感じなんですね。
こらすごい。
やっぱり、学習には手順があって、そのステップを踏まないとわからないものなんだなぁって事なんですよ。
で、このあたりの話は、先日書いた「6月に読んだ本」
http://diarynote.jp/d/12917/20080721.html
でも紹介しましたけど、効率的な勉強法の本、
●誰でも天才になれる科学的な勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062034/249-9767057-8485143
にも書いてあって、そうやねぇとしみじみ思うのです。
この「誰でも天才」で紹介されていたのは、サルにジュースを与える実験の話でして、
(引用開始)---------------------------
何も映ってないテレビの画面をサルに見せます。画面の脇にはボタンがあり、画面が真っ赤に点灯したときにボタンを押すと、好物のグレープフルーツジュースが手に入るようになっています。
(略)
当然、サルにとってテレビ画面は生まれて初めて見るものです。目の前のボタンが何の役割をしているのかも知りません。そもそもボタンであるということさえも理解していないのです。
(略)あるとき、偶然にボタンが押されて、おいしいジュースが出てきます。(略)しかし、ボタンを押したからと言って必ずしもジュースにありつけるわけではありません。画面に何も点灯していない時にボタンを押しても、ジュースが出てこないからです。何度か失敗を繰り返すうちに、ようやくこの事実に気付きます。
ついに画面点灯とボタンの関係を理解して、サルの学習が完成します。何十回、何百回という試行錯誤を繰り返して、この課題を記憶するのです。いきなり成功することは、絶対にありません。
(略)つまり、記憶は「失敗」と「繰り返し」によって形成され、強化されるものなのです。
(引用終了)-----------------------------------
という実験の話が出てきます。
ものすごい効率悪い話でしょ?
でも、そういうものなんですよ。
でもね、「誰でも天才になれる」の著者の池谷さんは、こう言うのです。
(引用開始)---------------------------------
サルの学習を早くすることができるのです。
効率的な学習があるのです。
学習の効率化は簡単な事です。手順を分解するのです。
(略)
(この課題が難しいのは)2つの課題があるからです。つまり、「画面点灯とボタン」の関係と、「ボタンとジュース」の関係の2つです。
そこでまず画面の点灯とは関係なく、ボタンを押しさえすればジュースが出るようにして、これを完全に覚えさせます。次にジュースと画面点灯との関係を覚えさせます。
こうすれば、サルの学習が格段に早まります。
(引用終了)---------------------------------
という事なのですね。
わかります?
手順を分解して、まず「簡単な事」を「完全に覚えさせる」のですよ。
で、その方が「学習が格段に早まる」んです。
大事なのはここです。また池谷さんの文章から引用しましょう。
(引用開始)--------------------------
一見、遠回りに感じるかもしれませんが、しっかりと学習手順を踏んだ方が、最終的には失敗の数も少なくて済むのです。ですから、いきなり高度なことに手を出すよりも、
●基礎を身につけてから少しずつ難易度を上げていった
ほうが、結果的には早く習得できるのです。
(引用終了)--------------------------
という事なんですね。
走る練習をする前に、まず、毎日歩こう! という事です。
でね、考えてみると16万センテンスを繰り返したと書きましたけど、これ、実は単に効率悪いだけなんだと思うんです。
多分、発音がまだまだしっかりできてないんだと思う。
音読はしてるけど、課題がしんどいものだから、例文の音源を聞きながらシャドウイングするとか、あんまりしなかったんですよね。音源を聞いて、ちゃんと聞き取るのが手間だし、時間がかかってしまうから。
なので、発音という基礎の基礎のそのまた基礎に戻ってやり直そうと、いまは思ってるのですがね。
多分、その方が効率はいいと思う。
で、まぁ、僕はもう、中学時代から英語が苦手で、その苦手克服のためにひいこら言ってやってるわけなんですが、こういうノウハウっていうのは、何かを苦手な人にでも関係なく学べる、身につけられる方法なわけです。そこが素晴らしいってことなんですね。
で、それとは別に、「才能」ってのはあるんですよ。
これは、この日記では「倫社の帝王」の最初で書いた話ですけど、何かが得意な人って言うのはいてて、そういう人間には努力ってのが不要っちゅう話しなんですわ。
これはいま任天堂のホームページで岩田社長が、「リズム天国」というソフトの開発プロセスをインタビューする「社長が訊く」をやっていて、そこで、「リズム天国」の企画発案者である、つんく♂との対談をやってるんですが、そこでの話が、とても面白い実例でした。
つんく♂って人は、もともと体育会系のノリで、努力の人で、「下手くそでも努力したら身に付く」って言うのが好きな人なわけですけど、そのつんく♂さんが、「太陽とシスコムーン」というユニットをプロデュースしたときの事がすごく面白い。
http://touch-ds.jp/mfs/st95/interview9.html
これも引用します。
(引用開始)-----------------
つんく♂
昔、ぼくが「太陽とシスコムーン」という
4人組のグループをつくったとき、
メンバーのひとりに
体操の元オリンピック選手がいたんですよ。
その子に歌や踊りの基礎を教えてるとき、
ぼくは彼女にこう言ったことがあるんです。
「たとえば何度も何度も反復練習して、
999回目までは、できなかったのに
1000回目でポーンと急に
できるようになることがあるやろ?
それと同じで、歌もリズムも、
何回も何回も練習してたら、
いつかできるようになるときがくる」と。
とくに彼女は厳しい練習をずっとやってきた
オリンピック選手でしたから、
「そういう経験、あったやろ?」と
ぼくは言ったんですけど、ぜんぜん通じなくて、
むしろ、ポカーンとしてるんですよ。
「あったやろ、体操とか、練習して、練習して、
やっとできるようになった技とか、
何回転宙返りみたいなこと、あったやろ?」
って言ったら、彼女は不思議そうに
「私、3、4回でできるんですよ」って言ったんです。
岩田
なるほど(笑)。
つんく♂
ああ、そうや、天才っていうのは
そういうことなんやなと思って。
ふつうの苦労とかないんやと思って。
もちろん、天才としてのジレンマとは
闘うとは思いますけど。
岩田
どうしてできるようになったかを
うまく説明できないわけですね。
つんく♂
そうなんです。
だから、人がやってるのを見るじゃないですか。
先輩とか世界のトップアスリートを見て、
イメージができたら、自分でやってみる。
で、何回かやってみたらできるんですって。
ああ、そうかぁって思うんですよね(笑)。
ほかの、苦労してきた女の子たちっていうのは、
ぼくの言ってることがわかるんです。
アイドルを目指してる子とか、
でも‥‥。
岩田
天才には教えられない(笑)。
つんく♂
そうなんです。
あと、教えるのもきっと苦手でしょうね。
「なんでできへんの?」
っていうことになりますから。
ぼくらは、できへんところから入って
うまくなっていこうという意識が強いから、
「まぁ、モーニング娘。くらいまでには
踊れるようになるよ」という気持ちなんですね。
(引用終了)-----------------
という話でして。
この話で大事なのは、「三四回で覚えられる」のが才能なのだって事です。
逆に言うなら、三四回で習得できない分野は、才能ないんだから、即、基礎からやりなおしというスタンスに切り換えろ、って事ですね。
ここがものすごく大事。
あと、三四回で覚えられる人は別格の人なんだから、それを普通人の感覚でいじめちゃダメだよってのもあるけど、で、天才の言う事は理解できんでも事実やねんから、それはそのまま事実として受け取れ!というのもあるけど、まぁそれはいいや。
倫社の帝王でも書きましたけど、僕は倫社に関しては学校の授業だけで、全部頭に入っちゃった人ですから。それで一切の予習復習なしに、クラス平均20点くらいのテストで90点を取ったわけですから。そういう方面の(つまり受験の役に立たない才能:笑)才能はあったし、才能のある人間というのは、まぁ普通にいてるんだって事ですよ。
で、それは、クラス平均20点の時に90点とかのはっきりした差なわけです。だから、そういう差がない時は、即座に「基礎」!
もう、基礎ったら基礎!
何があったって基礎!
っちゅう話ですね。
で、それは、ようするに「効率が悪いから、基礎からやりなさい。」っちゅう話なわけです。
足し算が出来てないのに、かけ算を勉強しても意味ないんですよね。
でも、人間はどうしても、そういうムダをしてしまう。
かく言う私も、多分16万センテンスも音読しなくても、先に発音をしっかりやるとか、中学英語の基礎単語集みたいなのをしっかりやる、みたいな事を、もっともっとしっかりやってれば、16万が3万くらいで済んだと思うのですよね。
これは本当につくづく思う。
特に、人生後半に入ってからというのは、時間がない。だから本当に効率的に学ぶ学び方を、身につけないといけないんですよね。
それを本当に思うなぁ。
で、英語とかを学習する以前に、実は、アダルトチルドレンみたいな「考え方のクセ」を修復することの方が、より基礎的な項目だし、そういう考え方のクセを直すより先に、「早起きする」とかの生活態度が、より基本として重要なんですけど、それはまた別の話なので、また今度。
ま、とにかく、「ステップを戻す」という事が、いかに重要かって事が私は言いたかったのであります。
はい。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641574/503-1393334-5299133
の紹介文なんですが、まぁ大きくは「学ぶ」という事に関する概要的な内容であります。
けっこう面白い話が入ってると思うので、良かったらお読みくださいまし。
------------------------
えー、「スラスラ」の前に「どんどん」の話。
2007年10月20日の日記で紹介しました「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」。
2007/10/20●後退することが、実は進歩だったりする。
http://diarynote.jp/d/12917/20071020.html
「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
この本を一冊仕上げてから、英語の文法が嫌ではなくなってきたんですねぇ。面白いなぁ。
この「どんどん」って本は、中学レベルの文法項目に沿って例文が10個並んでるだけの本なんですよね。現在完了だとか不定詞だとか。そういう文法項目が80項目あって、それぞれに和文と英文が10文ずつ左右に並んでるだけなんです。
で、この800文をひたすら「日本語を見て、英文を作る」作業を繰り返し、英文を音読して体に落とし込む作業を去年、半年かけてやりました。見開きごとになめらかになるまでやって、どの見開きも、20回くらいはやり直したんじゃないかしらん。一回あたりにどの文も最低でも10回は音読したと思うので、16万センテンスを口にしたことになります。わっ書いてて自分でびっくりした。
で、次に何をやったら良いのかわからなかったんですけど、とりあえず、この本の続編である最初に紹介した、「スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング」ってのをやってみたわけです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641574/503-1393334-5299133
こっちの方はタイトルに「シャッフル」ってあるように、文法項目に沿わずにランダムに文章がならんでるんですね。だから同じような文章を作るのに比べると、けっこうしんどいわけです。
なので、実は数ヶ月手を出さなかったんですよね。でも、5月にちょっとやってみたら、これが意外に、ちゃんとできる。
いやぁ、うれしいなぁ。
で、実は、そんなに「しんどい」とも感じない訳ですよ。ある程度は構文が体に入ってるから。逆に楽しいって感じる。
これはすごいなぁって思いまして。
この本の著者の森沢洋介さんの言葉を、そのまま引用しますと、
(引用開始)-----------------------
このように、トレーニングというものは、基本過程をしっかりやっておくと後に行くほど、しんどさが減り、楽しくなっていくものです。
(引用終了)-----------------------
ってなってるんですけど、まさにそうなんですよねぇ。
書いてあることが書いてある通りに起こると、実にうれしい感じです。
やっぱりそうなんやなぁ。ほんまやったんや。
という感じです。
というのは、体に「構文ごとの例文」が入ってると、いろいろな文法書を読むのも楽しくなってくるとわかった、という事も影響してるんです。文法書を読んでも書いてある意味が体とか感覚とかで分るんです。だから読んでいて面白い。
実は、一年ほど前に、英文法に関する名著と言われる「英文法TRYAGAIN」を、
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4875685831/503-1393334-5299133
買ったんですが、これが読めなかった。もう全然面白くないわけです。書いてある意味は分るけど、「ああ、そういうことね」という腑に落ちる感覚がない。
そらおもろないですわな。
なので、本棚で眠ったままだったんですが、いまこれを再読してみると、実に面白いわけです。
「えー? なんやこれ。全然違うやん!」って感じなんですね。
こらすごい。
やっぱり、学習には手順があって、そのステップを踏まないとわからないものなんだなぁって事なんですよ。
で、このあたりの話は、先日書いた「6月に読んだ本」
http://diarynote.jp/d/12917/20080721.html
でも紹介しましたけど、効率的な勉強法の本、
●誰でも天才になれる科学的な勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062034/249-9767057-8485143
にも書いてあって、そうやねぇとしみじみ思うのです。
この「誰でも天才」で紹介されていたのは、サルにジュースを与える実験の話でして、
(引用開始)---------------------------
何も映ってないテレビの画面をサルに見せます。画面の脇にはボタンがあり、画面が真っ赤に点灯したときにボタンを押すと、好物のグレープフルーツジュースが手に入るようになっています。
(略)
当然、サルにとってテレビ画面は生まれて初めて見るものです。目の前のボタンが何の役割をしているのかも知りません。そもそもボタンであるということさえも理解していないのです。
(略)あるとき、偶然にボタンが押されて、おいしいジュースが出てきます。(略)しかし、ボタンを押したからと言って必ずしもジュースにありつけるわけではありません。画面に何も点灯していない時にボタンを押しても、ジュースが出てこないからです。何度か失敗を繰り返すうちに、ようやくこの事実に気付きます。
ついに画面点灯とボタンの関係を理解して、サルの学習が完成します。何十回、何百回という試行錯誤を繰り返して、この課題を記憶するのです。いきなり成功することは、絶対にありません。
(略)つまり、記憶は「失敗」と「繰り返し」によって形成され、強化されるものなのです。
(引用終了)-----------------------------------
という実験の話が出てきます。
ものすごい効率悪い話でしょ?
でも、そういうものなんですよ。
でもね、「誰でも天才になれる」の著者の池谷さんは、こう言うのです。
(引用開始)---------------------------------
サルの学習を早くすることができるのです。
効率的な学習があるのです。
学習の効率化は簡単な事です。手順を分解するのです。
(略)
(この課題が難しいのは)2つの課題があるからです。つまり、「画面点灯とボタン」の関係と、「ボタンとジュース」の関係の2つです。
そこでまず画面の点灯とは関係なく、ボタンを押しさえすればジュースが出るようにして、これを完全に覚えさせます。次にジュースと画面点灯との関係を覚えさせます。
こうすれば、サルの学習が格段に早まります。
(引用終了)---------------------------------
という事なのですね。
わかります?
手順を分解して、まず「簡単な事」を「完全に覚えさせる」のですよ。
で、その方が「学習が格段に早まる」んです。
大事なのはここです。また池谷さんの文章から引用しましょう。
(引用開始)--------------------------
一見、遠回りに感じるかもしれませんが、しっかりと学習手順を踏んだ方が、最終的には失敗の数も少なくて済むのです。ですから、いきなり高度なことに手を出すよりも、
●基礎を身につけてから少しずつ難易度を上げていった
ほうが、結果的には早く習得できるのです。
(引用終了)--------------------------
という事なんですね。
走る練習をする前に、まず、毎日歩こう! という事です。
でね、考えてみると16万センテンスを繰り返したと書きましたけど、これ、実は単に効率悪いだけなんだと思うんです。
多分、発音がまだまだしっかりできてないんだと思う。
音読はしてるけど、課題がしんどいものだから、例文の音源を聞きながらシャドウイングするとか、あんまりしなかったんですよね。音源を聞いて、ちゃんと聞き取るのが手間だし、時間がかかってしまうから。
なので、発音という基礎の基礎のそのまた基礎に戻ってやり直そうと、いまは思ってるのですがね。
多分、その方が効率はいいと思う。
で、まぁ、僕はもう、中学時代から英語が苦手で、その苦手克服のためにひいこら言ってやってるわけなんですが、こういうノウハウっていうのは、何かを苦手な人にでも関係なく学べる、身につけられる方法なわけです。そこが素晴らしいってことなんですね。
で、それとは別に、「才能」ってのはあるんですよ。
これは、この日記では「倫社の帝王」の最初で書いた話ですけど、何かが得意な人って言うのはいてて、そういう人間には努力ってのが不要っちゅう話しなんですわ。
これはいま任天堂のホームページで岩田社長が、「リズム天国」というソフトの開発プロセスをインタビューする「社長が訊く」をやっていて、そこで、「リズム天国」の企画発案者である、つんく♂との対談をやってるんですが、そこでの話が、とても面白い実例でした。
つんく♂って人は、もともと体育会系のノリで、努力の人で、「下手くそでも努力したら身に付く」って言うのが好きな人なわけですけど、そのつんく♂さんが、「太陽とシスコムーン」というユニットをプロデュースしたときの事がすごく面白い。
http://touch-ds.jp/mfs/st95/interview9.html
これも引用します。
(引用開始)-----------------
つんく♂
昔、ぼくが「太陽とシスコムーン」という
4人組のグループをつくったとき、
メンバーのひとりに
体操の元オリンピック選手がいたんですよ。
その子に歌や踊りの基礎を教えてるとき、
ぼくは彼女にこう言ったことがあるんです。
「たとえば何度も何度も反復練習して、
999回目までは、できなかったのに
1000回目でポーンと急に
できるようになることがあるやろ?
それと同じで、歌もリズムも、
何回も何回も練習してたら、
いつかできるようになるときがくる」と。
とくに彼女は厳しい練習をずっとやってきた
オリンピック選手でしたから、
「そういう経験、あったやろ?」と
ぼくは言ったんですけど、ぜんぜん通じなくて、
むしろ、ポカーンとしてるんですよ。
「あったやろ、体操とか、練習して、練習して、
やっとできるようになった技とか、
何回転宙返りみたいなこと、あったやろ?」
って言ったら、彼女は不思議そうに
「私、3、4回でできるんですよ」って言ったんです。
岩田
なるほど(笑)。
つんく♂
ああ、そうや、天才っていうのは
そういうことなんやなと思って。
ふつうの苦労とかないんやと思って。
もちろん、天才としてのジレンマとは
闘うとは思いますけど。
岩田
どうしてできるようになったかを
うまく説明できないわけですね。
つんく♂
そうなんです。
だから、人がやってるのを見るじゃないですか。
先輩とか世界のトップアスリートを見て、
イメージができたら、自分でやってみる。
で、何回かやってみたらできるんですって。
ああ、そうかぁって思うんですよね(笑)。
ほかの、苦労してきた女の子たちっていうのは、
ぼくの言ってることがわかるんです。
アイドルを目指してる子とか、
でも‥‥。
岩田
天才には教えられない(笑)。
つんく♂
そうなんです。
あと、教えるのもきっと苦手でしょうね。
「なんでできへんの?」
っていうことになりますから。
ぼくらは、できへんところから入って
うまくなっていこうという意識が強いから、
「まぁ、モーニング娘。くらいまでには
踊れるようになるよ」という気持ちなんですね。
(引用終了)-----------------
という話でして。
この話で大事なのは、「三四回で覚えられる」のが才能なのだって事です。
逆に言うなら、三四回で習得できない分野は、才能ないんだから、即、基礎からやりなおしというスタンスに切り換えろ、って事ですね。
ここがものすごく大事。
あと、三四回で覚えられる人は別格の人なんだから、それを普通人の感覚でいじめちゃダメだよってのもあるけど、で、天才の言う事は理解できんでも事実やねんから、それはそのまま事実として受け取れ!というのもあるけど、まぁそれはいいや。
倫社の帝王でも書きましたけど、僕は倫社に関しては学校の授業だけで、全部頭に入っちゃった人ですから。それで一切の予習復習なしに、クラス平均20点くらいのテストで90点を取ったわけですから。そういう方面の(つまり受験の役に立たない才能:笑)才能はあったし、才能のある人間というのは、まぁ普通にいてるんだって事ですよ。
で、それは、クラス平均20点の時に90点とかのはっきりした差なわけです。だから、そういう差がない時は、即座に「基礎」!
もう、基礎ったら基礎!
何があったって基礎!
っちゅう話ですね。
で、それは、ようするに「効率が悪いから、基礎からやりなさい。」っちゅう話なわけです。
足し算が出来てないのに、かけ算を勉強しても意味ないんですよね。
でも、人間はどうしても、そういうムダをしてしまう。
かく言う私も、多分16万センテンスも音読しなくても、先に発音をしっかりやるとか、中学英語の基礎単語集みたいなのをしっかりやる、みたいな事を、もっともっとしっかりやってれば、16万が3万くらいで済んだと思うのですよね。
これは本当につくづく思う。
特に、人生後半に入ってからというのは、時間がない。だから本当に効率的に学ぶ学び方を、身につけないといけないんですよね。
それを本当に思うなぁ。
で、英語とかを学習する以前に、実は、アダルトチルドレンみたいな「考え方のクセ」を修復することの方が、より基礎的な項目だし、そういう考え方のクセを直すより先に、「早起きする」とかの生活態度が、より基本として重要なんですけど、それはまた別の話なので、また今度。
ま、とにかく、「ステップを戻す」という事が、いかに重要かって事が私は言いたかったのであります。
はい。
エコほど怪しい主張はない。
2008年7月29日
偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書 (た-5-1))
By 武田 邦彦
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980808/503-1393334-5299133
いやー、もうね、みなさん、この本はぜひとも読んでください。
アホらしいてエコなんてやってられませんわ、ちゅう話ですから。
著者は「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」の武田邦彦さん。「なぜウソが」より、こっちの本の方が、いろいろな問題が整理して書かれているので分りやすいし、納得もしやすいです。
本の構成としては、
(1)世に言われる「環境に良い」とする行動
→検証:良いか悪いかの判定
(2)その細目解説
という構造になっていまして、
●レジ袋を使わない→ただのエゴ
●割り箸を使わずマイ箸を持つ→ただのエゴ
●ペットボトルより水道水を飲む→悩ましい
●ハウス野菜・養殖魚を買わない→ただのエゴ
●石油をやめバイオエタノールに→ただのエゴ
●温暖化はCO2削減努力で防げる→防げない
●冷房28℃の設定で温暖化防止→意味なし
●温暖化で世界は水浸しになる→ならない
●ダイオキシンは有害だ→危なくない
●狂牛病は恐ろしい→危なくない
●生ゴミを堆肥にする→危ない
●プラスチックをリサイクル→危ない
●洗剤より石鹸をつかう→よくない
●無毒・無菌が安全→危ない
●古紙のリサイクル→よくない
●牛乳パックのリサイクル→意味なし
●ペットボトルのリサイクル→よくない
●アルミ缶のリサイクル→地球に優しい
●空き瓶のリサイクル→よくない
●食品トレイのリサイクル→よくない
●ゴミの分別→意味なし
と、これだけの項目を検証した上でダメの判定を出してます。
まえに、「バカの壁」がダメダメの本だという話を書きましたが、あの本の中で養老孟司氏は「官僚が科学的検証もせずに温暖化対策のためにCO2削減と言うのはおかしい。まず、科学的に確かめてから動け」みたいな事を言ってたんですよね。で、僕はそれを読んで「アホか、こいつは。それを科学的な数値で『それは間違っている』と判定するのが科学者の役目やんけ。そういう事を言いたいなら自分で数字や論文を出せ。官僚は政治的に決定したことしか出けへんのや。そういう役割違いの事を言うな。」と思ったわけです。
でも、この武田邦彦さんは違いますね。ちゃんと自分で数字を調べてきて、「これがこの数字で、こういう分布になるのだから、意味はない。」という事をキチンとやってます。これこそ科学者です。自分のやるべき事をやっている。正しい。そういう意味で、まず大きなところで信用できる人です。
ただまぁ、ちょっと個人的主張も入ってる感じはありますけどね。でもおおむね正しい。
それと、環境問題に関しては「地球の温暖化は悪いことではない」とする派の人もいますが、武田邦彦さんは、そこのところまではあんまり調べてない感じですなぁ。「温暖化するのはよろしくないが」という立場に立っておられる。
あと、その主張自体が本当に正当なのかどうかが不明なIPCC(気候変動に関する政府間パネル:Intergovernmental Panel on Climate Change) も無条件に信用してる節がありますね、武田邦彦さんは。でもまぁ、そのあたりは小さな問題か。
武田邦彦さんは、どうやらもともとの専門分野が資源材料工学でありますから、レジ袋の削減に関する記述なんか、もう実に見事です。
引用すると長くなるので、要約しますと、もともと石油はそのままの成分で燃やして活用していたと。で、それでは煙もすごいからと成分を分けて使うようになったと。で、省いた素材は焼却処分していたのだそうです。
しかし、それがムダだから、何か活用方法はないのか? という事で、あのレジ袋が生まれたんだそうです。だから発電したり、プラスチック製品を作ったり、車を走らせてる限りは必然的にその「余り」が出るわけですから、上手に活用すれば良い、という事にしかならないわけです。
つまり豆腐とオカラの関係なわけですから、豆腐の消費量を減らさなければ、オカラの削減はできまへんって事なわけです。
それをどういうことか、どこでも「レジ袋不要運動」とかやって環境に良いとか言ってるわけですな。ものすごく無意味です。いくらレジ袋を使うのをやめても、石油活用の程度が変わらないのなら、同じだけの「あまり」が出ますからな。
で、結局、モノを買うという事は、必然的に「捨てる」と言うこともするわけで、レジ袋は家庭内のゴミ箱用ゴミ袋、ゴミ出し用ゴミ袋として活用されます。必要なものは必要だから、結局それはお金を出して買うわけで、得をするのはスーパーだけです。いままで無料で配ってた袋を有料で売り、しかもエコバッグとかいうおかしなものまで売りつけられる。ものすごく得です。実にあほくさい。
しかも!ですよ。焼却する際に高温で焼かないと一酸化炭素とか良くないガスが出るわけですが、そのためには水分を含んだ生ゴミを燃やすのは効率悪いわけです。そう言うときに、レジ袋にくるまっていたらより効率的に燃えるのですな。
いまは、高性能焼却炉の技術がすごく発達していて、家庭用のゴミを全部まとめて焼却しても、
●二酸化炭素と水の気体
●灰(飛び灰:水銀・鉛・カドミウム・ヒ素)
●スラグ(土の成分)
●メタル(銅・鉄など)
の4つの成分にキチンと分かれるそうです。
下手なリサイクルとかをするより、こうした廃棄物は燃やした方が管理も的確で安全だそうです。家庭用生ゴミをリサイクルして、堆肥にして、変な毒性の物質がたくさん土壌に蓄積する方が怖い、家電リサイクルもその法の隙間をついて、中古品が処分能力もない海外に流れてしまっては、そっちの方が問題と武田邦彦さんはおっしゃる。
こういう法規制というのは、官僚が「政治(一般大衆の支持)」で決めてるところが大きくて、ダイオキシンだって、別にさほど危ないわけでもないのに「危険をあおる」のが好きなマスコミが騒いだせいで規制する法律が出来てしまったという事な訳です。
まぁ、そういう規制があると、それで企業も儲かる部分がありますからなぁ。持ちつ持たれつって事になるのかも知れませんが。
ともあれ、前から僕が書いてたように、「環境問題は政治問題」であるという事を、科学者の立場から「それはおかしい」と明確にしてくれている、という点で、この本は実によろしいのであります。
世間で「常識」が生まれてる時に、「ちょっと待て。そんなおかしな『常識』はなかろう」と警告を出すのは素晴らしいと思います。人間って回りに流されやすいですからね。
この本、後半数十頁は、武田邦彦さんの、地球規模を見据えた哲学というか考え方をまとめた論文というかエッセイになっていて、その一節に、
●心が満足していれば、物を買わなくても、充実した毎日が送れる。
という結論が書いてあって、「ああ、素晴らしい!」と思うのでありますよ。
これは、なかなかに良いから、ちょっと引用しましょう。
(引用開始)-------------------------------------------
「ところで、先生は結局どうしたらよいと思いますか?」と、環境の講演をするとよく聞かれます。そんなとき、私は、
「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる。もし好きな人がいなければ、電気街に行ってパソコンを山ほど買い、一人で家にこもるしかない。」
と答える事にしています。
要は、心が満足すれば人間はそれほど多くの物を必要としませんが、心が貧弱であれば何とかして心の隙間を物で埋めようとします。物が増えるというのは、(略)現代社会が人間的ではなく、生きがいを見つけにくく、心が満足しないことが原因していると私は感じています。
(中略)
リユースする、リサイクルするというのは、目の前にある物が気になって仕方ないからです。新しい物を買いたい、でも何となく環境も気になる、それならリサイクルをすると言えば、心が軽くなるから新しい物を買うことができる…そういう心の動きになるのです。
(引用終了)-------------------------------------------
という話。
まさにこれだなぁって思うのです。物を買うから捨てなければならなくなるわけです。できるだけ買わないようにすればいいんです。
前に携帯の電池が悪くなって買い換えたんですが、そういう時って前の古い携帯はそのまま手元に残るんですよね。「キカイ」として、「モノ」としては手元に残る。
これが私は、なかなか捨てられない人でねぇ。だから、できるだけ新しいキカイは買わないように、買わないようにしてるんです。テレビだっていまだにブラウン管式の小さなものしか持ってません。それで充分だし。十分だよテレビなんか。アホと貧乏人が見る道具でしかないって思ってるし。(賢い使い方・見方はあるんでしょうけど。)
そんなこんなを考えると、日本人の6割がアダルトチルドレンだとか言われてるし、みんな「モノ依存」してるのかもなぁ、とかも思います。
エコを言う前に、まずモノを買わない。で、モノを買う前に自分の心をキチンと覗く。そして、まず「自分」を大切にして、精神的満足感を得る。これが大事でしょうねぇ。本当にそう思いますですよ。
ま、そういう事まで考えさせられる良書でありました。おすすめです。
By 武田 邦彦
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980808/503-1393334-5299133
いやー、もうね、みなさん、この本はぜひとも読んでください。
アホらしいてエコなんてやってられませんわ、ちゅう話ですから。
著者は「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」の武田邦彦さん。「なぜウソが」より、こっちの本の方が、いろいろな問題が整理して書かれているので分りやすいし、納得もしやすいです。
本の構成としては、
(1)世に言われる「環境に良い」とする行動
→検証:良いか悪いかの判定
(2)その細目解説
という構造になっていまして、
●レジ袋を使わない→ただのエゴ
●割り箸を使わずマイ箸を持つ→ただのエゴ
●ペットボトルより水道水を飲む→悩ましい
●ハウス野菜・養殖魚を買わない→ただのエゴ
●石油をやめバイオエタノールに→ただのエゴ
●温暖化はCO2削減努力で防げる→防げない
●冷房28℃の設定で温暖化防止→意味なし
●温暖化で世界は水浸しになる→ならない
●ダイオキシンは有害だ→危なくない
●狂牛病は恐ろしい→危なくない
●生ゴミを堆肥にする→危ない
●プラスチックをリサイクル→危ない
●洗剤より石鹸をつかう→よくない
●無毒・無菌が安全→危ない
●古紙のリサイクル→よくない
●牛乳パックのリサイクル→意味なし
●ペットボトルのリサイクル→よくない
●アルミ缶のリサイクル→地球に優しい
●空き瓶のリサイクル→よくない
●食品トレイのリサイクル→よくない
●ゴミの分別→意味なし
と、これだけの項目を検証した上でダメの判定を出してます。
まえに、「バカの壁」がダメダメの本だという話を書きましたが、あの本の中で養老孟司氏は「官僚が科学的検証もせずに温暖化対策のためにCO2削減と言うのはおかしい。まず、科学的に確かめてから動け」みたいな事を言ってたんですよね。で、僕はそれを読んで「アホか、こいつは。それを科学的な数値で『それは間違っている』と判定するのが科学者の役目やんけ。そういう事を言いたいなら自分で数字や論文を出せ。官僚は政治的に決定したことしか出けへんのや。そういう役割違いの事を言うな。」と思ったわけです。
でも、この武田邦彦さんは違いますね。ちゃんと自分で数字を調べてきて、「これがこの数字で、こういう分布になるのだから、意味はない。」という事をキチンとやってます。これこそ科学者です。自分のやるべき事をやっている。正しい。そういう意味で、まず大きなところで信用できる人です。
ただまぁ、ちょっと個人的主張も入ってる感じはありますけどね。でもおおむね正しい。
それと、環境問題に関しては「地球の温暖化は悪いことではない」とする派の人もいますが、武田邦彦さんは、そこのところまではあんまり調べてない感じですなぁ。「温暖化するのはよろしくないが」という立場に立っておられる。
あと、その主張自体が本当に正当なのかどうかが不明なIPCC(気候変動に関する政府間パネル:Intergovernmental Panel on Climate Change) も無条件に信用してる節がありますね、武田邦彦さんは。でもまぁ、そのあたりは小さな問題か。
武田邦彦さんは、どうやらもともとの専門分野が資源材料工学でありますから、レジ袋の削減に関する記述なんか、もう実に見事です。
引用すると長くなるので、要約しますと、もともと石油はそのままの成分で燃やして活用していたと。で、それでは煙もすごいからと成分を分けて使うようになったと。で、省いた素材は焼却処分していたのだそうです。
しかし、それがムダだから、何か活用方法はないのか? という事で、あのレジ袋が生まれたんだそうです。だから発電したり、プラスチック製品を作ったり、車を走らせてる限りは必然的にその「余り」が出るわけですから、上手に活用すれば良い、という事にしかならないわけです。
つまり豆腐とオカラの関係なわけですから、豆腐の消費量を減らさなければ、オカラの削減はできまへんって事なわけです。
それをどういうことか、どこでも「レジ袋不要運動」とかやって環境に良いとか言ってるわけですな。ものすごく無意味です。いくらレジ袋を使うのをやめても、石油活用の程度が変わらないのなら、同じだけの「あまり」が出ますからな。
で、結局、モノを買うという事は、必然的に「捨てる」と言うこともするわけで、レジ袋は家庭内のゴミ箱用ゴミ袋、ゴミ出し用ゴミ袋として活用されます。必要なものは必要だから、結局それはお金を出して買うわけで、得をするのはスーパーだけです。いままで無料で配ってた袋を有料で売り、しかもエコバッグとかいうおかしなものまで売りつけられる。ものすごく得です。実にあほくさい。
しかも!ですよ。焼却する際に高温で焼かないと一酸化炭素とか良くないガスが出るわけですが、そのためには水分を含んだ生ゴミを燃やすのは効率悪いわけです。そう言うときに、レジ袋にくるまっていたらより効率的に燃えるのですな。
いまは、高性能焼却炉の技術がすごく発達していて、家庭用のゴミを全部まとめて焼却しても、
●二酸化炭素と水の気体
●灰(飛び灰:水銀・鉛・カドミウム・ヒ素)
●スラグ(土の成分)
●メタル(銅・鉄など)
の4つの成分にキチンと分かれるそうです。
下手なリサイクルとかをするより、こうした廃棄物は燃やした方が管理も的確で安全だそうです。家庭用生ゴミをリサイクルして、堆肥にして、変な毒性の物質がたくさん土壌に蓄積する方が怖い、家電リサイクルもその法の隙間をついて、中古品が処分能力もない海外に流れてしまっては、そっちの方が問題と武田邦彦さんはおっしゃる。
こういう法規制というのは、官僚が「政治(一般大衆の支持)」で決めてるところが大きくて、ダイオキシンだって、別にさほど危ないわけでもないのに「危険をあおる」のが好きなマスコミが騒いだせいで規制する法律が出来てしまったという事な訳です。
まぁ、そういう規制があると、それで企業も儲かる部分がありますからなぁ。持ちつ持たれつって事になるのかも知れませんが。
ともあれ、前から僕が書いてたように、「環境問題は政治問題」であるという事を、科学者の立場から「それはおかしい」と明確にしてくれている、という点で、この本は実によろしいのであります。
世間で「常識」が生まれてる時に、「ちょっと待て。そんなおかしな『常識』はなかろう」と警告を出すのは素晴らしいと思います。人間って回りに流されやすいですからね。
この本、後半数十頁は、武田邦彦さんの、地球規模を見据えた哲学というか考え方をまとめた論文というかエッセイになっていて、その一節に、
●心が満足していれば、物を買わなくても、充実した毎日が送れる。
という結論が書いてあって、「ああ、素晴らしい!」と思うのでありますよ。
これは、なかなかに良いから、ちょっと引用しましょう。
(引用開始)-------------------------------------------
「ところで、先生は結局どうしたらよいと思いますか?」と、環境の講演をするとよく聞かれます。そんなとき、私は、
「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる。もし好きな人がいなければ、電気街に行ってパソコンを山ほど買い、一人で家にこもるしかない。」
と答える事にしています。
要は、心が満足すれば人間はそれほど多くの物を必要としませんが、心が貧弱であれば何とかして心の隙間を物で埋めようとします。物が増えるというのは、(略)現代社会が人間的ではなく、生きがいを見つけにくく、心が満足しないことが原因していると私は感じています。
(中略)
リユースする、リサイクルするというのは、目の前にある物が気になって仕方ないからです。新しい物を買いたい、でも何となく環境も気になる、それならリサイクルをすると言えば、心が軽くなるから新しい物を買うことができる…そういう心の動きになるのです。
(引用終了)-------------------------------------------
という話。
まさにこれだなぁって思うのです。物を買うから捨てなければならなくなるわけです。できるだけ買わないようにすればいいんです。
前に携帯の電池が悪くなって買い換えたんですが、そういう時って前の古い携帯はそのまま手元に残るんですよね。「キカイ」として、「モノ」としては手元に残る。
これが私は、なかなか捨てられない人でねぇ。だから、できるだけ新しいキカイは買わないように、買わないようにしてるんです。テレビだっていまだにブラウン管式の小さなものしか持ってません。それで充分だし。十分だよテレビなんか。アホと貧乏人が見る道具でしかないって思ってるし。(賢い使い方・見方はあるんでしょうけど。)
そんなこんなを考えると、日本人の6割がアダルトチルドレンだとか言われてるし、みんな「モノ依存」してるのかもなぁ、とかも思います。
エコを言う前に、まずモノを買わない。で、モノを買う前に自分の心をキチンと覗く。そして、まず「自分」を大切にして、精神的満足感を得る。これが大事でしょうねぇ。本当にそう思いますですよ。
ま、そういう事まで考えさせられる良書でありました。おすすめです。
今月は、先月読んだ本をまとめるのが、無茶苦茶に遅くなってしまいました。読んだのは以下の10冊。順番は特にありません。内容の似たものを、まとめて紹介します。
(1)誰でも天才になれる科学的な勉強法
(2)なぜ日本人は学ばなくなったのか
(3)大人の英語教室
(4)寝る前30分を変えなさい
(5)朝ノートの魔法
(6)朝日記の奇跡
(7)仕事ができる人は何故筋トレをするのか
(8)レバレッジ人脈術
(9)宇宙に上手にお願いする方法
(10)宇宙にもっと上手にお願いする方法
[勉強関連]--------------------
●誰でも天才になれる科学的な勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062034/249-9767057-8485143
学習する方法というのを考えるのに、ぜひ読んでおくべきだ! と思ったのが、この本。脳学者(とでも言うのか?)で人気の池谷裕二さんの著書。この人の本は何冊か読んでますが、この本がベストでしょうね。「進化した脳」とか「海馬」とか、あんまり面白くなかった。
この本には具体的に「どういう勉強の仕方が、もっとも効率的か」ということがわかりやすく書いてあるのがいいです。
まぁ、ひたすら復習なんですけどね。
高校生向けに書かれているし、受験生には必読。親も読んだ方が良いでしょう。
95頁しかない薄さで、たった715円なのだから、アマゾンで取り寄せても読むべき本でしょう。日本人全員必読の書、という事にしてもまぁ良いです。
この本も勝間和代さんのお勧め本なんだよなぁ。さすがに勝間さん、大事な本はキチンと押えている。
●なぜ日本人は学ばなくなったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062879433/249-9767057-8485143
これは前に感想を書きましたが、またあらためて。齋藤さんの本はどれも好き。
●大人の英語教室
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4413009428/249-9767057-8485143
この本は英語の文法を学ぶための副読本というような本です。たった500円ですが、僕としては、ものすごく学ぶところの多い本でしたね。
ただ、中学英語の基礎的な英文法をキチンとやってないと、この本だけ読んでも、よけいこんがらがるだけかも知れません。
前に「現在完了ってネーミングが間違ってるよなぁ」と言う話を書きましたが、
http://diarynote.jp/d/12917/20071101.html
この本の著者の鬼塚 幹彦さんは、まさにそういう事をよくわかってる人で「文法は、英語を理解するための道具にしかすぎないのだから、あるものを上手に使えば良いのです。世間に流通している言葉があるなら、それを使った方が簡単。道具と割り切りましょう。」というような趣旨の事を書かれていて。「そりゃそうだ」と深く納得しました。
とまぁようするに、そういう初学者が気になる点や、ひっかかってしまうような事をポイントを押えて書かれていて、実に有り難かったのです。
中学英語の文法を一通り復習した後に、この本を読むと、すごく良いと思います。
[朝・早起き関連]-------------------------
●寝る前30分を変えなさい
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4584130744/249-9767057-8485143
●朝ノートの魔法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4562041420/503-1393334-5299133
●朝日記の奇跡
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4820716484/503-1393334-5299133
最近、朝にキチンと起きようと努力してまして、なんとか6時台には安定して起きれるようになってきたので、「朝の時間の活用法」の本を集中して読んでおるのであります。どの本も、まぁまぁ面白かったです。
読んだら実践する。
それが大事ですわね。
[その他]---------------------------------
●仕事ができる人は何故筋トレをするのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980867/503-1393334-5299133
という事で分類に入らない本です。筋トレをやりましょう! という啓蒙書ですね。一時期筋トレはけっこうやってたんですが、半年ほどブランクが空いてしまったので、とりあえず腕立て伏せから、またやりなおす事にしました。筋トレは家の中でいつでも出来るのが良いですね。
●レバレッジ人脈術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4478002754/503-1393334-5299133
これは、例の如くレバレッジシリーズの本田直之さんの本。
えー、いろいろ面白いですが、とりたてて紹介するような内容があったわけでもないでしょう。実に面白い考え方をいくつも提案されてますので、「人脈」というものに興味を持たれている方はぜひ。
●宇宙に上手にお願いする方法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763197371/503-1393334-5299133
●宇宙にもっと上手にお願いする方法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763198106/503-1393334-5299133
えー、例のごとく、「引き寄せの法則」みたいな話の本です。正編と続編ってところ。
僕は個人的に、この手の本が好きなんですけど、まぁ、趣味みたいなもんですね。面白い本ですが、超強力にプッシュするほどの本でもないかなぁ。
今月はこんなところでした。
(1)誰でも天才になれる科学的な勉強法
(2)なぜ日本人は学ばなくなったのか
(3)大人の英語教室
(4)寝る前30分を変えなさい
(5)朝ノートの魔法
(6)朝日記の奇跡
(7)仕事ができる人は何故筋トレをするのか
(8)レバレッジ人脈術
(9)宇宙に上手にお願いする方法
(10)宇宙にもっと上手にお願いする方法
[勉強関連]--------------------
●誰でも天才になれる科学的な勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062034/249-9767057-8485143
学習する方法というのを考えるのに、ぜひ読んでおくべきだ! と思ったのが、この本。脳学者(とでも言うのか?)で人気の池谷裕二さんの著書。この人の本は何冊か読んでますが、この本がベストでしょうね。「進化した脳」とか「海馬」とか、あんまり面白くなかった。
この本には具体的に「どういう勉強の仕方が、もっとも効率的か」ということがわかりやすく書いてあるのがいいです。
まぁ、ひたすら復習なんですけどね。
高校生向けに書かれているし、受験生には必読。親も読んだ方が良いでしょう。
95頁しかない薄さで、たった715円なのだから、アマゾンで取り寄せても読むべき本でしょう。日本人全員必読の書、という事にしてもまぁ良いです。
この本も勝間和代さんのお勧め本なんだよなぁ。さすがに勝間さん、大事な本はキチンと押えている。
●なぜ日本人は学ばなくなったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062879433/249-9767057-8485143
これは前に感想を書きましたが、またあらためて。齋藤さんの本はどれも好き。
●大人の英語教室
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4413009428/249-9767057-8485143
この本は英語の文法を学ぶための副読本というような本です。たった500円ですが、僕としては、ものすごく学ぶところの多い本でしたね。
ただ、中学英語の基礎的な英文法をキチンとやってないと、この本だけ読んでも、よけいこんがらがるだけかも知れません。
前に「現在完了ってネーミングが間違ってるよなぁ」と言う話を書きましたが、
http://diarynote.jp/d/12917/20071101.html
この本の著者の鬼塚 幹彦さんは、まさにそういう事をよくわかってる人で「文法は、英語を理解するための道具にしかすぎないのだから、あるものを上手に使えば良いのです。世間に流通している言葉があるなら、それを使った方が簡単。道具と割り切りましょう。」というような趣旨の事を書かれていて。「そりゃそうだ」と深く納得しました。
とまぁようするに、そういう初学者が気になる点や、ひっかかってしまうような事をポイントを押えて書かれていて、実に有り難かったのです。
中学英語の文法を一通り復習した後に、この本を読むと、すごく良いと思います。
[朝・早起き関連]-------------------------
●寝る前30分を変えなさい
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4584130744/249-9767057-8485143
●朝ノートの魔法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4562041420/503-1393334-5299133
●朝日記の奇跡
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4820716484/503-1393334-5299133
最近、朝にキチンと起きようと努力してまして、なんとか6時台には安定して起きれるようになってきたので、「朝の時間の活用法」の本を集中して読んでおるのであります。どの本も、まぁまぁ面白かったです。
読んだら実践する。
それが大事ですわね。
[その他]---------------------------------
●仕事ができる人は何故筋トレをするのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980867/503-1393334-5299133
という事で分類に入らない本です。筋トレをやりましょう! という啓蒙書ですね。一時期筋トレはけっこうやってたんですが、半年ほどブランクが空いてしまったので、とりあえず腕立て伏せから、またやりなおす事にしました。筋トレは家の中でいつでも出来るのが良いですね。
●レバレッジ人脈術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4478002754/503-1393334-5299133
これは、例の如くレバレッジシリーズの本田直之さんの本。
えー、いろいろ面白いですが、とりたてて紹介するような内容があったわけでもないでしょう。実に面白い考え方をいくつも提案されてますので、「人脈」というものに興味を持たれている方はぜひ。
●宇宙に上手にお願いする方法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763197371/503-1393334-5299133
●宇宙にもっと上手にお願いする方法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763198106/503-1393334-5299133
えー、例のごとく、「引き寄せの法則」みたいな話の本です。正編と続編ってところ。
僕は個人的に、この手の本が好きなんですけど、まぁ、趣味みたいなもんですね。面白い本ですが、超強力にプッシュするほどの本でもないかなぁ。
今月はこんなところでした。
いや違う。警官が多すぎるんや!
