私はあまり賢くない。
なので、いろいろ勘違いもするし、間違いもする。
そのたびに本を読んだり、人に意見を求めたりといろいろやる。
だから、いつも考え方や発言を修正しないといけない。

で、そうやって努力していくと、だんだんゆっくりと「本当の天才」とか「きちんとした秀才」というものがどういうものかわかってくるのですな。

はっきり言ってバカに天才は理解できない。無理だ。だから世の中を渡り歩いて行くには、やっぱり勉強がどうしても必要だ。経験則と礼節、人の良さだけではやっていけないのである。

ほんとうに優れたことをする人は膨大な知識の上にわずかなインスピレーションを上乗せして仕組み全体の整合性を持たせたまま完全な解決策を編み出したりするものなのだ。
そのすごさは、多分、ほんとうにキチンと勉強しないとわからないんだろうと思う。

あまり賢くない私ですら、多少の勉強をすると、もっとバカな人間から理解されにくくなる。

天才にはバカが理解できるが、バカには天才が理解できないのだ。これはもう絶対だなぁ。つくづく思う。

たくさん努力して、たくさん勉強した人は、いろんなことが分る。でも勉強してない人間は、とにかく、ただひたすらバカなだけだ。努力して勉強した人間から「こいつバカだよなー」と見られていることすら理解できない。

バカな人。ほんとうに勉強しなさいよ。バカは罪です。きっぱり。

で、最近よく思うのは、田中角栄ってやっぱりものすごい天才やったんと違うんか、ということである。
あえて「角栄モデル」と名付けるけど、いまの小泉の路線って、単に角栄モデルをつぶしてるだけで、その先にあるのはアメリカへの従属化だけやもんな。

たぶん「角栄モデル」は、「自分のことは自分でするモデル」で、日本がアメリカに頼らずやっていくモデルだったんだと思う。

だから角栄はロッキードでアメリカに潰された。

この数年というか十年以上、政・官・財の癒着とかなんとか言われてたことも、アメリカによる実にロングスパンの宣伝効果による角栄モデルの破壊に主目的があったのではないか?

そう考えると公共の仕事には、「政・官・財の協力」が必要な分野も数多いのだということがパッと思い浮かぶ。

そういうことなんじゃないか?

田中角栄は不世出の大天才だった。このあいだ三十周忌があったらしいが、昔の田中派はみんな出てこなかったらしい。ほんとうに、この数年で政治的にはみんなコテンパンに潰されまくってしまったもんなぁ。

住宅金融公庫の仕組みを作ったのも角栄である。この仕組みなど、アメリカのモーゲージの金融的危うさと比べてみれば、はるかに合理的で優れているとも言える。(まぁ家の値段そのものが高止まりしてしまったのはよろしくないが。)

ともあれ天才の考えていることは、バカには理解できない。みなひたすらコツコツと勉強していくしか、本当は他に道はないのである。

そして勉強というのは、単に人より多く勉強に時間を割いて、コツコツ毎日、たとえ10分でも本を読み事実確認しながら検討を積み重ねるということでしかない。

首相の犯罪とか、造反議員とか、まぁレッテル貼りでうんぬんするのは、本当にダメだね。ダメだわ。ほんとうに。
レッテル貼りだけがうまくなるというのは、ひたすら「考えることの拒否」だよ。

重要なのは「レッテルはがし」だね。パッケージのデザインにだまされずに、ちゃんと品質をこそ見ることだ。

バカはレッテルはがしができない。
とにかく「わからなくて不安」なものには、次から次へとレッテル貼りをする。それで「勉強しなくていい安心感」を確保するんだよなぁ。

勉強するというのは、自分がバカであると自覚させられることそのものなんだよね。「わ、俺が間違ってましたすみません。」って感じ。

そこが勉強することの、けっこう辛い部分なんだ。
でも、バカは本当にこれができない。
辛いことを避ける。人によっては「そういう事を言うのは暴力だ」とかまで言う。

違うよ。おまえがバカなだけだよ。
そうホントのこと言うしかないんだけどねー。
ホントの事を言うと「暴力だ」とか非難されたりするのよなー。
困ったことだ。
バカがバカを自覚できなかったら、一生バカのまんまだよなー。
どうするつもりだよー。勉強しろよ、おまえバカなんだからってことなんだけどなー。

天才はバカのこともキチンとわかるし考えるけど、勉強途中の秀才にも至ってない私はバカの気持ちまで考えてる余裕なんてないのよなぁ。

で、多少でも勉強したら、その勉強した部分に関してはバカより数十倍明晰に問題把握ができている。だからバカが小理屈こねても「バカが」と完全に無視ができてしまう。(天才なら無視せずバカでもわかるように言い方を考えたりするだろうけど。私は天才ではなく「バカが努力して、ちょっとまともになった」程度なので余裕がないのである。脳みそがパンパン状態なのだ。天才みたいにゆとりはない。)

ともあれ、私もそう賢いわけではないので、バカの相手をするより、まず自分のバカさ加減に気づいて、より正確な真実の理解へ近づくことだと思っております。

ほんと、勉強した人間にはバカは丸見えである。
なにからなにまでお見通しなのだ。
でも、そういうことすらバカにはわかってない。

やっぱりバカでは、天才は理解できないのだ。
人間には、感じるという能力が備わっていて、これをどう扱うかで、人生は変わる。

基本的には感度をあげてやれば能力も幸せ度もあがるのだけど、物事はそう簡単でもない。

感じる能力が高いということは、喜びだけでなく、恥ずかしいと感じることや、心の痛みも敏感に感じるようになるわけで、自分の都合のいいほうだけを「選択して感じる」というわけにはいかない。残念ながら。

喜びをキチンと味わい、楽しむためには、恥ずかしい気持ちや嫌だなぁと感じる心もまた、自分の人生の一部として、しっかりと引き受けるしかないわけだ。

なので、この「嫌な感じは、嫌だなぁ」と、恥じ入る事を避けるとか、頭を打ったことを受け入れないとか、失敗したことを悔しく感じないとか、「意識的に嫌な感じは感じないようにする」てなことをしてると、感じる能力はいきおい下がる。

