このあいだ、ふと昔の事を思い出して、けっこう重要な事に気付いたので、その事をちょっと書きます。(内容長め。)

というのは、僕にとって、高校二年の11月から後の高校生活と、それまでの一年生、二年生前半までの生活では、もうまるで色合いが違ってしまったんですよ。

親しい友人もおらず、何の変化もなく、ただ通学しているだけの、おもしろくもなんともない、灰色の高校生活1年半が、「ある事件」をきっかけに、明るく楽しく、友人もでき、恋人もでき、前向きで幸せな生活に変ったという、そういう極端な差につながったという、そういう話なんです。

で、そこまで大きな変化が生まれた、そのきっかけが「どういう事」だったのかが、ふと明確に思い出せるようになったんです。というか、自分でも未整理だった自分の内面の変化が、いまになって手に取るようにわかったという事かな?

その「ある事件」が「どのように」僕を変えたのか、それがいったい「何故」だったのか、当時の僕にはまるで理解できてなかったけど、なんといま頃になって、「ああ、そうか!
」と実に良く分かるようになってきたという事ですね。

驚いた事に、自分の内面の変化を、解説できるくらいにキチンと理解するのに30年近くもかかったのだ、って事なんですが。

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僕が通っていた高校は、自分の学力に合う高校が自分の学区内になかったがために「調整校」ということで、電車で20分、徒歩まで入れたら45分くらいかかる、少し遠いところにあったのですね。

なので、1年2年の間は、もう完全に「帰宅部」になってました。早く家に帰ってテレビでも見てる方がいいって感じですね。自宅近くの方が、まだ都市部だったし、田舎の学校の近所で遊んでいてもつまらないって感じだったのです。

しかしまぁ、そんな事をしてると、学校での友達も幅が狭くなるし、部活にも入ってなかったから、人生そのものがまったく広がらないわけですよ。

でも、それは、いまにしてみれば、他の人間との関係を、どうやって取り結んだらいいのかが、いまひとつ分ってなかったという事だったんだと、いまになって見えてきたんですね。ノウハウを持ってなかった訳です。でも、当時はノウハウがないからだ、とは考えてなかったんですね。

「なんかおもろない」って奴です。理由のない不満。あるでしょ? みんな。そういうの。でも、「なんかおもろない」って、結局は「単に知らないだけ」なんですよね。ただ、何を知るべきなのか? が分ってないって事だけなんですね。

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とにかく、高校二年の10月の僕には、そういう問題が見えていないから、「毎日がなんとなくつまらない」と思ってたわけです。

で、あんまりつまらないものだから、一日だったか二日だったか、学校をさぼったのですよ。まぁ、自分から行動を起こしたのは良いとして、実に後ろ向きですねぇ。それはそれとして。

学校をさぼったところで、別にやりたい事があるわけでもなく、家に帰るわけにも行かないので、大阪市内を一人でうろちょろしてただけなんですけどね。なにかアテがあるわけでもなく。実に無意味な「サボリ」でした。

そんな事を週に一度、二回くらいやったんだと思います。

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だいたい、うちの父親というのが、ACですので、自分に直面できない人で、寝過ごしたとか、気分が乗らないとか、そういう時に会社に電話して休んだりしてたわけです。休む事自体は別に問題ないんだけど、まぁ情けないというか、カッチョ悪いというか、わざわざ、ざーとらしいガラガラ声を作って、ゼェゼェハァハア言いながら会社に電話して「休みます」とかやってたわけです。別にそんな声作らんでもいいのに!(笑)

でもまぁ、多分僕はその時、父親の真似して「ゼイゼイハァハァ」と声を出して電話したはずなんですよねぇ。公衆電話かどこかから。あーカッチョ悪い。(笑)
そういうやり方しか知らないんだからしょうがないですけど。

そんなもの、別に普通の声で、「今日は調子が悪いので休みます。」で良いのですよ。それは。本来。ね? 休みたけりゃ、休んでいいんだから。ガラガラ声を出すなんてのは、自分に「俺は嘘をついている」と不要な罪悪感を刷り込むだけで意味がない。まぁ可愛らしいけどね。(笑)

でもまぁ、実は「連絡」は、しているのだから、そこはマトモです。休む奴は何も言わずに休むしね。ねぇ?

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ともあれ、そんなことを多分その10月に二回ほどやったんだと思うんですよ。

そしたら、担任の i先生から呼び出された。「うわっちゃー、サボリがばれたか。」とか思ったわけですよ。で、おそるおそる、叱られるかと思いつつ先生のところに行くと職員室ではなくて廊下で、ものすごく軽い感じで「シゲ君。休んだのはええんやが、いちおう二回も休んでるしお医者さんの診断書がいるからもらってきてくれるか。書類上必要なんやわ。」と言われたわけです。

ああ、そうか。う〜ん。でもなぁ、そんなもんありませんがな。どないしよかなぁと思いつつ、軽い調子で言われたし、まぁいいかと、ほったらかしにしてんですが、数日後にまた先生から声をかけられて「どうや。もらってきたか?」と言われたのですな。

で、「いや、まだもらってません。」と言うと「そうか。まぁ面倒やしな。わかった。ええわ。診断書なしでもええように、ワシが処理しといたるわ。特別やぞ。」と、これまた軽い調子で言われた訳です。

で、「良かったぁ、助かった。」と思って、数日すると、また先生が声をかけてきて「お、シゲ君、例の診断書やけどな、いらんように取りはからっといたから。もう、持ってこなくてもいいから。」と言ってくれはったわけです。

で、「助かったぁ」と思って「はい、わかりました。」とその場を離れようとすると、そのi先生は「ちょっと待ちなさい。こっちに来なさい。」と人のいてない所に連れて行って「君、診断書がいらないように私が取りはからってあげたのだから、そういう時は『ありがとうございます』とお礼を言うものやろ。それを言わないのはイカン!」と、いままでの軽い調子とは全然違う、非常にキツイ調子で、烈火のごとく怒られたのです。

「こう言うときは、ちゃんとありがとうと言いなさい!ありがたいと感じているときに、それを言わないのは、とても良くない! すごく良くないことだ!」

とまぁ、本当にものすごく叱られたんですよ。烈火のごとく怒るとはこの事かというぐらいに叱られたのです。それまでが軽い調子だっただけに、無茶苦茶に心にグサッときたわけです。

本当に「i先生のおかげで助かった〜」と思っていただけに、「ありがとうございます。」の一言を言わなかった、言えなかった自分が、それはもう、顔から火が出るほどに恥ずかしかったんですね。
恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいの勢いです。

で、そうやって叱られてはじめて、「助かりました。ありがとうございます。」と言って、それで許してもらえたんですね。で、そこから後は、もう別に何のおとがめもなし。そのままでした。

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当時、この出来事が、僕にとってどういう意味があったのか、自分でもまったく自覚はなかったんですが、この事件の後、僕の高校での生活は一変してしまったんですよ。自分でも理由はまったくわかってなかったんですけど、部活にも入り、彼女もでき、180度異なる高校生活を送る事になったんですね。

高校前半と後半では、まるっきり違う人間なのではないか? というくらいに生活のパターンから、モノの見方から、すべてが変ってしまったんです。

で、多分、僕自身の内面の変化は「二日間のサボリ事件」が一番大きかったはずなのですが、なんでそのi先生の「叱り」が、そんなに効果的だったのかが、ずっと自分でもわからなかったのです。

多分i先生は、僕の「サボリ」はわかってらしたんだと思うんですよ。ただ、それを問いただしても、言い逃れするだけとわかってたから、そのまま嘘を嘘として芝居として付き合ってくださったんでしょう。で、その嘘の芝居の上で、「ありがとうございます」と言うべきところで言わなかった僕に対して叱った。つまり僕にとってわかりやすい、有無を言わせず「ああ、僕が間違ってるな」とはっきりしている状況を作ってから、そのタイミングで叱った、という事だと思うのです。

いや、なかなか大した先生なんですけど。実にありがたい先生で、僕はいまだに忘れられない方です。

でも、じゃあ、「叱られて恥ずかしい想いをしたこと」と、「充実した高校生活」。これが、どうつながるの? というと、全然つながらないわけですよ。自分の中での論理的なつながりが全然ないわけです。さっぱりわからない。

わからないんだけど、自分としてはその「二日間のサボリ事件」こそがスタート地点なんです。そこから変わった! というのが気持ちの上で、はっきりとあるわけです。でも、何故そうなったのかの説明が全然、さーっぱり、まったくできなかった。自分でも何故そうなるのかがわからなかったわけです。

でもね。
最近ようやくわかってきたんですね。

これはつまり「自分の事を恥ずかしく思う」ことで「感じる心」を取り戻したって事なんです。簡単に言うと。

自分のやっている事が、恥ずかしくて恥ずかしくてしかたない。顔から火が出るほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。そういう気持ちになったからこそ、「感じる心」が取り戻せたんですね。

それまでは多分「自分の心を感じないように」と、リミッターをつけていたんだと思うのですよ。なんせACですから。嫌な事や辛いことから逃げようとしますしね。「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまう。けれど、感じる心を弱くすると、当然ながら「喜び」とか「楽しみ」を感じる心も小さく小さくなってしまうんですね。だから「(助かった〜!)ありがとうございます!」という感謝の言葉が出てこない。

ようは、そういう構造になってしまってるわけです。

だから、このi先生の「叱り」は、僕の感情のリミッターを外すのに、とても効果が高かったわけです。「恥ずかしい!!!」と思う心こそが、幸せを感じる心そのものなわけです。だって、まさに「感じる能力」そのものですから。

まず、この「感じる心を取り戻した」というのが、おおきなひとつの原因なんですね。

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で、もうひとつ別の側面での原因があります。それは「社会的規範の内的獲得」とでも言いましょうか。「自分の判断は間違っていない」という自信みたいなものが生まれたという事でもあります。

つまり「父性」の獲得というような事なのかも知れません。

前にも書きましたけど、うちの父は、父親にも母親にも見捨てられたような状態で祖父母に育てられた、苛酷な子供時代を過ごしていたので、父性も母性も、あまり得られなかった人なんですね。だから当然のごとく、僕も「父性」を得る事無く育っていたのでありますよ。

でも、この「i先生」に叱られて、はじめて僕は「父性」とは何かを体感したという事なんだと思うんです。

別の言い方をすれば、「正しい価値基準の獲得」とか、良い意味での「権威主義」の獲得という事かもしれないですね。

もっと別の言い方をするなら、線グラフとか棒グラフを書く時の「原点ゼロ」の獲得と言っても良いかもしれません。基準点、ってことでしょうね。

何が正しくて、何が間違っていて、という事が、親には教えられていなくても、そして、自分にはわからないものであったとしても、それは家の外の社会にはキチンと存在していてるって事ですね。それがわかったんだと思う。

家の中の基準値しか知らなくても、子供は家庭の外へ出ます。社会に触れます。社会に触れている自分の中にも、友達との関係とか、いろいろな情報源とかから善悪の判断例とかをいろいろ体験してますし、実感してきています。そういう経験の蓄積があります。

その経験を統合して、自分なりの「善悪の価値基準」みたいな事は、親に教えられなくても、多少は身に付いてきてるわけです。まさに「親はなくても、子は育つ」という奴です。

ただ、そういう実感は育ってきていても、身の回りの人間関係にキチンと反映させるだけの「確信」がないわけですよ。「これで正しいのだ」という自分自身への信頼がない。自分の心の中の価値観と親のやっている行動や、家の中のルールとが、うまくかみ合わない。(そらそうですわね。親がそういう「正しい社会ルール」を知らないのだから。それはしょうがないです。知らないものはしょうがない。)

そういう「家の中と外との違い」みたいな事を考えると、どっちが正しいのかわからなくなって(なんと言っても、自分の家が一番気楽ですから、家の中のルールの方が正しいと感じがちなんですね。まだ幼いから。)自分の判断への信頼がゆらぐ。自分に自信が持てなくなってしまうわけです。だから何事にも真剣になれないし、中途半端だから、友達もできないし、学校もおもしろくないわけです。「帰宅部」をやってるしかなくなってしまう。

でも、それでも高校で1年半は過ごしているわけですから、「自分の中に育ってきた基準」というのは、実はそれなりに出来上がっているわけです。で、その基準に照らし合わせて「良い」ことなら、やっぱり良くて、「悪い」事ならやっぱり悪いんだ、という実感が、この「I先生のキツイ叱り」によって、持てた、という事なんだと思うのです。

「感じる心」を取り戻したことで、自分の感じ方そのものに自信が持てたって事ですね。

「あ、やっぱり恥ずかしいと思うような事はしたらアカンのや!」という自覚が持てた。だから「自分が恥ずかしいと思うような事は最初からしなければええんや!」という自覚が生まれた、という事ですね。

「悪い事してるよな」と思っている時に叱られると「あ、やっぱりこれは悪いことだったんだ」という自覚が生まれて、自分の「悪いことしてるよな」という感覚自体が正しいとわかる、という事なんです。

つまり、「自分が家の外でなんとなく蓄積してきた倫理観は間違っていなかったんだ」という確信を得られたという事なんですね。そういう効果が、この「i先生」の叱りにはあったんです。

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で、この自信は、この「顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした」からこそ得られたわけです。

あれだけ恥ずかしい想いをしたのだから、もう二度とあんな恥ずかしい事はしたくないという気持ちでもあります。で、それは「家の中の特殊ルール」ではなくて、自分が小・中・高と、身の回りの人間とやりとりしてきた中で得られた事で判断しても、大方間違うことはないんだ!という、そういう確信につながったんだと思うのです。

「自分で『悪い』と感じた事に対してはちゃんと謝ればいいし、『うれしい』と思った時には、ちゃんとありがとうと言えばいいんだ。それだけの事なんだ!」という確信が得られたということだったんですね。

当時はそこまで論理的に整理は出来てなかったのですが、いまにして思えばそう言うことだったんだと、よくわかるのです。

6月2日の日記「『感じ方』は自由なのか?」でも書いた事ですけど、世の中には「大事なところに引く赤線」があって、それは「自分の興味で引く緑線」とは別にあるんだ、と自覚できた瞬間だったんだと思うのです。

風邪でもないのにガラガラ声で電話して休む父親の社会に対する態度とは別に、「自分の感じている事を正直に出さないのは良くない!」と叱りつけるi先生のような社会的な正しい権威もちゃんと存在しているという事なわけです。

それが僕の中ではっきりとわかったという事なんだと思うのですね。

それはつまり、何が恥ずかしい事で、何が恥ずかしくないかという「価値判断」の軸が自分の中にもちゃんと存在していて、それは先生が言ってる事が「正しい」と分かるくらいにはキチンとしたものなのだ、という事なんです。

●先生の言うことももっともだ。

と思えるから、叱られたことが「恥ずかしい」わけですからね。
三色ボールペン勉強法で言うなら「ここは赤線だ!」ってわかったって事です。で、家の中のルールは「あれは緑線だったのか。」と整理できた、という事でもあるわけです。

別に否定する必要はないけど、緑線は赤線ではない。で、やっぱり大事なのは赤線であって、社会的に求められるのは「大事なところに引く赤線」なんです。「自分の興味で引く緑線」ではない。

だから、そういう倫理観が、このi先生に叱っていただいた事でキチンと確立されたんです。自分の倫理観に自信が持てるようになった。「機能するルール」を見つける事ができたって事なんです。概略そういう事なんです。

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で、30年近くもたって、やっと本格的にわかってきたことは、ちゃんと赤線を引く作業をし続けている人は、同じ時に同じタイミングで同じ部分に赤線を引くんだって事ですね。

高校当時も「自分の倫理観は、ちゃんと高校生活には通用する、機能する感じ方なんだ」という確信は得られてたのですが、歳を重ねるごとに、その通用する範囲が広がってきてるんですね。

単純に言えば書物等をちゃんと「大事な部分に引く赤線」を意識しつつ読むことで、歴史という「時間」の拡大と、海外という「空間」の拡大が得られてきたってところがあります。(時間軸・空間軸を拡大するのはすごく意味があります。より大きな視点が得られますから。)

視点を広げれば広げるほどに「より大きな太い赤線」というものを感じ取れるようになっていきます。

アダルトチルドレンの知識もそういう「大事な赤線」のひとつですし、トルストイの言う「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」も「大事な赤線」そのひとつでしょう。

自分一人でいるときは緑線だけで良いけれど、自分以外の人間と関係を保つためには赤線こそが大事だって事なんですね、単純に。赤線は異文化をつなぐルールなんです。

だから、自分が赤線の存在に気付いてもいない人が緑線しかわかっていない事を理由に「赤線なんて間違いだ」とか「赤線なんて存在しない」とか言う人がすごく間違っていて腹が立つわけです。人間関係そのものを否定している。他者と交わるためには、緑線をいったん横において、赤線を優先させないといけないんです。

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なのに、6月2日の日記で書いた若冲展に並んでいた男みたいに「国語のテストが間違ってる」とか、「自分が知らない・わからない」事を理由に、「大事な赤線」の存在を否定するというアホの極みをやる奴が出てくるんですね。

これは本当に困った事なんです。

赤線の存在自体を理解していない。ものすごく重大な欠陥なんです。

で、ものすごく重大な欠陥だからこそ、そこに気付いている、この男の彼女は、やさしくていねいな口調で「それは受け取る能力がないってことなのよ」と事実をちゃんと伝えてあげてるわけですね。

でも、この男はそれでも「論説文ならわかるけど、小説の場合は感じ方はいろいろで良い」と屁理屈を繰り返しこねるわけです。

なんでか?