2008年7月20日コメント (4)この間の14歳少年のバスジャック逮捕。
あれを「うまくいった!」と手放しでよろこんでる記事が出てたが、そうやろか? これ、「異様に警官が多い」という現実を、そのまま表してるだけでないか? 毎日新聞の記事を、そのまま全文引用します。
(引用開始)-----------------------------------
バスジャック:幸運と機転でスピード決着
「おれにも14歳の子どもがいる」。愛知県の東名高速道路で起きた高速バス乗っ取り事件で、県警の捜査員はそう言って山口県宇部市の中学2年の少年(14)を説得した。通報から少年の身柄確保まで約1時間。少年は県警の調べに「最初から乗客を傷つけるつもりはなかった」と供述しているというが、長引けばどんな事態に展開したか分からない難事件は、幾つかの幸運と乗客や捜査員の機転でスピード決着した。
「ナイフを持った若い男がいる」。始まりはJR東海バス(名古屋市)に寄せられた1本の電話だった。
同社の名古屋駅発東京駅行き高速バス「スーパーライナー」号が16日正午に名古屋駅を出発してから約50分後。名古屋インターから東名高速道路に入ったころ、バスに乗り合わせた同社の男性社員(42)が手にナイフを持った少年が運転席に近づくのに気づいた。社員は悟られないように小声で、携帯電話で会社に連絡した。
同じころ、初動捜査を担当する県警機動捜査隊の車両が別事件の捜査でたまたま高速道の名古屋、豊田東、岡崎の各インター付近にいた。さらに偶然にも、県警捜査1課特殊班と機捜隊が高速道近くの同県日進市で誘拐事件を想定した訓練をしていた。
県警には会社からバスの詳細なデータが伝えられ、近くに居合わせて指令を受けた各捜査車両が一斉にバスを追いかけた。
通報から約30分後の午後1時20分ごろ、まず県警高速隊のパトカーがバスを前後に挟み、減速、停止させた。その間に機捜隊や特殊班の覆面パトカーが追いついた。ベテラン捜査員2人が窓越しに少年の説得に当たった。
「東京に行くんだ」と叫ぶ少年。「分かった。ここは邪魔だから移動しよう」
捜査員は近くの(美合みあい)パーキングエリアにバスを誘導。バスの周囲には50台を超える警察車両が集結した。別のベテラン捜査員がバスのドア越しに少年を説得した。
捜査員は「おれにも14歳の子どもがいる」と少年に呼びかけた。少年は「親に見捨てられた」と打ち明けた。「ナイフを置け」。捜査員の説得に応じ、少年は乗員乗客11人を解放した。捜査員らが車内に突入すると、少年は抵抗もしなかった。
県警幹部は「立てこもりの訓練を重ねている捜査員たちがたまたま県内のいい位置にいた。すべてがいいように働いた」と振り返った。【飯田和樹】
(引用終了)-----------------------------------
シゲです。ここで大事なのは、ここだ。
======================
同じころ、初動捜査を担当する県警機動捜査隊の車両が別事件の捜査でたまたま高速道の名古屋、豊田東、岡崎の各インター付近にいた。さらに偶然にも、県警捜査1課特殊班と機捜隊が高速道近くの同県日進市で誘拐事件を想定した訓練をしていた。
======================
良いですか。「たまたま近くにいた」警官が
●名古屋
●豊田東
●岡崎
の各インターにいたんですよ。
しかも! その担当していた事件はほったらかしにして、か、あるいは人員の一部を割いて、この突発的に起きた事件に対処したわけです。どんだけ「余剰人員」を、ひとつの事件に割り当ててるねん!ちゅう話ですがな。
しかも!
人員のムダは、それだけではなくて、
●県警捜査1課特殊班
●機捜隊
という2つもの部署の人間が、近所で「誘拐事件を想定した訓練」をしていたわけですよ。「ふたつの部署の合同訓練」ですよ!通常訓練じゃないんだ。ようするに、いつもの訓練に加えて合同訓練もやってるってことだ。
どんだけ訓練しとんねん。訓練がムダとは言わんが2つの部署って!
それだけの人間がぞろぞろと、「たまたま」出動できるくらいに街の中にいてるって事です。
お前ら、どんだけヒマやねん!
税金の無駄遣いしとったら、しょうちせんぞ!
ちゅう話ですがな。
そら、この間のアキバの事件があった後やから、世間的には「若い人は追いやられていて、怖いからなぁ」という風にしか見ないかも知れませんが、はっきり言って、警官多すぎの方がはるかに問題ですよ。
ムダな税金を取られるから、若いワーキングプア層にお金が回って行かなくなるんやから。
おまえら警官がワーキングプアを作ってる一因やないか。現実問題として。
この記事を書いた飯田和樹くん。君もそういう事を記事にしなさい。多分、ニュースのネタを欲しがる上の人から「警察を批判するような記事は書くな。事件の情報がもらえなくなるから!」と叱られるだけやろうけど。
でも、そんなマスコミなんか、クソである。ちゅうことですな。そこまで考えて記事を書きなさい。いいね、飯田くん。
このあいだも、大阪の街を、夜中の12時くらいに歩いていたら、何の事件かはわからないけど、警官が7〜8人集まってたのですよ。で、何があったのか? と思ってちょっと覗いてたら、目撃者とおぼしき人間の話を総合してみると、ようはただのケンカなわけですよ。それも、どうもそれほど大きなケンカでもない感じ。
そんな事に警官が7〜8人も必要か?
前にも書きましたが、大阪の明るい明るい道路で、平然と「自転車の無灯火チェック」をしてくる警官。あれも、決して一人ではないんですよ。つねに最低二人の組になってるわけです。
そんなに人数が必要か?
14歳のバスジャックにしても、アキバの事件があったから、みんな怖がって警察に即電話、という事になってしまったのだろうけど、ほんの数年前なら、バス内の大人数人で取り押さえた後、こんこんと説教して、現場の大人たちの判断で「まぁ警察に突き出すのは可哀想やからやめといたろ」になったかどうかとか、そういう種類の話ではないのか? と思う。
この記事の最後には、
「バスの周囲には50台を超える警察車両が集結した。」ってなっとるのよ。
数多すぎやろ。
違うか?
多すぎへんか?
違うか?
14歳の子供に、警察車両50台かよ。
それ、税金の無駄遣いでなかったら、いったい何や?
え?
なんか、アキバの事件の後で「おお、いまこそアピールする絶好のチャンス!」と見込んでのパフォーマンスでしかないというのは、見え見えやと思うのやが。
でも、「凶悪犯罪を未然に防ぎました!!!」というような報道にしかなってないのが、マスコミの能力の低下も含めて、私的には、ものすごく不自然で「嫌だなぁ」と思う、今日この頃ではありました。
あれを「うまくいった!」と手放しでよろこんでる記事が出てたが、そうやろか? これ、「異様に警官が多い」という現実を、そのまま表してるだけでないか? 毎日新聞の記事を、そのまま全文引用します。
(引用開始)-----------------------------------
バスジャック:幸運と機転でスピード決着
「おれにも14歳の子どもがいる」。愛知県の東名高速道路で起きた高速バス乗っ取り事件で、県警の捜査員はそう言って山口県宇部市の中学2年の少年(14)を説得した。通報から少年の身柄確保まで約1時間。少年は県警の調べに「最初から乗客を傷つけるつもりはなかった」と供述しているというが、長引けばどんな事態に展開したか分からない難事件は、幾つかの幸運と乗客や捜査員の機転でスピード決着した。
「ナイフを持った若い男がいる」。始まりはJR東海バス(名古屋市)に寄せられた1本の電話だった。
同社の名古屋駅発東京駅行き高速バス「スーパーライナー」号が16日正午に名古屋駅を出発してから約50分後。名古屋インターから東名高速道路に入ったころ、バスに乗り合わせた同社の男性社員(42)が手にナイフを持った少年が運転席に近づくのに気づいた。社員は悟られないように小声で、携帯電話で会社に連絡した。
同じころ、初動捜査を担当する県警機動捜査隊の車両が別事件の捜査でたまたま高速道の名古屋、豊田東、岡崎の各インター付近にいた。さらに偶然にも、県警捜査1課特殊班と機捜隊が高速道近くの同県日進市で誘拐事件を想定した訓練をしていた。
県警には会社からバスの詳細なデータが伝えられ、近くに居合わせて指令を受けた各捜査車両が一斉にバスを追いかけた。
通報から約30分後の午後1時20分ごろ、まず県警高速隊のパトカーがバスを前後に挟み、減速、停止させた。その間に機捜隊や特殊班の覆面パトカーが追いついた。ベテラン捜査員2人が窓越しに少年の説得に当たった。
「東京に行くんだ」と叫ぶ少年。「分かった。ここは邪魔だから移動しよう」
捜査員は近くの(美合みあい)パーキングエリアにバスを誘導。バスの周囲には50台を超える警察車両が集結した。別のベテラン捜査員がバスのドア越しに少年を説得した。
捜査員は「おれにも14歳の子どもがいる」と少年に呼びかけた。少年は「親に見捨てられた」と打ち明けた。「ナイフを置け」。捜査員の説得に応じ、少年は乗員乗客11人を解放した。捜査員らが車内に突入すると、少年は抵抗もしなかった。
県警幹部は「立てこもりの訓練を重ねている捜査員たちがたまたま県内のいい位置にいた。すべてがいいように働いた」と振り返った。【飯田和樹】
(引用終了)-----------------------------------
シゲです。ここで大事なのは、ここだ。
======================
同じころ、初動捜査を担当する県警機動捜査隊の車両が別事件の捜査でたまたま高速道の名古屋、豊田東、岡崎の各インター付近にいた。さらに偶然にも、県警捜査1課特殊班と機捜隊が高速道近くの同県日進市で誘拐事件を想定した訓練をしていた。
======================
良いですか。「たまたま近くにいた」警官が
●名古屋
●豊田東
●岡崎
の各インターにいたんですよ。
しかも! その担当していた事件はほったらかしにして、か、あるいは人員の一部を割いて、この突発的に起きた事件に対処したわけです。どんだけ「余剰人員」を、ひとつの事件に割り当ててるねん!ちゅう話ですがな。
しかも!
人員のムダは、それだけではなくて、
●県警捜査1課特殊班
●機捜隊
という2つもの部署の人間が、近所で「誘拐事件を想定した訓練」をしていたわけですよ。「ふたつの部署の合同訓練」ですよ!通常訓練じゃないんだ。ようするに、いつもの訓練に加えて合同訓練もやってるってことだ。
どんだけ訓練しとんねん。訓練がムダとは言わんが2つの部署って!
それだけの人間がぞろぞろと、「たまたま」出動できるくらいに街の中にいてるって事です。
お前ら、どんだけヒマやねん!
税金の無駄遣いしとったら、しょうちせんぞ!
ちゅう話ですがな。
そら、この間のアキバの事件があった後やから、世間的には「若い人は追いやられていて、怖いからなぁ」という風にしか見ないかも知れませんが、はっきり言って、警官多すぎの方がはるかに問題ですよ。
ムダな税金を取られるから、若いワーキングプア層にお金が回って行かなくなるんやから。
おまえら警官がワーキングプアを作ってる一因やないか。現実問題として。
この記事を書いた飯田和樹くん。君もそういう事を記事にしなさい。多分、ニュースのネタを欲しがる上の人から「警察を批判するような記事は書くな。事件の情報がもらえなくなるから!」と叱られるだけやろうけど。
でも、そんなマスコミなんか、クソである。ちゅうことですな。そこまで考えて記事を書きなさい。いいね、飯田くん。
このあいだも、大阪の街を、夜中の12時くらいに歩いていたら、何の事件かはわからないけど、警官が7〜8人集まってたのですよ。で、何があったのか? と思ってちょっと覗いてたら、目撃者とおぼしき人間の話を総合してみると、ようはただのケンカなわけですよ。それも、どうもそれほど大きなケンカでもない感じ。
そんな事に警官が7〜8人も必要か?
前にも書きましたが、大阪の明るい明るい道路で、平然と「自転車の無灯火チェック」をしてくる警官。あれも、決して一人ではないんですよ。つねに最低二人の組になってるわけです。
そんなに人数が必要か?
14歳のバスジャックにしても、アキバの事件があったから、みんな怖がって警察に即電話、という事になってしまったのだろうけど、ほんの数年前なら、バス内の大人数人で取り押さえた後、こんこんと説教して、現場の大人たちの判断で「まぁ警察に突き出すのは可哀想やからやめといたろ」になったかどうかとか、そういう種類の話ではないのか? と思う。
この記事の最後には、
「バスの周囲には50台を超える警察車両が集結した。」ってなっとるのよ。
数多すぎやろ。
違うか?
多すぎへんか?
違うか?
14歳の子供に、警察車両50台かよ。
それ、税金の無駄遣いでなかったら、いったい何や?
え?
なんか、アキバの事件の後で「おお、いまこそアピールする絶好のチャンス!」と見込んでのパフォーマンスでしかないというのは、見え見えやと思うのやが。
でも、「凶悪犯罪を未然に防ぎました!!!」というような報道にしかなってないのが、マスコミの能力の低下も含めて、私的には、ものすごく不自然で「嫌だなぁ」と思う、今日この頃ではありました。
人生とは良いものだ。
2008年7月12日 ●じぶんの心マップ コメント (1)いや、しかし、不思議な事っていうのはあるもんだなぁって話。
昨日は、担当している商品パンフレットの写真撮影のためにロケに出た日でした。
あまりロケに同行したりはしないのですが、昨日はたまたま。自然の風景と製品とをからめた写真も撮りたいと言う事で山奥の滝がある場所まで出かけて、精神的にかなりリフレッシュできたのでした。
意外に早く撮影が終わったので、事務所に戻った後、一緒に仕事をしているデザイナーさんと「たまには二人で飲みに行くか」という話になって出かけたわけです。
が、実は、30年に近い長い年月、このデザイナーさんとは一緒に仕事をしてるし、事務所も共同で借りていながら、二人で飲みに出かけるのは、ほぼ初めてという珍しさ。いつも他のスタッフと一緒にわいわいと、花見に出かけたり、旅行に行ったりはしてるし、仕事の行き帰りになんだかんだとお茶を飲んだり話し込んだりという事は多かったのだけれど、「飲む」と言うことはなかったわけです。
となると、まず、どこに飲みに行けばいいのか思いつかない。とりあえず事務所の近くをうろちょろ。「入った事はないけど、ここが良いんじゃない?」てな店を見つけて入ったわけです。
で、そうして話してみると、お互いに、意外なところで「ああ、そうだったんですか」という話が、けっこう出てきたわけですね。
このデザイナーさんとは、昔同じ会社に勤めていた時期もあったので、当時の話をちょろちょろっとしてみると、お互いに同じ出来事の別の側面を知っていて「へぇ」ってな事があったり。新たな発見ありまくり。
で、そういう話が出た後で、「あ、そうそう、今日良いものをもらったんだよ。」と言って、そのデザイナーさんがカバンからコピー用紙を一枚取り出したのです。
「なんですか?」と覗いてみると、数年前に二ヶ月に一度定期的に制作していた雑誌広告シリーズがズラリと並んでいたのです。
長々と続いたシリーズだったので、印象深い広告シリーズだったのですが、でも全部がそろってるのを見たことなどなくて、こっちが驚いたくらい。
聞けば、その広告を出してる企業さんの経理の方が、「このシリーズ好きだなぁ」という事で個人的にファイリングしてくださっていたものだったのであります。
「今日、ロケの前に寄ったら、これを見せてくれて、こっちが感激したよ。」と、そのデザイナーさん。いや、僕もうれしいですよ、これは。
「いやー、ありがたいですねぇ。」としみじみと見ていたら、お店の大将が興味津々で覗いてきたのです。
というのも、世界のクルマをテーマにしたシリーズだったので、クルマ好きには目を引く内容だったからなのですね。
で「いいですねぇ」としばらくお店の大将とスタッフの人と4人で雑談。で、また、デザイナーさんと、昔話に戻ったのですが。
ここからが不思議な話で、まぁそういう流れだから昔一緒に勤めていた会社の人たちの話にもなってしまうわけです。で、共通の知り合いの話をしていたら、突然、お店の大将が「え? A社のKさんですか? いや、それ、うちの常連さんですよ。」との一言。
「ええええー!!!」
てなもんです。いや、なんで? あの人の会社、この店からかなり離れてるし。みたいな話になって。でも実は僕は意外にそのKさんが会社とは別の顔で、けっこう飲み歩いたりしてるのは知ってたりしたわけです。「え?Kさんってそういう人だったの? いや知らなかった。なんでシゲ君知ってるの。」って感じでありまして。
いやまぁ、なんでか、そういうプライベートな部分って、私、そこそこは知ってるんですよ。深入りはしないけど。薄く、浅く、広くって感じ。
ともあれ、まぁ、なんちゅう奇遇だ、ということなので、その大将に「今日のことは、Kさんには内緒にしといて。で、今度Kさんが来たら、電話して。偶然のふりして、すぐに来るから。」とサプライズを仕掛けて帰ったのですが。
いやまぁ、なんとも不思議な出来事でした。
で、自宅に帰ってみると、仕事で「良いお仕事をしていただいて、本当に感謝しております」とすごく丁寧なお礼のメールが届いていて、これもまた感激。で、その仕事の内容が実は世界の最先端の仕事だったりして(このあたりの事も実は書きたかったのだけれど、長くなるので割愛。)、しみじみと自分のやってきた事がずーっと積み重なって形になってるのを知らされて、「人生って良いものだなぁ」と感じた日だったのです。
「ありがとう」は「有り難い」であって、「そうそう、有ることじゃないよ。」という意味ですから、まさに本当にありがたい出来事ばかりで。ありがとうございます、です。
いや〜、本当に人生って良いものだなぁと、感じざるを得なかったのでありますが。
まぁ本当に、こんな事もあるんですなぁ。いや、おもしろい。
昨日は、担当している商品パンフレットの写真撮影のためにロケに出た日でした。
あまりロケに同行したりはしないのですが、昨日はたまたま。自然の風景と製品とをからめた写真も撮りたいと言う事で山奥の滝がある場所まで出かけて、精神的にかなりリフレッシュできたのでした。
意外に早く撮影が終わったので、事務所に戻った後、一緒に仕事をしているデザイナーさんと「たまには二人で飲みに行くか」という話になって出かけたわけです。
が、実は、30年に近い長い年月、このデザイナーさんとは一緒に仕事をしてるし、事務所も共同で借りていながら、二人で飲みに出かけるのは、ほぼ初めてという珍しさ。いつも他のスタッフと一緒にわいわいと、花見に出かけたり、旅行に行ったりはしてるし、仕事の行き帰りになんだかんだとお茶を飲んだり話し込んだりという事は多かったのだけれど、「飲む」と言うことはなかったわけです。
となると、まず、どこに飲みに行けばいいのか思いつかない。とりあえず事務所の近くをうろちょろ。「入った事はないけど、ここが良いんじゃない?」てな店を見つけて入ったわけです。
で、そうして話してみると、お互いに、意外なところで「ああ、そうだったんですか」という話が、けっこう出てきたわけですね。
このデザイナーさんとは、昔同じ会社に勤めていた時期もあったので、当時の話をちょろちょろっとしてみると、お互いに同じ出来事の別の側面を知っていて「へぇ」ってな事があったり。新たな発見ありまくり。
で、そういう話が出た後で、「あ、そうそう、今日良いものをもらったんだよ。」と言って、そのデザイナーさんがカバンからコピー用紙を一枚取り出したのです。
「なんですか?」と覗いてみると、数年前に二ヶ月に一度定期的に制作していた雑誌広告シリーズがズラリと並んでいたのです。
長々と続いたシリーズだったので、印象深い広告シリーズだったのですが、でも全部がそろってるのを見たことなどなくて、こっちが驚いたくらい。
聞けば、その広告を出してる企業さんの経理の方が、「このシリーズ好きだなぁ」という事で個人的にファイリングしてくださっていたものだったのであります。
「今日、ロケの前に寄ったら、これを見せてくれて、こっちが感激したよ。」と、そのデザイナーさん。いや、僕もうれしいですよ、これは。
「いやー、ありがたいですねぇ。」としみじみと見ていたら、お店の大将が興味津々で覗いてきたのです。
というのも、世界のクルマをテーマにしたシリーズだったので、クルマ好きには目を引く内容だったからなのですね。
で「いいですねぇ」としばらくお店の大将とスタッフの人と4人で雑談。で、また、デザイナーさんと、昔話に戻ったのですが。
ここからが不思議な話で、まぁそういう流れだから昔一緒に勤めていた会社の人たちの話にもなってしまうわけです。で、共通の知り合いの話をしていたら、突然、お店の大将が「え? A社のKさんですか? いや、それ、うちの常連さんですよ。」との一言。
「ええええー!!!」
てなもんです。いや、なんで? あの人の会社、この店からかなり離れてるし。みたいな話になって。でも実は僕は意外にそのKさんが会社とは別の顔で、けっこう飲み歩いたりしてるのは知ってたりしたわけです。「え?Kさんってそういう人だったの? いや知らなかった。なんでシゲ君知ってるの。」って感じでありまして。
いやまぁ、なんでか、そういうプライベートな部分って、私、そこそこは知ってるんですよ。深入りはしないけど。薄く、浅く、広くって感じ。
ともあれ、まぁ、なんちゅう奇遇だ、ということなので、その大将に「今日のことは、Kさんには内緒にしといて。で、今度Kさんが来たら、電話して。偶然のふりして、すぐに来るから。」とサプライズを仕掛けて帰ったのですが。
いやまぁ、なんとも不思議な出来事でした。
で、自宅に帰ってみると、仕事で「良いお仕事をしていただいて、本当に感謝しております」とすごく丁寧なお礼のメールが届いていて、これもまた感激。で、その仕事の内容が実は世界の最先端の仕事だったりして(このあたりの事も実は書きたかったのだけれど、長くなるので割愛。)、しみじみと自分のやってきた事がずーっと積み重なって形になってるのを知らされて、「人生って良いものだなぁ」と感じた日だったのです。
「ありがとう」は「有り難い」であって、「そうそう、有ることじゃないよ。」という意味ですから、まさに本当にありがたい出来事ばかりで。ありがとうございます、です。
いや〜、本当に人生って良いものだなぁと、感じざるを得なかったのでありますが。
まぁ本当に、こんな事もあるんですなぁ。いや、おもしろい。
エコとか環境とか、もうけっこうです。
2008年7月9日えー、という事で洞爺湖サミットもあるので、書いてるわけですが、私がいつも思っていて、なかなか人と話が通じないことは、
●科学はすべて仮説
●再現性だけは保証される(繰り返し同じ結果は出る)
●科学で命はつくれない
という事であり、
●環境問題は政治の重要なカード
●だから無視はできない
●でも、だからと言って絶対ではない
ということです。
なので、環境問題でしゃかりきになってる人間を見るとバカにしか見えないし、かと言って無視するわけにも行かないって事ですね。まぁ国際的な大きな考え方の枠組みにはなってしまってるわけですから。
でもまぁ、たかがその程度ですよ。(と言いつつ、一度決まってしまった枠組みが、そう簡単に変わると言うことも、これまたほとんどないんですが。)
ちゅうことで、科学的な意味で言うと「地球温暖化防止!」と言う事自体が「さぁどうなんでしょうねぇ?」って事なんですよ。
地球の気候を研究してる人からすれば、「温暖化はしてますけど、もっと暑い時期もありましたよ。で、地球が温暖化してる時は、おしなべて豊作で、良い傾向なんですが。」という話です。
まぁ、そんなもんです。
だって政治だから。科学じゃないし。
温暖化防止なんてそんなもんです。
で、ゴアがやってた「不都合な真実」あれも政治的プロパガンダね。だってゴアがやってるんだもん! 当然やん!!!
コップにすり切りの水と氷を浮かべます。それが溶けて水はこぼれるでしょうか? こぼれません。
だから北極の浮いてる氷が溶けても陸地の水位は上がりません。
陸地の水位があがるのは、地盤沈下の問題が主です。
という事なので「不都合な真実」はかなりのウソがあります。
なのに、ノーベル賞をもらいました。なぜか?
ノーベル賞も政治だからですね。はい。
ノーベル賞は「科学者」という職業安定プライズです。環境科学って金は出るわ、スパンが長くて研究の結果がはっきりしないわで、良い金づるなんですよ。そういう事ね。
あと、ゴアさんは多分、原発関連の企業から支援を受けてるでしょう。だからCO2が問題だ!という「不都合な真実」をやる。
あの「不都合」は石油系企業にとって不都合なだけで、原発企業には追い風であります。
私は、基本、原発反対なんだけど、でも、現実問題としては、一気には減らせないだろうから、段階的に減らした方が良いなぁ、という人です。推進すべきは「多様なエネルギー」で、中規模小規模問わずコジェネはもっと増やして良いと思う。電線で電気を配るのが効率わるいので。
でも、新しいエネルギーがすべてをまかなうのもしんどいだろうし、火力とかもどんどん使おうって人です。状況にあわせて。
ちなみに、大気中のCO2自体、ものすごく少ない量なので、もともと温暖化に影響を与えるほどの力はないそうです。
それより重要なのは雲の影響、つまり水蒸気ですな。日陰ができたら日があたらないので寒い。そういう事だそうです。
あと温暖化は太陽のエネルギーが活発になってる事が主たる原因で、たかだか人間の活動程度で地球の温度がどうこうするってこともないようですね。アホクサ。
まぁ、科学的にはそういう話です。
でも科学的にはそういう事なんだけど、政治的にはまた別の話なんで、環境問題は政治だ、と正しく認識してから考えましょう、って事ですな。
あと、最近ではゴミ処理場が高温処理をするようになったので、もうゴミを燃やしてもダイオキシンは出ません。
が、しかし、ダイオキシンがだいたい体に悪いかどうかが実ははっきりしません。朝日新聞をはじめ、日本のマスコミは「悪いニュース」には飛びつくので、騒ぐだけ騒いだだけです。まぁほとんど体に悪い影響はないでしょう、という事だそうです。
このあたりは武田邦彦さんの本を読むと良く分かります。
ということで、「地球温暖化詐欺」という、イギリスのテレビドキュメンタリーがあるので、そのリンクを張っておきます。
まぁ科学的には、この人たちの言ってる事が正しいんだろうな、と思います。政治的にはあんまり力なさそうだけど。(笑)
http://video.google.com/videoplay?docid=-642469597858991670&;hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=-3254620128315043053&;q=&hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=8486751216888618909&;q=&hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=-8733072493656166413&;q=&hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=4354818942774262279&;q=&hl=en
いつなくなるか分らないし、早く見ておきましょうね。
●科学はすべて仮説
●再現性だけは保証される(繰り返し同じ結果は出る)
●科学で命はつくれない
という事であり、
●環境問題は政治の重要なカード
●だから無視はできない
●でも、だからと言って絶対ではない
ということです。
なので、環境問題でしゃかりきになってる人間を見るとバカにしか見えないし、かと言って無視するわけにも行かないって事ですね。まぁ国際的な大きな考え方の枠組みにはなってしまってるわけですから。
でもまぁ、たかがその程度ですよ。(と言いつつ、一度決まってしまった枠組みが、そう簡単に変わると言うことも、これまたほとんどないんですが。)
ちゅうことで、科学的な意味で言うと「地球温暖化防止!」と言う事自体が「さぁどうなんでしょうねぇ?」って事なんですよ。
地球の気候を研究してる人からすれば、「温暖化はしてますけど、もっと暑い時期もありましたよ。で、地球が温暖化してる時は、おしなべて豊作で、良い傾向なんですが。」という話です。
まぁ、そんなもんです。
だって政治だから。科学じゃないし。
温暖化防止なんてそんなもんです。
で、ゴアがやってた「不都合な真実」あれも政治的プロパガンダね。だってゴアがやってるんだもん! 当然やん!!!
コップにすり切りの水と氷を浮かべます。それが溶けて水はこぼれるでしょうか? こぼれません。
だから北極の浮いてる氷が溶けても陸地の水位は上がりません。
陸地の水位があがるのは、地盤沈下の問題が主です。
という事なので「不都合な真実」はかなりのウソがあります。
なのに、ノーベル賞をもらいました。なぜか?
ノーベル賞も政治だからですね。はい。
ノーベル賞は「科学者」という職業安定プライズです。環境科学って金は出るわ、スパンが長くて研究の結果がはっきりしないわで、良い金づるなんですよ。そういう事ね。
あと、ゴアさんは多分、原発関連の企業から支援を受けてるでしょう。だからCO2が問題だ!という「不都合な真実」をやる。
あの「不都合」は石油系企業にとって不都合なだけで、原発企業には追い風であります。
私は、基本、原発反対なんだけど、でも、現実問題としては、一気には減らせないだろうから、段階的に減らした方が良いなぁ、という人です。推進すべきは「多様なエネルギー」で、中規模小規模問わずコジェネはもっと増やして良いと思う。電線で電気を配るのが効率わるいので。
でも、新しいエネルギーがすべてをまかなうのもしんどいだろうし、火力とかもどんどん使おうって人です。状況にあわせて。
ちなみに、大気中のCO2自体、ものすごく少ない量なので、もともと温暖化に影響を与えるほどの力はないそうです。
それより重要なのは雲の影響、つまり水蒸気ですな。日陰ができたら日があたらないので寒い。そういう事だそうです。
あと温暖化は太陽のエネルギーが活発になってる事が主たる原因で、たかだか人間の活動程度で地球の温度がどうこうするってこともないようですね。アホクサ。
まぁ、科学的にはそういう話です。
でも科学的にはそういう事なんだけど、政治的にはまた別の話なんで、環境問題は政治だ、と正しく認識してから考えましょう、って事ですな。
あと、最近ではゴミ処理場が高温処理をするようになったので、もうゴミを燃やしてもダイオキシンは出ません。
が、しかし、ダイオキシンがだいたい体に悪いかどうかが実ははっきりしません。朝日新聞をはじめ、日本のマスコミは「悪いニュース」には飛びつくので、騒ぐだけ騒いだだけです。まぁほとんど体に悪い影響はないでしょう、という事だそうです。
このあたりは武田邦彦さんの本を読むと良く分かります。
ということで、「地球温暖化詐欺」という、イギリスのテレビドキュメンタリーがあるので、そのリンクを張っておきます。
まぁ科学的には、この人たちの言ってる事が正しいんだろうな、と思います。政治的にはあんまり力なさそうだけど。(笑)
http://video.google.com/videoplay?docid=-642469597858991670&;hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=-3254620128315043053&;q=&hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=8486751216888618909&;q=&hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=-8733072493656166413&;q=&hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=4354818942774262279&;q=&hl=en
いつなくなるか分らないし、早く見ておきましょうね。
環境問題は、純粋に「政治」やねんけどなぁ…。
2008年7月7日環境問題のこと。
もう、何年も前からなのですが、こと「環境問題」に関しては、誰と話しをしてもかみ合いません。困った事です。
で、なんでかみ合わないのか、自分では分かってたんですけど、あまり説明しなかった事をちょっとチマチマと説明してみたくなりました。
いまさらって気もするんですがね。
まずね、「環境問題は科学じゃねーんだよ、政治なんだよ、セージ、わかってんの?」ちゅうことです。
ここがですね、どなたとも合わない根本原因なんですよね。
なんて言うんでしょうか、根本的に僕はまず「自然の事は分からない」と思ってるわけです。生命の不思議を解き明かした科学なんかありません。多少は分かってきてるけどね。
だから「科学的にこうだ!」と言われても「まぁ、そうですかね。」という感じで、あんまり真剣に聞いてない。
いやまぁ、あれですよ、確実に再現性のある話は「道具」として利用しますがね、それ以外の「検証されていない科学」って言うのは全面的に「仮説」であって、それを信用するかどうかは、「政治」でしかないって思ってるわけです。
わかるでしょうか? このあたりの感覚。
僕が、こういう感覚を抱いたのは、少なくとも1991年のソ連の崩壊前後の事なのですね。
というのは、ソ連がロシアになる前後にけっこうサミットってのが行われていたわけですが、「ソ連」がある間はサミット後の取り決めの発表の中にソ連との対応というか、社会主義圏とどう対応するか? という項目がいろいろと入ってたわけですよ。それこそアフガン侵攻の頃から、サミット参加国の1番最優先の議題になったり、3番目の議題になったり、いろいろしてたけど、まぁずっとアジェンダとして入ってたはずです。
で、ソ連が崩壊して、「あー、アジェンダのひとつが消えたよなぁ、どうするんだろ、サミットでは。」って思ってたわけです。
なんで、そういう事を思ったかって言うと、僕がテーブルゲーム好きだったからなんですね。テーブルゲーム。
つまり、具体的に言うなら「モノポリー」とかさ、そういう奴です。
けっこう遊んでたわけですよ、当時。友人の夫婦ものの家に集まっては、「人生ゲーム」をやったり、トランプで遊んだり、知ってる人は知ってる「クーハンデル」で遊んだり、もう、それこそいろいろやったわけです。
で、ああいうテーブルゲーム・カードゲームの類をいくつもやると、「取引」って事の重要性を、嫌でも体で学ぶのですね。
「おい、いま、あいつ一人の一人勝ち状態をほったらかしにしておいたら、俺たちに勝ちはないぜ。ちょっと組まないか?」ってところから、二位三位連盟を作るとかね。そういう事をすごく駆け引きする。
ちなみに、みんな双六ゲームとしか思ってない「人生ゲーム」でも、実は、この「取引」こそが勝負を決めるのですよ。で、私は実は「人生ゲーム」で負けた事がない。必ず1位か2位。なんでそうなるか? というのを説明すると長くなると割愛するけど、とにかく、ちゃんと取引してれば勝てるんです。
で、です。
この「取引」をするには、カードが必要なんです。
カードがなければ、取引をすること自体が出来ない。ただ指を加えて見てるしかないわけです。だから、カードは多ければ多いほどいいんです。
こういう事は、こういうカードゲームをやったことのある人なら実感としてわかる。
でも、テレビゲームだけしていても、このダイナミズムは分かりませんよ。だからテレビゲームだけしかしてない人間は「遊び」のなんたるか、なんか全然分かってないって事にしかなりません。
で、政治と取引って事は、本当に僕はゲームから学びました。
なので、ソ連の崩壊は、まず何より「社会主義圏の消滅」により、「国際政治の取引ネタ」が一つ消えた、という風にしか読めなかったのですね、私には。
いままでは、「ソ連に対して強行に出るかどうか」とか、そういうことを国と国との駆け引きの「カード」として使えたわけですよ。しかし、その、かなり大きなカードが一種類、ごそっとなくなってしまったわけです。あの時。
だからこれはトランプで言えば「ハートのスートが一組消えた」に等しい話だったわけです。
なので、ソ連消滅後のサミットのあとの共同声明が、僕はすごく興味があったんですね。で、それをしげしげと眺めて見た。
そしたら!
そこに「環境問題」が、どーーーんと登場してたわけですよ。
「ああああ、そうか! そうだったか!」と僕は思ったわけです。「環境問題かぁ、それはカードになる!」って事でした。
だって環境だよ? 誰にだって関係あるやん! どこの国でも、政治的に使える。「今サミットでは、××代表は、環境問題で○○という成果を勝ち取った!」とか言える!
言えたらそれで良いわけです。それが政治ですから。
実際の「環境」とは、何の関係もおまへん。
まず、国際政治の取引のカードとして使える。
そこがすごく重要なわけです。
これがカードがなかったら、それぞれの国の利害の調整のやりようがないわけですよ。調整のつけようがない。いままでだったら「共産圏への○○の取組に協力する」ということと、軍事的協力をリンクするとかしないとか、そういう「モノサシ」でやってた事を、「環境への取組」を担保として使えるわけですよ。
よろしいですか? 国際的に文化も何も、根本から異なる国同士がですね、何らかの「取引」をしようとしたら、「共通の価値」として認識できるテーマがなかったら無理なわけですよ。で、そんなもの、そう簡単に見つかったりはしないんです。それこそ「共産主義の恐怖」とかだと西側諸国はまとまれたわけでしょ? でもそれがなくなったら、「共通貨幣」がなくなっちゃうのと同じなわけですよ。ものすごく不便なわけです。
だから、ソ連崩壊後のサミットで環境問題が(それまでもアジェンダにはなってたんだけど、)繰り上げ当選みたいに、ドーンと2番目だか3番目だかのテーマに「格上げ」されてるのを見て。「なるほどなぁ、国際政治っていうのは、こういう風に動くのか。」とかなり感心した覚えがあるわけです。
テレビゲームしかしてないと、これはわからんけど、ボードゲームとかカードゲームで、人間間の取引をいろいろ試してたりすると、すごくわかる。一発でわかる。(というか、元々私、前にも書きましたけど「倫社の帝王」でしたから、たまたまこういう事に敏感なだけかもわからんのですが。このあたりは実はちょっと不明。)
で、このサミット以降、僕の頭の中では、国際政治としての取り決め(決して科学的ではない。あくまで政治的取り決め。)からのトップダウンでの課題の割り振りがあって、それで各国で与えられた枠内での「やりくり」だけが環境問題になったのだ、という認識があったわけです。
これはもう、強烈にありました。
だから、環境関連の話をしていて、「科学的に正しいかどうか」とか、「倫理的に正しいかどうか」とかの話を真剣にしている人と会うと、もうその段階で話をする気が失せてしまってたんですね。
「いや、それは言っても話ははじまらんやろ」って思っちゃうんですね。「そうやなくて、割り振られた枠を、いかに屁理屈つけても獲得することとちゃうんか?」ちゅう話です。もう、ものすごく政治的。
たとえば、本当に環境の役に立つ技術があって、その普及を真剣に考えてる人がいてるなら、「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、そんな事はどうでもよろしい。あなたが普及させたい技術がそれをクリアしてるなら、それで問題ないんです。そういう事は、大衆にはすぐわかる。だから、そういう事を言わずに、「温暖化防止」であろうが「CO2削減」であろうが、その「枠組(たいていは予算的枠組みだけどね)」を、「利用」して、普及させちゃえばいいんだって話なわけです。だって元々、大枠が政治でしかないんだからさ! それは。
僕はもう、そういう発想しかなかったわけですよ。もともと。
しかし、なんちゅうかねぇ、この環境の問題っていうのは、すぐに「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、ごちゃごちゃ言う人が出てくるわけです。
どうでもええやん、そんな事。
知らんがな。
って思う。
世の中をうまく回す仕組みとか、アイディアとか、環境に絶対良いと思える「何か」があるんなら、それを、どんな政治的手段を使ったって、世の中に実現させちゃえば良いわけです。そういう信念が当人にあるなら、それでオーケーなわけ。
そんなものね、世界のホンダの本田宗一郎だってそうだったし、ソニーの盛田昭夫だってそうだった。それで良いんです。人間には限定性というのがあって、自分の立場からしか物事は判断できません。だからホンダならカーレースに出る!でしょう。それで良い。
僕は一時期、有機農業をやってる人達ともいろいろやってたりしてましたけど、そのやり方が良いと思うなら、話をこじつけてでも「うちのやり方がCO2削減につながるんだ!」とホラを吹いても、別に良いとすら僕は思うわけです。だって、先に大枠がきまっちゃってるんだから。四の五の言ってる場合じゃないでしょ? っちゅうことですわ。
でも、どうも、このあたりの話が、あまり通じないですね。
いや、まだに、こういう具合に具体的にちゃんと活動もしていて、「この方が良いのだ」という考え方ややり方を、内面的につかまえてる人は、尊敬できるし、僕からすれば「うまく立ち回ればいいのに…」って感じでしかないわけで、それは、まぁしゃーないって思うんですね。そこまで人間、ベンサム的に功利的に立ち回れるわけでもないですから。功利的に立ち回るにしたって、アイディアと行動力が必要で、誰にでも出来るというわけでもないですから。それはもうしょうがない。
こういう尊敬できる、キチンとした人とすら僕はかみ合わないわけですが、もっとひどい一群というのは、世の中にいてまして、そういうのとは、もうかみ合わないなんてものではないわけですね。
たとえば、別に環境問題に対して「これが良い」という解答や信念があるわけでもないのに、環境問題と「単なる反米意識」とが未整理に心の中でくっついていて、「アメリカはエネルギーの無駄遣いをしてる」とか言うタイプ。
いや、ちょっと頭整理してから言うてよって思う。ごちゃまぜやん。日本人がアメリカの事をゴチャゴチャ言うてもしゃーないやん。反米運動がしたいんなら、そういうグループに入ったら? とか思うだけ。
で、最近で言うと「エコな発言したら、かっちょ良い人なのよ。」的動き。あれがもうかなわん。なんじゃそりゃ? って思う。お前はパァ〜か? って思う。あ、パァなのか。
藤原紀香もなぁ、同じ関西人やから、心情的には好きな人なんやが、あの「いい人ブリ」だけはやめて欲しいなぁ。「スーパーで、エコ袋持って行き忘れて、スーパーでくれるプラスティックバッグを使う時は恥ずかしいと思っちゃいます。」とか言ってやがるんよな。
そういうお前が恥ずかしいから、そういう事を言うのはやめてくれ。
みんなが、自分なりの生活をしていて、みんなが適正なコスト計算をして、それで適正に回ってるのが今の社会で、その中でコスト的にも妥当なのがスーパーの袋なの。だからそれを「恥じる」必要なんか、最初から髪の毛の先ほどもない。
そんなら何か? スーパーでプラスティックバッグを使ってる大多数の9割以上の人間が「恥ずかしい」という精神的なマイナスを背負う事が環境貢献なんか? お前、世の中に「悪いこと」ばらまいてるだけやんけ。世の中を暗くしてどうすんねん。お前がガンや、アホ。ってしか思わないんですわね、私は。
ちなみに、エコ袋を持参するとですね、スーパーでくれるショッピング袋を家庭中の小さなゴミ箱に中敷き用に使うというような「再利用」がスポイルされます。ずっとエコ袋を持参すると、ああいう中敷き袋は、お金を出して買うしかなくなります。まぁスーパーは儲かっていいですけど。ああいうのは、買うとものすごく高いですから。買いたい人は買え。で、買ったそれは、一度しか使われませんわな? ショッピング袋みたいに家に帰るまでに使われ、家庭内でゴミ袋として使われという現実的なリサイクルの仕組みがなくなるだけでおます。アホくさい。
ちなみに、
●CO2が増えても、地球は温暖化しない。
●ショッピング袋を焼いてもいまやダイオキシンは出ない
●ダイオキシンは猛毒とは言えない
●ショッピング袋に環境を阻害する素材は含まれない(環境ホルモンなど)
だそうです。
このあたりは「科学」の話だから、僕は政治的な話の根拠にはしないですけど、科学的に考えても、別に問題はない。あるとするなら、
●埋蔵量に限界のある石油を燃やしてしまうショッピング袋に使っても良いのか?