嫌なことを感じないということは、喜びも感じないということである。当然人生はつまらなくなる。当たり前の話だ。

悲しみを悲しく感じないようにすれば、当然喜びを嬉しく感じなくなるのである。

光があれば影がある。
当然のことなのだ。

真っ白な、夏の雲をスケッチするためには、影をこそていねいに観察して、描かなければならないのだ。そういうことだ。

恐ろしい事に、痛みを感じないようにしている人間は、当然ながら、他の人の心の痛みを「察する」という事もできない。人間関係が恐ろしく希薄になる。

希薄な関係ばかりになると、とても不安になって、家族や近親者や身近な人との深い関係に「頼る」ようになってしまう。そこにしか「自分」がないように思えるからだ。

でも、それは本来、自分が「感じない」ようにしているのが悪いのであって、いくら周りに手当してもらおうとしても、決して、絶対、どんなことがあろうと、永遠に、未来永劫、解決はしないのである。

痛い事を「痛い」と自分で感じること。

ここから逃げてる人間に未来なんかない。まったくない。ゼロである。

いや、それどころか、この「感じない病」は、まず周りを傷つける。痛みを感じないようにしているのだから、人を傷つけても、まーーーーったく平気になってしまう。

いくら「迷惑しているのだ」と伝えても、当人が「痛みを感じない」ようにしているのだから、話にならない。

で、ドンドン・バンバン傷つけまくりになる。
まぁ身近な人ほど傷つけられるわなぁ。興味を否定されたりとか、理不尽な言葉で否定されたりとか、そういうことが「普通」になってしまうのだね。

それもこれも、当人が「痛みを感じないように」しているのが問題なわけで。

感じないように生きている人間というのは、まさにゾンビで、これほど周りに迷惑な存在というものはない。

ところが、「感じないようにしている」人間は、この「感じないようにしていることそのものが、反社会的で、絶対に許されざること」であるということ自体がわかっておらん。

まぁわかりたくないんだから、しょうがないと言えばしょうがないんだろうけどなー。

官僚とか、実はその典型なんだよなー。「自分だけは傷つきたくない」と思うから、「自分で稼ぐのはしんどい。役人なら生活が保障される。」とかいう発想で役人になる。

まぁ、それはともあれ、「感じない」ようにしている人は、本当に諸悪の根源で、社会の迷惑で、人間のクズだと思うのですよ。生きてる意味ないやん。五体満足に生まれて来てるのに。

感じることは、生きていくことの基本中の基本だと思うので、ここだけは絶対に大切にしたいのであります。

ちゅうことで、いまごろになって夏ばてが来て、仕事へのやる気がでなくて困っております。
自分の悪いとこ、ダメなとこばっかり気にかかる。
でも、これをしっかり感じておかないと、次のステップに進めないので、ちょっとじっくり味わいつくそうと思うのであります。

嫌なこととか、ほんと、「味わってやるぞ」と思ってはじめて小さくなるものだしね。感じきって、味わい尽くせば、自分のものになって腹におさまる。

まず、それをしないとダメだよね、人間。
そう思うのであります。
はい。
わははははー。
長い間叱りつけてた奴がとうとう謝りやがった。

がははははははー。

おもろいなー。

ざまーみろー。

間違ってる奴は死んでかまわない。
生きてること自体が周りの迷惑だからな。

でもあんた死んでなかったじゃん!!!
死ぬことも、よーせんかったやん!!!

死ぬこともできんかったら、死ぬ気で謝るしかねぇってことさ。
死ぬよりゃラクだったろうが。
それが生きるってことさ。

こっ恥ずかしかったか?
情けなかったか?
くやしかったか?

その「嫌な感じ」を味わうことこそが「生きている喜び」ってもんなんだよ。「死んでる〜」とか言ってる間は絶対に味わえないのさ。

がはははははは。
なんてマヌケだ。
おもろいぞー。
もっと恥かけ。恥ずかしい思いをしろ!!!!

だははははは。
半年以上もかかりやがって。

まぁよろしい。
あやまったのは偉大なる進歩だ。
それはほめてやるぜ。
おめでとう。

まぁこれで君も精神年齢10歳から11歳くらいには成長したってことだ。

だはははははは。
まぁ愉快だ。

まぁ今後も恥ずかしい思い、情けない思い、嫌な感じを、もっともっともっともっと味わってくれ。
それこそが生きる喜びなんだからな。

嫌な感じを避けるな。そこにこそ宝の山はある。いや、そこにしか宝はないのだ。
そこをよーーーーくかみしめな。

がははははははは。

悔しかったら、もう二度と謝らないでいいように、徹底的な勉強をすることだよ。
いいかげんなことをいいかげんな気持ちで言わないことだよ。
物事をキチンと確かめてからしゃべることだよ。

そんな基本的なこともできてない奴は、この世に存在する価値は全くない。死んでかまわない。必要がないのだ。
そんな人間はいなくなっても悲しいとも思わない。生きてないんだから。いらん存在だ。

この世の生きている人間で必要なのは、自分の間違いをちゃんと反省し、間違った事を言った時に徹底的にこき下ろされて、恥ずかしい思いをし、もう二度とあんな恥ずかしい思いはしたくないと心底思った人間だけが必要とされるんだ。

だから百回でも私は言う。謝れない奴は人間のクズ。生きている価値など無し。死んでかまわない!!!!!わははははは。
そういうこった。

より良く生きるべし。
生きろ!
生きろ!
アダルトチルドレンという概念がありまして。人によっては、「日本人の60%くらいはアダルトチルドレンだ」と言ってる人もいてるんですが、そうだなぁ、そのくらいいてるかもなぁって思う。

これねぇ、正式な病名でもなんでもないんだよね。ただ、自分の心の状態とか感情的な反応のクセとかを自覚するために、実に最適な概念で、自分の生きていく上での態度を修正するのにとても役立つ。