感じたくないわけですよ。
自分が間違っているのだ、という事を感じたくない。

なぜ感じたくないかというと、心にグサリと痛みを感じるからです。痛いからイヤって思ってる。
まぁ、それも無理ないのかもしれない。ACの場合は子供の頃に、そういう痛みから逃れるために「感じないように」屁理屈こねるクセがついてしまってますから。

でも、ほんとうに、この「痛み」こそが「感じる心」そのものですから、この痛みを避けるというのは自分の感じる能力を否定していることにしかならない訳なんですけどね。「受け取る能力がない」のも当然なんですよ。痛みを避けてる=自分の感じる心を否定している、だから。

痛いのがイヤで「恥ずかしい思いを避けている」という事なんですけど、本当に単純にそれだけの事でしかないんですよね。そんな痛みなんて一瞬なのに。すぐに自然に痛みがおさまって、もっともっと大きな気づきにたどりつけると言うのに。

多分、恥ずかしい思いをする、と言うことこそ、自分の倫理観に自信を持つ、最上のチャンスなんですよ。実際には痛いけど(笑)


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で、少なくとも僕にはそういう経験があるから、やっぱりACに対しては、ついつい「叱」ってしまうんですねぇ。i先生みたいに上手には叱れないけど、とにかく叱る。

「お前は恥ずかしい目をしないといけないんだ! 恥ずかしく思え!」と鬼のように怒る。どうしても、つい。

まぁ、それだけ高校の時の体験が強烈だったと言うことでしょう。大事な事だと思うから強く叱っちゃう。

でも、この「感じ方はいろいろ」という男みたいに、ACは、そうやって叱られると「揚げ足取りばっかりするな!」と、反発するんですよねぇ。

赤線の存在を知らないから、それがどれだけ大きな欠陥であるかがわかってないんです。

だから、問題がとても小さな事だと勘違いしてるんですね。だから「揚げ足取りだ」とか思おうとしてしまう。

でも本当はそうじゃない。知らない事こそ大問題だし、その原因は、「恥ずかしい思い」を避けてるから、なんですよね。で、ちゃんとした倫理観なんて、自分が恥ずかしい思いをしなけりゃ、身に付くはずもないのですよ。

痛みの中にこそ「ありがとうございます」を素直に言える、「自然と赤線を引ける自分」への道が待っているのに、その入門口である「恥ずかしい思い」を避けてるんですね。

まぁ、当人がその門をくぐらない限り、幸せへの扉は開かないのですけどねぇ。痛いのがイヤなんだろうなぁ。ちょっとは痛みも感じろっちゅうねん。アホが。って思うわけですが。

でも「わからないから知らない」彼らは「知らない事は間違っている。」と言う。

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できない。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
とわかってない言い訳を繰り返す。

そんなアホな! と僕は思う。
ちゃんちゃらおかしい。子供の理屈だ。
単に「知らんだけ」やんけ。
で、知ろうとしてないだけやん。
で、なんで知ろうとしないかというと、自分の過ちを認める恥ずかしさを避けてるだけ、という堂々巡りがあるだけ。

あーつまらん。

間違った事を言ったら「間違ってました、ごめんなさい。」と言うと決まってるし、それをしないと人間の関係性は成り立たない。生き方は無数でも言うべき事はひとつで、それが「機能するルール」です。

で、ここには、この僕が体験して大転換が起きた「恥ずかしい思いを受け取る」という、大きな溝があるよなぁと、つくづく思ってしまうのです。痛みをキチンと受け入れる。それが大人になるためにどうしても必要な心構えなんですけどねぇ。

まず、自分が間違った事をした時、言ったときに、キチンと「恥ずかしい思い」をしないといけないんですよね。そうでないと正しくゴメンナサイなんて言えないし。

で、その間違いを指摘してもらえた時には「間違いを指摘してくれてありがとう」と言えなければならない。それ以外に取るべき態度はないのです。そんな所に「多様性」なんかない。それは緑線ではなくて赤線としてこの社会にキチンと存在していることなのです。

ただまぁ、ACのほとんどは赤線の存在自体に気づけてなかったりするから、気づくのは大変なんやけどね。
で、だからこそ、僕は自分の体験から「恥ずかしく思え!」と言うんですが、それはACからしたら、恥ずかしさを強要しているようにしか捉えられないんですねぇ。困ったことに。うむー。
だから「小さな事をギャースカ言う、揚げ足取りだ!」とか言うんですよね。ACは。

赤線の存在が実感できないってことが大問題だからこそギャースカ言うわけですけど、彼らはそれを「小問題」としか思ってないのだから本当に不幸だと思う。

ま、僕自身まだまだ「自分の間違いを認めて恥ずかしい思い」をしていかなきゃと思っているので、相手してられないんですけどね。

ま、そういうことです。
おとといの「感じ方」は自由なのか?で書いた事の続きなんですけど、ふと気付いた事があるので、ちょっと書いてみます。

「感じ方は自由なんだから、人それぞれでかまわない。」という言い方が、なんかすごく不自然でおかしなものに思えていて、なんでだろう? って考えたんですけど、わかりました。

それは、

●自分が「感じて」いる時に、他の人の「感じ方」を考えてるヒマなどあるはずがない。

からなんですよね。

最近、この問題を考えていて、昔、顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした時のことをいろいろ振り返ってたんですけど、ほんと、恥ずかしくて恥ずかしくて「穴があったら入りたい」とか想ってる時って、他の人がどう感じているか? なんて考えてる余裕はないですよね? 思いません?

わっちゃー、えらい失敗してしもた!どうしよ。恥ずかしい!かっこ悪い!うげー!

って感じですよね。
そういうもんやと思う。

こういう風に「感じている最中」に、ほかの人がどう感じるから、私はこう感じるとか、そんな七面倒くさいことができるはずがないよねぇ。
感じる時は自動的に感じるもので、他の人がどうとか判定してるヒマもないですよ。

だから「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方自体にえらく違和感を感じるわけですわ。

多分、そういう言葉って、いったん自分が感じている事を中断して、他の人と比較して、それで「感じていいかどうか」を測定してるんですよね。

いったん「感じることをやめて」回りを見てから感じようとしてる。
「いろんな感じ方があっていいのだ」という言い方には、そういう不自然さがあるなぁって気付いたのです。

感じるっていうのは、自動的に起こる事だから、そこで「感じないように」していない限り、「××な感じ方があっていい」という言い方は出てくるはずがないって思うわけです。

ものすごい不自然やわなぁ。

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で、この話に伴って、高校時代に体験した出来事が、僕にとってすごく大きな出来事だったのだと、いまになって気付いたので、また書きます。

ああ、そうか、そういう事だったのかと、いまになって気付いたのですよ。
僕にとって、けっこう深い重大な気づきです。
ま、それはまた書きます。
「感じ方」は自由なのか?
今日は京都相国寺で催されていた若冲展が明日最終日という事で、「これは見に行かねば」と見に行って参りました。

その様子はmixiのほうで書いたので、まぁ、また転載しますが、ここでは、そこで並んでいた時に、隣にいたカップルの会話が耳に入ってきて、久しぶりにイライラっときたので、ちょっと愚痴るつもりで書きます。

とにかく若冲展は異様な人気で、待ち時間が無茶苦茶に長かったのですが、そうなると、そういうカップルの言い合いというか「かみ合ってない話」とかも聞いてしまうわけですよ。

で、話の内容はようするにこういう事です。

●学校の国語のテストで、問題に小説等が選ばれて「この文章があらわす心情を述べよ」とかあるけど、あの設問はおかしい。

と、男が主張してるわけです。

●感じ方は人それぞれなんだから、小説でそれを問題にすることがおかしい。

と言ってるわけ。

で、女の子の方は、

●いや、それは「受け取り能力」を測るものだからそれで良いのだ。作者がどういう意図で、そう表現しているのかを、「受け取る」こともできなければ、それはコミュニケーションになっていない。

と男の考え方を全面否定した事を言ってるわけです。いや、言い方は、すごーく優しい言い方なんですけどね。でも、ようは男の意見をまっこうから完全に否定してるわけです。

で。

結論から先に書きますけど、これは、この女の子の方が完全に正しい。
確かに「受け取り方」は自由ですし、どう感じようが受取手の勝手ですが、文章には作者というのがいて、その作者が意図していた内容があるからこそ、文章は文章として成り立っているわけですよ。

だから、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。

ところがだ!

こういうバカに限って「感じ方は人それぞれなんだから。」という事に無茶苦茶にこだわるわけですよ。

で、しつこく言うわけ。

「いや、そりゃさ、論説文とか解説文とかで意味の読み取りとかが大事っていうのは分るけど、小説では受け取り方は自由でええやんか。感じ方は人それぞれなんだから。」と、くだらぬ食い下がりをしてくるわけ。

聞いてて、イライラっと来ましてね。ムカムカきた。
そんなものね、感じ方はいろいろだけど、全然重ならない、個別事情を抜きにして、「悲しい」心の動きには「悲しい」という言葉を割り当てて、その意味と「感じ方」を共有してるからこそ、言葉に意味があるんやないか、ドアホが! お前が「理解する能力」「自分が感じた事を複雑な言語表現で的確に理解する能力」がないだけの話やないか!アホか!

としか思わなかったわけです。

自分の心で起こった感情が、世間一般で言う「悲しい」なのか「怒り」なのかの区別もついていない、「感じる能力」の欠如した人間だから、「感情を表現するとはどういう事か」がわからなくて、「感じ方は人それぞれで良い」という言い訳に逃げてるだけやんけ! っちゅうことなわけですよ。

まえに、ここの日記でも紹介しましたが、例の齋藤孝さんがやっておられる「三色ボールペン読書法」が、良い具体例なんですね。

日本の小説の名作を生徒達に読ませて、「大事と思う所には赤線を、個人的に興味を持ったところには緑線を、大事かどうかわからないけれど、少しひっかかったところに青線を引きなさい。」という風に教えて、三色ボールペンを手に読書指導していくと、「読み込む力のある生徒」は、徐々に赤線を引く場所が共通化されていくって言うんですね。みんな同じ場所を「大事」と思うようになるって事なんです。

って言うか、これはね、それが当たり前なわけですよ。「こう読み取って欲しい」と思って作者は書いているのだから、キチンと読めている人の「大事なところ=赤線」の位置が同じになるのは当然なのです。そうでしょ?

当たり前。
自明の理。
それがバラバラだったら逆におかしい。

緑線はどこに引こうが勝手だけれど、赤線はみんなが同じなのが当たり前なんです。

この、すごく大事なことが、このバカな男にはわかってないわけですよ。
ほんまにアホやと思う。

でも、この「感じ方は一人一人自由だから」というのを、延々、延々、繰り返して主張しよるんですよね。

違うっちゅうねん。それはお前がアホなだけや。

世間にはちゃんと赤線と緑線の区別がついていて、赤線は赤線として処理できる「受け取り能力」のある人がちゃんといて、お前にはその「大事なところはどこか」を読み取る能力がないというだけの話なんじゃ、ボケ!

と、懇々と説教したくなる衝動を抑えるのに苦労しましたですよ。ほんとに。

ようは、自分が「アホ」であるという事を認めたくないだけの話なんですよ。

回りはみんな「ここが大事なポイントだ!」と分っているのに、自分だけわからない。それはつまり「理解する能力がない」という事でしかなくて、ここで「ああ、俺には能力がないんだ」と状況が分れば「理解する能力を身につけなくてはいけないんだ」って方向に進むこともできるんですが、それを「感じ方は人それぞれ」という屁理屈に逃げてるわけです。

まぁだいたい8割の人が、同じ位置に赤線を引いてるのに、この男は、みんながなんでちゃんと同じ場所に赤線を引けるのかがわからなくて、緑線を赤線だと言い張ろうとしているわけです。

いやー、それは通用せんのよ、やっぱり。

自分が赤線を引く能力がないことを理由に、「赤線なんて要らない!おかしい!」と主張してるにしか過ぎないわけだから。
それはやっぱり通用せんのよなぁ。可哀想だが。

で、実は人間が成長していく過程というのは、こういう場合に「あ、俺は分ってないんや」と気付く事が最初に必要なわけですよ。
その気づきがない限り、永遠に緑線と赤線の違いがわからないままですから。

ほんとにね、腹が立つのは、こういう「赤線の存在」が分ってない奴は、自分がわかっていないという事を理由に「赤線なんてウソだ!」とか平気で言うって事なんですよ。

お前、何無茶苦茶言うてんねん! っちゅう事なんですけどね。
でもそういう事を言うんです。こういう人は。

実際、このアホな男の「読み手の感じ方はそれぞれ。国語の問題にそれを出す事がおかしい」論こそ、まさにこの「自分がわかってない事を理由に、世間に流通している常識を否定して平気」というアホの極みなんですけど、これがいかにアホな話であるかを、たぶん、このアホな男はわかってないんですよねぇ。

まぁ、普通なら近づきもしないんですが、さすがに展覧会で並んでいると、イヤでも耳に飛び込んできますからなぁ。もう拷問に等しかったですね。

じゃかぁしわボケ!お前がアホなだけじゃ!
テストの点数が悪かったからと言って屁理屈こね回した言い訳するなドアホ!
お前が「どこが大事か」をわかってないだけじゃ。それを「個性」とは言わん!「アホ」と言うのじゃボケナス!