という問題くらいでしょうけどね。
でも、あのショッピング袋を作るために使う石油って、そんなに大量か? 電車やバスなどの都市交通が整っている環境で「自家用車」で燃やしてるガソリンのムダに比べたら、とんでもなく少ない量だと思うけどねぇ。
まぁいいや。話がそれた。
ともかく。
上記のようなことでして、環境問題の話をしていて、誰かとまともに意見が合った事がないのであります。いやほんと。まじめにキチンと活動してるような人とも合わないし、ましてや、何も考えずに時流に乗らされてるだけの人とは絶対に合わない。
強いて「合う」人を言うなら、仕事上でおつきあいのある企業さんで、自社製品のエネルギー効率を真剣に高めているような人くらいかなぁ。そういう人なら話は通じる。政治の話も、まぁ通じる。まぁ事業部長以上、社長クラスになってしまいますが。
まぁ、面白いもんです。
ともあれ、マスメディアとか国内政治で出てくる「エコ」話は、もう最近ではあまりに鼻について聞いてられないですなぁ。
政治を利用するのはええけど、「新幹線に乗ったらエコ!」とか言うてる宣伝まで出てきてるからさぁ。まぁCO2排出権の証券化とかあるから、完全なウソとは言えないにしても、それはおかしかろう。人間活動は何らかの環境負荷はあるよ、そんなもん。
そうそう、「エセエコ」のかけ声で多い「地球のために」とかも「やめてくれー!」って思う。
そんなもん、人類が死に絶えても、地球は生き残るに決まっとるわ、ボケ。どこまで「人間様は偉い」と思いこんだら気が済むのやら。
「あんまり無茶したら、人間に跳ね返ってくるかもよ。わからんけど。」くらいの話やろが、もともと。いや、ほんまに。
まぁ地球は人類の事なんか気にしてません。人類は人類の事を気にしましょう。紀香クンみたいに、「みんなの迷惑」さえ増やさなけりゃ、まぁ全部オーケーでええんと違いますか? そのくらいの大ざっぱさで行こうよ。ほんとに。どうでもええやん、エコなんか。
マジに。
もう、何年も前からなのですが、こと「環境問題」に関しては、誰と話しをしてもかみ合いません。困った事です。
で、なんでかみ合わないのか、自分では分かってたんですけど、あまり説明しなかった事をちょっとチマチマと説明してみたくなりました。
いまさらって気もするんですがね。
まずね、「環境問題は科学じゃねーんだよ、政治なんだよ、セージ、わかってんの?」ちゅうことです。
ここがですね、どなたとも合わない根本原因なんですよね。
なんて言うんでしょうか、根本的に僕はまず「自然の事は分からない」と思ってるわけです。生命の不思議を解き明かした科学なんかありません。多少は分かってきてるけどね。
だから「科学的にこうだ!」と言われても「まぁ、そうですかね。」という感じで、あんまり真剣に聞いてない。
いやまぁ、あれですよ、確実に再現性のある話は「道具」として利用しますがね、それ以外の「検証されていない科学」って言うのは全面的に「仮説」であって、それを信用するかどうかは、「政治」でしかないって思ってるわけです。
わかるでしょうか? このあたりの感覚。
僕が、こういう感覚を抱いたのは、少なくとも1991年のソ連の崩壊前後の事なのですね。
というのは、ソ連がロシアになる前後にけっこうサミットってのが行われていたわけですが、「ソ連」がある間はサミット後の取り決めの発表の中にソ連との対応というか、社会主義圏とどう対応するか? という項目がいろいろと入ってたわけですよ。それこそアフガン侵攻の頃から、サミット参加国の1番最優先の議題になったり、3番目の議題になったり、いろいろしてたけど、まぁずっとアジェンダとして入ってたはずです。
で、ソ連が崩壊して、「あー、アジェンダのひとつが消えたよなぁ、どうするんだろ、サミットでは。」って思ってたわけです。
なんで、そういう事を思ったかって言うと、僕がテーブルゲーム好きだったからなんですね。テーブルゲーム。
つまり、具体的に言うなら「モノポリー」とかさ、そういう奴です。
けっこう遊んでたわけですよ、当時。友人の夫婦ものの家に集まっては、「人生ゲーム」をやったり、トランプで遊んだり、知ってる人は知ってる「クーハンデル」で遊んだり、もう、それこそいろいろやったわけです。
で、ああいうテーブルゲーム・カードゲームの類をいくつもやると、「取引」って事の重要性を、嫌でも体で学ぶのですね。
「おい、いま、あいつ一人の一人勝ち状態をほったらかしにしておいたら、俺たちに勝ちはないぜ。ちょっと組まないか?」ってところから、二位三位連盟を作るとかね。そういう事をすごく駆け引きする。
ちなみに、みんな双六ゲームとしか思ってない「人生ゲーム」でも、実は、この「取引」こそが勝負を決めるのですよ。で、私は実は「人生ゲーム」で負けた事がない。必ず1位か2位。なんでそうなるか? というのを説明すると長くなると割愛するけど、とにかく、ちゃんと取引してれば勝てるんです。
で、です。
この「取引」をするには、カードが必要なんです。
カードがなければ、取引をすること自体が出来ない。ただ指を加えて見てるしかないわけです。だから、カードは多ければ多いほどいいんです。
こういう事は、こういうカードゲームをやったことのある人なら実感としてわかる。
でも、テレビゲームだけしていても、このダイナミズムは分かりませんよ。だからテレビゲームだけしかしてない人間は「遊び」のなんたるか、なんか全然分かってないって事にしかなりません。
で、政治と取引って事は、本当に僕はゲームから学びました。
なので、ソ連の崩壊は、まず何より「社会主義圏の消滅」により、「国際政治の取引ネタ」が一つ消えた、という風にしか読めなかったのですね、私には。
いままでは、「ソ連に対して強行に出るかどうか」とか、そういうことを国と国との駆け引きの「カード」として使えたわけですよ。しかし、その、かなり大きなカードが一種類、ごそっとなくなってしまったわけです。あの時。
だからこれはトランプで言えば「ハートのスートが一組消えた」に等しい話だったわけです。
なので、ソ連消滅後のサミットのあとの共同声明が、僕はすごく興味があったんですね。で、それをしげしげと眺めて見た。
そしたら!
そこに「環境問題」が、どーーーんと登場してたわけですよ。
「ああああ、そうか! そうだったか!」と僕は思ったわけです。「環境問題かぁ、それはカードになる!」って事でした。
だって環境だよ? 誰にだって関係あるやん! どこの国でも、政治的に使える。「今サミットでは、××代表は、環境問題で○○という成果を勝ち取った!」とか言える!
言えたらそれで良いわけです。それが政治ですから。
実際の「環境」とは、何の関係もおまへん。
まず、国際政治の取引のカードとして使える。
そこがすごく重要なわけです。
これがカードがなかったら、それぞれの国の利害の調整のやりようがないわけですよ。調整のつけようがない。いままでだったら「共産圏への○○の取組に協力する」ということと、軍事的協力をリンクするとかしないとか、そういう「モノサシ」でやってた事を、「環境への取組」を担保として使えるわけですよ。
よろしいですか? 国際的に文化も何も、根本から異なる国同士がですね、何らかの「取引」をしようとしたら、「共通の価値」として認識できるテーマがなかったら無理なわけですよ。で、そんなもの、そう簡単に見つかったりはしないんです。それこそ「共産主義の恐怖」とかだと西側諸国はまとまれたわけでしょ? でもそれがなくなったら、「共通貨幣」がなくなっちゃうのと同じなわけですよ。ものすごく不便なわけです。
だから、ソ連崩壊後のサミットで環境問題が(それまでもアジェンダにはなってたんだけど、)繰り上げ当選みたいに、ドーンと2番目だか3番目だかのテーマに「格上げ」されてるのを見て。「なるほどなぁ、国際政治っていうのは、こういう風に動くのか。」とかなり感心した覚えがあるわけです。
テレビゲームしかしてないと、これはわからんけど、ボードゲームとかカードゲームで、人間間の取引をいろいろ試してたりすると、すごくわかる。一発でわかる。(というか、元々私、前にも書きましたけど「倫社の帝王」でしたから、たまたまこういう事に敏感なだけかもわからんのですが。このあたりは実はちょっと不明。)
で、このサミット以降、僕の頭の中では、国際政治としての取り決め(決して科学的ではない。あくまで政治的取り決め。)からのトップダウンでの課題の割り振りがあって、それで各国で与えられた枠内での「やりくり」だけが環境問題になったのだ、という認識があったわけです。
これはもう、強烈にありました。
だから、環境関連の話をしていて、「科学的に正しいかどうか」とか、「倫理的に正しいかどうか」とかの話を真剣にしている人と会うと、もうその段階で話をする気が失せてしまってたんですね。
「いや、それは言っても話ははじまらんやろ」って思っちゃうんですね。「そうやなくて、割り振られた枠を、いかに屁理屈つけても獲得することとちゃうんか?」ちゅう話です。もう、ものすごく政治的。
たとえば、本当に環境の役に立つ技術があって、その普及を真剣に考えてる人がいてるなら、「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、そんな事はどうでもよろしい。あなたが普及させたい技術がそれをクリアしてるなら、それで問題ないんです。そういう事は、大衆にはすぐわかる。だから、そういう事を言わずに、「温暖化防止」であろうが「CO2削減」であろうが、その「枠組(たいていは予算的枠組みだけどね)」を、「利用」して、普及させちゃえばいいんだって話なわけです。だって元々、大枠が政治でしかないんだからさ! それは。
僕はもう、そういう発想しかなかったわけですよ。もともと。
しかし、なんちゅうかねぇ、この環境の問題っていうのは、すぐに「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、ごちゃごちゃ言う人が出てくるわけです。
どうでもええやん、そんな事。
知らんがな。
って思う。
世の中をうまく回す仕組みとか、アイディアとか、環境に絶対良いと思える「何か」があるんなら、それを、どんな政治的手段を使ったって、世の中に実現させちゃえば良いわけです。そういう信念が当人にあるなら、それでオーケーなわけ。
そんなものね、世界のホンダの本田宗一郎だってそうだったし、ソニーの盛田昭夫だってそうだった。それで良いんです。人間には限定性というのがあって、自分の立場からしか物事は判断できません。だからホンダならカーレースに出る!でしょう。それで良い。
僕は一時期、有機農業をやってる人達ともいろいろやってたりしてましたけど、そのやり方が良いと思うなら、話をこじつけてでも「うちのやり方がCO2削減につながるんだ!」とホラを吹いても、別に良いとすら僕は思うわけです。だって、先に大枠がきまっちゃってるんだから。四の五の言ってる場合じゃないでしょ? っちゅうことですわ。
でも、どうも、このあたりの話が、あまり通じないですね。
いや、まだに、こういう具合に具体的にちゃんと活動もしていて、「この方が良いのだ」という考え方ややり方を、内面的につかまえてる人は、尊敬できるし、僕からすれば「うまく立ち回ればいいのに…」って感じでしかないわけで、それは、まぁしゃーないって思うんですね。そこまで人間、ベンサム的に功利的に立ち回れるわけでもないですから。功利的に立ち回るにしたって、アイディアと行動力が必要で、誰にでも出来るというわけでもないですから。それはもうしょうがない。
こういう尊敬できる、キチンとした人とすら僕はかみ合わないわけですが、もっとひどい一群というのは、世の中にいてまして、そういうのとは、もうかみ合わないなんてものではないわけですね。
たとえば、別に環境問題に対して「これが良い」という解答や信念があるわけでもないのに、環境問題と「単なる反米意識」とが未整理に心の中でくっついていて、「アメリカはエネルギーの無駄遣いをしてる」とか言うタイプ。
いや、ちょっと頭整理してから言うてよって思う。ごちゃまぜやん。日本人がアメリカの事をゴチャゴチャ言うてもしゃーないやん。反米運動がしたいんなら、そういうグループに入ったら? とか思うだけ。
で、最近で言うと「エコな発言したら、かっちょ良い人なのよ。」的動き。あれがもうかなわん。なんじゃそりゃ? って思う。お前はパァ〜か? って思う。あ、パァなのか。
藤原紀香もなぁ、同じ関西人やから、心情的には好きな人なんやが、あの「いい人ブリ」だけはやめて欲しいなぁ。「スーパーで、エコ袋持って行き忘れて、スーパーでくれるプラスティックバッグを使う時は恥ずかしいと思っちゃいます。」とか言ってやがるんよな。
そういうお前が恥ずかしいから、そういう事を言うのはやめてくれ。
みんなが、自分なりの生活をしていて、みんなが適正なコスト計算をして、それで適正に回ってるのが今の社会で、その中でコスト的にも妥当なのがスーパーの袋なの。だからそれを「恥じる」必要なんか、最初から髪の毛の先ほどもない。
そんなら何か? スーパーでプラスティックバッグを使ってる大多数の9割以上の人間が「恥ずかしい」という精神的なマイナスを背負う事が環境貢献なんか? お前、世の中に「悪いこと」ばらまいてるだけやんけ。世の中を暗くしてどうすんねん。お前がガンや、アホ。ってしか思わないんですわね、私は。
ちなみに、エコ袋を持参するとですね、スーパーでくれるショッピング袋を家庭中の小さなゴミ箱に中敷き用に使うというような「再利用」がスポイルされます。ずっとエコ袋を持参すると、ああいう中敷き袋は、お金を出して買うしかなくなります。まぁスーパーは儲かっていいですけど。ああいうのは、買うとものすごく高いですから。買いたい人は買え。で、買ったそれは、一度しか使われませんわな? ショッピング袋みたいに家に帰るまでに使われ、家庭内でゴミ袋として使われという現実的なリサイクルの仕組みがなくなるだけでおます。アホくさい。
ちなみに、
●CO2が増えても、地球は温暖化しない。
●ショッピング袋を焼いてもいまやダイオキシンは出ない
●ダイオキシンは猛毒とは言えない
●ショッピング袋に環境を阻害する素材は含まれない(環境ホルモンなど)
だそうです。
このあたりは「科学」の話だから、僕は政治的な話の根拠にはしないですけど、科学的に考えても、別に問題はない。あるとするなら、
●埋蔵量に限界のある石油を燃やしてしまうショッピング袋に使っても良いのか?
という問題くらいでしょうけどね。
でも、あのショッピング袋を作るために使う石油って、そんなに大量か? 電車やバスなどの都市交通が整っている環境で「自家用車」で燃やしてるガソリンのムダに比べたら、とんでもなく少ない量だと思うけどねぇ。
まぁいいや。話がそれた。
ともかく。
上記のようなことでして、環境問題の話をしていて、誰かとまともに意見が合った事がないのであります。いやほんと。まじめにキチンと活動してるような人とも合わないし、ましてや、何も考えずに時流に乗らされてるだけの人とは絶対に合わない。
強いて「合う」人を言うなら、仕事上でおつきあいのある企業さんで、自社製品のエネルギー効率を真剣に高めているような人くらいかなぁ。そういう人なら話は通じる。政治の話も、まぁ通じる。まぁ事業部長以上、社長クラスになってしまいますが。
まぁ、面白いもんです。
ともあれ、マスメディアとか国内政治で出てくる「エコ」話は、もう最近ではあまりに鼻について聞いてられないですなぁ。
政治を利用するのはええけど、「新幹線に乗ったらエコ!」とか言うてる宣伝まで出てきてるからさぁ。まぁCO2排出権の証券化とかあるから、完全なウソとは言えないにしても、それはおかしかろう。人間活動は何らかの環境負荷はあるよ、そんなもん。
そうそう、「エセエコ」のかけ声で多い「地球のために」とかも「やめてくれー!」って思う。
そんなもん、人類が死に絶えても、地球は生き残るに決まっとるわ、ボケ。どこまで「人間様は偉い」と思いこんだら気が済むのやら。
「あんまり無茶したら、人間に跳ね返ってくるかもよ。わからんけど。」くらいの話やろが、もともと。いや、ほんまに。
まぁ地球は人類の事なんか気にしてません。人類は人類の事を気にしましょう。紀香クンみたいに、「みんなの迷惑」さえ増やさなけりゃ、まぁ全部オーケーでええんと違いますか? そのくらいの大ざっぱさで行こうよ。ほんとに。どうでもええやん、エコなんか。
マジに。
みんな頭おかしいんじゃないか?
2008年7月4日コメント (5)最近、コンビニの深夜営業自粛に関して環境への影響とかなんとか、訳の分からん事を言っとるんですが、とうとう、町村官房長官まで、こういう事を言い出した。
(記事開始)============================================
コンビニ深夜営業の自粛論に理解=町村官房長官
7月2日17時20分配信 時事通信
町村信孝官房長官は2日午後の記者会見で、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出を抑制するため、コンビニエンスストアの深夜営業自粛を求める声が出ていることについて「低炭素社会の実現は、大量生産、大量消費を切り替える生活革命。一つのアイデアだ」と述べ、理解を示した。
町村長官は「CO2排出企業に(削減への)協力を求めており、国民一人ひとりに何ができるのかを問い掛けている。(コンビニ業界は)スケープゴートと短絡的に反応するのでなく、関係する業界の人も受け止めてほしい」と語った。
(記事終了)============================================
もうね、私はね、「みんな頭おかしいんじゃないか?」と思って、イライラしてしょうがない。
なんでコンビニの二十四時間営業をやめてCO2排出に効果があるのよ。わけがわからん。
私ゃ、もともと原子力発電っていうのが嫌いだったので、発電の仕組みとか調べてみたことがあるけど、原発って、一度動き出したらずっと動かし続けないとダメなんだよね。
だから深夜電力が余るんじゃないか。
だから「割安な深夜電力」てな存在があって、ムダに作ってる電気を、なんとかちゃんと使い切りましょうって話じゃないか。
夜に買い物しないって事は昼間にみんなが出かけるってことでしょ。
昼の電気のピークが上がったら、火力で足すしかないんやぞ。
アカンやん。
コンビニの深夜営業は、正しくエネルギー効率を活かした経済活動やないの。
コンビニの24時間営業みたいな人間の生活サイクルまで狂わせてしまう環境が良くない、と言うなら、まず原発反対を言え! と思う。コンビニは原発という電力供給から必然的に生まれた形態じゃないの。
だいたい、ネットカフェ難民みたいな貧困層の拡大みたいな事が出てきてるんだから、そういう仕事が欲しい人の職場まで奪うような事を安易に言うんじゃないよ、バカがって思う。
原子力発電は嫌いだけど、すでにできちゃったものは賢く使えってことでしょ。
もう、とにかく、話がおかしくて、狂ってるとしか思えないんよなぁ。
なんや、この話?
ものすごく気持ち悪い。
理屈になってない。
「電気つけてたら、地球に悪い。」というような、そういう単純な雰囲気論というか「気分」での論議でしかない。
昔なら、こういう事はちゃんと誰か論説委員でも誰でも専門家が「いや、それは全然意味ないですよ」とか普通に解説してたもんやけど、いまはそういうのが全然ないのよな。
なんで?
どうして?
こんなアホな論議がテレビや新聞に出ること自体、おかしいとは誰も思わないの?
最初に「コンビニへの24時間営業自粛」の話題が出た時に「ああ、しょうもな。こういうアホな話は、すぐ立ち消えになるでしょ」と思ってたのだけど、なんの事はない、町村君が話に乗ってる。
なんなんだよ、これは?
だいたいCO2排出権そのものが政治そのもので、科学とは何の関係もないって話で…、あ、このあたりは別の事だから、また改めて書かないといけないから、やめとこう。
とにかく、もう、私は訳分かりません。
世の中、狂ってしまったとしか思えないです。
(記事開始)============================================
コンビニ深夜営業の自粛論に理解=町村官房長官
7月2日17時20分配信 時事通信
町村信孝官房長官は2日午後の記者会見で、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出を抑制するため、コンビニエンスストアの深夜営業自粛を求める声が出ていることについて「低炭素社会の実現は、大量生産、大量消費を切り替える生活革命。一つのアイデアだ」と述べ、理解を示した。
町村長官は「CO2排出企業に(削減への)協力を求めており、国民一人ひとりに何ができるのかを問い掛けている。(コンビニ業界は)スケープゴートと短絡的に反応するのでなく、関係する業界の人も受け止めてほしい」と語った。
(記事終了)============================================
もうね、私はね、「みんな頭おかしいんじゃないか?」と思って、イライラしてしょうがない。
なんでコンビニの二十四時間営業をやめてCO2排出に効果があるのよ。わけがわからん。
私ゃ、もともと原子力発電っていうのが嫌いだったので、発電の仕組みとか調べてみたことがあるけど、原発って、一度動き出したらずっと動かし続けないとダメなんだよね。
だから深夜電力が余るんじゃないか。
だから「割安な深夜電力」てな存在があって、ムダに作ってる電気を、なんとかちゃんと使い切りましょうって話じゃないか。
夜に買い物しないって事は昼間にみんなが出かけるってことでしょ。
昼の電気のピークが上がったら、火力で足すしかないんやぞ。
アカンやん。
コンビニの深夜営業は、正しくエネルギー効率を活かした経済活動やないの。
コンビニの24時間営業みたいな人間の生活サイクルまで狂わせてしまう環境が良くない、と言うなら、まず原発反対を言え! と思う。コンビニは原発という電力供給から必然的に生まれた形態じゃないの。
だいたい、ネットカフェ難民みたいな貧困層の拡大みたいな事が出てきてるんだから、そういう仕事が欲しい人の職場まで奪うような事を安易に言うんじゃないよ、バカがって思う。
原子力発電は嫌いだけど、すでにできちゃったものは賢く使えってことでしょ。
もう、とにかく、話がおかしくて、狂ってるとしか思えないんよなぁ。
なんや、この話?
ものすごく気持ち悪い。
理屈になってない。
「電気つけてたら、地球に悪い。」というような、そういう単純な雰囲気論というか「気分」での論議でしかない。
昔なら、こういう事はちゃんと誰か論説委員でも誰でも専門家が「いや、それは全然意味ないですよ」とか普通に解説してたもんやけど、いまはそういうのが全然ないのよな。
なんで?
どうして?
こんなアホな論議がテレビや新聞に出ること自体、おかしいとは誰も思わないの?
最初に「コンビニへの24時間営業自粛」の話題が出た時に「ああ、しょうもな。こういうアホな話は、すぐ立ち消えになるでしょ」と思ってたのだけど、なんの事はない、町村君が話に乗ってる。
なんなんだよ、これは?
だいたいCO2排出権そのものが政治そのもので、科学とは何の関係もないって話で…、あ、このあたりは別の事だから、また改めて書かないといけないから、やめとこう。
とにかく、もう、私は訳分かりません。
世の中、狂ってしまったとしか思えないです。
苦手を克服する。
2008年6月24日えー、昔から歯医者が大嫌いで大嫌いで、どうしようもありません。
いまだに嫌いで嫌いで、嫌いで嫌い。どうしようもない。
「あんなものを好きな奴はおらんよ。」という人もいてますが、そんでもまぁ、歯が痛くなったら歯医者に行くしかないわけですよ。
でも、ですね。
どうも私、なんとかこの大の苦手を克服することができたようなんですね。
というのも、ただいま歯に関しては、すべての治療を完了しておりまして、定期検診に通うだけ、だからなのです。
3か月に一度、虫歯になってないかのチェックと、歯磨きがちゃんとできているかのブラッシング指導、それに3月分の歯石取りですね。これだけをやる。
3ヶ月を超えると初診料を取られるから、毎月定期検診した方が安上がりだ、という話もあるんですが、そこまでやるのは面倒だし、何より歯医者さんが儲からないじゃないの。可哀想です。
ちゅうことで、定期検診にはずっと通ってるんですね。
でも、いまだに歯医者は嫌い。定期検診に行くときでも、横でキュイーンと機械が音を立ててるのを聞いてるだけで、心穏やかではなくなってしまうのです。ほんとうにイヤ。
でも、定期検診に通ってる方が、虫歯にはなりにくいんですからね。イヤなのはイヤなんだけど、イヤがりながら行くようにしてるんです。
このね。
●イヤがりながら行く
というのがね。
少なくとも僕にとっては、苦手克服の重要なターニングポイントでありましたね。
もう、そりゃ私は歯医者がイヤでイヤで仕方なかった人なので、ずっとできるだけ行かないようにしてたわけですよ。
それこそ虫歯ができても行かない。治療しても途中で行かなくなる。
ひどい話です。
でも、イヤなんだもん。しょうがないよなぁ。
ということで、いまの歯医者にはじめて行った時は、先生に随分と顔をしかめられて「たくさん虫歯がありますね。」と言われました。ああ、情けない。
で、一大決心をしまして、「とにかく全部治すまで通おう」と決めたわけです。
それが4年ほど前です。
で、実は決めたにもかかわらず、途中でまた行かなくなっちゃって、間に半年以上、一年近いブランクがあったんですね。
で、そんなにほったらかしにしてたので、歯が折れて取れてしまいました。それで仕方なく、また行った、というくらいにひどい奴なんです。私は。
そんなに、そんなに嫌いなわけですよ。
でも、とにかく通い続けられたのは、上にも書いた、
●イヤがりながら行く
というスタンスに切り換えた…というか、そういうスタンスしかないんだと「受入れ」たからなんですね。
しょうがないんだよ、こればっかりは。
治さないと、もっと大変なんだから。
イヤだけど、怖いけど、痛いけど、嫌がりながら行こうよ。
そう、自分を説得して、しつけて行くようにしたわけです。
いまだに歯医者は嫌いだし、怖いし、歯石を取るのだってちょっとは痛いし、イヤなんですけど、とにかく、
●イヤがりながら行く
というようにしてるのです。
だって、その方が虫歯よりはるかに快適かつ楽だからです。
もうね、虫歯は大変。ほんとうに。
ほんとうに大変。
ほっとくと歯が折れるんですよ。
あーいやいや。
昔、キャストアウェイだったかな? あるビジネスマンが飛行機事故で無人島にひとり取り残される映画がありましたが、その無人島で虫歯が痛みだすっていうシーンがあってねぇ。
なんという恐怖だ!
と思いましたね。
僕が知る限り、一番恐ろしいホラー映画でしょう。
ともあれ。
歯医者は苦手で、嫌いで、どうしようもないんだけど、それよりやっぱり、虫歯の方が、もっとイヤでたまらん! ちゅうことですね。
だからまぁ、いろいろ、物事のわかってない人とかは、ようするに頭をガチンとぶつけないと分らないって事なのかも知れません。
いくら注意してもダメなんだよねぇ。こういうのって。
ずっと「本を読め」ってのを書いてるけど、本って言うのは、こういう、あらゆる「頭をぶつける」ことを前もって避けさせてくれる、実に効果的な「定期検診」だって言う気持ちが強いんですね、私は。いや、実際そうだし。
でも、なかなか苦手って克服できないんですよね。
何か心のひっかかりがあるとね。
「受入」ができないんやなぁ。
まぁしゃーないんですが。
私は最近思うのは、苦手克服ってのは、かなり重要な事だぞ、って事なんです。
というのは、苦手を克服すると、かなり自信がつくからなんですね。自分を好きになる率がグググーンと上がる。
だから、やっぱり苦手克服というのはやった方が良いと思うんですよ。自己評価が高いというのは、何をするにおいてもメリットがありますから。
で、その苦手克服の方法としては、上でも書いた、
●嫌がりながらする。
というのがひとつなんですね。
これはもう、最後の手段です。
事態が最悪になってからやるやり方ですわね。
だってしょうがないもん。虫歯になったら。ずっと痛いし。
でも、その前に、もうひとつ方法があるんじゃないか?
と思うんですよ。
それが、
●ハードルを低くして、回数を増やして克服する。
です。
こっちは、いま、もうひとつの僕の苦手項目である「早起き」に使ってるんですが、ちょっと効果が見えてきた感じ。
もうね、早起き、苦手。
超苦手。
どうしようもない。
全然ダメ。
でも、これを克服しないと幸せはないよなぁと思って、いま、ヒーコラ言いながら克服練習中なんですね。
で、この
●ハードルを低くして、回数を増やす。
というのを、早起きにどう応用してるかというと、
●一週間15分早起き
にしてるんです。
まず、いつも起きてる時間より、15分だけ早起きにします。
で、これを定着させるために、一週間をかけます。
早寝するとか、日常生活のリズムを整えるとか、全部15分くらい早めます。
まぁ多少のズレとかあっても、15分なら、なんとか修正可能ですので、とにかく眠くても朝を15分早く起きる。
で、一週間。
一週間それができたら、また次の週は15分早めるというやり方ですね。別に2週間かけてもいいし、15分早起きが完全に定着したな、と思ってから、次の15分早起きにシフトしても良いんですけど、とにかく1週間は続ける。
これがね、いまのところは、なんとか効果を保ってるんですよね。
15分だと、睡眠の誤差の範囲なので。
これもね、前は30分ずつ早めるとかをやってたんですよ。
でも、30分だと、かなりしんどいんですね。誤差の範囲ではない。意識して早起きしないとダメって言う数字なんです。
でも15分は誤差の範囲。だから、そんなに辛くないわけですよ。
この「辛くない」事なら、まぁ続けられるわけです。
辛くないところまで、薄く薄く課題をスライスしてやることが、すごく大事なんですね。
ハードル競争でも、それこそ最初は5cmとか、そういうくだらないくらい低いところからやるのがいいんだろうと思うんですね。
そういうのが基礎力になるって思う。
基礎力って何か? と言えば、無意識層にまで浸透してる習慣かどうか? って事だと思うのですよ。
で、そういう無意識層にまで働きかけるには、薄く薄く薄く薄くして、全然負荷すら感じないくらいの課題を、日々延々繰り返すってことなんじゃないかなぁって思う。
これを「ジャンプ力をつけなければ!」と、無理に頑張るから、その日だけの事に終わって続かないって事になるんですよね。
小さな事をバカにしてはいかんわけです。
で、こういう薄くスライスした課題ってのは、ほぼ絶対確実にクリアできるので、すごく小さいけれど、それなりの達成感があるわけですよ。
これが楽しい。
楽しみながら3週間続いた事は習慣になるんだそうです。
だから薄くスライスして、毎日小さな達成感を味わうっていうのは、本当に本当に大切な事だと思うわけです。
何をするにしても、まずは「自分が成功して喜ぶ」って事が大事って事です。
それをしないでおくと、いつのまにか「苦手」になってしまって、
●嫌がりながらやる
しか他に方法がなくなるわけですね。
だからやっぱりまずやるべきは、
●ハードルを低くして回数を増やす
なんだと思います。
まぁ、とにかく、「苦手は克服できる」っちゅう話ですわ。適切な方法論さえわかればね。
そういう事であります。
いまだに嫌いで嫌いで、嫌いで嫌い。どうしようもない。
「あんなものを好きな奴はおらんよ。」という人もいてますが、そんでもまぁ、歯が痛くなったら歯医者に行くしかないわけですよ。
でも、ですね。
どうも私、なんとかこの大の苦手を克服することができたようなんですね。
というのも、ただいま歯に関しては、すべての治療を完了しておりまして、定期検診に通うだけ、だからなのです。
3か月に一度、虫歯になってないかのチェックと、歯磨きがちゃんとできているかのブラッシング指導、それに3月分の歯石取りですね。これだけをやる。
3ヶ月を超えると初診料を取られるから、毎月定期検診した方が安上がりだ、という話もあるんですが、そこまでやるのは面倒だし、何より歯医者さんが儲からないじゃないの。可哀想です。
ちゅうことで、定期検診にはずっと通ってるんですね。
でも、いまだに歯医者は嫌い。定期検診に行くときでも、横でキュイーンと機械が音を立ててるのを聞いてるだけで、心穏やかではなくなってしまうのです。ほんとうにイヤ。
でも、定期検診に通ってる方が、虫歯にはなりにくいんですからね。イヤなのはイヤなんだけど、イヤがりながら行くようにしてるんです。
このね。
●イヤがりながら行く
というのがね。
少なくとも僕にとっては、苦手克服の重要なターニングポイントでありましたね。
もう、そりゃ私は歯医者がイヤでイヤで仕方なかった人なので、ずっとできるだけ行かないようにしてたわけですよ。
それこそ虫歯ができても行かない。治療しても途中で行かなくなる。
ひどい話です。
でも、イヤなんだもん。しょうがないよなぁ。
ということで、いまの歯医者にはじめて行った時は、先生に随分と顔をしかめられて「たくさん虫歯がありますね。」と言われました。ああ、情けない。
で、一大決心をしまして、「とにかく全部治すまで通おう」と決めたわけです。
それが4年ほど前です。
で、実は決めたにもかかわらず、途中でまた行かなくなっちゃって、間に半年以上、一年近いブランクがあったんですね。
で、そんなにほったらかしにしてたので、歯が折れて取れてしまいました。それで仕方なく、また行った、というくらいにひどい奴なんです。私は。
そんなに、そんなに嫌いなわけですよ。
でも、とにかく通い続けられたのは、上にも書いた、
●イヤがりながら行く
というスタンスに切り換えた…というか、そういうスタンスしかないんだと「受入れ」たからなんですね。
しょうがないんだよ、こればっかりは。
治さないと、もっと大変なんだから。
イヤだけど、怖いけど、痛いけど、嫌がりながら行こうよ。
そう、自分を説得して、しつけて行くようにしたわけです。
いまだに歯医者は嫌いだし、怖いし、歯石を取るのだってちょっとは痛いし、イヤなんですけど、とにかく、
●イヤがりながら行く
というようにしてるのです。
だって、その方が虫歯よりはるかに快適かつ楽だからです。
もうね、虫歯は大変。ほんとうに。
ほんとうに大変。
ほっとくと歯が折れるんですよ。
あーいやいや。
昔、キャストアウェイだったかな? あるビジネスマンが飛行機事故で無人島にひとり取り残される映画がありましたが、その無人島で虫歯が痛みだすっていうシーンがあってねぇ。
なんという恐怖だ!
と思いましたね。
僕が知る限り、一番恐ろしいホラー映画でしょう。
ともあれ。
歯医者は苦手で、嫌いで、どうしようもないんだけど、それよりやっぱり、虫歯の方が、もっとイヤでたまらん! ちゅうことですね。
だからまぁ、いろいろ、物事のわかってない人とかは、ようするに頭をガチンとぶつけないと分らないって事なのかも知れません。
いくら注意してもダメなんだよねぇ。こういうのって。
ずっと「本を読め」ってのを書いてるけど、本って言うのは、こういう、あらゆる「頭をぶつける」ことを前もって避けさせてくれる、実に効果的な「定期検診」だって言う気持ちが強いんですね、私は。いや、実際そうだし。
でも、なかなか苦手って克服できないんですよね。
何か心のひっかかりがあるとね。
「受入」ができないんやなぁ。
まぁしゃーないんですが。
私は最近思うのは、苦手克服ってのは、かなり重要な事だぞ、って事なんです。
というのは、苦手を克服すると、かなり自信がつくからなんですね。自分を好きになる率がグググーンと上がる。
だから、やっぱり苦手克服というのはやった方が良いと思うんですよ。自己評価が高いというのは、何をするにおいてもメリットがありますから。
で、その苦手克服の方法としては、上でも書いた、
●嫌がりながらする。
というのがひとつなんですね。
これはもう、最後の手段です。
事態が最悪になってからやるやり方ですわね。
だってしょうがないもん。虫歯になったら。ずっと痛いし。
でも、その前に、もうひとつ方法があるんじゃないか?
