ウクレレ。

ずっとひとりで練習していたので、リズムの安定性が悪いというのがわかってきた。
勝手にちょっと早くしたり、気持ちでリタルダンドしてたり。それではいかんと思い、楽器屋までメトロノームを買いに行く。

もともと教室が、その楽器店が経営してるところだから、教室の生徒には割引っていうのがあるのよね。だから「どうせなら買っちゃおう」とか、つい思う。まぁ、良い商売です。というか、楽器なんか教室なしでは、そうそう売れないわなぁ。うん。

教室の方針でウクレレはローGチューニングということになっているので、実は先週も低音弦を買いに来たのであります。
こういうことで楽器店にちょこちょこ来るというのは実は楽しい。ウクレレも20万もするようなのが飾ってあって「欲しいなぁ」とか思うだけでも楽しい。そのうち、またちょっと弾かせてもらおう。

教室の生徒であることを示すプラスチック製のカードがあるのだけれど、弦を買った時に割引いてもらおうと、提示すると、パッと裏を見て「あ、ウクレレをお習いですか。あー、T先生ですね。」と店員に、声をかけられた。

ほへー、そういうシステムになってるのかぁー、と大変に感心してしまった。どの楽器に興味があって、顧客のカリキュラムの程度はどんなものかというようなところまで、おそらくは分かってるわけだよなー。うーん。すごいねぇ。

楽器というのは面白いもので、同じ楽器を好きな人は性格とか考え方とかが、実は大変似ていたりするのです。なので、ある意味、店員に性格まで見透かされてしまったような気になってしまったのですな。
ちょっと怖い気もするけど、まぁそれが自分なんだしそれはそれで良いか、と納得したわけです。

ということで、それなりに商品をいろいろ置いてある店内をメトロノームを探し回ってうろつくのも面倒だったので、店員さんに「メトロノームはどこにありますか」と聞いてみる。
すると、その店員さん、「あ、はい、ありますよ」と、その場で後ろを振り返ってガラスケースを開けにかかった。

ええーっ、おいおい、ワシ、メトロノーム売り場のまん前でメトロノームどこにあるのって聞いてたのか?気付かんかったぞー。

というのも、私、メトロノームと言う限りは、あの昔ながらの、知る人ぞ知る、三角錐に逆振り子形の指示棒のある昔ながらの形を思い描いていて、それが店頭に飾られているものと思い込んでいたからなのです。ひたすらそれを探してたのですね。

ああ、でも、もうそんなアナログなメトロノームなんか、もう売ってないんだ。そうなんだ。そういう時代なんだ。ほへー。と、感慨に浸ってしまった。

見れば名刺ケースくらいのサイズのデジタルのものばかり。左右に振れる指示棒も液晶画面にわずかに残っている程度。モノによっては、そんな表示すらなく、LEDの点滅だけになってしまっている。

つつつ、つまらん。

こんなにデジタルばっかじゃつまらんじゃないかー。
んー、でも昔ながらのアナログなメトロノームがあったとして、買うか?ワシ。
買わん。買わんよなぁ。そうよなー。うーん。

ということで、値段も安かったので(2000円程度)液晶で指示棒が名残惜しそうに揺れているタイプのメトロノームを買う。あとでわかったんだけど、楽器のチューニング用の機能もついてたから、まぁお買い得かもなと思いました。

ということで、またまた生徒カードを出すと、「あ、ウクレレをお習いですか。あー、T先生ですね。」と言われる。
お前もかいっ!マニュアルなのかよー。んー、つまらん。まったく。

というようなことを感じたメトロノーム購入顛末でありました。
ということで、今日はウクレレ教室の日。

うーん。思ってたより、むずかしいねぇ。
一人で練習するクセがついてるので、周りにあわせて弾くというのが辛い。リズムを安定させるのもけっこう大変。
でもまぁ、基本的にはとても楽しいので良しとしよう。

ウクレレ教室のあと、友人と少しばかり飲みに行く。まぁ晩飯だね。カウンターで焼き鳥。

で、帰宅。いつも月曜日は事務所で少年ジャンプを読んでたりするのだけど、今日は忙しかったので帰ってから読んだ。自宅で発売日の夜中にジャンプを読むなんてなー。したことなかったような気がする。
日曜なのだけれど、仕事も少しつまり気味で、平日にパソコンの設定はあまりできないと思われたので、日曜出勤して設定作業をすることにした。

まず、旧機種からのデータ引継ぎを、どのメディアでやるかを考えないといけない。
いろいろ考えたが、どうもメモリカードでやるしかないようであった。
なんせ、旧機種はUSBもつながらないのよなー。これまたBIOSをいじらないと無理。なのでやめ。
どうせ、必要なソフトとかはオンラインソフトなども多いし、購入したものはCDが残ってるから、まぁ大丈夫でしょう。

しかし、新しいマシンには、まだメモリカードスロットもつけてないのでした。そこで、またまた、メモリカードリーダーを購入。ついでにUSBハブも。

で、マシン本体はタワー型なので、机の下に置き、本体後ろのUSBポートからケーブルを机の上に引き回して、机の上にメモリカードリーダーがくるように配置する。
こうすると、データの読み込みとかは机の上でやれ、しかもリーダー本体は名刺ケース程度のサイズしかないから、机の上は広広としたまま。前からこうしたかったんだよなー。