一般論で申し訳ないけれど、アル中であるとかバクチ狂いというのは、「依存症」であって、自分の人生を自分でキチンとコントロールする意志に欠けているところがあるわけです。

で、この依存症の親に育てられた子供がアダルトチルドレンになることが多い。親の依存症がなんらかの形で子供に受け継がれてしまうんですな。

でも、まだ、酒とかバクチなら、「俺はアル中だ」とか自覚しやすくてマシかなぁとか思う。

やっかいなのは「共依存」って言って、人間関係に依存してる場合。これって、当人が自分で「俺は依存症だ」と自覚できない場合が多いから困る。

私は基本的にアダルトチルドレンだったと思うのですよ。まぁいろいろ症状はありましたが、私の場合はまともな恋愛関係などが結べないというようなものだったと思う。

思う、と書いたのは、それが基本的には「直った」からです。
これねぇ、「アダルトチルドレン」って概念がありがたいのは、「あ、俺ってアダルトチルドレンかも」という自覚さえできれば、あとはそう無理せず快方に向かいやすいってのがあるんですよ。
特に男の場合は。

私の場合は父親がバクチ依存症だったので、競馬場へ連れられて行って、目の前でレースに夢中になって私がいるにも関わらず、完全な無視(ネグレクトと言って、純粋に児童虐待のひとつです。子供に「無視」とかの態度を取る親はそれが「虐待なのだ」と自覚して欲しいですな。)されたことがきっかけになってます。

親が子供を無視して「ふん」とか言ったりするのって、「よくあること」とか思いがちですけど、そんなことはしてはいけないのですよ。とくに二三歳の小さい子の場合は。そういうことが、ものすごいトラウマになって、子供の生きる力を失わせることになるし、そういう仕打ちをされた子は、大人になって、また同じ仕打ちを子供にすることになりますから。

で、この依存症っていうのは、いくらでも断ち切ることのできるものなんですね。とくに共依存みたいに人間関係への依存の場合は「意志」の力でどうにでもなる。薬物依存みたいに禁断症状とかないし。単なる「感情のクセ」みたいなもんだから。

ところが、依存症になってる人は、ここのところを勘違いするのよなー。たとえば突発的にわき起こる「感情」などを「自分の個性だからどうしようもない」と自己規定してしまっていたりする。

突発的にわき起こる「激情」とか「劣情」みたいな感情って、たいていは、その、子供のころの「悲しい出来事」が、「言語化すらされずに気分のまま残っている」というだけのことが多い。

親からネグレクトにせよ、何かの強制にせよ、虐待に近いことをされると子供は、「この嫌なことも私自身に必要なことなんだ」みたいな、無理な合理化をしてしまいがちなんですね。
なんでかというと、子供は親の言うことを聞くしかないから。
親は正しいのだ、という前提にしておかないと、生きていけないからなんです。

これが、激情や劣情のようなものを「自分らしさの本質」と読み間違えてしまう原理・構造なわけです。

いわく、
「冷静に論理的に考えるのなんてロボットや機械みたい。感情豊かに生きるのが人間的だ」
という言い方になるんです。

でも、激情や劣情はダメだよ。

それ以前に、
「冷静に論理的に考えられないなんて動物みたいで野蛮。理性で自分をコントロールできることこそが人間的だ」
という考え方にこそ注目すべきなんだね。これは。

ロボットなんて、もともと感情なんか持ってませんし、生き物でもないですから。最近はICチップみたいなものにプログラムを書き込んで動作させられるから、つい機械と人間を比べてしまうけど、機械は生き物ですらないし、そんなものと比べるほうがどうかしてる。

そうではなくて、犬畜生ではないのだから、論理的に整然と物事を考えられる自分こそが、理性のある「人間的態度なのだ」と自覚しなくちゃいけません。

そういうことなので、依存症の人間はよく「だってしょうがないんだ」とか言って自分の内面の激情みたいなものを「個性」として肯定しようとしたりするんだけど、そんなもんは嘘っぱちだよ。偽物。そんな感情が「幸せ」であるはずないんだから、そんなものは「個性」とか思わずに、ただしく「病気(あるいは病気みたいなもの)」と現実認識すべきなんですな。

その認識さえできたら、こんなもん一発で治る。
つまんないもんです。
「俺の意識の手綱は俺が握る、感情に売り渡したりしないぞ。」と決心するだけのことだから。
カーンタン。

で、この「手綱を自分で理性的に持っておくぞ」という意識付けに「アダルトチルドレン」という概念が非常に役立つということなわけです。「私はアダルトチルドレンだ」と自覚すると、まぁおおむね、激情に左右されたりはしなくなります。ほんと「自覚」するだけで、全然効果が違うわけです。

さすがは、虐げられた子供たちのカウンセリングなどを担当する「現場」から出てきた概念だ、実用的だなぁと思う。

でも、この簡単なことを、できないのが依存症なんだよなぁ。
わかってない人はいつまでも「激情」を「自分らしさの象徴」と勘違いしたまま、後生大事に、そういう理不尽さを身の回りにまき散らして、「迷惑な存在」になってる。

いくら意を尽くして、論理的に説得してもダメ。本当に迷惑。だって論理的な考え方が通用しないんだもん。まぁ、バクチ狂いの人とかアル中の人とかみんなそうだもんね。同じ事なのか、しょうがねーなー、といえばそれだけのことなんだけど。

でも、最悪なのは、「どうしようもないんだ」とか「しかたがないんだ」とか言ってる当人自身も陰々滅々な気分であってたりするわけで。
そんなに不幸なら、さっさと変な激情とおさらばしろってーの。とか思うんだけどねー。自分で不幸がってるだけだもん、そんなの。意味ない。全然。