と思うんですよ。
それが、
●ハードルを低くして、回数を増やして克服する。
です。
こっちは、いま、もうひとつの僕の苦手項目である「早起き」に使ってるんですが、ちょっと効果が見えてきた感じ。
もうね、早起き、苦手。
超苦手。
どうしようもない。
全然ダメ。
でも、これを克服しないと幸せはないよなぁと思って、いま、ヒーコラ言いながら克服練習中なんですね。
で、この
●ハードルを低くして、回数を増やす。
というのを、早起きにどう応用してるかというと、
●一週間15分早起き
にしてるんです。
まず、いつも起きてる時間より、15分だけ早起きにします。
で、これを定着させるために、一週間をかけます。
早寝するとか、日常生活のリズムを整えるとか、全部15分くらい早めます。
まぁ多少のズレとかあっても、15分なら、なんとか修正可能ですので、とにかく眠くても朝を15分早く起きる。
で、一週間。
一週間それができたら、また次の週は15分早めるというやり方ですね。別に2週間かけてもいいし、15分早起きが完全に定着したな、と思ってから、次の15分早起きにシフトしても良いんですけど、とにかく1週間は続ける。
これがね、いまのところは、なんとか効果を保ってるんですよね。
15分だと、睡眠の誤差の範囲なので。
これもね、前は30分ずつ早めるとかをやってたんですよ。
でも、30分だと、かなりしんどいんですね。誤差の範囲ではない。意識して早起きしないとダメって言う数字なんです。
でも15分は誤差の範囲。だから、そんなに辛くないわけですよ。
この「辛くない」事なら、まぁ続けられるわけです。
辛くないところまで、薄く薄く課題をスライスしてやることが、すごく大事なんですね。
ハードル競争でも、それこそ最初は5cmとか、そういうくだらないくらい低いところからやるのがいいんだろうと思うんですね。
そういうのが基礎力になるって思う。
基礎力って何か? と言えば、無意識層にまで浸透してる習慣かどうか? って事だと思うのですよ。
で、そういう無意識層にまで働きかけるには、薄く薄く薄く薄くして、全然負荷すら感じないくらいの課題を、日々延々繰り返すってことなんじゃないかなぁって思う。
これを「ジャンプ力をつけなければ!」と、無理に頑張るから、その日だけの事に終わって続かないって事になるんですよね。
小さな事をバカにしてはいかんわけです。
で、こういう薄くスライスした課題ってのは、ほぼ絶対確実にクリアできるので、すごく小さいけれど、それなりの達成感があるわけですよ。
これが楽しい。
楽しみながら3週間続いた事は習慣になるんだそうです。
だから薄くスライスして、毎日小さな達成感を味わうっていうのは、本当に本当に大切な事だと思うわけです。
何をするにしても、まずは「自分が成功して喜ぶ」って事が大事って事です。
それをしないでおくと、いつのまにか「苦手」になってしまって、
●嫌がりながらやる
しか他に方法がなくなるわけですね。
だからやっぱりまずやるべきは、
●ハードルを低くして回数を増やす
なんだと思います。
まぁ、とにかく、「苦手は克服できる」っちゅう話ですわ。適切な方法論さえわかればね。
そういう事であります。
落語を覚える。
2008年6月21日前に少し書いたのですが、最近落語を覚えるのが面白いのです。
昨年12月13日の日記、「落語と英語」
http://diarynote.jp/d/12917/20071213.html
に書いたように、英語の音読練習とかしてるうちに、ネイティブな「関西弁」を、たーっぷりしゃべりたい、という欲求が出てきまして、それで落語に接近しているっていう側面が大きいんですね。
で、実際、桂米朝師匠のDVDとか買って、所作やら口調やら真似てみると、これが実に楽しい。
やっぱり日本人やなぁ、大阪人やなぁと自分でしみじみと感じるのですな。
英語のスキットと違って、水がしみこむようにスッと入る。そこが面白いわけです。
「〜やないかと思うのやが」とか、「〜とちがいまっせ」とか、関西弁独特のイントネーション、リズムを真似てると、死んだじいさんのしゃべり口調を思い出したりして、懐かしみもあるわけです。
かと思うと、すでに死語になってる言葉や、いまの時代とは違う言葉の使い方とかも、けっこうたくさんあって、これがまた面白い。
たとえば、「願うて(ねごうて)出る」という言い方。これはお上に直訴するというような意味なんですね。「はてなの茶碗」で油屋が茶店のオヤジに言う言葉ですが、「へぇ〜、そういう言い方するのか」と感心する。
そういうような、独特の言い回しがまた面白い。
後、上方落語を真似していると、地名が出てきたりするのが、現在の位置関係などと照らし合わせて聞いていると、これまた面白いわけで。
上方版「饅頭怖い」には、「南農人町、御祓い筋をちょっと入ったところ」なんて地名が入ってます。「本町のまがり」なんてのもある。
この「まがり」なんて言うのは、大阪城のお堀の角部分がカギ状に曲がっていた事を指すんだそうです。いまの谷町のあたりにお堀の角が来てたんだなぁとか分って実に面白い。
いまちょうど、自転車で事務所に通っているのですが、この「饅頭怖い」に出てくるあたりをちょうど走ってるわけで、「なるほど、このあたりかぁ」とか思いながら走ったりするのも味わい深かったりします。
「饅頭怖い」と聞くと、関東の人は、人をだまして饅頭をタダ食いする悪賢い人間の、落とし話としてしかイメージをお持ちではないと思うのです。
実際、その通りなのですが、上方落語版では、これにたーーーーっぷりと尾ひれがついてまして、圧縮された切れの良い米朝師匠の口演をもってしても40分を超える大作なのであります。
いちおう、この「饅頭怖い」を、ほぼ全部、頭から最後まで覚えてしまったのですが、つたない僕がしゃべると、思いだし思いだし、「えー」とムダなしゃべりが入るので、どうしたって1時間近くかかってしまうのですね。まぁ、すごい長い話です。
ヒマな若者同士が集まって、好きなもの嫌いなものの話をする。最初のうちは、いろいろな馬鹿話がいくつか入ってるんですが、そのうち一人が「ワシの嫌いなのは狐や」と言って、ここからキツネの話がえんえん続く。
これがまぁ、なかなかに面白い話なわけですが、これが一段落すると、「やかましなぁ、何をさわいどるんや」と、近所の年寄りが顔を出す。
ここからが「身投げ」の話になります。
で、ここからは、ほぼ「怪談」なんですね。
これが実はかなり怖い。
江戸落語では、ここの部分だけ独立させて、ちゃんとした怪談として演じられるそうですが、上方では、この怪談も「饅頭怖い」の一部でしかないのであります。
まぁお買い得感バリバリの演出であります。
なんか、大阪の昔の演芸場では、「饅頭怖い」は、夏場の出し物だったそうですね。怪談話が入ってて、けっこう怖いから、ということのようです。
で、この2つのお話しがあった後に、みなさんご存じの「饅頭」の話が来るわけなんですが、前の2つがあるからこそ面白い、という部分がけっこうあって、長い割に良くできたお話しだなぁと感心してしまいます。
上方と江戸では「親子酒」もタイトルは同じでオチも一緒なんだけど、主人公が違うというおもしろいバリエーションもあります。
上方版は親子の「子」が主人公ですね。
江戸版は「親」が主人公。
どっちも面白いですが、僕はやっぱり上方版が好きです。
基本的にどんな落語も米朝さんのスタンダードなのが好きなのですが、「親子酒」に関しては枝雀さんの演じた酔っぱらいが絶品。その完成度の高さには脱帽してしまいます。
まぁ、まだ「親子酒」は覚えてませんけども。
でも親子酒も覚えたいなぁ。
いちおう覚えてるのは
●青菜
●饅頭怖い
●はてなの茶碗
のみっつですけど、まぁ覚えてると言っても毎日練習してるわけではないので、日々どんどん忘れていってます。
それでも、風呂の中とか、歩きながらとか、鼻歌を歌う代わりに覚えた落語の途中の一節をしゃべってみるというのが、かなり楽しいのであります。
セリフの細かいニュアンスなど思い出しながらしゃべっていると、落語特有の「面白い事が起こるぞ」というわくわくした感覚まで、蘇ってくるので、そこがまた楽しいわけです。
実際、覚えようと思って覚えたというよりかは、面白くて面白くて、それを思いだそうとして、セリフが口から再生されてしまうという感覚の方が近いよなぁって思います。
たとえば「住吉駕籠」というネタがあって、これはまだ覚えてはいませんが、「高下駄はいて、手にちりとり持ってんねやで、誰がゴミ捨てに行った帰りに駕籠に乗るかいな」とか「朝、目ぇさますと天気がええ。これは住吉っさんにお参りにでもいこ」とか「海老の鬼ガラ焼きに、卵の巻焼き、イカの鹿の子焼き、やき、やき、やき、ちゅうやっちゃ。」とか、面白いセリフが部分的には頭に入ってしまってるわけで、そこを起点に記憶をつないでいくという感じなんですね。
別に覚えてるのではなくて、その「おもろいよなぁ」という部分に到達するように、適当にしゃべってつないでいく感じ。
まぁ言わば「あらすじ」にしかなってなかったりするんですが、いろいろテキストを見たりして、ちょっとずつ細部まで正確にしていく中で、まるまる一本のお話しになる感じなんですね。
なのでまぁ、あまり正確でもないし、自分ではしょったり、改変したりしてる部分もあったりするんですけど、それもまた面白いわけです。
ああ、でもまた次は住吉駕籠あたりは覚えたいなぁ。
なかなか面白いですよ。
落語を覚えるのって。
はい。
昨年12月13日の日記、「落語と英語」
http://diarynote.jp/d/12917/20071213.html
に書いたように、英語の音読練習とかしてるうちに、ネイティブな「関西弁」を、たーっぷりしゃべりたい、という欲求が出てきまして、それで落語に接近しているっていう側面が大きいんですね。
で、実際、桂米朝師匠のDVDとか買って、所作やら口調やら真似てみると、これが実に楽しい。
やっぱり日本人やなぁ、大阪人やなぁと自分でしみじみと感じるのですな。
英語のスキットと違って、水がしみこむようにスッと入る。そこが面白いわけです。
「〜やないかと思うのやが」とか、「〜とちがいまっせ」とか、関西弁独特のイントネーション、リズムを真似てると、死んだじいさんのしゃべり口調を思い出したりして、懐かしみもあるわけです。
かと思うと、すでに死語になってる言葉や、いまの時代とは違う言葉の使い方とかも、けっこうたくさんあって、これがまた面白い。
たとえば、「願うて(ねごうて)出る」という言い方。これはお上に直訴するというような意味なんですね。「はてなの茶碗」で油屋が茶店のオヤジに言う言葉ですが、「へぇ〜、そういう言い方するのか」と感心する。
そういうような、独特の言い回しがまた面白い。
後、上方落語を真似していると、地名が出てきたりするのが、現在の位置関係などと照らし合わせて聞いていると、これまた面白いわけで。
上方版「饅頭怖い」には、「南農人町、御祓い筋をちょっと入ったところ」なんて地名が入ってます。「本町のまがり」なんてのもある。
この「まがり」なんて言うのは、大阪城のお堀の角部分がカギ状に曲がっていた事を指すんだそうです。いまの谷町のあたりにお堀の角が来てたんだなぁとか分って実に面白い。
いまちょうど、自転車で事務所に通っているのですが、この「饅頭怖い」に出てくるあたりをちょうど走ってるわけで、「なるほど、このあたりかぁ」とか思いながら走ったりするのも味わい深かったりします。
「饅頭怖い」と聞くと、関東の人は、人をだまして饅頭をタダ食いする悪賢い人間の、落とし話としてしかイメージをお持ちではないと思うのです。
実際、その通りなのですが、上方落語版では、これにたーーーーっぷりと尾ひれがついてまして、圧縮された切れの良い米朝師匠の口演をもってしても40分を超える大作なのであります。
いちおう、この「饅頭怖い」を、ほぼ全部、頭から最後まで覚えてしまったのですが、つたない僕がしゃべると、思いだし思いだし、「えー」とムダなしゃべりが入るので、どうしたって1時間近くかかってしまうのですね。まぁ、すごい長い話です。
ヒマな若者同士が集まって、好きなもの嫌いなものの話をする。最初のうちは、いろいろな馬鹿話がいくつか入ってるんですが、そのうち一人が「ワシの嫌いなのは狐や」と言って、ここからキツネの話がえんえん続く。
これがまぁ、なかなかに面白い話なわけですが、これが一段落すると、「やかましなぁ、何をさわいどるんや」と、近所の年寄りが顔を出す。
ここからが「身投げ」の話になります。
で、ここからは、ほぼ「怪談」なんですね。
これが実はかなり怖い。
江戸落語では、ここの部分だけ独立させて、ちゃんとした怪談として演じられるそうですが、上方では、この怪談も「饅頭怖い」の一部でしかないのであります。
まぁお買い得感バリバリの演出であります。
なんか、大阪の昔の演芸場では、「饅頭怖い」は、夏場の出し物だったそうですね。怪談話が入ってて、けっこう怖いから、ということのようです。
で、この2つのお話しがあった後に、みなさんご存じの「饅頭」の話が来るわけなんですが、前の2つがあるからこそ面白い、という部分がけっこうあって、長い割に良くできたお話しだなぁと感心してしまいます。
上方と江戸では「親子酒」もタイトルは同じでオチも一緒なんだけど、主人公が違うというおもしろいバリエーションもあります。
上方版は親子の「子」が主人公ですね。
江戸版は「親」が主人公。
どっちも面白いですが、僕はやっぱり上方版が好きです。
基本的にどんな落語も米朝さんのスタンダードなのが好きなのですが、「親子酒」に関しては枝雀さんの演じた酔っぱらいが絶品。その完成度の高さには脱帽してしまいます。
まぁ、まだ「親子酒」は覚えてませんけども。
でも親子酒も覚えたいなぁ。
いちおう覚えてるのは
●青菜
●饅頭怖い
●はてなの茶碗
のみっつですけど、まぁ覚えてると言っても毎日練習してるわけではないので、日々どんどん忘れていってます。
それでも、風呂の中とか、歩きながらとか、鼻歌を歌う代わりに覚えた落語の途中の一節をしゃべってみるというのが、かなり楽しいのであります。
セリフの細かいニュアンスなど思い出しながらしゃべっていると、落語特有の「面白い事が起こるぞ」というわくわくした感覚まで、蘇ってくるので、そこがまた楽しいわけです。
実際、覚えようと思って覚えたというよりかは、面白くて面白くて、それを思いだそうとして、セリフが口から再生されてしまうという感覚の方が近いよなぁって思います。
たとえば「住吉駕籠」というネタがあって、これはまだ覚えてはいませんが、「高下駄はいて、手にちりとり持ってんねやで、誰がゴミ捨てに行った帰りに駕籠に乗るかいな」とか「朝、目ぇさますと天気がええ。これは住吉っさんにお参りにでもいこ」とか「海老の鬼ガラ焼きに、卵の巻焼き、イカの鹿の子焼き、やき、やき、やき、ちゅうやっちゃ。」とか、面白いセリフが部分的には頭に入ってしまってるわけで、そこを起点に記憶をつないでいくという感じなんですね。
別に覚えてるのではなくて、その「おもろいよなぁ」という部分に到達するように、適当にしゃべってつないでいく感じ。
まぁ言わば「あらすじ」にしかなってなかったりするんですが、いろいろテキストを見たりして、ちょっとずつ細部まで正確にしていく中で、まるまる一本のお話しになる感じなんですね。
なのでまぁ、あまり正確でもないし、自分ではしょったり、改変したりしてる部分もあったりするんですけど、それもまた面白いわけです。
ああ、でもまた次は住吉駕籠あたりは覚えたいなぁ。
なかなか面白いですよ。
落語を覚えるのって。
はい。
どうもね。気持ち良くないんですよ、あのアキバの事件。
怖いというか、気持ち悪い。
なんでかというと、特段の「こだわり」みたいなのを感じられないからなんです。どうにも。
たとえば死刑になった宮崎勤は幼女殺人でしょ? 幼女にこだわってた。酒鬼薔薇も強い異常性を感じた。宅間ってのもいたけど、あれも小学校を狙った。弱いものいじめ。オウムだと地下鉄で社会全体に対する反抗だし、その他のテロなら権力機構に対して攻撃します。そういう政治性もないわけですよ。社会性自体がもともとない感じがする。
なんせ、アキバですから。なんでアキバなんだろう?
アキバに犯人の派遣仕事を斡旋した会社があったから、そこに向かう途中だったという話もあるにはあるんですが、でも実際に殺人を開始したのはアキバのホコテンですからな。
どう考えても「たまたま自分の知っている場所で人の多いところ」で犯行に及んだという感じしかしない。
なんだこれ? そんなことで殺人とかできるのか?
って感じ。
殺し方にしても、特殊なガスを作るとか、体を切り刻んでとか、子供ばかりを選んで、というような「異常性」があまりなくて「車で突っ込んだら、人は死ぬよな」「ナイフで刺せば人は死ぬよな」という、身近にあるものを使ってみました的な緩さ。
なんだこれ? あまりに殺人と現実の間の壁が低すぎないか? って事なんですね。
そういうところがものすごく気持ち悪い。
言い方は悪いけど「ちょっと人でも殺してみましょうか」という感じでやってるような気がする。
まだ、宮崎や酒鬼薔薇、宅間、オウムのような「異常性」のある方が「異常者ってのはいてるよな」という線引きができただけマシだったように思うのです。
なんか、今回のはそういうのとは違う。普通の奴を社会が殺人鬼にしちゃったみたいな気持ち悪さが感じられるのですよ。
前から書いてるけど、もともと日本は敬典宗教じゃないので、倫理の基準値ってのがないわけです。人と人が顔を合わせて、日々お互いの気持ちを察しながら、村社会を演じてないと倫理観自体が育たないという弱点がある。
その「教典」とも言うべき、村社会としての企業という仕組みを、ぶっ潰してしまったのが派遣の仕組みで、そういう事の積み重ねが、結果としてこういう事件を産んだのではないか? という気がしてならないわけですよ。
日本人の多くがわかってないので、あらためて書いておきますが、「なぜ人を殺してはいけないのか」は、一神教で教典のある宗教が支配的な文化圏では、ただ一言、
●教典にそう書いてあるから。
という理由で殺さないのです。
ものすごく単純に感じる人も多いでしょうが、とどのつまりは、一言で言うならそういう事なんです。
教典に書いてあるから殺さないんです。
そういうものなんです。
で、通常、教典を敬うことで成立する宗教文化を持つ地域では、法律よりも、はるかに教典のほうが重要なわけですね。
もう、理屈ではなく、無意識のレベルに刷り込まれてる訳です。
新聞の見出しも、教典の言葉をもじったものになっていたり、教典の文言を引用して説教するなんてのも、ごく普通です。
でも、日本にはそういうものはありません。倫理観を養うとしたら、家庭で親から学ぶか、社会に出て会社から学ぶかくらいしかありません。本当は学校で教えた方が良いのですが、「戦前の教育に戻すつもりか!」とヒステリックに排除する文化が長年支配的だったがゆえに道徳的な授業というのが、もう全然なくなってしまってます。
わずかに、昔からの、じいさんばぁさんから受け継いできた教えを、年寄りが持っていて、それを受け渡す場所として仕事場があったのに、それすら派遣の仕組みで、教えを手渡す場所ではなくしてしまったんですね、日本人は。
なんかね、そういう結果の積み重ねだよなって思うのです。今回のこの事件は。
ものすごく薄ら寒い。
教育勅語が良いとは言わないけど、何かそういう、心を鍛えるような仕組みが社会の中にしっかりとあれば、こういう日常と人殺しの壁が薄くなってしまったような気持ちの悪い事件は、防げたはずだよなって思うのです。
一神教が支配的な文化圏では、経典に書いてあるから人殺しをしない、と書きましたが、これまた「異教徒は殺して良い」とするのが教典の世界です。つまりもともと、基準は不明確で、不明確だからこそ、簡単に人間は殺人に走ってしまう、という事でもあります。
そこがはっきりしてるから、書物が発明されたときに、人間の英知として、倫理観を記述した、「見える化」して忘れないようにした、という事なわけでしょう。
で、効果が高かったからこそ「聖書は世界でもっとも多くの部数を誇る書籍である」という事態にもなったんだって事ですね。
人間は忘れる動物なんですよ。
だから教典を繰り返し見るか、そうでなかったら、教えを具体的に実践している人の横にいて、それを体得するか、どっちかしかないわけです。正しい倫理観を身につけるには。
だから、経典のない日本において、人と接するという側面が損なわれたら、その段階で大きく倫理観は壊れやすいわけです。
だから派遣の仕組みはかなりまずい。聖書のある文化圏なら、それでもいいんだろうけど、日本じゃまずいよなぁって思う。
でも、このあたりの本質がわかってない人の方が多いのが、日本人でもありまして、「人を殺してはいけないのは何故?」と聞くと、「え? あ、えーと…。」と「考え」はじめたりするんです。
考えるなって。そんな事、本当はものすごく難しくてわからないのが当たり前なんだって。
ただ、何百年、何千年の歴史の中で、「やっぱり良くない」と人生をかけて体感してきた事が文化として残り、それが書物や宗教の形で継承されたから、素直にそれを継承し続けてるだけの話だってことです。
だから、普通の人間が普通に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われたら「教典に書いてあるから」と、何も考えなくても、スッと言うような社会状況を作るしかないって事なんですね。
クローンの問題とか、生命を扱う問題を、だから日本人が個人的に考えても絶対に答えなんか出ないわけですよ。考えるだけムダ。意味がない。
まぁ、それでも欧米では教典がしっかり存在してるから、「このことは神との関係をどう解釈すればいいのか」っていう個別問題がどうしても出てきて、それが政治的課題にまで、すぐに昇格してしまうから、日本でも同様の事を考えなくてはならなくなるわけですが、日本には教典自体がないんやから、考えようにも考えるための基準探しからしないといけないわけで、とんでもなく大変なわけですよ。
クローン問題にしても、膨大な症例を世界中から集めるとかするしかないだろうし。
命の問題を考えるって事自体が、そう簡単ではない。
でも、一神教の文化圏の人間が、なぜ人を殺してはいけないかの理由を「教典にそう書いてあるから」という、実に単純な原理で判定しているだけなのだ、というシンプルさをわかってない人間は、えんえん答えのない設問を考え続けるとか、馬鹿な事をしたりするわけです。
そういうアホな事はやめなさいっちゅうの。
わからんもんは、わからん。
それはしゃーない。日本人やねんもん。
そのあたりを実感もって学習したいのなら、もう、人の波の中に入って行くしかないわけですわ、日本ではね。
でも、それはあくまで継続的な人間関係を築けていなければ、倫理観の学習にまでは到達できないわけですよね?
だから派遣の仕組みってのはダメって事になる。特に日雇い派遣なんて最低です。
僕も自宅で仕事をしてた時は、人との接触が少なくて良くなかったですね。いまは事務所を持って毎日事務所に通ってるので、それだけでも視野が広がります。けっこう、かなり重要ですわ、やはり日本人には。
単純に地下鉄で、たくさんの社会人が動いて仕事をしてるんだなぁと毎日見てるだけでも、意味がありますから。
そう思う。
ともあれ、アキバの事件は、そういう日本の倫理観の崩れ方を象徴しているよなぁと寒い思いで一杯なのであります。
怖いというか、気持ち悪い。
なんでかというと、特段の「こだわり」みたいなのを感じられないからなんです。どうにも。
たとえば死刑になった宮崎勤は幼女殺人でしょ? 幼女にこだわってた。酒鬼薔薇も強い異常性を感じた。宅間ってのもいたけど、あれも小学校を狙った。弱いものいじめ。オウムだと地下鉄で社会全体に対する反抗だし、その他のテロなら権力機構に対して攻撃します。そういう政治性もないわけですよ。社会性自体がもともとない感じがする。
なんせ、アキバですから。なんでアキバなんだろう?
アキバに犯人の派遣仕事を斡旋した会社があったから、そこに向かう途中だったという話もあるにはあるんですが、でも実際に殺人を開始したのはアキバのホコテンですからな。
どう考えても「たまたま自分の知っている場所で人の多いところ」で犯行に及んだという感じしかしない。
なんだこれ? そんなことで殺人とかできるのか?
って感じ。
殺し方にしても、特殊なガスを作るとか、体を切り刻んでとか、子供ばかりを選んで、というような「異常性」があまりなくて「車で突っ込んだら、人は死ぬよな」「ナイフで刺せば人は死ぬよな」という、身近にあるものを使ってみました的な緩さ。
なんだこれ? あまりに殺人と現実の間の壁が低すぎないか? って事なんですね。
そういうところがものすごく気持ち悪い。
言い方は悪いけど「ちょっと人でも殺してみましょうか」という感じでやってるような気がする。
まだ、宮崎や酒鬼薔薇、宅間、オウムのような「異常性」のある方が「異常者ってのはいてるよな」という線引きができただけマシだったように思うのです。
なんか、今回のはそういうのとは違う。普通の奴を社会が殺人鬼にしちゃったみたいな気持ち悪さが感じられるのですよ。
前から書いてるけど、もともと日本は敬典宗教じゃないので、倫理の基準値ってのがないわけです。人と人が顔を合わせて、日々お互いの気持ちを察しながら、村社会を演じてないと倫理観自体が育たないという弱点がある。
その「教典」とも言うべき、村社会としての企業という仕組みを、ぶっ潰してしまったのが派遣の仕組みで、そういう事の積み重ねが、結果としてこういう事件を産んだのではないか? という気がしてならないわけですよ。
日本人の多くがわかってないので、あらためて書いておきますが、「なぜ人を殺してはいけないのか」は、一神教で教典のある宗教が支配的な文化圏では、ただ一言、
●教典にそう書いてあるから。
という理由で殺さないのです。
ものすごく単純に感じる人も多いでしょうが、とどのつまりは、一言で言うならそういう事なんです。
教典に書いてあるから殺さないんです。
そういうものなんです。
で、通常、教典を敬うことで成立する宗教文化を持つ地域では、法律よりも、はるかに教典のほうが重要なわけですね。
もう、理屈ではなく、無意識のレベルに刷り込まれてる訳です。
新聞の見出しも、教典の言葉をもじったものになっていたり、教典の文言を引用して説教するなんてのも、ごく普通です。
でも、日本にはそういうものはありません。倫理観を養うとしたら、家庭で親から学ぶか、社会に出て会社から学ぶかくらいしかありません。本当は学校で教えた方が良いのですが、「戦前の教育に戻すつもりか!」とヒステリックに排除する文化が長年支配的だったがゆえに道徳的な授業というのが、もう全然なくなってしまってます。
わずかに、昔からの、じいさんばぁさんから受け継いできた教えを、年寄りが持っていて、それを受け渡す場所として仕事場があったのに、それすら派遣の仕組みで、教えを手渡す場所ではなくしてしまったんですね、日本人は。
なんかね、そういう結果の積み重ねだよなって思うのです。今回のこの事件は。
ものすごく薄ら寒い。
教育勅語が良いとは言わないけど、何かそういう、心を鍛えるような仕組みが社会の中にしっかりとあれば、こういう日常と人殺しの壁が薄くなってしまったような気持ちの悪い事件は、防げたはずだよなって思うのです。
一神教が支配的な文化圏では、経典に書いてあるから人殺しをしない、と書きましたが、これまた「異教徒は殺して良い」とするのが教典の世界です。つまりもともと、基準は不明確で、不明確だからこそ、簡単に人間は殺人に走ってしまう、という事でもあります。
そこがはっきりしてるから、書物が発明されたときに、人間の英知として、倫理観を記述した、「見える化」して忘れないようにした、という事なわけでしょう。
で、効果が高かったからこそ「聖書は世界でもっとも多くの部数を誇る書籍である」という事態にもなったんだって事ですね。
人間は忘れる動物なんですよ。
だから教典を繰り返し見るか、そうでなかったら、教えを具体的に実践している人の横にいて、それを体得するか、どっちかしかないわけです。正しい倫理観を身につけるには。
だから、経典のない日本において、人と接するという側面が損なわれたら、その段階で大きく倫理観は壊れやすいわけです。
だから派遣の仕組みはかなりまずい。聖書のある文化圏なら、それでもいいんだろうけど、日本じゃまずいよなぁって思う。
でも、このあたりの本質がわかってない人の方が多いのが、日本人でもありまして、「人を殺してはいけないのは何故?」と聞くと、「え? あ、えーと…。」と「考え」はじめたりするんです。
考えるなって。そんな事、本当はものすごく難しくてわからないのが当たり前なんだって。
ただ、何百年、何千年の歴史の中で、「やっぱり良くない」と人生をかけて体感してきた事が文化として残り、それが書物や宗教の形で継承されたから、素直にそれを継承し続けてるだけの話だってことです。
だから、普通の人間が普通に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われたら「教典に書いてあるから」と、何も考えなくても、スッと言うような社会状況を作るしかないって事なんですね。
クローンの問題とか、生命を扱う問題を、だから日本人が個人的に考えても絶対に答えなんか出ないわけですよ。考えるだけムダ。意味がない。
まぁ、それでも欧米では教典がしっかり存在してるから、「このことは神との関係をどう解釈すればいいのか」っていう個別問題がどうしても出てきて、それが政治的課題にまで、すぐに昇格してしまうから、日本でも同様の事を考えなくてはならなくなるわけですが、日本には教典自体がないんやから、考えようにも考えるための基準探しからしないといけないわけで、とんでもなく大変なわけですよ。
クローン問題にしても、膨大な症例を世界中から集めるとかするしかないだろうし。
命の問題を考えるって事自体が、そう簡単ではない。
でも、一神教の文化圏の人間が、なぜ人を殺してはいけないかの理由を「教典にそう書いてあるから」という、実に単純な原理で判定しているだけなのだ、というシンプルさをわかってない人間は、えんえん答えのない設問を考え続けるとか、馬鹿な事をしたりするわけです。
そういうアホな事はやめなさいっちゅうの。
わからんもんは、わからん。
それはしゃーない。日本人やねんもん。
そのあたりを実感もって学習したいのなら、もう、人の波の中に入って行くしかないわけですわ、日本ではね。
でも、それはあくまで継続的な人間関係を築けていなければ、倫理観の学習にまでは到達できないわけですよね?
だから派遣の仕組みってのはダメって事になる。特に日雇い派遣なんて最低です。
僕も自宅で仕事をしてた時は、人との接触が少なくて良くなかったですね。いまは事務所を持って毎日事務所に通ってるので、それだけでも視野が広がります。けっこう、かなり重要ですわ、やはり日本人には。
単純に地下鉄で、たくさんの社会人が動いて仕事をしてるんだなぁと毎日見てるだけでも、意味がありますから。
そう思う。
ともあれ、アキバの事件は、そういう日本の倫理観の崩れ方を象徴しているよなぁと寒い思いで一杯なのであります。
また、読んだ本の紹介です。随分遅くなりましたが。
先月はものすごく苦しんだひと月でした。
まずリスト。読んだ順です。
(0)モーセと一神教
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4480087931/503-1393334-5299133
(1)夢をかなえるゾウ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4870318059/503-1393334-5299133
(2)ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980387/503-1393334-5299133
(3)3つの真実
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4828414312/503-1393334-5299133
(4)脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/503-1393334-5299133
(5)ほったらかしで副収入を月10万増やすしくみ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4757305095/503-1393334-5299133
(6)スティーブ・ジョブズ 神の交渉力
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4766710487/503-1393334-5299133
一番上に(0)モーセと一神教というのがありますが、これは読了しておりません。もうね、読めない。ものすごくしんどい。半分くらいまで読んだんですけど、いまはちょっと中座してる感じ。
内容的にはすごいです。
ジークムント・フロイトの最後の著作。ユダヤ教の誕生から発展の歴史を自分が築き上げた精神分析学の考え方をベースにして、解明していこうとする内容で、それはまるで緻密な推理小説を読むような知的興奮のある著作なんです。
が。
これが、実に慎重に慎重に論を進めていて、あらかじめ想定されるであろう反論に先に「こう言われる方もいてましょうが、それはこのような観点から無意味です。」みたいな事が次々に語られるわけです。
これがもう、しんどい。
こっちの気が乗ってきてるのに、核心に到達しないんですよねー、何頁も何頁も。前振り長すぎやっちゅうの! って言う感じになる。
でも、こういう読み応えのある本を、あきらめずにコツコツ理解することこそ教養というものだろうと思って、今月もコツコツ読むことにしてます。いつ読み終わるのやら。
-----------------
ちゅうことで、5月は、18日くらいまで、この「モーセと一神教」にとりかかっていて、他に英語の練習とかも、復活させたので、残りの6冊ほどは、読みやすそうな本ばっかり10日ほどで読んでしまいました。
「モーセと一神教」に比べたら、どれだけラクだったか。
手帳を見てみると、28日から31日までの4日間で最後の4冊を読了してますな。
まぁ軽い本はやっぱり読むのラクだよなぁ。
こんな本ばっかり読んでてもダメ。やっぱり「モーセと一神教」をちゃんと読了しないとなぁというのが、今月の一番の感想なのです。
-------------------------------------
●(1)夢をかなえるゾウ
ということで、今月、もっともお気楽に読めたのが、この本。「モーセと一神教」で停滞している時に、お仕事でご一緒している方からオススメをうけたので、気分転換に、と読んだ本です。
内容は、ある日突然に主人公の目の前にゾウの顔をした神様ガネーシャが現れて、主人公を導いていく、という成功小説の形で自己啓発的なノウハウを教えてくれるというもの。
ただ、この本は、各種自己啓発本にはあるまじき、ギャグ満載のお笑いネタでストーリーが進行していくというところが、いままでになかった新鮮な良さなんですね。
「あー、ヒットするのもわかるなぁ」と思いました。ガネーシャっていうのが、ほんとにダメダメな神様で、わがまま気ままで、実におかしい。
自己啓発本としては、書かれている内容はかなり浅いというか、入り口的なところしか紹介されてないんですけど、自己啓発で必要な要素の全体像は、まぁザクッとは紹介されてるかな。
なんかテレビドラマにまでなってしまうらしいんですけど、はてさてどんな内容になるのやら。
---------------------------------
●(2)ご飯を大盛りにするおばちゃんの店は必ず繁盛する
続いては、島田紳助が書いた「サイドビジネス成功の心得」というべき本。
僕的にはかなり面白く感じたんですが、これは一般の人間がマネできるノウハウ本ではないです。なんていうのでしょう、なんだかんだ言っても、テレビの第一線で生き残れる人は、積み上げてるものや感性のレベルが違うってことでしょう。紳助が言うことをそのまま真似できれば言うことなしですが、まぁ普通は無理です。そういう本。
--------------------------------
●(3)3つの真実
この本は、ネットでの無料読み物からジワジワと火がついて、書籍としても大ヒットになった「鏡の法則」を書いた野口嘉則さんの新刊。「鏡の法則」もまだまだ勢いづいているせいか、書店などではドーンと平積みになってたりしたので、ちょっと読んでみようかな?と手を出したもの。
小説仕立てになっていて、内容的にはなかなか面白く読めました。
ある日突然に神様がやってきて、主人公を導くという点では「夢をかなえるゾウ」と同内容。「ゾウ」の方が世界各国のさまざまな自己啓発本のガイドブック的な浅いものになっているのと比べて、こちらは、主人公がビジネスで成功していながら、心のあり方、考え方の歪みから「幸せ」から遠ざかりかけてしまっている「失敗」をストレートに扱っているところがちょっと違う点。
心のチューニングの仕方で、自分を「宇宙とつながった偉大な存在と感じる」とサラッと書いてあったりして、意外に深いと僕は思います。神様というのは自分の事なんですよね。誰にとっても。そういう本質の本質は、キチンと押えてあるなと思いました。良い読み物だと思います。
-----------------------------------
●(4)脳と気持ちの整理術
続いては、前に少しだけ紹介した、「脳が冴える15の習慣」の築山節さんの新作。
ちょっと調べてみると、この肝心の「脳が冴える15の習慣」のブックレビューを、僕は書いてないみたいですねぇ。とても素晴らしかったので、自分のためにまとめをつくったりはしてたのですが、ネットでは紹介してなかった。うーむ。また紹介しなくちゃなぁ。
で、この「脳と気持ちの整理術」ですが、大きくは前作の「脳が冴える15の習慣」と重なるところが多くて、新鮮さは少し少ない感じですね。
ただ、ひとつ「おお!」と思ったのが、感情のコントロールの話。先日の日記でも少し紹介しましたが、「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話。
嫌なことって言うのを、やっぱり人間はやらなくちゃいけないわけです。そうしないとドンドン馬鹿になっていく。
でも、嫌なことばかりもやってられないわけでして、その比率を、
●「好ましい事、楽なこと」を6
●「少し嫌な事、面倒な事」を3
●「すごく嫌な事、面倒な事」を1
にしなさい、という事が書いてあって、これが実に素晴らしいと思いましたね。
なんでもなくサラッと書いてありますが、日々、1割だけ「すごく嫌な事、面倒な事」をするというのは、自分育ての上でも理にかなっていると思います。
どんなに「すごく嫌な事」でも、やっているうちに慣れてくるので、それはいつのまにか「少し嫌な事」に変化していくんですよね。
そして「少し嫌な事」でも、これまた毎日続けていると「好きな事」に変化していくわけです。
という事は毎日1割だけ「すごく嫌な事、面倒な事」をすれば、人間はずっと成長し続ける事ができる、という事なんです。
この1割の「すごく嫌な事、面倒な事」を避けていたら、人間は堕落して、日々の生活に刺激を感じられなくなり、どんどん馬鹿になっていくって事なんですね。
だから1割の「すごく嫌な事、面倒な事」を進んでやるかどうかが、人生の分かれ道になるって事なんです。
なんでもないように書いてありますけど、これはかなり重要な教えだなと思いました。
いきなりたくさんの負荷をかけちゃダメなんですよ。「好ましい事、楽な事」を6割にして、なんでも気軽にやる生活をベースにしなくちゃダメなんです。そうでないと「嫌な事」なんてやる気も出ませんから。
だから好ましい事をするのがベースで、でも、その中に1割だけ「嫌な事」も混ぜる。そういうバランス感覚ですね。このバランス感覚こそが重要だって事です。
自分の経験と照らし合わせてみても、こういう6:3:1のバランスで生活を組み立ててみるというのは、かなり効果的であるように思います。なにより、このバランスなら継続すると言う事に無理が出ません。「ちょっとだけ無理をする」なら続く、ということです。
ここがとてつもなく重要だと思います。
仕事をする上においても、日々気をつけている事は、つねに「ちょっとだけ無理をすること」なんですね。ちょっとだけ無理をする、という程度なら、意外に人間がんばれるものなんです。
で、そのちょっとだけ無理をする、というのを飽きずに毎日ずっと続けるって事なんですよ。ようはその繰り返しなんです。
ウクレレの練習でもそうだし、読書量の増やし方でもそうでした。ちょっとだけの無理。これがすごく大事。そして、それを続けるってことですね。ちょっとだけの無理なら、けっこう続きます。そしてちょっとした無理を続けていれば、人間は自然と成長するのであります。これはかなり大きな確信だし、核心を突いているとも思います。
----------------------------
●(5)ほったらかしで副収入を月10万増やすしくみ
えーと、この本は、アフィリエイトなどの具体的な仕組みや方法を教えてくれるもので、かなり実践的でした。おもしろくておすすめです。
付録についてるCDが良さそうなんですが、まだCDの内容は見てないんですよねぇ。これはまたそのうち紹介するかも、です。
----------------------------
●(6)スティーブ・ジョブズ 神の交渉力
今月は、この本がかなり掘り出し物でした。
スティーブ・ジョブズ。
このところかなり気になっている人物でして、すごいよなぁって思うんですよね。
スティーブ・ジョブズに関しては、伝説にすらなっているスタンフォード大学での講演がありまして、これが超素晴らしい。
実に感動的です。
スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での祝賀講演
動画・邦訳・原文などの紹介ページ
http://sago.livedoor.biz/archives/50248740.html
生みの母と育ての親との関係や、30歳で自分で作ったアップルから追い出された話、自分自身のガンからの復帰の話など、そこいらのドラマでもありえないとんでもない話の連続。そして「ハングリーであれ、馬鹿であれ」と三回繰り返して終わるラストまで、見事な内容です。
えー、僕の事を良く知ってる人は、その昔「マック大嫌い人間」だった事を知ってると思うのですが、調べてみるとジョブズがアップルを追い出されていた時期と、僕がマック大嫌いだった時期が完全に重なるんですね。ジョブズの事は良く知らなかったけど、実に面白い奴の事を知らないままにいたんだなぁと思いまして。
だから現実としては、僕がマックを嫌いだったのは、ジョン・スカリーが大嫌いだったんだと思うんですよ。っていうか多分、ジョン・スカリーが選択した「みんなで経営体制」なのかな?
結局、マックという偉大なるヒット作に社員みんなが「しがみついて」「普通のコンピュータ」にしようとしてた事が大嫌いだったんだと思う。iMac以降のアップルに関しては、素晴らしい!の一言。買わないけど(笑)。
Windowsマシンではない別の選択肢は常に必要で、それはWindowsと違っていなければ意味がないって思うんですよね。スカリーが経営してた頃はマックがWindowsになろうとしてた時期で、もう、それがうっとおしくてうっとおしくてしょうがなかったですな。
そういう、何かに「しがみつく」感覚って、すごく依存的でしょ? だから嫌なんだと思う。マックの次を生み出せばいいのに、それをしなかったもんねぇ。
で、ジョブズがどうだったかというと、iMacの後はiPodで、すぐにiTMSで音楽販売に乗り出した。
正しいよなぁ。
経営者たるもの、こうでなくっちゃ。
で。
考えてみるとジョブズは、トイ・ストーリーを作ったピクサー社のトップでもあるわけで、実は「アメリカ」を支えている要素である、
●コンピュータ
●映画
●音楽
という3つの媒体業界で、一定の成果をあげた、とんでもない経営者だって事になるわけです。しかも、そのどれもが「革命的」です。
で、今度はこれにiPhoneで携帯電話業界が加わる。すごいね、どうも。
そのジョブズが、いかにワガママで、かつ交渉上手であるかを簡潔に描いたのが、この一冊で、実にわかりやすくて良かったです。新書で手軽に読めたし。
ジョブズの人生を手早く知るには最適の一冊でした。
-----------------------------------
ということで、今月読んだ本の中ではジョブズの奴がベストかなぁ。うーん。3つの真実も悪くなかったが。
ま、そんなところです。
先月はものすごく苦しんだひと月でした。
まずリスト。読んだ順です。
(0)モーセと一神教
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4480087931/503-1393334-5299133
(1)夢をかなえるゾウ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4870318059/503-1393334-5299133
(2)ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980387/503-1393334-5299133
(3)3つの真実
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4828414312/503-1393334-5299133
(4)脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/503-1393334-5299133
(5)ほったらかしで副収入を月10万増やすしくみ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4757305095/503-1393334-5299133
(6)スティーブ・ジョブズ 神の交渉力
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4766710487/503-1393334-5299133
一番上に(0)モーセと一神教というのがありますが、これは読了しておりません。もうね、読めない。ものすごくしんどい。半分くらいまで読んだんですけど、いまはちょっと中座してる感じ。
内容的にはすごいです。
ジークムント・フロイトの最後の著作。ユダヤ教の誕生から発展の歴史を自分が築き上げた精神分析学の考え方をベースにして、解明していこうとする内容で、それはまるで緻密な推理小説を読むような知的興奮のある著作なんです。
が。
これが、実に慎重に慎重に論を進めていて、あらかじめ想定されるであろう反論に先に「こう言われる方もいてましょうが、それはこのような観点から無意味です。」みたいな事が次々に語られるわけです。
これがもう、しんどい。
こっちの気が乗ってきてるのに、核心に到達しないんですよねー、何頁も何頁も。前振り長すぎやっちゅうの! って言う感じになる。
でも、こういう読み応えのある本を、あきらめずにコツコツ理解することこそ教養というものだろうと思って、今月もコツコツ読むことにしてます。いつ読み終わるのやら。
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ちゅうことで、5月は、18日くらいまで、この「モーセと一神教」にとりかかっていて、他に英語の練習とかも、復活させたので、残りの6冊ほどは、読みやすそうな本ばっかり10日ほどで読んでしまいました。
「モーセと一神教」に比べたら、どれだけラクだったか。
手帳を見てみると、28日から31日までの4日間で最後の4冊を読了してますな。
まぁ軽い本はやっぱり読むのラクだよなぁ。
こんな本ばっかり読んでてもダメ。やっぱり「モーセと一神教」をちゃんと読了しないとなぁというのが、今月の一番の感想なのです。
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●(1)夢をかなえるゾウ
ということで、今月、もっともお気楽に読めたのが、この本。「モーセと一神教」で停滞している時に、お仕事でご一緒している方からオススメをうけたので、気分転換に、と読んだ本です。
内容は、ある日突然に主人公の目の前にゾウの顔をした神様ガネーシャが現れて、主人公を導いていく、という成功小説の形で自己啓発的なノウハウを教えてくれるというもの。
ただ、この本は、各種自己啓発本にはあるまじき、ギャグ満載のお笑いネタでストーリーが進行していくというところが、いままでになかった新鮮な良さなんですね。
「あー、ヒットするのもわかるなぁ」と思いました。ガネーシャっていうのが、ほんとにダメダメな神様で、わがまま気ままで、実におかしい。
自己啓発本としては、書かれている内容はかなり浅いというか、入り口的なところしか紹介されてないんですけど、自己啓発で必要な要素の全体像は、まぁザクッとは紹介されてるかな。
なんかテレビドラマにまでなってしまうらしいんですけど、はてさてどんな内容になるのやら。
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●(2)ご飯を大盛りにするおばちゃんの店は必ず繁盛する
続いては、島田紳助が書いた「サイドビジネス成功の心得」というべき本。
僕的にはかなり面白く感じたんですが、これは一般の人間がマネできるノウハウ本ではないです。なんていうのでしょう、なんだかんだ言っても、テレビの第一線で生き残れる人は、積み上げてるものや感性のレベルが違うってことでしょう。紳助が言うことをそのまま真似できれば言うことなしですが、まぁ普通は無理です。そういう本。
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●(3)3つの真実
この本は、ネットでの無料読み物からジワジワと火がついて、書籍としても大ヒットになった「鏡の法則」を書いた野口嘉則さんの新刊。「鏡の法則」もまだまだ勢いづいているせいか、書店などではドーンと平積みになってたりしたので、ちょっと読んでみようかな?と手を出したもの。
小説仕立てになっていて、内容的にはなかなか面白く読めました。
ある日突然に神様がやってきて、主人公を導くという点では「夢をかなえるゾウ」と同内容。「ゾウ」の方が世界各国のさまざまな自己啓発本のガイドブック的な浅いものになっているのと比べて、こちらは、主人公がビジネスで成功していながら、心のあり方、考え方の歪みから「幸せ」から遠ざかりかけてしまっている「失敗」をストレートに扱っているところがちょっと違う点。
心のチューニングの仕方で、自分を「宇宙とつながった偉大な存在と感じる」とサラッと書いてあったりして、意外に深いと僕は思います。神様というのは自分の事なんですよね。誰にとっても。そういう本質の本質は、キチンと押えてあるなと思いました。良い読み物だと思います。
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●(4)脳と気持ちの整理術
続いては、前に少しだけ紹介した、「脳が冴える15の習慣」の築山節さんの新作。
ちょっと調べてみると、この肝心の「脳が冴える15の習慣」のブックレビューを、僕は書いてないみたいですねぇ。とても素晴らしかったので、自分のためにまとめをつくったりはしてたのですが、ネットでは紹介してなかった。うーむ。また紹介しなくちゃなぁ。
で、この「脳と気持ちの整理術」ですが、大きくは前作の「脳が冴える15の習慣」と重なるところが多くて、新鮮さは少し少ない感じですね。
ただ、ひとつ「おお!」と思ったのが、感情のコントロールの話。先日の日記でも少し紹介しましたが、「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話。
嫌なことって言うのを、やっぱり人間はやらなくちゃいけないわけです。そうしないとドンドン馬鹿になっていく。
でも、嫌なことばかりもやってられないわけでして、その比率を、
●「好ましい事、楽なこと」を6
●「少し嫌な事、面倒な事」を3
●「すごく嫌な事、面倒な事」を1
にしなさい、という事が書いてあって、これが実に素晴らしいと思いましたね。
なんでもなくサラッと書いてありますが、日々、1割だけ「すごく嫌な事、面倒な事」をするというのは、自分育ての上でも理にかなっていると思います。
どんなに「すごく嫌な事」でも、やっているうちに慣れてくるので、それはいつのまにか「少し嫌な事」に変化していくんですよね。
そして「少し嫌な事」でも、これまた毎日続けていると「好きな事」に変化していくわけです。
という事は毎日1割だけ「すごく嫌な事、面倒な事」をすれば、人間はずっと成長し続ける事ができる、という事なんです。
この1割の「すごく嫌な事、面倒な事」を避けていたら、人間は堕落して、日々の生活に刺激を感じられなくなり、どんどん馬鹿になっていくって事なんですね。
だから1割の「すごく嫌な事、面倒な事」を進んでやるかどうかが、人生の分かれ道になるって事なんです。
なんでもないように書いてありますけど、これはかなり重要な教えだなと思いました。
いきなりたくさんの負荷をかけちゃダメなんですよ。「好ましい事、楽な事」を6割にして、なんでも気軽にやる生活をベースにしなくちゃダメなんです。そうでないと「嫌な事」なんてやる気も出ませんから。
だから好ましい事をするのがベースで、でも、その中に1割だけ「嫌な事」も混ぜる。そういうバランス感覚ですね。このバランス感覚こそが重要だって事です。
自分の経験と照らし合わせてみても、こういう6:3:1のバランスで生活を組み立ててみるというのは、かなり効果的であるように思います。なにより、このバランスなら継続すると言う事に無理が出ません。「ちょっとだけ無理をする」なら続く、ということです。
ここがとてつもなく重要だと思います。
仕事をする上においても、日々気をつけている事は、つねに「ちょっとだけ無理をすること」なんですね。ちょっとだけ無理をする、という程度なら、意外に人間がんばれるものなんです。
で、そのちょっとだけ無理をする、というのを飽きずに毎日ずっと続けるって事なんですよ。ようはその繰り返しなんです。
ウクレレの練習でもそうだし、読書量の増やし方でもそうでした。ちょっとだけの無理。これがすごく大事。そして、それを続けるってことですね。ちょっとだけの無理なら、けっこう続きます。そしてちょっとした無理を続けていれば、人間は自然と成長するのであります。これはかなり大きな確信だし、核心を突いているとも思います。
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●(5)ほったらかしで副収入を月10万増やすしくみ
えーと、この本は、アフィリエイトなどの具体的な仕組みや方法を教えてくれるもので、かなり実践的でした。おもしろくておすすめです。
付録についてるCDが良さそうなんですが、まだCDの内容は見てないんですよねぇ。これはまたそのうち紹介するかも、です。
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●(6)スティーブ・ジョブズ 神の交渉力
今月は、この本がかなり掘り出し物でした。
スティーブ・ジョブズ。
このところかなり気になっている人物でして、すごいよなぁって思うんですよね。
スティーブ・ジョブズに関しては、伝説にすらなっているスタンフォード大学での講演がありまして、これが超素晴らしい。
実に感動的です。
スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での祝賀講演
動画・邦訳・原文などの紹介ページ
http://sago.livedoor.biz/archives/50248740.html
生みの母と育ての親との関係や、30歳で自分で作ったアップルから追い出された話、自分自身のガンからの復帰の話など、そこいらのドラマでもありえないとんでもない話の連続。そして「ハングリーであれ、馬鹿であれ」と三回繰り返して終わるラストまで、見事な内容です。
えー、僕の事を良く知ってる人は、その昔「マック大嫌い人間」だった事を知ってると思うのですが、調べてみるとジョブズがアップルを追い出されていた時期と、僕がマック大嫌いだった時期が完全に重なるんですね。ジョブズの事は良く知らなかったけど、実に面白い奴の事を知らないままにいたんだなぁと思いまして。
だから現実としては、僕がマックを嫌いだったのは、ジョン・スカリーが大嫌いだったんだと思うんですよ。っていうか多分、ジョン・スカリーが選択した「みんなで経営体制」なのかな?
