で、うまく説明できるかどうかわからんけど、その、やっとわかったことを、できるだけわかりやすく、書いてみます。

●(1)ヤハヴェ・ゴッド・アッラーは同一人物である。

まず最初に重要なのが、ユダヤ教における「ヤハヴェ」、キリスト教における「ゴッド」、イスラム教における「アッラー」は、名前こそ違うものの、これらはすべて「同一人物」なのだ、ということ。だから「別の神を信じる」という捉え方自体がもう、根本的に「ミステーク」なんです。つまり。

●(2)それぞれの宗教間で同一人物と知っている。

これはユダヤ教の人は「キリスト教徒はヤハヴェのことをゴッドと呼びよる。」と知っていて、キリスト教徒は「イスラム教徒はゴッドのことをアッラーと呼びよる。」と知っているということなんです。相互にこれは当然のように知っている、ということなんです。

それもね、別に宗教に詳しい専門家だけが、そう考えているのではなくて、ごく普通の一般人がみんな、「いろんな宗教はあるけど、この世界、地球、宇宙を作った、創造主はひとりに決まってますがな。まぁ呼び名はちょっと違うけどさ。」とわかってるということなんですよ。

「そんなこと説明以前じゃん。」そう思ってる。
たとえばカソリックとプロテスタントも争っていますが、これなど同じキリスト教内での考え方の違いですからね。

●(3)この世を作った人が何人もいてたらおかしい。

だって、この世界そのものを「創造」した人ですよ? そんな人が二人も三人もいてるなんてややっこしいこたぁないんですよ。考え方の違う仕組みで組み上げられていたら、こんなに精緻に生き物が生まれて死ぬ仕組みなんか作れるはずがないと捉えているわけです。(ここで共同制作者としてとかなんとかへんな理屈をつけてチャチャを入れないこと。宗教のように世界の標準となって多くの人に伝える考え方は、もっとシンプルで簡単でないと通用しないということです。)
つまりね、「世界はひとつ」、なんです。

●(4)この世はひとつである。

一神教が生活の中に存在している海外の人たちは、ごくごく当たり前の「一般的知識」として、たぶん「世界はひとつ」と思っている。そういう考えが定着している、ということなんでしょうね、きっと。
お題目ではなしに、具体的な現実として、世界は本当に、たった「ひとつ」なんです。世界はひとつに決まってる。取り替えるスペアのある世界なんてない。まぁ事実そうなんだし。

ユダヤ教徒と、キリスト教徒と、イスラム教徒が一緒に生きてたら、そう考えるしかないわけでしょう。それだけのことなんだろうと思う。違う宗教が同じ大陸で顔をあわせながら同居して生活してるんだから。

我々は、いくら考え方が違っても、同じこの地球で生きていくしかない。それが逃げようの無い現実であり、それを直視しない人生などありえない、ということなんですね。

たぶん、この「違う考え方との同居」という点で日本人は現実直視するのが下手なんでしょう。あたかも別の世界、別の地球、別のルール体系の別の宇宙が存在すると思い込みたがる。

でも、考え方は違っても、人間が生きているこの場所、大地、地球はたったひとつなんです。もともとひとつ。だから、いま、この場所で、異なる文化と関わりながら、相手を観察し、理解し、距離を取りながらも用心し、ある時は信頼して、ある時は必要な取引をしながら生きていくしかない。

そのくらいの認識は、欧米の大の大人なら持ってて当然ということなんでしょう。でも、この当たり前の感覚が日本人にはとても少ないってことなんでしょうね。

●(5)ミステイクと言われても仕方ない。

宗教の教義は違っていても、この現実というものは、たったひとつであり、そのたったひとつの現実を考え方の異なる人間たちとでも(イヤイヤであっても)、ともに生きていくしかない。それが現実なんだ、ということなんです。たぶんね。(僕は日本人で八百万の神々の発想しかないので、「たぶん」と想像で書くしかないのだけれど。)

おそらくは、欧米ではそれが当たり前なのに、そんなあたり前の部分に、日本人特有の「八百万の神々」の概念を無意識に持ち出してきてしまって、「違う神(クリエイター)を信じているから宗教戦争は起きるのだ」などと言ったのだから、ミッキーも「ミステイク」と言うしかなかったんだろうなと。
だって、欧米の人たちは、誰も「違う神」なんか信じてないねんもん。同じクリエイター=創造主を信じてるんやから。

そらミステイクですわな。

この項、まだまだ続きます。
やっと、「倫社の帝王」の一回目が書ける。距離は遠いなー。

まず表題。「違う神を信じているから宗教戦争は起きるんだ」。これこそ、日本人が一番間違いやすい勘違いの代表なんですね。

たぶん、日本人が職場や知り合い同士でたまたま宗教の話から宗教同士の争いについての話題がでた時に、いちばん支持を得やすいのが、

「俺は思うんだけどさぁ、どんな宗教だってほんとうは本質はいっしょなんだから、もっと仲良くすればいいと思うんだよ。違う神を信じているから宗教戦争は起きるんだろうけど、通じるところはきっとあるはずだから、争いは避けられるはずだよね。」

というような事を言う、ものわかりの良さそうなおじさんの意見だろうと思うんですよ。

たぶんテレビでそういう話になったとしても、こういう意見を言うコメンテーターが一人は出てきて、そんで、多くの日本人がこの意見に深くうなづいて、「そうよ、そうよ」とみんなが同意して、で、そうして同意が多かったがゆえに「違う神だからアカン論」が絶対的真実とか、そんな感じ、そんな「空気」になってしまうに違いないのであります。

「みんなねー、宗教は同じやねんからねー、いさかいせずに、なかようやったらええのにねー。」とかなんとか、どこぞの気のいいおばちゃんあたりが言いそうだよなー。

で、多分、多くの、というかほとんどの日本人が、やっぱりそう言う事を言うような気がする。

でもなぁ、これこそまさに、日本人が宗教音痴であることの代表例なんだよねー。

というか、さすがの「倫社の帝王」である私も、つい最近まで、この考え方に囚われていて、物事の本質を見るのに、見誤ってしまってたくらいです。だからまぁ、日本人のほとんどが、こういう幼い考え方に染まってしまっていたとしても仕方ないのかもしれないし、こういう認識から脱け出すのは、なみたいていではないのかも知れないなとも思うんですけどね。

かれこれ、十数年も前になるけれど、元教師の仕事仲間がいまして、その仕事仲間さんのお家に、アメリカから発音の補助要員としてミッキーという女性がやって来て、ホームステイしてたことがあったのですよ。

なので、その時期は良くミッキーを中心にみんなで集まって、飲みに行ったり、日本文化やアメリカのことについて話したりというのを、片言の英語とかでやってたんですな。

ミッキーは教師の補助をするくらいだからキチンと常識のある娘だったし、アメリカと日本の文化の違いについても、「イズ ザット ジャパニーズ カスタム?」、それは日本の慣習か? とていねいに質問してきたし文化の溝を埋めるのに抵抗の少ないコで、だから話をしてても楽しかったのですな。

でも、このミッキーに「違う神を信じているから宗教戦争は起きるんだ」というような見解を述べたら、そらまぁ非常に強く「それはまちがっている」ミステークだと断言されたのですよ。

断言だよ、断言。ミッキーは、普段そんな断定は絶対に口にしない人なんだよ? 「私はこう思うけれど、それがあなたの考え方なら、それはそれでいい。」という距離感、個人主義をくずさない人なのよ。仮に考え方に違いがあっても「それは日本の慣習なのか?それなら仕方ないけど」と、きちんと相手の立場を理解する人なわけですよ。その彼女が、「それは間違っている。ミステークだ。」と断言したわけですよ。

驚いたよねー、これは。なんなんだ、と思った。ここまで外国人は宗教の話に関してのみ、頭が固いのかよー、って感じがした。

あなただって思うでしょ? そういう異文化に理解のある、わざわざ日本にやって来てまで、極東の世界を見ようというような柔らかい頭の人が、宗教に関してだけは、いきなり「ミステーク」と断言しちゃうんだから。

で、その時は、その断言の意味が全然わからなかったわけです。何をどう「間違ったのか」自体がわからない。全然わからない。何がどうミステークなのか、こっちとしてはひたすらとまどうばかりでね。おかしな事言うたか?ワシ。別に変な事言うてないと思うけど……。って気持ちだったんですよ。

で、確かミッキーの言ってる言葉の意味を総合すると「どの宗教でもクリエイターはクリエイターだ」みたいなことだったんだけど、その言ってる意味がわからない。言葉としての意味はわかるけど、何をそんなに「ミステイク」と言われて指摘されてるのかが、さーーーーーーーーーーーっぱりわからなかったんですな。

あなたもそうでしょ?

