この日記は「倫社の帝王」の項目に入れてます。
倫理・社会という観点から物事を見るとどうしても宗教の話にならざるをえなくて、それはまだまだ途中なんですね。
世界の宗教と日本の宗教観の違いの話をして、それから、日本人が無意識に持ってる「たたり」とか「けがれ」意識の話もしなくちゃいけないし、いろいろ明確にしとかないといけないことは数多い。

でも、それより先に、ちょっと「勉強の方法」ということに関して書いておいた方がいいかなぁという気もしてます。

僕の場合は「倫社」というものが、それこそ何の抵抗もなくアタマに入ってきた人なわけです。それこそ高校のクラス40人中で飛抜けて倫社の成績だけは良かった。(自慢じゃなくて単なる事実。なんせ化学は劣等生だったし。)

得意科目というものは、「勉強の方法」が不要なんですね。自然と身に付く。勝手にアタマに入る。

でも問題は不得手な項目をどうするか、なんですね。
倫社なんて僕は得意だけど、他の人は得意じゃないのだから、学習の方法とか、そういうことを書いておかないと意味ないなと、ふと気づいたわけです。
得意な科目のことをいくら書いても、それって向き不向きの話だから、世の中の役に立たないですしね。

世の中は実際には不得手な事柄ばかりが押し寄せてくる。それでもなんとかするしかない。そういう時に、いったいどうやって対処したらいいのか、なわけです。その方が大切だなと。

で、そういう時のために書物というのは大きな効果を発揮します。何か自分で対応しなくてはいけなくて、学習する必要がある時、どうやって対応するか、を教えてくれるのが書物なんです。

不得手項目にもパパパっと対応できる方法があるなら、それを獲得しておくのが得策です。そのために書物は役に立つし、その時に、「効率的な勉強の方法」というのはあるのでありまして、だから、そういう話をしようと思い立ったわけです。

僕の場合、不得手項目の学習には、「田中角栄の勉強方法」が、とても役に立つと思ってます。
それはどういう方法かというと、「関連項目の書物を一貫目ほども買ってくる」というやり方です。

これは昨年お亡くなりになった田中角栄の元秘書である早坂茂三さんがエッセイで書いておられたことなんですが、田中角栄という人は、とにかく実に良く勉強する人だったそうで、官僚が舌をまくほど、何事につけ良く知っていたし、問題の解決法まで見据えた法案作成まで自分ひとりでできてしまう人だったそうなんですが、その勉強の仕方が上記の一言なわけです。

とにかく本を「一貫目ほとも買ってこい」なんです。
たとえば政治家連中とゴルフをせねばならなくなった時でも、秘書の早坂さんに「一貫目ほとも買ってこい」とゴルフの入門書やら何やらを買いに行かせる。まぁ大きな書店のゴルフ関連本の棚の一段分くらいは買ってくるわけです。

これを田中角栄は入門書から順に一気に読んでいくそうです。で、どうなるかというと、これでゴルフが一気にうまくなったりするわけです。

書物なんて机上の論理だからいくら本だけ読んでも役に立つまいと思ってる人は大間違いなんですね。まず、一気にその世界の大枠、概略を知ってしまう。これほどムダのない「指針」はないわけですよ。そうなれば、あとの練習がすべて目的にかなう。ムダがない。
ま、そういうことなんでしょう。

だから勉強するなら、「これだ」という特定のジャンルを決めて、一気に一貫目、そこまでできなくても、まぁ10冊くらいの書籍を、バババババーと読んでしまうのが一番効率的です。

これはねぇ、ほんとうに良い勉強法なんですね。なんせ同じテーマで本を読んだら、同じことが繰り返し「薄く」「深く」「角度を変えて」何度でも出てくる。これだけで復習の効果があるし、複数の見方から身につけることで、自分なりの見方というものも立てやすくなります。
また業界やら、そのテーマでの常識とか大きな流れみたいなものも一気にわかってしまう。
本当に賢い勉強方法だなぁと思います。

で、ここで僕は「田中角栄の勉強法」と名付けましたけど、僕はこの勉強の仕方は早坂茂三さんの書籍を読むより先に立花隆氏の書いた本などで知ってたわけです。

立花隆氏も同じやり方をしている。まずテーマを決めたら、書店でそのジャンルの本棚の前に立ち、入門書から高度そうな内容のものまで、一気に10冊くらいを選び出して、それを買うというところから話を始めてるんですね。

これが実に印象的だったんです。

というか、田中角栄と立花隆ですよ。この因縁のふたり。田中角栄を「総理の犯罪」という形で追い込んでいったジャーナリストと、不世出の庶民宰相、世紀の天才政治家が同じ勉強法で知識を身につけていたというところまで因縁というか、なんというか。

まぁ、それだけ汎用性のある勉強法だと見るのが一番賢いんでしょうけどね。

そんなことで、僕は勉強するなら、特定テーマに関しては一気に数冊から十冊くらいは、とにかく一気に読むようにしてます。
専門用語にしてもすぐに頭に入るし、その概念の「使える範囲」がどの程度なのかとか実例などもよく見えてくる。
一冊一冊をていねいに読まなくても、それぞれが相互補完関係になるから、「読んでるうちにわかるようになる」という効果も出てきます。

また、すでに入門書で読んで知っている内容なら、それこそサササっと飛ばし読みできるから、小難しい本でも余分なところを読まずに済ませるなんてこともできるわけです。
総合的に見て、実に効率的な知識の習得が可能になる。

勉強するなら、まずこれだよなーとつくづく思っておるのです。

勉強なんて大変だ、やっかいだと思っている方には、ともかくこの方法をお勧めしたいです。
実に効果的。

ま、そんな話でした。
ISBN:4569636438 単行本 岬 龍一郎 PHP研究所 2004/05 ¥1,155

この数年、ことあるごとに「勉強せい」「勉強せなあきませんわ」「勉強してるかどうかよなぁ」ということを言い続けております。

なんでそうなったのかなぁと思うと、やっぱり、まず人間は「個人」として独立して、自分の意見を言い、堂々と自分の生き方を通していくことが幸せだと思うからなんですね。
まちがったことは「まちがってました」と反省し、また次の新しい知識を身につけていく。それこそが学ぶ姿勢であり、その時に「なるほど」と納得できることが精神の平安、心のゆとりにもなると僕は思う。

で、間違ってるのかどうかとかは、先人がいろいろと学問としてまとめてくれているのだから、そういうものをキチンと学習すれば良いと思うのですよ。そのまま素直に受け取って、そこからまた新たに発展・展開していくというような、そういう人であらねばと思うわけですよ。

知りもしないで勝手なことをグチグチと文句言うのが一番かっこ悪いし、社会の迷惑だし、世の中のためにもならないし、そんな奴こそが不幸せを世の中にまき散らすのだと思っているわけです。

で、そういうようなことをずっと思っていて、ふと気づくと、この福沢諭吉の「学問のすすめ」を私は未読であったことに気づいたわけです。

で、読んでみたら、なんてこたぁない。そらもう僕が口やかましく言ってることとか、主張したいこととか、こんな風に考えなくちゃいかんよなというようなことが、もうまるまる、「学問のすすめ」の中に、僕が書くよりはるかにわかりやすく伝わりやすく書かれているわけです。

それに平易に書かれてますけど、欧米の知識を、相当に深いレベルまで身につけた上で、自分の哲学とすり合わせて、かみ砕いた上で、わかりやすい日本語に直しているというのが、一発でよく分かる。

とくに僕は、欧米の「自由」やら権利概念やらを翻訳書とか、多様な書籍から少しずつヒーコラ言いながら学習してきたので、この福沢諭吉のかみ砕き方がいかにこなれているかに舌をまくのであります。このこなれ方はすごいです。

おそらく、福沢諭吉自身が原書を直接読んで、悪戦苦闘しながら概念理解をして、それで自分の言葉に置き換えたからこそ、ここまで日本語としてこなれているんだと思う。(なにより「自由」という言葉をフリーダム・リバティの訳語として創造したのが諭吉グループだそうですからなぁ。そらこなれてるわなぁ。)
ほんとうにすごいことをやってると思います。

これは、明治5年くらいの本ですが、いまの時代にも通用する。マジに。
というか、いまこそ、この明治の精神を真摯に受け止めるべきやで、って思う。

国民が独立していなくて、国が独立するわけない。私自身が誰に頼らず、勉強(実学です。経営学も歴史も政治も法律も何もかもひっくるめて。それもワールドワイドな視点でって意味です。国内文化に浸った国内権威を守るような学問では意味ないです。世界の列強と居並ぶことこそが重要って意味での勉強、です。)すべしってことです。

これなんよなぁ。これ。
ひとりひとりがキチンと「個人」にならずして、国の成り立つわけがない。

だって法律も借り物だし、自由や権利や義務の概念も、全部欧米からの借り物なんだもの。その借り物が自分の体に合うように慣らしていくのは個人の責任ですよ。

それができてなくて、日本の未来なんかあり得ない。個人が努力しなくて未来が来るなんてことはあり得ない。さぼって遊んでるだけの人間は時代の流れも読めず、中世的な古来の風習の中で苦しんでのたうち回るだけです。苦しいのなんて嫌だ。だから勉強する。

そういうことなんよなぁとつくづく思う。

この本は岩波文庫でも出てたと思うんですが、岩波版はかなづかいこそ現代かなづかいに直ってるらしいんですが、文章自体は文語体のままで現代語訳されてないそうなんです。(よく知らないですが。)でも、この本は現代語訳されてるので、大変読みやすい。