結局、マックという偉大なるヒット作に社員みんなが「しがみついて」「普通のコンピュータ」にしようとしてた事が大嫌いだったんだと思う。iMac以降のアップルに関しては、素晴らしい!の一言。買わないけど(笑)。
Windowsマシンではない別の選択肢は常に必要で、それはWindowsと違っていなければ意味がないって思うんですよね。スカリーが経営してた頃はマックがWindowsになろうとしてた時期で、もう、それがうっとおしくてうっとおしくてしょうがなかったですな。
そういう、何かに「しがみつく」感覚って、すごく依存的でしょ? だから嫌なんだと思う。マックの次を生み出せばいいのに、それをしなかったもんねぇ。
で、ジョブズがどうだったかというと、iMacの後はiPodで、すぐにiTMSで音楽販売に乗り出した。
正しいよなぁ。
経営者たるもの、こうでなくっちゃ。
で。
考えてみるとジョブズは、トイ・ストーリーを作ったピクサー社のトップでもあるわけで、実は「アメリカ」を支えている要素である、
●コンピュータ
●映画
●音楽
という3つの媒体業界で、一定の成果をあげた、とんでもない経営者だって事になるわけです。しかも、そのどれもが「革命的」です。
で、今度はこれにiPhoneで携帯電話業界が加わる。すごいね、どうも。
そのジョブズが、いかにワガママで、かつ交渉上手であるかを簡潔に描いたのが、この一冊で、実にわかりやすくて良かったです。新書で手軽に読めたし。
ジョブズの人生を手早く知るには最適の一冊でした。
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ということで、今月読んだ本の中ではジョブズの奴がベストかなぁ。うーん。3つの真実も悪くなかったが。
ま、そんなところです。
生きる力。
2008年6月9日えー、5月に読んだ本のまとめをしなくちゃと思いつつできてません。8割方書いてあるんですけどねぇ。
今月は読んだ本が少なかったなぁ。また書きます。
で、ちょっと先日、自殺と学びについて書きましたけど、こうして本をずっと紹介してるのは、やはり本を読む事が「生きる力」につながる、という思いが強いからなんですね。
これからの時代、どんな事が起きるかわかりません。時代は常に変化しています。
その変化を的確につかまえていくには、やはり読書が一番なんですね。
これは世代、年代を問わないんです。
年寄りが高齢化社会を安心して過ごすにも、中高年が変化する社会を生き抜くにも、若者がこれからの進路を決めるにも、ありとあらゆる「生きる」事の力になる。
本を読む習慣をつけることは、そのくらい重要な事だと思います。
先日紹介した「なぜ日本人はまなばなくなったのか」や、同じ齋藤孝さんの「読書力」などを読んでいて、深く共感したのが、高校であれ大学であれ、学生の間に読書する習慣さえ身に付けば、大きくはそれでOKなのではないか? というくだりでした。
人生にはいろいろな波があります。うれしい事も悲しい事もある。思い通りにならない事もあるし、勉強しなければ理解することすら出来ない事もある。
そんな、どんな困難にも立ち向かえる力を養うのが読書する習慣の力だと思います。
世界の古典なんかは僕はあまり読んでませんが、やはり人生の問題を考えるのには大きく役立つだろうという気がする。
ゲーテだとか大作家の作品も、人間の精神の奥深いところを突っ込んで考えてるから、精神的なタフさが身に付くだろうなと思うのです。
齋藤孝さんの読書論は、ちょっと精神修養に傾きすぎかな? とも思うのですが、こういう精神のタフさを養うという意味での読書ってのは、けっこう大事なように思います。自分があまり読んでいないので実感はないんですがね。でも、少しそういう方面の見識も広く持たねばいけないなとは思うようになってきました。
そういう大きなところでの生き方の根幹とかをしっかりさせておかないと、生きる方向性みたいな事が固まらなくてフラフラすると思うんですね。
まぁ、そういう精神修養の話は僕は弱いですけど、たとえば欧米社会がどういう価値観で成り立っていて、そういう文化がどのような形で日本に押し寄せてきているのかとか、法体系のあり方とかは、学習しておくと、いまの日本でも、それだけで安心感はかなり大きいですしね。
具体的知識がもたらすパースペクティブの広さとその安定感という部分を見ただけでも、心のタフさ、という事ではかなり大きな力になると実感しています。
社会が欧米化されても「どういうことやねん!」と憤りを感じたりしないで済む、というだけでもどれほどメリットが大きいことか。
ですから、たとえば聖書のような倫理観を教えるような書物なら、もっと大きなところで精神のタフさを鍛えられるだろうなとは思うのですよね。
欧米の人間なんかは、子供の頃から、この聖書の暗唱やら音読をさせられたりするみたいですしね。日曜日の教会とかで。
いやまぁ、みんな嫌がってしないみたいだし、そういう習慣はもうなくなってしまってるのかも知れないのですけど、トム・ソーヤーの冒険とか、ああいう小説には、普通に出てきますからね。
キリスト教圏では、聖書はThe Book として普通の本とは別格の書物として大切にされてますけど、日本にはそういう教典みたいなものがありません。
で、だからこそと思うのですね。
だからこそ日本人は、数多く本を読む習慣が大事だなぁと。
どうもね、日本人は教典を持たないからこそ「日々飽きずに学び続けること」という考え方自体を大切にしている民族なんじゃないのかな? という気がしはじめてるんですよ。
新聞や、テレビ・ラジオなどのマスメディアは、すでにある程度、乗っ取られてるんですね。金を持った大企業とか、大きな勢力に。もう、嫌になるくらい乗っ取られてしまってます。だから、そういうメディアだけ見ていても幸せにはなれない。生きる力も身に付かない。
でも、出版の世界は中小の会社がひしめきあって、誰にも乗っ取る事のできない混沌のままに生きながらえてるんですね。
どうも、これこそが日本という国の本質であるような気がするんです。この混沌というパワーそのものが生きる力を生んでいる。
そんな気がします。
これも齋藤孝さんが言ってた事ですが、日本にはとてもたくさんの国の名著が文庫本になっているというのですね。アメリカ、ヨーロッパだけでなくロシア文学まで網羅してるわけですよ。
このあいだも、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が数十万部も売れたというような話がありましたが、もともと日本人は、そういう異文化を書物の形で受け入れる能力が高いのかもしれないって思うんですね。
つまり聖書のような「定形の倫理書」がない分「より視野の広い、高次の倫理観」を、常に求めている、求めざるを得ない精神構造が民族知として備わっているんじゃないかなぁって思うわけです。
明治の時代でも、あのスマイルズの自助論が「西国立志編」として大ヒットしたらしいですし、福沢諭吉が西欧の文化を日本人にわかりやすく説いた「学問のススメ」も、かなり多くの人が読んだといいますしね。
時代の変化を、正しい知識で的確に乗り越えて行くDNAみたいなものを、もともと日本人は持ってるんじゃないかなぁという気がしてきてるんです。
で、その大きな役割を担うのは、やっぱり、まずは「書籍」だよなぁって思います。
パソコンの画面より、やっぱり紙の方が情報量は多いですし、小さなチマチマした話ではなくて、大きな世界観みたいな事を大づかみに伝えるには、本という形態が最適なんですね。
ひとつの全体観、相互に関連し合った「体系」としての知識、というものを学ぶには、やはり書籍の形がいちばん効率的なわけです。
だから、とりあえず、自殺したくなったような、「どう生きれば良いのかわからない」という人も、まずは本を読んでみることだと思うのですよ。
何を読むかは、その人次第なんですけど。
海外の名作でも、ビジネス書でもいい。
(あんまり小説とかはオススメしないですけど。娯楽として読むのも、まぁいいけど、それだけではちょっと寂しい。)
なんでもいいから、とにかく本を手にとって数頁でもいいから読んでみる事だと思います。
とにかく学び続ける意志と、どんな変化にも対応できるタフさ。
若い人に伝えたいのは、そういう事だなぁ。
心のタフさがないから、すぐに自殺とかを考えてしまうんだろうなって思う。それはやっぱり不幸な事です。
生きる力を養う栄養分としての読書習慣。
これをまず、優先して身につけて欲しいなと思います。
今月は読んだ本が少なかったなぁ。また書きます。
で、ちょっと先日、自殺と学びについて書きましたけど、こうして本をずっと紹介してるのは、やはり本を読む事が「生きる力」につながる、という思いが強いからなんですね。
これからの時代、どんな事が起きるかわかりません。時代は常に変化しています。
その変化を的確につかまえていくには、やはり読書が一番なんですね。
これは世代、年代を問わないんです。
年寄りが高齢化社会を安心して過ごすにも、中高年が変化する社会を生き抜くにも、若者がこれからの進路を決めるにも、ありとあらゆる「生きる」事の力になる。
本を読む習慣をつけることは、そのくらい重要な事だと思います。
先日紹介した「なぜ日本人はまなばなくなったのか」や、同じ齋藤孝さんの「読書力」などを読んでいて、深く共感したのが、高校であれ大学であれ、学生の間に読書する習慣さえ身に付けば、大きくはそれでOKなのではないか? というくだりでした。
人生にはいろいろな波があります。うれしい事も悲しい事もある。思い通りにならない事もあるし、勉強しなければ理解することすら出来ない事もある。
そんな、どんな困難にも立ち向かえる力を養うのが読書する習慣の力だと思います。
世界の古典なんかは僕はあまり読んでませんが、やはり人生の問題を考えるのには大きく役立つだろうという気がする。
ゲーテだとか大作家の作品も、人間の精神の奥深いところを突っ込んで考えてるから、精神的なタフさが身に付くだろうなと思うのです。
齋藤孝さんの読書論は、ちょっと精神修養に傾きすぎかな? とも思うのですが、こういう精神のタフさを養うという意味での読書ってのは、けっこう大事なように思います。自分があまり読んでいないので実感はないんですがね。でも、少しそういう方面の見識も広く持たねばいけないなとは思うようになってきました。
そういう大きなところでの生き方の根幹とかをしっかりさせておかないと、生きる方向性みたいな事が固まらなくてフラフラすると思うんですね。
まぁ、そういう精神修養の話は僕は弱いですけど、たとえば欧米社会がどういう価値観で成り立っていて、そういう文化がどのような形で日本に押し寄せてきているのかとか、法体系のあり方とかは、学習しておくと、いまの日本でも、それだけで安心感はかなり大きいですしね。
具体的知識がもたらすパースペクティブの広さとその安定感という部分を見ただけでも、心のタフさ、という事ではかなり大きな力になると実感しています。
社会が欧米化されても「どういうことやねん!」と憤りを感じたりしないで済む、というだけでもどれほどメリットが大きいことか。
ですから、たとえば聖書のような倫理観を教えるような書物なら、もっと大きなところで精神のタフさを鍛えられるだろうなとは思うのですよね。
欧米の人間なんかは、子供の頃から、この聖書の暗唱やら音読をさせられたりするみたいですしね。日曜日の教会とかで。
いやまぁ、みんな嫌がってしないみたいだし、そういう習慣はもうなくなってしまってるのかも知れないのですけど、トム・ソーヤーの冒険とか、ああいう小説には、普通に出てきますからね。
キリスト教圏では、聖書はThe Book として普通の本とは別格の書物として大切にされてますけど、日本にはそういう教典みたいなものがありません。
で、だからこそと思うのですね。
だからこそ日本人は、数多く本を読む習慣が大事だなぁと。
どうもね、日本人は教典を持たないからこそ「日々飽きずに学び続けること」という考え方自体を大切にしている民族なんじゃないのかな? という気がしはじめてるんですよ。
新聞や、テレビ・ラジオなどのマスメディアは、すでにある程度、乗っ取られてるんですね。金を持った大企業とか、大きな勢力に。もう、嫌になるくらい乗っ取られてしまってます。だから、そういうメディアだけ見ていても幸せにはなれない。生きる力も身に付かない。
でも、出版の世界は中小の会社がひしめきあって、誰にも乗っ取る事のできない混沌のままに生きながらえてるんですね。
どうも、これこそが日本という国の本質であるような気がするんです。この混沌というパワーそのものが生きる力を生んでいる。
そんな気がします。
これも齋藤孝さんが言ってた事ですが、日本にはとてもたくさんの国の名著が文庫本になっているというのですね。アメリカ、ヨーロッパだけでなくロシア文学まで網羅してるわけですよ。
このあいだも、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が数十万部も売れたというような話がありましたが、もともと日本人は、そういう異文化を書物の形で受け入れる能力が高いのかもしれないって思うんですね。
つまり聖書のような「定形の倫理書」がない分「より視野の広い、高次の倫理観」を、常に求めている、求めざるを得ない精神構造が民族知として備わっているんじゃないかなぁって思うわけです。
明治の時代でも、あのスマイルズの自助論が「西国立志編」として大ヒットしたらしいですし、福沢諭吉が西欧の文化を日本人にわかりやすく説いた「学問のススメ」も、かなり多くの人が読んだといいますしね。
時代の変化を、正しい知識で的確に乗り越えて行くDNAみたいなものを、もともと日本人は持ってるんじゃないかなぁという気がしてきてるんです。
で、その大きな役割を担うのは、やっぱり、まずは「書籍」だよなぁって思います。
パソコンの画面より、やっぱり紙の方が情報量は多いですし、小さなチマチマした話ではなくて、大きな世界観みたいな事を大づかみに伝えるには、本という形態が最適なんですね。
ひとつの全体観、相互に関連し合った「体系」としての知識、というものを学ぶには、やはり書籍の形がいちばん効率的なわけです。
だから、とりあえず、自殺したくなったような、「どう生きれば良いのかわからない」という人も、まずは本を読んでみることだと思うのですよ。
何を読むかは、その人次第なんですけど。
海外の名作でも、ビジネス書でもいい。
(あんまり小説とかはオススメしないですけど。娯楽として読むのも、まぁいいけど、それだけではちょっと寂しい。)
なんでもいいから、とにかく本を手にとって数頁でもいいから読んでみる事だと思います。
とにかく学び続ける意志と、どんな変化にも対応できるタフさ。
若い人に伝えたいのは、そういう事だなぁ。
心のタフさがないから、すぐに自殺とかを考えてしまうんだろうなって思う。それはやっぱり不幸な事です。
生きる力を養う栄養分としての読書習慣。
これをまず、優先して身につけて欲しいなと思います。
官僚をこそ叩け。
2008年6月8日いつの間にか、こういう良き兆候が出ていたのですな。
この6月6日に、国家公務員制度改革基本法が可決・成立してたらしい。知らなかった。
(引用開始)----------------------------------------
国家公務員制度改革基本法、参院本会議で可決・成立
6月6日11時46分配信 読売新聞
国家公務員の幹部人事の一元管理導入などを柱とした国家公務員制度改革基本法は、6日午前の参院本会議で、自民、民主、公明の3党などの賛成多数で可決、成立した。
官僚主導や縦割り行政の是正など「霞が関改革」の実現が目的で、政府は1か月以内に福田首相を本部長とする「国家公務員制度改革推進本部」を設置し、改革の具体化に取り組む。
基本法は昨年の通常国会で成立した天下り規制を柱とする公務員制度改革関連法に続き、今後5年間の包括的な改革方針をまとめたもので、自民、民主、公明3党が共同修正を行った。
政府は内閣官房に「内閣人事局」を新設し、官房長官が作成する幹部人事の原案をもとに、閣僚が首相や官房長官と協議して任免を行うようにする。
国家公務員1種試験合格者がほぼ自動的に昇進するキャリア制度は廃止し、「総合職」「一般職」「専門職」に分けた採用試験により能力本位で幹部候補を育成する仕組みを導入する。また、政治主導の観点から、重要政策の企画立案で首相を補佐する「国家戦略スタッフ」を首相官邸に配置。国会議員と公務員の接触は、記録作成や情報公開で透明性を確保するとした。一連の施策については、法の施行後3年以内に、個別の関連法を整備するよう定めている。
給与水準などの労働条件を労使で決める「団体協約締結権」を付与する公務員の対象拡大に関しては、当初案の「検討する」から、「自律的労使関係制度を措置する」と踏み込んだ表現に改めた。
最終更新:6月6日11時46分
(引用終了)-------------------------------------------
この法律のキモは、ここ、であるようです。
----------------
政府は内閣官房に「内閣人事局」を新設し、官房長官が作成する幹部人事の原案をもとに、閣僚が首相や官房長官と協議して任免を行うようにする。
----------------
人事権を「官房長官」が握った!
素晴らしい。
官僚はこれで、嫌でも政治家の顔色をうかがわざるをえなくなるし、<政策の継続性>「しか」考えない政治体制がひっくり返る。
官房長官が政策ではなく「人間本位」で選んだら、そういう事になる。
政策なんか、失敗しながらひっくり返しながらドタバタと練り上げていけばいいんだ。謝るべき所は謝って。
いまの官僚は「無誤謬の原則」とか言って、前任者批判をせず「我々の判断に間違いはございません。」という事にしてるからダメなのだ。失敗・間違いが表に出てこない。
失敗せずに、成長する人間なんかおらんわ!バカモンが!
この人事権が政治家の側に移ったというところは注視しておかないとダメですね。これがまた官僚の側に移行したら、この法案は骨抜きになるから。
ちゅうか、知らないうちに良い法案が出来てたのだねぇ。まぁ「骨抜きだ」という人もいてるらしいけど、ゼロよりはるかに良い。
この法案は自民・公明・民主の三党で可決したわけですが、けっこう福田さんの妥協が良かったようですな。
なんだかんだ言っても福田さんは悪い人じゃないですよ。政治家の能力としては、はなはだ疑問を感じるけど、まぁまともはまともでしょう。
なんか、新入公務員への挨拶で、
「皆さんは、税金で食べさせてもらうのですから、国民に雇われているひとたちなのですから、このことをひとときも忘れないように」
と言ったらしい。
正しい。実に正しい。
まず、ここのところを何千億回でも、官僚は暗唱せよ。
一日に30回以上、復唱せよ。
「皆さんは、税金で食べさせてもらうのですから、国民に雇われているひとたちなのですから、このことをひとときも忘れないように」
一秒でも忘れたら、許さん。
お前らは、本来、国民の役に立ってないなと思ったら、即、自主退職すべき立場なのだ。
お前らが、ひとりでも金を稼いで税金を払う側になれば、それだけでかなり国家財政は助かるのだ。
だから、役に立っていないのに、自主的に公務員をやめもしない公務員は人間のクズである。
ウジ虫である。
本来、役人などというものは、お乞食さんとおなじく、庶民のお情けで生かされている生き物で、人間以下なのです。最初から。自分の力で生きていくことすら出来てない、出来損ない集団なんです。
だから、一般庶民から蔑まれているべき存在なのです。
貶められて、足蹴にされて、踏みつけにされて、クソだ、ウジ虫だと罵られて、それでも天下国家のために、その悲惨さに耐えて役割を全うする気概のある人以外は、官僚になっちゃいかんのですよ。
官僚というのは、もともと、本質がそういう存在です。
だから、そういう天下国家に殉じる気概もない奴は、さすがに殺すわけにはいかないから、世間から徹底的にこき下ろしてやればいいのであります。
ところが、いまの官僚どもは「世間から、いくらこき下ろされようと、自分の生活を守るために、しがみつく。」という事しか考えてないのが大半。
だから、人数も半分以下に減らしていいと思うし、給料も世間一般の3分の1以下でいいと思う。それで文句を言う奴は即刻クビ。
このあいだも、夜に自転車で走ってたら、大阪の広い道路の街灯も明々と灯っているところで、警官が二人ほどならんで、自転車の無灯火チェックとかやってるわけだ。
ムダやろ、それ。
どんだけ明るいねん。
田舎道の暗い場所と違うぞ。
こんなところで自転車の灯りをつけても、屁の役にも立たんわ。
なんでやねん。
と思った。
でも、どうも、自転車というのはほとんどが防犯登録されてるから、警官の勤怠状況のチェックに便利、という事があるみたいなんよなぁ。
とりあえず、自転車を止めて、「番号確認しますから、少しお待ちください」とやれば、仕事をしてる事になるんでしょうよ。
上からのノルマとかあるらしいね。
例のねずみ取りとかも同じ。
税金の無駄遣いやと思ったね。
なので、止められた時に「自転車の無灯火チェックで…」と言いやがった瞬間に、即電灯をつけて「これでええでしょ」と言ってそのまま走り去りました。
誰が防犯登録確認までさせてやるものか。
ざまーみろ。イッヒッヒッヒ。
(私は底意地が悪いのです。それも徹底して。相手の一番痛いところを突き回すのが大好きです。その方が相手のためになるしね。)
なんでそんな明るい場所で無灯火チェックをやってるかといえば、暗い場所だと、自転車を待ってるだけで時間がどんどん減るし、そういう所だとみんながちゃんと照明をつけてるからです。
大通りだと無灯火で走ってる自転車がたくさんつかまえられて、防犯登録チェックができる。ノルマが達成できる。
ああああああ、ムダ!
これが税金のムダ使いでなくて、いったい何がムダ使いか!
橋下大阪府知事は、大阪府警の510人人員削減を提案したのに、現場から「国民の生命にかかわる人員の削減はいかがなものか」と反対にあって手を入れなかったらしいけど、まず、警官から減らせよ!ほんまに。警官の数、大杉。
なんで無灯火チェックに2人コンビで動く必要があんねん。
なんで自転車の防犯登録確認のために無線から何から使う必要があるねん。
それで暗い夜道という「国民の生命にかかわる」ところではチェックせずに、明るい大通りでチェックってどういう事よ。
ほんまに。
「おい、ここに泥棒がおるから逮捕せい!」
と、その若い警官に言ってやりたかった。
-----------
税金泥棒っちゅう泥棒が、ここにおりまんねん!
警官やったら、すぐに逮捕してくれ。
現行犯やから、逮捕状もいらん。
お前の手錠をお前の手にかけたら終いや。
それ、はよやれ!
やらんかぁボケ!
現行犯やぞ!現行犯!
それもわからんのか!ドアホ。
お前なんか
仕事もでけへん役人やから、自主的に退職せい!
-----------------
と言いたかった。
役割の本質を分ってない奴は大嫌いです。
人は生きている意味というのがあって、その役割をイキイキと全うしてこそ、生きている意味があるんです。
それを実感できてないなら、死んでるのと同じ。
うっとうしいだけやから、俺の目の前から消えてくれって思う。
死んでしまってくれても、私は悲しくないです。
いや、ほんま。
自分を生きてない奴って本当にうっとおしいです。
この6月6日に、国家公務員制度改革基本法が可決・成立してたらしい。知らなかった。
(引用開始)----------------------------------------
国家公務員制度改革基本法、参院本会議で可決・成立
6月6日11時46分配信 読売新聞
国家公務員の幹部人事の一元管理導入などを柱とした国家公務員制度改革基本法は、6日午前の参院本会議で、自民、民主、公明の3党などの賛成多数で可決、成立した。
官僚主導や縦割り行政の是正など「霞が関改革」の実現が目的で、政府は1か月以内に福田首相を本部長とする「国家公務員制度改革推進本部」を設置し、改革の具体化に取り組む。
基本法は昨年の通常国会で成立した天下り規制を柱とする公務員制度改革関連法に続き、今後5年間の包括的な改革方針をまとめたもので、自民、民主、公明3党が共同修正を行った。
政府は内閣官房に「内閣人事局」を新設し、官房長官が作成する幹部人事の原案をもとに、閣僚が首相や官房長官と協議して任免を行うようにする。
国家公務員1種試験合格者がほぼ自動的に昇進するキャリア制度は廃止し、「総合職」「一般職」「専門職」に分けた採用試験により能力本位で幹部候補を育成する仕組みを導入する。また、政治主導の観点から、重要政策の企画立案で首相を補佐する「国家戦略スタッフ」を首相官邸に配置。国会議員と公務員の接触は、記録作成や情報公開で透明性を確保するとした。一連の施策については、法の施行後3年以内に、個別の関連法を整備するよう定めている。
給与水準などの労働条件を労使で決める「団体協約締結権」を付与する公務員の対象拡大に関しては、当初案の「検討する」から、「自律的労使関係制度を措置する」と踏み込んだ表現に改めた。
最終更新:6月6日11時46分
(引用終了)-------------------------------------------
この法律のキモは、ここ、であるようです。
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政府は内閣官房に「内閣人事局」を新設し、官房長官が作成する幹部人事の原案をもとに、閣僚が首相や官房長官と協議して任免を行うようにする。
----------------
人事権を「官房長官」が握った!
素晴らしい。
官僚はこれで、嫌でも政治家の顔色をうかがわざるをえなくなるし、<政策の継続性>「しか」考えない政治体制がひっくり返る。
官房長官が政策ではなく「人間本位」で選んだら、そういう事になる。
政策なんか、失敗しながらひっくり返しながらドタバタと練り上げていけばいいんだ。謝るべき所は謝って。
いまの官僚は「無誤謬の原則」とか言って、前任者批判をせず「我々の判断に間違いはございません。」という事にしてるからダメなのだ。失敗・間違いが表に出てこない。
失敗せずに、成長する人間なんかおらんわ!バカモンが!
この人事権が政治家の側に移ったというところは注視しておかないとダメですね。これがまた官僚の側に移行したら、この法案は骨抜きになるから。
ちゅうか、知らないうちに良い法案が出来てたのだねぇ。まぁ「骨抜きだ」という人もいてるらしいけど、ゼロよりはるかに良い。
この法案は自民・公明・民主の三党で可決したわけですが、けっこう福田さんの妥協が良かったようですな。
なんだかんだ言っても福田さんは悪い人じゃないですよ。政治家の能力としては、はなはだ疑問を感じるけど、まぁまともはまともでしょう。
なんか、新入公務員への挨拶で、
「皆さんは、税金で食べさせてもらうのですから、国民に雇われているひとたちなのですから、このことをひとときも忘れないように」
と言ったらしい。
正しい。実に正しい。
まず、ここのところを何千億回でも、官僚は暗唱せよ。
一日に30回以上、復唱せよ。
「皆さんは、税金で食べさせてもらうのですから、国民に雇われているひとたちなのですから、このことをひとときも忘れないように」
一秒でも忘れたら、許さん。
お前らは、本来、国民の役に立ってないなと思ったら、即、自主退職すべき立場なのだ。
お前らが、ひとりでも金を稼いで税金を払う側になれば、それだけでかなり国家財政は助かるのだ。
だから、役に立っていないのに、自主的に公務員をやめもしない公務員は人間のクズである。
ウジ虫である。
本来、役人などというものは、お乞食さんとおなじく、庶民のお情けで生かされている生き物で、人間以下なのです。最初から。自分の力で生きていくことすら出来てない、出来損ない集団なんです。
だから、一般庶民から蔑まれているべき存在なのです。
貶められて、足蹴にされて、踏みつけにされて、クソだ、ウジ虫だと罵られて、それでも天下国家のために、その悲惨さに耐えて役割を全うする気概のある人以外は、官僚になっちゃいかんのですよ。
官僚というのは、もともと、本質がそういう存在です。
だから、そういう天下国家に殉じる気概もない奴は、さすがに殺すわけにはいかないから、世間から徹底的にこき下ろしてやればいいのであります。
ところが、いまの官僚どもは「世間から、いくらこき下ろされようと、自分の生活を守るために、しがみつく。」という事しか考えてないのが大半。
だから、人数も半分以下に減らしていいと思うし、給料も世間一般の3分の1以下でいいと思う。それで文句を言う奴は即刻クビ。
このあいだも、夜に自転車で走ってたら、大阪の広い道路の街灯も明々と灯っているところで、警官が二人ほどならんで、自転車の無灯火チェックとかやってるわけだ。
ムダやろ、それ。
どんだけ明るいねん。
田舎道の暗い場所と違うぞ。
こんなところで自転車の灯りをつけても、屁の役にも立たんわ。
なんでやねん。
と思った。
でも、どうも、自転車というのはほとんどが防犯登録されてるから、警官の勤怠状況のチェックに便利、という事があるみたいなんよなぁ。
とりあえず、自転車を止めて、「番号確認しますから、少しお待ちください」とやれば、仕事をしてる事になるんでしょうよ。
上からのノルマとかあるらしいね。
例のねずみ取りとかも同じ。
税金の無駄遣いやと思ったね。
なので、止められた時に「自転車の無灯火チェックで…」と言いやがった瞬間に、即電灯をつけて「これでええでしょ」と言ってそのまま走り去りました。
誰が防犯登録確認までさせてやるものか。
ざまーみろ。イッヒッヒッヒ。
(私は底意地が悪いのです。それも徹底して。相手の一番痛いところを突き回すのが大好きです。その方が相手のためになるしね。)
なんでそんな明るい場所で無灯火チェックをやってるかといえば、暗い場所だと、自転車を待ってるだけで時間がどんどん減るし、そういう所だとみんながちゃんと照明をつけてるからです。
大通りだと無灯火で走ってる自転車がたくさんつかまえられて、防犯登録チェックができる。ノルマが達成できる。
ああああああ、ムダ!
これが税金のムダ使いでなくて、いったい何がムダ使いか!
橋下大阪府知事は、大阪府警の510人人員削減を提案したのに、現場から「国民の生命にかかわる人員の削減はいかがなものか」と反対にあって手を入れなかったらしいけど、まず、警官から減らせよ!ほんまに。警官の数、大杉。
なんで無灯火チェックに2人コンビで動く必要があんねん。
なんで自転車の防犯登録確認のために無線から何から使う必要があるねん。
それで暗い夜道という「国民の生命にかかわる」ところではチェックせずに、明るい大通りでチェックってどういう事よ。
ほんまに。
「おい、ここに泥棒がおるから逮捕せい!」
と、その若い警官に言ってやりたかった。
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税金泥棒っちゅう泥棒が、ここにおりまんねん!
警官やったら、すぐに逮捕してくれ。
現行犯やから、逮捕状もいらん。
お前の手錠をお前の手にかけたら終いや。
それ、はよやれ!
やらんかぁボケ!
現行犯やぞ!現行犯!
それもわからんのか!ドアホ。
お前なんか
仕事もでけへん役人やから、自主的に退職せい!
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と言いたかった。
役割の本質を分ってない奴は大嫌いです。
人は生きている意味というのがあって、その役割をイキイキと全うしてこそ、生きている意味があるんです。
それを実感できてないなら、死んでるのと同じ。
うっとうしいだけやから、俺の目の前から消えてくれって思う。
死んでしまってくれても、私は悲しくないです。
いや、ほんま。
自分を生きてない奴って本当にうっとおしいです。
学ばないから自殺に走る。
2008年6月4日 読書 コメント (12)
6/4 夜:一部修正しました。
----------------------------------
昨日、書店で齋藤孝の新著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」というのが出てたので買ったのです。
なぜ日本人は学ばなくなったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062879433/503-1393334-5299133
まだ、30頁くらいしか読んでないけど、まさに我が意を得たり、という感じ。
見事です。
前書きから引用します。
(引用開始)--------------------
(略)現在「勤勉なる日本人」は、神話と化した。実態は「学び嫌いの日本人」である。「バカ」という言葉は品がないのであまり使いたくはないが、そうとでも表現するしかない事態が日本を浸食している。
私の言う「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受け身の快楽にふけるあり方」のことだ。
(略)
いくらでも学ぶ道があるのに、ゲームや友人同士のメールに時間を湯水のように注ぎ込んで疑いを持たない、そんなあり方を、私はどうしても看過できない。
(引用終了)----------------------------
という時代認識が、まずとても共感できます。日々、強い焦りを感じるほどにジリジリと感じている事を見事に言い表してくれてるなぁって思います。
ひとりやふたりの事ではないのです。日本人全体がそういう「気分」になっている。そこが問題だと思う。
で、「そうだよ!その通りだよ!」と思ったのが、続いての一節。
(引用開始)-----------------------------
なぜなら、学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心を持たない人間は、自分を明日を今日よりも良い日だと信じる事ができない。
(引用終了)-----------------------------
Yes! その通り! まさに私は、これを言いたい!
明日を希望で一杯にするためには、まず自分が学ぶことなのだ、という当たり前の前提を忘れてやしまへんか? おっさん! ニイチャン! ギャルども!
とまぁ思うわけだ。
このところ自殺が「流行って」いて、(こんなものが「流行る」という事自体がおかしい。そのおかしさに気付けよ! 日本人!全員正座! 内観せよ!いますぐ! 仕事も食事もゲームもケータイもやめて、すぐ正座して内観せい! 自分をみつめて、自分と語り合えっちゅうねん。)ワイワイ騒がれてますが、一番の根幹は「みなが学ぶ意欲をもたなくなった」のが大きな原因なんですよ。はっきりと!
もうちょっと齋藤さんの前書きの続きを引用します。
(引用開始)-------------------------------
ゲームやバラエティ番組が「生きる力」を与えてくれるわけではない。生命力は、努力して磨き、身につけた技によって、現実を生き抜く力となる。
(引用終了)-------------------------------
これです、これ。
自分磨き、自分育て。学習。
これ以外に先の見えない明日に対する適切な処方はないんです。明日を的確に生きるには、キチンと自分育てをすることなんです。
ここには、付け加えて、アップル・フェローとしても名高いアラン・ケイの「もっとも的確な未来予想は、その未来を自ら発明することである」という名言も加えておきたいんですが。(言い回しは間違ってるかも、です。)自分で作る未来が、一番的確なのですよ。
ではなぜ、こういう状態になったのか? という原因を、齋藤さんは、こう理由づける。
(引用開始)-------------------------------
(略)私の端的な回答は「リスペクト」という心の習慣を失ったからだ、ということです。
かつての日本人には何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が、ごく自然に身に付いていました。
(略)
たとえば、孔子の『論語』(講談社学術文庫)を学ぶとき、まず「子、のたまはく」の一言が出てきます。要するに「先生がおっしゃるには」と孔子への敬意を込め、だからこそ身につける価値があるという意味も含めているわけです。
(引用終了)-------------------------------
となります。
リスペクト。
つまり尊敬ですね。
あこがれ、という言葉も齋藤さんはよく使うけれど、それも大事。
尊敬とあこがれがあってはじめて、「そこへ私も行きたい」となるわけです。で、この「そこへ行きたい」という気持ちこそが、学ぶ意欲であって、明日への投資であり、明日への希望となるものなのです。
心に、あこがれの灯をともせ、という事ですね。
ああいう素晴らしい人、碩学たる人物、良き人になりたいと思う心のベクトルみたいなものが人間が充実した生を生きるには必要なのだと思います。
このあこがれや尊敬の心を齋藤さんは「垂直の関係」と捉えてます。自分より大きなものに敬意を払う、という態度ですね。そこに向かって自分を作っていく関係。下から上に向かっていく、あるいは、あこがれる人の大きさと自分の内面の精神的未熟さを比較して自分の至らなさに思い至るという関係。これを垂直軸でとらえておられます。
で、いまという時代は、「ひたすら水平的に、何かいいものはないか、おもしろいものはないかと探し回っているだけ」と見破っておられる。
こういう水平的なさまよい状態を、「最近の世の中はこれを『自分探し』と称しているが…」と批判的な視点で見ておられます。
そりゃそうだよなぁって思うんですよ。垂直の関係を意識していなかったら、自分の「伸び」が感じられないんですよね。水平だけでは、何年たとうが、何十年たとうが、同じ事なんです。
垂直の関係、あこがれと尊敬があってはじめて、空間軸によるさまよいではなく、時間軸による「成長」という希望を得る事ができるわけです。
これがね、明日に期待を持てずに自殺する人の根源的な不幸なんだと思う。この垂直軸を、どういうわけか80年代以降、日本人は失ってしまったと齋藤さんはおっしゃるわけです。そうだよなぁ、まさにその通りだ! って思う。いまの若い人なんかは特にそういう垂直軸のない時代の被害者になってしまってるよなぁって思うんですよ。
テレビとネットというのが、こういう「水平志向」に輪をかけていると、齋藤さんはおっしゃる。テレビに学者が出た時に、とにかく良いことや正論を言ってもカットされ、失敗したり失言した部分ばかりが使われる、権威を引きずり下ろして、「みんながフラット」になるようにばかりしている、「フラット化が加速している」と言われるわけです。
「フラット化」! 実に言い得ていると思う。
いまの時代、こればっかり。
ひたすらひきずりおろして、「わしと同じ人間じゃろが」と言って、勉強しない方になじませようとする。
アホか。
知ったことか。
そんな事してたら、最後には自殺するくらいしか道がなくなるわい!って思うんですよね。
二三日前に、築山節さんの「脳と気持ちの整理術」という本も読んだのですが、
脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/249-9767057-8485143
これもなかなか良いことが色々書いてあって、その中で「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話があって、結果的にどんどん脳の能力が下がっていってしまう話が書いてあったのですよ。
まさにこれ!
世の中がフラット化していくと、回りを自分と同じ「低さ」に合わせさせようと、「引きずり下ろし」作業がはじまる。
で、フラット同士の間では「相対的上下感覚」はないことになるし、マヒしてしまうので、全体を見渡した時には、レベルがドンドン、ガンガンに下がって行ってるのに、「フラット化された社会の住人」は全然気付かない、というような状況になる。
こんな恐ろしい事はないですよ。
こういう社会状況が、嫌で嫌で仕方ない。
助けてくれ!と叫びたくなってしまうんですね。
で、本を読め! とやたらと言ってるわけですが、実は出版界はものすごい不況です。売れてるのはコミックスとジュニア小説とかそういうのだけで、そのコミックスですら売り上げにかげりが出てきてる。ようはみんな本も読まなくなってるんです。
で、そういう事とはまったく別に、世の「フラット化」とは全然関係なく、「私は私」とキチンと勉強しまくるような一派というかグループもどんどん出てきてるわけですね。
そういう人は逆に「月50冊読んでます」とかなわけです。速読の技術をキチンと身につけて。
この極端な差!
なんなんだ、これは。
やっぱりね、せめて「尊敬とあこがれ」の気持ちくらいは、日本人の重要な文化として維持しないとイカンよなぁって思うんです。
思うんですが、昔のように簡単には「尊敬の心」が育みにくくなってるんですね。
なんでかというと、学校の教師の質が下がった。学校の教師自ら「フラット化」の手先だったりするくらいですから。ゆとり教育なんて、その代表例だよなぁって思う。(本来の意味はちょっと違ってたようなんですが、とどのつまり運用側である学校&親の環境に本来的あり方を問う能力がなかったってことでしょうけど。)
ゆとり教育なんかやってしまって、結果として残ったのは「勉強なんかしなくてもいいんだよ。お前がお前でありさえすれば。」という存在を認めるという部分だけ。
いや、それはそれで大事なんだけどね。でも勉強もしなくちゃダメなんだよ、それは。明日のために。時間軸のために。
そうしないでズブズブやってきたから、「自殺が流行る」という、このどうしようもないグズグズの日本に成り下がってしまったんじゃないか。
そういう社会状況の悪影響を受けて、本すら読まずに、テレビばっかり見て、ゲームで貴重な時間を超浪費して、ケータイの通話量を減らすことも考えずに値段が高いと文句を垂れるような人種がすごく増えた。
で、そういう人間に限って「リスペクト」の大切さを理解していない。
たとえば、僕の知ってる人間などでは、読んでもいない本の著者を「トンデモ本」作者扱いした発言をして、自分の無知と努力不足を直視しないようにするという情けない行為・発言をしてたりするわけです。
まぁ当人は自分の弱いところを見ずに済んで、「ああ良かった」かも知れないですけどな。私ゃ、尊敬し、リスペクトしている著者をトンデモ扱いされて腹が立つこと、この上ない。
こんな奴、まさに社会の自殺の原因を作ってるような許されざる人間だから、横っ面はり倒して、けり倒して、ボコスコに殴り倒してやりたいくらいに立腹してるわけですが、この立腹の感情的構造を理解することすらできないわけですよ、勉強しない人間には。理解する能力自体がない。
「バカな事を言うな」と言っても、こっちが怒ってる原因、その重さ、自体を推し量れないわけです。能力がない。
怒るだけ損って事なわけですよ。これは。
で、いまの社会、そこまで「フラット化」が当たり前になってるわけです。権威というものが権威であるというだけで否定されるんですね。
違うっちゅうに。
権威は真に素晴らしい権威は、知やノウハウなどを学ぶのにも効率的で、素晴らしいものなのです。尊敬やあこがれは絶対に重要なことなのです。
で、その過程でどうしても形だけの「権威」っていうのも出てくるけど、これもある程度はしょうがない。
で、一番重要な事は真に意味ある権威を守る事だから、まったく中身のない権威は、絶対に、どうあっても引きずりおろさないと行けないって事なのです。
だから、その権威の中身があるかないかを判定する能力を、「下」の側が見る目を養っておかなければいけないってことなんですよ。
本物の実力があるかどうかをしっかり見極める目を持たなくてはいけない。その判定力を身につけるために、人との関係などの倫理観をはじめ、さまざまな視点を身につけていかなければならないって事なのです。それが学習です。
だから勉強は日本人全員に必須なわけです。(欧米なら倫理観は聖書などに書かれてますから、読むのは一冊で済みますが、日本にはそんなものはないので、いろいろ読むしかありません。)
つまり「権威の善し悪し」を判定する能力自体が、バカには備わっていないって事なわけです。
だから、なんでもかんでも引きずりおろそうとするんですね。なんでもフラット化。クソもミソもいっしょか! おまえら、ウンコで作ったミソラーメンでも食っとけ! という話です。
これが、自然発生的に生まれた状況なら仕方ないのですが、先日も
派遣業者など「人買い」である。
http://diarynote.jp/d/12917/20080526.html
で書いたように、政府と企業が結託して、「低賃金労働者層」という「アホ」を計画的に再生産して、日本をどんどんダメ化している、というのがいまの日本の現実なわけですよ。
こういうウソを見破る事こそが、学習する意味なんです。
見破れないままだと、ダマされるだけです。それはやっぱりどうしたって「アホ」「バカ」でしかないのです。
どうすんねん、そんなにアホばっかり再生産して。アホが「マトモ」をアホの側に引きずり降ろして、意味があるんか?
ええ?
自分の味方になるような、本物の権威、優れた人物まで、「フラット化」して、お前に得はあるのか?
ただ、さまよう「自分探し」や、薄ら寒い消費文化に流されるだけやないか!