ということで、WinFD(ファイル管理ソフト)と、Becky!(メールソフト)のインストールをすませる。ファイル管理にエクスプローラを使わない人だし、メーラーもアウトルックエクスプレスは使わない人なので、この最初のツール設定が大変なのでありました。
両方ともネットから最新版を拾ってインストールした。正規ユーザーなので登録番号を入力するだけ。それもちゃんとプリントアウトして置いてあるからラクラク。
このあたりの作業は、前のパソコンが吹っ飛んだ時にキチンと整理しておいたからラクだわー。

WinFDはファイル管理ソフトであると同時に、画像データのビュアーとしても日常的に使っているので、WinFDの画像表示のためのDLL等を旧パソコンから移したり、圧縮・解凍関連のオプション類を設定したりと、意外にチマチマしたところで時間がとられる。

好きなソフトは細かく細かくカスタマイズしてるから、そのカスタマイズしたデータを移したりするのが意外に手間。
「あれー、ここの設定はどうやってたっけー」と思い出すのが大変なのでした。
なので、ここではPCの自動切換え機がやたらと役にたったのでした。ちょっと確認のために切り替えるとかがラクラク。本当にラク。前はこれが大変だったんだよなーと昔のこと(1998年。どひゃー、そら大昔や。)を思い出す。(遠い目)

あとはインターネットエクスプローラを最新版にして、グーグルとインフォシークのツールバーをインストール。
とまぁ、そのくらいやって帰宅した。

まだエディタの設定とかいろいろあるからなぁ。設定そのものは進んでるけど、仕事に新しいマシンは、まだ使えないねぇ。うーん。

パソコンを買い替えたはいいのだけれど、古い方のパソコンが、基本的にLAN接続ができない。

いや、できなくはないのだけれど、メーカーの側が「ネットワーク接続はダイアルアップのみ」という考え方で提供していたマシンなので、BIOSを書き換えるというリスクの高い方法でしか対応してくれてないのです。
いちおうインターネットやメールは、BIOSの書き換えまでしなくても、BIOSの設定の一部を変更するだけでできたので、それで騙し騙し使ってたのだ。
でも、BIOSを根っこから書き換えるくらいなら、新しいマシンを買ってしまった方がいいかなぁと思ったから新しいのかに替えたということなんだけどねぇ。

ということで、各種の設定ファイルの引継ぎなどが、LANでぺこぺことコピーするというラクな方法ができない。
困ったなぁ、二台のマシンを平行して走らせて、何かのメディア経由でファイルのコピーとかするしかないのかと思ったので、「そうだ!」と「PC自動切換え機」を買うことにした。

これは単純に言うとキーボードとディスプレイを二台のパソコンで共有するための道具。電源が入った方のパソコンを自動的に選択して表示するから「自動」なのです。もちろん、ボタンでの切換えもできるし、もっと賢いことにキーボード上での簡易コマンドで二台のパソコンの表示を切り替えられる。

いままでこういう道具を使ったことがなかったので、「どんなもんやろ」と思いながら、おそるおそる使ってみたけど、いやー、これはいいわぁ。快適快適。
片方のマシンがLAN使えないから、あんまり良い使い方ができないけども、二台のマシンを平行して使いたい人にはすごく便利でしょうねぇ。

一万円しない値段で、こういう快適な環境が手に入るのだからありがたいねぇ。

ということで、この日は切替機をつないで、基本的な動作その他を確かめたくらいで、さっさと自宅に帰りました。

パソコン届く。

2003年11月14日
いろいろ引き受けたはいいけど、やっぱり相当に大変だったので、予定が半日とか一日とかズレてしまう。

えらいこっちゃ。

「もうちょっとでできますー。」とか電話しながら、ひーこら言って原稿書いてたのがこの日。

午前中になんとか仕上がるかな、と必死になって原稿書きをしていたら、宅配便の兄ちゃんが事務所にやってきて、「ハンコかサインお願いします。」と言う。

あー、パソコン、届いちゃったよー。誰だよ、この忙しいのにパソコンなんか注文した奴は。
あ、俺か。
てな感じ。

あー、早く開けて、中を見たいなぁ。設定して快適な環境で原稿書きたいなぁ。
とか思いつつも仕事は追い込みなのでひぃこら言いながら仕事を進める。

飯を食うのもそこいらのコンビニでパンとか買ってきて作業しながらだったのだけど、ちょっと段ボールの中を開いて中身を見るだけは見る。でもそこまで。

結局原稿はできたは良いけど、レイアウトその他の打ち合わせもあるから、昼からは得意先に出かけることになったし、昨日からあんまり寝てなかったので、パソコンはそのままにして、帰ってしまいました。

うへー。

仕事は詰まってるし、のんびりしてる場合ではなかったのだけれども、友人のライターから飲み会の誘いを受けたので、出かけた。

いま大阪でも話題のおいしいフランス料理屋。ビストロっちゅうかなんちゅうか、人通りの少ない、なんでもない町の片隅に、ちょこんとある店なんだけど、夜に一回転しか客をとらないし、ずっと予約だし、予約は最低二ヶ月はうまってるという店なので、そうそう何度も楽しめる場所ではないのであります。

ところが、その友人が半分洒落で「あさって大丈夫ですか」と電話してみたら予約ができたという僥倖。やったー、ということで男女四人で飲み会になったというような話。

とにかくね、「サバのクリームチーズソースかけ」が、とんでもなくうまかったよ。なんだよこれは。本当にこの世のものなのか、というくらいうまかった。すごいねー。こんなもの作る人がいてるんだねー。

と、感激して、その後「うまかったねぇ」談義でお茶して、夜の10時。みんなと別れて、実は仕事が詰まってた私はそのまま事務所に出かけて、仮眠して、作業するハメになってしまったのでありました。