勉強はせにゃならんのですが、手間がかかったり面倒だったりするのはしんどいので、僕は現代語訳を選んだわけですが、これは本当に良い仕事ですわね。

良い作品をつねに現代語訳して、受け継いで古典にしていかないといけない。つくづくそう思わされました。

で、岩波の文庫版の方はアマゾンのレビューでも星五つの最高評価ばっかり。啓蒙書としての「学問のすすめ」はほんとうにすばらしいのです。もっともっとみんなに読んでもらいたいと思いますね。

まぁ一冊まるまる読まなくても、一番最初の「初編」の部分だけでも、みんなが読んで欲しいと思うなぁ。ほんと。

ひとりでも多く、個人が個人として目覚めて欲しい。
いたずらに周りにあわせて、ずるずると個を捨ててイライラしたりしないで欲しい。

まず自己責任で自分の生き方を引き受けて、独立精神で真剣に知識の獲得に本気になって欲しいです。

ひとりでもそういう人が増えたら、その波及効果はすごく大きいですしね。一人の周りに何十人という人間がいてますから。

まず日本人は「学問のすすめ」の精神にこそ、立ち帰るべきだと僕は思います。

いやほんと。

ほんとのほんとに、とてつもなく重要なことだと思う。

ずーっと「勉強勉強」って言い続けてきたけど、僕なんかが言うより、やっぱり福沢諭吉に言ってもらう方が信用してもらえるもんなぁ。同じこと言ってても福沢諭吉なら信用するというしょーもない人が、この国には多いし、やっぱりそういう意味でもこの本は意義深いです。

すばらしいです。
ネットは公開の場なので、あんまり悪口とか書きたくないんだけど、やっぱりちょっと辛いので書きたい。

勉強してない人と仕事すること。
これ、辛いんです。ほんと。
勉強してくれって思う。
もう本当に心の底から「お前が勉強不足なだけやろーっ!!!」と思うことが時たまあります。

なんで「時たま」かというと、相手が勉強不足とわかった時点で、私はもう、ゆるやかに撤退作業をはじめるからです。一緒に仕事しない。だって引っかき回されて、最終的に売り上げにつながらないことが多いから。

そんなん嫌やもん。

しかしですねぇ、義理があってつきあわねばならない人とか、性格だけはすこぶる良い人とかの場合が困るわけなんですね。

これ、本当に困る。ケンカして「ハイ、さよなら」というわけにもいかない。
相手の能力の低さにあわせて、チンタラチンタラと、無駄な作業とかにつきあいつつ、少しずつ教育していくとかくらいしか、手がない。

これがまぁ、若いビジネスマンが相手なら、まだマシなのですよ。教えたら喜んで勉強を始めたりするから。

問題はある程度の年になって「俺はわかってる」と思ってる人。これが困る。
ほんとうに困る。
全然わかってないのに、わかってると思ってるのですなぁ。

僕の業界で言うと、広告業界なんですが、この数年の日本におけるマーケティング・コンサルタントの台頭(神田昌典氏とかその他群雄割拠状態)の経営環境のことも知らずに、十年一日「かっこいいデザインにしてれば、それでよし」と思ってるような人種です。

違うんよ。もう時代が違う。売り上げに直結しない販売促進策なんか、誰一人として相手にしてくれないんだよ、ってことがわかってなかったりする。

他にもわかってないよなー、ひどいよなー、勉強不足もここまで行ったら手もつけられんなぁというようなことが色々あって、ほんと書きたいんだけど、詳しく説明するだけで時間がかかりすぎるので、ここでやめ。
とにかくまぁほんと、勉強してない人は困る。

仕事の都合上、チームにひとり、たまたま能力の劣った人間が入ってきた時っていうのが、本当に一番辛い。
ものすごく迷惑なんだけど、それも言えないし。

これがまだ自分の能力不足を自覚していて、それを努力でカバーしようとしているような人なら、全然ストレスはたまらないんですがね。
勘違いしたことをババババーと言って、それで仕事を進めようとするような人が困るわけです。
困るんよなー。後始末が本当に大変で。

まぁあれですよねー、人間「わからん」という一言が言えなくなったら、そこでおしまいですわなぁ。成長はそこでストップする。

「ワシ、よーわからんのですわ。ちょっと教えてください。」

これですな。この一言ですな。
これを臆面もなく、恥ずかしげもなく、なんの躊躇もなくスパンと言えるかどうかですわ。
もう、私、言いまくってますからなぁ。この間も「ステークホルダー」という言葉がさーっぱりわからんので、「勉強不足で申し訳ないんですが、そのステークホルダーっていうのは何ですか?」とか聞いてたし。利害関係者のことだそうですが。

そんなん聞いたら、知ってる人は簡単に教えてくれますからな。タダで。こんな得なことない。

でもこの「ワシ、よーわからんのですわ。」を言えない人がいてる。あきませんよ、これは。ほんまに。アホになって聞かないと。質問しなくなったら人間腐ります。マジに。

ユダヤの格言に「あなたの舌に『私はわからない』という言葉を一生懸命教えなさい」というのがあるらしいんですが、これ、素晴らしい言葉ですなぁ。
この言葉、百万回でも唱えたいですな。ほんと。
ホリエモンがさっさと撤退したので、例の問題はあっさり幕引きみたいになったけど、肝心なことが何も変わらないまま終わってしまったなぁと思う今日このごろ。

いまだに新聞では「会社は誰のものかという論議を引き起こした」とかしょーもないことが書かれている。

いや、あのね、会社は株主のものに決まってんじゃん。ただ、日本では一般人が株主になる機会が少ないというか一般化してないから、「自分たちのビジネス共同体だ」と思いこみたいってだけやん。

あなたも私も株主になったらええんです。
上がり下がりが怖いなら、そういう投資会社にまかせたらいい。
そうなれば「株主の利益=一般的な我々の利益」という基本の基本に論議が収束するはずなのに。

でも日本には、まともな投資会社がほとんどまったく全然存在しないに等しいわけです。大企業は銀行とか他の企業と株の持ち合いをしてるし、投資会社は手数料だけで稼いで(いた。過去形。いまはまともになってきたらしい。詳しくは知らない。)から、普通の人が株式で利益を得るという機会自体が存在してないに等しい。

実質問題日本人は稼いだ金を「貯金」か「預金」するしかないような仕組みだったのだってことですな。(貯金と預金の違いのわからん人はこの問題に言及する資格なし。)

とにかく稼いだ金をキチンと増やす機関ってのが本当にない。海外の投資信託なら、まぁけっこうあるけど、純粋に国内に我々の同胞、日本人がやってる信託会社とかでまともなのが見あたらない。

それはやっぱり法律違反ぎりぎりのことをしてでも運営で益を出すぞという会社が存在してないからですわなぁ。

どこかにそういう会社があれば、投資会社同士に競争も起こってまともな国内の証券会社とかも出てくるわけで、そういう環境がないから、仕方なしに企業内年金とか、「我々の生活は会社が見てくれる」とかいう「会社は我らの共同体」という発想に行き着かなければならなくなってるだけのことなのよ。
そういう幻想が存在してるってことの方が問題なのになぁ。

企業内年金ったって運用スキルがそんなに高いわけないしなぁ。だって素人運営しかでけへんやん。どんな企業がどう伸びるのかを適切に読み取って安全なポートフォリオが組めるかどうかでしょ。そういうことができる人、企業、組織、仕組み、法律、そういうものが全然整ってないってことですわなぁ。

証券会社が手数料で稼ぐという最低のことをやってるから、株の売買が一般に根付かなかったってだけじゃん。だから「自分も株主になれる」という選択肢そのものが普通の人の頭の中に存在してなくて、だからこういう問題が出てきたときに「会社は誰のものか」とかになるんやんか。もう。

「所有」の概念は資本主義の基礎の基礎の基礎の基礎なんだから、ここのところがええかげんなのは、ようするに資本主義が定着していない、中世の国と同じってことなんやけどなぁ。

けどまぁ、そういう程度の認識しかないってことです。我々は。

とほほのほ。
やっと少し話題が出なくなってきたので、ちょっと話題のホリエモン問題について書いておきたい。
基本的には単なるM&Aの話題なんだから、ビジネスの手法のひとつというだけで、わざわざごちゃごちゃ言うことでもないんだけど、テレビや新聞で、なんでこんなに大きく騒がれるのかというところに「ちょっと考えないとアカンよなぁ」と思う点があるので指摘しておきたいのだ。

その問題点は「なんでテレビのコメンテーターに大手の証券会社の人間が出てこないのか」という点です。

常識的に考えたら、そういう風にならないとおかしいでしょ?
違いますか?

でも実際にはそうはなっていない。

これねぇ、サリンの時にも感じたのよ。あの時だって、テレビの解説者に仏教関係者だとか、そういう人たちがバッと出てきてしゃべったっていいはずだった。

でもそういう人は出てこない。

なんでか?