と言いたかったですがね。

まぁ、これ以上言うとケンカにしかならないとわかったらしく、賢い女の子が黙りましたけど。

ほんまにアホな奴でした。
自分がアホなだけというのが分ってない。
可哀想なものです。

で、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんですよね。

いつまでも「感じ方はそれぞれや!」と緑線の事しか言えないから、赤線の存在に気付くこともできないわけですからねぇ。

ま、そんなことを感じた今日この頃でございます。
例の「裸の王様のやるべきこと1/2」が発端となって、いろいろコメントがついたので、整理の意味も兼ねて、また、いろいろ書きます。

今回は、「一番大きな枠組み」について書きます。
最近わかった事は、

●ACの回りはACだらけ
であり、
●ACは、「全体枠組み」を理解してない
●ACは、機能するルールと機能しないルールの区別がつかない。

ということが、最も問題だと気付いたという事です。

それに加えて、ACの場合は、

●「権威」への過剰反応。
●実感のない行動を「学ぶ」困難。

という2つの「ハンデキャップ」があるというのが僕の意見なので、そのことについても書いておきます。

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まず、大きな構造の把握から考えていきましょう。

もともとAC(アダルト・チャイルド)とはAdult Child of Alcoholics(アルコール依存症家族で育った人)だったわけですが、その後、多くの不幸な親子関係に同様の状況が見られたと言うことで、

●Adult Child of Dysfunctional Family(機能不全家族で育った人)

というように呼び名が変ってきていますよね?
じゃあ、なんで「機能不全」って呼ばれるのよ? って事なんですね。

アルコール依存だけでなく、バクチ狂いだったり、子供との共依存だったり、さまざまな状況はあるけれど、この言葉はそれらを「機能してない家族」という呼び名でまとめてるわけです。ひっくるめて「機能していない」んです。

では。

「機能する」というのはどういう事か? 大事なのはここです。
「機能する」というのは「人間関係が円滑に機能する」って事なんですね。当然家族関係も人間関係ですし、家族関係こそが人間関係の基本ですから、ここが歪んでるとどんな人間関係も、円滑に回らないって事になる。

で、こここそが、一番大事なところなんですが、ACというのは、

●「機能する関係」を体験したことがない。

ってことなんですよ。人間関係が円滑に回る体験をしていない。

普通に「機能している親子」などであれば、ここでの「機能する」という事がどういう事なのか、すぐにわかる。親が子供のために稼いできたり、ご飯を用意したり、社会で生きていくための基本ノウハウを教えたりするってことです。

特に注意したいのは、社会で生きていくための基本ノウハウの部分ですね。これは「しつけ」と言い換えてもいいですが、ここでは分りやすく簡単に、

●間違った事をした時に「ごめんなさい」と謝る。
●知らない事を「わかりません」と素直に言う。
●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこぶ。

という3つの言葉で代表させておきます。
「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」という言葉を発するタイミングと使い方を日常で正しく「普通」に使うって事です。

こういう基本ができてないと、人間関係が円滑に回りません。通常、「機能している家族関係」では、これらは普通に行われています。機能する、というのは、そういう人間関係が円滑に回る、という事を示すわけです。

これらの対人行動は、分っている人には「何を当たり前の事を…」と思うような事なんですが、逆にACには、この「当たり前」の事が理解できないのです。

ここのところの溝はかなり大きいのです。

幸福な環境に育った人間は、こういう当たり前の話を書くと「そらそうやろ!当たり前ですがな。」と感じるのですが、ACだらけの機能不全家族で育つと、こういう当たり前のことを「単なる建前でしょ。」とか「とおりいっぺんの表面的な考え方だ」とか「絵に描いたような当たり前さがウソくさい」と捉えてしまうのです。

何故ACが、こういう話を「建前」と捉えてしまうかというと、こういう当たり前の対応によって、「人間関係が円滑になった」という体験を家庭内で、ほとんどしていないからなんです。

「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」と口にすることで、身の回りの人間関係が好転していったという体験が非常に少ないのです。だから「ウソ臭く」感じるのですね。実感を持てないわけです。

しかし、ACではない家庭では、こういう言葉が、ごく普通に使われるわけです。だから実感として「必要なことだ」というのが分っているし、「大切だ」と経験則で身に付いているわけです。実感がある。

この、「実感がある」というのと「実感が持てない」という大きなギャップがあるがために、ACにも理解できる言葉として「機能する」という言い方が出てきたのだと思うのです。

「自分の行動や言動が、自分の幸せ達成や、身の回りの人間関係の好転に役立ちましたか? どうですか? どうせなら、役立つ行動をした方が良いですよね? 冷静に自分の行動・言動が自分の幸せ達成に対して効果があったかどうかをチェックしてみてくださいね。」

というのが「機能」という言葉の意味するところなんです。
普通の人間なら、「当たり前の挨拶を大切にする」とか言えば、それだけで「良いことだ」という実感があるわけですが、ACには、その実感がない。あっても弱い。

もちろん、「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」というのは、ひとつの例として出してるだけで、そのほかにも色々なパターンがあって、ACは、それらの「機能するノウハウ」を、さまざまな分野において、たくさん学んでいかないといけないのです。(逆に言えば、学べば身に付くし、人間関係も円滑になって「必ず」好転するって事で、学びがいはすごくありますが。)

実際の話、ACが、これらの決まり文句を言うべき場面に遭遇した時に、どういう行動・言動をしがちかというと、

●間違った事をした時に「こういう考え方もある」と別の考え方を述べて言い逃れをする。
●知らない事でも「知ったかぶり」または「無視」して権威(自分の精神の安定)を保つ。
●ほめてもらっても「いえいえ、大したこと無い」と自己卑下する。(喜び・興奮の拒否)

という事が多いのです。

まぁ大抵は「心の痛みを感じないようにするための防護手段」なんですけど、子供の頃から「感じないようにする」ばっかりやってるから、「感じたときに、どう対応するべきなのか」がわからなくて、とにかく「感じずに済む」方法を選ぼうとしてしまうんですね。

僕自身がACだったので、このあたりの精神構造はよくわかるのですが、いろいろ学習する中で、たとえば

●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこびを示す。

というのは、必要な事だと理解したので、意識して「ありがとうございます」と口にするようにしました。学習して身につけたということです。

仕事の上で「●●の評判、良かったですよ。」とか言われた場合、いつも「いえいえ、大したことはしてません」という謙遜した言い方をしていたのを、まず「ありがとうございます」とほめてもらった事に対する感謝の言葉を、真っ先に述べるようにしたんです。

この時、僕はACですから、そう言う事が当たり前だという「実感」もないですし、正しいという感覚もなかったんです。でも、いろいろ本などで知識を仕入れて、どうやら、そういう具合に口にすることが「機能する態度なのだろう」という予測はついたので、実際に試してみた、という事です。

そうしたらどうなったのか?

考えてもいなかった事が起こりました。まずひとつは気恥ずかしい思いでした。大したことしてないのに、ほめられて「ありがとうございます」と言ってる自分が面はゆいというか、気恥ずかしいのです。(幸せな、普通の人にはわからない感覚かもしれません。)

でも大事なのはその次で、次の瞬間に「ああ、でも、この人は本当に心からほめてくださってるんだ。ありがたいな。」という気持ちが湧いたのです。「ありがとう」と言うから「感謝の気持ち」をキチンと心から体験できたのです。言葉にあとから感情がくっついて、やっとこういう場合の「ありがとう」の感情を手に入れる事ができたわけです。

これを体験できただけでも大収穫ですよね?

でも、実は、まだまだ後が続きます。

そうやって、相手の方からのほめ言葉をキチンと受け取ると「ああ、そうか、少なくとも僕は、目の前のこの人からほめられる程度のキチンとした仕事はやり遂げているのだな。」という実感が生まれたのです。そういう「自信」が湧いたのです。

自信であり、自己肯定感であり、自尊心ですね。そういう思いが生まれたのです。

これは、ほめられたら反射的に「いえいえ…」と謙遜ばかりしていた時には感じることのできない体験でした。「ありがとうございます」と、相手に対して感謝するという事は、そのままストレートに自分の行動を認める行為になりまして、それは自分に感謝したのと同じ効果が生まれるんです。それを実感しました。

これもまた、本当に大きい気づきでした。

結局「いえいえ」と謙遜していたのは、AC特有の「感じるのが怖い」という恐怖心から、一番最初に訪れる「気恥ずかしさ」を回避していただけだったんですね。そこで「恥ずかしい思い」をするのが怖くて、それで「いえいえ」と謙遜していただけなんです。「感じる」ことから逃げていたわけです。

たしかに、大したことはしてないと思っていたから、「ありがとうございます」と言うのは気恥ずしいわけです。だから最初に「ありがとうございます」を言うというのは、小さな勇気は必要でしたが、でも、本当に、ただそれだけの事でした。

「感じない」ようにしていて、小さく閉じこもっているから、「気恥ずかしさ」の次にやってくる、本当の自尊心や感謝という大きな果実を味わえないわけです。

で、話はまだまだ続きまして、この「ありがとうございます」と、まず一言言うというのは、「いえいえ」と謙遜するより、実は手間のかからない簡単さがあるんですね。

考えたらわかりますが、「いえいえ…」と言い始めた限りは、「いかに大したことないか」というのを説明する手間が必要になるんです。どういうところが大したことないのか? というのを個別具体的な事例に沿って、微に入り細をうがち、「自分がいかに大したことをしていないか」を解説するという手間が絶対に必要になるんですね。

ところが、まず「ありがとうございます」と感謝の気持ちさえ述べてしまえば、そこでコミュニケーションの基本は済んでるわけです。だから、「いえいえ」と謙遜するのは、あくまでオプションで、どうしても言いたい、という気持ちが強い時にだけ言えば良いことになるわけです。

これに気付いたとき、いかに楽だったか。

逆に言えば、いままでひたすら謙遜していた作業が、いかに面倒で、手間で、その割に「機能」していなかったかが、はっきり分ったのであります。

つまり、「個別事情を語る」というのは、ものすごく手間で、その割に効果がない、「機能しない」という事なんです。まさに「機能不全」そのものです。でも、「感じないようにすること」を子供の頃から頑なに守っているACは、最初の「気恥ずかしさ」を感じるのを避けるがために、ものすごい労力を使って、「ありがとうと言えば良い」というルールから逃げるわけです。

もう、ムダの極みなんですね。

こういう類の「ルール」は、世の中にたくさんありますが、それはひとつずつ学んでいくしかないわけです。

しかも!!!

ACは、親から「機能している関係」を学んでいませんから、親が「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかを言ってる場面に遭遇してなくて、それが実感として良いこととはとうてい思えないわけです。

それは「知らない」からなんですね。
体験してないからわからない。

でも!

ここで多くのACが間違うんです。「そういう時の『ありがとう』は実感を伴わないから偽物だ!」って感じの間違い方です。自分の実感がないから偽物で「お題目」と認識してしまう。

いやいやいやいや、いやいやいや。

それはね、あなたが「知らない」から実感がないだけで、でもって、「知らない」のだからこそ、学ばなければならない事柄なんですよ、と、すでに学習した私は言うわけです。

結局ACは、世の中に

●機能するルール

と、

●機能しないルール

が存在しているという事がわからないわけです。ACの親は肝心の「機能するルール」の簡単で便利で、深く自分の内面を育ててくれる「機能」の事を知りませんから、「機能しない」自分の身勝手を子供に押しつけてしまいます。

押しつけるどころか、それは「私が親なのだから、言うことを聞け」と権威で強制する拷問と化している事も多いわけです。「機能しないルール」を押しつけるわけですよ。

しかし、それは「機能するルール」が存在している、と言うことを知らないからなんですね。

で、子供の側は「機能しないルール」を押しつけられる事で「権威主義」が大嫌いになってます。だから、自分で納得できない「ルール」には徹底的に反発します。

確かに「機能しないルール」に反発するのは別に良いのですが、ACは「機能するルール」を体験した事がないので、「機能するルール」まで反発の対象にしてしまうんですね。

で、その時の言い分が「そんなルールを私は知らない。それは押しつけだ!」と言う言い方になるわけです。

しかし、子供の頃から「機能するルール」の「機能した体験」を持っていないACが、「機能するルール」を良いモノだと実感して受け入れるというのは、もう不可能に近いんですね。

ただ冷静に「機能するかどうか?」を判定した上で、「とにかく試してみる」とかをするしかない。
まぁ、ありていに言うなら「四の五の言わずにルールに従う」ってことを、とにかくやってみるしかないわけです。

だから、ACの現実として存在している「AC脱出のシナリオ」は、

●機能するルールを見つけて、それを学習して身につける。

しか存在してないわけです。しかも、その学習過程は、

●体験していない行動なので「実感」は伴わない。

んですよ。ここがACのハンデキャップであり、辛いところなんですが、こればっかりはしょうがないんです。「これだ!」と思ったやり方をコツコツ身につけるってことを、日々やり続ける。それ以外に道はないんです。

で、それをやっていくと、本当に「機能する」という事の快適さ、便利さ、気持ちよさ、幸福感というものが、どんどん味わえるようになっていくわけです。それはもう天と地の差です。

でも、ACは「感じないでおく世界」にとどまっている事が「自分の実感として正しい」と思い続けていて、それで「機能しない行動」ばかりを取るという事になるわけです。

で、悲しいのは、「親と違う行動を取っていれば、それは押しつけられたルールではなく、自分で選びとった自分らしいルールなのだから正しいのだ」と思いこんでるわけです。

いや、いやいやいや、いくら「自分らしい」と感じられても「機能しない行動」なら、意味はないし、そんなものを子供に押しつけたらダメですよってことなんですね。

そういう「自分勝手な自分らしさ」というような、正しいように見えて実は正しくない「機能しないルール」ではなくて、「ほめられたら、ありがとうと言う」とかの「正しいルール」というのを選び取らないといけない。

で、そういう「機能するルール」は存在していて、それを守らない限り、間違ったルールを押し通してる事にしかなってないんだよって事なんですね。

で、その間違ったルールを押し通してるから、子供に「正しいルール」を教えられなくて、ACが親から子へ遺伝のように伝わってしまうという、そういう構造なわけです。

個別には、自分の思いというのはあるし、謙遜のネタが全部個別的に違うのと同じように、個別にそれぞれ「思い」があるのも当然なんですけど、まず「ほめられたら、ありがとうと言う」というルールは、黄金のルールとして厳然と存在していて、それは守らない限り「機能しない」んですよ。

ところが、

●「機能するルール」と「機能しないルール」

の見分けもつかないACは「ルールはとにかく守って身につけるしかない」「四の五の言わずにやってみろ」とか言われると「機能しないルール」を押しつけられたようにしか感じられなくて、ひたすら反発します。少なくとも僕の知っているACまたはACとおぼしき人間、数人の反応は以下のようなものです。

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(あたりまえです。でも、共有すべきルールは厳然としてあります。)

もう、見事に「機能しないルールへの反発」が先に来るんです。
「ルールを守ることで、自分の人生が開けて行くこと」というところに意識が行かない。

共有すべきルールをキチンと守らないと、結局、損するのは自分なんです。

で、それを知らない・実感できないのは、親もACだったから子供の頃に教えてもらえてなかった、というだけの話です。

で、それを知らなくてもなんとかやっていけるのは、身の回りにいる人がACだらけだからです。

とにかく大枠として、世の中には、

●機能するルール
と、
●機能しないルール

というものがあって、ACはえんえん、親子代々、「機能しないルール」ばかりを身につけてしまう、ということなんです。で、そしてそういう悲しい事が起きる理由は、ACが、

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(共有すべきルールが見えてなくて、「押しつけを避ける」が先に来る。)

という間違った考え方に固執してるからなんです。
明確にそれは間違いで、それは正すより他に幸せになる方法はないんです。
単純にそれだけ。
機能しないものは機能しないのですよ。それは。いつまで経っても。

大事なのは、自分の「機能しないルール」をいったん横に置いて、「機能するルール」を試してみること。
それしかないんです。

で、この試行錯誤においては「自分の実感」であるとか、「自分の生き方」っていうのは全然通用しないわけです。
だっていままでそれで成功・機能してきた事がないんだから。それは絶対に無理なわけですよ。

で、こういう事を大前提に考えた時に、世界の文豪、トルストイの、以下の一言がすごい!と思ったのであります。

●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

すごい!!!!!

本当にすごい!