わからんでしょ?

違います?

分かる人は相当、海外の宗教をキチンと勉強した人です。
僕はわかりませんでした。



もう、さっぱり。



で、その「わからない」を僕はもう、ずっと、十年以上ほったらかしにしたまま時が経ってしまったんです。

でも最近、世界の宗教のことをちょっとずつ勉強したら、わかったんですねー、ミッキーが言ってた「ミステーク」の意味が。やっと。今になって。時間かかったわー。嫌ほんま。

ということで、解説すると長くなるので、いちばんいいところに来て、この続きは、項目を改めます。

ひみつ日記だけ。

2004年7月22日
今日は秘密日記だけ。
ISBN:4198618747 単行本 副島隆彦 徳間書店 2004/06/21 ¥1,680

●アマゾン
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198618747/qid%3D1091018662/250-7844914-9426652

●表紙
http://snsi-j.jp/picture/img-box/img20040627101802.jpg

アポロ11号の月面着陸は、地球上で撮影された映像で、我々はそれに騙されただけだ。

という内容の本です。えー私は公的には「行ってるか、行ってないか、それはわからん。」という立場を取りますが、本音の本音は「こらぁ、まず間違いなく行ってないよなー。」です。

難しい事は省きますが、科学というか、サイエンスというのは「再現性による保証により成立する論理体系」と言い換えても良いと思うのです。

わかりやすく言うと、「同じ事をやったら、誰でもできる。」です。

これなくしてサイエンスとは言えないわけですね。科学論文とかは、なので「これこれの用具を使って、これこれの条件で、こういう具合にしたら、この数値が出る」という保証書というか手順書みたいなもんです。

サイエンスがすごいのは、この手順が「誰でもできる」というところに集約されます。人種も国家も宗教も関係ない。同じ手順でやったら、「誰でもできる」わけです。

で、「人類の月面着陸」ですが、実は、この「誰でもできる」という検証がされてないわけです。
そらまぁ、アポロは何回も月に行ったことになってるけどね。でも、その後、他の国が行ったとか、そういうのが全然ない。

で、ここで、最近になってブッシュ君が発表した宇宙計画が問題なのである。今年、2004年1月15日に発表された内容は、

(1)2010年に国際宇宙ステーション(ISS)を完成させ、そこでスペースシャトルを引退させる。
(2)大型ロケットと宇宙船を新規に開発し、2015年までに有人飛行を行い、続いて有人月着陸を実現させる。
(3)月面基地を作り、そこから火星有人飛行をめざす。

わかりますかしら。「人類月面着陸を2015年までにやる」と言ってるんですよ。

ちょっと待てや。
いっぺんやれたことが、なんでいまからやり直して10年もかかるねん。サイエンスは再現す、やで。なんで再現にそんなに時間がかかりまんねん、っちゅうことですわなぁ。

まぁ、月面着陸が行われて三十数年、まったく「再現」がされなかったというのもおかしなことだわなぁ。

宇宙空間にはものすごい宇宙線(放射線)があって、さえぎるのも大変だという話もあるけど、そんなことより科学のカナメ、「再現性」こそが問われるのよなー。

行ったか行ってないかはわからんです。証拠がないし。再現もされてるとは言い難いですから。事実としてそういうことなのよな。つまり。

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この本の紹介はここまでなんですけど、ここで著者の副島氏のすごい点をひとつ書いておきます。

副島氏はこの「人類の月面着陸はなかった」ということを強く主張してるんです。で、それを人類に対する大罪とも言ってるんですが、「じゃあ現行の各種の法概念に照らし合わせてみて何罪にあたるかといえば、実はよくわからない。」というようなことを書いている点です。

国家が、自国の「国益」のためにこういう手法を選択したのであればそれは理にかなうこと、という見方もまた存在するのです。
科学的な事実の追及より、国家国民の生命と財産を守ることのほうが、実は政治とか国家運営のためには重要なんですね。

その大枠に関しては副島さんは外していない。ここが大したものだと思うのよなー。

つまり「科学は政治に隷属する」のです。実は。
で、正しくサイエンスをやっている者なら、ここのところは良くわかってるはずなんです。
あの天動説が一般的だった時代に地動説を証明する観察事実をつきとめたガリレオ・ガリレイは宗教裁判で負けた時に「それでも地球は回っている」と言ったことになってますが、これは後に舞台劇になった時にそういうセリフが有名になったというだけの話で、ガリレオは裁判ではなにも主張しなかったんですよ。
だって殺されたらかなわんもん。命大事ですよ。命あってのものだねですよ。

で、なにより「再現性」というサイエンスの力をガリレオは良くわかってたわけです。データはあって、それは誰が観察しても同じになる事を知っていた。

だから、宗教裁判とかそういうところで、いちいちギャースカ主張したりしないのよな。
観察方法を残し、静かに公表すればいい。あとはデータが語り、事実が国を超え、宗教を越え、人種を超えて世界に広がっていく。

これこそサイエンティストならではの「戦い方」なんですな。

拍手。

ということで、ここまで読んだ人で、最近の大ヒット本「バカの壁」を読んだ事のある人は、あれをもう一度最初から読み直して欲しい。

「なんや、このおっさん。ほんまにサイエンティストか?おい」と思わざるをえないことばっかりギャースカと騒いでるだけというのが、よくわかるはずなんですよ。

政府に役人が政治的に判断していることを学問的におかしいとか言ってる。何言うとんねん、おっさん。ねむたいこと言うてたら承知せんぞ。
文句があるんやったら、観察データ出せや。それが学者の仕事やんけ。それも無いならだまっとかんか。やかましいわ。アホ。

てなことで、最初の50ページで、あの本は嫌になっちゃったよ。
マジで。

ということで、私が書いた「バカの壁」評も、もう一度掲載しときます。

http://diarynote.jp/d/12917/20030903.html

んー、あー、「サイエンスは再現すである。」我ながら、素晴らしい表現じゃなー。あースゴイスゴイ。

スパイダーマン2

2004年7月17日 映画
ということで、待ちに待ったスパイダーマン2を彼女と一緒に見に行く。

えー一作目の完成度を見て、監督のサム・ライミが、いかにスパイダーマンのことを熟知していて、愛しているかがよーくわかっていたので、掛け値なしに絶対期待通り間違いなしと思って見に行きました。

で、やっぱり思ったとおりでした。マル。終わり。

ということでしかないねんけどなー。別に書くこともないけどなー。いいよーこれは。スパイダーマンファンにも納得よー。

あー、でもスパイダーマンファンだし、いろいろ書かないとまずいよなー。

うん、スパイダーマンではなく、ヒロインのMJのことについて
書こう。(ここから後は、映画を未見の人には思い切りネタバレなので、読まないように。)

---------------------(ネタバレ注意)----------------------

スパイダーマンにおいては、メリージェーン=MJというのは非常に重要な存在なんです。アメリカではMJの人気があるからこそ、スパイダーマンは受け入れられているのではないかと言われるくらいに重要なんですな。

なんでかというと、MJはスパイダーマンの嫁さんであり、実収入としては「新聞社デイリービューグルに事件写真を売るだけ」の能力しかないスパイダーマン=ピーター・パーカーを、影で支える素晴らしい女だからなのですよ。