ここのところが明らかでないから、我々は不幸なんですよ。いま起きている状況を自分の常識の中のどのあたりに位置づけていいかわからないから、「ホリエモン派かフジ派か」とかワーワー騒がなくてはならなくなる。

なんでそういう専門家が出てきて、わかりやすく解説をしないのか。

答えは簡単で「解説する能力がないから」なんです。
ここが我々の不幸なのですよ。

オウムというのはやってる宗教内容は別にして、とにかく本場のインドの仏教の概念をキチンとふまえた上で体系を作ってたわけです。
でも日本の仏教はいったん中国を経由して、しかも日本の政治体制に利用されまくって日本独自の宗教に変質してしまっているから、宗教の本質にするどくせまるような人材を作り得ていなかったわけです。
ま、一言で言うと「遅れてる」わけです。

で、今回のホリエモン問題も同じ。日本の証券会社というのは、そらもうものすごいお粗末なわけです。通常、客の金をあずかったら、とにかく増やすことが各種のファンドなどでは使命なわけです。でも、日本の投資信託の会社はずーっと客が儲かろうと損しようと手数料だけはもらえて、その手数料だけで食ってきたから、「運用手法」なんてなぁんにも身に付いてない。

だから敵対的買収とか、そういう「金を増やす手法」に関して無知なわけです。で、それがバレたら困るから、テレビに出たがらない。そういう状況なんですよ。

サリンの時だって、浄土真宗でもどこでも日本のメジャーな宗教団体がバッと前に出てきて、我々日本人の宗教がどういう状況であるのかを、包み隠さずにしゃべるべきだったんだ。少なくともそういう責任が彼らにはあったはずだ。でも、彼らはそれをしなかった。日本の宗教が世界基準からすれば大きく異なっているという事実を明確にはしなかった。

そここそが、問題の本質なんです。

で、今回も状況は同じ。敵対的買収とか各種のファンド会社とかは、欧米の手法をそのまま使ってるだけ。良いも悪いも、そういうことをするのが仕事なのだからしょうがない。

で、それに対して国内の大手証券会社、あるいは投資コンサルタント、あるいは銀行系のシンクタンクとか、そういうところが解説者として登場しても良いはずなのに、出てこない。

なんでか。
解説する能力がないからです。
で、その責任も果たせないくらい日本の投資環境というものが「遅れている」からなのです。

で。

このあたりのことは、知ってる人は知ってる。宗教にしても投資にしても、日本がすごく特殊状況にあって、まぁ冷静に見れば「遅れてる」としか言いようのない状況なんだ、ということは知ってるものなのです。ごく当たり前の知識として。

でも、知らない人はまったく知らない。全然知らない。わからない。だから世の中に賛否両論が巻き起こったりするわけですよ。

ホリエモンは物作りやメディアに関しては言ってることが幼稚で「あらまぁ、そんな言い方したらアカンでしょ」という気はするし、いくらでも突っ込めるんだけど、でも投資とか株式会社とかに関する考え方は別にどこも間違ったことは言ってない。
ちゅうか教科書通りでおもしろみがなさすぎるくらいです。

でもそれがまた「わかってない」人には「え?いいの、あんなことで」とかになるんだろうなぁと思う。

ようは知識の「間をつなぐ人」がいないんだよなぁ。
本来「権威」となるべき人が、だんまりを決め込んで発言しないから、こういうことになるのですよ。

だからまず、「発言するべき人間が発言してへんやんけ」ということを、しっかり批判したいなぁと、私は思うのですよ。いやほんま。

で、それが日本のお寒い状況なのだってことを、わかってない人にはキチンと理解してもらいたいです。
なんか外資ばっかりやん、結局。国内にまともな実力を持った対抗勢力がまったくいない。そういうことですから。

じつにお粗末。そういうことです。
ISBN:456955847X 単行本(ソフトカバー) 中島 義道 PHP研究所 1997/10 ¥693

ちょっとタイトルが気になったので読んでみた。
そしたら、作者さん、すげー、怒ってる。

わかるわー、作者の気持ち。
そんなに怒らなくてもええやんか、という気はするけど、言っておられることはしごくまっとうなので深くうなづくしかない。

しかし、この本の「思いやりと優しさが圧殺するもの」というサブタイトルの「怖さ」がわかる人が果たして日本人の中でどれだけいてるのかという気もする。

なんといっても、日本人は「対話」がすごい苦手なんよなー。
それをつくづく思う。

対立項そのものを設定することが相手を否定することだと思ってる。だから対立的概念をいつまでたっても受け入れられないし、「対話」ではなく「会話」することが良い「人間関係」と考えてる。

違うっちゅうに。

それぞれの個性を認めるならば、違いはあって当然だし、その違いを笑って認められる社会のほうが、お互いがお互いにあわせてガマンしている社会よりはるかに風通しもいいし、発展していく可能性も高いのに、そこがわかっていない。

なんちゅうか、ずっと気になってる日本人の弱い点がモロ明確に批判されてる感じで、ある種痛快、でもちょっと言い過ぎかなぁって感じの本ですね。

なんていうのかなぁ、マイナーな存在を無視して平気なのが日本の社会なんよなぁ。で、「マイナー」が存在していることを認めることは「差別」だと思ってる。

うーん。
やっぱり存在しているものは認めてあげないとダメだよ。
抹殺して「いてない」ことにしたらアカンのよ。
社会は平等ではないし、弱者は現実に存在しているし、「私」という個人も、ある場面では強烈な強者だし、別の場面ではどうしようもない弱者なんだ。

で、それを認めることというのは、ある意味自分がバカであるということを認める力でもあるし、「バカでかまわないんだ」と認められる安心感を得ることでもあるんだよね。

なのに、そういう矛盾とか違いとか、かみ合わない点とかを明確化せずに「まぁまぁ」「なぁなぁ」でやることが和の精神だとか思ってるというか、思わされている。

でも、そんな風に周りにあわせてるだけのほうが意識下のストレスは大きいのよなぁ。意識上ではラクなんだろうけど、無意識の下の下のところで、すごくしんどくなる。
だって、ずっと「俺はバカじゃない」と肩肘張って生きていかなきゃならないから。

楽になったほうがいいよ。誰だって。
個性の違いを認めるというのは、そういう気楽さを得る風通しの良さだと僕は思うけどなー。

「みんなが平等ということになっている」じゃダメなんだ。
そんなお題目ばっかりじゃ意味ないと思う。

「平等じゃないよ、世の中は。だけど、なんとかみんなが幸せになるように一つずつ確認していこうよ。」ってのでないとダメさ。

そういうことなんよね、対話するってことは。

「おまえ、バカなんじゃないの?」と問われて、
「違うわい」と肩肘張ることではなく、「んー、かもなー。」と冷静に自己認識できる力こそが大切で、それこそが実は生きる力であり、真の賢さであり、幸せになるための重要なキーポイントなんだと思う。

事実を直視するのは辛いねんけどなー。でもそれを直視しない限り、前に進むことはできんのだわ。

そういうことを強く感じた本です。

こういうことって、僕的には、しごく当たり前の考え方とらまえ方なんだけど、どうもそうではないのが日本の社会らしいんよなー。

うーん。困ったことだ。
勉強している人と話すのは楽しい。

なぜなら、こちらも勉強になるからだ。
「そうか、そうなのか」と頭が下がる。

最近、仕事で知り合った若いディレクターがとにかくよく勉強していて、気持ち良いのだ。
まだ若いのになぁ。すごいよなぁって思う。

そういう人と雑談をしていると、それだけですごく勉強になるし、仕事をする上でのヒントになるし、いろいろ目標や課題も見えてくる。

もう一回りくらい年下の彼なんですけどねぇ。えらいわ、本当に。年下だけど、尊敬するのよなぁ。

僕ももっと勉強しなくちゃなぁって思う。
僕があの年齢の時、そんなに勉強してたかな。いやぁしてないしてない。全然してないよ。そんな風に思うのですよ。

たぶんこっちの十年分の蓄積と同じくらいの量の知識をその人が持ってるから、いまちょうど同等くらいの知識なんだろうなぁと思うわけで。

アカンやん、ワシって思う。
さぼり過ぎやん。ほんま。

まだまだ知らないことばっかりだわ。

上には上がいるから、もっともっとすごい人が世の中にはいてるんやろな。すごいね。そういう人ともっと出会いたいと思う。
ほんと。
ここ数年、年頭というか、この時期に出る米大統領の一般教書演説が一年の成り行きを大雑把に見るための重要な情報として、僕の頭の中にはある。

まぁ、国内政治がどうごちゃごちゃしても、ようはアメリカがどう動くかが固まってないと日本のへつらい政治家は態度の決めようがないらしいので、この一般教書演説が役に立ってしまうことになる。

本当はなー、日本の首相の年頭所感みたいなので国の方向がキチンと定まればいちばんええんやけどなー。どうにも実際にはそうならんもんなー。アメリカの一般教書演説の方が、はるかに我々の生活への影響が大きいのだ。ああ、困ったことだ。

つーことで、今年の一般教書で一番大きかったのは北朝鮮だね〜。六カ国協議を中心に進めるってことだから、そうとうにアメリカさんは「やる気なし」だわ。助かったねー。これが北朝鮮を徹底追求みたいな内容だったら、それこそ本格的に自衛隊が北朝鮮に駆り出されるところだったもんなぁ。

そんなん、隣の国とごちゃごちゃするのはやばいって。拉致問題で一般人の不満もたまってるだけに怖かったのよなー。アジア人同士は、実際には非常に一国ずつで考え方の違いが大きいから「徹底した対話」は必要だと思うけど、戦争だけはしたらアカンと思うのよなぁ。ほんま。

(「徹底した対話」というのは、それこそ「論争」ですな。論争はいくらやってもいいと思うのよ。それこそ戦争になる前にやっておくべきことだから。)