でもまぁ、いいか。うまいもの食ったんだし。

10月末にちょっとページ数のある仕事が入って来て、一二度の打ち合わせの後、作稿作業に入ったのが7日あたりから。
ラフ案ではあっさり目のと内容コテコテの案とのふたつを出したのだけれど、コテコテの方が通ってしまってどえらいことになったわけで。

ネットで調べては書く。書いては調べる。調べてはまた書く。

しかし、いっこうに進まない。まぁ「ブロードバンドインターネットのおすすめ」というような内容の冊子なんだけどねぇ。文字にして「●●です」と明言できるところまで調べるとなると、けっこう大変なので。

で、そんな仕事でひーこら言ってる最中に「しげさん、ちょっとパソコンの用語集のまとめ、やってくれませんか?」てな話が来た。

げー、忙しいよー、とか思いつつ断らずに引き受ける。ちょっと負荷をかけた方が良いのだ。

ところがまた、「用語集のまとめ」というのが、ネット検索しまくりの仕事になるわけでねぇ。
とりあえず、今週はネット検索しまくり、原稿書きまくりの一週間になるのである。

ということで、ウクレレ教室に通うことにした。
スタンダードナンバーが習える。
基礎練習をちゃんとやる。
ソロも伴奏も練習する。
実に良い教室だ。けっこう気に入る。
これから楽しみです。
上達の法則を読んでいて面白かったのは、とどのつまり「認知」の仕組みは、脳の構造に規定されるというあたりでありまして。

このへんの話は「人間誰だってそうなんだから」というところで非常に気が楽になるわけです。思いとか、感情とか、気持ち、とか言っても、脳みその構造や認知の仕組みとして展開される部分に関しては、結局どんな人間でも同じなわけで。

こういう人の個別性を無視しているかのような整理の仕方というのがちょっと気に入らないというのが、認知心理学とかの嫌いなところなんだけど、まぁ実際の話が脳みその構造はそうそう変らないのだから、そこでゴチャゴチャ悩みすぎるのは、あまりよろしくないのであります。

短期で記憶できるのが7チャンク(かたまり)であり、このチャンクに入れる情報をコード化することで、人はより速く、的確に判断ができるようになるとか、そういう話が実に面白い。

そして、こういう誰もが持つ構造の上に感情などが発生しているのだ、という事実があって、で、何かを成し遂げるための「スキーマ」(やり方の手順化された単元みたいなもの)に対して自分の技能が追いついてない時にスランプに陥るとかの具体的説明が入ってくると「ふむふむふむ」と納得しながら読み進められる。

落ち込んでても、理屈で納得というのはできる。

感情は論理でキチンとコントロールできる。

そういうことがわかって実にありがたい。

あとは、この本で言われるところの「自我関与」をどれだけ積極的に高めていくかですなぁ。
自我関与というのは上達するということに関して、自らの興味と主体性によって関わって行こうとする気持ちのことで、それがあるかないかで上達の能率がまったく変るらしい。

なので自我関与、なのだ。
自ら関わっていく気持ちが大切ということなのだ。
うむうむ、である。
えー、今日の日記は、やたらと長いし、抽象度もやたらめっぽう高いので、読んでてヒーハー言うことになると思うけど、そういう内容なんだししょうがないやと思ってあきらめて読んでいただきたい。

さて。

この間から、ウクレレの話をよく書いてますが、私にとっては、相当に大きな「救い」のように感じてるのです。
で、その「救い」と感じられるようになったきっかけが、この本でした。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569621988/qid=1069176597/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-4162557-7679561

「上達の法則」PHP新書 岡本浩一 680

で、多分、この7日くらいに買ったはずなのであります。

別に、この本に「技能を磨いたら、落ち込みから抜け出せるよ」なんてことはじぇんじぇん書いてないんだけど、読んでてとにかく精神的にすごく落ち着く感じがあったので、うれしかったのであります。

ここしばらく、自分に自信がどんどんなくなっていく感じが非常に強かったのですが、前に書いた「自分セラピー」に「自信とは自分に対する信頼感である」という話が載ってて「ああ、そうだよなー。」と深く納得してたわけです。

他人との約束は守れても、自分との約束を守れない状態になってたんですね。ここしばらく。で、なんか自分をないがしろにしてる感覚があっていけないなぁと思ってたんです。

でも、「自分セラピー」を読んでなるほどなぁと思ったのは、他人との約束を守るというのは、「私という人が他の人と約束をした」という「自分との約束」を守ったということなわけです。で、自分との約束というのは、自分で自分のために約束することなわけです。

よく「仕事中毒」で、仕事をしてないと落ち着かない人というのがいてますが、それはこの「他人との約束も自分との約束であり、自分とだけ交わした約束も自分との約束なのである」という構造がしっかり掴めていない人なのだということなんですね。

自分との約束は、他者の目がないから、つい守らずにおいてしまって、結局自分をないがしろにしている。本当はどの約束も「自分」という人はしっかり見て知っているから、自分との約束を守っていないと自分で自分を裏切ったことになるので落ち込みが激しいのです。

その落ち込みを取り返すために他者の目のある約束=仕事をやたらと守ろうとするわけですね。でも本当はどっちも「自分との約束」という意味では同じものなのに。片方が達成されていないから、もう片方で取り替えそうとしている。