これ、まさにACの不幸をそのままに言い当てています。「ありがとう」の一言で済むところを、えんえん個別別個の「大したことない理由」を探し回る自己卑下の構造とか、完全にこれにあてはまります。幸せな人は、みんな、とってつけたように「ありがとうございます」としか言わない。仮に「大したことないですよ」と言ったとしても「ありがとうございます」と感謝した後にしか言わない。幸せな人はみんな一緒。

でも、不幸な人は「ありがとうございます」とは言わずに、いかに自分が大したことないかを一生懸命に考えて自己卑下する。確かに親と子の意見も自己卑下の理由も別個にオリジナルなものだったりするけど、「ありがとうございます」という「機能するルール」を守っていないという事では一緒。

まさに、
●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
って事なんです。

(まぁ、こう書いた上でトルストイは「一様な幸福な家庭など描いても小説にならん。さまざまに異なる不幸な家庭を描く。」と言った人なんですけどね。トルストイもACくさい。いや、わかりませんけど。)

ともあれ、一番大きな構図として、世の中には

●機能するルール
と、
●機能しないルール

があって、ACは、

●「良いものだ」という実感がなくても、「機能するルール」を学ぶようにしなければ、幸せにはなれない。

という事だけははっきりしてるんです。
この部分こそが、ACのハンデキャップなんです。
「機能するルール」を実感持って感じ取れない。
ACのもっとも不幸な点です。
そして「機能するルール」と「機能しないルール」の区別が付かず、「押しつけられたルール」すべてに反発するという間違いを犯します。
重要なのは「機能するかどうか」なんです。その行動で人間関係が円滑化するかどうか。良くなるかも知れないと想定できるなら、たとえ実感がなかろうと、気恥ずかしい思いをするのがイヤだと思っても、経験も実感も無いことを試すことに恐怖や苦痛を感じても、とにかく試してみるしかないんです。

それ以外に方法はない。
現実問題、ほかに方法はない。

で、不幸なままでいるよりは、幸せを目指した方がよい。

大枠の大枠として、そういう事です。

別に不幸なままでいたいなら、それはそれで自由なんですけどね。
でも、それはハッキリと「不幸」なんです。
まぁ小説のネタにはなるだろうけど。
5月4日に書いた「裸の王様のすべきこと」のその1・その2とも、なぜかとても反応をいただきまして、いくつかコメントをいただいたわけですが、その中でいろいろ実感できた気づきがいくつかありましたので、シェアする気持ちで書きますね。

ひとつは、AC(アダルトチルドレン)と気付いた人の多くが身の回りのACとの関係にけっこうとまどっているって事ですね。

で、これは考えたらものすごく当たり前の事だと思い至りました。
まず基本、親子関係のゆがみの中で育っていて、それが成長過程で「あるべき姿」に気付くわけですから、ようはそれまで気付いていなかった「ゆがみ」に気付いていく過程がACからの脱出プロセスなんだってことです。

だから、自分がACであると気付いた途端に、身の回りの関係のいくつもが「ヘンだ!」「気持ち悪い!」ってなるのは至極当然だったのですわ。

親子関係、兄弟関係、友人関係。ACであった人間は、すべての人間関係に、その「ゆがみ」を反映させ続けてきてるわけです。それはひっくり返して言えば「回りみんなが気付いてないAC」って事ですね。

このあたりは、考えたら当たり前の事なんですわ。

で、この「気づき」というのは、人それぞれでタイミングも違うし、学んでいる過程も違うのだから、それこそ「時が薬」で、待つ事を学ぶとかするしかないんでしょう、きっと。

で、学べない人はどうしても学べないから、それはもう距離を置くしかない。単純にそうするしか他に道はないってことでしょう。

整理すると、

●ACの回りはACだらけである
●回りのACの気づきは手伝っても良いが大抵は難しい。
●回りのACの気づきは当人まかせにするのが基本。
●あまり回りのACに関わると自分の成長が引き戻される。
●学べない人は学べないのだと受け入れる。

という事になるだろうなと思います。
当然、学べない人とは疎遠になるしかないわけですが、それはもう仕方ないですね。

自分がACだと気付いた人は、たぶん、みんな相当に苦労してるんやなぁと思いました。お疲れ様です。>みなさま。

で、そういう状況の中で陶子さんがコメントしてくださった、以下の文章が僕としては、とても大きな気づきになりました。

>「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」

という一行です。

「ああ、そうか!」と、改めて気付き直したという感じです。ACは、いろいろ自分の感情をごまかして生きていて、いろいろゆがみがあるわけですけど、その「ゆがんでいる状態」を「ありのままだ」と思いたいわけですよね。

いまにして思えば、確かに自分もかつてそうだったんだと思い直せるのですが、変化の過程で、そんなアホな思いこみは真っ先に捨ててしまったので、そういう勘違いを抱いているという事すら忘れてしまっていたのでした。

ACだと身の回りに歪んだ人間関係しか存在してないので、「ゆがんでるのが”ありのまま”だと認識してしまってるのですね。

でも、それは完璧に間違いで、「ゆがんでない人間関係の方が健全で、その方が気持ちも良いし、人生のすべての面において有益である。」という事なんです。まぁ当たり前の話ですが。

でも、こういう事を書いても、歪みのまっただ中にいてる人間は自分の人間関係に対する歪んだ感覚が「歪んでいる」とは気づけないわけです。
当たり前で、健全で、健康な関係を敵視するというか、健全さに嘘っぱちさを感じてしまうわけです。(ここがすでに歪んでるんですが。笑)

でも、確かに自分もそうだったよなぁって思うのですね。

じゃぁ、この歪みの矛盾を、僕自身がどうやって克服してきたのかなぁ…って事を振り返ると、いまにして思えば、ものすごく基本の基本からやり直してるわけです。

それはいったい何か? というと、「喜怒哀楽を味わう」ってことなんですね。

人間は生きている訳ですから、喜怒哀楽という感情が湧いてくるのが当たり前なんです。

だから、まずこれを、ゆったりと味わう事が「生きる」上での一番の基礎なんです。

人によったら「何を当たり前の事を書いてるねん」と思われる方もおられるかもしれませんが、ACというのは、実は、まずこの基本中の基本である「喜怒哀楽を味わう」というところが歪んでしまってることが多いんですね。

それこそ、「喜怒哀楽をありのままに味わう」という事が、まず出来てなかったりするんです。

たとえば、僕の場合だと、好意を持ってくれてる女の子の感情に気付かなかったとかですね。
まぁ一般的に「鈍感」とか言いますけど、ACの鈍感は天然の鈍感とはちょっと違っていて「気付いているのに気付きたくない」という、歪んだものになります。
気付くこと自体が怖いんですね。気付くは傷つくの第一段階でもあるから。

でも、しかし、そんな事してたら、人生はいつまで経っても始まらないって事になります。

で、まぁ、いろいろな過程は経ましたが、最終的に僕がたどり着いたのは「人生というものは喜怒哀楽を味わうためにあるものだ」という事で、それを自然に味わう事こそが人生の意味なんだって事な訳です。

傷つく事を恐れていて、人生を前に進める事はできない、って事です。当たり前なんだけど。
こういう基本の基本のところを、少なくとも僕は時間をかけて、ていねいに学んでいったし、その結果、自分がACであるという事も受け入れられるようになったんだよな、と、その過程全体を思い起こしたわけです。

で、裸の王様の話にもどりますが、裸の王様をやってる人間は、自分が裸の王様であることに気付きたくないわけです。

それはなんで気付きたくないかというと、気付いたら恥ずかしい想いをして、自分の心が痛むからですね。

自分の心を痛ませたくない。

だから、痛みを感じないようにする。

という事で「感じているのに感じていないことにする」とか「感じてはいけない」みたいな事を、えんえんやってるんですね。ACは。

しかし、現実は「痛みを感じる事が人生である」わけです。歩いていれば転ぶこともあるし、転んだらすりむくし、すりむいたら痛い。当たり前のことです。でも、すりむいて痛いから、歩かないでおく、なんてことはできない。なんせ人間は生きているから。

結局、痛みは進んで受け入れて、感じていくしかないんだと、ここは現実を受け入れるしかないんですね。痛みを味わう事も人生なのだから。

もちろん、痛みを感じずに成長できれば、それに越したことはないんだろうけど、小さな痛みを、まず受け入れて始めて、大きな痛みを感じなくて済むように「学習」できるという事が人生には付きものなので、やはり小さな痛みは受け入れるようにしないと、それは学べないわけです。

どんな痛みでもそうですが、痛みから逃げていると、どんどん痛みは深く大きくなって根治の難しい根腐れ状態になってしまいます。

ちゃんと痛みを味わえば「痛いなぁ、なんとかならんかなぁ」と思って、ちゃんと「手当」することを学びます。痛いのに「痛くない」などと歪んだままだと、まずこの「手当をする」という事ができない。

たとえば僕は最近はウクレレを趣味として心の安定を図ってますけど、これも、いくつも痛みを味わったからこそなわけですよ。「痛いのは辛いなぁ」と思うから、それを癒す「手当」の手段を得たわけです。だからこそウクレレが大好きなんですね。

これ、「痛みを味わう」という過程無しには、ここに至る事はなかったと思います。

で、痛みを怖がっていた間は、「痛みは癒える」という事がわからない。それを知らないわけです。

ウクレレの練習でもそうですが、学ぶという事は、自分の失敗を、失敗としてちゃんと認識して、そこを修正していく過程の事を言います。

こんなものね、初心者の間は失敗ばっかりですから、それこそ「痛み」の連続なわけですよ。

でも、まず最初に「自分の失敗を受け入れて味わう」という事をしない限り、傷は癒えないわけです。
これは、少し離れてロングスパンで見てみれば「自分の失敗を受け入れる、許す」という事な訳です。

つまり、
「痛みを味わう」=「自分を許す」
という事になります。

まず、これ。
これができないとダメなんです。
成長はない。

つまり「痛みから逃げてはいけない」なんですね。
「痛みとは人生の意味である。味わえ。」なんですね。

これが基本の基本なんです。
まず基本。

ところがACは、子供の頃に親との関係で、どこかで「感じてはいけない」という刷り込みがされてることが多いから、「痛みを感じて、やがてそれが癒えていく」という自然なプロセスを、受け入れないようにしていたりするんです。

いや、それは不自然やろ。物事の道理に反する。

って思うんだけど、そういう風に条件付けができてしまってるんだからしょうがないよねぇ。

だから「あんた、裸だよ」とか指摘しようものなら、全力で否定しにかかってくる。ようするに「痛みを感じないように」しようとするわけです。

いや、「感じないようにする」って事そのものが不自然だから、それ。

でもACは、その「感じる」って事すら「感じないように」していて、「感じない」=「ありのまま」だと勘違いしてるわけですからね。

これはかなり重症なんですよねぇ。

一番唖然とするのは、こっちが「あんた裸じゃん」と指摘したら、指摘されて恥ずかしい思い=痛みを感じさせられたから、「暴力をふるわれた」と言われた時ですね。

なんじゃそりゃ。

「わ、恥ずかし!」とか気付いて自分の間違いを修正していくのは、人生の成長には欠かせない事だから、有益だと思って伝えているのに「恥ずかしい=痛い思い」を感じさせるから暴力だ!と言われた日にゃ、唖然とするしかないんですけど、ACは感じる事自体を抑制してるから、こういう事になってしまうんですね。

でもねぇ。

まぁ、あれです。「喜怒哀楽を味わう」という、基本の基本もやってないなら、そら「痛い思いをさせた=極悪人」にもなるわなぁと。

生きていたら、気持ちよさを感じるのと同時に、辛さや悲しさも、キチンと感じていかないとダメなんだけど、自分に都合のいい感情だけ味わおうとか甘い事考えたりしてるんだろうなぁ。

痛い思いをするからこそ「二度とあの痛みは味あわないようにしよう」と注意深く、深みのある、回りに安心感を与えられる人間に成長できるわけで、痛みから逃げてる人はずっと小物のままですわねぇ。

まぁ、それも生き方なのかもしれないから、ほっておくしかないわけですが、手間はかかっても、基本の基本、「すべての感情をキチンと味わう事の必要性」あたりから、やり直してもらうしかないですわなと。

そういう、ステップの長さというか、学習の段階の違いみたいな事を感じた、という事ですね。

ということで、

●「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分」

なんて、完璧な間違いなんですけど、それが間違いであると気づけないんだからしょうがないですわね。

で、恐ろしい事に、こういう勘違いをしてる人は、「気づけない愚かさ」をこそ愛してくれ、それこそ愛だ、とか言う、とんでもない勘違いをしてたりするんですよねぇ。

いやー、それは「心の病気をうつしたい」というとんでもない暴力だから、さすがに逃げるしかないよー。って言うしかないんだけどねぇ。

痛いものは痛い、でも痛みは癒える、という自然で当たり前の感覚の中にいたら、そんな「感じないようにしている裸の王様になれ」なんて命令は聞けないですわね。あまりに不自然で。

「一生おしっこするな」

と言ってるに等しい。
でも、「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。

いや、それは無理ですから。
服を着てなかったら寒いと感じるのが当たり前ですから。
感じなさいって。
いやほんと。

まぁ、そういう気づきを、いろいろとみなさまからはいただきました。ほんと、ありがとうございますです。
こういう事が整理して理解できたので、イライラが相当に減りましたわよ。私は。ほんと、みなさまのおかげであります。

同じような事柄でイラついてる方も多いと思うので(ACと気付いた人の回りはACだらけの法則がありますからな。)、この気づきをシェアできれば幸いかと思いましたです。

ということで。
この数年、世の中の流れとか、社会の動きについて、知り合いと話をしたり情報交換するときに「ん?この人、随分遅れてるなぁ。世界標準の考え方とは、相当ずれてるぞ。」と思う事がどんどん増えてきたんですが。

これ、冷静に考えると、どうも、僕がお付き合いさせていただいている、お得意先の会社さんの影響が、相当に大きいのだ、ということが、最近になってヒシヒシと分ってきました。

ようするに、けっこう優れた会社なんですよ、この得意先さん。

初代で会社を立ち上げた会長(いまは相談役ですが)は、テレビにも出るし、本も出してヒットさせてるし、なかなか面白い方なんですが、その下で、雇われで動いていた番頭社長(故人)がすごく偉くて、この人のおかげで、世界的企業になったんですが、この番頭社長が、会長に対して「あなたの息子を社長にしなされ」と進言して、会長の息子後を継いだという経歴の会社でして。

この初代と二代目(息子)ってのが全然考え方が違って面白いんだよなぁ。親子で立場がまるっきり違うんよねぇ。初代はとにかくイケイケドンドンで、発想も面白いんですが、二代目はその無軌道な初代の尻拭きアンド整合性の確立に邁進って事になります。それはもう二代目(息子)は緻密に考えるタイプにならざるを得なくて、全然課題が違うんですわ。

これはもう、どこの企業でも同じでして、私のようにいろんな会社さんとお付き合いしてると、小さな会社から、大きな企業まで、初代(親)と、二代目(息子・娘)の会社の引き継ぎというのが、あまりにパターンにはまりすぎてて、おもしろ過ぎて笑ってしまうくらいです。おもろいよなぁ。どこもかしこも、ほぼ同じパターンです。(たまに全然違うパターンもありますが。)

まぁ、ともあれ、二代目で会社が伸びた場合、たいてい二代目が偉いんですがね。ものすごく努力してるんだよなぁ。二代目は。オヤジのやり方とか参考になんてしてられないんですよ。時代も違うし、だいたい会社の規模がまるっきり違うから。親と子は別人だし、価値観もまるっきり違うし、生きる世界自体が違う。ほんまに。そうならざるを得ない得ないんですね。まぁ、それはそれとして。

この会社さんの場合は、企業買収を繰り返して、世界企業になられたのですよ。

特定の分野に特化して、世界市場でシェアを伸ばし、弱い分野は海外の会社を買う。そういう事をやってきた会社さんなんですね。

で、そういう会社の世界的な進出アプローチを、いろいろな製品のパンフレットを作りつつ、現場レベルでの問題等うかがいながら仕事をご一緒させていただいたので、それはもう、世界の常識みたいな事をとても勉強させてもらえたと思うのです。

海外の会社を上手に購入して伸びて来た企業さんだし、「会社を買う」と言うことが、あとあとどういう事になっていくのか、ということなんかも、折に触れ見てきたから、あのホリエモンの騒動の時は、なんとも世間の反応がバカに見えて仕方なかった。

もう単純にね、会社は株主のものなんですよ。それはもうどうしたってそうなんです。

でも、ホリエモンみたいなのは、単純に「アホな買い物をしてる金満家」というだけのことです。投機的に買うと言う発想自体が「アホの極み」ですから。

たとえば、トヨタの車を買って、「エンジンは親戚のおじさんが作ってるからそれに載せ替える」とか言う奴がいたらアホでしょ?そら自分が買った車なんだから好きにしたらいいけど、アホはアホです。

で、ホリエモン事件なんて、ただそれだけの事ですよ。大きくはいろいろあるんだけど、アホはアホ。それだけ。ほかに言う事なんてない。

ただし、「会社を買う」という概念を日本人は、あんまり学んでいなかったからアタフタしただけって事ですな。そういう意味で、別に堀江くんはおかしな事をしたわけでもないでしょう。アホやったけど。アホよなぁ、あいつ。ちゃんと勉強したアホとでも言うのかなぁ。

それに引き替え、あの時の一般人は「勉強してない普通人」だったわけで、「会社を買う」という事自体がわけわからん、とかになってたわけですよ。
ま、概略そういう事ですわね。

買い物ってね、難しいんです。会社の購入なんて、それこそ何年もの先の計画があって、それに合わせて資金計画と必要保有ノウハウとのかねあいまで考えて買わないといけないから。アホには簡単には買えない。そういうものです。

まぁホリエモン事件に関してはその程度の事なんですけど、あのとき「会社は誰のものか」とかヒステリックにいろいろ言う人とかいたじゃないですか。
あの辺がね。なんだかなぁって思う。

資本主義において「所有」の概念は、どうしたって外せない、基本の基本ですからね。そんなもののあり方を、どうのこうの極東の田舎者の日本人がどうこう言っても始まらないんですよ。それはどうしたって。
世界のルールなんだし。そんなもの、世界のルールにあわせてやっていくしかないよ。しょうがないもん、それは。

で、実際に、日本の企業で海外の優れた会社を買収しながら伸びてきた会社の仕事を、僕はしてるんだしさぁって思ったわけです。そういう立場の日本の企業だってあるもんさ。

ねぇ?