ともあれ、アメリカが「北朝鮮問題はちょっと先にするわ」って態度になったから、まぁ今年中にドタバタすることはなさそうでホッとしてます。

アメリカもイラク侵攻で泥沼になっちゃって、いろんな意味で余裕がなくなったんでしょうなぁ。

僕的立場としては「日本人は国際人としては幼児に等しい。だから、あまり国際政治に関わるべきではない」という意見なのです。そんな海外のことに頭を回すくらいなら、それこそ国際政治とは何かということを「一般人がコツコツ学ぶ」のが大切と思ってるんですね。

だって日本人、勘違いばっかりだもん。
勘違いのままアメリカ軍の下働きとかさせられたら、一番損やと思うねんなぁ。死に損。損することはやめて自国の得(国益)を優先しようよなぁ。
(「国益」という考え方さえ勘案されてないもんな。ちゅうか、「国益」なんて単語、テレビでもラジオでも聞いたことない。なんかヘンよね。実際。)

ともあれ、米一般教書を見ると国内問題にもそうとう時間を使っていろいろ言ってたらしいし、このスキやと思うのよ。きゃつらが国内問題に取り組んでる間に我々のこと、自分自身のことをしっかりやらないといけないと思う。
このスキにこそ、北朝鮮とか韓国とか中国とかとじっくり「対話」しとくべきなんだけど、さて、それができるかねぇ、我々日本人に。大変不安であります。

しかし、なんつーか、いまの時期って旧正月なんですよね。その時期に米大統領が一般教書演説で今年一年のことを言うというのが、なんちゅうかねぇ、都合が良くておもしろいっちゅうか。単なる偶然なんですけども、僕的には旧正月が私の新年という感じが強くなってしまうのであります。

へんだけど、面白い。
RYOさんのページで紹介されてた文章を読んで、僕もとても感動しました。ものすごく高度なことが書いてありますけど、でもとても真実を写し取ってると感じました。

こっちでもリンクしとこ。
http://www.shiro.dreamhost.com/scheme/trans/hs-j.html

この文章って誰が書いたんでしょうか。また機会があれば誰か教えてください。

しかしほんと、本読まない人が多い。それも小説以外の本となると無茶苦茶に少ないと思う。

●良い本を見つけること自体、ひとつの大きなプロジェクト。

だというのにねぇ。

●偉人が私と同じ普通の人なら、何もしてない私とは何。

とかも書いてあったけど、この問いかけも実に深い。

実はやれば誰にでもできるのだ。本当は。

「学習すること」はやはり人間の本質そのものだよなぁと、最近つくづく実感しているので、こういう良い文章に出会うと本当の意味で前向きな勇気がわいてきます。

良い文章をありがとう、です。
いろんな意味で。
今年は阪神大震災から10年。

震災の日の日記にも書いたけど、大地震という人の手ではどうしようもない出来事に遭遇して、考え方や生き方は大きく変わったように思う。

その中でも、やっぱり一番大きいのは「勉強しなくちゃいけない」っていうことだった。

最初は「他の国から見て日本という国がどう見えるのか」というような発想だったけれど、たとえば英語ひとつ学んでみても、ひとつの単語の裏には日本とは異なる異質な文化があって、その文化を学ばない限り、言葉の意味がわからないというようなことが山のようにある。

英語なんてとくにそうだ。辞書を見て「日本語で●●は英語で○○」と単純にあてはめてそれでよしなどと思っていたら、ちょー恥ずかしいことになる。全然通じないどころか正反対になってしまうなんてことも多い。

結局、英語を学ぶというのは、相手の国の文化を知るということで、それは日本の文化とはまるで違うのだということを知ることだから、「日本語の●●は●●であって英語の○○とは似ているようでまったく違う」ということを学ぶ過程そのものだ、と言える。

基本的には「学ぶ」ということは、そういうことなんだよなぁとつくづく思うのだ。翻訳不能と知ることが相手のことを良く知るために必要というか、そういう矛盾があるってことですね。

でも、大切なのは、相手の文化を知れば「ああ、なるほど」とわかることはあるってことなわけです。

「ああ、そういうことやったんかい。」と納得することですね。言葉はわからなくても、この「ああ、そういうことか」というのはあるのですなぁ。

結局、これが楽しいのだと思う。

英語を学ぶことが大切なのではなくて、この「ああ、なるほど」とわかる感覚こそが大切で、この楽しさがあるからこそ、勉強は楽しいのだと思うのである。

この十年につくづく実感したことは、それだ。

「ああ、なるほど」と実感することは楽しい。
心から楽しい。

とくに特定のジャンルの本を数冊、できれば十冊くらい、入門編から一般書あたりまでをザザザっと読んでしまったりすると、複数の知識が、ある特定の一冊の本ですべて「ああ、なるほど」とわからせてくれる本に出合えたりする快感は最上だ。

この時の快感は実に大きい。

いままでわけも分からず、闇雲に読んでいただけの知識が、その「ああ、なるほど」という解説ひとつで、一気にすべてつながって納得できるような快感である。

これは実に楽しいし、気持ちいい。

学習するということの基本的な楽しさは、この「ああ、なるほど」という快感なのだと思う。

ひとつの言葉の意味を知るのではなく、背景全体が見える快感というか。そういう感覚ですね。

この快感を知れば、もっと「ああ、なるほど」という喜びを知りたいなぁという気持ちになるものなのです。
で、それがあれば勉強はどんどん続くと思うのですよ。

まぁ、仕事が忙しいとなかなか勉強もできないけど、基本はそういうことだよなぁと思います。

学習すれば考え方も変わるし生き方も変わるけど、この「ああ、なるほど」と感じる感じ方は変わらないなぁ。
たぶん、これは信じて良い感覚でしょう。
人間の持つ感覚の中でも、たぶんとても大事で最優先にするべき感覚だろうと思う。

人間、年齢を重ねるごとに思想も考え方もいろいろ変わるけれど、それでもやっぱり「ああ、なるほどなぁ」という感じ方は変わらない。

右や左や戦争賛成や反対や、考え方は変わっても、親子兄弟の関係は変わらないというのと同じです。

そのくらい「ああ、なるほど」という感覚は大切なものだと思います。

しかしながら。

この「ああ、なるほどなぁ」という感じ方というのは、キチンと学習していかない限り感じ取れない「感覚」なんでしょうね。

だから「ああ、なるほどなぁ」という喜び自体を、あまり感じずに生きてきてしまった人も、それなりにたくさんいてると思うのですよ。

それがやっかいだなぁと思うのです。

たとえば、「●●は○○ということになっている」という英語と日本語の割り当てだけで納得してる人ですね。そういう人のほうが多いし、当たり前でしょう。

でもなぁ、それじゃ勉強はどんどんつまらなくなるのよなぁ。何より「ああ、なるほど」という最上の快感は得られないんですよねぇ。

この数年で、いちばんやっかいだなぁと思ってきたのは、そういうことですね。
こればっかりは自分で学習しないと味わえないもんなぁ。
しょうがないと言えばしょうがないけど。

ためいきがでます。
ISBN:4140018712 単行本(ソフトカバー) 岩月 謙司 日本放送出版協会 1999/09 ¥914
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140018712/503-1393334-5299133

知らなかったんですが、岩月謙司さん、逮捕されてたんですね。

うーん。

辛いなー。

確かに「育てなおし」の手法は物理的には「わいせつ罪」に見えてしまうからなぁ。というか物理的には若い女性に父親代わりとなってスキンシップするんだから、反論のしようがない。

でも、それでも私的には岩月さんの味方をします。
こういう時こそ味方しないとまずいわ、これは。

ネットでこの件を検索しても「読んでもいないのに世間の流れに沿って批判している」というのが多くて困る。
それとは逆に岩月さんの「治療」を受けて社会的に回復した人たちからは「今回の逮捕は冤罪だ」という声が非常に多い。

だって心の苦しみから本当に救ってくれた人なんだからねぇ。そうなるよ、それは。

で、あまり知られてないけど、子供時代の親子関係をキチンと整理できずに苦しんでる人って本当に多いんだよって言いたい。女性に多いらしいけど、実は男だってそうだ。

(岩月さんは「男は論理的に問題を解き明かせるからまだまし」という意見を言っておられるが、私は男のほうが問題が無意識の下に眠ってしまってやっかいだと思う。「苦しい」と自覚できて岩月さんの門を叩くのは女性がそれだけ自己分析に長けているからではないのか? と思っている。男は下手ですよ。自己分析。まぁ仕事で矯正されてる部分はあるかもしらんけど。)

私、この数年、いろいろありまして、そういう悩んでいる女性とたくさんお会いしたのです。だから、その苦しみがいかにやっかいかつ大変なのかというのは実感としてあるのですね。(わかると言いたいが言うとウソになるので、実感があるとだけ書く。)

で、岩月さん批判をしてる人の意見を読まなくちゃと思って探してみたら、内田樹ってのが批判してた。
一見まともな批判に聞こえるんだけど、なんかおかしいんだ、こいつ。なんか言ってることが結局「エロ」だけなんよな。エロティックはすばらしい、みたいなことしか言ってない。
で、なんか変よなぁ、なんだろうなぁと思ってたら、ようするにこの内田樹という人の言葉からは苦しんでる人を救う「気」が感じられなかったってことなんよねぇ。

(しかも、「同性愛問題と社会問題を関連づけて考えるなどということをする気はまったくない」などとバカな事を言ってるし。「まったく」かよ?ひどいね、それは。アメリカの大統領選挙戦の争点も知らないのかとあきれた。ま、岩月さんの話とは関係ないけど。)