ま、少なくとも僕にはそういうところはちょっとはあったよなー、とか思ってたのです。本当はどっちの約束もつねに自分は関わっているのだから、もっと自分を信用しても良いはずなんだけど、つい「自分しか看視者のいない約束」は後回しにしていて、結果として「自分を大切にする行為」だけが「不得手」になって行ってしまってたわけですね。

「他者による強制力」がないと何もできない人なのだとか、そういう間違った認識を持ってたのかもしれない。そうじゃなくて、どっちも自分との約束なのだし、どっちの約束も結局守ってるのは自分なのだから、もっと自分に自信を持っても良いわけです。

とは言うものの、この「他者の監視がなく、自分だけが知っている自分との約束」を、あんまりキチンと守ってこなかったというのは確かにあるので、それをなんとかしようと思うわけです。

というか、いつもそういう「自分との約束」はそれなりに守ってはきていたんだけど、あんまり自覚的ではなかったっていうことなんですね。

とどのつまり、自分を大切にしているのだ、という感覚を、物理的にちゃんと成果のある形で知るためには「趣味」というのがとても良いのですなぁ。

僕の場合はウクレレなわけですが、別に囲碁や将棋でもいいし、英語の学習でも良いだろうし、なんだっていいんですけども、何か自分の好きなことを身につけて、それを「上達」させるということがすごく重要という気がします。

何かを上達させるということには、自分の実力を社会的な一般ルールの枠組みの中での自己というものを、つねに再確認しながら、次のステップを選び取っていくという自覚的な進歩の意志が必要なわけです。

で、この書籍に書いてあるようなジャンルを越えて存在する「上達の法則」みたいなことを抽象的にでも整理して頭に入れておくと、ひとつの趣味の上達という成果が、自分の人生の、ありとあらゆる局面に対する精神的なバックボーンになっていってくれるのですね。

この本を読んで強く感じたのは、そういうことでした。自分の経験、とくに上達したいという意志が、いかに自分を救うのに大きな力になるか、というようなことです。その努力は決して無意味なものではなく、社会的に他者にも通ずる努力であり、成果にもなることなのだけれども、ところが個人の努力の仕方としては、とても個別的で比較のしようがない特性もまたあったりするものなのですね。

うまく言えないのだけれども、いたって「個」的な努力の事柄、というのはとてもみっともないし、他者にも理解してもらえないのだけれども、しかし、その「みっともなさ」を越えて自分の成長は担保されていくというかなんというか。

なんかどんどん話が抽象的になっていってるなぁ。

たとえば実例としてはこういうことです。

走り高跳びの「背面飛び」というのは、1968年のメキシコオリンピックで、フォスベリーという人がはじめて使った飛び方なのですが、これはもともとフォスベリーがベリーロールという流行の飛び方が不得手で従来からあった「はさみ飛び」しかできなかったことが最初のきっかけだったんですね。(このあたりの話はほんのちょっとだけ「上達の法則」にも出てきますが、僕自身は他の書籍でこのあたりの過程を読んだのでなお面白いのであります。)

しょうがないから「はさみ飛び」で、もっと高く飛べる方法はないかと苦労しているうちに、結果として背面飛びという独特の形が生まれてきたわけです。フォスベリー当人は、はさみ飛びだとどうしてもお尻がバーに当たってしまうので、それを飛び方を変えずに微妙な調整で回避しようとしていて、その結果が背面飛びになってしまっただけということなわけです。

ここにあるのは、決して「変ろう」という意志ではなくて、いまのままの自分を大切にしながら、ただ「改良」していこうとする、上達の意志だけだったわけですね。

このあたりの精神構造が重要だと思われるのでありますよ。

何かに「なろう」として、背面飛びが生まれたのではなくて、自分のまま「あろう」として、背面飛びは生まれた。そういうことなわけですね。

何かに「なろう」としなくても良いのです。ただ、自分でより良い自分で「あろう」とすればいい。なんというか、そういうことだと思うのですよ。ただ、そこで重要なのは、上達していこう、より良いところに行こう、成長しようという「意志」だけであって、他者との比較とか、他者による監視とか、世間一般論としての方法とかは全然関係ないわけです。

ただ私が私としてのたうち回りながらでも、「より良くなりたい」「もっと幸せでいたい」と願い、それを自分のために実践していれば良い、というか、結果として人間はそれしかできないのではないかという気がするわけですね。

一足飛びに挟み飛びから背面飛びには移行できないんですけど、上達の意志さえ持っていればそこに至れるというか。

まぁ、これは趣味を持って上達を望んでいることの究極の方向性ではありますが、そこまで大それた目的でなくても、たとえばスランプからの脱出とか、さまざまな面で趣味で培ってきた精神的素養というものが、実…
ここのところ落ち込んでたので、自分のためにビデオレコーダを買う。と言っても、これ、11月2日の話なんだけどねぇ。やたらと時間は前後するので許して欲しい。
ともあれ、この日付あたりは、とにかく自分を楽しくしてやらないと気が狂いそうだったので、わわわわわーっとなんかしてたのよ。

で、ビデオレコーダーって言っても意味が通じないので、リンク。これです。
http://www.sony.jp/products/Consumer/PEG/Acc/PEGA-VR100K/index.html
PDAのクリエで、テレビ動画が見れてしまうという、そういう周辺機器なのであります。

私の持ってるクリエはこれ。
http://www.sony.jp/products/Consumer/PEG/PEG-NX80V/index.html

このクリエに録画された動画の入ってるメモリースティックをぶちこんでやれば動画が見れるようになるのだ。電車の中で録画したテレビが見れる。これがいいのだ。

私、この数年、ほんとうにテレビを見なくなってしまいまして。なんちゅうか、テレビって内容はたいしたことなくても、一度つけちゃうとずーっと見ちゃうからねぇ。それが嫌なんよな。たぶん。それなら本をしっかり読む方が、いろいろと得られるところも多い。