ニューヨークの平和を影で支える重要キャラクター、なんです。MJは。

なんせ世界レベルのトップモデルですから。有名人なんよなー。ものすごく稼いでる。

この嫁さんがいてはじめて、スパイダーマンの正義の鉄拳は安定感を持ってふるわれるのですよ。ニューヨークはMJでもっている。そういう構造になっとるのです。

で、この構造が、実は「普通の人間がヒーローとしての責任を背負ってしまった物語」であるスパイダーマンの物語世界をうまく成立させてるんですね。

「嫁さんより稼げない」
「でも正義は通す」
「俺だけでは何かと生活が大変だ」
「でも悪漢とは戦わねばならず、気苦労が絶えない」

という、スーパーヒーローとは思えない「人間的葛藤」を描くことを可能にしてるんですな。そここそがスパイダーマンの魅力なんです。

ここは大事なポイントなんだよねー。

スーパーマンは「高いビルでもひとっ飛び」なので、人間の生活を飛び越えて完全にヒーロー対悪漢の物語にしかならないのだけれど、スパイダーマンはビルの谷間をクモの糸でぶら下がり移動をするだけ。だからつねに人間の生活とともに物語が進んでいく。

これなんですよ、良いのは。
こここそがスパイダーマンの魅力。

(人と人の間にいるスパイダーマンらしいベストオブベストの原作が日本語化されていたのでリンクしときます。)
http://ameque.cool.ne.jp/marvel/spider-man/translation/spmkwcs01.htm

そして、スパイダーマンのマスクはカッコ良さをアピールするためのものというよりかは、「悪漢と戦うという、社会的活動の軋轢から、個人の生活を守るためのどうしても必要な仮面」という意味合いが深くなるのです。

今回ね、ここがもう、徹底的に描かれていた。

やりすぎ違うん?

というくらいキチンと描かれていた。
いいよなー。ほんと。

もう本当に今回びっくりするくらい仮面を取ったピーターパーカーが戦うシーンが多いのよなー。
いやー、ほんと素晴らしい。

電車の中で一般市民にピーターが助けられるシーンなんて、もう涙ぽろぽろでしたよ。
これこそ、スパイダーマンよなー。

わかってるんよなー、サム・ライミ。ほんとに。
やるよなー。

映画では、そういう「市民がスパイダーマンを守る」という姿が描かれているけれども、これは映画ではそういう形で描かないと市民としてのスパイダーマンというのが伝わらないからで、コミックの方では、その市民代表をMJが担っているというのがあるわけですよ。

だから、MJは大事。絶対に外せないキャラクターなんですね。
(本当はこれにメイおばさんも加わるんだけど、長くなるので割愛。)

とくに、コミック版ではグエン・ステーシーという、MJの前にピーターがつきあっていた、金髪で可愛らしい、家庭の主婦におさまるようなタイプのヒロインヒロインした彼女がいてたんだけど、映画版ではグエンは登場しないんですね。

コミックスではグエンは前作にも出てきたグリーン・ゴブリンに殺されるんですよ。あの橋の上の戦いで。スパイダーマン1に出てきた橋の上の戦いというのは、まさに「グエンが死んだ場所」なわけで、このあたりは原作を知っている人にはたまらなかったんです。

で、殺されたグエンの代わりに、あの橋の上にMJを連れてきた。

原作ではグエンとMJは親友で、グエンが死んで沈んでいるピーターをMJがなぐさめて元気付けるというのがあるわけなんですけどな。まぁ映画ではそこまでやってられないから、グエンとMJを混ぜちゃった。

そういう意味で、原作よりはちょっと軽めの女に描かれてしまってるキライはあるんですけど、でもまぁ、いやみにならないくらいには上手くキャラクター作ってくれてます。映画版のMJもなかなか魅力的ではあるですよ。唯一一度だけ経験したスパイダーマンとのキスを頼りに「ピーターがスパイダーマンなのでは?」と自分から確かめに出かけたりするし。

で、です。

この「本当はスパイダーマンである」ピーターの真実を知っているMJは、ピーターのことを「タイガー」と呼ぶのです。理由は“ちっとも虎らしくないから”ということになってますが、まぁ、ストーリー的には、本当はトラのように強い男だと知ってるからでしょうな。

だから「ねぇ、タイガー。私は思うの。」とか、しょっちゅう言ってる。

で、今回、この「タイガー」という呼び方がラストシーンを飾りましたね。

いやー良かった。

字幕ではパトカーの音が鳴り響くニューヨークに、「やっつけちゃってよ」とピーターを送り出すだけにしかなってませんが、ちゃんとあそこで「タイガー」って言ってるんよなー。

いやー、いいわ。
本当にいい。

でまぁ、MJがピーターの嫁さんになるのは知ってたから、彼女と一緒に見に行ったんですがね。悲恋ものとかだとしらけちゃうし。

ということで、大好きな映画でありました。
これは「なぜ倫社の帝王を書きたいか(4)」でもあるのだけれど、僕が言いたいことは、「考えなくても良いことで悩むのはやめよう」です。

考えなくても良いというのは、「文化の違いがあるのだから、異文化を自分の身体感覚で無理矢理<曲解>するのはやめよう」という意味でもあります。

欧米の文化を、日本の文化で類推して、それで意味が不明で悩んで、で、ムリクリに妙な理屈をくっつけて理解するとかは、無駄だからやめよう!という主張です。

日本的なヘンな理屈をくっつけて物事を理解すると、最終的には、「社員のために自殺する中小企業の社長」みたいに、悩んだあげくに自己否定する、とかに、ならざくを得なくなるんです。論理的整合性がないわけですから、それは当然なんだけど。でも、それはあまりに悲しい。

資本主義も民主主義も、憲法も法律も、パソコンも音楽も、宗教も、いまの日本にあるものの多くはよその国からの借り物です。借り物なんだから、そう簡単に実感持って扱える代物ではないんですね。全部個別に歴史があるし、そういうことをキチンと勉強しないと「取り扱い方」「どう捉えておけばよいのか」等はわかりません。

逆に、これら外国の文物を、日本人的身体感で曲解することが、どれだけおかしなことで、意味のないことであるかは、サザエさんのテーマソングをアメリカ人に説明することを考えればわかるはずなんです。

「お魚くわえたドラ猫おっかけて、
裸足でかけてく愉快なサザエさん。」

です。

このサザエさんが「愉快」なのは、晩御飯のおかずであっただろう焼き魚か何かを、そこいらの野良かなにかの猫に泥棒されて、それであわてて追いかけて行ったから、サンダルも履かずに裸足だった、ということでしょう。

でも、これ、日本人だからそう感じ取れるのであって、外国人ではなかなか難しい。ベッドでしか靴を脱がない生活をしている外国人には、裸足で追いかけているというのが意味不明です。しかも、たとえばアメリカの猫なら、まず魚は食べません。日本人は魚を良く食べるから猫も魚を食べるのであって、アメリカの猫は「欲しい」と思う猫が少ない。

だから、このサザエさんの状況は、アメリカ人には意味不明になります。欲しくもない魚を、何故か猫がくわえていて、それをどういうわけか裸足の主婦らしき女が追いかける。すごーくシュールな状況なわけです。

これを、外国人が、「このシュールな状況こそがおもしろい」と曲解して「理解」していたとしたらどうですか?なんでもない日常の、アットホームでごく普通の笑いを、難解で理解不能な、シュールな笑いとして解釈されたら「それはあまりに逆方向の理解だ」と言うしかないでしょう。
全然逆です。

でも、日本人の多くの人が、海外から移植された文物、文化・文明・技術を取り扱う時、おうおうにして、この外人から見た「お魚くわえたドラ猫問題」のようにまったく逆に取り扱ってしまっていたりするのです。

「お魚くわえたドラ猫」の「愉快」は、日本の風俗や習慣、文化があってはじめて成立している事柄で、それをアニメのサザエさんだけ見て理解できはしないのです。

おなじように、民主主義とか憲法とか、もうぜーんぶアニメの主題歌のように表面的な一部の文物でしかないのです。それらを、欧米の社会が、いかに血のにじむような人間の営みの結果として獲得したのかということを、我々日本人は何も知らない。

知らないのに、知っているつもりで、社会体制として受け入れている(受け入れさせられた、でもあります。)。
だから、平均的な日本人の、欧米からきた概念(資本主義・民主主義・憲法・法律・パソコン・宗教etc.ect.)への知識は、おしなべて「サザエさんを見た外人の、すごく妙な感想」レベルなのです。いや、ほんとに。そのくらいトンチンカンな理解しかしてないんですよ。

知ったかぶりとかではなくて、それ以前なのです。「なんのこっちゃさっぱりわからん」状態である、というのが正しい理解、ありのままの「日本人の欧米文化の理解度」でしょう。まったく逆方向に理解してても、それにすら気付かないというのが実態かなぁ。あまりに距離が遠いから理解不能という、ほんとうに、ただそれだけの状態だと思います。