岩月さんの著作からは、その「救わなければ」という気がすごく感じられる。
まぁ、そこの思い込みが強すぎるというところもあるんだろうけど、実際に苦しんでる人をたくさん知ってると、岩月さんの真剣みもよくわかるんよなぁ。

やっぱりね、そういう現場を知らなきゃいかんと思う。
で、その現場がわからんなら、せめて本くらい読まないとなぁ。
逮捕された人をここまで「守る」と公言する人が多いというのもめずらしいかも。

まぁ岩月さんを訴えた人というのが、もともとテレビで「育てなおし」の現場を見た上で岩月さんのところを訪ねてる人ですからねぇ。スキンシップが前提の「治療」であることは納得済みだったはずなんですよ。
ただ、訴えてきたのがどうも、その父親らしいんでねぇ。
うーん。

やっぱり男が問題という気がするよなぁ。
女は自分の問題に気づけるのよなぁ。
治すために努力もするのよなぁ。
男はまず気づくことができないんよなぁ。
だから、この「父親」が気づいてない可能性が一番高いと私的には思うのですよ。

私も岩月さんの何冊もの本に救われてる人間なので、とにかくここは味方しとかないとまずいということなんですが、どうもこれ、やっぱり冤罪になる可能性が高いのか、テレビとかでもあんまり取り上げてないみたいですな。
だから逆にこんな風に味方するほうが事を荒立ててしまってるのかも、という気もしますが。

ともかく、親子関係が原因で人生に対して非常に暗い思いしか抱けなくて苦しんでいる女性と話をして、その話の内容が、岩月さんの書籍とあまりに内容がぴったり重なってたので、一冊(この本じゃないけどね。「思い残し症候群」のほうです。)プレゼントしたんだけど、パラパラと眺めただけで「私のことが書いてある!」とびっくりしてたもんなぁ。

やっぱりね、臨床というか、実際に苦しんでる人それぞれとキチンと向き合ってる人が整理して書いてることなんだから、説得力ありますよ。そういうことよなぁと思う。ほんと。

まぁ「育てなおし」に関しては、テレビで紹介された内容をネットで見て「うわぁ、これヤバイよなぁ」とは思ってたから、岩月さん自身、こういう訴えられ方をされる可能性も覚悟の上だったのかもしれないなぁとは思うのですよ。

苦しんでる人を救う。
マイナスをプラスにする。
本当にすごいことだと思いますよ。
やっぱり、それをやらないと。

で、実は自分のマイナスを自覚するっていうのが、一番辛いんだけどねぇ。
うーん、それはまた別の話か。

てなことで。
ISBN:4072364061 単行本 ナターリャ・メイゼル 主婦の友社 2003/11/27 ¥1,680

「他人の話に本気で耳を傾けたりするより、銃撃戦のさなか匍匐前進するほうがはるかに簡単である」

という一節が、この本の後半に載っていて、「そうよなぁ、その通りよなぁ」と思うのであります。

戦場に行くよりも、うんとはるかに、「自分と向き合う」ということの方が難しいというタイプの人間は世の中にいてるものです。

かくいう私もそのくちだったかも知れませんが。

えーっとですね、先に本の紹介しますと、

「睡眠中に、ひらめいた考えによってその後の人生をも変えてしまう力をもつ思考法、スリープシンキング。あなたも睡眠時間をもっと有効に活用してみませんか? 寝ているあいだに脳が問題を解決してくれるプログラムを紹介。」

ということになります。

で、前半の一章から六章までは、そのスリープシンキングのやり方がごちゃごちゃと書いてあるわけですが、実は、そんなものちーとも面白くない。

この本の真骨頂は七章以降に出てくるスリープシンキングを利用して自分と向き合った人たちの実例のほうであります。

読むならまず第七章から読み始めていただきたい。

●自分はゲイなのにそれに気づこうとせずに生きている男
●ソロを弾こうとすると弾けなくなるギタリスト
●歴史小説を書くために仕事をやめたいのにやめられない女
●借金を支払わなければいけないのに、銀行口座のパスワードがどうしても思い出せない女
●ロデオでスターになりロデオ引退後はビジネスウーマンとして頭角をあらわしているのに、趣味の絵画をはじめるのが怖くて仕方ない女
●「まじめ」な歌手であるために楽しんで歌を歌えなくなってしまっている女

そういう話がいっぱい載ってます。

どれもこれも「自分を精一杯生きている」人の話で、僕的には非常に共感するんですなぁ。

思うに人間がこの世に生まれてきた使命は、究極「自分らしくイキイキと生きること」なんだと思うのです。

もし自分が自分らしく生きてないと実感するなら、それは自分の責任です。生き方の再調整をしないと仕方ない。それは結局、自分と向き合うという作業をするしかないってことなんですね。

これは水路にゴミがたまっているようなものだと僕は思うのです。複雑でどこがどうつながっているかもわからないような水路に水が流れていない。どこかでゴミが詰まってるのだけれど、それがどこなのかわからない。

調べだしたら大変な作業になるから、ついついほおりだしてしまいがちなんですが、それでも結局、いつかは溝掃除をするしかないわけです。

長く生きているとゴミもたまるよ。
そう思う。

一度ゴミ掃除さえしてしまえば、あとは水路を自由に水が流れると思うんだよなぁ。

スリープシンキングというのは睡眠前に、そのゴミのありかを自分に聞くというようなやり方ですが、この後半部分を読むと、別にスリープシンキングのやり方がすべてにあてはまるわけでもない。多少効率的という程度のことで、結局は問題を抱えている当人が「自分と向き合うぞ」と思わない限り、何もはじまらない、ということに関しては同じなんですね。

そこがまた面白い。

人間が生きているという不思議。
その一番大きな不思議に気づかずに、何を考えても、結局は遠回りでしかないと思うのですよ。

そんなことを考えたら、まずは自分の中の心の水路の溝掃除を、まず最初に行うというのが一番大事だよなぁと、つくづく思うのであります。

人類全員が溝掃除したら、それこそ戦争も起こらない理想の世界がやってくるのかもしれないとかも思いますけどね。
あー、でも「自分と向き合う」というのは、一番辛いしなぁ。できねぇよなぁやっぱし。なかなかねぇ。

うむ。
去年の10月からやってたんだけど、一月いっぱいで終わるということだったので、「本田宗一郎と井深大展」をひとりで見に行ってきた。

やっぱり日本人はモノづくりだよなぁとつくづく思う。
宗教観とか、社会ルールとかは、そう簡単に海外から取得してマネッこできないけど、モノづくりは違うのよなぁ。モノそのものがあるから、確実に世界の最先端に到達できるし、日本人のまじめさや精緻さがあればいきなり世界一になれたりするんだなぁとつくづく感じた。

そういう何か突き抜けたことをやれる人はやっぱり違うよなぁと、いろいろ感心する。

まぁ本田宗一郎さんにせよ、井深大さんにせよ、ありとあらゆるところで話題になっている人たちだから、たいていのことはすでに知ってる話ばっかりだったんですけどね。

でも「展示物」とともにそういうエピソードがあると、やっぱり説得力が違うのよなぁ。

で、私的に感動したのは、本田宗一郎さんが、マン島のバイクレースで日本一になった時のバイクの音を音声ガイドで聞いた時でした。
(展示会とかに行くと500円とかで貸し出ししてくれる音声ガイドってありますよね。今回、それを聞いたのであります。)

いやー、すごいよ。
エンジン音がすごいよ。
やったるでーって叫んでるよ。

なんかそういう感じがすごくあってうれしかった。
こればっかりは聞かないとわからんよなぁ。
仕事で鈴鹿サーキットに行って、あそこでエンジン音聞いた時もすげーなぁって思ったけど、それに近いものを感じたわねぇ。

で、もっと感激なのは、「音」は井深大さんがやり続けてきたってことですわな。
この展示会はようするに音と車の展示会でもあったわけで、そういう意味でも感慨深かった。

なにより本田宗一郎さんと井深大さんは個人的にアニキと呼び合う親友同士だったということもあって何か意義深く感じてしまいましたなぁ。

で、僕はエンジンとかには詳しくないけど、身の回りに来ている人たちはとても若い人たちで、展示されている当時のエンジンスペックとかサスペンションの方式とかを見ながら「へぇ〜○○方式って言えば、○○で使ってたやつやん。うんたらかんたら」とか言いながら、床にはいつくばって、携帯を懐中電灯代わりに車の裏を照らしながら観察したりしてるわけです。

うーん、日本人の文化は死なずだなぁ。と思うのですよ。
この探究心が、ごく普通なんだもんなぁ。
まだまだ大丈夫だよなぁと思う。

しかもこの展示会、うれしいことに「写真撮影可」なのです。
ああ、すばらしい。
実に日本人的だ。
オープン。

みんな携帯デジカメでパシャパシャやりまくり。
それこそ若い女の子まで。

いいよなぁ。
うれしいよなぁ。
なんか。

携帯デジカメも日本人ならではだしなぁ。

なんつーかDNAは受け継がれるよなぁという感じがあっていいのですよ。

で、展示会が終わると感想を書く用紙とボックスがあったのだけれど、そのボックス前には、いままでに書き込まれた感想が壁一面に張り出されててねぇ。
読むとねぇ、感動するわ。ほんと。
なんつーか、みんな元気をもらって帰ってるんだなぁと。

いやまぁ、逆に、いまの世の中に、それこそ本田さんや井深さんのような、良き「オヤジ」がいなくなったのが問題なのかも知れないんですけどね。
だからこういう展示会で足りなくなったものを得に来ようとしてるのかも知れない。
でも、ともあれ、もらえたんならいいじゃんとは思ったなぁ。