何で、そこまでお前らのカスみたいな低レベル化に合わせなアカンねん。嫌なこった。と思うばかりでねぇ。勉強せいよ、勉強!って思う。
ほんまにね、一人でも多く、勉強する人が増えて欲しいと思います。それも緊急に、です。
って、愚痴ばっかり言っててもしょーがないので、僕的にはこうした発言等も含めて、ネットとかも活用しながら、勉強会とか、そういうのを、出来る範囲で作っていこうかなぁといろいろ考えておるのであります。
ここで書いた書評とかも、ある程度まとめてホームページ化しようかなぁとか、いろいろ考えておるのであります。
まず自ら動かないとダメですよね。
文句ばっかり言っててもダメ。
勉強しないと、素晴らしい先達のご著書ですら「トンデモ本」としか思えないという白痴状態にしかなれませんから。判定能力自体が失われるわけですから。こんな薄ら寒いことはありませんぜ。
齋藤さんの、この本の感想は、また改めて書きますけど、ともあれ、最近、強く強く感じていた事を、見事に言い当ててくれてる文章を読んだので、うれしくて書いてしまいました。
ま、そんな事で。
----------------------------------
昨日、書店で齋藤孝の新著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」というのが出てたので買ったのです。
なぜ日本人は学ばなくなったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062879433/503-1393334-5299133
まだ、30頁くらいしか読んでないけど、まさに我が意を得たり、という感じ。
見事です。
前書きから引用します。
(引用開始)--------------------
(略)現在「勤勉なる日本人」は、神話と化した。実態は「学び嫌いの日本人」である。「バカ」という言葉は品がないのであまり使いたくはないが、そうとでも表現するしかない事態が日本を浸食している。
私の言う「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受け身の快楽にふけるあり方」のことだ。
(略)
いくらでも学ぶ道があるのに、ゲームや友人同士のメールに時間を湯水のように注ぎ込んで疑いを持たない、そんなあり方を、私はどうしても看過できない。
(引用終了)----------------------------
という時代認識が、まずとても共感できます。日々、強い焦りを感じるほどにジリジリと感じている事を見事に言い表してくれてるなぁって思います。
ひとりやふたりの事ではないのです。日本人全体がそういう「気分」になっている。そこが問題だと思う。
で、「そうだよ!その通りだよ!」と思ったのが、続いての一節。
(引用開始)-----------------------------
なぜなら、学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心を持たない人間は、自分を明日を今日よりも良い日だと信じる事ができない。
(引用終了)-----------------------------
Yes! その通り! まさに私は、これを言いたい!
明日を希望で一杯にするためには、まず自分が学ぶことなのだ、という当たり前の前提を忘れてやしまへんか? おっさん! ニイチャン! ギャルども!
とまぁ思うわけだ。
このところ自殺が「流行って」いて、(こんなものが「流行る」という事自体がおかしい。そのおかしさに気付けよ! 日本人!全員正座! 内観せよ!いますぐ! 仕事も食事もゲームもケータイもやめて、すぐ正座して内観せい! 自分をみつめて、自分と語り合えっちゅうねん。)ワイワイ騒がれてますが、一番の根幹は「みなが学ぶ意欲をもたなくなった」のが大きな原因なんですよ。はっきりと!
もうちょっと齋藤さんの前書きの続きを引用します。
(引用開始)-------------------------------
ゲームやバラエティ番組が「生きる力」を与えてくれるわけではない。生命力は、努力して磨き、身につけた技によって、現実を生き抜く力となる。
(引用終了)-------------------------------
これです、これ。
自分磨き、自分育て。学習。
これ以外に先の見えない明日に対する適切な処方はないんです。明日を的確に生きるには、キチンと自分育てをすることなんです。
ここには、付け加えて、アップル・フェローとしても名高いアラン・ケイの「もっとも的確な未来予想は、その未来を自ら発明することである」という名言も加えておきたいんですが。(言い回しは間違ってるかも、です。)自分で作る未来が、一番的確なのですよ。
ではなぜ、こういう状態になったのか? という原因を、齋藤さんは、こう理由づける。
(引用開始)-------------------------------
(略)私の端的な回答は「リスペクト」という心の習慣を失ったからだ、ということです。
かつての日本人には何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が、ごく自然に身に付いていました。
(略)
たとえば、孔子の『論語』(講談社学術文庫)を学ぶとき、まず「子、のたまはく」の一言が出てきます。要するに「先生がおっしゃるには」と孔子への敬意を込め、だからこそ身につける価値があるという意味も含めているわけです。
(引用終了)-------------------------------
となります。
リスペクト。
つまり尊敬ですね。
あこがれ、という言葉も齋藤さんはよく使うけれど、それも大事。
尊敬とあこがれがあってはじめて、「そこへ私も行きたい」となるわけです。で、この「そこへ行きたい」という気持ちこそが、学ぶ意欲であって、明日への投資であり、明日への希望となるものなのです。
心に、あこがれの灯をともせ、という事ですね。
ああいう素晴らしい人、碩学たる人物、良き人になりたいと思う心のベクトルみたいなものが人間が充実した生を生きるには必要なのだと思います。
このあこがれや尊敬の心を齋藤さんは「垂直の関係」と捉えてます。自分より大きなものに敬意を払う、という態度ですね。そこに向かって自分を作っていく関係。下から上に向かっていく、あるいは、あこがれる人の大きさと自分の内面の精神的未熟さを比較して自分の至らなさに思い至るという関係。これを垂直軸でとらえておられます。
で、いまという時代は、「ひたすら水平的に、何かいいものはないか、おもしろいものはないかと探し回っているだけ」と見破っておられる。
こういう水平的なさまよい状態を、「最近の世の中はこれを『自分探し』と称しているが…」と批判的な視点で見ておられます。
そりゃそうだよなぁって思うんですよ。垂直の関係を意識していなかったら、自分の「伸び」が感じられないんですよね。水平だけでは、何年たとうが、何十年たとうが、同じ事なんです。
垂直の関係、あこがれと尊敬があってはじめて、空間軸によるさまよいではなく、時間軸による「成長」という希望を得る事ができるわけです。
これがね、明日に期待を持てずに自殺する人の根源的な不幸なんだと思う。この垂直軸を、どういうわけか80年代以降、日本人は失ってしまったと齋藤さんはおっしゃるわけです。そうだよなぁ、まさにその通りだ! って思う。いまの若い人なんかは特にそういう垂直軸のない時代の被害者になってしまってるよなぁって思うんですよ。
テレビとネットというのが、こういう「水平志向」に輪をかけていると、齋藤さんはおっしゃる。テレビに学者が出た時に、とにかく良いことや正論を言ってもカットされ、失敗したり失言した部分ばかりが使われる、権威を引きずり下ろして、「みんながフラット」になるようにばかりしている、「フラット化が加速している」と言われるわけです。
「フラット化」! 実に言い得ていると思う。
いまの時代、こればっかり。
ひたすらひきずりおろして、「わしと同じ人間じゃろが」と言って、勉強しない方になじませようとする。
アホか。
知ったことか。
そんな事してたら、最後には自殺するくらいしか道がなくなるわい!って思うんですよね。
二三日前に、築山節さんの「脳と気持ちの整理術」という本も読んだのですが、
脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/249-9767057-8485143
これもなかなか良いことが色々書いてあって、その中で「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話があって、結果的にどんどん脳の能力が下がっていってしまう話が書いてあったのですよ。
まさにこれ!
世の中がフラット化していくと、回りを自分と同じ「低さ」に合わせさせようと、「引きずり下ろし」作業がはじまる。
で、フラット同士の間では「相対的上下感覚」はないことになるし、マヒしてしまうので、全体を見渡した時には、レベルがドンドン、ガンガンに下がって行ってるのに、「フラット化された社会の住人」は全然気付かない、というような状況になる。
こんな恐ろしい事はないですよ。
こういう社会状況が、嫌で嫌で仕方ない。
助けてくれ!と叫びたくなってしまうんですね。
で、本を読め! とやたらと言ってるわけですが、実は出版界はものすごい不況です。売れてるのはコミックスとジュニア小説とかそういうのだけで、そのコミックスですら売り上げにかげりが出てきてる。ようはみんな本も読まなくなってるんです。
で、そういう事とはまったく別に、世の「フラット化」とは全然関係なく、「私は私」とキチンと勉強しまくるような一派というかグループもどんどん出てきてるわけですね。
そういう人は逆に「月50冊読んでます」とかなわけです。速読の技術をキチンと身につけて。
この極端な差!
なんなんだ、これは。
やっぱりね、せめて「尊敬とあこがれ」の気持ちくらいは、日本人の重要な文化として維持しないとイカンよなぁって思うんです。
思うんですが、昔のように簡単には「尊敬の心」が育みにくくなってるんですね。
なんでかというと、学校の教師の質が下がった。学校の教師自ら「フラット化」の手先だったりするくらいですから。ゆとり教育なんて、その代表例だよなぁって思う。(本来の意味はちょっと違ってたようなんですが、とどのつまり運用側である学校&親の環境に本来的あり方を問う能力がなかったってことでしょうけど。)
ゆとり教育なんかやってしまって、結果として残ったのは「勉強なんかしなくてもいいんだよ。お前がお前でありさえすれば。」という存在を認めるという部分だけ。
いや、それはそれで大事なんだけどね。でも勉強もしなくちゃダメなんだよ、それは。明日のために。時間軸のために。
そうしないでズブズブやってきたから、「自殺が流行る」という、このどうしようもないグズグズの日本に成り下がってしまったんじゃないか。
そういう社会状況の悪影響を受けて、本すら読まずに、テレビばっかり見て、ゲームで貴重な時間を超浪費して、ケータイの通話量を減らすことも考えずに値段が高いと文句を垂れるような人種がすごく増えた。
で、そういう人間に限って「リスペクト」の大切さを理解していない。
たとえば、僕の知ってる人間などでは、読んでもいない本の著者を「トンデモ本」作者扱いした発言をして、自分の無知と努力不足を直視しないようにするという情けない行為・発言をしてたりするわけです。
まぁ当人は自分の弱いところを見ずに済んで、「ああ良かった」かも知れないですけどな。私ゃ、尊敬し、リスペクトしている著者をトンデモ扱いされて腹が立つこと、この上ない。
こんな奴、まさに社会の自殺の原因を作ってるような許されざる人間だから、横っ面はり倒して、けり倒して、ボコスコに殴り倒してやりたいくらいに立腹してるわけですが、この立腹の感情的構造を理解することすらできないわけですよ、勉強しない人間には。理解する能力自体がない。
「バカな事を言うな」と言っても、こっちが怒ってる原因、その重さ、自体を推し量れないわけです。能力がない。
怒るだけ損って事なわけですよ。これは。
で、いまの社会、そこまで「フラット化」が当たり前になってるわけです。権威というものが権威であるというだけで否定されるんですね。
違うっちゅうに。
権威は真に素晴らしい権威は、知やノウハウなどを学ぶのにも効率的で、素晴らしいものなのです。尊敬やあこがれは絶対に重要なことなのです。
で、その過程でどうしても形だけの「権威」っていうのも出てくるけど、これもある程度はしょうがない。
で、一番重要な事は真に意味ある権威を守る事だから、まったく中身のない権威は、絶対に、どうあっても引きずりおろさないと行けないって事なのです。
だから、その権威の中身があるかないかを判定する能力を、「下」の側が見る目を養っておかなければいけないってことなんですよ。
本物の実力があるかどうかをしっかり見極める目を持たなくてはいけない。その判定力を身につけるために、人との関係などの倫理観をはじめ、さまざまな視点を身につけていかなければならないって事なのです。それが学習です。
だから勉強は日本人全員に必須なわけです。(欧米なら倫理観は聖書などに書かれてますから、読むのは一冊で済みますが、日本にはそんなものはないので、いろいろ読むしかありません。)
つまり「権威の善し悪し」を判定する能力自体が、バカには備わっていないって事なわけです。
だから、なんでもかんでも引きずりおろそうとするんですね。なんでもフラット化。クソもミソもいっしょか! おまえら、ウンコで作ったミソラーメンでも食っとけ! という話です。
これが、自然発生的に生まれた状況なら仕方ないのですが、先日も
派遣業者など「人買い」である。
http://diarynote.jp/d/12917/20080526.html
で書いたように、政府と企業が結託して、「低賃金労働者層」という「アホ」を計画的に再生産して、日本をどんどんダメ化している、というのがいまの日本の現実なわけですよ。
こういうウソを見破る事こそが、学習する意味なんです。
見破れないままだと、ダマされるだけです。それはやっぱりどうしたって「アホ」「バカ」でしかないのです。
どうすんねん、そんなにアホばっかり再生産して。アホが「マトモ」をアホの側に引きずり降ろして、意味があるんか?
ええ?
自分の味方になるような、本物の権威、優れた人物まで、「フラット化」して、お前に得はあるのか?
ただ、さまよう「自分探し」や、薄ら寒い消費文化に流されるだけやないか!
何で、そこまでお前らのカスみたいな低レベル化に合わせなアカンねん。嫌なこった。と思うばかりでねぇ。勉強せいよ、勉強!って思う。
ほんまにね、一人でも多く、勉強する人が増えて欲しいと思います。それも緊急に、です。
って、愚痴ばっかり言っててもしょーがないので、僕的にはこうした発言等も含めて、ネットとかも活用しながら、勉強会とか、そういうのを、出来る範囲で作っていこうかなぁといろいろ考えておるのであります。
ここで書いた書評とかも、ある程度まとめてホームページ化しようかなぁとか、いろいろ考えておるのであります。
まず自ら動かないとダメですよね。
文句ばっかり言っててもダメ。
勉強しないと、素晴らしい先達のご著書ですら「トンデモ本」としか思えないという白痴状態にしかなれませんから。判定能力自体が失われるわけですから。こんな薄ら寒いことはありませんぜ。
齋藤さんの、この本の感想は、また改めて書きますけど、ともあれ、最近、強く強く感じていた事を、見事に言い当ててくれてる文章を読んだので、うれしくて書いてしまいました。
ま、そんな事で。
5月の風に吹かれて。
2008年5月28日 ●じぶんの心マップここのところ、自転車通勤をしてるのですが、とにかくいまの時期、自転車で走るのが気持ちいいのです。
あまり難しいことは考えないですが、単純に生きてるっていいなぁというか、自分の体がちゃんとここにあって、こういう世界を感じ取れているっていうのは気持ちいいなぁって思います。
このブログでは、前から宗教とかの話も書いたりしましたが、基本的にこういう「生きている事が素晴らしい」と感じる事こそが、ベーッシックな喜びで、この原点の喜びを忘れるところから、いろいろな心の苦しみがはじまるように、僕は思うのです。
科学がどれほど進もうが、生き物を科学の力で生み出すことはできません。生命の秘密は解き明かせていない。だから、「奇跡」というのは、「私がいま、ここにいること」そのものなのですよ。
自分が生きていること。この世というものが存在していることそのもの。それこそが奇跡です。思いません?
この当たり前の奇跡を、奇跡と思えないでいると、昔事件を起こした新興宗教の「座ったままジャンプを写真で撮ったもの」を見せられて「空中浮揚だ!」「奇跡だ!」てなことになってしまいます。
でも、日本人というのは宗教というものに弱いので、こういう「空中浮揚が奇跡だ」みたいな話にすぐに乗っかっていってしまうんですよね。
確かに、僕もけっこう「世にも不思議な偶然の一致」とかの話が大好きだったりするんで、「不思議話」に惹かれる人ではあるんですが、それでも、この、「私が生きている」という奇跡に比べたら、たかが知れてる。そんなもの、「私が生きてる奇跡」のバリエーションにしかすぎないよなぁって思うんです。
楽観的すぎるかもしれないですけど、単純に、人間は祝福されて生まれてきてるよなぁって思うわけです。この世界そのものが、まさに祝福だ、って思う。
人間がいて、空間があって、生き物があって、自然があって。そういうことのすべてが奇跡なのだから、それはやっぱり祝福だよなぁっていう感じ。
このね、基本的な喜びからね、離れてしまってる人を見るとね、どうしても僕は「バカモン!」と叱りつけてしまいたくなっちゃうんですよね。
この間書いた「人生を捨ててるタイプ」も、「頑張りすぎてるタイプ」も、この一番の基準値となる「私が生きているという奇跡」を忘れてるって思うんですよね。
ここの生きてる不思議、命があるという奇跡、こそが、グラフ用紙の原点ゼロだって思うわけです。
でもなぁ、なんでそうなっちゃうんだろうなぁ。
いや、自分自身も、よく「頑張りすぎてるタイプ」にはなっちゃう事があるしねぇ。
だから、まず、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりした時には、この原点に戻らないといけないんですよね。
ただ、恐ろしい事に人間というのは、自分が「人生を捨てるような態度になってしまってる」とか「頑張りすぎて他者を苦しみに陥れてる」とかを自分で把握するってことがなかなかできないんですよね。
どうしてそういう把握ができなくなるかというと、「感じる事を避けるから」なんですよね。僕の嫌いな「自己欺瞞」って奴です。
うれしい事や楽しい事は、素直に感じ取ろうとするんだけど、苦しいこととか悲しい事とかは、「感じないようにしよう」と、人間はついついしてしまうわけです。
これがね、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりという極端の方向へ、人間を走らせてしまう引き金になるようなんです。
前にこの日記の、
●i先生のこと。
http://diarynote.jp/d/12917/20070607.html
に書いた事ですけど、人間って、嫌な事や辛いことから逃げようとして「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまうんですね。でも、自分の失敗をキチンと認める事で「自分の事を恥ずかしく」感じて「感じる心」を取り戻すって事はあるわけですよ。
結局、感情に「良い感情」も「悪い感情」もないんですね。両方ともに神が与えてくれた素晴らしい感情であって、両方ともに素直に受け取って味わうようにしなければならないわけです。それを無視して「感じないようにする」と言うことをしてると、それが抑圧となって溜まっていって、自分に価値感を感じられなくなって「人生を捨て」たり、その自分の無さを穴埋めするために「頑張りすぎ」たりするわけです。
でも、やっぱりそういう「嫌な感情」は嫌なものなわけですから、避けたいのは当然なんですね。でも、どうやれば一番ラクかというと、これがまた「たっぷりしっかり味わう事」なわけですよ。
人間、いつまでも悲しみ続けたり、怖れ続けたりという事はできないわけです。キチンとしっかり自分の感情を味わうと、しっかり体に染みこんで緩やかに薄らいでいくわけで、これがもっとも早く悲しみや心の痛みをなくす方法なんですね。
失敗して恥ずかしい思いをした時とか、とにかくその時に「わーーー、恥ずかしぃぃぃ!!」っていうのを早めに味わう方が絶対に良いです。それも自分の大切な感情なわけですから。それを怖がって逃げちゃいけない。逃げると抑圧になって、ゆるやかーなストレスが延々ずーーーーーっと続くという事にしかなりませんから。
これは、
●「感じ方」は自由なのか?
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書いた事ですけど、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんです。つまり、「怖くならないようにするには、ちゃんと怖がってる自分を味わう」ことが大切だし、「恥ずかしい思いをしないためには、ちゃんと恥ずかしい思いを味わう」ことが大切だってことですね。
この「感じること」ができていなくて、前に進むことは絶対に出来ないわけです。
道に迷うっていうのは、迷った時に、「ここで迷った」というのはわからないものなんですよね。道を歩いていて、ある時何故か「ありゃ? おかしいぞ?」と感じ始めて「ちょっと待て、迷ったんじゃないか?」と地図を見直すというのが普通です。
で、「自分が間違えたポイント」まで戻って、そこからやり直すわけですね。
そうしない限り、迷い道からは抜け出せないのが普通でしょう。
だから、やはり、まず自分が間違えたポイントである「感じ方を押さえ込んだ時点」を明確に知るっていうのが効果が高いわけです。(他のやり方もあるけど。NLPなんかは間違ったポイントまでは戻らないやり方ですわね。あれはあれで意味があると思う。)
感じるべきところで感じていなかったのだ、とわかると、いろんな事が胸落ちするんですよねぇ。それは自分にだけは、はっきりわかる! という感覚でやってくる。「ああ、いままで、この感じてた自分を無視してたんだ」とわかるんですよ。
で、それが「ありのままの自分」を受け入れられたって事なんですよね。
失敗した自分のかっこ悪さとか、恥ずかしさ。不勉強なのに知ったかぶりをしてしまった恥ずかしさ。頑張りすぎて回りにストレスを与えてしまった自分の愚かさ。高い目標設定をして達成できなくて落ち込んでしまうという無理をする焦燥感。
そういうもの全てを、キチンと味わわないと、そういうアホな事をしてしまう自分を受け入れられないんですね。
で、そういう自分を受け入れるって事が、自分を好きになるって事で、この「自分を好きになる」「自分を愛する」というやり方ができてはじめて、「他者を愛する」「他者を好きになる」が無理なく落ち着いてできるようになるんだろうなぁ。
とまぁ、そういう事を、5月の風に吹かれて、自転車に乗りながら考えていたのであります。
あまり難しいことは考えないですが、単純に生きてるっていいなぁというか、自分の体がちゃんとここにあって、こういう世界を感じ取れているっていうのは気持ちいいなぁって思います。
このブログでは、前から宗教とかの話も書いたりしましたが、基本的にこういう「生きている事が素晴らしい」と感じる事こそが、ベーッシックな喜びで、この原点の喜びを忘れるところから、いろいろな心の苦しみがはじまるように、僕は思うのです。
科学がどれほど進もうが、生き物を科学の力で生み出すことはできません。生命の秘密は解き明かせていない。だから、「奇跡」というのは、「私がいま、ここにいること」そのものなのですよ。
自分が生きていること。この世というものが存在していることそのもの。それこそが奇跡です。思いません?
この当たり前の奇跡を、奇跡と思えないでいると、昔事件を起こした新興宗教の「座ったままジャンプを写真で撮ったもの」を見せられて「空中浮揚だ!」「奇跡だ!」てなことになってしまいます。
でも、日本人というのは宗教というものに弱いので、こういう「空中浮揚が奇跡だ」みたいな話にすぐに乗っかっていってしまうんですよね。
確かに、僕もけっこう「世にも不思議な偶然の一致」とかの話が大好きだったりするんで、「不思議話」に惹かれる人ではあるんですが、それでも、この、「私が生きている」という奇跡に比べたら、たかが知れてる。そんなもの、「私が生きてる奇跡」のバリエーションにしかすぎないよなぁって思うんです。
楽観的すぎるかもしれないですけど、単純に、人間は祝福されて生まれてきてるよなぁって思うわけです。この世界そのものが、まさに祝福だ、って思う。
人間がいて、空間があって、生き物があって、自然があって。そういうことのすべてが奇跡なのだから、それはやっぱり祝福だよなぁっていう感じ。
このね、基本的な喜びからね、離れてしまってる人を見るとね、どうしても僕は「バカモン!」と叱りつけてしまいたくなっちゃうんですよね。
この間書いた「人生を捨ててるタイプ」も、「頑張りすぎてるタイプ」も、この一番の基準値となる「私が生きているという奇跡」を忘れてるって思うんですよね。
ここの生きてる不思議、命があるという奇跡、こそが、グラフ用紙の原点ゼロだって思うわけです。
でもなぁ、なんでそうなっちゃうんだろうなぁ。
いや、自分自身も、よく「頑張りすぎてるタイプ」にはなっちゃう事があるしねぇ。
だから、まず、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりした時には、この原点に戻らないといけないんですよね。
ただ、恐ろしい事に人間というのは、自分が「人生を捨てるような態度になってしまってる」とか「頑張りすぎて他者を苦しみに陥れてる」とかを自分で把握するってことがなかなかできないんですよね。
どうしてそういう把握ができなくなるかというと、「感じる事を避けるから」なんですよね。僕の嫌いな「自己欺瞞」って奴です。
うれしい事や楽しい事は、素直に感じ取ろうとするんだけど、苦しいこととか悲しい事とかは、「感じないようにしよう」と、人間はついついしてしまうわけです。
これがね、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりという極端の方向へ、人間を走らせてしまう引き金になるようなんです。
前にこの日記の、
●i先生のこと。
http://diarynote.jp/d/12917/20070607.html
に書いた事ですけど、人間って、嫌な事や辛いことから逃げようとして「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまうんですね。でも、自分の失敗をキチンと認める事で「自分の事を恥ずかしく」感じて「感じる心」を取り戻すって事はあるわけですよ。
結局、感情に「良い感情」も「悪い感情」もないんですね。両方ともに神が与えてくれた素晴らしい感情であって、両方ともに素直に受け取って味わうようにしなければならないわけです。それを無視して「感じないようにする」と言うことをしてると、それが抑圧となって溜まっていって、自分に価値感を感じられなくなって「人生を捨て」たり、その自分の無さを穴埋めするために「頑張りすぎ」たりするわけです。
でも、やっぱりそういう「嫌な感情」は嫌なものなわけですから、避けたいのは当然なんですね。でも、どうやれば一番ラクかというと、これがまた「たっぷりしっかり味わう事」なわけですよ。
人間、いつまでも悲しみ続けたり、怖れ続けたりという事はできないわけです。キチンとしっかり自分の感情を味わうと、しっかり体に染みこんで緩やかに薄らいでいくわけで、これがもっとも早く悲しみや心の痛みをなくす方法なんですね。
失敗して恥ずかしい思いをした時とか、とにかくその時に「わーーー、恥ずかしぃぃぃ!!」っていうのを早めに味わう方が絶対に良いです。それも自分の大切な感情なわけですから。それを怖がって逃げちゃいけない。逃げると抑圧になって、ゆるやかーなストレスが延々ずーーーーーっと続くという事にしかなりませんから。
これは、
●「感じ方」は自由なのか?
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書いた事ですけど、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんです。つまり、「怖くならないようにするには、ちゃんと怖がってる自分を味わう」ことが大切だし、「恥ずかしい思いをしないためには、ちゃんと恥ずかしい思いを味わう」ことが大切だってことですね。
この「感じること」ができていなくて、前に進むことは絶対に出来ないわけです。
道に迷うっていうのは、迷った時に、「ここで迷った」というのはわからないものなんですよね。道を歩いていて、ある時何故か「ありゃ? おかしいぞ?」と感じ始めて「ちょっと待て、迷ったんじゃないか?」と地図を見直すというのが普通です。
で、「自分が間違えたポイント」まで戻って、そこからやり直すわけですね。
そうしない限り、迷い道からは抜け出せないのが普通でしょう。
だから、やはり、まず自分が間違えたポイントである「感じ方を押さえ込んだ時点」を明確に知るっていうのが効果が高いわけです。(他のやり方もあるけど。NLPなんかは間違ったポイントまでは戻らないやり方ですわね。あれはあれで意味があると思う。)
感じるべきところで感じていなかったのだ、とわかると、いろんな事が胸落ちするんですよねぇ。それは自分にだけは、はっきりわかる! という感覚でやってくる。「ああ、いままで、この感じてた自分を無視してたんだ」とわかるんですよ。
で、それが「ありのままの自分」を受け入れられたって事なんですよね。
失敗した自分のかっこ悪さとか、恥ずかしさ。不勉強なのに知ったかぶりをしてしまった恥ずかしさ。頑張りすぎて回りにストレスを与えてしまった自分の愚かさ。高い目標設定をして達成できなくて落ち込んでしまうという無理をする焦燥感。
そういうもの全てを、キチンと味わわないと、そういうアホな事をしてしまう自分を受け入れられないんですね。
で、そういう自分を受け入れるって事が、自分を好きになるって事で、この「自分を好きになる」「自分を愛する」というやり方ができてはじめて、「他者を愛する」「他者を好きになる」が無理なく落ち着いてできるようになるんだろうなぁ。
とまぁ、そういう事を、5月の風に吹かれて、自転車に乗りながら考えていたのであります。
派遣業者など「人買い」である。
2008年5月26日 ■時事 コメント (1)部分的に追加・修正しました。(5/27 0:30)
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どん太さんのところで、共産党の志位委員長の国会での派遣業に関する質問の動画が紹介されてまして。
で、それを見て「その通り!」と大きく声を出したくなりました。
http://www.youtube.com/watch?v=6I_NTfz3RNs
いや、共産党って、現実の政治を動かしていける責任政党になりにくい事ばっかり言うから、あんまり好きな政党じゃないんですよね。「ええこと言うけど、言うだけ番長やんか。」って言う気持ちが強いです。
でも、やっぱり「労働者の味方」という、本道のところでは、しっかりしてるよなぁってつくづく感心したんですよね。
この動画は、ぜひ日本人みなさんに見ていただきたい。
共産党は現実的に政策や法律への展開が弱い政党だからこそ、こういう正論「だけ」は、みんながキチンと見聞しておくべきだと思います。
そういう意味でインターネットは良い環境ですねぇ。良い時代になった。口コミでこういう動画が知られていくというのは良いことです。
前から僕は、この「派遣業」って奴が、もう、嫌いで嫌いで嫌いで仕方ないんです。「業」って言うか、そういう仕組みが存在すること自体が許せない。
そらね、「紹介」までは仕方ないよ。それは商売にしても良いって思うのですよ。でも、派遣って、人を派遣して、その上前をはねて稼いでるわけでしょ?
大きな構造を見てみたら、何の仕事もしてないバカに、社会に還元しない金を渡してるだけでしょ? 単なるムダやん、それって。単なる寄生虫だよ。ウジ虫みたいな奴らだとしか思えないんだよなぁ、僕には。
労働基本法の改正前は、こういう「中抜き」行為は厳しく厳しく規制されてたんですよ。そんな事したら、労働という価値そのものが骨抜きになって、すべての価値体系が壊れてしまう。労働は尊いという価値観自体がクソまみれになる。クソのクソたる、大間違いの法改正だったと僕は思ってるんです。
何故そう思うか、というのは後でじっくり説明しますが、まずは、この志位委員長の動画です。労働基本法と人材派遣法の役割の違いと、在るべき姿、順法での運用の仕方と、本来厚生労働省が「指導」すべき事柄まで、ていねいに解説してくれてます。大前提となる知識を、桝添くんと福田総理の口から同意を引き出すことでわかりやすく確認させてくれてます。
だからまず、見て損はないって事です。
で、この動画自体が、なんかね、けっこうネットで話題になってるらしいんですよね。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080522mog00m010017000c.html?inb=yt
質問の追求内容は、大企業と派遣業が結託して、「日雇い派遣」という、本来推奨はされていない派遣形態が常態化している実態を暴いてるってものなんですよね。
それも、はっきりとキャノンとキャノン会長の御手洗冨士夫を具体的に「法律違反の疑いが濃いので徹底追求せよ」と名指しで責めている。このあたり、具体的でわかりやすくて大変素晴らしい。
いや、「日雇い派遣」とか「偽装請負」とか、実は僕は、こまかい話はよく知らないんだけどね。
ただ、キャノンの製品ってどれも大して新しい工夫や新機能があるわけでもないよなぁって、前から思ってたわけですよ。他のメーカーに比べて。プリンタにしてもデジカメにしても。
単純に一消費者として、あんまり魅力を感じなかったわけです。全然面白くない。
まぁ、ちょっとデザインがカッコいいとか、テレビCMで有名な人を使ってるとか、そういう事しか印象がなかったんですね。
なのに、増収増益で成績いいって話を良く聞いていて。
「なんで?なんで?」ってずっと不思議だったのですよ。
でも、この話を聞いて納得した。
なんや、労働者から搾取してただけかい!単なるカスやんけ、それ。って事なんですよ。いやほんとに。マジで。
で、御手洗冨士夫ってよく知らなかったので、いろいろ調べてみたら、本当にいろいろな保証を切り捨てて、派遣とかで、働く人間を使い捨てにしてる最悪の経済人なんだなぁというのが、はっきりとわかってきたのよね。
WikiPediaで調べてみると、
(引用開始)-----------------------------------
キヤノン社長時代には、従業員に対して、夏休みの短縮、成果主義の導入、フレックスタイム制の完全廃止、独身寮・社宅補助の完全廃止、基本給以外の諸手当(残業以外の扶養手当、住居手当など)全面廃止などを行った。
(引用終了)-----------------------------------
(引用開始)-----------------------------------
キヤノンの役員報酬は2003年に1億3900万から2006年の間に2億2200万と二倍近くに引き上げている。国会でも民主党の枝野幸男議員が「経営が苦しい時は社長が自分の給与を削って、それでも足りないとき初めて従業員の給与の引き下げをしてきたのが従来の日本型の経営者だ」と指摘。また「偽装請負」の合法化を訴える人物が経済財政諮問会議の委員であることの適格性に疑問を投げかけた[5]。
(引用終了)-----------------------------------
(引用開始)-----------------------------------
2007年1月1日には、消費税率を“2011年度までに現行より2パーセント程度、その後さらに3パーセント程度上げ”提唱を含んだ、「希望の国、日本」(御手洗ビジョン)を発表した[6]。一方で、法人税は実効税率を2015年度までに約10パーセント下げるべきだと提唱をしている。
(引用終了)-----------------------------------
という徹底した「会社さえ儲かればいい」主義なんよなぁ。保証は切り捨て。税金を払うのも嫌。税金は消費税で一般庶民が払え、俺の会社は払いたくない。っていう考え方。
おっさん!わがまま言うのもたいがいにせぇや! という世界ですわ。
製品に魅力はないわ、社員はいじめるわ、雇用はしないわ、(アルバイトは雇用です。派遣は労働力のレンタルなので雇用ではないのです。)法人税は払わんわ、消費税は上げろというわ、それで「儲かってるから」役員報酬上げかい!
ほんまにクソでありますな。クソのクソ。どうしようもない。まぁ、死んでから神様に痛い目にあわされるでありましょう。だから、こういう奴はほっとく。どうでもいい。
ただ、はっきりしてるのは、ようするに、「勝ち組・負け組」なんてものは、こういう具合に、「労働基準法の精神を無視した、おかしな派遣業法の成立」みたいな大きな仕組み・謀略によって、意図的に作られたものなんだよ、って事なんですね。
大事なのは、ここなわけです。
そういう法律にこそ問題があるわけですよ。もともと。
はっきり言うけど、派遣業者なんて、「人買い」ですから。あんな商売、まともな人間のやる仕事じゃないです。存在している事自体が間違いですよ。人間を人間として扱っていない。人間個人から「労働力」だけを抜き取って、それを販売しようという、もともと「できない」事を、「やってるつもり」で実行していて、もともと「できない」事なので、すべての矛盾が労働者に向かっていって、それで現場がギスギスしたり、うっとおしい関係になったりという不都合ばかりが生まれると。
なのに派遣業者自体は現場を知らないから、「社会のためになることをやっている」と勘違いしてるというバカの極み。パァなんですね、パァ。
こういう商売ってのは、ろくでもない妄想に囚われた、頭のおかしな人間がやってる異常行動でしかないんですよ。
大きく社会というものをまともに見据えることができれば、そのおかしさに気付くはずなんですが、気付かない奴ばっかりなんだよなぁ。人買いは人買いやんけ。おまえらが「現代の奴隷」を日々量産してるんやないか。自分では何もせずに。そこを自覚せいよ、ボケ。としか思わない。
でもまぁ、法的にある程度保証されちゃってるから、とりあえずはしゃーないよなぁ。
ということで、志位さんの動画の話に戻るんですが、実は僕は「日雇い派遣」とか、そのあたりは、ヒドイと思うけど、話の本質だとは思わないんですよね。
それより、僕が注目したいのは、志位さんが質問の後半で紹介するILOのレポートの、
「現状に見られる低賃金・低保証の非正規雇用拡大は短期的に、日本に競争優位をもたらすが、明らかに長期的に持続可能ではない。国内消費の低迷は国内総生産の伸びを抑制する上に、非正規雇用では、経済成長の原泉となる、人的資本の形成がされにくい。」
という一文。これが一番重要だって思うわけですよ。
他人事ではないんです。いままさに、この瞬間、将来を担う「人材」が、育てられる事もなく「使い捨て」にされてるって事なんです。
それはつまり、私の未来がやせ細ってるって事です。
このままでは、「仕事のできる、能力のある人間」が育たないんです。そここそが一番問題だよって言いたい。
これは、別に難しい問題ではなくて、具体的にいつもの仕事で「派遣」の人に出会うたびに感じてきたことだからなんです。
僕はフリーランスのコピーライターという仕事をしてるわけです。法的には「請負業」でしょう。特殊技能を身につけて、その技能を請負で提供してるわけです。
で、実は最近はライターやデザイナーまで、大手の企業では「派遣」に切り替わってるんですね。で、そういう派遣の若手と出会う事も多いんですが、この派遣の若手が、全然使えない。考えるコピーやデザインの質が合格ラインに到達しないんです。
なんでか?
あたりまえなんですけど、「派遣」だからなんですよ。
勤めているのが、自分の会社じゃないからです。
明日、あるいは3ヵ月後に、よその会社に移らなければならなくなるかも知れない。
そういう人にですね、「企業と顧客のコミュニケーション」の仕事ができるわけないんですね。無理。絶対無理。
明日も明後日も、この人と会うと解ってるから、仲良くコミュニケーションしようと考えるんですよ、人間は。その根幹がガタガタしていて、「伝えよう」という意欲が出るわけがない。で、その「意欲」にこそ、人間は動かされるんですね。
だから「派遣」に仕事をまかせてる企業に未来なんかあるわけないんです。
で、たとえば、僕のような「請負」の人間は、大きな企業の仕事もするわけですが、その担当者が「派遣」だったりするんですよ。こっちはあくまで請負ですから、企業さんの方から指示してもらわないと勝手には動けないわけです。「こっちの方が良いと思いますよ」くらいの意見は言えるけど、「決定」はできない。その決定は企業さんの側でやってもらわないと無理です。
でも、その「決定」をするのが「派遣」だったりすると、もうまったく腰が据わってないわけです。
「こんなもん役に立たんわな。」って、僕はいつも思うわけです。現場の担当者って、特に若手のいちばん大変なところに立たされている人って、ようは上の無茶な指示に大して、最後は開き直って「もうどうでもええわい。上がごちゃごちゃ言うても、この案で押し通してやる。」というような「決断」しないと育たないわけです。
そういう腹のくくり方ができてはじめて、実は、どんな小さな仕事でも進んでいくんです。
で、この「どうでもええわい、ワシの判断で押し進めちゃる!」というような判断は、「その方が、会社のためにも、外注さんのためにも、お得意様のためにもなる。」という事を考えた上での決断であることがほとんどなんです。自分のためだけではなくて、関わりのある人全部を考えていくと、落としどころはこのあたりしかないやんけ、というのを、若き担当者がギリギリの気持ちで判断するわけです。
もうね、外注スタッフで、請負で、フリーランスの立場でいろんな企業さんにかかわってると、そういう形での成長をしていく若手の人を、何人も何人も見てきてるわけですよ。人が育つ、というのは、そういう形でしかないんです。そういう形でしか人は育たない。別に企業が育ててるんでも、当人に能力があるんでもなんでもない。単に「自分の会社にいてるから、回りが良くなるようにしよう」という判断が優先されるってだけの話なんです。物事はものすごく単純なんです。
でも、「派遣」だと、この重要な感覚が壊れる。破壊される。打ち砕かれる。誰も明日、三ヶ月後、10年後の「自分の環境」を思いやれない。
それは「正社員」ではなくて「派遣」だからです。この溝は絶対に埋まらないんです。
僕なんかは「請負」ですから、個人事業主として、お得意さんと関係を維持せねばならないわけですよ。だからそういうスタッフの方達ひとりひとりと良い関係を作らねばならない。それが生きる術でもあります。
ところが、「派遣」だと、その感覚自体がまったくないんです。もう、これはどうしようもない違いでして、こういう断絶がある限り、絶対に人は成長しません。絶対に無理です。
そういう実感があるから、派遣業者はダメだ、というのです。クソです。派遣業者なんて5分の1以下に減らさないといけないし、派遣業で稼いだバカが偉そうに経営を語るなんて事を、おだててはダメです。
また、こういう御手洗君みたいな人を単に増収増益だからとほめるのも間違いです。
そりゃ短期的には増収増益がすごいように感じるでしょう。でも長期的には日本全体の「人的資源」が破壊されているって事なんです。こんなもの、どこかで必ずヒビが入ってダメになる。絶対確実ですよ。仕事をしている上で、この思いは確信になってます。
「派遣」の仕組みは、日本にとって大きな負の遺産です。一刻も早く舵を切り直さないと日本に未来はありません。
それをつくづく、しみじみと、日々感じていたので、この志位さんの質問は良かったのですよ。
まぁ、本当は、後半のILOのところを、もっと長々とかつ熱っぽく語って欲しいところなんだけど、志位さんは生産の現場とか、仕事の現場にいてる人じゃないからなぁ、こういうことの本質はわからないかもなぁ。そこいらが共産党の限界でもあるんだけど。
ともあれ、この動画はぜひ見て欲しいですね。1時間程度ですし。
ま、そんな事で。
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どん太さんのところで、共産党の志位委員長の国会での派遣業に関する質問の動画が紹介されてまして。
で、それを見て「その通り!」と大きく声を出したくなりました。
http://www.youtube.com/watch?v=6I_NTfz3RNs
いや、共産党って、現実の政治を動かしていける責任政党になりにくい事ばっかり言うから、あんまり好きな政党じゃないんですよね。「ええこと言うけど、言うだけ番長やんか。」って言う気持ちが強いです。
でも、やっぱり「労働者の味方」という、本道のところでは、しっかりしてるよなぁってつくづく感心したんですよね。
この動画は、ぜひ日本人みなさんに見ていただきたい。
共産党は現実的に政策や法律への展開が弱い政党だからこそ、こういう正論「だけ」は、みんながキチンと見聞しておくべきだと思います。
そういう意味でインターネットは良い環境ですねぇ。良い時代になった。口コミでこういう動画が知られていくというのは良いことです。
前から僕は、この「派遣業」って奴が、もう、嫌いで嫌いで嫌いで仕方ないんです。「業」って言うか、そういう仕組みが存在すること自体が許せない。
そらね、「紹介」までは仕方ないよ。それは商売にしても良いって思うのですよ。でも、派遣って、人を派遣して、その上前をはねて稼いでるわけでしょ?
大きな構造を見てみたら、何の仕事もしてないバカに、社会に還元しない金を渡してるだけでしょ? 単なるムダやん、それって。単なる寄生虫だよ。ウジ虫みたいな奴らだとしか思えないんだよなぁ、僕には。
労働基本法の改正前は、こういう「中抜き」行為は厳しく厳しく規制されてたんですよ。そんな事したら、労働という価値そのものが骨抜きになって、すべての価値体系が壊れてしまう。労働は尊いという価値観自体がクソまみれになる。クソのクソたる、大間違いの法改正だったと僕は思ってるんです。
何故そう思うか、というのは後でじっくり説明しますが、まずは、この志位委員長の動画です。労働基本法と人材派遣法の役割の違いと、在るべき姿、順法での運用の仕方と、本来厚生労働省が「指導」すべき事柄まで、ていねいに解説してくれてます。大前提となる知識を、桝添くんと福田総理の口から同意を引き出すことでわかりやすく確認させてくれてます。
だからまず、見て損はないって事です。
で、この動画自体が、なんかね、けっこうネットで話題になってるらしいんですよね。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080522mog00m010017000c.html?inb=yt
質問の追求内容は、大企業と派遣業が結託して、「日雇い派遣」という、本来推奨はされていない派遣形態が常態化している実態を暴いてるってものなんですよね。
それも、はっきりとキャノンとキャノン会長の御手洗冨士夫を具体的に「法律違反の疑いが濃いので徹底追求せよ」と名指しで責めている。このあたり、具体的でわかりやすくて大変素晴らしい。
いや、「日雇い派遣」とか「偽装請負」とか、実は僕は、こまかい話はよく知らないんだけどね。
ただ、キャノンの製品ってどれも大して新しい工夫や新機能があるわけでもないよなぁって、前から思ってたわけですよ。他のメーカーに比べて。プリンタにしてもデジカメにしても。
単純に一消費者として、あんまり魅力を感じなかったわけです。全然面白くない。
まぁ、ちょっとデザインがカッコいいとか、テレビCMで有名な人を使ってるとか、そういう事しか印象がなかったんですね。
なのに、増収増益で成績いいって話を良く聞いていて。
「なんで?なんで?」ってずっと不思議だったのですよ。
でも、この話を聞いて納得した。
なんや、労働者から搾取してただけかい!単なるカスやんけ、それ。って事なんですよ。いやほんとに。マジで。
で、御手洗冨士夫ってよく知らなかったので、いろいろ調べてみたら、本当にいろいろな保証を切り捨てて、派遣とかで、働く人間を使い捨てにしてる最悪の経済人なんだなぁというのが、はっきりとわかってきたのよね。
WikiPediaで調べてみると、
(引用開始)-----------------------------------
キヤノン社長時代には、従業員に対して、夏休みの短縮、成果主義の導入、フレックスタイム制の完全廃止、独身寮・社宅補助の完全廃止、基本給以外の諸手当(残業以外の扶養手当、住居手当など)全面廃止などを行った。
(引用終了)-----------------------------------
(引用開始)-----------------------------------
キヤノンの役員報酬は2003年に1億3900万から2006年の間に2億2200万と二倍近くに引き上げている。国会でも民主党の枝野幸男議員が「経営が苦しい時は社長が自分の給与を削って、それでも足りないとき初めて従業員の給与の引き下げをしてきたのが従来の日本型の経営者だ」と指摘。また「偽装請負」の合法化を訴える人物が経済財政諮問会議の委員であることの適格性に疑問を投げかけた[5]。
(引用終了)-----------------------------------
(引用開始)-----------------------------------
2007年1月1日には、消費税率を“2011年度までに現行より2パーセント程度、その後さらに3パーセント程度上げ”提唱を含んだ、「希望の国、日本」(御手洗ビジョン)を発表した[6]。一方で、法人税は実効税率を2015年度までに約10パーセント下げるべきだと提唱をしている。
(引用終了)-----------------------------------
という徹底した「会社さえ儲かればいい」主義なんよなぁ。保証は切り捨て。税金を払うのも嫌。税金は消費税で一般庶民が払え、俺の会社は払いたくない。っていう考え方。
おっさん!わがまま言うのもたいがいにせぇや! という世界ですわ。
製品に魅力はないわ、社員はいじめるわ、雇用はしないわ、(アルバイトは雇用です。派遣は労働力のレンタルなので雇用ではないのです。)法人税は払わんわ、消費税は上げろというわ、それで「儲かってるから」役員報酬上げかい!