ちゅうことで、最近は「あ、こいつ遅れとるな」とか感じても、それはたまたま、優れた会社さんとお付き合いさせてもらえてる幸運で、良い情報がいただけてるだけなんだ、自省すべし!と、発想が変ってきたんですよね。

ほんまに優れてる会社さんやしねぇ。たとえば、僕みたいな外注スタッフも、すごく大切にしてくれるし。こういう事自体が、まぁ珍しいんでしょうな。だから、あんまり、これを基準に考えてはイカンなと。世間はもっとひどいのだと。そう思うように考えが変ってきたのでありますよ。はい。

まぁ、そういう話です。
もう長らく、自分の事務所で仕事をしているわけですが。

最近思うのは、自分の事務所を持つという事と、一人暮らしをしていた経験とが、重なるよなぁって事です。

事務所を持っていると言っても、フリーで一人で仕事をしているわけだから、なんでもかんでも一人でやるしかない。
それこそ、本棚の片付けから掃除まで全部です。

で、これって一人暮らしと同じ事なんですよね。一人暮らしで靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下は、いつまでもどこまでも、ずっとそこに出たままで、自分で洗濯機に入れて、洗剤を入れて、スイッチを押さない限り、きれいになって出てくる事はないわけです。

で、これが「自己責任」ですわ。
別に難しいことでもなんでもありませんわね。
自分の事は自分でする。それだけのことでしょう。それが一番シンプルでわかりやすい。自分でちゃんとしていなかったら、それは自分に跳ね返ってくるっていう、それだけの事です。

ですが。

これがどうも、誰かと一緒に暮らすと、「ついでに洗濯機に一緒にほおりこんでおいてくれる」とか「洗っておいてくれる」とかがあるので、その当たり前の「自分が動かない限り、靴下はそのままだ」という事がわかってない男がいたりするわけです。

特に、一人暮らしの経験がないとか、あったとしてももの凄く短いとか、そういう人間は「靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下はそのままである」という事が分ってない。

なんかねぇ、これがねぇ、すご〜く大事な事のように、最近になって思うのですよ。

仕事の上でもプライベートでも、この「放りだした靴下はそのまま」という自己責任感のない人(特に男に多い。)って、どこかで肌が合わないというか、ベタベタした感じがあってイヤ。

自分で靴下を洗濯機に入れるのが当たり前だと思ってる人は、誰かがついでに靴下を洗ってくれると、すごく恐縮してしまうのですよね。

「放りだしたままで申し訳ない。ありがとう。」という言葉や気持ちが自然に出て、「しまう」。

この「出てしまう」ってところが大事なのですよ。
「こう言うときにはお礼を言うものである。」というようなノウハウではないわけです。自分の経験に裏打ちされた感覚・感情で「申し訳ない」「ありがとう」が言えるし、何より自然に出てくる。

ここが大事だと思うのですよね。

で、これが言えない男は、けっこうたくさんいてるとは思うのですけど、やっぱり言っちゃ悪いけど経験不足、一種の社会的カタワという気がしてしまうんです。

別に仕事なんかできなくてもいいし、金儲けもできなくていいし、それこそ色んな欠点があってもいいけど、自分が片付けなかった靴下は、片付けてないんだから片付いてないのが当たり前なんだと自分のサボリをキチンと自覚できる人でないといけないと思うのですよね。

いやまぁ、おれは同じ靴下を三日ははき続けるんだ、という大胆な人がいても別に良いわけですが、その場合でも、どこに靴下を脱いだのか忘れちゃったら3日連続で履くという事自体できないわけですしね。

この辺、ほんとに、親がかりで大人になって、自炊や一人暮らしの経験もないまま「大人」になって、そういう当たり前の現実とキチンと向き合っていないものだから、子供の発想のまま大人とか「親」とかやってる男って、考えたらすごく多いんだろうなと思ったら、ゾッとしましたな。

離婚した女性の話とかも、けっこう聞くトシになったからねぇ。そういうのを、よりいっそう感じるようになってきた。
(ただまぁ、ここで男と女の「清潔感」の感じ方の平均値の違いという、また全く別の問題もあるんだけど、それはまた別の話なので、ここではちょっと触れないでおきます。)

基本的に、一人暮らしもしたことない男は、おこちゃまですわな。基本。いやほんとに。ほんとにそれは思う。特に自己責任とかの考え方とかで、それは如実に感じますねぇ。

会社でも、「部下の女の子」に頼りっきりの上司とか、けっこういてるのかもなぁ…。まぁ、大手の会社だけでしょうがね。中小では、そんなオコチャマを飼ってる余裕はないですしね。

ま、なんか、そんな事をふと思いました。
なんだかんだ書いてますが、身の回りに「裸の王様」がいてると、迷惑なんですよね。単純に。

「わしの服はすばらしいじゃろ」
「ええ、ええ、まさに。」

とかやってるのを見て、必死に「お前、裸やんけ!」と言うのをこらえなければならない。

これが辛い。

裸の王様は、ものすごい迷惑なんですよ。心の風通しが悪すぎて、イライラする。本来、さっさと「裸じゃ風邪ひくし、服を着ておかないとだめだよ。」で済むものが、全然そういうまともな話にならない。
ひたすら「裸」の話題を避けていかないとダメ。

もう、実にうっとおしい。
単純な話、そういう裸の王様ご一行とは、一緒に出かけることもできない。だって、回りから好奇の目で見られたときの言い訳とか考えないといけないから。

ムダ。もの凄いムダ。

たとえば、子供の前でだけ「えらそうな父親」「きちんとした母親」を演じるのに慣れてしまってるとかね。
でもって、子供達もその体面を取り繕ってやるためにヒーコラ言ってるとかがあったりしてね。
で、そういう親子の横にいてる人間が、そのどうでもいい体面を保ってやらなきゃいけないいうのは苦痛以外の何物でもない。

このあたり、親子関係とか、会社の上司・部下の関係とか、友人同士のバランス関係とか、「裸の王様=部下関係」が成立している人間関係の回りにいてる人間は、そらもうものすごい苦痛にさいなまれるわけですよ。たまりませんよ、それは。ええ迷惑です。

お前が裸なんは、モロにばれてますがな。そやのに、なんで、その体面を俺たち、外の人間が保ってやらにゃならんのだ。お前が裸を「見えない服があるのだ!」と強弁するのは、お前の勝手だし、勝手にやってりゃいいが、そういう人間が回りにいてると、こっちはうっとおしくてたまらん。気が狂いそうになる。っちゅうか、裸の王様構造というのは明確に狂気の構造なので、ようするに近づくとキチガイがうつる、という事になってしまうわけです。

解決策は単純で、「お前が裸なんがイカンのや。さっさと服を着よ。」っちゅうことですな。他に解決策はありません。一切無い。裸の王様は服を着るべし。それだけの事であります。アホくさい話です。

ところが!です。現実というのは、童話の話みたいに事は単純にはおさまらないわけですよ。

裸の王様の物語においては、子供が「だってあの王様、裸だよ!」と指摘して王様が自分が裸だったことに気付くわけですね。それでめでたしめでたしです。

でも実際にはそううまくはいかない。現実の裸の王様は、自分が裸だと言うことに気付かないのですよ。

いや、気付かないというより「気付きたくない」なんですな。
もう、ほんとに、いつまでもどこまでも、えんえん、どうでもよいくだらない、うそっぱちの「見えない服」とかにこだわり続ける。いつまでもこだわる。どこまでもこだわる。

ほんまに、これがかなわんのですよ。
ほんまにかなわん。
洒落にならん。
こっちが病気になってしまう。

ものすごく気持ち悪い。

助けてくれーって思う。もう、そういうゆがんだ関係に近づくと、それだけで精神がゆがんでしまいそうになりますな。まぁ、近づかないようにしてるんだけど、そうやって離れる以外に手がないんよなぁ、そういう病状まで進んでると。

ほんと、童話みたいに「王様は、やっと自分が裸であることに気付きました」にはならないわけですよ。ほんとに。たまりませんよ、これは。

で、たいていの場合、「あんた裸やで」と、親切ていねいに言おうが、どう言おうが、言い方はどうであれ、一番指摘されたくないところを指摘された人間というのは、怒り狂って逆にこっちを糺弾してくるんですね。

なんだかなぁ。とほほほほ。助けて欲しいよ。ほんまに。

「見えない服」の思いこみが激しければ激しいほど、ようするに病状が悪化していれば悪化しているほど、この逆糺弾は強くなります。

つまり。

本当に自分が裸だと気付かなければ行けない、必然性の強い人ほど、「指摘してくれた人を攻撃する」という、アホな行為がはげしくなるわけです。

この病気とね、私はどうつきあったら良いのか、さっぱりわからないのです。
もう、お手上げなのよね。こういう病気。

昨日は、小学校からの友達と、なんだかんだと話しをしながら飲んでたんですが、その男が「やっぱり自分の間違いを直さないと自分の成長なんてないやん」と言っていたので、

「そのとおり!!!」

と、大きく頷いたのだけれども、それに添えて、

「でもな、自分の間違いを、よう認められんアホな人間っていうのも、世の中には多いねんで。」

という話をしておりました。で、

「あなたは、その自分の間違いを修正できる人だからそれで良いけれど、それを当たり前だと思ったらアカンよ。世の中には、自分の間違いを修正できずに、逆に間違いを指摘してくれた人間を糺弾するようなアホな人間がゴマンといてるのだよ。そこのところ意識しておかないと、えらい目にあいまっせ。」

という事を話しておりました。
ほんま、親切心で問題点を指摘してるのに、糺弾されたらたまったもんやないわ。

そういう事を言ったら「えええ?そんな人間おんの? 自分のミスとか指摘してくれる人なんて、なかなかおらんねんから、一番の味方やん。そんなことしたら、ほんまに何の成長もでけへんやん。」と彼は驚いてましたが。

「ちゃうねんって。一番痛いところを突かれて、怒りまくる人の方が多いねんって。僕もあなたも、痛いところを突かれたら、ああ、ありがたいと思うタイプやけど、そうではないタイプの人間もぎょーさんおるっちゅうことですわ。」

と話して、

「うーむむむむ、そうかぁ。」

となったんですがね。

ほんま、困ったことです。

私はいまだに、この問題の解決策を見いだせておりません。
まぁ、気付きたくない人は、気付きたくないから、気付かないようにしてるんだろうし、ほっとくしかないんだけどね。

ああああ、でも、ほんまにうっとおしいし、ものすごい社会の迷惑だよなぁ、裸の王様って。ええかげん気付いて欲しいわ。
今日は、おもいつくままダラダラと書きたい。

生まれてきて、死ぬまで、人間は一人なんだと思う。自分自身の考えや思いも、そう簡単には共有できない。

親や子供も別人格で、まぁ基本として他人と変らない。「俺の子だ」「あたしの子よ」と言ったところで別人は別人って事です。

で、そういう思いがあるからこそ、確かな交流や気持ちのやりとりが出来たときがうれしい訳だと思う。

人間は生まれてから死ぬまで、ずっとひとりなんだ。だからこそ友達と話して意気投合するとか、考え方が共鳴しあった時にとても喜びを感じる。考え方の近い人に出会って、一緒に何かを成せる時というのが、すごくうれしく感じるって事です。

だから、そういうお互いの意志表明とか考え方の確認とかの、確認行為もないのに、形だけ「通じ合っていることにしておく」というような態度が、僕はとても嫌いですね。うそっぱちばっかりだと思う。

でも、多いんだよなぁ「〜という事にしておく」って態度を取る人。まぁ、摩擦を起こさずに生きて行くには、必要な態度なのかも知れないけれども、そういう建前だけしか存在してないような人もいるので首をひねるのだけども。

建前って、本当に嫌いだ。
大嫌い。

音楽をやると、楽器の間でちゃんとチューニングして、音を揃え、正しく和音を構成した楽譜に則って演奏すると、とても素敵なハーモニーが生まれます。

しかし、これを、楽器を適当に持ち寄って、ルールもキイも決めずに演奏したところで、それは音楽とは言わないわけです。

建前って、まさにこの「キイも決めずに勝手に楽器を弾いてるだけの状態」を「みんななかよく演奏している」と言い切るような事なんですよね。

なんやねん、それ。

って思ってしまう。

キチンと歴史の勉強もせずに、欧米の文化やさまざまな思想とかの流れを自分勝手な思いこみだけで判定するとか、人間関係論やら心理学やら学ばないうちから私は人間関係のエキスパートでござい!みたいに言ってるとか。
そういうのは全部偽物だよなぁって思う。

でも、じゃぁなんでもかんでも学んでからしか発言できないのかって言うと、そんなバカな事はあるわけもないのですよね。

ようは簡単で、

●わからないものはわからないと言う。
●考え方が変ったら、どういう理由で変ったかを言う。

この2つの基礎的ルールを、キチンと踏襲してれば、基本的に問題はないわけです。

「考え方が変る」の中には「学習して身につけたので、私の持っていた考え方は間違っていたことがはっきりしました。」という表明が入ります。

で、ちゃんと体系的に学んでいくと、「最初、私は●●●と思っていましたが、いろいろ調べて学習していくと、▲▲に関しては私が間違っていました。」という事がたくさんあります。

で、これこそが「学ぶ」ということなのであります。

まぁ、当たり前の事を言ってるんですが、でも、こういう当たり前の事ができない人がけっこういてるわけです。
特に依存心の強い人は、ここいらがキチンとできてませんね。たいてい。

アルコール依存、ギャンブル依存、子供依存。依存するからダメなんだよなぁ。ひとりで立ってみたらいいのに。ひとりで立ってみたら、本当の意味で、「倒れそうになった時に助けてくれる人のありがたさ」がわかる。自分で立たずに何かに依存してるから、そういうありがたさがわからないんだと思う。

そういうありがたさが分っていない人はとにかく、

●わからないことを「わからない」と言えない。
●考え方が変ったという事を表明できない。

のです。

というか、

●わかってないのにわかったフリをして体面を保とうとする。
●ひとつの考え方にとらわれて、それに固執する。

という事になります。

よーく考えたら分りますが、こういう態度を取っている限り、永遠にその人に「成長」はありえないわけですね。
わかってないのに「わかってない」「知らない」と言えない訳だから、誰からか教えてもらうという事ができないし、質問する能力も持てない。

また、考え方の変更もできないわけだから、新しい考え方を吸収することも無理ですわね。

前進も進歩も成長も改善も、いっさいが存在できなくなってしまうのが、この「体面を保とうとする心」とか「考え方の変更を表明できない視野の狭さ」とかの意識の問題点なわけです。

体面とか、特定の考えへの固執とか、ほんとうにダメだと思う。柔軟性がない。

で、こういう、「自分の無知の受け入れ」とか「より正しい概念の受け入れ」とかは、自分がこの世にたった一人なのだとわかっているからこそできる事なのですね。

たとえば、裸の王様を思い出しましょう。裸の王様は「目に見えない立派な服」を「着ている事になっていた」わけです。で、その「なっていた」部分を誰が支えていたかというと、回りにいてる臣下のものたちなわけです。

本当は裸でしかないのに、臣下のものが「すばらしい服でございますねぇ」と言ってくれるから「着ていること」にしておけたわけです。まぁ、アホな話です。

これは、回りに「自分のウソを塗り隠してくれる人」がいてるから出来ることなんです。自分一人ではできない。でしょ?回りでウソを塗り固める人が頷いてくれるからウソが「ホント」のように見えて安心できるわけです。これこそが依存症の罠そのものなんですね。煙草を吸うのは中毒でしかないけど、それを「おいしい」と言ってごまかしてるのと同じです。自分をごまかしてるんですね。自己欺瞞という奴です。

お酒やギャンブルで、自分の本来の姿を直視できない人も、まわりの臣下のものどもに「ウソの上塗り」をさせている人も、結局は同じ精神構造ですね。自分自身に頼るのではなく、自分以外のものに頼っている。親子関係で言うと、本当は無知な親でしかないのに、親としての権威だけを子供に押しつけて、それで安心している、なんて構造があります。

こういう事を考えていくと、「ひとりであること」がどれだけ大切な事か、わかってくるはずです。裸の王様は、まず、自分が裸であるという事を、丘を吹く風が、自分の体にそよそよと当たっている事に、まず気付かないとダメだってことです。そこに幸せは、ちゃんと存在しているのですよ。で、それは自分ひとり、たったひとりだからこそ気付ける事なのです。

で、この世に自分たった一人だと分っていれば、回りに自分のウソを塗り隠してくれる人を求めたり、配置したりする必要はなくなります。つまり回りの人間に無理矢理「ウソをつかせる」という不幸な行動を押しつけずに済む、ということなわけです。つまり回りも幸せにできる。まず自分が囚われた心から解放されれば、回りの人間も解放される、という事ですね。

僕は、世の中のムダと罪悪のほとんどは、こういうウソの隠蔽から生まれると感じていて、そういう行為にすごく敏感に反応してしまうんですね。

このウソの隠蔽を、親と子供の間でやってる人は、「私は親だ、言うことを聞け。」と裸の権力を振り回して、子供に従わせ、親の権威を保つ事をしようとやっきになる。まさに体面を保つ、ですね。でも、それは親も子も両方とも不幸だ。ものすごく不幸だ。だから裸の王様は、自分の肌に当たる風を感じないといけないってことなんですね。それがつまりは「ひとりでいること」なんです。

でもどうも、体面を保つということばっかりやってると、そのうち、わからない事を「わからない」と素直に言う事ができなくなるようなんですね。恐ろしいことに。多分パターン化して抜け出せなくなってるんでしょうねぇ。

当人は「体面を保つ」事が自分にとってどれだけデメリットのあることか気付いてないことが多いように感じるのですが、わからないことを素直に「わからない」と言えないという事は、ようは「知る機会の放棄」ですから、ストレートに「バカ直行便」なわけですよ。でしょ?