つまらない。

こんな人生の無駄遣いもいいところです。

こういう「コントロール不能な感情」を、「個性」と見てしまうと、それは「直せないもの」になっちゃうんですよね。それだけのことなんだ。

そうせずに、あえてそういう感情を「ビョーキ」(あえてカタカナで書く。身体的な機能不全とはちょっと違うし。)ととらえて始めて、「直す」こともできるんだよねー。

ここがけっこう肝心な事だと思う。

知り合い何人かに、そういう人がいてるので、あえて書きたかったですね。

うむ。
ISBN:456955847X 単行本(ソフトカバー) 中島 義道 PHP研究所 1997/10 ¥693

ちょっとタイトルが気になったので読んでみた。
そしたら、作者さん、すげー、怒ってる。

わかるわー、作者の気持ち。
そんなに怒らなくてもええやんか、という気はするけど、言っておられることはしごくまっとうなので深くうなづくしかない。

しかし、この本の「思いやりと優しさが圧殺するもの」というサブタイトルの「怖さ」がわかる人が果たして日本人の中でどれだけいてるのかという気もする。

なんといっても、日本人は「対話」がすごい苦手なんよなー。
それをつくづく思う。

対立項そのものを設定することが相手を否定することだと思ってる。だから対立的概念をいつまでたっても受け入れられないし、「対話」ではなく「会話」することが良い「人間関係」と考えてる。

違うっちゅうに。

それぞれの個性を認めるならば、違いはあって当然だし、その違いを笑って認められる社会のほうが、お互いがお互いにあわせてガマンしている社会よりはるかに風通しもいいし、発展していく可能性も高いのに、そこがわかっていない。

なんちゅうか、ずっと気になってる日本人の弱い点がモロ明確に批判されてる感じで、ある種痛快、でもちょっと言い過ぎかなぁって感じの本ですね。

なんていうのかなぁ、マイナーな存在を無視して平気なのが日本の社会なんよなぁ。で、「マイナー」が存在していることを認めることは「差別」だと思ってる。

うーん。
やっぱり存在しているものは認めてあげないとダメだよ。
抹殺して「いてない」ことにしたらアカンのよ。
社会は平等ではないし、弱者は現実に存在しているし、「私」という個人も、ある場面では強烈な強者だし、別の場面ではどうしようもない弱者なんだ。

で、それを認めることというのは、ある意味自分がバカであるということを認める力でもあるし、「バカでかまわないんだ」と認められる安心感を得ることでもあるんだよね。

なのに、そういう矛盾とか違いとか、かみ合わない点とかを明確化せずに「まぁまぁ」「なぁなぁ」でやることが和の精神だとか思ってるというか、思わされている。

でも、そんな風に周りにあわせてるだけのほうが意識下のストレスは大きいのよなぁ。意識上ではラクなんだろうけど、無意識の下の下のところで、すごくしんどくなる。
だって、ずっと「俺はバカじゃない」と肩肘張って生きていかなきゃならないから。

楽になったほうがいいよ。誰だって。
個性の違いを認めるというのは、そういう気楽さを得る風通しの良さだと僕は思うけどなー。

「みんなが平等ということになっている」じゃダメなんだ。
そんなお題目ばっかりじゃ意味ないと思う。

「平等じゃないよ、世の中は。だけど、なんとかみんなが幸せになるように一つずつ確認していこうよ。」ってのでないとダメさ。

そういうことなんよね、対話するってことは。

「おまえ、バカなんじゃないの?」と問われて、
「違うわい」と肩肘張ることではなく、「んー、かもなー。」と冷静に自己認識できる力こそが大切で、それこそが実は生きる力であり、真の賢さであり、幸せになるための重要なキーポイントなんだと思う。

事実を直視するのは辛いねんけどなー。でもそれを直視しない限り、前に進むことはできんのだわ。

そういうことを強く感じた本です。

こういうことって、僕的には、しごく当たり前の考え方とらまえ方なんだけど、どうもそうではないのが日本の社会らしいんよなー。

うーん。困ったことだ。
RYOさんのページで紹介されてた文章を読んで、僕もとても感動しました。ものすごく高度なことが書いてありますけど、でもとても真実を写し取ってると感じました。

こっちでもリンクしとこ。
http://www.shiro.dreamhost.com/scheme/trans/hs-j.html

この文章って誰が書いたんでしょうか。また機会があれば誰か教えてください。

しかしほんと、本読まない人が多い。それも小説以外の本となると無茶苦茶に少ないと思う。

●良い本を見つけること自体、ひとつの大きなプロジェクト。

だというのにねぇ。

●偉人が私と同じ普通の人なら、何もしてない私とは何。

とかも書いてあったけど、この問いかけも実に深い。

実はやれば誰にでもできるのだ。本当は。

「学習すること」はやはり人間の本質そのものだよなぁと、最近つくづく実感しているので、こういう良い文章に出会うと本当の意味で前向きな勇気がわいてきます。

良い文章をありがとう、です。
いろんな意味で。
今年は阪神大震災から10年。

震災の日の日記にも書いたけど、大地震という人の手ではどうしようもない出来事に遭遇して、考え方や生き方は大きく変わったように思う。

その中でも、やっぱり一番大きいのは「勉強しなくちゃいけない」っていうことだった。

最初は「他の国から見て日本という国がどう見えるのか」というような発想だったけれど、たとえば英語ひとつ学んでみても、ひとつの単語の裏には日本とは異なる異質な文化があって、その文化を学ばない限り、言葉の意味がわからないというようなことが山のようにある。

英語なんてとくにそうだ。辞書を見て「日本語で●●は英語で○○」と単純にあてはめてそれでよしなどと思っていたら、ちょー恥ずかしいことになる。全然通じないどころか正反対になってしまうなんてことも多い。

結局、英語を学ぶというのは、相手の国の文化を知るということで、それは日本の文化とはまるで違うのだということを知ることだから、「日本語の●●は●●であって英語の○○とは似ているようでまったく違う」ということを学ぶ過程そのものだ、と言える。

基本的には「学ぶ」ということは、そういうことなんだよなぁとつくづく思うのだ。翻訳不能と知ることが相手のことを良く知るために必要というか、そういう矛盾があるってことですね。