誰が、「アメリカの猫は魚を食べない」って知ってます? 逆に言うなら、「日本の猫は一般的に魚を食べる」なんていうのは、アメリカ人にもびっくり、驚き、なんです。「知らない」以前に「わかるわけがない」「予想自体していなかった」「想定するはずないやろ、そんなもん」という状態です。

だから、日本においては、たとえば民主主義みたいに「わかってるはずのこと」自体がまったく理解できていない。

「民主主義とは多数決の事」とか平気で言う人がいたりするしなぁ。2ちゃんねるとかで、そういうアホなこと書いてる奴がけっこういてるんだよなぁ。あまりに「逆」すぎる、それは。多数決ほど民主主義に反するものはないんだけどねぇ。

ともかく少なくとも僕は、「お魚くわえたドラ猫を裸足で追いかける主婦」を、「このシュールな状況こそがおもしろい」と「曲解」することに、あまり大きな意義は感じないわけです。

というか、無駄でしょ、そういう理解は。意味ない。よその国の文化を理解せずに曲解だけして「安心」している、というのは、もうそろそろ日本人もやめないといけないよなぁ、と思う。

そういう「曲解」のつもり積もった、果ての果ての結果が、先に書いた中小企業社長たちの自殺になってるんだよなーと、僕なんかは思うわけです。

だから、そういう「曲解」を極力減らしたいよなーと思うんですが。

これがなかなか。
言えば言うほど理解してもらえない。

というのは、「曲解」のひどい人ほど、それに染まってしまって堂堂巡りしていて、本当の概念とか、基本の考え方の受け入れ自体ができなくなってるからなんですね。

困ったことです。

何が困ったことと言っても、考える能力のある人ほど、真面目に物事の本質を考えようとして「曲解」の程度がひどくなるという、そういう傾向が強いからなんですねぇ。

サザエさんを「シュールな笑いが良い」などと評価するところに物事の芽は吹かないし、花も咲かなきゃ、実もならないと思うんですよ。やっぱし。だからまず「考えることのできる人」は、「曲解」している自分に気付かないとだめだよなーと思う。

そのあたり、本当に理解して欲しいよなーと思うのです。
自殺者はバブル期には年間1万人くらいで、不況になってから年間三万人くらいに増えたんだそうです。(正確な数字は知りません。マメな方、調べてください。)まぁ増えた二万人がすべて不況のせいとも言い切れないでしょうが、それでも年間で一万人くらいは、そういう「解決不能な問題は、神に預ける」という簡単なガス抜きすらされずに死を選んでしまった人なのではないかと、思えて仕方ないのです。

この14年にもおよぶ不況で、そういう「欧米と日本の意識の違い」による自殺者は10万人は出たんじゃないかと僕は思う。

で、この10万という数字は、半端な数字じゃないんですね。確か、自衛隊の隊員数が陸・海・空すべてあわせても15万〜18万という数字だったはずなんです。つまり、日本の軍隊の隊員半分以上が、意識の違いとか、知識の不足その他で死んでしまっていることになるのです。

これこそまさに、日本国内で行われている「戦争」なんです。半端じゃない。日本人が、それも非戦闘員が一国の軍隊の人員の半分以上の数で死んでしまっているんです。

なにがイラクだ。なにが反米だ。バカな事言ってるんじゃない。そんなマスメディアにおどらされた言動をくっちゃべってるヒマがあったら、もっと国内の、自分たちの現実を、正しく把握せよ。

あっちの事も、そら大変かも知らんけど、それより、我々の問題の方が最優先に決まっている。我々の無知の方をこそなんとかしなければ、他国の事なんか、何もできゃしないのである。アホな発言をしたら「はいアホね」で終り。世界とがっぷり組み合うだけの知的な能力は、いまの日本の国民には、ほとんど無いです。

それこそ、資本主義みたいな、基本的な欧米の「概念」も正しくは理解できておらず、それに頭を侵されて、そしてそれが正確にはわからないから、「日本風」に曲解してしまって、それでわかったことにして、で、曲解しているから世界の動向との一致感が感じられず、論理的な意味のつながりも理解できなくて、それでイライラしてるだけなのだ。

それこそ、単に混乱してるだけなんです。いまの我々はね。よその国の事はよその国のこととして正しく学び、自分たちの概念とどう違うのかすら分かってないというのが現状です。経済という怪物に押しつぶされた日本の社長たちを思うたび、そのことを厳粛に受け止めよ、と思うのです。

勉強しよう。

結局、それが結論にならざるを得ない。
だって、そんなに難しくはないんだもの。

学ぶことこそ、全ての始まりなんです。よその国から移植された概念というのは、正しく勉強すれば「なんや、そんな程度のことやったんか」ということがとても多い。

その「なんや、そんな程度のことやったんか」と得心が行くことを「勉強する」と呼ぶのです。その得心のないのはニセモノと考えて間違いない。

そうして、「異文化」を正しく「異文化」として認識して始めて、次のステップは始まるのです。

だから、この「倫社の帝王」では、そういう「文化の違い」みたいなことを、実例も交えて書いていきたいと、まぁそう思ってるのです。

下手に中途半端に知識があって、そのせいで頭の中が整理できなくて、それで苦しなってしまっている、多くの日本人のために、これを書きたいという事ですな。

いろんなところからの受け売りも多くなると思いますが、まぁそれは許してくださいまし。

てなことで、随時書いて行きます。
じゃ、なぜ、理解されにくいのに書こうとするのか、というと、それはやっぱり、その「身体感覚」みたいなものを、客観視できなくて苦しんでる人が多いからですね。

これに尽きます。

たとえば欧米の文化は日本の文化とは根本的に異なるから、その本質は「生理的嫌悪」を感じてもおかしくないくらいに違うわけです。

日本人の身体感覚で欧米の文化を受け止めるから、肉体的なルール感覚まで引き裂かれて、イライラしたり、ストレスになってしまっている人というのが、実に多いんです。

その実例としては、この10年のおよぶ不況下での自殺者の増加です。不況になる前は年間1万人だった自殺者が、不況移行3万人に増えています。とくに中年男性の自殺が多い。

これが心に痛くてしかたないのです。

死ぬこたぁないねん。死ぬな。そこまでせんでもええんや。

そう言いたくなります。

いろいろな自殺者がいてるから一概には言えませんが、胸が痛んだ代表例では、中小企業の社長たち三名が揃ってホテルで自殺したという話でした。
会社がつぶれたら、社員が路頭に迷う。取引先にも迷惑がかかる。だから自分たちが死んだら保険がでるから、それでなんとかしてやろうという決意の自殺でした。

もうね、この話ね。たまらんのよ。
そこまでする必要なんかないって。
でも、してしまうのはなぜ?

人として優しいというのもあるかも知れないし、いや自殺するなんて、その人間が弱いだけだと強く叱る人もいてると思うけど、どっちの意見もどうでもいいんです。

それ以前に、「社員達のために」という痛ましいくらいの帰属社会優先意識があるわけです。自己を滅してまでも「ヒトのため」になんとかしようとしてる。それが身体感覚として当然になってる。

んー、でもね、経済状態の悪化とかは、人間個人がどうのこうのできる事柄じゃない。台風が来て止められないのと一緒。それこそ「神の意志だ」とさっさとあきらめて「俺には責任ないもんね」と思う方が良いのです。

社員のためとか、帰属意識を出す前に、一個の個人として自分優先でいいんです。でも、日本の中小企業の社長族は、ここを割り切れない。欧米のように個人と神が契約する仕組み(タテの関係)がまったくなく、八百万の神々で、人と人のつながり(ヨコの関係)の概念だけしかないから、どうしても割り切れない。他人の目が気になる。社員を養えない自分が許せなくなる。

悲惨です。
あまりに悲惨だと思う。

これも、もともと日本の文化とは関係ない「資本主義」を、表面だけしか学べずに、実践としての「経営」に手を出しているから、内面の葛藤がグシャグシャになって起こっていることなんですね。