ようは、日々、「アホになっていく」なわけです。

これはもう、すごくはっきりわかる。
単純な話です。
知らない事を知らないままにすることを良しとしているんだから、それはアホなんですね。他に言いようがない。

たとえば、こういうアホな事をやっている、迷惑な上司と部下の関係とか、身の回りで見る事はないですか?
知らない事を素直に知らないと言えない上司がいて、その上司を「おー、よちよち」とあやしている部下。そういう関係。

実にくだらない。

くだらないんですが、これがまた、すごく多い。「裸の王様」的な会社の仕組みとか、親子関係がね。もう、本当に、世の中にあふれかえってる。

ちょっと待ってくれよなぁ、って思うんですよ。
そんなことしてたら、みんなアホにしかならんやないか、って。
学ぶ機会の放棄・拒絶ですからなぁ。そらあきませんで。

とにかく裸の王様がすべきことは、とりまきの言葉を忘れて「俺裸やんけ」と気付くことですわなぁ。自分の肌をそよぐ風を感じろって事でして。

そして、人間は風そよぐ大地の上に、たったひとりで生きているというのが、すべての人間にとっての当たり前の状態であり、そこを実感している事が、生きる事の基礎の基礎なんだってことを、はっきりと気付くべきだってことです。

まぁ、ようはそういう事ですね。
随分昔の話ですが、「おつり」を隠した事があります。

なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。

忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。

で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。

不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。

で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。

そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。

で。

そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。

ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。

確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。

だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。

僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。

が。

じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?

なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?

という事です。

その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。

ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。

うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。

で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。

ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。

たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。

だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。

これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。

ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。

だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。

どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!

もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。

まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。

よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。

で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。

だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。

「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。

父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。

そういう事だったんですね。

でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。

なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。

まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。

だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。

一番望んでたのは、それでしたねぇ。

で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。

こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。

違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。

だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。

で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。

だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。

そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。

なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。

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でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。

ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。

エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。

っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。

だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。

わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。

うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。

人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。

親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。

「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。

で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。

困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。

でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。

ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。

で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。

だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。

ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。

子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。

まぁ、そういう事ですわ。
最近は「怒りのコントロール」というのが課題です。
簡単なようでいて、なかなか難しい。

「怒りのコントロール」。僕はこれがとても苦手です。

怒りのコントロールというのは、決して「抑圧」して自分の不満を押さえつける事ではない。適切な表現で要求・要望を伝えていくという事ができなければ、それは「怒り」に自分が負けてしまっているということなわけです。

自分自身を本当に大切に思うなら、「怒り」という感情に頼らずに、自分の望みを実現しなければならない。これはけっこう難しいんですね。

で。

この半年、一年で、すごく当たり前なのに、いままで気付いていなかったなぁと思ったのが、「苦手克服」ということの意義なんですね。

人生において、何が達成感が大きいかと言っても、この「苦手を克服する」という事ができた時が、もっとも達成感が大きいのです。つまり喜びが大きい。

この事を僕は最近、とても深く実感していて、日々アイディアメモをつけているのですが、自分の苦手項目を整理しながら、どうやれば克服できるかを考えています。

(考えているだけで、実行できてないなぁと思う事の方が多いのですが、それでも何もしないよりはるかに良いです。)

でも、それは自分の欠点を自ら探していくことだから、けっこう辛いことではあるんですね。なので、あんまり他人にはお勧めしないのです。自分のダメな面、弱い点、失敗を繰り返しているところを自分で直視するのは、やっぱり辛い。

が、それでもやっぱり、身の回りの優れている人、尊敬に値する人は、自分の欠点・弱点を素直に認めておられるし、その「弱い自分」をスタート地点にされているからこそ、大地に足をしっかりつけて、生きておられるという気がするのです。

だから自分の欠点を直視して、それを克服課題にするというのは、とても重要な事なのだろうなと思います。

いやまぁ、実は「欠点・弱点を克服する」というのは、もの凄く高度な課題でして、本当はまず「自分の得意を伸ばす」ということをやらないといけないのですね。

もっと簡単に言うと「できることをちゃんとやる。苦手なことはやらない。」です。

まず自分のできる事をする。たとえば、好きな人がいてるのに、デートにも誘えないとしたら、まず「おはよう」と声をかけるとか、そういう「できる」事からはじめる。そういうことですね。

この「できることからやっていく」というのが幸せになるためのファーストステップで、ここを無理して「なんとかデートに誘うぞ」と考えると苦しいばかりなのですね。それは「できない事」をやろうとしているという事なわけです。

で、こういう具合に、自分の得意項目を伸ばして自分に自信をつけるというのが、「自分を愛する」ことでして、これができていない人は他者攻撃ばかりするようになってしまいます。相手を貶めることで、自分の能力が高くなったような勘違いをするわけです。

僕はなんとか自分の得意項目を伸ばすという事に関しては無理せずやれるようになって来たので、次のステップとして、苦手克服の達成感の大きさを味わうようにしようという事に目標が変わってきたのだと思います。

結局、それもこれも「得意を伸ばす」「できることを上手にやる」「自分を愛する」という基礎項目が、なんとか形なりにもできるようになってきたからよなぁ、とつくづく思うのです。

安心して自分を認められるだけの「自分」を作り上げることができたのかなと思う。

なんでもないことですが、ウクレレの演奏という趣味も、そういう過程の中でとても大きな位置を占めているんですね。ほんとうに5分、10分でおだやかな心を取り戻せる、素晴らしい「道具」を得られたなぁと感謝しているのです。

音楽というものは本当に素晴らしいです。

そういう基盤が固まってきたから、次は苦手項目の克服だよなと思うのです。がまんしたり抑圧するのではなく、怒りを交えずに、キチンと正しく主張していくというようなことですね。

実は、いま、この文章が「です、ます」なのも、その怒りのコントロールの一環なのです。

最近読んだ本の中に書かれていたのですが、「だである」は文章構造的に複雑なものになりがちなのだそうです。日本人ではない外国の人が読んで、理解しやすい文章が「ですます」なのだそうです。

じゃあ、「ですます」で文章を書こう。そう思うのですね。
それだけで相手に伝わりやすくなるなら、そうしましょう。
そう思うわけです。

ともあれ、まだまだ達成はしていないけれど、苦手は克服しようと思います。
自分のダメなところを直視して、それを直す、ですね。
がんばります。
ちょっと、自分のやってる掲示板とか整理してたら、今年の三月に書いてるネタが、こっちの日記向きだなぁと思って、転載しようと思いました。

基本は
●愛とは成長しようとする意志である。
というメッセージです。

で、
●成長するというのは「痛み」を引き受けることである。
ということです。

で、
●自分の弱点・間違いを自覚するのが、一番痛いが、それをこそやるのが、人間の生きている価値である。
ということですね。

ということで転載。

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ちゅうことで、ちょっと最近思ったことを書く。
それは「愛」とは何かということで、この定義って実はあまりキチンとはされていないのだ。
だってLoveでしょ? 外国語だもの。

で、私が敬愛するウォイティツ(アダルトチルドレンという概念の提唱者)は、「愛とは向上すること」と言ってるのですね。

ある意味正しくて、この「向上」さえ頭に入れて生きてれば、まぁ間違いはない。(向上には「責任を引き受ける=痛みを引き受ける」という意味を含む。というか向上するというのは、そういうことだ。)

でもねぇ。
ウォイティツがアメリカ人女性で尊敬できる人であるなら、日本人男性で尊敬できる副島隆彦の「愛」の定義が、これまた好きなんだなぁ。それは「愛とは一緒にいて楽しいことである」というもの。

この定義ってすごい好き。素晴らしい。人間関係における愛に限定してるところがいい。

いっしょに居て楽しいかどうかなんですよ。やっぱり。まずそれが基本。
楽しくないのは、愛がないからなんよね。

で。

実は少なくとも私は「成長しない人」とは、一緒にいたいと思わないんですよね。
つまらない。
飽きてしまう。
10年一日同じことしか言わない。そういうのはダメだ。

「あなた、せっかく生きているのに、毎日何を学んできたんだよ。」とか思ってしまう。

真面目に成長を続けていくと、自分のあやまちとか間違いはどんどん微調整しながら、いろいろな意味で一歩上を目指すから、考え方ってどんどん変わるんだよね。

痛みを引き受ければ引き受けるほど、そうなる。
あんまり簡単な理由づけとか信用せずに、ちゃんと物事の一つ一つを確かめながら生きていると、「そうだったのか。私は何も知りませんでした。バカでした。」と思うことが多くて、そういうことを重ねて、重ねて生きてくると、本当にいつのまにか考え方自体がぐいっと大きく変わっていたりするのですよ。

で、そういう積み重ねを経て築き上げてきた考え方と同じように考え方が変わってきた人とかとは、話をするとすごく面白い。あるいは逆でもいいけど。

でも、10年前と、言ってることが寸分違わず同じ、というような人を見ると、もうまったく話をする気にもなれない。へなへなーってなってしまう。

面白くないんだよなー。つまらない。
それはつまりは「愛がなくなった」ってことなんだ。
しょうがないんだよな多分これはって思うわけです。
しょうがない。袂を分かつしかないんだよねー。
ほんとに。

愛がないのに、いっしょにいてるのは楽しくないんだ。それはやめたほうがいいのだ。

で、現実問題をじっくり考えてみると、10年考え方も変わらない関係なんて、成長がまったくないわけだから、それはやっぱり楽しくないってことなんだと思うのですよ。

少なくとも僕は面白くない。「変わらないこと」に価値を見いだす人もいてるだろうから、それはそれでいいんだろうけど、僕は面白くない。楽しくない。

なので「愛せない」ってことになる。
さようならっていうことなんだよね。

この数年で、そういう意味で「さよなら」って思う人は増えた。悲しい感じもするけど、成長したくないっていうのも、その人の生き方なんだから、それはそれで認めないとしょうがない。僕はそんなの絶対イヤだけども。

なんか、そういうことをつくづく、しみじみと感じるのでありますよ。

ふむ〜。
また、続きになるのですが。

ロープレゲームで、「ぶきをそうびする」を理解してないと何事もうまくいかなくて、イライラするばかりなのは、アダルトチルドレンであることに気付かないのと同じだ、と書きました。

もうひとつ似ていることは、「人生の始めの段階でセットされている」ということです。

「そうびする」というコマンド自体は最初から用意されているんですね。主人公が、もともと持っている機能であり、個人の特性と言い換えてもいい。

ところが、この最初から持っているものを、全然使わずにゲームを進めて、それで「うまくいかない」と怒っているっていうのが、ほんと、よくあるんです。

ロープレゲームが初めてで、その仕組みがわからなくて、それで「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と突き進んでしまうって人が意外に多いのです。

いやー、「そうび」はわかってないとダメだよ、やっぱり。

ってことにしかならないんですけどね。

僕なんか、まさにこの「そうびする」を知らないままに40過ぎまで過ごしてしまったような人間ですから。

機能させるためには、「そうび」しないとダメで、でも、その「そうび」という機能自体が、実は自分が最初から持っているもので、なおかつそれが機能していないのは、自分のことをわかっていない自分がいて、その「わかってない自分」を、「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と勝手に解釈して突き進んでいるだけなのだってことですね。

「わかろう」としなければ、けっして「わかる」ことはない。

という、だいじなことがわかってない。
で、「わかろう」とさえすれば、もともと持っているものなのだから、それはもう、すぐに機能しはじめるんですね。、

でも、人生の一番最初、ゲームでいうなら、旅が始まる前。
その最初で親との関わりで「そうび」という機能の使い方の確認を教えられずに育つと、その「そうび」コマンドを使わないままに生きてしまうんですねぇ。

実は親も「そうび」をわからないままに生きてたから、なんだけど。

そりゃ、あなた、わかってない人が子供に教えてやることはできません。無い袖は振れないって奴です。

なのでアダルトチルドレンの問題は世代間連鎖してしまうんです。

でも、この世代間連鎖は止めるのもまた簡単なわけです。ようは自分の心の中のリソースを総点検すればいいだけのことですから。

多少、手間も時間もかかるし、それに気付くためには、いままで自分を支えてきた「間違った信念」を全部書き換えないといけないことも出てきますが(昨日書いたみたいに「街のやつらの言うことなんて信用できない」から「話を良く聞いて役立てていこう」に大転換するってことです。)、まぁおおむね気づきさえすれば、正しく機能するんです。

だって人間、もともとそういう機能を持ってるんだもの。
ただたまたま、子供の頃に、キチンと教えられずにいて、それでうまくいかなくなった時に「世間は信用できない」とか、そういう無理矢理な合理化を自分の頭の中に詰め込むことばっかりやってきてしまった、にすぎないんだし。

自分の内面のリソースをちゃんと総点検する。
人によったら、それが機能するのだ、ということを確信できるところまで「試用」するのに、数年を要するかも知れないけれど、それでも気付かないよりは、はるかにマシです。

ほんと、気付いて欲しいって思うね。
世界で一番おもしろいRPGは、なんと言っても、現実の自分自身を成長させる「現実」という名のRPGではないのか?