私的には展示の最後にソニーのワープロが置いてあって、生前の井深氏が「この機械でワープロに挑戦しようと、本田宗一郎氏宛ての手紙を書き始めたところ、とたんに本田宗一郎氏の訃報が飛び込み、それ以来生涯井深氏はワープロには手を出そうとされなかった」というのがなんともしみじみ来た展示だったんですが。
いや、私、文章書きが商売なもんでね。

んー。
うむ。
神は理不尽である。

10年前の阪神大震災の時にそう感じた。

人間が積み重ねてきたものなど、一瞬のうちに葬り去ってしまえるのだ。泣き叫ぼうが、すねて無視しようが、自分をごまかして妄想にひたろうが、自然の驚異というすざまじいまでの力には人間はまったくの無力である。

まず、そういう現実認識があった。

阪神大震災の時、日本の政府は、ごく普通の一般市民を守ることもできなかった。海外から飛んできたNGOの救助犬のほうがはるかに役に立っていたし、人の命を救っていたのではないか。確か政府の担当大臣が現地に着くより救助犬のほうが早かったはずだ。

なので「日本の政治体制は遅れているのではないか」という気持ちが強く出た。そしてそれは、私の命を救ってくれないくらいにダメダメなのではないかと思った。

だから、この大地震を海外のメディアはどう報道しているのかが気になった。大まじめなメディアではない。日本で言えば三流の大衆紙などでの、口汚い評論家の意見などが知りたかったのだ。

なので35才だったが、そこから英語の勉強をはじめた。「Itの複数形はIt’s」というレベルだったし、lとrの音は聞き分けることも発音することもできなかった。ruler(ルーラー。定規のこと。)を聞いても聞き取れないし、ましてや口真似することすら無理だった。発音記号と発音のCDを使って口を動かしまくって、何時間もかかって、やっとruler一単語が発音できた。

異文化というのは、そのくらい遠い文化なのだとわかった。

そんなこんなをして、世界の側から見た日本、外から見た日本についてずーっと考えてきた十年だったみたいに思う。

で、結局、この十年に思ったことは、日本人は「神は理不尽である」という厳正なる事実さえ受け取れず、現実を曲げて妄想するることくらいしかできない民族なんだということだった。

海外の宗教、とくに一神教の多くは神は理不尽であるということを基本的には受け入れている。

十年前の一月十七日に神戸の道路はなんとか知り合いを救いたいという人であふれていたが、そんな車の群れに遮られて、緊急車両さえ移動できない状態だった。「私権の制限」を含む緊急時の法令が定まっていなかったからだ。これだけでも我々は大きく反省すべきことなのだ。

しかし実際の「私権の制限」を含む法律は、我々が阪神大震災で学んだことを基準にして立法はされず、イラクとアメリカのもめごとにまきこまれる形で成立してしまった。
なんと情けないことであるか。

大切なのは、我々の命である。
よその国のことなど知らない。

我々の命をいかにして守るかという論点から、論議されるべきだったはずだ。
しかし、そんな論議はされない。テレビにそんな論点は紹介されない。最初から排除されている。行ったこともない国の動向やら、戦争を仕掛けた国がどうやらとかまびすしい。

そんなことどうでもええやんけ。

それより「私権の制限」の必要性を我々がもっとキチンと勉強すべきやったん違うんか。法律って何や? 国って何? 我々は民主主義というものを正しく理解しているのか。いや、それよりも「みんしゅしゅぎ」でいいのか?
そんな、あんなこんなや、そんなこんなを、もっと自分の身近なところから考えなアカンの違うんか。

考えもしないから、よくわかってる他国のええようにされてるだけや。

つくづくそう思う。

我々国民がバカなのだ。とにかく、それが何よりの問題なのだと言うのが、この十年の結論だ。
他に言うことはない。

それでも、と思うのだ。
われわれはまだまだ賢くなれるのではないかと。
せめて自分たちのことを自分たちでキチンと考えられる人間になっていけるのではないかと。

そしてそれは別によその国のことを考えることではないと思う。

まず自分だ。
自分の頭の中だ。
理不尽な現実を真正面から受け止められる知力と体力を身につけることだと思う。

そうなるのだ。

すくなくとも私はそうなる。
ISBN:4872574818 単行本 夏目 房之介 イーストプレス 2004/09 ¥1,355

1/8付けになってますけど、読んだのは多分去年の暮れ。

いやー、さすがに夏目房之介さんですなぁ。実におもしろいし、内容が深い。
というか、現実の姿を冷静に思慮深くチェックして推論しているところがとても良いです。
まぁあんまり売れないんでしょうけどなぁ。

僕的に「そそそ、そうか、そうだったのか」と感心したのが、マンガの「フキダシ」。

ありますわね、マンガのキャラクターの横についてるセリフ用の風船みたいな奴。

この本、あれの起源についてけっこう地道にていねいに調べようとしてるんですね。夏目さん独特の知的なアプローチで。

黄表紙と呼ばれる江戸時代の絵物語のようなものの中にフキダシに近いものがあるからと、夏目さんはこれがフキダシの起源なのかと調べるわけです。

しかし、どうも違うらしい。文章の区切りとして曲線で分けられていることはあっても、誰かのセリフを囲むという発想ではないらしいんですね。
だからストレートなフキダシの起源とは考えられないわけです。

で、ここからはちょっとわかる人にしかわからんからさらっと流しますが、マンガはようするに虐げられた下級文化なんですよ、現代日本以外では。
なのでまともな資料というのがあんまりないわけです。

で、パッと飛んで明治の中ごろになると、どうもアメリカンコミックスが日本にも入ってきてたらしいんですね。
それで夏目さんは「どうもフキダシというのは、海外文化を日本に取り込んだものであるようだ」と言ってるんです。

そそそそ、そうだったのか!

だったんですなぁ、私的には。

そうやったんや。アメコミの真似やったんや。うーん。そうやったんかぁ。です。

日本人はマンガのようなファンタジーに関しては先進国なんですけど、でも肝心のフキダシみたいな表現技術とかは、けっこう海外のものを真似てたんだなぁと。

あ、あと、この本を読むと「あしたのジョー」と「巨人の星」がいかにすごいマンガであったのかが、あらためてわかりますです。主人公が成長するマンガというものが、いかに日本のマンガ文化を変えたのか、世界に影響を与えたのかとかですね。

とにかくマンガというものをキチンと考えたい人には実に面白い、良い著作だと思いました。
おすすめ。
ISBN:4101189218 文庫 江原 啓之 新潮社 2003/10 ¥500

去年の春あたりからずっと「倫社の帝王」を書きかけのままにしてたので、その続きを書こうと思うんですが、どうにも基本的な「宗教」の話の入り口だけで話しが止まってしまうんですな。

なんでそうなるかというと、純粋に論理とか倫理という価値中立的なところで論議されずに、感情的というか、単なる反発心だけで「この人、変」とか言われそうな気がするからなんです。

で、どうしてそういうことになるのかが、いまいちよく分かってなかったんですが、この江原さんの本を読んで、自分の中でひとつの納得が生まれたのです。

一言で言うと、「宗教と霊の世界は全然別物」ということが、スキッと理解できたからです。

やはり宗教というのは宗教学というか、社会学とかの学問的に捉えないと日本人である僕には理解しにくいんです。
逆に言うと一神教の世界は、はっきりとは良く分からないですが、そうとうにキチンと「考え方の体系」として確立されている、ということなんですね。

でも、日本人には、この「考え方の体系として確立されている」ということ自体がわからない。
宗教が「考え方なのだ」という点で、もう理解不能だと思うのですよ。
逆に宗教について語った瞬間に「こいつは霊的なあやしい世界に首を突っ込んでいる人間か?」という色眼鏡で見られてしまう。

いや、違うんよ、それは。

と言いたい。

言いたいのだけども、日本人特有の多神教的考え方だと「宗教なんてええかげんでテキトーなもんや」程度の認識しかできなくなるので、やっぱり霊的な事柄と宗教とか不可分になってしまうんよなー。

ごっちゃまぜ。

ちゃうっちゅうに。

そこをごっちゃまぜにしてるからアカンのに。

ということで、その「あやしい」霊的体験の急先鋒というべき江原さんの本を読んでみたわけですわ。

すると、これが実に納得行く。
「ああそうか」とわかる。

江原さんも、この宗教と霊的体験のごっちゃまぜ状態に困ってる人だったわけです。
江原さん曰く「霊の世界は実在します。でもそれは外国みたいなもので、現世の人間には知覚できない。だから、霊界とのやりとりを一手に引き受ける商社みたいな存在が必要になってきて、それが宗教です。」と書いておられる。

あー、わかりやすいなー、これ。
って思うのよ。
江原さん曰く「だから霊的体験と宗教とは全然別のものです。」と言うわけ。霊的体験というのは直接海外に行くようなものなんだって話で。

そうよそうよ、それよそれ。
私はね、海外に直接行く話は全然する気はないんですよ。
そうではなくて、商社の違いを正しく知っておきましょうってことなわけです。

で、日本には、その「商社」の存在すらないに等しいというのが実際のところなんですから。

たとえばお笑いの話で言うと、関西のお笑いだとなんでもかんでも「ヨシモト」とか思われるけど、実際には吉本も松竹もあるわけですよ。だから「鶴瓶とかオセロとかアメリカザリガニとか、吉本は強いね」とか言われたら「それはみんな松竹じゃ」とか言いたくなるでしょ。