でもねぇ、時たまテレビでも良い番組とかはあるのです。あるんだけど、それを見つけると録画しないとダメなんよね。その時間にテレビの前にいてる保証はないわけだから。仕事の都合とかさ。いろいろあるじゃん。

でもビデオテープというのがどうもいまいちで。場所は食うし、貯まるとこれまた見なくなっちゃうしね。

その点、このメモリースティック録画というのは画期的なのであります。だって電車の中で見れるんだもん。他にすることもないから見るってなもんだよ。

ということで、たまたまやってた「夢路いとしさんを偲んで」という大阪ローカルの番組を録画することにした。

まずpalm本体をパソコンとホットシンクしてやる。

こまかいことは言いませんが、パソコンとpalmのデータを同期してくれる作業なんです、これは。クレードルという充電器がパソコンともつながってて、ボタンを押してやればスケジュールから住所録から全部最新のデータにそろえてくれるわけで、これがなかなか便利なのだ。

で、実はホットシンクしてやると、インターネット経由で、シンクした日から数日分のテレビの番組表を自動的にpalmの中に取り込んでくれるという機能が、このpalmには備わっておるのです。

で、電車の中とかで「何かいい番組とかあるかなー」と探せばよろしい。

で、見つかったとしましょう。私の場合は「いとし師匠の番組」を見つけたわけですが、「これ、見たいなぁ」と思いますね? そしたら、その場でクリエ(あ、SONY製のpalm機はクリエというブランド名なんです。このあたりわからん人にはさっぱりやもんなぁ。)の中に差し込んであるメモリースティックに、この番組の予約データを保存してやるわけです。

操作はバカみたいに簡単ですからな。あ、この番組!と思ったら、「予約追加」と書いてあるクリエ上のボタンを押すだけ。それで予約データがメモリースティックに書き込まれたわけです。

で、帰宅したら、このメモリースティックを、今度はビデオレコーダに差し込んでやればよろしい。もうそれだけで、予約作業は完了であります。あとは忘れてていい。

で、録画されたデータを取り出したら、これをクリエに入れて持ち歩くのであります。
すると、ヒマな時間、合間合間にテレビ番組を見ることができるのであります。

うむ。実に楽しい。

実際にこれで番組を一本見たわけですが、仕事がけっこう詰まっててひーこら言ってた時期だったのに、一時間番組を仕事場と自宅を往復する電車の中とか歩きの時間とかで充分見れちゃったのよね。

なんかねー、すごく時間が有効に使えた感じが強かったです。ドタバタしてただけに。

それに「こりゃいいなぁ」と思ったのは、気に入ったところを何回でも繰り返して見れるところ。デジタルな動画データだから早送りとかも無茶苦茶に簡単だしねぇ。

電車の中で、いとし師匠の極めつけのギャグとかを、動作や立ち居ふるまいまでひっくるめて、何度でも見れるというのは、すごく新鮮な感動がありましたなぁ。

なんちゅうか動く書籍とか文庫本とか、そんな感じがあるのよねー。

たかだか3万円程度の機械なんだけど、私は大変気に入りましたですね。
もう、前から見たい見たいと思いつつ、ずーっと忘れたままになっている教育テレビの「日本の話芸」あたりを録り貯めようかと思ってたりしますね。落語なんか何回見てもいいんだもん。そらよろしおまっせー。

あとテレビの英会話番組だなぁ。あれも録り貯めておくと良いよなぁ、きっと。
ひたすら楽しみが増えるのである。
良いのである。

パソコンを買う。

2003年11月5日
ここのところ落ち込んでいて自分を大切にしていなかったと反省したので、11月2日3日の連休中に、ネット通販でパソコンを注文する。

事務所用なんだけど、事務所のパソコンは1998年に買ったもの。5年も使ってるのよなー。もう二年ほど前から買い替えないといけないよなーとは思ってた。

だいたいDVDが見れません。いや、なによりUSBがつながりません。それどころか、LAN接続がうまくいきません。とんでもない代物です。
なんせ、買った時ですら一年前の型だったのよねー。

でも周辺機器を買い足して、買い足して、チマチマと機能アップさせながら使ってきたので、なんとかなってたのよなー。ハードディスクの増量したり、PCカードスロットをつけたり。液晶ディスプレイに替えたり。

でもまぁ、今年は買い時だからねー。買おう買おう。もう決めちゃえ。

と、実にテキトーにスペック決めてネット通販のボタンを押しました。
そしたらやっと5日になって本体発送の日付が決まりまして、13日発送だってさ。
えらい時間かかるやんけ。かなわんなーもう。
まぁええけど。

ちゅうことで、13日が楽しみです。はい。

なんちゅうか、ずっと壁を感じてたんだけど、こんなもの、あれよね、精神的な内圧とかに頼っていて壁を越えられるわけがないのよね。

だって、苦手があるとか、うまくいかないとか、そういうのが精神的苦痛になってるわけだけど、その精神的苦痛こそが壁を越えられない原因なんだしさ。

こけるのが怖いと思っていて自転車に乗れない人間が、「私は怖がってるからいけない」といくら考えても、そら自転車には乗れない。

原因を明確にしてもしゃーないのよなー、この場合は。それよりかは補助輪をつけた自転車で走ってみるとか、逆に補助輪を外してみるとか、あるいは「自転車には乗らなくてもいい」とか、他の方法を考えないと。