って思う。

ほんと、「勉強すること」とかの経験値アップ作業は、確実に人生を豊かにするし、世の中、意外にも「やったらやっただけ」幸せは得られるものなのだ。

まぁもちろん、それがうまくいかない場合も、ないことはない。

どういう時にうまくいかないか、というと、自分がアダルトチルドレンなどで「現実の認識の仕方」自体が狂っている場合である。

そういう場合は、たいていうまくいかない。
なにもやっても不満や不安ばかりが増えるとかする。

だから、「自分がアダルトチルドレンであると気付く」ということは重要なのだ。

世界が180度変わって見える。

全然違う世界なのである。

「片付けられない病」というのがあるのだが、これは、自分の部屋が汚くてどうしようもないのに、ずっとそのままになっている病気。

で、これがどうして起こるのかというと、「部屋が機能してないほど乱雑になっている」ということを、その部屋の主が自覚できていない、というのがほとんどなのであります。

よくいるんだよな。足の踏み場もない部屋に、ゴミと一緒に暮らしてる人。

あれは「認知」がおかしくなってる。
正しく機能している部屋の快適さが実感できてないわけです。
快適がわからんので、「不快」なままでなんとも思わないわけで。

うまれてこのかた、散らかった部屋にしか住んだことない人間は、まず片付いた部屋の「快適さ」を知らなければならないわけです。

そのためには、自分の部屋が不快なくらいに散らかっているということに気づけないといけないんだけどね。

でも「足の踏み場もないじゃん!」と指摘しても「いや、別に生活に支障は来してないよ」と言われたら「さよか」と投げるしかないわけでねぇ。

経験値上げた方がいいと思うけどなぁ。

で、自覚するためには、よその部屋を見に行くことが必要で、それが「勉強」なわけですな。

「勉強」しない奴は、だからダメ。

で、RPGと一緒で、経験値上げというのは、コツコツ続けていると、ある日「パッパパッパパーン」とファンファーレが響いて、突然にレベルアップがあるんだよね。
ものすごく快適に感じたり「あっ!!!そうだったのか!!」と気付くことができたりする。

それはね、同じ一冊の本の文章の、同じ一節を読んでも、感じ取れる意味あいの深さが違う、とかなわけだ。
ずっとコツコツ続けていると、ある一節を読んだ時に「ああああぁっ!そそそ、そうだったのか!」と思うわけで。

そういう意味では、私は「アダルトチルドレン」関連の書籍では、そういう「気付き」は大きかったわねぇ。
ものすごく大きかった。
メガトン級だった。

でもなぁ、自分の問題点を、自分でしっかりと受け止めようとしない奴は、そういう気付きもできないだろうねぇ。

「お前、部屋汚いぞ」と言われた時に、せめて「そうなんやろか?汚いんやろか?」と思わない限り、部屋の汚さには気付かないんだよね。

絶対無理だよ、それは。

で、ものすごく、とてつもなく、とんでもなく、おそろしく、極端なくらいにひどく、片付いてない部屋の主ほど、確実に「別に汚くないよ」って言うんだよね。

「部屋の汚さなんて程度問題だろ」とか思って。

絶対そうなんだよなぁ。
注意して、すぐに気付ける人は、即、学習をはじめて、数年でまともな部屋で暮らし始める。
人によったら二三日かもしれない。

でも、気付こうとしない人は「程度問題だろ」と言って、腐ったラーメンがこびりついたカップが転がっている畳で、ゴミをかきわけて、布団も敷かずに寝るとかするんだよなぁ。

程度にもほどがあるってもんだ。

とにかく。

状況はどうあれ、「程度」は上に向かってあげていった方が良いのだし、それを「やりはじめる」ということこそが、この世を「いちばんおもしろいRPG」にする、賢いやり方なのだ。

で、もう一つ言うと、経験値上げとか、RPGでやってたことって、実は現実でもけっこう通用するのよなぁ。

「秘密の通り道への抜け道を知るためには、山の向こうの隠居に会って、この世の秘密を聞いてこなければならない」とかさ。

ほんと。現実ってRPGそっくりなんだよ。

なんと言っても、いちばん面白いRPGは、「現実」なのだ。
世界って、想像以上に幅広く誰もに開かれていて、その素晴らしさを享受するのは、ほんとに単純に、当人が「得たい!」と思うかどうかだけなんだよね。ほんとに。

このことには、ほんと、多くの人に気付いてほしいです。心底願うよ。

でもなぁ「認知」が狂ってると、たとえば「部屋が片付いてるほうが気持ちいいだろうが」と言われて、部屋がとっちらかってるのはそのままにして、パジャマだけ洗うとか、たまったゴミの上っかわだけ掃除するとかだけ、部分だけ試してみて、それで「何も変わらない」とか「そんなことしても意味ない」とか言うのよ。

違うって。根本的に、180度間違ってるんだよ。部屋全部汚いんだから、全部片付けろってことだよ。

でも、それには気付きたくないんだよなぁ、人間って。だって全部変えるのって大変だと思うから。

でも、全部変えないとダメです。
そうしないと気持ちよくなりません。

アダルトチルドレンであることに気付くってのは、そういうようなことなんだよね。

その「気付き」がないのなら、まぁ「快適に暮らす」も「経験値があがる」も「レベルアップ」も絶対にないのよね。

気付けないというのは、RPGで言うと、「ぶきは、そうびしないと、こうげきりょくがあがりません」という注意書きを読んだか読んでないかに匹敵する。

気付けてない人は、武器の装備もしてない人なわけで、こりゃどうしようもないのだ。
「ぶきをそうびする」くらい覚えてよって思うのよなぁ。ほんとに。
この数年のことを思い起こすに、知人・友人に対して、正直な感想や意見、あるいは批判などを提出して、想像以上に苛烈に反応されることが多い。

で、つらつら思うに、多分、「このくらい指摘されても『ああ、そうかなぁ、そうかも知れないなぁ』程度の反応だろう」という前提で指摘してるんですね。私としては。

ようするに「この程度の指摘なら、受け止められるだろう。」という前提のもと、指摘してることがけっこうあるわけです。

もちろん、あまりに鈍感で気付きが無さ過ぎて、カリカリに怒って叱りつけることもあるんだけど、「それはちょっと●●なんじゃないの? こっちから見ると○○○○に見えるよ」と、サラっと言ったつもりという場合も多いわけです。でも、「そんな言い方ないでしょ!」とか、ものすごい反応をされるのよなぁ。

「えええええー? そんなに苛烈に反応するようなことかぁ?」とか思うことが、けっこうある。

もう、こうなると処置なしなので、ほったらかしにする。そこまで苛烈に反応するってことは、多分指摘が当たらずとも遠からずで、その人の心の一番痛いところを突いてしまったんだろうなぁと思うばかり。

ちゅうかね、アダルトチルドレンの話でも書いたけれど、この一二年で、たぶん私自身が自尊心が高くなってきて、自分の欠点を指摘されても「ああ、そういうところはあるかもなぁ。ちょっとずつでも直していこう。」と、普通に思うように変わってきたからなんだと思うのです。

そらまぁ一気には無理やけどね。

前に、知り合いに「食い物の味とかをどうたらこうたら言うのは、はしたないという感じがして良くないと思う。」というような話をしてたら、「それは食べるという事に関して歪んでると思う」とだいぶキツイ指摘をされたのですが、数年ほどして、何かの話題で「あんた、なんか食に対して潔癖な感じがなくなってきたね」と言われて、「ありゃ、そうかしら?」と自分でびっくりということがあったのです。

たぶんね、この数年で、自分の内面を、そうとうにほじくり返したから、その過程で、いろんなことの感じ方が相当大きく変わったんだと思う。

痛みと成長が二人連れ、なんてことも、よくよく考えたら、この数年で学習したことかも知れない。痛みが大きいほどに学習の度合いは大きいですな。

「君はお金の計算とか甘いよ」と言われたことがあって、一時期すごく反発してましたが、これもいろいろ学習して克服したし、変わった。考え方だけは。

そういう風にしてきたから、「まぁ、このくらい受け取れるやろ」という思いが相当きつくなってしまってる部分はあるかも知れない。

なおかつ心の内面を見る目も、多分相当キツく、シビアにチューニングされてしまったんやろなぁとも思いますな。

すんまへんなぁ。そこまで反応するとは思ってなかったんっすよ。許してやっておくなはれ。という事だ。

でもなぁ、想定外にキツイ反応してるってことは、まぁまず間違いなく、こっちの指摘が、そうとうに鋭いところを突いてるからのはずなんよなぁ。突いてなかったら「わははは、そらひどい勘違いですなぁ。」で終わりなわけだし。

なので、この手の話題には、もう触れないってことにするしかなくなる。伴侶とか血縁者の場合なら、徹底して問題を解決しないといけないとも思うのだけれど、知人・友人の場合はちょっと置いておくしかない。

で、当人がその事実を受け入れるか、あるいはごまかしてもいいけど(ごまかすのよな、人間は。そういうものなのかもしらん。)どうにか、なんとかするまでほっておくしかない。

別にこっちが悪いことをしたわけではないし。

というのも、結局人間は、自分の真の姿は、他者から教えてもらうしか他に方法がないと、相当昔から私は思っているからなのであります。

「君から見て、私はどう見える?」とか「私にはこういう問題があると思うがどうですか」とか「これこれがうまくいかないのは、どういうところに問題があると思う?」とか、良く聞いてたもの。

とくにネックだった恋愛関係ではとくに聞いてた。

鏡の事を思い起こせばすぐにわかるのだけれど、人間は、自分の顔を、自分でだけ見ることができないのです。遠くをぼーっと見ている自分の表情が、どんなにアホなのか、あるいは美しいのか、まったく不明なのである。

日常、表情豊かに生きている人も、静かな人もいてるけれど、自分の表情が、そのどのあたりに位置するのかとか、そういうバランスさえわからないわけです。

右ナナメ上を見ている時の自分の顔を、左三十五度から観察する、なんてことは絶対にできないわけですよ。
それができるのは自分以外の他者だけだ。

それがよく分かっていたからかも知れないが、とにかくうまく行かないことに関しては、客観的な意見を聞き回った。

そしたら答えが「自己完結してるわな」とか「ユニーク(ようするに変わり者ってことだが)」とか言われて、ずいぶんショックでもあった。

で、考えてみると、そういう他者からの評価を軸に「自己完結しないように、周りとの連携で仕事をする・仕事を他者に振る」とか、「ユニークすぎないように、共通項でお互いにメリットのあることは優先させる」とかを、ちょっとずつ学んで取り込んできたところがあるのですね。

一気にやるのは大変なんだね。ちょっとずつって言うのがいいんだ。

そういや、ビートたけしが映画界に入ったのも、ちょっとずつだったんだよなぁ。最初はゲスト出演の脇役で。
でもいつの間にか俳優になっていて、監督になっていて、世界の北野になってる。
あの人、そうやって少しずつ変わっていくのがうまい。
髪型とかもちょっとずつ変えていく。で、ハッと気付くと全然変わってるのな。

やっぱり上手い人は、「ステップを刻む」ということを知ってるんだと思う。自分が越えられるハードルを、越えられる分だけ、常に越えてるんだね。
だから、それが五年とか十年で大きな差になってる。

結局、最近の友人・知人とのやりとりでの問題は、この「ちょっとずつ自分を育ててきた」ことと無関係ではないんだろうなと思うわけです。

多分、「自分の顔は自分が一番良く知っている」と思ってる人とは、もう、相容れないんだと思うんですよ。
「そんなアホな、それ、鏡で見ただけの顔やろが」としか思えないもん。僕には。ほんと。

「俺の顔には右目の下にホクロがあって」とか、そういうどうでもいいこと言うのな、そういう人って。
いや、知らんって。どうでもいいって。
そうじゃなくて、あなた以外のみんなが思っているあなたのイメージが大事なんじゃないのってことで。

で、もうひとつ言うと、「自己完結」とか「ユニーク」とか言われても、それって「ヒント」でしかないわけね。
そういう印象を持たれている原因となる「何か」が自分の中にあって、それを探り出さないと本当の自分改革はできないわけです。

だから、そういう「キーワード」程度のことに腹を立てるってことは僕の場合はほぼない。っつーか、最近ほんとうになくなった。「うーん。そうなんかなぁ。そうかも。ちょっと考えてみる。」って感じ。いやわざわざそう言ったりはしないかも知れないけど。どうせ、行動とかを変えるにしても、一気にはできないと思うし、あわてることもないし。

このあたりはね、ほんとうに内面の自分と手を取り合って、自分の心の中を探検しないとわからないので、人それぞれ、やるも良し、やらないのも良しなんでしょうけどな。

でも、結局、「自分の顔は、自分だけが知らない。」ってのは大事だと思うわけですよ。
ここがわかってないと、「自分の課題」が上手に見つけられないから。課題のない人生はつまらない人生ですよ。いやほんと。

なにかを成し遂げるんだ、とか、私はこうなりたい! とかあるから、この理不尽な世界で、イキイキと生きていけるわけで。
課題さまさまですよ。

うーん。なんかどんどんカッコいい話にばっかりなってしまってるから、ここまで。
ほんとは、もっとドロドロしてるんやけどね。
まぁ、ここまでにしとこ。
「自分と友達になろう」という標語とともに、どうしても言いたいのが「痛みと成長はワンセット」ってことだ。

「痛み」を避けていて、成長はないんだよなぁ、これが。

単純に言ってしまえば、「無力な自分を知る」っとことなんだと思う。

何もできないとか、何も知らないとか、あるいは間違った事を言ってしまった、やってしまった、自分勝手なことをやってしまったなどなど。

そういう自分の「あやまち」「ダメなところ」を、まずありのままに認めるっていうのが、最初に必要なことなんよね、成長するってことのためには。

で、この「無力で力のない、どうしようもないダメな奴」である、自分の味方になってくれるのが、唯一「自分」なわけです。どんなに他の人に頼りたくても、この最初のところだけは、自分に頼るしかない。

だから「自分と友達になる」ってのが大事なんだけどね。

伴侶でも親でも子供でも、誰であろうが、自分の痛みは引き受けてはくれません。ちゅうか、わからんのよね、他の人にには。そういう痛みは。

だから、自分で痛みを引き受けるしかない。

「あっちゃー、やってしもた」とかね。そういう痛い気持ちを、自分でちゃんとうけとめる。

その失敗して「あちゃー」と思ってる自分こそが、ありのままの自分であって、それを「こんなの自分じゃないやい」とか思うとか、「痛みは感じないように、やりすごしてしまおう。そのうち忘れるさ。」とかやってると、実は逆にどんどんストレスはたまる一方なんですね。

なんでか?

当たり前の話で、同じ失敗や嫌なこととかがやってきた時に「耐える力」が身に付いてないからなんですね。
だから「また同じような痛みがやってきたらどうしよう」と思うと不安でしょうがなくなる。また目をつぶってやりすごすしかないってことになる。「嫌だなぁ」と思う。だから将来が全部、「不安」になっちゃうわけですね。

こういう構造だから、逃げれば逃げるほど、人生が辛くなる。

何も知らない子供の時は何の重荷もないわけですよ。でも、そのうち成人すると責任とかなんとか、そういうものが目の前に表れて「引き受けてちょうだい」って挨拶してくる。

で、これから「逃げて」しまうと、もうずーっとそれが重荷になるわけです。どうしていいのかわからない。パニックになる。

で、「逃げる」対象を増やせば増やすほど、人生はつまらなく、苦しいものになって行きますね。

でも、責任を引き受け、痛みを味わうようにするとどうなるかというと、「まぁ、この程度の痛みなら、なんとかなるか」というように「痛み」に慣れていくんですね。

たぶん、筋肉を鍛えるのと同じようなことなんだと思う。精神を鍛えるには、責任を引き受け、痛みをキチンと味わって行くことが必要なんだろうな、と思うのです。

で、その痛みを耐えて引き受けていくために、最良の友である「自分」と仲良くやっていく必要があるわけですね。自分と友達になる、ということは、この痛みに耐えるためにこそ、必要なことなわけです。

で、話は依存症のことにまたなってしまうんですが、この引き受けるべき痛みを引き受けずにいると、どうなるかというと、不安でたまらないので、何かに依存するしかなくなるわけです。

たとえば、うちの父の場合でいうと、母親に捨てられたという事実があったわけです。まぁ致し方ない事情だったんだし、仕方ないよな、と、ありのままの自分の運命を受け入れて、つまり「痛みを引き受けて」いれば、それが大きな糧になったはずなんですが、そのありのままの痛みをちゃんと引き受けることができなかったので、たぶん「なんで俺だけ、こんなに不幸なんだ!」と、ありのままの現実を受け入れるのを拒否したんだと思うんですね。

ようは「否認」です。

で、この「否認」をすると、自分の感情と事実とのズレ、ギャップが生じますから、いろいろと精神的に不安にならざるを得ません。なので、痛みを引き受けなかった弱さを、何か別の対象で紛らわせる必要が出てくるのですね。
それがギャンブル依存症とかアルコール依存症とか子供への依存「共依存」だったりするわけです。

もう、このへんは、すごくはっきりしてると思う。逃げるから依存対象が必要なんだよな。
逃げずに引き受けたら、自分でまかなうしかないから、自分と仲良くなって、全力で立ち向かうしかなくなるのだ。

昔、太極拳を習ったことがあって、初日、立禅と言って、膝を曲げて少し体に負荷をかける立ち方を習ったのだけれど、これが想像以上に体力を使っていて、一時間の間、基本は立禅のポーズを維持しながら練習するので、次の日は足が痛くてパンパンになってしまったのですね。