訳がわからないから、精神的にまいって、それで自殺してしまったとしか、僕には思えない。だから、「資本主義なんてよその国で生まれたものだし」と軽く、距離感を持って見て欲しいなと、強く思うのです。これをむりやり日本人的感覚で理解するから整理がつかなくなってしまうんだろうなと。

そういう混乱を整理するために、欧米の思想や学問は「よその国のこと」として客観的に正確に学ばなければなりません。正直言って、欧米の宗教の概論もわかってない人間には、資本主義なんて正しく理解することすら不可能なんです。

だから学んで欲しいと、強く思う。
苦しんでるのは、単に知識不足なだけだよ、と。
自分勝手な思い込みで、自分を追い込んだり、怒ったりしても、それは自分が損をするだけだよと。
こういう哲学とか、宗教の話を根っこから書くというのは、前々からやりたいとは思ってたんですが、これが、なかなか書けない。

まずは、その「書けない」理由から書かないといけないんですね。

哲学とか宗教というのは、物事をどう捉えるかの根本ルールなので、物事の良し悪しの罪悪感まで規定していたりします。

そうすると、特定のルールを無自覚に採用していると、それは「生理的嫌悪感」として認識したりするわけです。

なので、本当の「異文化」というのは、「生理的嫌悪感」を感じるものである、というのが実際のところなんですよ。嫌悪感を感じるくらい異なっていて初めて「異文化」と言えると極論を言っても良いくらいです。その「嫌な感じ」そのものを学ばなければ異文化を理解したことにはならない。

そうすると、真に異文化を理解しようとしたら、自分の中の「生理的嫌悪感」を客観的に把握した上で、「この感覚自体が視野を狭くさせているのかも。」と想定しない限り、異文化は理解できないわけです。

この生理的嫌悪は、身体感覚にまでなっていますから、本当に異文化を分かろうとしたら、実はまず自分の身体感覚から疑わないといけないんですね。

ここが実に難しい。

この「自分の身体感覚まで疑う」というのは、まぁなかなかできることではないですから。しかし、それをやってない人のほうがはるかに多いわけです。

それどころか、自分の体内にある身体感覚こそが「真実だ」と思い込んでいたりします。

ほんまにそうか? それ。

ということから話を始めないといけないんですが、その段階で、「自分の身体感覚こそが真実だ」とコミュニケーションの否定をする人のほうが多いんですね。

なので、書くのが実に難しくなる。

自分の身体感覚の無自覚な信奉というのは、単なる視野狭窄でしかないんだけどなーと思うのだけど、これはなかなか納得してもらえないんですね。

なので、「倫社の帝王」みたいな話は書くのがしんどいわけです。
書けば書くほど「それでも俺の身体感覚こそが正しいんだ」とか言われる。いやー、その態度こそが間違いなんよなー。困ったなー、なわけで。

多分僕が倫社90点だったのは、この自分の身体感覚もさらっと客観視できてたからなんだろうなぁと、最近は思うんですけど。いいことなのか悪いことなのかは別にして。

あー、なぜ「書きたいか」ではなく「なぜ書きにくいか」だけになっちゃったなぁ。

でも、長くなるわ、これは。
ISBN:4198611688 単行本 小室 直樹 徳間書店 2000/07 ¥1,890

ということで、世界の宗教をお勉強するための基本的な書籍となると、やっぱり小室先生は外せない。

やっぱり小室先生ですよ。

本当のことを言うと、まぁこの一冊を読めば、なぜ宗教を理解することが大切なのかとか、その他もろもろは全部わかっちゃうってものなんだけど、橋爪さんの本のアマゾンのレビューでもわかるように「日本人が大したことない」という視点に反感を感じる人だと、この本あたりは、全然受け入れられない可能性があるのよなぁ。

自分が無知であることを自覚すらしてない人が、どんな知識を得ようとしても、自分勝手に自分に都合のいいように曲解しかしないのですな。
それで、曲解して、よけいに混乱したりする。

なので、素直にありのままに書籍を読もうとする人にしか、勧められないんだけど、でもやっぱり、世界の宗教を概観するなら、この本です。論理的なところがすばらしいです。
ISBN:4480842586 単行本 橋爪 大三郎 筑摩書房 2001/06 ¥1,890 東京工業大学大学院教授の著者が同大学で講義している「宗教社会学」をもとにした本である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の世界4大宗教がどのように発生し変遷したか、中国から朝鮮を経て日本に入った儒教が日本特有の精神風土の中でどのように変質したかを「高校生を相手にするつもりで」語っている。だからわかりやすいが、…

------------------------------
ついでなので、橋爪大三郎さんのこの本も紹介しておきます。この本も世界の宗教を概観できるのがいいです。

アマゾンの書評を見ると、伊藤延司という人が「良い本だが、日本人の宗教観は素朴すぎるとか教師的なおしつけがましさがある」というような反感を述べてます。

でもなぁ、その「日本人は素朴すぎる」というのは、橋爪さんが、最大限、読者の反感を避けるために選んだ言い方であって、本当は「日本人はあまりに宗教に対して無知すぎる、緊急に世界の常識を身につけなくては不幸だよ。」ということが、一番言いたいことだと思うのよなぁ、僕は。

日本人は本当に内面の精神性が幼いというか、ものすごい「危機」にさらされてるんだと思うのよ。ネィティブな宗教観に「論理体系」がないから。だから、物事の良し悪しを個人が必死になって考えて悩んで苦しんでるのよね。
それはさぁ、ある意味すばらしいことではあるのかも知れないけど、やっぱり無駄な面もものすごく大きいのよなぁ。

「わからんことは、わからん」

で、まぁええやんってなりにくいのですよ。日本人は。そういう意味で不幸だと思う。

ともあれ、この本は、世界の宗教がいかに成り立ってきたのかが、概略わかるので、良いです。
ISBN:406274161X 単行本 ひろ さちや 講談社 2004/06 ¥1,365
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/406274161X/503-1393334-5299133

「倫社の帝王」を連載する、とか書いてたけど、とりあえず、こういう本が出てたので、まずは書籍の紹介したほうが早いかなと。

「社会」の基礎の基礎のところに、実は宗教というのがあって、人間は行動基準に「宗教」を置いている。たいてい。

で、欧米の人間は根っこの基準を自覚してる。論理的にわかってます。ところが日本人は無自覚なんですね。宗教の専門家とかいてない。

いてないというと「お坊さんがいてる」とかいう話になるけど、仏教はやっぱりよその国の宗教やしなぁ。神道は社会の基礎を築く論理体系は、やっぱり持ちえてないと思うし。

そういう意味で、こういう本は読んでおくといいと思う。日本人は本当に宗教に関しては、幼いです。よちよち歩きと言っていいと思います。まず、そこは自覚したいです。

この本は比較的、「仏教」に肩入れした書き方なので、まだ抵抗が少ないと思うのですよ。日本人にはやはり仏教の考え方が馴染みがあるから。

でも世界を見るとユダヤ教とキリスト教とイスラム教という兄弟宗教が大きな、大きな「常識」を作っていて、その「常識」を知らないと、「世界」がさっぱり見えないということはあるんですね。

そういう意味で、各種の宗教の概略がわかる、この本はいいです。
おすすめ。
DVD 上司に怒られつつもOLライフをエンジョイしている如月ハニー(佐藤江梨子)の正体は、「Iシステム」を発動させて何でも変身できるアンドロイドであった。しかし、そんなハニ−のIシステムの秘密を探るべく、悪の結社パンサークローが動き出した。ハニーは謎の新聞記者・青児(村上淳)やガチガチの警視庁刑事・夏子(市川実日子)とともに…

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悪くないんだが、シナリオは、もう一工夫あって良かったよなぁ。前半、けっこう好きだったんだ。「記憶はないけど、思い出は作ればいいですから」とかサラッと言ってたりして。そういうのは良かった。

でも、夏子の内面はいろいろ表現されてたのに、ハニーの孤独は、「夜霧のハニー」でイメージ的に描いてただけというのが弱い。ハニーの孤独は、本当は永遠の孤独なんだから、それを先に描いておけば、ラストがもっと生きたのに。

でもまぁ、まぁまぁ面白かった。
5月10日(月)話題の映画を見に行く。
なんで17日の日記になってるかというとレビューの機能の限界らしいから。なんで過去の日付で日記が書けないのよ、このレビュー機能。