原因ではなく目的を考える。これ、アドラー心理学の考え方ですけど、このアプローチがあったからこそ認知心理学とかが成立したんだろうしねぇ。けっこう大事な気がする。

もう内面心理のトラウマとかは、ほったらかしにしておこう。もうわかった。だいたい。それはそれである。あるものはある。それでいい。単に個性のひとつだ。そこをいじっても何も出て来ない。

で、いまはちょっとウクレレが楽しい。
ここにあるのは「技能」の世界なのだ。
積み重ねれば積み重ねた分だけ確実に進歩がある。その進歩こそが安心感になったり、自分に対する信頼になったり、ひいては自信になったりする。
とても気持ちいいし、心がやすらぐ。

「技能」というのは良い。内面的なかかずりあいとかがない。やったらやっただけだから。
堂堂巡りすることも少ないし、気持ちが沈んでしまうということもない。
まぁたとえば難しいフレーズにぶつかって「くっそー、うまいこといかへんやんけ」というような気持ちにはなるけれども、それもまぁ、指を動かしてればとりあえずは乗り越えられる。

ここなんよなぁ、乗り越えられるのよ。実際に。現実的に。その小さな「乗り越え」が楽しい。
「くそっ」と思って「乗り越え」がある。
やってることは、ほんとうに小さな小さなワンフレーズのことなんだけどねぇ。
でも逆に弾けば弾くほど「乗り越えていけるよ」という感覚が強くなっていく。

いいよなー、ウクレレ。
いやまぁ、なんだっていいんだろうけど。囲碁でも俳句でもエアロビクスでもお習字でも。
とにかく習い事というか技能の必要なことを積み重ねるっていう感覚。
これは救いになるよなー。
そんなこと、考えたこともなかったけど。
いやー、大事だわ、この感覚。

悩みとか落ち込みとか、全部こういう「技能」とかに置き換えたくなるね。いやほんとに。
竹内まりやの出したLongtime Favorites がやたらと気になっていたので買った。あ、実際には11月の4日か5日だったと思うけど。日付とは連動してません。あしからず。

すでにスタンダードとも言えるような60年代ポップスを竹内まりや風にまとめたものなのだけれど、あるお店の店内で流れていたラジオ番組で、このアルバムの中の「この世の果てまで」を聞いて、むちゃ気に入って買ってしまった。

いいなぁ、みんなが知ってる曲。それをちゃんと今風にいまの歌手が歌うっていうの。すげー好き。

いまウクレレの練習してるし、そういう過去の名曲とかも弾いてみたいんよねー。そういう思いもあって買った。

聞いてて思ったのは、「昔はこういう曲ってテレビでも良く聞けたのになー」ってことでした。サウンドインSなんて番組好きだったなー。

伊東ゆかりとか中尾ミエとか、歌のうまい人が豪勢なセットの中でゴージャスな衣装着て歌って、ちゃんとコーラスのできるグループがバックについて。で、服部克久とかが全部オリジナルにちゃんと編曲してたりして。

良かったよなー。ああいう番組って、もうないよねー。不況ってつまらん。

だいたい和田アキ子が日曜の昼間におばちゃん向けに好き放題しゃべるのが人気だったりするけどさー、私ゃ和田アキ子は歌手として好きなんよなー。歌聴きたいなぁ。でも、いまのテレビだと、いくら彼女が歌っても視聴率稼げんもんなぁ。つまらねー。いいんだけどなー、和田アキ子の歌。どうして司会なんかさせるかなぁ。あー、世間はバカである。

まぁしかし、ないものをねだっても仕方ないのである。似たような世界がCDで出たのなら買うしかないのである。買って聞いてると幸せなのである。

ボーイハントなんかいいよなー。元ネタになった映画自体は見たこともないけどさー。曲はいいよなー。日本語の詩も今回はじめてちゃんと聞いたけど、「どこがボーイハントやねん」やしなー。

「恋は知らず知らず心に咲く。
恋は赤く赤く楽しく咲く。
待ちましょう、めぐりあえるその日を、
静かに、静かに待ちましょう。」

だもんねぇ。
良い。
とにかく良い。

さっそくパソコンでMP3にして、手持ちのクリエにぶち込み、行き帰りの電車の中や歩いてる時間、あるいは自宅や事務所でもスピーカークレードルにクリエを乗せて鑑賞するのであった。
(こういう時にクリエは良いのである。音楽漬けになれるのである。はまる時にはまりっぱなしというのはなかなかに心地良いのである。)

しかしなんだなぁ、「ボーイハント」も「この世の果てまで」もどっちも三連符バラードよなぁ。好きだねぇ、このタイプの曲が。竹内まりやは。で、なんかすごくはまってると思うわ。うん。
10月30日に、ふと本屋で目に付いた「自分セラピー」という書籍。たぶん11月1日に読み終わってるはず。けっこうあっという間に読んでしまった。
内容的には、網羅的な心理セラピーの方法論、考え方の紹介書籍なのだと思うのだけど、一冊まるまる通して一貫した「柔らかい信念」みたいなものが感じられて、ずいぶん好感を持った。

そうなのよな、柔らかい信念なのよな。
いま書いてて思った。

たぶん大事なのはそういうことだと思う。
固い信念っていうのは、どこかで意固地なんだよね。で、その意固地の原因って、実は自分で全然見えてなかったりする。

でもだからと言って信念もなしに動いていると、「誰かのため」とかの自分ではコントロール不能な価値観に自分を預けてしまって、何がなんだかわからない世界に陥ってしまったりもする。