ほんまにクソでありますな。クソのクソ。どうしようもない。まぁ、死んでから神様に痛い目にあわされるでありましょう。だから、こういう奴はほっとく。どうでもいい。
ただ、はっきりしてるのは、ようするに、「勝ち組・負け組」なんてものは、こういう具合に、「労働基準法の精神を無視した、おかしな派遣業法の成立」みたいな大きな仕組み・謀略によって、意図的に作られたものなんだよ、って事なんですね。
大事なのは、ここなわけです。
そういう法律にこそ問題があるわけですよ。もともと。
はっきり言うけど、派遣業者なんて、「人買い」ですから。あんな商売、まともな人間のやる仕事じゃないです。存在している事自体が間違いですよ。人間を人間として扱っていない。人間個人から「労働力」だけを抜き取って、それを販売しようという、もともと「できない」事を、「やってるつもり」で実行していて、もともと「できない」事なので、すべての矛盾が労働者に向かっていって、それで現場がギスギスしたり、うっとおしい関係になったりという不都合ばかりが生まれると。
なのに派遣業者自体は現場を知らないから、「社会のためになることをやっている」と勘違いしてるというバカの極み。パァなんですね、パァ。
こういう商売ってのは、ろくでもない妄想に囚われた、頭のおかしな人間がやってる異常行動でしかないんですよ。
大きく社会というものをまともに見据えることができれば、そのおかしさに気付くはずなんですが、気付かない奴ばっかりなんだよなぁ。人買いは人買いやんけ。おまえらが「現代の奴隷」を日々量産してるんやないか。自分では何もせずに。そこを自覚せいよ、ボケ。としか思わない。
でもまぁ、法的にある程度保証されちゃってるから、とりあえずはしゃーないよなぁ。
ということで、志位さんの動画の話に戻るんですが、実は僕は「日雇い派遣」とか、そのあたりは、ヒドイと思うけど、話の本質だとは思わないんですよね。
それより、僕が注目したいのは、志位さんが質問の後半で紹介するILOのレポートの、
「現状に見られる低賃金・低保証の非正規雇用拡大は短期的に、日本に競争優位をもたらすが、明らかに長期的に持続可能ではない。国内消費の低迷は国内総生産の伸びを抑制する上に、非正規雇用では、経済成長の原泉となる、人的資本の形成がされにくい。」
という一文。これが一番重要だって思うわけですよ。
他人事ではないんです。いままさに、この瞬間、将来を担う「人材」が、育てられる事もなく「使い捨て」にされてるって事なんです。
それはつまり、私の未来がやせ細ってるって事です。
このままでは、「仕事のできる、能力のある人間」が育たないんです。そここそが一番問題だよって言いたい。
これは、別に難しい問題ではなくて、具体的にいつもの仕事で「派遣」の人に出会うたびに感じてきたことだからなんです。
僕はフリーランスのコピーライターという仕事をしてるわけです。法的には「請負業」でしょう。特殊技能を身につけて、その技能を請負で提供してるわけです。
で、実は最近はライターやデザイナーまで、大手の企業では「派遣」に切り替わってるんですね。で、そういう派遣の若手と出会う事も多いんですが、この派遣の若手が、全然使えない。考えるコピーやデザインの質が合格ラインに到達しないんです。
なんでか?
あたりまえなんですけど、「派遣」だからなんですよ。
勤めているのが、自分の会社じゃないからです。
明日、あるいは3ヵ月後に、よその会社に移らなければならなくなるかも知れない。
そういう人にですね、「企業と顧客のコミュニケーション」の仕事ができるわけないんですね。無理。絶対無理。
明日も明後日も、この人と会うと解ってるから、仲良くコミュニケーションしようと考えるんですよ、人間は。その根幹がガタガタしていて、「伝えよう」という意欲が出るわけがない。で、その「意欲」にこそ、人間は動かされるんですね。
だから「派遣」に仕事をまかせてる企業に未来なんかあるわけないんです。
で、たとえば、僕のような「請負」の人間は、大きな企業の仕事もするわけですが、その担当者が「派遣」だったりするんですよ。こっちはあくまで請負ですから、企業さんの方から指示してもらわないと勝手には動けないわけです。「こっちの方が良いと思いますよ」くらいの意見は言えるけど、「決定」はできない。その決定は企業さんの側でやってもらわないと無理です。
でも、その「決定」をするのが「派遣」だったりすると、もうまったく腰が据わってないわけです。
「こんなもん役に立たんわな。」って、僕はいつも思うわけです。現場の担当者って、特に若手のいちばん大変なところに立たされている人って、ようは上の無茶な指示に大して、最後は開き直って「もうどうでもええわい。上がごちゃごちゃ言うても、この案で押し通してやる。」というような「決断」しないと育たないわけです。
そういう腹のくくり方ができてはじめて、実は、どんな小さな仕事でも進んでいくんです。
で、この「どうでもええわい、ワシの判断で押し進めちゃる!」というような判断は、「その方が、会社のためにも、外注さんのためにも、お得意様のためにもなる。」という事を考えた上での決断であることがほとんどなんです。自分のためだけではなくて、関わりのある人全部を考えていくと、落としどころはこのあたりしかないやんけ、というのを、若き担当者がギリギリの気持ちで判断するわけです。
もうね、外注スタッフで、請負で、フリーランスの立場でいろんな企業さんにかかわってると、そういう形での成長をしていく若手の人を、何人も何人も見てきてるわけですよ。人が育つ、というのは、そういう形でしかないんです。そういう形でしか人は育たない。別に企業が育ててるんでも、当人に能力があるんでもなんでもない。単に「自分の会社にいてるから、回りが良くなるようにしよう」という判断が優先されるってだけの話なんです。物事はものすごく単純なんです。
でも、「派遣」だと、この重要な感覚が壊れる。破壊される。打ち砕かれる。誰も明日、三ヶ月後、10年後の「自分の環境」を思いやれない。
それは「正社員」ではなくて「派遣」だからです。この溝は絶対に埋まらないんです。
僕なんかは「請負」ですから、個人事業主として、お得意さんと関係を維持せねばならないわけですよ。だからそういうスタッフの方達ひとりひとりと良い関係を作らねばならない。それが生きる術でもあります。
ところが、「派遣」だと、その感覚自体がまったくないんです。もう、これはどうしようもない違いでして、こういう断絶がある限り、絶対に人は成長しません。絶対に無理です。
そういう実感があるから、派遣業者はダメだ、というのです。クソです。派遣業者なんて5分の1以下に減らさないといけないし、派遣業で稼いだバカが偉そうに経営を語るなんて事を、おだててはダメです。
また、こういう御手洗君みたいな人を単に増収増益だからとほめるのも間違いです。
そりゃ短期的には増収増益がすごいように感じるでしょう。でも長期的には日本全体の「人的資源」が破壊されているって事なんです。こんなもの、どこかで必ずヒビが入ってダメになる。絶対確実ですよ。仕事をしている上で、この思いは確信になってます。
「派遣」の仕組みは、日本にとって大きな負の遺産です。一刻も早く舵を切り直さないと日本に未来はありません。
それをつくづく、しみじみと、日々感じていたので、この志位さんの質問は良かったのですよ。
まぁ、本当は、後半のILOのところを、もっと長々とかつ熱っぽく語って欲しいところなんだけど、志位さんは生産の現場とか、仕事の現場にいてる人じゃないからなぁ、こういうことの本質はわからないかもなぁ。そこいらが共産党の限界でもあるんだけど。
ともあれ、この動画はぜひ見て欲しいですね。1時間程度ですし。
ま、そんな事で。
依存症の話を書いていて、身の回りの人間を観察しつつ、自分自身の反省も含めて考えていくと、結局、人間関係の失敗とは何なのか? というところに行き着く。
で、ようは「ころあい」がわからない、というのが失敗なんだなと思うのですね。
一言で言うと「極端」ってことなんだろうなぁ。
身の回りの人間で言うと2つの極端なタイプがあるように感じるのです。
ひとつは、人生を捨ててるタイプ。
もうひとつは、頑張りすぎてるタイプ。
このどっちも「自分を大切にしていない」という意味で、回りにとってはものすごく迷惑なんだけど、自分の「考え方」が回りに迷惑をばらまいてるんだ、という認識がないんですね。
人生を捨ててるタイプは、「人生オマケのようなもの」とか言って、ただダラダラしてるだけなわけです。で、ようは「自分で頑張る」とか、「自分に期待する」とか、「自分育てをする」と言った、幸せの基本になる発想や概念が弱い。
なので、基本的にいつも愚痴ばっかり言ってます。で、そういう愚痴とかが、実にうっとおしい。聞いてると、こっちまで気が滅入るので、まぁ話も聞かずに「ああ、そうですか」と近づかないようにするしかない。なんせ、そういう人は自己欺瞞の繰り返ししかしてないので、グルグル同じ所を回ってるばかりで関わると単に時間がなくなるだけだからです。
自分を大切にして、自分育てをしている人とは、まず何より、話をしていて楽しいのですね。「最近、こういう事が自分の欠点だと思うので、こういうチャレンジをしてるんですよ」という種類の話が多い。聞いていて楽しい。こっちまで明るくなる。
で、基本として、「回りを明るく、楽しくする」のが、本来の健康な人間関係なのだ、というところあたりが人生を捨ててるタイプには見えてなかったりする。人生を捨ててる態度が標準だ、と勘違いしてる。
まぁこのあたり、依存症だけではなくて、環境の問題やら、社会の仕組みが間違ってる部分とかもあるから、一概には言えないのですが。
でも逆に、頑張り過ぎてるタイプも、実は回りにとっては迷惑なんですね。自分を大切にしていない、という意味では同じ事なので、横で話を聞いていても、しんどいだけだったりする。
頑張りすぎてるタイプの人の話は、基本的に間違ってるところが全然ないんです。「確かにその通り」って思う。いろいろ勉強してるし、意見も筋道がしっかりしていて納得させられることが多い。
ただ、聞いてて楽しくないんですね。「あーしんど」って思っちゃう。なんて言うか、「自分を楽しませる要素」に関して無頓着になってるんですね。
そういう部分が少ない。
で、これは人生を捨ててる人とも共通するのですが「楽しみは人生とは別」という感じになってる。
「これは、好きでやってる事で、仕事とは別なのだから、ほっといてくれ」みたいな事を普通に言う。
で、それが他者との楽しみの共有になってないんですね。私が楽しいんだから、あなたには関係ないでしょ、って感じ。頑張りすぎる人は、どうもそういう傾向が強い。
でも、これも依存につながりやすい発想だと思うのよなぁ。
この辺、やっぱり「ころあい」だと思うのですよ。同じ楽しみなら、他の人とも共有できる楽しみを優先した方が良いのではないですか? そういう発想にした方がよろしいよ、って思ってしまう。
というか、自分だけの楽しみに加えて、他者と共有する楽しみも味わってみたら? で、それを自分の楽しみより優先してみたらどう? って思うんだけどなぁ
楽しみを共有するやり方が身に付いてないのかしら? とかも思うのだけど。このあたりも、まさに「ころあい」なんだと思うんですよね。
ただ、この「ころあい」ってすごく難しいんですけどね。
で、最近思うのは、結局、目標管理こそが「ころあい」を身につける最適手法だなって事なんですね。
ようは目標値を適正・適切なものにするって事です。
たとえ、依存症でない人であっても、目標値の設定を誤ると、失敗だらけになったり、過剰な頑張りになったりというのが発生して、精神状態に余裕がなくなると思うのですよ。
その余裕の無さこそが、この2つのタイプの両方に共通する問題点なわけなんですね。
人生を捨ててるタイプは、自分の弱点や欠点を直視できてないわけです。直視さえすれば、対応策なんかいくらでもあるのに。で、自分の弱点や欠点を見ないようにするために、何かに依存するわけです。ゲームとか恋愛とかパチンコとかアルコールとか。自分の弱点を直視するだけの心の余裕がないわけです。
で、頑張りすぎるタイプはどうかというと、「自分の楽しみ」を捨ててまで弱点克服に頑張ったりします。
頑張り過ぎてるタイプは、自分の弱点の直視は出来てるんだけど、逆にそこしか見てないんですよね。
「自分の楽しみ」を味わい、人生を楽しむという本質部分に対してゆとりがない。
頑張りすぎるタイプは、解決策を思いついたら、それでもう「できた」気になってるってのが多いのも特徴かなぁ。解決策は正しくても、実際に実行したら、別の種類の問題が出てくる、なんていうのは当たり前の事であって、そのプロセス自体を「楽しむ」態度でないと、何事も面白くないし、自分の成長もないんだけど、「正解」を見つけた段階で終わってるんですよね。
で、それは結局「自分の楽しみを味わう」というプロセスが欠けてるって事なんですよね。
ウクレレの練習をしていて思うのは、苦手な部分、難しいところっていうのは、弾けないうちは、嫌な事で避けたくなることなんですけど、これが克服できるとすごく楽しい、やりがいが生まれるわけですね。
で、この連続こそが楽しいわけです。苦手克服の連続とも言えます。
スポーツなんかも、多分同じですね。苦手克服の連続でしょう、多分。
つまり「苦手」や「問題」は、確かに嫌な事なんだけど、でも、それを乗り越えられたら、かなり大きな「楽しみ」になるって事なんですね。
人生を捨ててるタイプは、この「楽しみの素」である苦手やら問題やらを直視しないタイプです。だから人生が楽しくないんですね。これはもう、話にならない。初歩の初歩ができてないわけです。そら人生、楽しくないわなぁ、近づかんとこってなります。
でしょ?
では、頑張りすぎるタイプはどうなってるかというと、問題や苦手は直視するんだけど、それを乗り越えた後に「おお、こんなに難しい問題を私は乗り越えたのか。いや、大したものだ。」とふり返ったり、自分をほめたり、味わったり、という事をしてないんですね。
もう、問題を超えるだけで、手一杯になってる。
これもまた問題でね。あまり近づきたくないでしょ? こういうタイプ。
いやまぁ、忙しいとそれどころじゃなくなるものだし、僕自身そういう「自分をほめるのを忘れる」タイプの方なので、イカンイカンと思うんだけど。
で、つらつら思うに、やっぱり目標管理なんですよね。適正な目標値の設定をするって事なんです。
あまり高い目標を設定しない。あんまり高い目標を設定すると、燃え尽きちゃうから。
大目標は、いくらでかくてもいいんだけど、いざ実行する実行値は、小さめ小さめに取って、とにかくそこで着実に超える事を大切にする。で、超えた自分をほめる。ここが大事なんですよね。
本を読む話をやたら書いてたけど、本を読むのだって、たとえば、あまり読めてなくても、「かまわない」と思うのがすごく大事。
未読本を玄関近くの本棚に置いてると前に書きましたが、こうしておくと、せめて「この本はいつか読むのだ」という事だけは意識できるので、とても良いわけです。言わば「タイトルだけ読んでる」って事で、まず「タイトルだけでも読んだ自分」をほめてる行為なわけですよ。
こんなもの、なんの努力も要りません。飾っておけば、勝手に目に入りますから。でも、「ああ、あの本は読まなくちゃ」と思ってる意識は持続できるし、そう思ってる自分は努力してる自分なので楽しいわけです。(読まなきゃいけない本は一カ所に固めてあるので、探す手間とかも省けて、それでラクという側面もありますが。)
で、実際にはずっと飾ってたけど、いざ手にとって読み始めたら、全然自分の興味にあってなくて、読むのをやめて捨ててしまう、なんて本もあるわけです。ようは「飾ってただけ」って事です。
飾るだけですよ、飾るだけ!
実は、このくらい低い目標値こそが大切だったりするわけなんです。
「読まなきゃいけないんだけど、とにかく飾ってタイトルだけは読もう。」
この精神なんですね。
ほとんどサボリと変わらない(笑)
でも、明確にサボリではないわけです。
ものすごーーーーく軽い負荷。
そういう事が、すごく大事だって思うのです。
だから、意外に大事なのは、「いかに低い目標を設定できるか」ではないか? って思うんですよね。
この場合でも読書家から見たら、飾るだけ、なんて無意味にしか思えないはずです。
でも、最近読む冊数を増やしてる僕としては、この「飾るだけ」というのが、けっこう良いモチベーション生成装置になってるわけですよ。
で、「飾るだけ」なんてことは、それこそ、「人生捨ててる」ような人にだってできる。
で、「タイトルだけでも読んでる」のと「まったく読んでない」のとでは、全然違うわけです。ゼロとイチの違いです。二進数で考えれば正反対ってことです。
だから、この「屁みたいな、小さな目標」こそが大切なんですね。ものすごく大事だと思う。
で、こういう屁みたいな事をやった上で、キチンと自分をほめる。
屁みたいな小さい事でも、やった事はやったんだから、えらい。
とにかく実行しただけで偉い。
そういう事でほめるんです。自分をほめる。
ここがすごく大事。
そうすると、ゆっくりではあるんですが、はずみがついてくるんですね。もっとたくさん自分をほめよう、という気になってくる。
僕は手帳が好きで、よそで手帳のホームページも作ってたりするんですが(ここ数年、まったく更新もしてませんが)、手帳というのも、「予定をつける」ために使ってたら、実は全然意味がないんですね。
手帳は、記録をつけるために使うのがベストです。で、実際に何かを実行した自分を「ほめる」ための道具として使うというのが、ものすごく大切な要素なんですね。
あまり、このことを書いてる人っていないので、困ったことだなぁと思うんですが。みんな予定しか書いてないもんなぁ。
最近は週に一度、「ふり返り」の時間を持つようにしてるんですが、そういう時に手帳を見て、一週間、何を達成して、どう失敗したかを確認するんですね。
で、失敗したことに関しては目標値が高すぎたのではないか? とか自問自答して、高すぎたら即低い値に変更します。
結局、「目標」というのは、達成できないと楽しくないんですよ。で、歯を食いしばってヒイコラ言わないと達成できないくらいしんどい目標も、辛い。辛く思ってる人間を見るのは苦痛ですから、そういう苦痛を回りに与えてはいけないんですね。
だから、「やる」「実行する」のと同時に「必ず達成する」「必ず達成できる」がつねに必要で、なおかつそれは「ラクラクできる」「屁でもない」というのも必要だって事ですね。
自分を直視してない人は、まずこの目標を見つけるという事自体ができてないから不機嫌なわけです。
で、目標が高すぎる人も、それが「実現しない」ので不機嫌だったりします。
また、目標を達成してる人でも、目標が高すぎると「楽しむ」余裕がなくなって、回りがうっとおしく感じます。(ここに気付けないのも、かなり問題です。)
で、「達成してるのに、楽しくない」になって不機嫌になります。これも抜け出すのに苦労するよなぁ。こういう人は「ふり返り」が効果的だと思います。
という事で、目標設定には「ころあい」が、死ぬほど大事なんだ、っちゅう話です。
ま、そんな事で。
で、ようは「ころあい」がわからない、というのが失敗なんだなと思うのですね。
一言で言うと「極端」ってことなんだろうなぁ。
身の回りの人間で言うと2つの極端なタイプがあるように感じるのです。
ひとつは、人生を捨ててるタイプ。
もうひとつは、頑張りすぎてるタイプ。
このどっちも「自分を大切にしていない」という意味で、回りにとってはものすごく迷惑なんだけど、自分の「考え方」が回りに迷惑をばらまいてるんだ、という認識がないんですね。
人生を捨ててるタイプは、「人生オマケのようなもの」とか言って、ただダラダラしてるだけなわけです。で、ようは「自分で頑張る」とか、「自分に期待する」とか、「自分育てをする」と言った、幸せの基本になる発想や概念が弱い。
なので、基本的にいつも愚痴ばっかり言ってます。で、そういう愚痴とかが、実にうっとおしい。聞いてると、こっちまで気が滅入るので、まぁ話も聞かずに「ああ、そうですか」と近づかないようにするしかない。なんせ、そういう人は自己欺瞞の繰り返ししかしてないので、グルグル同じ所を回ってるばかりで関わると単に時間がなくなるだけだからです。
自分を大切にして、自分育てをしている人とは、まず何より、話をしていて楽しいのですね。「最近、こういう事が自分の欠点だと思うので、こういうチャレンジをしてるんですよ」という種類の話が多い。聞いていて楽しい。こっちまで明るくなる。
で、基本として、「回りを明るく、楽しくする」のが、本来の健康な人間関係なのだ、というところあたりが人生を捨ててるタイプには見えてなかったりする。人生を捨ててる態度が標準だ、と勘違いしてる。
まぁこのあたり、依存症だけではなくて、環境の問題やら、社会の仕組みが間違ってる部分とかもあるから、一概には言えないのですが。
でも逆に、頑張り過ぎてるタイプも、実は回りにとっては迷惑なんですね。自分を大切にしていない、という意味では同じ事なので、横で話を聞いていても、しんどいだけだったりする。
頑張りすぎてるタイプの人の話は、基本的に間違ってるところが全然ないんです。「確かにその通り」って思う。いろいろ勉強してるし、意見も筋道がしっかりしていて納得させられることが多い。
ただ、聞いてて楽しくないんですね。「あーしんど」って思っちゃう。なんて言うか、「自分を楽しませる要素」に関して無頓着になってるんですね。
そういう部分が少ない。
で、これは人生を捨ててる人とも共通するのですが「楽しみは人生とは別」という感じになってる。
「これは、好きでやってる事で、仕事とは別なのだから、ほっといてくれ」みたいな事を普通に言う。
で、それが他者との楽しみの共有になってないんですね。私が楽しいんだから、あなたには関係ないでしょ、って感じ。頑張りすぎる人は、どうもそういう傾向が強い。
でも、これも依存につながりやすい発想だと思うのよなぁ。
この辺、やっぱり「ころあい」だと思うのですよ。同じ楽しみなら、他の人とも共有できる楽しみを優先した方が良いのではないですか? そういう発想にした方がよろしいよ、って思ってしまう。
というか、自分だけの楽しみに加えて、他者と共有する楽しみも味わってみたら? で、それを自分の楽しみより優先してみたらどう? って思うんだけどなぁ
楽しみを共有するやり方が身に付いてないのかしら? とかも思うのだけど。このあたりも、まさに「ころあい」なんだと思うんですよね。
ただ、この「ころあい」ってすごく難しいんですけどね。
で、最近思うのは、結局、目標管理こそが「ころあい」を身につける最適手法だなって事なんですね。
ようは目標値を適正・適切なものにするって事です。
たとえ、依存症でない人であっても、目標値の設定を誤ると、失敗だらけになったり、過剰な頑張りになったりというのが発生して、精神状態に余裕がなくなると思うのですよ。
その余裕の無さこそが、この2つのタイプの両方に共通する問題点なわけなんですね。
人生を捨ててるタイプは、自分の弱点や欠点を直視できてないわけです。直視さえすれば、対応策なんかいくらでもあるのに。で、自分の弱点や欠点を見ないようにするために、何かに依存するわけです。ゲームとか恋愛とかパチンコとかアルコールとか。自分の弱点を直視するだけの心の余裕がないわけです。
で、頑張りすぎるタイプはどうかというと、「自分の楽しみ」を捨ててまで弱点克服に頑張ったりします。
頑張り過ぎてるタイプは、自分の弱点の直視は出来てるんだけど、逆にそこしか見てないんですよね。
「自分の楽しみ」を味わい、人生を楽しむという本質部分に対してゆとりがない。
頑張りすぎるタイプは、解決策を思いついたら、それでもう「できた」気になってるってのが多いのも特徴かなぁ。解決策は正しくても、実際に実行したら、別の種類の問題が出てくる、なんていうのは当たり前の事であって、そのプロセス自体を「楽しむ」態度でないと、何事も面白くないし、自分の成長もないんだけど、「正解」を見つけた段階で終わってるんですよね。
で、それは結局「自分の楽しみを味わう」というプロセスが欠けてるって事なんですよね。
ウクレレの練習をしていて思うのは、苦手な部分、難しいところっていうのは、弾けないうちは、嫌な事で避けたくなることなんですけど、これが克服できるとすごく楽しい、やりがいが生まれるわけですね。
で、この連続こそが楽しいわけです。苦手克服の連続とも言えます。
スポーツなんかも、多分同じですね。苦手克服の連続でしょう、多分。
つまり「苦手」や「問題」は、確かに嫌な事なんだけど、でも、それを乗り越えられたら、かなり大きな「楽しみ」になるって事なんですね。
人生を捨ててるタイプは、この「楽しみの素」である苦手やら問題やらを直視しないタイプです。だから人生が楽しくないんですね。これはもう、話にならない。初歩の初歩ができてないわけです。そら人生、楽しくないわなぁ、近づかんとこってなります。
でしょ?
では、頑張りすぎるタイプはどうなってるかというと、問題や苦手は直視するんだけど、それを乗り越えた後に「おお、こんなに難しい問題を私は乗り越えたのか。いや、大したものだ。」とふり返ったり、自分をほめたり、味わったり、という事をしてないんですね。
もう、問題を超えるだけで、手一杯になってる。
これもまた問題でね。あまり近づきたくないでしょ? こういうタイプ。
いやまぁ、忙しいとそれどころじゃなくなるものだし、僕自身そういう「自分をほめるのを忘れる」タイプの方なので、イカンイカンと思うんだけど。
で、つらつら思うに、やっぱり目標管理なんですよね。適正な目標値の設定をするって事なんです。
あまり高い目標を設定しない。あんまり高い目標を設定すると、燃え尽きちゃうから。
大目標は、いくらでかくてもいいんだけど、いざ実行する実行値は、小さめ小さめに取って、とにかくそこで着実に超える事を大切にする。で、超えた自分をほめる。ここが大事なんですよね。
本を読む話をやたら書いてたけど、本を読むのだって、たとえば、あまり読めてなくても、「かまわない」と思うのがすごく大事。
未読本を玄関近くの本棚に置いてると前に書きましたが、こうしておくと、せめて「この本はいつか読むのだ」という事だけは意識できるので、とても良いわけです。言わば「タイトルだけ読んでる」って事で、まず「タイトルだけでも読んだ自分」をほめてる行為なわけですよ。
こんなもの、なんの努力も要りません。飾っておけば、勝手に目に入りますから。でも、「ああ、あの本は読まなくちゃ」と思ってる意識は持続できるし、そう思ってる自分は努力してる自分なので楽しいわけです。(読まなきゃいけない本は一カ所に固めてあるので、探す手間とかも省けて、それでラクという側面もありますが。)
で、実際にはずっと飾ってたけど、いざ手にとって読み始めたら、全然自分の興味にあってなくて、読むのをやめて捨ててしまう、なんて本もあるわけです。ようは「飾ってただけ」って事です。
飾るだけですよ、飾るだけ!
実は、このくらい低い目標値こそが大切だったりするわけなんです。
「読まなきゃいけないんだけど、とにかく飾ってタイトルだけは読もう。」
この精神なんですね。
ほとんどサボリと変わらない(笑)
でも、明確にサボリではないわけです。
ものすごーーーーく軽い負荷。
そういう事が、すごく大事だって思うのです。
だから、意外に大事なのは、「いかに低い目標を設定できるか」ではないか? って思うんですよね。
この場合でも読書家から見たら、飾るだけ、なんて無意味にしか思えないはずです。
でも、最近読む冊数を増やしてる僕としては、この「飾るだけ」というのが、けっこう良いモチベーション生成装置になってるわけですよ。
で、「飾るだけ」なんてことは、それこそ、「人生捨ててる」ような人にだってできる。
で、「タイトルだけでも読んでる」のと「まったく読んでない」のとでは、全然違うわけです。ゼロとイチの違いです。二進数で考えれば正反対ってことです。
だから、この「屁みたいな、小さな目標」こそが大切なんですね。ものすごく大事だと思う。
で、こういう屁みたいな事をやった上で、キチンと自分をほめる。
屁みたいな小さい事でも、やった事はやったんだから、えらい。
とにかく実行しただけで偉い。
そういう事でほめるんです。自分をほめる。
ここがすごく大事。
そうすると、ゆっくりではあるんですが、はずみがついてくるんですね。もっとたくさん自分をほめよう、という気になってくる。
僕は手帳が好きで、よそで手帳のホームページも作ってたりするんですが(ここ数年、まったく更新もしてませんが)、手帳というのも、「予定をつける」ために使ってたら、実は全然意味がないんですね。
手帳は、記録をつけるために使うのがベストです。で、実際に何かを実行した自分を「ほめる」ための道具として使うというのが、ものすごく大切な要素なんですね。
あまり、このことを書いてる人っていないので、困ったことだなぁと思うんですが。みんな予定しか書いてないもんなぁ。
最近は週に一度、「ふり返り」の時間を持つようにしてるんですが、そういう時に手帳を見て、一週間、何を達成して、どう失敗したかを確認するんですね。
で、失敗したことに関しては目標値が高すぎたのではないか? とか自問自答して、高すぎたら即低い値に変更します。
結局、「目標」というのは、達成できないと楽しくないんですよ。で、歯を食いしばってヒイコラ言わないと達成できないくらいしんどい目標も、辛い。辛く思ってる人間を見るのは苦痛ですから、そういう苦痛を回りに与えてはいけないんですね。
だから、「やる」「実行する」のと同時に「必ず達成する」「必ず達成できる」がつねに必要で、なおかつそれは「ラクラクできる」「屁でもない」というのも必要だって事ですね。
自分を直視してない人は、まずこの目標を見つけるという事自体ができてないから不機嫌なわけです。
で、目標が高すぎる人も、それが「実現しない」ので不機嫌だったりします。
また、目標を達成してる人でも、目標が高すぎると「楽しむ」余裕がなくなって、回りがうっとおしく感じます。(ここに気付けないのも、かなり問題です。)
で、「達成してるのに、楽しくない」になって不機嫌になります。これも抜け出すのに苦労するよなぁ。こういう人は「ふり返り」が効果的だと思います。
という事で、目標設定には「ころあい」が、死ぬほど大事なんだ、っちゅう話です。
ま、そんな事で。
自転車ツーキニストになるまでの紆余曲折。
2008年5月23日 日常 コメント (1)よそで健康関連のブログをやってるもので、こっちではその手の話を全然書いてなかったのだけど、ちょっと書いてみたくなったので、書いてみます。
1年半ほど前のこと。あるある大辞典だっけ? あの番組が問題になって打ち切りになる前後から、ダイエットっていうのが気になりだしまして。随分腹が出てたので。
それで、まず食事制限からはじめたのであります。
いろいろ本も読んでみたけど、現実的で効果がありそうだったのは、石原結實(いしはらゆうみ)さんのやり方・考え方でした。
ザクっと言うなら「人間、あんまり食わない方が、耐性がついて健康になる。」っちゅう話です。半日断食とか週末断食とか勧められてます。
それはまぁ、大きな理念なんだけど、現実的にどうしたら良いか、という事で、「朝は忙しいだろうから、野菜ジュース(ニンジン・リンゴジュース)で済ませて、昼飯は蕎麦程度、夜はつきあいもあろうし何食っても良いよ」というやり方を提案されてるのですね。
で、基本的に僕もこれを真似て、ダイエットしました。去年の1月に170cmで70kgだったのが、去年の春には65kgくらいまで下がって、そこで安定してたんですが、去年の冬前に「粗食のすすめ」を読んで玄米食に目覚めてから、玄米のうまさにしばらくはまってしまって、今年の初めに、また70kgに戻ってしまったのであります。(冬場のダイエットは難しいよなぁって思った。今年の課題だなぁ。)
で、今年は春から、こりゃいかんと、またまたダイエットのやりなおし。3月の頭にほぼ70kgだったのですが、現在64kg前後になってます。あと1kgか2kgほど絞って、そこで安定させたいなと思ってるんですが。
こまかい事は省きますが、食事制限は微量栄養素をいかにキチンと取るかがポイントなので、野菜ジュースは重要。空腹感が出るか出ないかは、そこにかかってるんですな。逆に言えば、野菜ジュースを飲んでりゃ、食事制限は、そうしんどくない。(あと豆乳も大事。)でも、ジュースばっかりだと食物繊維が取れないのが問題でねぇ。いろいろ工夫中です。
しかし、去年は「体重は減ったけど、腹が凹まない」という問題にぶつかって、途中から運動をするということにしたわけです。
で、何をするか? と考えて、現実的なのはやっぱり「歩く量を増やす」だったんですね。なので万歩計を買って、とにかく歩いた。大阪在住なので、地下街をやたらと歩くというのが、雨の日でもできることなので、大変効果的。
それと階段! エスカレーターとか使わない。とにかく階段を上り下りする。
それから、ごくあたりまえに普通の筋肉トレーニングですね。これも自宅でできる腕立て伏せとか腹筋とかが、結局は一番だなぁというのが僕的な結論。雨が降ってもできるしねぇ。
水泳も一時期やってみたけど、わざわざ出かけるっていうのは続かないですな。やっぱり日常生活の中に運動を組み込まないと絶対量が足りない。週に一度ジムに通って1時間運動するくらいなら、毎日10分自宅でWiiFitする方がはるかにマシ。(あ、いまは毎日WiiFitしてます。これはなかなか良いです。)ジムなんてよほど刻苦勉励しないと週に二回とか行かないもんなぁ。しんどいのはキライ。やっぱり通勤時間とかに運動を組み込むのが圧倒的に正解なんですね。
でも実は、腹が凹むかどうかは、どうも運動量とかはあんまり関係ないみたいなんですよねぇ。それより骨盤の歪みの矯正の方が、はるかに効果が高いみたいです。骨盤が歪んでると、腹筋が伸びてしまって、力を入れられず、内臓がだらしなく外側に出てしまうということのようだなぁ。ある程度運動して、骨盤も矯正してやると、腹筋も背筋も全部使う方が「ラク」になるみたいであります。
人体の骨格標本を思いだしてみるといいけど、腹回りには背骨以外に骨なんかなにもない。つまりは、筋肉で支えてるわけですな。だから骨盤を正しい位置に矯正すると、背筋も腹筋も、特に運動では鍛えにくい腹の内側のインナーマッスルも全部がバランス良く働いて、腹が締まるというわけです。24時間、すべての筋肉が均等に少しずつ働いている状態にしてやるのが良いようです。この1年くらいで実感したのはそういう事ですね。
骨盤矯正には腰回し体操が良いみたいで、WiiFitのフープダンスとか、書籍で言うと、SHINOさんの美腰ダイエットあたりが代表選手かなぁ。デューク更家さんの「ウォーキング考」でも、「まず、ちゃんと立つ事!骨盤を安定させて仙骨を立てる事!」という事で、足の重心をカカト→親指の付け根→反対側の足の親指の付け根→カカトと回転させる方法が書いてあって、「これって腰回しやん!」って思ったのでありますよ。
ともあれ、最近は、腹筋をゆるめて腹をボテッと出した状態で立ってるよりも、背筋も腹筋も少しずつ緊張してる状態で立ってる方が楽で、そうなると腹ボテにはならないんですな。「ああ、そういう事やったんや!」と目ウロコでした。メタボ・腹ボテのためにランニングするとか、何の効果もおまへん。全くのムダであります。
とは言うものの、やっぱりもうちょっと体脂肪率を減らしたいので(現在22.1くらい)、何か運動はしなくちゃなぁと思ってたんですが、知り合いのデザイナーの男の子(って言ったって、もう30才だけど)が、かなり体を絞ってたので、どうしてるか聞いてみたわけです。
彼は週末にサッカーをやってるので、かなり激しい運動だし「やっぱりそのくらいしないとダメかなぁ」と聞くと「いや、違いますよ。僕が痩せたのは多分、自転車通勤ですよ。」と言うのですね。聞くとサッカーも多少は影響がありそうだけど、自覚的に効果があったのは自転車なんだそうで。毎日片道15分程度しか乗ってないらしいのだけど、それで下半身が一気に締まったと言うのです。
「シゲさんもぜひ自転車通勤してみてくださいよ。絶対痩せますよ。やっぱり毎日やってるのが、一番効果的なんですよ。僕、本でも書こうかなと思いますわ。そんな特別な事をやるとかしても続かないしダメですって。簡単で毎日できる事やないと。」
とのたまう。
いや、その通りやで! と言う事になって、4月から自転車通勤を始めてみたのですが、これが実に気持ちいい。いまの季節、最高だなぁ。
自転車も実は使い方でして、たとえば、駅まで徒歩10分のところを、急いでいるからと自転車に乗って5分にするとかは逆に運動量が減ってるだけなので意味ないのですね。運動単位は最低10分から、なので、やっぱり連続して15分くらい乗ってないと意味がない。
なので、事務所の最寄り駅から3駅ほど自宅に近い場所に自転車駐車場を借りて、そこから事務所に通うようにしたのであります。地下鉄3駅分を自転車で移動すると、だいたい15分でしてちょうど良いのです。
もう少し遠い駅にしたかったのだけど、定期で借りられる駐輪場って、大阪市内にはけっこう少ないんですよねぇ。
カロリー消費には有酸素運動が大切って言うけども、それは速筋を鍛えても効果が低く、遅筋をたっぷり動かしてやる必要があるわけで。そうなると全筋肉の70%を占める下半身をゆったりと動かす「歩く」というのが効果が高いわけですが、歩くのが普通になってくると、もう少し負荷をかけたくなるわけで。でも、どう負荷をかけるか? ってのが難しかったんですね。ひたすら歩く時間を延ばすしか方法がなくて。
でも自転車に乗って、よくわかったけど、このラクさ加減は、まさに遅筋の活用だなぁ、遅筋に負荷をかけてるよなぁって実感するのです。まぁ坂道とかは速筋も使わざるを得ないけど、普通に道を走ってる時はゆるやかーに負荷がかかってる。
で、何より良いのは、腰に負担がかからない事。だって座ってる状態と同じなんだもの。座ったままの状態で、太ももやら腰回りにだけ負荷がかかる。あー、これは良いわと、改めて実感したのです。
走ったりすると足から腰にかけて全体重が乗っかるわけで、どう考えても体に良いわけがないって思うんですよ。「走る」という行為自体、普通そんなに毎日やるような動作じゃないもんなぁ。
太ってるから走る。なんて人が多いのだけど、それは根本的にものすごくおかしいわけです。これは「いつまでもデブと思うなよ」に出てたことだけど、体が重いから走る気になれないわけですよ。だから先に痩せないとダメなわけ。食事制限が先。
標準体重より3kg重い人が走るっていうのは、3kgの赤ちゃんを抱いて走るって事な訳でね。ヤメなさいって言うの、そういう事は。ほんとに。「いつまでもデブと」の岡田氏は運動を一切しないで痩せたんですよね。で、痩せたある日、急いでたので駅の階段を駆け上がったら、その軽さ、快適さに驚いた!って言うわけです。
そうだよなぁ。って思う。太ってたら運動リスクは大きいから運動しない方がいいですよ。腕に重りをつけてるドラゴンボールの悟空みたいなものなんだもん。「太ったから運動」っていう考え方は、だから、かなりおかしい。
だいたい、もともとエアロビックな運動が必要と叫ばれ出したのは車社会バリバリのアメリカからで、そのアメリカを中心に爆発的に起こったのがジョギングブーム。ランニングよりゆるやかだから良い、てな事を言われてたのだけど、1984年にジョギングの教祖と呼ばれていたジェームス・フィックス氏が心臓病でジョギング中に急死すると一気に熱がさめて、「ウォーキングが良い」という言い方に変わったわけで。だからランニングなんてもっとよろしくないのじゃないかなぁ、というのが、私の考え。
まぁプロのアスリートは必要があってやるのだからしゃーないけどね。でもそこには必ずスポーツ障害という問題がドーンと存在してるしなぁ。ランニングってのは多分かなりハードなスポーツでしょう。
マラソンが趣味の上岡竜太郎も、「マラソンなんて体にええわけないやないですか」と言ってたりする。あの人は正しいよなぁ。本質をよくわかってると思う。村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」も、立ち読みで読みかけたのだけど、出だしに「走ることというと健康のためという事があるが」みたいな話を書いてるところを読んで「わ、こいつアホやわ」と思って読む気が萎えた。昔は好きだったんだけどなぁ、村上春樹。こういう事を書くなら、もうちょっと勉強して欲しいって思う。
ともあれ、車にばっかり乗ってて、それで歩くこともしなくなったから、穴埋めに走るなんていうのは、アメリカンな、バカの極みだと思うのですよ。走るのと歩くのは全然別の運動で穴埋めにはならんのです。
でもどうも、ウォーキングですら、「一日一万歩」ってのが多すぎるという問題を含んでるようなのですよねぇ。デューク更家さんもそう言ってるし、「百歳まで歩く」の田中尚喜さんも言ってる。ちゃんとした骨盤とか姿勢とかが整わずに歩いてると、歪みがひどくなるばかりだそうで。
そういう意味では自転車だって、安全かどうかはわかりゃしないのだけども、それでも日常的にこれだけ使われていて、自転車で心臓マヒで死んだという話も聞かないし問題はないだろうとは想像がつく。
なにより、ようよう考えてみると、ヨドバシカメラの梅田店とかに行っても、自転車売り場が最近はどんどん拡張されてたんですよね。あれはやっぱり、こういう「健康のために自転車に乗るのが、かなり良いぞ」って気付いた人が増えてたからなんだろうなとつくづく実感。
実際、自転車通勤すると、昼ご飯とかを食べに出るときにも自転車を使うので、けっこう事務所近くの面白いお店とか開拓できて、そういうところも面白いわけです。最近では、通勤途中の気になるお店とか覗いたり入ったりして、かなり楽しい。
雨の日はさすがに乗るつもりはないので、地下街を歩いて階段を使い、晴れの日は自転車通勤という、このパターンでしばらく続けようと思うのです。
本当は自宅から事務所まで自転車で移動するのが良いのでしょうけど、いまは本当に普通のファミリーサイクルをそのまま使ってるだけなので、長距離ってのはちょっとしんどいのですよね。うーん。そのうち良い自転車を買って、自宅から事務所まで自転車通勤に変えようかなぁ。
まぁ、これから、夏の暑い日、そして冬の寒い日にどうするか、というのはこれからの検討課題なので、乗り続けるかどうか不明確なんですけどね。夏・冬はお休みにしようかなぁ。ま、とにかく今は、やたらと気持ちが良いので楽しいです。まぁ、朝から取材に出かけないといけないので乗らないとか、雨が降ってるから乗らないとかがあって、二日に一度くらいの頻度なんですけどね。
歩く、でもなく、走る、でもない、ちょうど良いバランスで、自転車ってのはかなりいいなぁ。例の勝間和代さんも自転車を最大限に活用してる人ですけど、いろいろ考えていくと、都市部では自転車っていう選択肢に行き着きやすいんですよね。
気持ちを前向きに積極的にするには、筋肉量を増やすって事がけっこう大事なんですよね。(それも遅筋。ふだんの日常動作を司る筋肉ね。家事でもなんでも気軽にやるってことがやる気を作るって事です。考えたら当たり前なんだけど。家事も重要だなぁ。掃除洗濯。ま、これは思い切りさぼってますけど、私は。)
自転車と電車を組合わせて通勤すると、体のためには、一番効率的な気がする。
最近、ガソリン税がうんぬんって話があるけど、あんなのあれですよ、東京・大阪あたりの大都市圏に住んでいて、自動車に乗ってるような人間からだけ、バリバリに税金を取って、それを地方に振り分けたらいいんだって思う。で、できたら地方でも電車の路線を造るのがいいんだけどなぁ。路面電車とか。
地方の人って、公共交通機関がないから、クルマにばっかり乗っていて、歩かないから、本当に体力ないんよね。ちょっと歩くとなると「ええー!そんなに歩くの?」とか言う。まことによろしくない。
でも、まぁそれは公共交通機関が不十分なんだからしょうがないわけですよ。
でも都市部は違うんですよね。電車でもバスでも、充分に環境は整ってる。整ってるのに、それを使わず、ガソリン燃やして、道路を道ふさぎしている「都市部クルマ族」ってのが大量にいてるわけですよ。これはイカンと思う。