ともあれ。

う〜ん。女々しい話や。それも女々しい男の話。タイトルといい、純愛ものであることといい、女性向けかと思ったら、さにあらず。男が失恋したことを思い出してビエンビエンと泣くための映画でした。

この映画見てわかったけど、恋人が死ぬ映画って、失恋した人間が「別れた理由」を病気のせいにして「自分は何も悪くないんだ」と、何の反省もせずに、ただ自分勝手に「泣く」理由を与えてもらえるからヒットするんだってわかった。

勝手よなー、みんな。
300万部越えたんでしょ、この原作本。
誰も自分の恋愛を「反省」しないんだなーーーーって、つくづく思ったよ。
あかんで、それ。反省しろって。

CASSHERNを見る。

2004年5月4日 映画
2時間35分は長いな。惜しいねぇ。
40分〜50分くらい切れば、けっこう面白かったろうに。
唐沢君のブライキングボスは、なかなか良かった。
シナリオのネタもまぁまぁ。
私ゃ紀里谷和明監督にはけっこう期待してたんだけどな。

小劇場での舞台演出みたいな流れがあったりして意欲作ではあると思うんだけどね。
たぶん日本映画には珍しく絵コンテをしっかり作りこんだが故に、ポストプロダクション(CG作業など)とかで切れなくなっちゃったんだと思うのよ。
がんばってるのがわかるだけに辛い点はつけにくいなぁ。がんばれ宇多田の旦那。って感じ。多分独特の制作スタイルをいろいろと模索してる人なのよなぁ。
とにかく応援したい。

うーん。でも点数は60点かなぁ。
長いよ、やっぱり。
ISBN:4828411127 単行本 副島 隆彦 ビジネス社 2004/03/27 ¥1,575

知る人ぞ知る副島隆彦(そえじま・たかひこ/ふくしまじゃないからね。)さんである。私は心底尊敬する。世界基準の知性を持つ人である。

テレビにはあまり出ない。が、このあたりは何も言うまい。とにかくテレビの政治番組なんか見てるヒマがあったら副島さんの本を読みなさい。その方が500倍勉強になる。

でも。

実はいままで、もう何冊も何冊も副島さんの書籍は読んでるのだけれど、一冊たりともこういう場などでは紹介してこなかったのであります。実は読む人を選ぶのである。日本的な土俗の考えに染まりすぎてる人が読むと腹が立って大嫌いになるという可能性も高いのだ。

それまでにどれだけたくさん勉強してきたかとか、そういうことで内容を理解できるかどうかなどで差が出るのです。

だから、いままで紹介してこなかった。副島氏の本は、バカが読むと床に叩きつけたくなるくらい気に入らない、てなことになるのである。いままでの本は、まぁほとんど全部そういう要素があった。

しかし、この本は良い。安心して勧められる。これならいいや。安心してみんなに「読んでごらん、おもしろいから。」といえる。つまり、「床に叩きつけたくなる」とかにならない。

そういう意味でお勧めなのである。

内容に関しては紹介しません。書店で手に取って確認して、読んでみたいなと思った人だけ読んでください。この人はほんとうにすごいです。

どうすごいのか、この本の最初の一ページの最初の三行と、最後の三行を引用する。

(引用開始)---------------
この本は、緊急出版の本である。私は、この本を本当にたったの一週間で書き上げなければならない。今日は、2004年3月9日(火曜日)だ。この本が、日本全国の主要書店の棚に並ぶのは、4月の初めである。
(中略)
私はたったの一週間で一冊書き上げて見せる。それでも私はこれまで一冊たりとも粗末な内容のいい加減な本を書いて出版したことがない。それは私、副島隆彦の本の読者になってくださった皆さんにはよくお分かりのことと思う。
(引用終り)---------------

ということです。

で、付け加えて副島本読者として言うなら、「その通り!内容の粗末な本など一冊たりともなかったぞ!」である。

一週間で本を書く。しかも品質に自信を持って。こんなことができる人間はザラにはいません。すごいです。私も一冊二冊は書いたことがあるのでわかる。一週間で一冊。とんでもないです。恐ろしいです。半端でなくすごいです。

で、私はもう何冊も副島さんの本を読んでます。だから保証しますが、どれもこれも世界レベルです。(この世界レベルというのがどういう意味かはちょっと解説が必要なんだけどなぁ。うーん。またいずれ書きます。)

副島さんは小室直樹の弟子であることを、この書籍の中でも言っておられますが、私は小室先生の書籍も、もう何冊も何冊も読ませていただいてます。とんでもなく勉強になります。小室先生も半端ではありません。

しかし、このあたり、いろいろな書籍を読んだり比較検討しつつ自分で確かめてこないと、結局は納得できないものです。「あーあの人のファンなのね」というような程度の理解しかできないでしょう。学問というのがわかってない人は、まぁそうなります。

そうじゃないんだよ。学問っていうのは証明されつつ進むもんなんだよ。この人たちは日々検証されながら進んでる人たちなんだよ。とだけは言っておきたい。ま、それも「検証」する意欲のある人間にしかわからんことですから、これ以上は言わない。

ということで、ここで私と副島さんのご本の出会いについてだけ、ちょっと書いておきます。そういう話の方がよっぽど意味があるので。

------------

阪神大震災の時、あまりに国が国民を見殺しにするような政策が多く、かつまたテレビで報道される国民の姿が、あまりにお上に忠実なのが気持ち悪く、「この報道を海外の人たちが見たらどう感じるのだろうか。金日成の葬式の泣き女みたいに"ヘンなの"と感じるのではないだろうか」という思いを持ちまして、私は英語の勉強をはじめたのです。

言っておきますが、その時で35才です。
しかも、「Itの複数形はIt’s?」と平気で言うほどのアホでした。
普通なら、もう間に合わん、というようなことでしょうけど、でも私は気持ち悪いのは嫌だったので、とにかくコツコツやりはじめた。

細目は省きますが、そこまで実力がないと、勉強しても実力はまったく進まないんです。ですから、なんとか効率的に勉強がしたくて、「英語の学習の仕方」というような本とか、その他参考書やテキストなどなど、何十冊も買っては読んだのです。

まぁそうだなぁ、当時で二十冊は読んだかなぁ。中学校の英語の参考書からやりはじめましたから。毎日一時間。赤ペン持って。

しかし、どれもこれも帯に短しタスキに長し。さして役には立たなかった。

その時、この副島さんの「道具としての英語 基礎の基礎」に出会った。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4796616500/ref=sr_aps_b_/250-8146917-6509803

この人、予備校の英語の教師もされてましたからね。で、この本を読んだ。たまたまタイミングとか出会いが良かったということもあるだろうけれども、少なくとも僕は、この一冊で頭の中の霧が一気に晴れた。

そらもうね、この一冊でいきなりいろんな英文が、そうとう読めるようになったのですよ。

これはすごい。

以来、私はこの人の「英語の参考書」に関しては絶大な信頼を置くようになった。

で、この人がアメリカの政治評論の本も書いているのは知ってたんだけど、それは全然信用してなかったのね。英語の学習書に関しては絶大な信頼を置いてましたが、「アメリカの政治ィ? そらまぁ向こうの新聞とか直接読める人やから、そういうこともできるやろけどなぁ。まぁ眉唾ね。」という態度でありました。

が、しかし。その後数年して、副島さんの政治評論の本を何冊も読んで、副島英語本がどうしてあれだけ分かりやすくて役に立ったのかの理由が良くわかった。

半端じゃないんです。

欧米の500年にわたるヨーロッパ近代の歴史を、かの小室直樹から学び、学問=サイエンスとはどういう体系で組み上げられているのかを体得した上で、ヨーロッパ・アメリカの現在の社会の仕組みを政治構造から理解した上で、ひとつひとつの英単語の語源にまで遡った上で、把握して、そうして噛み砕いた上で、日本人にわかりやすく解説を書いていたから、副島英語本は役に立ったんです。

それが良くわかった。

逆に言うなら、こういう文化の厚みがわからなければ、英語などという異文化の言葉は理解できないのである。
そういうことだったんだと痛感したわけです。
それこそ痛感です。体にビシッ、です。