でも、大切なのは、相手の文化を知れば「ああ、なるほど」とわかることはあるってことなわけです。

「ああ、そういうことやったんかい。」と納得することですね。言葉はわからなくても、この「ああ、そういうことか」というのはあるのですなぁ。

結局、これが楽しいのだと思う。

英語を学ぶことが大切なのではなくて、この「ああ、なるほど」とわかる感覚こそが大切で、この楽しさがあるからこそ、勉強は楽しいのだと思うのである。

この十年につくづく実感したことは、それだ。

「ああ、なるほど」と実感することは楽しい。
心から楽しい。

とくに特定のジャンルの本を数冊、できれば十冊くらい、入門編から一般書あたりまでをザザザっと読んでしまったりすると、複数の知識が、ある特定の一冊の本ですべて「ああ、なるほど」とわからせてくれる本に出合えたりする快感は最上だ。

この時の快感は実に大きい。

いままでわけも分からず、闇雲に読んでいただけの知識が、その「ああ、なるほど」という解説ひとつで、一気にすべてつながって納得できるような快感である。

これは実に楽しいし、気持ちいい。

学習するということの基本的な楽しさは、この「ああ、なるほど」という快感なのだと思う。

ひとつの言葉の意味を知るのではなく、背景全体が見える快感というか。そういう感覚ですね。

この快感を知れば、もっと「ああ、なるほど」という喜びを知りたいなぁという気持ちになるものなのです。
で、それがあれば勉強はどんどん続くと思うのですよ。

まぁ、仕事が忙しいとなかなか勉強もできないけど、基本はそういうことだよなぁと思います。

学習すれば考え方も変わるし生き方も変わるけど、この「ああ、なるほど」と感じる感じ方は変わらないなぁ。
たぶん、これは信じて良い感覚でしょう。
人間の持つ感覚の中でも、たぶんとても大事で最優先にするべき感覚だろうと思う。

人間、年齢を重ねるごとに思想も考え方もいろいろ変わるけれど、それでもやっぱり「ああ、なるほどなぁ」という感じ方は変わらない。

右や左や戦争賛成や反対や、考え方は変わっても、親子兄弟の関係は変わらないというのと同じです。

そのくらい「ああ、なるほど」という感覚は大切なものだと思います。

しかしながら。

この「ああ、なるほどなぁ」という感じ方というのは、キチンと学習していかない限り感じ取れない「感覚」なんでしょうね。

だから「ああ、なるほどなぁ」という喜び自体を、あまり感じずに生きてきてしまった人も、それなりにたくさんいてると思うのですよ。

それがやっかいだなぁと思うのです。

たとえば、「●●は○○ということになっている」という英語と日本語の割り当てだけで納得してる人ですね。そういう人のほうが多いし、当たり前でしょう。

でもなぁ、それじゃ勉強はどんどんつまらなくなるのよなぁ。何より「ああ、なるほど」という最上の快感は得られないんですよねぇ。

この数年で、いちばんやっかいだなぁと思ってきたのは、そういうことですね。
こればっかりは自分で学習しないと味わえないもんなぁ。
しょうがないと言えばしょうがないけど。

ためいきがでます。
ISBN:4140018712 単行本(ソフトカバー) 岩月 謙司 日本放送出版協会 1999/09 ¥914
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140018712/503-1393334-5299133

知らなかったんですが、岩月謙司さん、逮捕されてたんですね。

うーん。

辛いなー。

確かに「育てなおし」の手法は物理的には「わいせつ罪」に見えてしまうからなぁ。というか物理的には若い女性に父親代わりとなってスキンシップするんだから、反論のしようがない。

でも、それでも私的には岩月さんの味方をします。
こういう時こそ味方しないとまずいわ、これは。

ネットでこの件を検索しても「読んでもいないのに世間の流れに沿って批判している」というのが多くて困る。
それとは逆に岩月さんの「治療」を受けて社会的に回復した人たちからは「今回の逮捕は冤罪だ」という声が非常に多い。

だって心の苦しみから本当に救ってくれた人なんだからねぇ。そうなるよ、それは。

で、あまり知られてないけど、子供時代の親子関係をキチンと整理できずに苦しんでる人って本当に多いんだよって言いたい。女性に多いらしいけど、実は男だってそうだ。

(岩月さんは「男は論理的に問題を解き明かせるからまだまし」という意見を言っておられるが、私は男のほうが問題が無意識の下に眠ってしまってやっかいだと思う。「苦しい」と自覚できて岩月さんの門を叩くのは女性がそれだけ自己分析に長けているからではないのか? と思っている。男は下手ですよ。自己分析。まぁ仕事で矯正されてる部分はあるかもしらんけど。)

私、この数年、いろいろありまして、そういう悩んでいる女性とたくさんお会いしたのです。だから、その苦しみがいかにやっかいかつ大変なのかというのは実感としてあるのですね。(わかると言いたいが言うとウソになるので、実感があるとだけ書く。)

で、岩月さん批判をしてる人の意見を読まなくちゃと思って探してみたら、内田樹ってのが批判してた。
一見まともな批判に聞こえるんだけど、なんかおかしいんだ、こいつ。なんか言ってることが結局「エロ」だけなんよな。エロティックはすばらしい、みたいなことしか言ってない。
で、なんか変よなぁ、なんだろうなぁと思ってたら、ようするにこの内田樹という人の言葉からは苦しんでる人を救う「気」が感じられなかったってことなんよねぇ。

(しかも、「同性愛問題と社会問題を関連づけて考えるなどということをする気はまったくない」などとバカな事を言ってるし。「まったく」かよ?ひどいね、それは。アメリカの大統領選挙戦の争点も知らないのかとあきれた。ま、岩月さんの話とは関係ないけど。)

岩月さんの著作からは、その「救わなければ」という気がすごく感じられる。
まぁ、そこの思い込みが強すぎるというところもあるんだろうけど、実際に苦しんでる人をたくさん知ってると、岩月さんの真剣みもよくわかるんよなぁ。

やっぱりね、そういう現場を知らなきゃいかんと思う。
で、その現場がわからんなら、せめて本くらい読まないとなぁ。
逮捕された人をここまで「守る」と公言する人が多いというのもめずらしいかも。