前に一度テレビのテレホンショッキングで、誰だか東京のタレントが「関西の吉本系のタレントさんはすごいですよね、鶴瓶さんとか上岡さんとかノックさんとか、みんな人気ありますし。」とか言ってた。全部吉本と違うやんけーって思った。なんやねんそれはと。

で、日本人の宗教観というのは、この吉本と松竹その他との区別もついてない関東のタレントよりひどいレベルなわけですよ。個々の宗教の基本的な違いもわかってない。

で、宗教はお笑いタレントとはわけが違うわけですよ。宗教観というのは、人間の生き方とか価値観の基礎の基礎の、そのまた基礎、大前提を決定しまくってるわけですから。

これを知らずして何を語ることもできゃせんのです。それこそ、世界レベルでの社会の動きを、それなりに理解しようと思ったら、まずこの宗教観をキチンと知るというところからはじめなきゃしょうがない。

そうしない限り、多分日本人の多神教的な素朴な感覚だけでは、世界のシビアな動向など理解したり読み取ったりできるはずもないわけなんですね。

いや別に「語る」とかまで行かなくてもいいのだ。
日本には世界の宗教の考え方が勝手に流れ込んできていて、それに一般人が翻弄されて精神的にダメージを受けているって部分もあるから、ちょっと他国の宗教について「客観的」に理解するだけで、そうとうに気持ちが楽になるし精神的な平安を得ることも可能なわけですよ。
ここが一番重要なんだよねー。
でも、これがわかってないって人が、これまた多い。

で、不安だから「バカの壁」に走る。「多神教が良いんだ」という「自分の文化にひきこもれ」という内容ですわな、あれ。
アカンってそれでは。
いつまでたっても心の平安は得られんっちゅうに。
自国の文化と他国の文化を冷静にちゃんと見極められる目を持たないと。なんでもごちゃまぜで、それで「多神教でござい」では日本人の心の不安定はいつまでたっても治らん。
ちゃんと多神教と一神教くらいは区別して理解せんと。

一神教の人間は多神教なんて原始的で未整理な遅れた宗教としか思ってないし、事実そうなのですよ。それは一神教でないと、商社として成立しないというか、そういうことなわけです。

で、そりゃまぁ確かに霊的体験で言えば、海外まで直接行けば何事でも真実はわかるかも知れませんが、そんなものは特殊な人にしか体験できないし、何も現世にいながら霊界のことを知らなければならなということもないわけですよ。
心が平安に暮らせればそれでいいんだから。

だからちゃんとした商社がある国は、まぁ押しなべて多くの人が安定した心の平和を供給してもらえてるというようなことなわけです。
日本には、この商社がない。それは多神教だから。家庭内手工業でとどまっているのが日本の宗教だから、です。

だから何です。国を司る政治を「心の外の政治」とするなら、宗教というものは「心の内面を司る政治」と考えてもいいわけです。

そういう捉え方をしないと全然駄目なわけ。
「イスラム教は目には目を歯には歯をとか言うやん。あーこわいこわい」とか言うてても、何の意味もあれへん。なんでそういう言葉が生まれてきたかの背景を「知識」として知っておかないと。

そういう根本的なことが、みんなわかってないと思うのよねー。

で、そういう「霊と宗教の完全分離」というのを、キチンと指し示してくれた、という意味で、この江原さんの本はなかなかおもしろかったんですね。
私的には去年読んだ中でも、そうとうに影響力の大きかった本でした。

ちなみに、「霊」の世界においても日本は遅れてるのよなー。江原さん、イギリスで霊媒師修行してきてるんよな。で、「ははぁ、なるほど。霊そのものの存在証明をするという、そういうやり方があったのか。」と感心してしまいました。

駄目駄目よ、ほんと。日本の内側だけ見てても。ほんと。
ISBN:4334005179 新書 小室 直樹 光文社 1992/01 ¥805

この本、売ってるのかなぁ。いまはもうないと思う。
入手困難なんよな。
これをして「トンデモ本だ」と思ってる人が知り合いにいてるので、簡単に解説だけ書いておこうと思った。

この本は信長本なわけですが、信長の話はまぁいいのです。
それよりも、日本の歴史家がいかに「ええかげん」であるかが、この本を読んではっきりわかったというのが一番大きいんですな。

小室さんはアメリカまで留学して学問の基礎から学んだ人ですよ。ほんまもんの博士であって、トンデモ本なんか書く人ではない。なによりこの人はどの本一冊取っても、「学者」という枠からはずれたことは書かない。
(その外れていないという点で問題があることはある。それと学者の立場を離れて個人的意見を述べることもある。それもちょっと困る。でも概略すごい人です。)

信長と言えば「桶狭間の戦い」なわけですよ。
常識的に。

それはみんなそう思ってたし、山岡壮八の小説だってそうなってた。

で、みんな「狭間の戦い」と思ってたわけですよ、この本が出るまで。「はざま」ね、「はざま」。

みんな谷間で休んでた今川義元が織田信長の急襲にやられたんだと思ってたわけ。いまだにそう思ってる人は多いのよ。

でもね、もっとも歴史的事実に関して正確だと言われている「信長公記」(信長と同時代の太田牛一が書いた歴史書。信長に関する史実はこの本を頼りに推理するのが定番になっている。)の「読み方」自体がみんなええかげんやんけ、と暴いたのが小室さんなわけです。

だって、「信長公記」には「桶狭間」なんて一言も出てこないんだから。
出てくるのは「おけはざまやま」です。
「やま」なの、「やま」。

どこが「はざま」やねん、ちゅう話ですわな。
それも「一気にかけあがり」だったかなんだか、そういうことが書いてあるわけよ。どこをどう読んでも「谷」とか「はざま」には読めない。山を駆け上って攻めてるのよ。

そういう指摘を小室さんはしたわけです。

歴史家とか信長研究家とか、そういう人が偉そうに「推理」して、あてずっぽうで「おけはざまで信長が勝ったのは暑い日だから敵側が小手や具足を外していたからだ」とかなんとか、もう好き勝手言ってる横から、小室さん、ひょひょいと出てきて、一番学術的に信頼性の高い資料をじっくり読んで、「これは狭間ではない。山だ。」と指摘したのですよ。

たぶんね、みんな「はざま」という言葉と、義経のひよどり越えのイメージがあって、「谷間」と思っちゃったわけよ。

学者として実に正しい指摘なわけですよ。歴史学というのは、要するに資料読み学なわけですから。その基本の基本をピシッと筋を通して貫いただけなの。

で、その基本の基本をピシっと貫いただけで「ということになっている」というイメージだけ雰囲気だけの世界を完全にぶち壊してしまったわけです。

ということで、この後に緒方直人主演でNHKでテレビ化された織田信長では、この「やま」説を採用しておりました。
ま、誰もグゥの音も出ないわけですよ。これは。ようするにみんな基本資料もちゃんと読まずに、自分の思い込みだけで「語って」いたわけだから。
アホやん、そんなん。

山岡壮八もまぁアホですわな。でもまぁ、こらしゃーない。小説家やねんし。話をドラマチックにわかりやすくするなら、ひよどり超え風にした方が楽やし。
司馬遼太郎の「国盗り物語」も同じレベルの描写だったと記憶してます。
ま、小説家ですから。

誰も資料すらちゃんと読んでなかったというのが実際のところなんよな。

で、だ。

この本を読んだ時は「うわっ、資料読むとかキチンとやらなアカンよな」ということを学んだだけだったわけですが、その後、さまざまな勉強をしまして、この「資料をキチンと読み込む」ということがいかに重要なことであるかを後から私は学んだのでありますよ。

それは「宗教改革」です。

宗教改革が起こってプロテスタントが生まれるわけですが、その立役者となったのがカルヴァンです。
このカルヴァンが、何が偉かったかというと、「聖書を徹底して言葉どおりに読む」ということをした。
ここから宗教改革は生まれたわけです。
小室博士は、この故事にならっただけなんですよ、基本的には。

キリスト教もイスラム教もユダヤ教もどれも基本的に「啓典宗教」と言って、基準となる書物をこそ最上位において、その基準に従うのをよしとする宗教なわけです。

で、ヨーロッパにおける宗教権力の腐敗は、この聖書を誰にも読ませず、勝手に免罪符を売りつけたりして進んでいたわけですよ。それを聖書を徹底精読することで打ち崩したわけです。簡単にシンプルに書いてしまえば。

小室さんは、そういう歴史のあり方に素直に従ったまでです。で、その著作がこの一冊です。

別に、偉そうな自分なりの哲学を打ち立てる必要もないし、英雄のように度胸のある行動をとらなくてもいい。せめて、本が目の前にあるならキチンと読め。

それだけのことです。

ましてや歴史書は人類の先達の残した(残したということは残す意義のあった、ということです。)大切な宝ですからな。判断は読んだ後でよし、です。

ということで、明らかに読んでもいない人が、この本をして「トンデモ本」よばわりしたので、ここに書きました。

で、いつもならそういうことは「読んでから言え」とだけ言って、本の内容にまでは言及しないんですけどね。(これを言われて読む人間は少ない。でも、読む前に内容を要約して教えるとかはしない。それこそ僕の読み方が間違っているかもしれないわけだから。でも、読まない人は本当に読まない。あかんよなぁ。ほんま。)
でも、この本はどうも絶版みたいだし、とにかくざっくり書くだけ書くことにしました。