副島さんの本を読んだ上で、副島さんの視点からのアメリカ批判等を知った後では、各種のマスコミ等での世界情勢の記事とか批判とか、あまりに甘ちゃんで聞いてられないっす。
ましてや、そういう世の中の風潮に流されてる程度の意見とかは、もうアホくさい。

反米とか言うんなら、せめて副島レベルの知識を持った上で言え、だわなぁ。ほんと。

結局、副島さんの政治関連の書籍も10冊以上読んでますなぁ。全部面白かったし、素晴らしかった。半端ではありません。この本もあまりに面白くて2日で読んでしまいました。

そういう本です。
DVD バンダイビジュアル 2004/03/11 ¥3,990 勝新太郎主演で知られる名作時代劇に、世界に冠する北野武監督が挑んだ話題作。今回、北野武=ビートたけしが演じる盲目のあんま、座頭市は、なんと金髪。しかも仕込み杖は朱塗りというところがしゃれている。内容の方は、凄腕の人斬り服部源之助(浅野忠信)とおしの(夏川結衣)夫婦や、遊び人の新吉(ガダルカナルタカ)、そして美しい…

ネタバレなので映画を楽しみたい方は、読まないでね。
主たる感想は映画公開時に書いてるので、

http://diarynote.jp/d/12917/20030915.html

をごらんください。



↓↓↓ネタバレ注意↓↓↓

3/11にたけし版の座頭市がDVDで出たらしい。別に買う気はないのだが、三月十一日で「ざ、とう、いち」だそうである。
ばかばかしいが、こういうのは好きである。

ま、それは良いとして。

先日仕事で取引先の若い方たちとクルマで移動する機会があって、なんだかんだと映画の話になった。
まぁみんな映画が好きでねぇ。もうほんとに良く見てるなぁと感心したのだけれど、それでたまたま、このたけし版「座頭市」の話になった。

で、みんな見てたのでラストシーンの話になったのだが、意外にみんなあのラストシーンの意味がわかってなかったんだなーと思って驚いたのでした。

「いや、あのシーンは、これこれこういう意味でしょ。」と解説したら、「おおおお、シゲさん深いっすねー」とか言われた。

えええ、そ、そう? そうなんやろか。

と驚いたので、ついでがてら書くことにした。

あのラストシーンでさぁ、座頭市が目をあけて、目が見えるというのがわかるわけだけど、そこで「見えないほうが都合がいいこともあるんだよ」って言いますわね。
あれはようするにあれでしょ、あの青いコンタクトでもわかるように、あの座頭市は外人との混血、ハーフなんだよねきっと。
で、だからこそ、目をつぶっていたほうが、たんなる「白子」ようするに染色体がちょっと違う若白髪のような人のように見えて、日本人の中に混ざっていても目立たなくていいってことでしょ。

ストーリー全体を通して他の登場人物はそれまでの生きてきた過程とか、子供のころの虐げられた環境とかを描いてるのに、座頭市だけはそれが描かれないというのは、ようするにあのラストシーンで「ああ、座頭市も子供のころは青い目をしてたからといじめられて、それで居合とか身につけるしかなくなったんだろうなぁ」というようなイメージを喚起させるために仕組まれた構造でしょ、ってことです。

で、こういう「おそらくそういう設定ですよ。」ということを話したら、「あ、なるほどー。そういうことか。深いですね。」と言われたわけです。

えええ? そそそ、そうですか。深いですか?
いや、確かに、こういう裏設定に思い至ったのは映画を見た次の日とか、なんかそういうタイムラグはあったかと思うのですけど、まぁだいたいすぐにわかったんですけど。

どうなんでしょ、みんなそのあたりはわからずに見てたんですかねぇ。

で、もひとつ言うなら、その時私、こう言ったんです。
「なんと言っても世界の北野武だし、海外のセールスも考えてハーフの設定にしたんじゃないですか? だから座頭市の第二作目を作るなら、ハーフの生い立ちを生かしたものになるんじゃないですか。」って。
そしたらまたまた
「ははぁ、読みが深いなーそれは。」ともう一度感心された。

うーんそうかなぁ。でも、あの計算高いたけしのことだから、そのくらいのことは考えてると思うのよなー。もともとテレビ業界の人だしさぁ。ちゃんと商品にすることは考えてると思うのよなー。ハーフの設定で北野武監督作品なら、海外資本から続編のオファーが来ることだってあるじゃん。ねぇ?

そんなこんなをひっくるめてのラストシーンだったと思うんだけどなぁ。まぁもちろん「心は目には見えない。目を閉じて聞いているほうが人の心はよくわかる。」というメインテーマはあるんだけどさ。そういうダブルミーニングというか、表面的な文学性と裏面の商売性が両立してるところがすごいよねと。そう思うんですよ、私は。

深読みのしすぎでしょうか? あー、でもたけしなら考えてるよなーきっと。たぶん。

ま、そんなことで。
倫社90点の話の続きなんですが。

ちょっと、ここの日記作者のさる方に、「倫社の帝王だったのね」と言われ、その悪っぽい名称が気に入ったのであります。

なので、ちょっとこの数年コツコツ勉強したことの整理をかねて、「倫社の帝王」という項目を作って連載してみようかなという気になりました。

というか、この間の倫社の話を書いてみて改めて気づいたことがあるのです。

考えたら、あのころひとクラスの人数って40人くらいはいたわけですよ。ということは、私は、どう考えても日本人中2.5%の存在だったのだ、ということにならざるを得ないわけなんですな。

たとえば僕が10%程度の人間なら、40人のクラスで倫社に対する理解度が同程度の人間が四人はいなくちゃならなかったわけですよ。でも、当時それだけ成績良かったのは、私ひとりだけだったんです。しかも、僕の次はいきなり60点と30点も下。
ということは、どう考えても2.5%以下の相当めずらしい存在なわけですよ。もしかしたら100人に一人とかだったのかも知れないわけで。

2.5%だったとしても、日本の人口を単純に一億人と算定すると全国で250万人しかいないタイプの人間ってことなんです。つまり無茶苦茶に少数なんですわ。

これ、多分ね、僕が特殊というより、日本社会が社会学とか倫理とか哲学とか、そういう抽象的な学問の捉え方とか考え方の基礎がとてつもなく弱いと考える方が正しいと僕は思うんです。日本人の文化としてそういうのが不得手なんでしょう。

実際、知り合いその他いろいろな人の書いてることとか言ってることとか聞いてて、倫社90点の人間として、「いや、それはあまりにちょっと間違いがひどいんと違う?」と思うことが多いのですよ。なので、そういうことをちょっと書いてみようかなと。

どうもね、2.5%の人間なのだから、これは自分のやるべきことなのかもな、という気もしてきたわけで。ずっと「こんなん普通やん」とか「当たり前やん」とか思ってたけど、どうも「当たり前」ではないらしいし、それは苦労なく理解できる人間が、やっぱり解説をするのが良いような気もするわけで。
ほんまにねぇ、そういう抽象的学問の基礎のところが弱いんですよ、日本人は。

これねぇ、書くとたいてい評判悪いんだ。受け入れてもらいにくい。でもこっちは2.5%だけど90点の人ですからね。自分の理解していることが正しいというか、「間違いでない」ということだけははっきりわかっちゃってるわけですよ。

だから書き方がすごく難しいんだけど、わかってもらいたいのは、「むずかしいことでも理解すると精神が落ち着く」というメリットがあるってことなんです。

周りを見て思うのは、わかってれば苦しくないのに、解かってないからイライラしたり悩んだりとかそういうのがすごく多いんですね。単純に欧米の文化と日本文化に引き裂かれてるとかね。そういうのがすごく目につく。

この数年いろんなことを自分なりに勉強してきたんですけども、それってようは自分がイライラしないために勉強してきたことなのですね。社会のこととか外国の常識とか、そういうことをわずかでも勉強すると、世界的な世の中の流れとかがそれなりに納得して理解できるので、少なくともイライラすることは少ない。気が楽なんです。

そういう意味でちょっといろいろ社会の仕組みや考え方捉え方の基礎解説的なお話をいくつか連載で書いてみようかなと。
んーそうだなぁ、三〜四回くらいだと思うけど。

こんなこと自分で勉強すりゃわかると思ってたんですが、40人中ひとりというのが2.5%なのだと思ったら「あー、そうか、こりゃ勉強せいと言うても無理やなぁ」とかも思ったので。こんなんもう個性かも知らんしなぁと。