ほなら、どないしたらええねんーっと思い悩んでおったわけですが、ようは柔らかい信念を持てばいいわけだ。

信念は信念として、とりあえず立てておいて、それをちょっと離れて「この信念のままでええんかいな、どうやろか?」と遠くからながめてみて、確認したりする感じかなぁ。そういうことをしてたら、価値観の裏側にある意固地の原因とかも目につくし、そういうのはゴミを払うみたいに取れるものはサッと取って、こびりついてるのは、時間かけて、水でしめらせて、ていねいにきれいにするとかが必要なんやろねぇ。

それでまた、自分の生き方に戻って、また信念を支える、みたいなことをしてれば、意外に信念っていうのは柔らかくても大丈夫だったりするんじゃないかなぁ。

たぶんそれが自分を信じるってことなんだろうねぇ。
そうやって自分の信念から距離を取って眺めてみても、そんなに信念って変らないと思うんだけどね。長い時間かけて作ってきたんだから。でも柔らかいのがいいよなー、なんか。

ああ、話はだいぶズレてしまった。

ともあれ、そんな話はこの本には何も書いてない。ワハハハハ。

でも、自分を好きになるための方法がいくつも書いてあって、なかなか参考になりました。
けっこう頑なな自分がほどけますよ、この本。いやほんま。

ほどいた後にも残るところが自分なんだろうねぇ、きっと。

なんかそんな感じの本でした。

あー、期待して読んで期待はずれだったとしても私は責任持ちませんので。わたしがそう感じただけだからね。

ま、そんなことで。

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あ、それと、知らない間にいろいろな方がリンクしてくださってたんですねー。気付きませんでした。
いったい何を気に入ってもらってたんだか。でも、うれしかったです。
ともあれよろしくお願いしますですです。
沖縄出身のBEGINの編み出した楽器で「一五一会」というのがあって、これがなかなか面白い。

"http://mytown.asahi.com/okinawa/news01.asp?c=18&;;kiji=194"

事務所の若いデザイナーさんが、前からギターは弾いているものの、なかなか一曲身につかないので、この一五一会に興味を持ってるという話だったのだ。

「指一本でコードが弾ける」というのが、いったいどういう仕組みなのか気になったので調べてみるとドミソの三和音ではなくミの音のを抜いたドソだけで和音とする考え方で、この和音ならメジャーもマイナーも関係ないという発想。

ふーん。

よくよく見ると三線に低音弦を一弦足した4弦構成なのよね。

ふーん。

………ウクレレのローGチューニングに似てる…。

はっと気付くとウクレレでちょっとチューニングを変えてみるだけで、この「一五一会」って実現しちゃうんだよなー。そこでさっそくローGでチューニングしたウクレレをCとGだけの「一五一会」チューニングにしてみる。
全然無理なし。実に簡単に「一五一会」になってしまった。

で、弾いてみると、これが実に楽しい。和音が沖縄チックになるのよねー。
適当にオカズをはさんでジャラジャラ弾いてみるだけで、すごく「らしい」感じになる。

えーなー、これ。

ということで、「一五一会」について調べたのは10/30くらいだったんだけど、11/5にビギンの「一五一会」のアルバム買ってきて聞いてます。

いや、なかなか良いですよ、これは。

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しかし、このところ、ウクレレを弾くこと自体が楽しい。やはり楽器は良い。こころの安らぎが得られる。

故・伊丹十三さんが謎の暴漢に襲われ入院したことがあったが、伊丹さんはその時の日記で「小指の筋が切れていてギターを弾いても小指の活躍するフレーズがまったくだめ。しかし、弾けなくなってギターがいかに生活に潤いを与えてくれていたかに気付く」と書いておられるのだけれども、これが実によくわかる。

ウクレレではクレイジーGという一曲しか暗譜してないので、これしか弾けないわけだが、いまは二曲目の「星に願いを」を暗譜中である。
遊びでやってるだけなので、去年のいまぐらいに練習を始めて、いまだに二小節くらいしか先に進んでいない。

しかし、それでも一度覚えたフレーズは、少し練習すれば思い出す。小さな積み重ねが、そのまま活きる。これが良い。練習した時間というものが無駄にはならないのである。

飽きずに練習していれば、ほんのちょっとずつでも進む。これがいい。
で、音を耳で聞き、指を動かし、リズムを保つという行為と、その軽い緊張感が、確かに生活に潤いを与えてくるのであります。

そーよなー。下手な精神分析するより、ウクレレ弾いてるほうが、はるかに心の栄養になるよなーと、つくづく思うのであった。

いやー、良いです。楽器は良い。
音楽は良い。

すばらしい。
この日、宣伝のメールが届いた。
なんじゃらほいと見るとソニーピクチャーズだっけ?スパイダーマンウェブからのダイレクトEメールであった。

もうDVDも買ったし、なんだよー、中途半端な時期に宣伝とは、と思って読んで見ると「スパイダーマン2」のポスター画像の公開だという。

へー、と思ってホームページを見てみると確かにスパイダーマンは映ってるのだけど、それだけ。あんまりすごくないよなー。

と、思ったのだが。

よくよく見ると、スパイダーマンの目になにやら人影が映っている。なんだ?と拡大してみると、おおっ、これはドクターオクトパスではないか!