まぁ確かにホームセンターとかが都市部にドカーンとできてる現実とかがあるから、一概にクルマなんかなくても良いとは言えないけど、それでも都市部でクルマに乗るとかは根本的にムダだと思うんですよねぇ。都市部の一般市民でクルマを持ってる人からは、ガンガン税金を取った方が、いろんな事がうまく行くはずですよ。
まぁ、そういう事を考えるとやっぱり自転車だなぁ。
通勤という毎日の作業に組み込むって事が大事でね。
ものすごーく軽い負荷。
ほんのちょっとだけの簡単作業。
それを、毎日飽きずに続けられるようにする。
日本人がなんだかんだ言っても、「会社勤め」をするっていうのも、そういう健康面でのメリットがけっこう大きいと言うことを無意識に実感してたからじゃないのか? って思うんですよね。それはやっぱり農耕民族としての民族的な文化なんだろうなぁ。DNAに刻まれてる。で、それを現代的にすると自転車ツーキニストになるってことじゃないかなぁと。
でも、自転車で移動するには環境がいろいろと不便なんですけどね。信号の切り替わり時間とか。でも、そういう事は別にしても、やっぱり都市部での自転車っていうのはかなり意義ある存在ですな。自転車ツーキニスト。これがやっぱり、いろんな意味で良いチョイスだわなぁって思う昨今であります。
1年半ほど前のこと。あるある大辞典だっけ? あの番組が問題になって打ち切りになる前後から、ダイエットっていうのが気になりだしまして。随分腹が出てたので。
それで、まず食事制限からはじめたのであります。
いろいろ本も読んでみたけど、現実的で効果がありそうだったのは、石原結實(いしはらゆうみ)さんのやり方・考え方でした。
ザクっと言うなら「人間、あんまり食わない方が、耐性がついて健康になる。」っちゅう話です。半日断食とか週末断食とか勧められてます。
それはまぁ、大きな理念なんだけど、現実的にどうしたら良いか、という事で、「朝は忙しいだろうから、野菜ジュース(ニンジン・リンゴジュース)で済ませて、昼飯は蕎麦程度、夜はつきあいもあろうし何食っても良いよ」というやり方を提案されてるのですね。
で、基本的に僕もこれを真似て、ダイエットしました。去年の1月に170cmで70kgだったのが、去年の春には65kgくらいまで下がって、そこで安定してたんですが、去年の冬前に「粗食のすすめ」を読んで玄米食に目覚めてから、玄米のうまさにしばらくはまってしまって、今年の初めに、また70kgに戻ってしまったのであります。(冬場のダイエットは難しいよなぁって思った。今年の課題だなぁ。)
で、今年は春から、こりゃいかんと、またまたダイエットのやりなおし。3月の頭にほぼ70kgだったのですが、現在64kg前後になってます。あと1kgか2kgほど絞って、そこで安定させたいなと思ってるんですが。
こまかい事は省きますが、食事制限は微量栄養素をいかにキチンと取るかがポイントなので、野菜ジュースは重要。空腹感が出るか出ないかは、そこにかかってるんですな。逆に言えば、野菜ジュースを飲んでりゃ、食事制限は、そうしんどくない。(あと豆乳も大事。)でも、ジュースばっかりだと食物繊維が取れないのが問題でねぇ。いろいろ工夫中です。
しかし、去年は「体重は減ったけど、腹が凹まない」という問題にぶつかって、途中から運動をするということにしたわけです。
で、何をするか? と考えて、現実的なのはやっぱり「歩く量を増やす」だったんですね。なので万歩計を買って、とにかく歩いた。大阪在住なので、地下街をやたらと歩くというのが、雨の日でもできることなので、大変効果的。
それと階段! エスカレーターとか使わない。とにかく階段を上り下りする。
それから、ごくあたりまえに普通の筋肉トレーニングですね。これも自宅でできる腕立て伏せとか腹筋とかが、結局は一番だなぁというのが僕的な結論。雨が降ってもできるしねぇ。
水泳も一時期やってみたけど、わざわざ出かけるっていうのは続かないですな。やっぱり日常生活の中に運動を組み込まないと絶対量が足りない。週に一度ジムに通って1時間運動するくらいなら、毎日10分自宅でWiiFitする方がはるかにマシ。(あ、いまは毎日WiiFitしてます。これはなかなか良いです。)ジムなんてよほど刻苦勉励しないと週に二回とか行かないもんなぁ。しんどいのはキライ。やっぱり通勤時間とかに運動を組み込むのが圧倒的に正解なんですね。
でも実は、腹が凹むかどうかは、どうも運動量とかはあんまり関係ないみたいなんですよねぇ。それより骨盤の歪みの矯正の方が、はるかに効果が高いみたいです。骨盤が歪んでると、腹筋が伸びてしまって、力を入れられず、内臓がだらしなく外側に出てしまうということのようだなぁ。ある程度運動して、骨盤も矯正してやると、腹筋も背筋も全部使う方が「ラク」になるみたいであります。
人体の骨格標本を思いだしてみるといいけど、腹回りには背骨以外に骨なんかなにもない。つまりは、筋肉で支えてるわけですな。だから骨盤を正しい位置に矯正すると、背筋も腹筋も、特に運動では鍛えにくい腹の内側のインナーマッスルも全部がバランス良く働いて、腹が締まるというわけです。24時間、すべての筋肉が均等に少しずつ働いている状態にしてやるのが良いようです。この1年くらいで実感したのはそういう事ですね。
骨盤矯正には腰回し体操が良いみたいで、WiiFitのフープダンスとか、書籍で言うと、SHINOさんの美腰ダイエットあたりが代表選手かなぁ。デューク更家さんの「ウォーキング考」でも、「まず、ちゃんと立つ事!骨盤を安定させて仙骨を立てる事!」という事で、足の重心をカカト→親指の付け根→反対側の足の親指の付け根→カカトと回転させる方法が書いてあって、「これって腰回しやん!」って思ったのでありますよ。
ともあれ、最近は、腹筋をゆるめて腹をボテッと出した状態で立ってるよりも、背筋も腹筋も少しずつ緊張してる状態で立ってる方が楽で、そうなると腹ボテにはならないんですな。「ああ、そういう事やったんや!」と目ウロコでした。メタボ・腹ボテのためにランニングするとか、何の効果もおまへん。全くのムダであります。
とは言うものの、やっぱりもうちょっと体脂肪率を減らしたいので(現在22.1くらい)、何か運動はしなくちゃなぁと思ってたんですが、知り合いのデザイナーの男の子(って言ったって、もう30才だけど)が、かなり体を絞ってたので、どうしてるか聞いてみたわけです。
彼は週末にサッカーをやってるので、かなり激しい運動だし「やっぱりそのくらいしないとダメかなぁ」と聞くと「いや、違いますよ。僕が痩せたのは多分、自転車通勤ですよ。」と言うのですね。聞くとサッカーも多少は影響がありそうだけど、自覚的に効果があったのは自転車なんだそうで。毎日片道15分程度しか乗ってないらしいのだけど、それで下半身が一気に締まったと言うのです。
「シゲさんもぜひ自転車通勤してみてくださいよ。絶対痩せますよ。やっぱり毎日やってるのが、一番効果的なんですよ。僕、本でも書こうかなと思いますわ。そんな特別な事をやるとかしても続かないしダメですって。簡単で毎日できる事やないと。」
とのたまう。
いや、その通りやで! と言う事になって、4月から自転車通勤を始めてみたのですが、これが実に気持ちいい。いまの季節、最高だなぁ。
自転車も実は使い方でして、たとえば、駅まで徒歩10分のところを、急いでいるからと自転車に乗って5分にするとかは逆に運動量が減ってるだけなので意味ないのですね。運動単位は最低10分から、なので、やっぱり連続して15分くらい乗ってないと意味がない。
なので、事務所の最寄り駅から3駅ほど自宅に近い場所に自転車駐車場を借りて、そこから事務所に通うようにしたのであります。地下鉄3駅分を自転車で移動すると、だいたい15分でしてちょうど良いのです。
もう少し遠い駅にしたかったのだけど、定期で借りられる駐輪場って、大阪市内にはけっこう少ないんですよねぇ。
カロリー消費には有酸素運動が大切って言うけども、それは速筋を鍛えても効果が低く、遅筋をたっぷり動かしてやる必要があるわけで。そうなると全筋肉の70%を占める下半身をゆったりと動かす「歩く」というのが効果が高いわけですが、歩くのが普通になってくると、もう少し負荷をかけたくなるわけで。でも、どう負荷をかけるか? ってのが難しかったんですね。ひたすら歩く時間を延ばすしか方法がなくて。
でも自転車に乗って、よくわかったけど、このラクさ加減は、まさに遅筋の活用だなぁ、遅筋に負荷をかけてるよなぁって実感するのです。まぁ坂道とかは速筋も使わざるを得ないけど、普通に道を走ってる時はゆるやかーに負荷がかかってる。
で、何より良いのは、腰に負担がかからない事。だって座ってる状態と同じなんだもの。座ったままの状態で、太ももやら腰回りにだけ負荷がかかる。あー、これは良いわと、改めて実感したのです。
走ったりすると足から腰にかけて全体重が乗っかるわけで、どう考えても体に良いわけがないって思うんですよ。「走る」という行為自体、普通そんなに毎日やるような動作じゃないもんなぁ。
太ってるから走る。なんて人が多いのだけど、それは根本的にものすごくおかしいわけです。これは「いつまでもデブと思うなよ」に出てたことだけど、体が重いから走る気になれないわけですよ。だから先に痩せないとダメなわけ。食事制限が先。
標準体重より3kg重い人が走るっていうのは、3kgの赤ちゃんを抱いて走るって事な訳でね。ヤメなさいって言うの、そういう事は。ほんとに。「いつまでもデブと」の岡田氏は運動を一切しないで痩せたんですよね。で、痩せたある日、急いでたので駅の階段を駆け上がったら、その軽さ、快適さに驚いた!って言うわけです。
そうだよなぁ。って思う。太ってたら運動リスクは大きいから運動しない方がいいですよ。腕に重りをつけてるドラゴンボールの悟空みたいなものなんだもん。「太ったから運動」っていう考え方は、だから、かなりおかしい。
だいたい、もともとエアロビックな運動が必要と叫ばれ出したのは車社会バリバリのアメリカからで、そのアメリカを中心に爆発的に起こったのがジョギングブーム。ランニングよりゆるやかだから良い、てな事を言われてたのだけど、1984年にジョギングの教祖と呼ばれていたジェームス・フィックス氏が心臓病でジョギング中に急死すると一気に熱がさめて、「ウォーキングが良い」という言い方に変わったわけで。だからランニングなんてもっとよろしくないのじゃないかなぁ、というのが、私の考え。
まぁプロのアスリートは必要があってやるのだからしゃーないけどね。でもそこには必ずスポーツ障害という問題がドーンと存在してるしなぁ。ランニングってのは多分かなりハードなスポーツでしょう。
マラソンが趣味の上岡竜太郎も、「マラソンなんて体にええわけないやないですか」と言ってたりする。あの人は正しいよなぁ。本質をよくわかってると思う。村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」も、立ち読みで読みかけたのだけど、出だしに「走ることというと健康のためという事があるが」みたいな話を書いてるところを読んで「わ、こいつアホやわ」と思って読む気が萎えた。昔は好きだったんだけどなぁ、村上春樹。こういう事を書くなら、もうちょっと勉強して欲しいって思う。
ともあれ、車にばっかり乗ってて、それで歩くこともしなくなったから、穴埋めに走るなんていうのは、アメリカンな、バカの極みだと思うのですよ。走るのと歩くのは全然別の運動で穴埋めにはならんのです。
でもどうも、ウォーキングですら、「一日一万歩」ってのが多すぎるという問題を含んでるようなのですよねぇ。デューク更家さんもそう言ってるし、「百歳まで歩く」の田中尚喜さんも言ってる。ちゃんとした骨盤とか姿勢とかが整わずに歩いてると、歪みがひどくなるばかりだそうで。
そういう意味では自転車だって、安全かどうかはわかりゃしないのだけども、それでも日常的にこれだけ使われていて、自転車で心臓マヒで死んだという話も聞かないし問題はないだろうとは想像がつく。
なにより、ようよう考えてみると、ヨドバシカメラの梅田店とかに行っても、自転車売り場が最近はどんどん拡張されてたんですよね。あれはやっぱり、こういう「健康のために自転車に乗るのが、かなり良いぞ」って気付いた人が増えてたからなんだろうなとつくづく実感。
実際、自転車通勤すると、昼ご飯とかを食べに出るときにも自転車を使うので、けっこう事務所近くの面白いお店とか開拓できて、そういうところも面白いわけです。最近では、通勤途中の気になるお店とか覗いたり入ったりして、かなり楽しい。
雨の日はさすがに乗るつもりはないので、地下街を歩いて階段を使い、晴れの日は自転車通勤という、このパターンでしばらく続けようと思うのです。
本当は自宅から事務所まで自転車で移動するのが良いのでしょうけど、いまは本当に普通のファミリーサイクルをそのまま使ってるだけなので、長距離ってのはちょっとしんどいのですよね。うーん。そのうち良い自転車を買って、自宅から事務所まで自転車通勤に変えようかなぁ。
まぁ、これから、夏の暑い日、そして冬の寒い日にどうするか、というのはこれからの検討課題なので、乗り続けるかどうか不明確なんですけどね。夏・冬はお休みにしようかなぁ。ま、とにかく今は、やたらと気持ちが良いので楽しいです。まぁ、朝から取材に出かけないといけないので乗らないとか、雨が降ってるから乗らないとかがあって、二日に一度くらいの頻度なんですけどね。
歩く、でもなく、走る、でもない、ちょうど良いバランスで、自転車ってのはかなりいいなぁ。例の勝間和代さんも自転車を最大限に活用してる人ですけど、いろいろ考えていくと、都市部では自転車っていう選択肢に行き着きやすいんですよね。
気持ちを前向きに積極的にするには、筋肉量を増やすって事がけっこう大事なんですよね。(それも遅筋。ふだんの日常動作を司る筋肉ね。家事でもなんでも気軽にやるってことがやる気を作るって事です。考えたら当たり前なんだけど。家事も重要だなぁ。掃除洗濯。ま、これは思い切りさぼってますけど、私は。)
自転車と電車を組合わせて通勤すると、体のためには、一番効率的な気がする。
最近、ガソリン税がうんぬんって話があるけど、あんなのあれですよ、東京・大阪あたりの大都市圏に住んでいて、自動車に乗ってるような人間からだけ、バリバリに税金を取って、それを地方に振り分けたらいいんだって思う。で、できたら地方でも電車の路線を造るのがいいんだけどなぁ。路面電車とか。
地方の人って、公共交通機関がないから、クルマにばっかり乗っていて、歩かないから、本当に体力ないんよね。ちょっと歩くとなると「ええー!そんなに歩くの?」とか言う。まことによろしくない。
でも、まぁそれは公共交通機関が不十分なんだからしょうがないわけですよ。
でも都市部は違うんですよね。電車でもバスでも、充分に環境は整ってる。整ってるのに、それを使わず、ガソリン燃やして、道路を道ふさぎしている「都市部クルマ族」ってのが大量にいてるわけですよ。これはイカンと思う。
まぁ確かにホームセンターとかが都市部にドカーンとできてる現実とかがあるから、一概にクルマなんかなくても良いとは言えないけど、それでも都市部でクルマに乗るとかは根本的にムダだと思うんですよねぇ。都市部の一般市民でクルマを持ってる人からは、ガンガン税金を取った方が、いろんな事がうまく行くはずですよ。
まぁ、そういう事を考えるとやっぱり自転車だなぁ。
通勤という毎日の作業に組み込むって事が大事でね。
ものすごーく軽い負荷。
ほんのちょっとだけの簡単作業。
それを、毎日飽きずに続けられるようにする。
日本人がなんだかんだ言っても、「会社勤め」をするっていうのも、そういう健康面でのメリットがけっこう大きいと言うことを無意識に実感してたからじゃないのか? って思うんですよね。それはやっぱり農耕民族としての民族的な文化なんだろうなぁ。DNAに刻まれてる。で、それを現代的にすると自転車ツーキニストになるってことじゃないかなぁと。
でも、自転車で移動するには環境がいろいろと不便なんですけどね。信号の切り替わり時間とか。でも、そういう事は別にしても、やっぱり都市部での自転車っていうのはかなり意義ある存在ですな。自転車ツーキニスト。これがやっぱり、いろんな意味で良いチョイスだわなぁって思う昨今であります。
そうか、依存症だからこそ、否認するんやねぇ。
2008年5月17日コメント (5)ちょっと、先日の「学習する必要性」を書いて、自分の父親のギャンブル依存症を思いだしたので、ふとWikipediaで「依存症」を検索してみる気になったのです。
Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=
そしたら、そこに、「否認」という項目が、ドーンと、けっこう大きく出ている事をはじめて知ったのでした。Wikipediaは、全面的に信用してるわけでもないんだけど、まぁ、一般常識的な範囲の知識は、そこそこ充実してるところではあるから、まぁ依存症において否認は、かなり特徴的なことなんでしょうな。やっぱり。と思ったわけです。
で、象徴的だったのは、「しばしば依存症は『否認の病』とも言われる」と書いてあるということ。
ああ、そうだったのか! と、今更ながらに、改めて気付いたってことなのです。
いやね、最近、身の回りで「依存症傾向」にある人に「ちょっとちょっと、それはまずいんじゃないの?」という事を、僕はどうしても、ついつい言ってしまってたんですね。
で、それは自分の父親がギャンブル依存症者だったから、そういう事に敏感だから、なんですけど、そういう「注意」をすると、その相手に、かなりの確率で否認されてきたんですよ。
当人が、薄々勘づいていて、無視・否認されるとか、あるいは、もう完全に自己欺瞞が完成していて、いくら言っても気付かないとか、いろいろですけど。
でも、この「依存症は『否認の病』」という言葉を読んで、そうかぁ、ああいう否認こそまさに、依存症になってしまっているという事の証明だったんだなぁと、いまごろ気付いた、というわけです。(遅いよ!>俺:笑)
僕は、依存症に関しては、自分の問題(父親のギャンブル依存症、自分のAC問題)から、取り組みはじめたので、部分的問題しか見えていなくて、実は「依存症」という、大きな大きなくくりによる、全体像に関しては、かなり無知だったんだなぁって、あらためて気付いたわけです。
まぁ、こういう問題は、誰だって個別の問題からしか認識していけないものなんでしょうけどね。
ということで、wikiの依存症の項目をあらためて見てみると、いやまぁ本当に、部分問題である、依存症の症例が山のように書いてあるんですね。
たとえば、
●物質への依存(ニコチン依存症、摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症など)
という具合ね。ほとんど全部にちゃんとリンクが張ってあるし。
わはははー。いやしかし、この手の病気のオンパレードだねぇ。いやほんとに。全部バリエーションにしか過ぎないんだなぁって思う。
関連項目を見ても、
・ニコチン・喫煙
・ネット中毒、携帯依存症、メール依存症、テレビ依存症、占い依存症、オンラインゲーム依存症
・性依存症 (セックス依存症、セックス中毒)
・ギャンブル
・パチンコ依存症
・アダルトチルドレン
と、この手の話の総決算・総目次みたいになってますな。(ここに「だめんずうぉーかー」のネタも入れて欲しい気はするのだが。)ようするにやっぱりひっくるめて「依存症」であって、で、依存症になった人間の多くは、その自分の状態を「否認」するものなんやなぁ、と、あらためてしみじみ思ったということなんですよ。
いや、というのは私、ずっと「否認」されて、すごく腹を立てたからなんですよ。
「ああ、俺ってアホやなぁ。」と。病気の顕著な特徴に腹立ててもしゃーないやんか、という感じがしましたです。この項目を見て。
実際、こうしてWikiの項目を見ると、否認は依存症のかなり重要な特徴なんだなぁと、改めて気付いたわけです。
あらたなパースペクティブを得た、って感じ。
(否認しているから依存症というわけではないんですけどね。あくまで「大きな特徴」のようです。まぁ「私は依存症だ」と自覚してるのにも関わらず、依存から抜け出せないって人もたくさんいてますからねぇ。そういう回復途中の人は、否認はしてないけど、依存症ではあるわけですしね。)
昔から僕の大嫌いなものは「自己欺瞞」だったんですね。
多分父親を見てたから、そういう思考になったのだと思うんですが、「自分で自分をだましている状態」というのが、どうしてもキライでしょうがない。
でも、その「自分で自分を騙している状態」である「否認」っていうのが、まさに依存症の大きな特徴と知ると「うーむ症状の一種か。じゃあ腹を立ててもしょうがないなぁ。」という気にはなりますわね。
だってそれは、風邪ひきで熱を出してる人間に、「熱を出すな!」と言ってるようなもんですからなぁ。
それが、今回、実に実感として、深く感じ入った事なんです。
-------------------
ただ、まぁ、それでも、腹を立てる必要はないにしても、改めてやっぱり、「君はおかしいんだよ。」と言うことは、いくら否認されても、冷静に、具体的事実として、繰り返し言い続けないといけないんだろうなぁとも逆に思いましたけど。
やっぱり、熱がある人には、「体温計で熱を測ってごらんなさい!」と言わないといけないのと同じ事だと思うんですよ。それは。
「あなた、依存傾向が強すぎますよ。」って事はちゃんと言わないといけないんだろうなぁ。嫌がるやろけど。やっぱり病気は治した方が快適やしなぁ。
自分が「病気なのだ」という事は、「自覚するように」とは言い続けないとアカンのやろなぁって思うのです。というのは、こういう依存症からの回復で、大きな力を持つのが自分の病気を自覚することであり、それは自助グループでの回復過程なんかを見れば、明らかだからなんですね。
たとえば、古くは断酒会からはじまって、アダルトチルドレン関連のアノニマスグループ(アラノン)と言うような自助グループがありますが、そういう場所には、まさに自分と同じような問題を抱えて、苦しんでる人がいるわけです。
で、そういう依存症者が、まさに自分と同じ感覚を共有しているんだと知る事で、自分が依存症者そのものであって、で、それは、意識的に治療をしないと治らない病気なのだという自覚が生まれるんですね。ここが大事なんだよなぁ、ここが。
他者を鏡として、自分を客観的に見ることができるようになる。自分が「依存症だったんだ。」と自覚できる。
これこそが、回復の第一歩なんですね。
だから、その症状に気付いた人間は、客観的立場として、しつこく何回でも言わないといけないんでしょう、本来は。多分。
なんせ、依存している最中は、自分を客観的に見ることができないわけですから。だからこそ、客観的な視点での情報を与え続けないとね。当人に、「治すべき病気にかかっているんだ」という自覚が生まれないですから。これは。
で、「治そう」という自覚が生まれない限り、絶対に治らないですからなぁ。一生否認し続けるだけですから。
その「否認」が崩れるためには、同じような依存症者の体験談を聞くのが、本当に一番なんですよね。
「ああ、それ、わかる!」という感覚がわーっと湧きますから。
「なんで、この人、私と同じ感覚を持ってるの? 私だけの私の感覚だと思ってたのに!」
みたいに思うわけですよ。
そこではじめて、自分の問題が「個性」ではなく「一般的な病気なのだ」とわかるわけです。
ここがすごく大事。
僕が、ウォイティツの「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」を読んだ事で大きな衝撃を受けたのも、「ああ、こ、ここに私と同じ問題でひっかかっている人がいる!」という客観的な驚きがあったからこそなんですよね。
そして、そこから回復に向かっている人が世の中にはいてるんだ! という希望を感じ、また、社会の仕組みの中に、こういう「自分でもよくわからない事」を、キチンと解き明かして、対処するための仕組み作りをしてくれてる人たちがいてるんだ! というこの世に対する信頼感みたいなものが生まれたって事ですからね。
こういう部分の信頼感って言うのは、かなり大きくて、だからこそ「本を読め」になってるんです。この世に対する信頼感があって、本を読むという行為は前向きに積極的に意味が出てくるんだと思う。先達を信頼するってことだから。
もともと依存症っていうのは、仕事が辛いだの、人生がおもしろくないだの、イキイキと生きている実感が得られないだの、なんらかの「不満」があって、その自分が持っている不満と直接対面しなくて済むように、「依存」し始めるって事が多いわけです。
それはつまりは、社会や人生に対する絶望感だと思うんです。そういう絶望感があるから、そこから逃れるために依存対象が必要になるわけです。
このあたりは自分の父親を見てて、よくわかりました。うちの父親は生みの母に捨てられた人で、人生そのものに恨みを抱いていたんですね。なんて理不尽な! ってところでしょう。でも、理不尽な事なんていくらでもあるんです。世の中理不尽な事だらけです。おなじような理不尽な環境の中に生まれて、それでも身の回りの人と豊かな交流を持って、明日に希望を持って楽しく生きてきた人はいてる。山のようにいてるわけです。つまり恨みを持つか持たないか、人生に絶望するかしないかも、ようは自分次第なわけです。
でも、その事実を直視するのが辛くてギャンブルに逃げ込んだんだろうなぁと思うわけですよ。事実を否認してギャンブルに走り、で、ギャンブル依存症になって、自分がギャンブル依存症であることを否認してたわけです。
wikiの依存症の、「否認」の項目を見ると、
第一の否認〜「自分は大丈夫!」
第二の否認〜「やめさえすれば大丈夫!」
ってなってて、「ああ、まさに依存症者のセリフだよなぁ」って思うんです。たとえば、僕が、「大丈夫か? おまえ!」って注意するっていうのは、すでに大丈夫じゃなくなっているからこそ、言うわけですよね?
そういう「客観的判断」があって、注意をするわけですが、そういう状態なのに、それを認識できずに(せずに)出てくるのが、まさにこの「大丈夫」って言葉なんですね。で、それはまさに依存症の証明であったわけで、「ああ、問題あるなぁ」という、外からの認識とは、大きくズレてるわけですわ。
ずれてるからこそ、「大丈夫か?」って聞くわけでねぇ。でしょ?だから、ここで「大丈夫だ」と答えてる事自体が、かなりヤバイって事なんです。
でも、それに気付かないんよなぁ、依存症者は。気付きたくないんやろけど。
自分を客観的に見ることができない、っていうのは、そういう事なんですね。ひたすら外からの目を「否認」する。でも、その「自分を客観的に見る」という事こそが、希望であり、回復へのストレートな近道なんですよね。
依存に頼らずに、辛くても一番最初に感じた「辛い現実」を素直に受け入れて「それでも明るく楽しく生きていくんだ!」と決意して、そっちへ行こうとするより他に道はないんですね、最初から。
現実からは逃げられないんだから、早めに正しく認識する方が対応策も立てやすい。ところが、その辛い現実を受け入れがたいものだから「依存」に走るわけですわ。ギャンブルも、アルコールも、人間依存も、ゲームも、ネットも全部一緒。まぁ、心の防御のためには、依存も多少は必要なのかもですが。
でも本当に「否認」してたら、いつまでたっても同じ現実しか立ち現れないんですよね。
ずっと繰り返し。
ようは、人生に絶望感を持ってしまうから、そういう否認が起きるんですよ。
で、その絶望感っていうのは、たいていは「高すぎる理想の自分」と「現実の自分」とのギャップから生まれてるんですね。
うちの父親で言うと「愛情あふれる両親が揃っている環境」という理想でしょうね。いやー、そんなもんはないよ。みんな適当だよ。でも、それを受け入れるしかないんだよ。と回りが言っても、それでも多分「でも、みんな一応は両親がいてるじゃないか」とかなんとか、自分の理想・夢が、「かなっていない部分」の事をずっと気にしてたに違いないわけでね。
それはつまりは「かなわない夢」を追いかけていたということであって、そんな「高すぎる理想」=「必ず裏切られる夢」を追いかけるから、人生が辛くなってしまうって事なんですよね。
両親の愛がなくても、友達は作れただろうし、なにより5月の気持ちのいい風を吸い込んで「ああ、僕は生きてるんだなぁ」という生きている事のありがたさに感謝することはできたわけでね。
この「できることをする」「持っているものに感謝する」という現実受入方法を学べずに、理想の環境に生まれ育った自己を追い求めるから不幸になってしまうんですよ。
私はいま生きている。
そのことがまずありがたい。
ここがすべての原点で、ここを実感できてないのはかなりまずいと思うんです。
ともあれ依存症は病気ですからね。
病気はちゃんと治した方が良いって事です。
依存症を検索してると、面白いyoutubeの動画がありましたので紹介します。
依存症者の脳みそは、おなじようにパチンコをしていても、普通の人と違う反応をしてしまう、という実験結果が出てます。まさに「麻薬」を打ってるのと、同じような状態になってしまってるんですね。まさに病気であり、麻薬常用と同じく恐ろしい病気なんだという実感が持てると思います。
●陣痛でもやめられない パチンコ依存症 はなぜ起きる
http://www.youtube.com/watch?v=sCV3y7YmiLA
●パチンコ依存症
http://www.youtube.com/watch?v=Eq-JP-smBlU
パチンコをしてて、赤ちゃんを車におきざりにしてしまうという事件が後を絶たないけど、依存症は、かなり重篤の病気だもんなぁ、さもありなんと考えるしかないって思いますね。
繰り返しになるけど、
●物質への依存(摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症、ニコチン依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、パチンコ依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症、性依存症など)
は、全部依存症です。
で、指摘されて「そうかも知れないなぁ」と思う事すらできなくなったら、かなりやばいです。
否認は依存症の一大特徴と知るべしですね。自己の精神状態のチェックのためにも。
Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=
そしたら、そこに、「否認」という項目が、ドーンと、けっこう大きく出ている事をはじめて知ったのでした。Wikipediaは、全面的に信用してるわけでもないんだけど、まぁ、一般常識的な範囲の知識は、そこそこ充実してるところではあるから、まぁ依存症において否認は、かなり特徴的なことなんでしょうな。やっぱり。と思ったわけです。
で、象徴的だったのは、「しばしば依存症は『否認の病』とも言われる」と書いてあるということ。
ああ、そうだったのか! と、今更ながらに、改めて気付いたってことなのです。
いやね、最近、身の回りで「依存症傾向」にある人に「ちょっとちょっと、それはまずいんじゃないの?」という事を、僕はどうしても、ついつい言ってしまってたんですね。
で、それは自分の父親がギャンブル依存症者だったから、そういう事に敏感だから、なんですけど、そういう「注意」をすると、その相手に、かなりの確率で否認されてきたんですよ。
当人が、薄々勘づいていて、無視・否認されるとか、あるいは、もう完全に自己欺瞞が完成していて、いくら言っても気付かないとか、いろいろですけど。
でも、この「依存症は『否認の病』」という言葉を読んで、そうかぁ、ああいう否認こそまさに、依存症になってしまっているという事の証明だったんだなぁと、いまごろ気付いた、というわけです。(遅いよ!>俺:笑)
僕は、依存症に関しては、自分の問題(父親のギャンブル依存症、自分のAC問題)から、取り組みはじめたので、部分的問題しか見えていなくて、実は「依存症」という、大きな大きなくくりによる、全体像に関しては、かなり無知だったんだなぁって、あらためて気付いたわけです。
まぁ、こういう問題は、誰だって個別の問題からしか認識していけないものなんでしょうけどね。
ということで、wikiの依存症の項目をあらためて見てみると、いやまぁ本当に、部分問題である、依存症の症例が山のように書いてあるんですね。
たとえば、
●物質への依存(ニコチン依存症、摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症など)
という具合ね。ほとんど全部にちゃんとリンクが張ってあるし。
わはははー。いやしかし、この手の病気のオンパレードだねぇ。いやほんとに。全部バリエーションにしか過ぎないんだなぁって思う。
関連項目を見ても、
・ニコチン・喫煙
・ネット中毒、携帯依存症、メール依存症、テレビ依存症、占い依存症、オンラインゲーム依存症
・性依存症 (セックス依存症、セックス中毒)
・ギャンブル
・パチンコ依存症
・アダルトチルドレン
と、この手の話の総決算・総目次みたいになってますな。(ここに「だめんずうぉーかー」のネタも入れて欲しい気はするのだが。)ようするにやっぱりひっくるめて「依存症」であって、で、依存症になった人間の多くは、その自分の状態を「否認」するものなんやなぁ、と、あらためてしみじみ思ったということなんですよ。
いや、というのは私、ずっと「否認」されて、すごく腹を立てたからなんですよ。
「ああ、俺ってアホやなぁ。」と。病気の顕著な特徴に腹立ててもしゃーないやんか、という感じがしましたです。この項目を見て。
実際、こうしてWikiの項目を見ると、否認は依存症のかなり重要な特徴なんだなぁと、改めて気付いたわけです。
あらたなパースペクティブを得た、って感じ。
(否認しているから依存症というわけではないんですけどね。あくまで「大きな特徴」のようです。まぁ「私は依存症だ」と自覚してるのにも関わらず、依存から抜け出せないって人もたくさんいてますからねぇ。そういう回復途中の人は、否認はしてないけど、依存症ではあるわけですしね。)
昔から僕の大嫌いなものは「自己欺瞞」だったんですね。
多分父親を見てたから、そういう思考になったのだと思うんですが、「自分で自分をだましている状態」というのが、どうしてもキライでしょうがない。
でも、その「自分で自分を騙している状態」である「否認」っていうのが、まさに依存症の大きな特徴と知ると「うーむ症状の一種か。じゃあ腹を立ててもしょうがないなぁ。」という気にはなりますわね。
だってそれは、風邪ひきで熱を出してる人間に、「熱を出すな!」と言ってるようなもんですからなぁ。
それが、今回、実に実感として、深く感じ入った事なんです。
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ただ、まぁ、それでも、腹を立てる必要はないにしても、改めてやっぱり、「君はおかしいんだよ。」と言うことは、いくら否認されても、冷静に、具体的事実として、繰り返し言い続けないといけないんだろうなぁとも逆に思いましたけど。
やっぱり、熱がある人には、「体温計で熱を測ってごらんなさい!」と言わないといけないのと同じ事だと思うんですよ。それは。
「あなた、依存傾向が強すぎますよ。」って事はちゃんと言わないといけないんだろうなぁ。嫌がるやろけど。やっぱり病気は治した方が快適やしなぁ。
自分が「病気なのだ」という事は、「自覚するように」とは言い続けないとアカンのやろなぁって思うのです。というのは、こういう依存症からの回復で、大きな力を持つのが自分の病気を自覚することであり、それは自助グループでの回復過程なんかを見れば、明らかだからなんですね。
たとえば、古くは断酒会からはじまって、アダルトチルドレン関連のアノニマスグループ(アラノン)と言うような自助グループがありますが、そういう場所には、まさに自分と同じような問題を抱えて、苦しんでる人がいるわけです。
で、そういう依存症者が、まさに自分と同じ感覚を共有しているんだと知る事で、自分が依存症者そのものであって、で、それは、意識的に治療をしないと治らない病気なのだという自覚が生まれるんですね。ここが大事なんだよなぁ、ここが。
他者を鏡として、自分を客観的に見ることができるようになる。自分が「依存症だったんだ。」と自覚できる。
これこそが、回復の第一歩なんですね。
だから、その症状に気付いた人間は、客観的立場として、しつこく何回でも言わないといけないんでしょう、本来は。多分。
なんせ、依存している最中は、自分を客観的に見ることができないわけですから。だからこそ、客観的な視点での情報を与え続けないとね。当人に、「治すべき病気にかかっているんだ」という自覚が生まれないですから。これは。
で、「治そう」という自覚が生まれない限り、絶対に治らないですからなぁ。一生否認し続けるだけですから。
その「否認」が崩れるためには、同じような依存症者の体験談を聞くのが、本当に一番なんですよね。
「ああ、それ、わかる!」という感覚がわーっと湧きますから。
「なんで、この人、私と同じ感覚を持ってるの? 私だけの私の感覚だと思ってたのに!」
みたいに思うわけですよ。
そこではじめて、自分の問題が「個性」ではなく「一般的な病気なのだ」とわかるわけです。
ここがすごく大事。
僕が、ウォイティツの「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」を読んだ事で大きな衝撃を受けたのも、「ああ、こ、ここに私と同じ問題でひっかかっている人がいる!」という客観的な驚きがあったからこそなんですよね。
そして、そこから回復に向かっている人が世の中にはいてるんだ! という希望を感じ、また、社会の仕組みの中に、こういう「自分でもよくわからない事」を、キチンと解き明かして、対処するための仕組み作りをしてくれてる人たちがいてるんだ! というこの世に対する信頼感みたいなものが生まれたって事ですからね。
こういう部分の信頼感って言うのは、かなり大きくて、だからこそ「本を読め」になってるんです。この世に対する信頼感があって、本を読むという行為は前向きに積極的に意味が出てくるんだと思う。先達を信頼するってことだから。
もともと依存症っていうのは、仕事が辛いだの、人生がおもしろくないだの、イキイキと生きている実感が得られないだの、なんらかの「不満」があって、その自分が持っている不満と直接対面しなくて済むように、「依存」し始めるって事が多いわけです。
それはつまりは、社会や人生に対する絶望感だと思うんです。そういう絶望感があるから、そこから逃れるために依存対象が必要になるわけです。
このあたりは自分の父親を見てて、よくわかりました。うちの父親は生みの母に捨てられた人で、人生そのものに恨みを抱いていたんですね。なんて理不尽な! ってところでしょう。でも、理不尽な事なんていくらでもあるんです。世の中理不尽な事だらけです。おなじような理不尽な環境の中に生まれて、それでも身の回りの人と豊かな交流を持って、明日に希望を持って楽しく生きてきた人はいてる。山のようにいてるわけです。つまり恨みを持つか持たないか、人生に絶望するかしないかも、ようは自分次第なわけです。
でも、その事実を直視するのが辛くてギャンブルに逃げ込んだんだろうなぁと思うわけですよ。事実を否認してギャンブルに走り、で、ギャンブル依存症になって、自分がギャンブル依存症であることを否認してたわけです。
wikiの依存症の、「否認」の項目を見ると、
第一の否認〜「自分は大丈夫!」
第二の否認〜「やめさえすれば大丈夫!」
ってなってて、「ああ、まさに依存症者のセリフだよなぁ」って思うんです。たとえば、僕が、「大丈夫か? おまえ!」って注意するっていうのは、すでに大丈夫じゃなくなっているからこそ、言うわけですよね?
そういう「客観的判断」があって、注意をするわけですが、そういう状態なのに、それを認識できずに(せずに)出てくるのが、まさにこの「大丈夫」って言葉なんですね。で、それはまさに依存症の証明であったわけで、「ああ、問題あるなぁ」という、外からの認識とは、大きくズレてるわけですわ。
ずれてるからこそ、「大丈夫か?」って聞くわけでねぇ。でしょ?だから、ここで「大丈夫だ」と答えてる事自体が、かなりヤバイって事なんです。
でも、それに気付かないんよなぁ、依存症者は。気付きたくないんやろけど。
自分を客観的に見ることができない、っていうのは、そういう事なんですね。ひたすら外からの目を「否認」する。でも、その「自分を客観的に見る」という事こそが、希望であり、回復へのストレートな近道なんですよね。
依存に頼らずに、辛くても一番最初に感じた「辛い現実」を素直に受け入れて「それでも明るく楽しく生きていくんだ!」と決意して、そっちへ行こうとするより他に道はないんですね、最初から。
現実からは逃げられないんだから、早めに正しく認識する方が対応策も立てやすい。ところが、その辛い現実を受け入れがたいものだから「依存」に走るわけですわ。ギャンブルも、アルコールも、人間依存も、ゲームも、ネットも全部一緒。まぁ、心の防御のためには、依存も多少は必要なのかもですが。
でも本当に「否認」してたら、いつまでたっても同じ現実しか立ち現れないんですよね。
ずっと繰り返し。
ようは、人生に絶望感を持ってしまうから、そういう否認が起きるんですよ。
で、その絶望感っていうのは、たいていは「高すぎる理想の自分」と「現実の自分」とのギャップから生まれてるんですね。
うちの父親で言うと「愛情あふれる両親が揃っている環境」という理想でしょうね。いやー、そんなもんはないよ。みんな適当だよ。でも、それを受け入れるしかないんだよ。と回りが言っても、それでも多分「でも、みんな一応は両親がいてるじゃないか」とかなんとか、自分の理想・夢が、「かなっていない部分」の事をずっと気にしてたに違いないわけでね。
それはつまりは「かなわない夢」を追いかけていたということであって、そんな「高すぎる理想」=「必ず裏切られる夢」を追いかけるから、人生が辛くなってしまうって事なんですよね。
両親の愛がなくても、友達は作れただろうし、なにより5月の気持ちのいい風を吸い込んで「ああ、僕は生きてるんだなぁ」という生きている事のありがたさに感謝することはできたわけでね。
この「できることをする」「持っているものに感謝する」という現実受入方法を学べずに、理想の環境に生まれ育った自己を追い求めるから不幸になってしまうんですよ。
私はいま生きている。
そのことがまずありがたい。
ここがすべての原点で、ここを実感できてないのはかなりまずいと思うんです。
ともあれ依存症は病気ですからね。
病気はちゃんと治した方が良いって事です。
依存症を検索してると、面白いyoutubeの動画がありましたので紹介します。
依存症者の脳みそは、おなじようにパチンコをしていても、普通の人と違う反応をしてしまう、という実験結果が出てます。まさに「麻薬」を打ってるのと、同じような状態になってしまってるんですね。まさに病気であり、麻薬常用と同じく恐ろしい病気なんだという実感が持てると思います。
●陣痛でもやめられない パチンコ依存症 はなぜ起きる
http://www.youtube.com/watch?v=sCV3y7YmiLA
●パチンコ依存症
http://www.youtube.com/watch?v=Eq-JP-smBlU
パチンコをしてて、赤ちゃんを車におきざりにしてしまうという事件が後を絶たないけど、依存症は、かなり重篤の病気だもんなぁ、さもありなんと考えるしかないって思いますね。
繰り返しになるけど、
●物質への依存(摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症、ニコチン依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、パチンコ依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症、性依存症など)
は、全部依存症です。
で、指摘されて「そうかも知れないなぁ」と思う事すらできなくなったら、かなりやばいです。
否認は依存症の一大特徴と知るべしですね。自己の精神状態のチェックのためにも。