まぁ岩月さんを訴えた人というのが、もともとテレビで「育てなおし」の現場を見た上で岩月さんのところを訪ねてる人ですからねぇ。スキンシップが前提の「治療」であることは納得済みだったはずなんですよ。
ただ、訴えてきたのがどうも、その父親らしいんでねぇ。
うーん。

やっぱり男が問題という気がするよなぁ。
女は自分の問題に気づけるのよなぁ。
治すために努力もするのよなぁ。
男はまず気づくことができないんよなぁ。
だから、この「父親」が気づいてない可能性が一番高いと私的には思うのですよ。

私も岩月さんの何冊もの本に救われてる人間なので、とにかくここは味方しとかないとまずいということなんですが、どうもこれ、やっぱり冤罪になる可能性が高いのか、テレビとかでもあんまり取り上げてないみたいですな。
だから逆にこんな風に味方するほうが事を荒立ててしまってるのかも、という気もしますが。

ともかく、親子関係が原因で人生に対して非常に暗い思いしか抱けなくて苦しんでいる女性と話をして、その話の内容が、岩月さんの書籍とあまりに内容がぴったり重なってたので、一冊(この本じゃないけどね。「思い残し症候群」のほうです。)プレゼントしたんだけど、パラパラと眺めただけで「私のことが書いてある!」とびっくりしてたもんなぁ。

やっぱりね、臨床というか、実際に苦しんでる人それぞれとキチンと向き合ってる人が整理して書いてることなんだから、説得力ありますよ。そういうことよなぁと思う。ほんと。

まぁ「育てなおし」に関しては、テレビで紹介された内容をネットで見て「うわぁ、これヤバイよなぁ」とは思ってたから、岩月さん自身、こういう訴えられ方をされる可能性も覚悟の上だったのかもしれないなぁとは思うのですよ。

苦しんでる人を救う。
マイナスをプラスにする。
本当にすごいことだと思いますよ。
やっぱり、それをやらないと。

で、実は自分のマイナスを自覚するっていうのが、一番辛いんだけどねぇ。
うーん、それはまた別の話か。

てなことで。
12月26日は私の誕生日なんですね。

で、この日たまたまテレビを見てましたら(最近ほんとうにテレビは見ない。)、ご存知の方はご存知でしょうが、「課外授業ようこそ先輩」というNHKの放送が目に飛び込んできたのですね。

これは、タレントや芸能人、スポーツ選手などなどの有名人が、自分の母校である小学校にやってきて、そこで自分の仕事に関する事柄を小学生たちに自分なりのやり方で教える、というものなのですよ。

この番組はけっこう好きでして、まぁよく見るほうなんですが、この日はたまたま、お笑いマジックで有名なマギー司郎さんだったわけです。

http://www.nhk.or.jp/kagaijugyou/list/list5.html

これがねぇ、もう本当に素晴らしかった。
涙出ちゃったよ、私。

子どもたちにマジックを教えるんだけど、マジックはマジックでも「おしゃべりマジック」を教えるわけですね。

で、まず一通りマギーさんがマジックをやると、子どもたちは大笑いするわけです。

で、マジックが終わった後、「なんでみんなが笑ったのか」をマギーさんは解説する。「それはね、僕がマジックが下手なのをみんなが知ってるからだよね」とマギーさんは言う。

で、「僕は自分がマジックが下手だってことを正直に舞台で言うようになってから、すべてがうまく行くようになったんだよ」って言う。

だから、人生において、自分の弱いところとかダメなところとか、それをちゃんと知って、言うってことは大事なんだよって言う。


すごい。


このすごさ。
このすごさがわかる人がどのくらいいるのかなぁ。
すごいです。

で。

「だからね、今日はおしゃべりマジックするんだけどね、そのおしゃべりの中にね、自分の弱いところダメなところを入れてしゃべってみようね。」

って言うの。
マギーさん。

いや、あの、それ。
ちょっとすごすぎません。

いや、あの、それ、大人でも簡単にはできませんから。
ちょー難しいですから。

自分の弱いところ、ダメなところ、真正面から見据えるなんてこと、そんなに簡単にできないですから。

そういうわけで、大感動した。

マギー司郎はすごい。

で子どもたちは悩みながら(大人でも尻込みするよ。)自分のダメなところ、弱いところをポツポツと語りだすわけです。

もう、これだけでも感動ものでした。

で、次は、そのダメなところを入れた「おしゃべりマジック」を演じる場面。それから、最後のまとめのマギーさんのおしゃべりと進むわけですが。

泣いちゃったのよ、マギーさん。
「みんな偉いね、自分から逃げなかったね。」って言って。

もうね、僕も泣いちゃったよ。
自分から逃げない。
これが一番大事なんだよ。

いちばんしんどいけど、これが一番大事なんだ。
ポロポロ涙が出ちゃったよ。

ほんと。

誕生日の日に、いいもの見たなぁと思いました。

知らなかったけど、年末年始の特別アンコールだったみたいね。
そらアンコールされるわなぁ。
何回見てもいいよ、これは。
素晴らしいです。
上達の法則を読んでいて面白かったのは、とどのつまり「認知」の仕組みは、脳の構造に規定されるというあたりでありまして。

このへんの話は「人間誰だってそうなんだから」というところで非常に気が楽になるわけです。思いとか、感情とか、気持ち、とか言っても、脳みその構造や認知の仕組みとして展開される部分に関しては、結局どんな人間でも同じなわけで。

こういう人の個別性を無視しているかのような整理の仕方というのがちょっと気に入らないというのが、認知心理学とかの嫌いなところなんだけど、まぁ実際の話が脳みその構造はそうそう変らないのだから、そこでゴチャゴチャ悩みすぎるのは、あまりよろしくないのであります。

短期で記憶できるのが7チャンク(かたまり)であり、このチャンクに入れる情報をコード化することで、人はより速く、的確に判断ができるようになるとか、そういう話が実に面白い。