ごちゃごちゃ偉そうに言ってる人が偉いんではないのです。コツコツ一次資料にあたって、正しく読み解く作業をしている人が偉いのです。

ま、とにかくすごいですよ、小室先生は。この一次資料にキチンとあたるという態度だけでも、どれだけ人生に大きく役立っていることか。なんてことないことなんですけどな。でもここ一番で、とにかく強烈な効果があります。どんなときでも。この態度は。

小室博士は、尊敬してます。本当に。はい。
ISBN:4344007166 単行本 小林 よしのり 幻冬舎 2004/12 ¥1,000
12月11日のところに感想書いてあるので読んでください。

しかし、ここの本のリンクは不便よなぁ。思った過去の日にリンクできん。

基本的に小林よしのり批判を書いてます。批判というほどではないけど。
12月26日は私の誕生日なんですね。

で、この日たまたまテレビを見てましたら(最近ほんとうにテレビは見ない。)、ご存知の方はご存知でしょうが、「課外授業ようこそ先輩」というNHKの放送が目に飛び込んできたのですね。

これは、タレントや芸能人、スポーツ選手などなどの有名人が、自分の母校である小学校にやってきて、そこで自分の仕事に関する事柄を小学生たちに自分なりのやり方で教える、というものなのですよ。

この番組はけっこう好きでして、まぁよく見るほうなんですが、この日はたまたま、お笑いマジックで有名なマギー司郎さんだったわけです。

http://www.nhk.or.jp/kagaijugyou/list/list5.html

これがねぇ、もう本当に素晴らしかった。
涙出ちゃったよ、私。

子どもたちにマジックを教えるんだけど、マジックはマジックでも「おしゃべりマジック」を教えるわけですね。

で、まず一通りマギーさんがマジックをやると、子どもたちは大笑いするわけです。

で、マジックが終わった後、「なんでみんなが笑ったのか」をマギーさんは解説する。「それはね、僕がマジックが下手なのをみんなが知ってるからだよね」とマギーさんは言う。

で、「僕は自分がマジックが下手だってことを正直に舞台で言うようになってから、すべてがうまく行くようになったんだよ」って言う。

だから、人生において、自分の弱いところとかダメなところとか、それをちゃんと知って、言うってことは大事なんだよって言う。


すごい。


このすごさ。
このすごさがわかる人がどのくらいいるのかなぁ。
すごいです。

で。

「だからね、今日はおしゃべりマジックするんだけどね、そのおしゃべりの中にね、自分の弱いところダメなところを入れてしゃべってみようね。」

って言うの。
マギーさん。

いや、あの、それ。
ちょっとすごすぎません。

いや、あの、それ、大人でも簡単にはできませんから。
ちょー難しいですから。

自分の弱いところ、ダメなところ、真正面から見据えるなんてこと、そんなに簡単にできないですから。

そういうわけで、大感動した。

マギー司郎はすごい。

で子どもたちは悩みながら(大人でも尻込みするよ。)自分のダメなところ、弱いところをポツポツと語りだすわけです。

もう、これだけでも感動ものでした。

で、次は、そのダメなところを入れた「おしゃべりマジック」を演じる場面。それから、最後のまとめのマギーさんのおしゃべりと進むわけですが。

泣いちゃったのよ、マギーさん。
「みんな偉いね、自分から逃げなかったね。」って言って。

もうね、僕も泣いちゃったよ。
自分から逃げない。
これが一番大事なんだよ。

いちばんしんどいけど、これが一番大事なんだ。
ポロポロ涙が出ちゃったよ。

ほんと。

誕生日の日に、いいもの見たなぁと思いました。

知らなかったけど、年末年始の特別アンコールだったみたいね。
そらアンコールされるわなぁ。
何回見てもいいよ、これは。
素晴らしいです。
今日ひさしぶりに「わしズム」を見た。
あの、よしりんが、やっと「相対主義から脱して一神教(倫理)を希求せねばならない」と書いてた。

やっとか。遅いよ、よしりん。

そんなもん、八百万の神みたいな価値相対主義で、一神教の論理に勝てるわけないやんか。最初から勝負は見えてる。

別にキリスト教に入らなくてもいいから、「多神教では一神教の首尾一貫した方針に太刀打ちできん」くらいは、瞬時に理解しろよなー。ほんまに。

社会的な問題において、明確な基準値がなかったら、そら完璧に負けてしまうよ。それは論理的に至極当然な帰結やん。そのくらいは素直に受け入れてくれよ。

その「当たり前」を受け入れてから後よ、何をなすべきかとか何を考えるべきかというのは。

911以降、小林よしのりはずーっと反米とか言ってたけど、その肝心のところがわかってないんよなーとか思って距離とってた。

アメリカとイスラム圏の戦いなんてさ、価値相対主義くらいしかわからない日本人には、到底理解でけへんねんって。で、それを見てアメリカがどうとかイスラムがどうとか、言えるわけないよ。

そんなもん、日本人にはあの争いの実際の「感覚」とか肌触り自体が理解不能だって。絶対。

だからマスコミとかがイスラム側に加担したり、あるいはアメリカ側に加担したりするのを見て、僕はずーっとしらけてた。

「なんで理解できるはずもないことを、わかった気になって批判したり論評したりするんやろ。ムダムダムダ。もっと勉強しましょ。」

でしかなかった。

正直言って、一神教のガチっとした規範があって、その「規範のある社会」同士が、21世紀の情報戦をも含めて争ってるわけですよ。

そんなもん、たかがアジアの片田舎の一神教の成立、社会的規範を決めるための基準値も明確でない日本人に、その争いの本質はとうてい掴めないし理解できるわけもないのであります。

イスラム教では金利は取ってはいけないとかの明確ではっきりした規範があるだろうし、だから競争重視のアメリカ的な資本主義はイスラム圏にはなかなかなじまないのだろうし、いまのニューヨークにいてる金融を動かすような先進のユダヤ人は既存の宗教の枠を超えて自分の能力の限界まで生かすことこそが神の意思に従うことだ、くらいは考えてるだろう。

だろう。

とは書くけどね。それもまた学習してきた知識による推測でしかない。だってワシは日本人で八百万の神で育ってるねんもん、そんなイスラムとアメリカの争いの「実感」の部分までは理解でけへんよ。それこそ神様やないねんから。

そやのになんで、反米とか親米とかいえるのよ。
アホくさい。

わからないものは、じっくり観察して、より真実に近いところを暴く。

そういう態度こそが大事なんと違うんかねぇ。
そうなると、日本人には宗教、とくに一神教が、全然、まーったく、ちーとも、さーっぱりわからない存在なんだから、それをこそ、まず「学習」して理解する必要があると思うけどなぁ。

別に信心する必要はないのよ。どうせ八百万の神で育ってきたんだし、そこから離れることは、まぁできん。
逆に言うと、そういう具合に「どうしても手離せないもの」こそが自分の文化なんだから、なにもわざわざ「ワシの文化とは何か」とかも考える必要もない。身についてる感覚こそが、自国の文化なわけだし。

となるとやっぱり、外国の文化とは何かを冷静に学習することこそが、何より重要なのよ。
なんで「アメリカキライや」とか「欧米は堅苦しい」とかになるかなぁ。
それは単に「わからんから落ち着かない」だけじゃん。自分が理解していないという事実を冷静に認識できていないから、「わかっていない不安」がやたらと大きくなってるだけの話やん。

わからんことは「わからん」と言えばそれで良いのだ。
別に無理してわかる必要もないし。

でもなぁ、よしりんも相当に勉強してる人なんだけど、そういう人でもやっぱり、そういう自分の「わからん」を素直に受け入れることが出来てないんよなぁ。
で、その「わかってない不安」を「何々はキライだ」とか「反なになに」とかやるのよなー。

あほくさい。

わからんことを「わからん」とせずに、無理して無理やりな解釈をこじつけたりするから、よけい当たり前の真実が見えなくなってしまったりする。

「相対主義では明確な基準を導き出せない」なんていうのは、論理的に必然の帰結やん。これは何をどういじくっても無理なもんは無理って奴です。
なのに、それを受け入れたくないわけよ。我々は。
一神教のような明確な基準値を導入しなければ、社会規範を明確化するなんていうのは無理なの。絶対に。
そんなもの、物事を論理的に考えれば二秒でわかるやろうに。

あほくさい。

だからこそ、明治政府は一神教の代わりに現人神の天皇制などというとんでもない代替物を作ったわけやし。
欧米に留学した当時の日本人はみんなそういうところでドヒャーっと驚いて叩きのめされて帰ってきたに違いないのよ。
夏目漱石だってそうだろうし、西周だってそうだろうし島崎藤村だってそうだろうし、みんなたぶんそうなんだ。

(伊藤博文あたりはイギリスで洗脳されて帰ってきた感じがあるけど。そうでなければ天皇制をキリスト教の代わりにするとか思いつけないような気がする。日本人の発案じゃないんじゃないのか?って思うのよなー。わからんけど。)

でもなぁ、よしりんでも三年かかってるもんな。そら一般人には「八百万の神々では世界には通用しない」なんていう事実は受け入れがたいやろなー。
そら「バカの壁」がぎょーさん売れるのも当たり前やわなぁ。

何が、「一神教的な硬直した考え方に多神教的考え方を入れることが大事。」だよ。
そんなん「一メートルは100センチでも105センチでもまぁ、気持ちで変えてええよ」と言うてるのといっしょやん。話にならん。

それで通用するなら苦労はせんわい。あほ。

でもなぁ、ほんと。よしりんで三年やもんなぁ。
大変ですわ。実際。

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