ちゅうことで、「倫社の帝王」近々はじめます。
高校時代、化学が14点であった。
当然100点満点で、だ。

しかも、それは通常の試験ではなく、追試のテストで、だった。

追試のテストというのはどういうものかというと、ようするに中間考査とか期末試験で出た問題をそのままもう一度やり直すようなものである。

それで14点。

アホである。

本当に化学は苦手だった。
当時、追試を受けた人間はクラスでもせいぜい5人くらいだった。その中の私はひとり。3人は追試で合格して、残ったのは僕と、もうひとり。
そいつはけっこう気のいい奴で、僕の点数見て、ニタ〜っと笑って、

「お前、アホやろ」

と言ったものだった。
いや、実にアホである。どうしようもない。

で、だ。

そういう私であるので、そうそう良い成績を取ることはないのだが、それでも不思議と相性の良い科目というのはあって、倫社に関してだけは何の苦労もなくすーっと頭に教科書の内容が入るのだった。

予習復習、まったく不要。授業中に先生に内緒で小説の本を読むような人間だったから、まじめに授業も受けてなかったのだけれど、倫社だけは、小説読むより教科書の内容がおもしろかった。

で、中間テストの時に問題を解いて行くとラクラク解ける。「なんじゃこりゃ。えらい簡単やなぁ。」と思って答えを書いていったのだけど、いざテストを返してもらったら、90点という高得点。

いや、高得点なのはどうでも良かったのだ。それよりクラスのみんなの点数に驚いた。0点続出。10点台20点台もざら。まともに勉強してる奴なんて皆無に近い状態だった。

どどどど、どーゆーことやねん。

とまぁ私は思った。
思ったけど、単に倫社向きの頭を私が持っていたとしか言いようがないのである。こんなもんは個性としか言えない。どうしようもない。できてしもてんからしゃーないやん。そんなもん。である。

で。

クラスに非常に可愛らしい女の子がひとりいた。私の好みではなかったのだが、上級生の男子がわざわざ覗きに来るほどの人気者であった。
今で言うとそうやなぁ、釈由美子をもうちょっと丸顔にしたような子かなぁ。

ま、そういう子がいて、この子が実は勉強が大変できる。英語であれ、数学であれ、まぁ、たいていはクラスのトップの成績だったのである。

授業中にちょっと乱暴者の男子あたりがギャースカ騒ぐと、先生に対して、「うるさい人がいてると授業が進みません。先生、こういうのはキチンと叱ってください。」と言うような人なのであります。

チョー真面目。
あんまし近寄りたくない。

で、この彼女が同じ倫社のテストでせいぜい60点くらいだったのよなー、確か。
私がいなけりゃ、いつも通りトップなんですが。
30点もの大差をつけて私の方が点数上だったんです。

なんかねぇ、その時に睨まれたような記憶があるんだわ。その子に。うまく言えないけど、「なによそれルール違反だわ」みたいなにらまれ方をしたような気がします。

そんなこと言うたかて、しゃーないやん。わかってしもてんし。こういうの得意なんやもん、しゃーないやん。

そういう気になったのであります。

こういう努力して努力してやっと60点とかやってる人から、なんか恨まれてしまうタイプなんかも知らんなぁワシ、とか最近思う。

で、結局倫社は卒業するまでずっと私はつねにトップの成績でした。なんか学年でもトップだったらしい。化学は14点なのに。
「こんな、なぁ、入試の役にも立たん科目が成績良くてもなぁ」という気はしたんですが。

で、忘れられないのが、同じ化学の追試仲間の最後のふたりになったうちの片割れが言ったセリフ。
「倫社で90点やて? お前アホやろ。」
と、これまた気のいい笑顔で指摘しよりました。

うーん、そうかもなぁ、アホかも。
そう思うのであります。

で、いまだにやはり社会とか倫理とか、そういう項目に関する理解度やポイントつかむ力は異様に高いらしく、ついてこれない人には全然無理なのかも知れないとすら思うようになってまいりました。

で、後日談として面白いのは、いまだに倫社で得したことはなくて恨まれたりすることの方が多いような気はしてるんですが、重要なのは化学のほうで。

実は私は化学の知識の無さが幸いして、仕事がうまく回ってたりするんですな。というのは、仕事で分析計の会社のパンフレットを作ったりしてるんですが、それがもう化学ばっかし。元素記号に亀の子記号、あるいは電気やら電子やらの各種の単位。苦手なものばーっかりなんです。

でも苦手なものだという「自覚」があるから、わからないことも素直に率直に質問できるしするし、またそういう会社の人は博士号を取ってるような人もいてるから(きっとそういう人は化学90点とかなんだろうなぁ。)教え方もうまいんですな。

アホやから、そういう化学が得意な人からの教えを請うことができる。だって「知ってる」はずないねんもん14点の人やから。
素直に聞くのよね。「そこ、良くわからないです。教えてください。」って。
そらね、化学の好きな人ばっかりが集まってますからね、そらもう嬉々として教えてくれるんですよ。そらもう無茶苦茶にわかりやすかった。学校の授業っていったい何やってんというくらいのものでした。

結局、そうやって素直に聞いたおかげで、仕事はいまだに切れ目なくあるし、ありがたいことだなぁと思ってたりするわけで。

そんなこんなを考えるとね、努力して60点とかね、いちばんしょーもないなぁと。そんな風に感じてしまう。人生、そんなもんとちゃいまっせ。

もっと自分らしく、自分を生きなきゃ抜け道は広がってくれないのよと思う。

14点だから良かったんだしさぁ。
90点だから苦労するっていうのもすごくあるんだし。
(90点の部分に関しては、たぶん相当に飛びぬけて相性が良いというか、性に合ってる分野なんやろなぁと思いますなぁ。)

60点の人よ、怒るな。90点というのはおるんや。それもなんの努力もなく。こんなん、ザラにおるよ。たぶん、別に何もめずらしくはないはず。

で、倫社と化学以外はたいてい60点とか平均点の範囲内だったはずでねぇ。そういうのは多分全然人生の役には立ってないと思う。
そういうことやねん、結局、世の中って。

つくづく思うのよ、最近。
そういうことやったんやなーって。

ま、どうでもよろしけどね。
ISBN:406212274X 単行本 本田 健 講談社 ¥1,500

なんとなく気にはなってたんだが、この日ふと手に取ってみたくなった。
日本の高額納税者12000人にアンケートを取って、答えてくれた人1000人のデータと、ごく普通の人のアンケートを比較して整理した内容。

データっていうのは強い。
つくづくそう思う。
あっと言う間に読んじゃったもんなぁ。
一日とか二日とか。そんなんで読めました。
仕事の合間合間に。

感想としては「普通やん」です。なんですけど、普通に普通のことを誠実にやり通すことが、いかに大変なことなのかというのが、実によくわかった。

世の常識とか、みんながこうだから、ということに惑わされずに、正しいと思うこと、自分がしたいと思うこと、楽しいと感じること、出会う人を喜ばせたいと思うことをやり抜いてる人たちだったんですねぇ、金持ちっていうのは。

そうなんやー、と感心した。で、前から思ってたけど、金持ちになる人は考え方に矛盾がないのよなー。全部が統合的に首尾一貫した論理なんよなー。うまく言えんけど。

いやー、面白かったです。

まぁ、データに語らせている書籍なので、「だからどうした」というテーマ性みたいなのはないです。だから感動とかそういのはないねんけど、単純に面白かったですね。

もっとちゃんとマジメに働こう。勤勉にやろう。自分の能力をもっと活かそう。世の中の多くの人に私の能力を利用してもらいたい、とかそんなことを考えましたね。

ま、できるかどうかは簡単ではないんですけどね。

だってあれやもん、金持ちが大事に思うことのナンバーワンが「誠実であること」というものやねんけど、それがどんな状況での「誠実さ」かというと、自分の会社が潰れかけて首くくらなあかんかも知らんというような時にも正直に銀行さんとかに財務状況を正確に伝えて助けを請うというようなシビアなレベルの「誠実さ」やねんもん。半端やおまへん。

そーか、そういうことかと思ったです。はい。

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