そして、こういう誰もが持つ構造の上に感情などが発生しているのだ、という事実があって、で、何かを成し遂げるための「スキーマ」(やり方の手順化された単元みたいなもの)に対して自分の技能が追いついてない時にスランプに陥るとかの具体的説明が入ってくると「ふむふむふむ」と納得しながら読み進められる。

落ち込んでても、理屈で納得というのはできる。

感情は論理でキチンとコントロールできる。

そういうことがわかって実にありがたい。

あとは、この本で言われるところの「自我関与」をどれだけ積極的に高めていくかですなぁ。
自我関与というのは上達するということに関して、自らの興味と主体性によって関わって行こうとする気持ちのことで、それがあるかないかで上達の能率がまったく変るらしい。

なので自我関与、なのだ。
自ら関わっていく気持ちが大切ということなのだ。
うむうむ、である。
えー、今日の日記は、やたらと長いし、抽象度もやたらめっぽう高いので、読んでてヒーハー言うことになると思うけど、そういう内容なんだししょうがないやと思ってあきらめて読んでいただきたい。

さて。

この間から、ウクレレの話をよく書いてますが、私にとっては、相当に大きな「救い」のように感じてるのです。
で、その「救い」と感じられるようになったきっかけが、この本でした。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569621988/qid=1069176597/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-4162557-7679561

「上達の法則」PHP新書 岡本浩一 680

で、多分、この7日くらいに買ったはずなのであります。

別に、この本に「技能を磨いたら、落ち込みから抜け出せるよ」なんてことはじぇんじぇん書いてないんだけど、読んでてとにかく精神的にすごく落ち着く感じがあったので、うれしかったのであります。

ここしばらく、自分に自信がどんどんなくなっていく感じが非常に強かったのですが、前に書いた「自分セラピー」に「自信とは自分に対する信頼感である」という話が載ってて「ああ、そうだよなー。」と深く納得してたわけです。

他人との約束は守れても、自分との約束を守れない状態になってたんですね。ここしばらく。で、なんか自分をないがしろにしてる感覚があっていけないなぁと思ってたんです。

でも、「自分セラピー」を読んでなるほどなぁと思ったのは、他人との約束を守るというのは、「私という人が他の人と約束をした」という「自分との約束」を守ったということなわけです。で、自分との約束というのは、自分で自分のために約束することなわけです。

よく「仕事中毒」で、仕事をしてないと落ち着かない人というのがいてますが、それはこの「他人との約束も自分との約束であり、自分とだけ交わした約束も自分との約束なのである」という構造がしっかり掴めていない人なのだということなんですね。

自分との約束は、他者の目がないから、つい守らずにおいてしまって、結局自分をないがしろにしている。本当はどの約束も「自分」という人はしっかり見て知っているから、自分との約束を守っていないと自分で自分を裏切ったことになるので落ち込みが激しいのです。

その落ち込みを取り返すために他者の目のある約束=仕事をやたらと守ろうとするわけですね。でも本当はどっちも「自分との約束」という意味では同じものなのに。片方が達成されていないから、もう片方で取り替えそうとしている。

ま、少なくとも僕にはそういうところはちょっとはあったよなー、とか思ってたのです。本当はどっちの約束もつねに自分は関わっているのだから、もっと自分を信用しても良いはずなんだけど、つい「自分しか看視者のいない約束」は後回しにしていて、結果として「自分を大切にする行為」だけが「不得手」になって行ってしまってたわけですね。

「他者による強制力」がないと何もできない人なのだとか、そういう間違った認識を持ってたのかもしれない。そうじゃなくて、どっちも自分との約束なのだし、どっちの約束も結局守ってるのは自分なのだから、もっと自分に自信を持っても良いわけです。

とは言うものの、この「他者の監視がなく、自分だけが知っている自分との約束」を、あんまりキチンと守ってこなかったというのは確かにあるので、それをなんとかしようと思うわけです。

というか、いつもそういう「自分との約束」はそれなりに守ってはきていたんだけど、あんまり自覚的ではなかったっていうことなんですね。

とどのつまり、自分を大切にしているのだ、という感覚を、物理的にちゃんと成果のある形で知るためには「趣味」というのがとても良いのですなぁ。

僕の場合はウクレレなわけですが、別に囲碁や将棋でもいいし、英語の学習でも良いだろうし、なんだっていいんですけども、何か自分の好きなことを身につけて、それを「上達」させるということがすごく重要という気がします。

何かを上達させるということには、自分の実力を社会的な一般ルールの枠組みの中での自己というものを、つねに再確認しながら、次のステップを選び取っていくという自覚的な進歩の意志が必要なわけです。

で、この書籍に書いてあるようなジャンルを越えて存在する「上達の法則」みたいなことを抽象的にでも整理して頭に入れておくと、ひとつの趣味の上達という成果が、自分の人生の、ありとあらゆる局面に対する精神的なバックボーンになっていってくれるのですね。

この本を読んで強く感じたのは、そういうことでした。自分の経験、とくに上達したいという意志が、いかに自分を救うのに大きな力になるか、というようなことです。その努力は決して無意味なものではなく、社会的に他者にも通ずる努力であり、成果にもなることなのだけれども、ところが個人の努力の仕方としては、とても個別的で比較のしようがない特性もまたあったりするものなのですね。

うまく言えないのだけれども、いたって「個」的な努力の事柄、というのはとてもみっともないし、他者にも理解してもらえないのだけれども、しかし、その「みっともなさ」を越えて自分の成長は担保されていくというかなんというか。

なんかどんどん話が抽象的になっていってるなぁ。

たとえば実例としてはこういうことです。

走り高跳びの「背面飛び」というのは、1968年のメキシコオリンピックで、フォスベリーという人がはじめて使った飛び方なのですが、これはもともとフォスベリーがベリーロールという流行の飛び方が不得手で従来からあった「はさみ飛び」しかできなかったことが最初のきっかけだったんですね。(このあたりの話はほんのちょっとだけ「上達の法則」にも出てきますが、僕自身は他の書籍でこのあたりの過程を読んだのでなお面白いのであります。)