うひゃー、こんな奴出すの?ゲゲー。そりゃまぁ、人気の高い悪役ですけどなぁ。あまりにあざとくないか?まぁいっか。

背中から機械の触手が4本生えてるだぞー。あまりに荒唐無稽じゃないか。んー、まぁそれもありか。

デアデビルとの連携で、アカデミー助演男優賞ノミネートのマイケル・クラーク・ダンカンのキングピンを持ってくるとかのこすっからい手を使うかと思ったが、それはなかったか。(ないわな。笑)

ニューヨークのギャング団を敵のした方がリアリティがあっていいのに、わざわざドク・オックでくるとはねぇ。

まぁリザードマンとかミステリオとかの方がよっぽどあざといか。うーん。
しかし、機械の触手、どうやって映像しますかね。それはそれで面白いかもしれない。うん。

ああ、おもいきりマニアックな話題でした。はい。

壁が重い。

2003年10月30日
なんだかとにかく壁を感じる。
自分の中の大きな壁。
うーん、どうしたらいいんだろう。
まぁ解決策が見つからないからこそ、壁なんだろうなぁ。

ここしばらくのことで言えばそれでも今まで何も考えずにただぶつかって「たははは、失敗、失敗」と言っていたのが、「もうええかげん失敗は嫌!」と本質的に壁の打開を願い始めているということである。

いままでそこに壁があるということにも気付いてなかったわけでねぇ。そういう意味では、ものすごーーーーく進歩してるんやけど、この壁が、でかい。
重い。厚い。高い。延々続いてる。扉も抜け道もない。ただ立ちはだかる存在としてどーーーーんとそこにあるだけ。

…のように感じてるのよなぁ。
多分、そう感じてるだけで、壁の乗り越え方はきっとあるんだろうけど、乗り越えられないと感じてしまってるんだからしょうがないよなぁ。

どうしたらコントロールできるかなぁ。
感じていることをコントロールできるのか?という話になるのよな。

これはけっこう大変であったりする。
考えを変えるのは難しくないけど、感じていることを変えるのは、なかなかに大変なのだ。

いまの感じ方を生み出した考え方を探り出して、その考え方を訂正し、新たな考え方を生み出して、そこから発生する、より良い感じ方を選び取って行くということが必要なのだ。

いちおういろんなカウンセリング書の話を要約すると、そういうことになる。

なるけどさぁ、どうやってやるのよ。
わからんなぁ。
うーむ。

死んだ気になりゃ解決できるはずやねんけど、人間じつは、そう簡単に死んだ気にまではなれないのだよねぇ。
そういうタイプの精神論は結局役に立たないから採用しない。

ともあれ。

進歩はしている。日々どんどん進歩はしている。で、あるのに進歩してわかるのは、自分の壁のでかさと重さばっかりというのを、なんとかしなくちゃ、なのである。

しかしまぁ、こんなデカイ壁に、なんでいままで気付かなかったかねぇ。そういう自分が情けないわ。いやほんま。

あー溶けて行く。

2003年10月29日
あーすごいすごい。
トラウマで間違った考え方とかが正されたので、いろんな頑なさがどんどん外れていく。
いままで外せなくて外せなくて困っていたものが、「ちょっと外してみよか」と意識するだけで外せる。罪悪感もない。
すごいすごい。
でも、あんまり外しすぎるのも節操がない感じなので、ちょっと自粛したりする。まだバランスはうまく保ててないみたいですが。

ということで、ここしばらく鬱になりかけていた感じがあったので、ネットで「鬱病予防の方法」というのを検索。「大事と思うことからやっていくこと」と書いてあったので、実行してみると、実に快適。気持ちいい。
部屋の中の一番大きな荷物から片付けていくような感じ。心の空間の空きが一気にバンッと広がる。

うーむ、これはなかなかに良いです。今後、迷ったりウジウジしたりした時は「ワシはいったい何を大事と思ってんねん」という問いかけから始めようと思ったね。いやほんま。まずはそれですわ。

一二週間ほど前に、ひょんなことから自分の内面にあるトラウマに気付いた。
細かい話は書かないけれど、子供のころに間違った概念を刷り込んでしまうと、人間、妙なところでかたくなになってしまうもんである。
それが良くわかった。

トラウマだとかアダルトチルドレンとか言うから、よくわからなくなるのだけれど、さる心理学の書籍によれば、

●不合理な信念は幼児期の不正確なものの見方からきている。

という言い方になる。

これ、わかりやすい。

そういうことなのよな。トラウマとかなんとかややっこしい言葉を使うから妙な話に聞こえるけど、子供の頃に物事の感じ方の根っこのところで「勘違い」をしてしまったということなんですよ。
それを大人になってもずーっとひきずってしまってる場合があるわけです。で、不合理な信念を持ちつづけることになってしまう。

私の場合は「興奮状態・狂態」に対する嫌悪感や恐怖だったんですけどね。

でも、一度それがわかると、ゆーーーっくりではあるけど、いろいろ溶けてくるのよなー。
なんてワシは頑なやったんやろかとか。
そういうのが一週間単位くらいのゆーっくりしたスピードで実感できてくるよなー。昨日と今日とでは違いがわからんけど、一週間前とは明らかに違うというような。

そらあれでっせ、子供やねんから、いろいろ勘違いするよねぇ。特に親が子供にわかるように、キチンと説明せんかったりしたら。

そういう意味で説明不足の親とかはいけませんねぇ。面倒くさくても子供にはちゃんと教えないとダメです。不安がって勝手な解釈をして、それが半生にわたって影響したりしますからなぁ。
うーむむむむ。

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