しょうがないから「はさみ飛び」で、もっと高く飛べる方法はないかと苦労しているうちに、結果として背面飛びという独特の形が生まれてきたわけです。フォスベリー当人は、はさみ飛びだとどうしてもお尻がバーに当たってしまうので、それを飛び方を変えずに微妙な調整で回避しようとしていて、その結果が背面飛びになってしまっただけということなわけです。

ここにあるのは、決して「変ろう」という意志ではなくて、いまのままの自分を大切にしながら、ただ「改良」していこうとする、上達の意志だけだったわけですね。

このあたりの精神構造が重要だと思われるのでありますよ。

何かに「なろう」として、背面飛びが生まれたのではなくて、自分のまま「あろう」として、背面飛びは生まれた。そういうことなわけですね。

何かに「なろう」としなくても良いのです。ただ、自分でより良い自分で「あろう」とすればいい。なんというか、そういうことだと思うのですよ。ただ、そこで重要なのは、上達していこう、より良いところに行こう、成長しようという「意志」だけであって、他者との比較とか、他者による監視とか、世間一般論としての方法とかは全然関係ないわけです。

ただ私が私としてのたうち回りながらでも、「より良くなりたい」「もっと幸せでいたい」と願い、それを自分のために実践していれば良い、というか、結果として人間はそれしかできないのではないかという気がするわけですね。

一足飛びに挟み飛びから背面飛びには移行できないんですけど、上達の意志さえ持っていればそこに至れるというか。

まぁ、これは趣味を持って上達を望んでいることの究極の方向性ではありますが、そこまで大それた目的でなくても、たとえばスランプからの脱出とか、さまざまな面で趣味で培ってきた精神的素養というものが、実…
10月30日に、ふと本屋で目に付いた「自分セラピー」という書籍。たぶん11月1日に読み終わってるはず。けっこうあっという間に読んでしまった。
内容的には、網羅的な心理セラピーの方法論、考え方の紹介書籍なのだと思うのだけど、一冊まるまる通して一貫した「柔らかい信念」みたいなものが感じられて、ずいぶん好感を持った。

そうなのよな、柔らかい信念なのよな。
いま書いてて思った。

たぶん大事なのはそういうことだと思う。
固い信念っていうのは、どこかで意固地なんだよね。で、その意固地の原因って、実は自分で全然見えてなかったりする。

でもだからと言って信念もなしに動いていると、「誰かのため」とかの自分ではコントロール不能な価値観に自分を預けてしまって、何がなんだかわからない世界に陥ってしまったりもする。

ほなら、どないしたらええねんーっと思い悩んでおったわけですが、ようは柔らかい信念を持てばいいわけだ。

信念は信念として、とりあえず立てておいて、それをちょっと離れて「この信念のままでええんかいな、どうやろか?」と遠くからながめてみて、確認したりする感じかなぁ。そういうことをしてたら、価値観の裏側にある意固地の原因とかも目につくし、そういうのはゴミを払うみたいに取れるものはサッと取って、こびりついてるのは、時間かけて、水でしめらせて、ていねいにきれいにするとかが必要なんやろねぇ。

それでまた、自分の生き方に戻って、また信念を支える、みたいなことをしてれば、意外に信念っていうのは柔らかくても大丈夫だったりするんじゃないかなぁ。

たぶんそれが自分を信じるってことなんだろうねぇ。
そうやって自分の信念から距離を取って眺めてみても、そんなに信念って変らないと思うんだけどね。長い時間かけて作ってきたんだから。でも柔らかいのがいいよなー、なんか。

ああ、話はだいぶズレてしまった。

ともあれ、そんな話はこの本には何も書いてない。ワハハハハ。

でも、自分を好きになるための方法がいくつも書いてあって、なかなか参考になりました。
けっこう頑なな自分がほどけますよ、この本。いやほんま。

ほどいた後にも残るところが自分なんだろうねぇ、きっと。

なんかそんな感じの本でした。

あー、期待して読んで期待はずれだったとしても私は責任持ちませんので。わたしがそう感じただけだからね。

ま、そんなことで。

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あ、それと、知らない間にいろいろな方がリンクしてくださってたんですねー。気付きませんでした。
いったい何を気に入ってもらってたんだか。でも、うれしかったです。
ともあれよろしくお願いしますですです。
ふと思うところあって、東ちづるが書いた「はなぜカウンセリングをうけたのか」を買ってみた。

どうせタレント本だろという程度の気持ちだったが、内容は思っていたよりはうんと良かった。
ちゅうか、一日で一気に読んでしまった。
アダルトチルドレンに関する書籍ではあるけれど、東ちづるさん自身は、それほど症状は深くはない感じ。長年かけて少しずつ心のもつれをほどいてきた仕上げとしてカウンセリングを受けてるってところか。

それより親子カウンセリングでのお母様の状態がすごい。そうなんだ、人間、こんな風に変っていけるんだなぁとなかなか感心した。年を取っても同じことなんだなぁ。

それと、内容とはまったく関係のない部分で東ちづるさんのお父さんについて書かれてたところがあって、そこを読んだ途端に、僕自身の亡くなった父親の気持ちが急に理解できた気がして、ファミレスで読んでたのだけれど、ボロボロ涙が出て止まらなかったですなぁ。まぁ、周りに誰もいなかったから良かったけど。へへへ。

父親が死んでも涙も出なかったけど、昨日初めて涙が出た。なんかそんなもんかもなぁ。5年かかってる。

家族関係の心の葛藤の解き明かしというのは、ともあれ誰にとっても何らかのやわらかな刺激になるような気がする。断酒の会とか心の弱さを克服するための自助の会とかでも、自分の体験談を話しあうことが新たな一歩を踏み出していくためのとても良いきっかけになるみたいだし。

必要のない人には必要のない本ですが、必要な人にはけっこう「いいなぁ、この本」とか思える書籍。
心に葛藤を抱えている人は、ちょっと読んでみると、ちょっとだけ気持ちがやわらぐかも。ちょっとだけだけどね。

でもまぁ、ちょっと東ちづる、見直したな。うん。

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