でも、そんなの一日目だけなんだよ。あとはもう全然痛くない。ちょっと膝を曲げて立つ程度のことだから、たかが知れている。

ほんと、最初だけなんだよなー、痛いのは。

だから痛みと成長はワンセットなんだとつくづく思う。

心の強さも体の強さも同じ事です。最初に基礎体力をキチンと養っておくかどうかが、残り人生をイキイキと生きるかどうかを決める重要な分かれ道になるんですよ。

で、この「痛みに耐えて」得られる力こそ「自尊心」なんです。「私はやれる。」「できる」「私は素晴らしい」っていう、そういう自己肯定力。
それが自尊心。

で、この自尊心が低いと、すぐに精神的に傷つきます。自尊心が低いから傷つくんですけどね。でも、その自分の自尊心の低さは棚にあげて、傷ついたことの責任を、他者になすりつけます。そしてスネます。「私が悪いんじゃないんだ、あいつが私を傷つけたんだ」とカラに閉じこもります。

でも、違う。傷ついたとか言ってるけど、実は「痛み」を引き受けてはいないんですね。痛みを真正面から引き受けて「これは私が引き受けるべきことなんだ、他の誰になすりつけることも出来ないんだ」というようにして、しっかり痛みを味わえば、心が鍛えられて、もっとしなやかに、イキイキと生きられるようになる。それをして「自尊心が高い」と言うわけです。

なのに、それをしないから自尊心が育たない。いつまでも「傷つけられた」という責任転嫁から一歩も外へ出られない。自分で自分と友達になって、避けられない現実を見ないから、現実が全て不安のタネになってしまう。また「痛いことつきつけられたらイヤだなぁ」と思って生きるしかなくなる。

ちゃんと味わえば、そんなものどうってことなくなるのに。

なにやってんの。

ってことです。

ちゃんと痛みを味わいなさいってことです。

太極拳には24のポーズがありまして、(簡化太極拳と言って、一番簡単なもの。)そのポーズがゆっくりと変化していく踊りみたいなものなのですが、そのすべてのポーズは「立禅」のバリエーションなんですね。

で、この「立禅」の腰の落とし方で、太極拳の「キツさ」が変わるわけです。低く腰を落とせば落とすほど、きつくて、あんまり低くしちゃダメなんです。初心者は。

で、その初心者の最初の最初に学ばせる部分こそが「立禅」で、だからこれは、もっとも基本のポーズで、これが出来なけりゃ、太極拳を学ぶことそのものが成立しないんですね。

で、半年かけて太極拳の全ポーズを習いに行きましたが、結局足が痛くてたまらなかったのは、本当に初日だけでした。

まぁ、いかに体力がなかったか、ということです。

でも、最初の一日だけなんよね。ほんとに。痛いのは。

このあたりは、痛みを引き受ける、責任を引き受けるというのも、まったく一緒なのです。

痛いのは最初だけ。

で、いったん痛みをちゃんと引き受けて、キチンと味わえば、後はそれが基礎力になって、次々と次の「型」を学んでいくことができるのです。

だから痛みから逃げたらダメなんだよなぁ。ほんとにそう思う。

逃げると結局、「酒」「バクチ」「食事」「子供」などなど、いろんなものに依存して生きていくしかなくなるんだから。

拒食症とか過食症も、結局は同じ仕組みだし、児童虐待も同じ仕組み。バクチ狂いもアル中も同じ仕組み。みーーーーんな根っこは同じ。

「自分が引き受けるべき痛みを味わおうとしなかった」

ということです。

で、これを「味わう」という言い方をしてるところを、自尊心の低い人は「勝手な言い分だ。痛いものは痛い」とか「痛いものを痛くないという言葉のごまかしだ」としか思えないんですね。

そこ。

そここそが、人生をバカにしてる、ダメなとらえ方なんだよなぁ。

進んで痛みを味わって行った時こそ、大いなる気付きが、それこそ山のようにやってくるのです。たくさんの幸せのタネを獲得することができる。立禅をやっただけで、24パターンの型の受け入れ体制が整うのと同じ、「すごいこと」が人生に起きるんです。

それは本当に自分でも「奇跡」みたいにしか思えないことも、あるでしょう。とにかくすごい気付きが次々に生まれるのですよ。ものすごい幸せが、次々にやってくる。

でもそれは、痛みを引き受けて、「立禅」ができる心の体力、「自尊心」が身に付いてないと、受け取ること自体ができない種類のものなんですね。

ほんと、最初に痛みを味わおうと覚悟しない限り、それは受け取れない。

そういう種類の出来事が、この世にはあふれてるのですよ。ものすごい量で。

その最初の扉を開くのが「痛みを引き受ける」なんだけどねぇ。これを避ける人が多い。

もったいない。

ほんとうにそう思う。

ま。そういうことで。
このあいだから、親がどうとかけっこう書いて来たわけですが、実は「親に感謝せよ」だとか、「親を許せ」とか言うことに関してピンと来ない人なのです。

「そんなこと、別にする必要ないやろ」って思う。

何故かと言えば、親を喜ばせるために、自分が何をすればいいのかを考えれば、それが一番の感謝であり、許しになるわけだからなのですね。

で、まぁ基本の基本は、自分が自分らしくイキイキと生きていることが、一番親を喜ばせます。

これが基本でしょう。
百の言葉より、一の行動。有言実行。ようは、「やること」です。

自分の両親のことを思い起こしても、まぁ僕が自分らしく精一杯仕事をしてる話だとか、活躍してるんだぜー、といった話をしてやった時の顔が一番ニコニコしてたように思いますからな。

もう、これは大前提で、言葉より実行ですよ。まず自分が自分らしくイキイキと生きることです。
何よりそれが優先する。

だから「親を許す」とか「親に感謝を」とかを、口に出す、言わなければいけない状態自体が問題なわけです。そういう状態自体が、もともと自分らしく生きていない、「よろしくない」状態なわけです。

もうひとつ言うなら、子供がイキイキと自分らしく生きているのに、「そんなことしたらアカンよ」とどーたらこーたら言う親は、ちょっと問題ってことでもあります。

自分がイキイキと楽しく生きているのに、自分の親がそういう状態になって色々言って来たら、ちょっと気を配ってやって、「何か不満はないか?」「嫌なことでもあったのか?」と聞いてやらねばなりません。

「自分のことがうまく行ってない」時に、人は自分以外の人間にごちゃごちゃ言うことが多いわけですから。

このあたりの正しい判定ができるかどうかは、実はひとえに「自分がイキイキと生きているかどうか」という、自分を大切に思う心、「自尊心のエネルギー量」に関わってきます。

「私はイキイキと生きているんだ」
「幸せで幸せでたまらない」
「生まれてきたことがうれしくて仕方ない」

というような絶対的な確信こそが自尊心であり、「正常」な状態なわけですよ。安定していて、自律していて、自分自身と自分との関係が、良好で、その自分との関係が良好であることの余力で、他者との関係をまかなうことができる状態。これが「まとも」なわけです。

ここがまず基準なんだと思うのよなぁ。

たぶん、これ以外に基準はあり得ないはずです。

まず、ひとりひとりが自分を基準に自分を大切にして生きている状態。これが標準ですね。
これが保たれなくなっているなら、それはちょっと、心の状態を整えなおさないとやばいと思うわけです。

たとえば看病疲れだとか、子育てで寝不足になって自分を省みる時間がなくなってとか、そういう状態になったのなら、誰か知り合いの力を借りてでも、自分の時間をキチンと確保して、自分らしさを失わないように、自分に優しくしないとダメだと思うのですね。

そうでないと、回りが迷惑するはずです。自分で自分の面倒を見れない大人がひとりでも出ると、ほんとに回りは大変ってことになりますから。

これは別に身体状況が良いとか悪いとかに関わらず、でしょう。精神状態が良くない場合もまずいと思われますね。やっぱりね、だから親の心得として、「子供より自分優先」というのは常に自戒しておくべきことなんじゃないかなぁって思います。

まず自足でしょう。自分が満ち足りた状態であること。幸せであること。で、自分以外の人とは、その「自足」から「あふれ出た」部分で対応すること、ではないですかね。

これは仕事でだって同じだしなぁ。まず自分を満足させて、その余力で相手と対応するんだと思います。自分に知識の不足や情報のカケとかがあると、ダメなんですよね。とにかくまず自分にとって必要な情報と、自分が果たすべき責任とは何かを考えて、それはまず必達事項として「満たす」。で、他者との関係はそれを終えてから、なんだと思うのですよ。

そういう状態なら、ゆとりがあってオーケーになることが多い。相手も安心して話しを聞いてくださるし、こっちも自信を持って話しができる。

子供と接する時も同じでしょう。自分が自分らしくイキイキと生きてる親をこそ、子供はうれしいと思うはずです。
だから「まず自分優先」が大基本だと思いますね。

そこがゆらいでいるのは、マズいと思う。

いまさっき、ネットで色々検索してたら、以下のような文章が出てきて、「ああ、これはいいなぁ」と思ったので、勝手に転載・張りつけしてしまいます。

だれもに良いことは転載したって、まぁええじゃろ。

転載開始--------------------------

自分の1番いい友達になってやろう。
自分を好きになれば、みんなのことも好きになれる。
自分の1番の友達になれば、みんなとも友達になれる。

そのままのあなたも悪くない。あなたはあなた、それでいい。
あなたと同じ人はどこにもいない。世界中にたった一人しかあなたはいない。それはすごくすてきなことなんだ。ひとりひとり、みんなと違ってる。不思議だけどおもしろい。

あなたが幸せな気分でいれば、もっと大きな幸せがやってくる。
すてきなことを考えていれば、人生はもっともっとすてきになる。
あなたが自分を大切にして、自分のいい友達でいれば、みんなが
あなたを大切にしてくれる。みんながあなたのすてきな友達になる。
あなたが自分を好きになれば、みんながあなたを好きになる。あなたが自分を大切にしていれば、みんなも、自分を大切にしようかなって思うかもしれない。

そのままのあなたがいい。だれかのまねをすることなんてない。
だれかと同じように笑ったり、話したりしなくったっていい。みんなと同じような格好をしなくったっていい。
あなたはあなた、それでいい。

泣けること、悲しくなること、恐いって言えること、傷ついたって言えること、好きだよって言えること、みんなすてきなことだよね。

大人も子供も、男も女も、みんな人間なんだ。強かったり、弱かったり、悲しかったり、うれしかったり、いろんな気持ちを持っている。

人間ってほんとにいい。

転載おわり---------------------------------------

なんかね、
『自分を好きになる本』パット・パルマー著 epPress訳(径書房)

という本からの書き写しだそうです。

いいなぁ、これ。
これが基本だよなぁ。
絶対。

で、これに付け加えるなら、「自分を好きになるために、自分の責任からだけは逃げてはいけない」って一文を付け加えます。

何か「嫌なこと」が目の前に現れたとしても、それは自分の不徳のいたすところなのですよ。だからそれは進んで受け入れたほうが、まぁたいていはうまく行く。

嫌だなぁと思うような事こそ、「自分の責任なのだ」と進んで引き受けて、その「嫌な感じ」を、たっぷり、じっくりと味わうことだと思うのです。

これこそ、実は「自分を大切にして生きている」ことなんですよねぇ。つくづくそう思うのだ。

ここで「自分の責任」を受け入れられないっていうのはまずいんですよね。これを避けてはいけない。
そこは自分が自分と友達になって「おお、なんか大変そうやけど、お前ならやれるよな。」「んー、そうやなぁ、ちょっと大変そうやけど頑張ってみよか。」「おう、その意気、その意気。がんばれ!」と、自分で自分に言うわけで。

これが、ものすごく大切だと思うんだけどねぇ。

で、これさえ出来てりゃ、人生の大半のことは何とかなると思うけど、どうだろう? 違う?
うまく言えないんですが、アダルトチルドレンというのは、自分の中に「論理矛盾」を持っている人間のことだと思うのです。

もともと自分の欲求があるにも関わらず、親が依存症でコミュニケートが成立せず、欲求不満になった時に、現実をひんまげて解釈するクセを持ったまま大きくなってしまった人間ということになります。

この「クセ」は実にタチが悪くて、とにかく現実をひんまげて解釈します。どうしようもない男を「素敵な人」と、夢見るように見つめる、などが代表例ですが、その他にもいろいろあります。

僕が知る限りで一番問題だなぁと感じたのは、本や映画などを「字義通りに解釈する」ということが出来ない、あるいは無視するというクセを持ってしまうことです。

この間から書いている、三色ボールペン読書法の「緑線」しか存在しない人間と言って良いと思います。

つまり本を読んで「大事だなぁ」と思った所には「赤線」を引いて、個人的に面白いと感じた所は「緑線」を引くということですね。

物事をどう解釈するかは、その人個人の自由だから、どう解釈してもいいし、緑線はいくらでもたくさん引けばいいのですが、現実をひんまげて解釈している人間は、この「赤線を引く」をさぼります。

というか「赤線」こそが大事なことなんだよ、というのが分ってない、あるいは分りたくないというような人間になってしまいます。

なんせ「赤線」をキチンと理解していくと、自分の「現実をひんまげて解釈している」ということに直面せざるを得なくなるからです。「赤線」をちゃんと理解していくと、とても苦しい気持ちになったり、衝動的な感情が大きくなったりして耐えられなくなるんだと思う。

それは子供の時に「現実をひんまげて解釈する」というクセを持ってしまったからなんですね。

僕の場合だと「大事なことほどうまくいかない」という感覚が体の中の無意識層に根深く入り込んでいましたから、理想主義的な意見が書かれていると反発したりということがありました。

でも、書物というものはすごいもので、やはり数多くいろいろな先人の知恵や方法論をいくつもいくつも読み比べて行くと、やはり風雪に耐えてきた金言などは、現実をいかに上手に切り盛りしていくかの素晴らしい知恵を含んでいるのだということを嫌でも理解せざるを得なくなりました。

そういう意味でも「本」というのは素晴らしいものです。

本を字義通りに読むことで、自分の内面の矛盾と向き合わざるをえない体験をいくつも経験してきましたから、色々読むうちに自分の「大事なことほどうまくいかないものなのだ」という「感覚」こそが大間違いなのだということが分ってくるわけです。

やはり書物は先人の知恵であり、まずその先人の知恵を受け取ることが重要で、そのためには「字義通り解釈する」ということをキチンとやらないと何の意味もないということになんですね。

しかしアダルトチルドレンである人間は、この「字義通りに解釈する」ということを、バカっぽいこと、どうでもいいこと、通り一遍の表面的なカッコつけ、「見栄えのええこと言うてるだけ」と感じてしまうんですね。そうやって「大事なこと」をわざと理解しようとしない。

どうしても「良い教え」が「カッコつけ」程度のことにしか感じ取れないわけです。

アダルトチルドレンも色々問題がありますけれど、これが一番の問題だと思うのですよ。

分ります?

「大事なことを分りたくない」ですよ。

なんともったいない。
なんと馬鹿なことであるか。

これをやってる限り、永遠に幸せはこないし、自分のおろかさを訂正・修正することもできないわけです。

この間の人間バトンは字義通りに解釈できれば、実に素敵なバトンだと思うのですが、どうもその字義通りの素敵さを受け取れない人がいて、私的には愕然としたんですがね。

緑線は緑線でいいのよ。それはそれでいい。でも赤線は赤線で存在してるんだから、まずそれを読み取る練習してちょ、って思う。

赤線の読み取りをせずに、緑線ばっかり読み取ってても堂々巡りをするだけだと思う。
緑線、緑線、緑線と「自分勝手な解釈」ばっかりやってると現実直視ができなくなる。まさにバカの考え休むに似たりなんですね。

たとえば、子供の要望を断らねばならない時は「これこれこういう理由があるからダメだよ。」と、普通の大人同士の会話と同じようにキチンと理由を伝えなければならないのですが、アダルトチルドレンであると自覚のない人間はこういう時に説明せずに「ぷい」と横を向いてしまって平気です。

でもこれは「無視=ネグレクト」という暴力なんですね。ところが、これを「暴力である」という認識自体ができていない。自覚なしに暴力を平気でふるっているわけです。

介護の世界とか、あるいは児童福祉の世界とかでは、この「無視=ネグレクト」は暴力であるというのは常識中の常識です。でも、現実をひんまげて解釈するアダルトチルドレンは、これを平気でやってしまう。そして、自分の子供に暴力をふるっておきながら、それを「暴力である」と認識すらできないのです。

ここが実に怖い。

子供が、「気に入らないこと」があってプイと横を向くのは、自己表現能力が低いのだから仕方ないのです。しかし大人が説明責任をほったらかして、力の弱い子供に対してプイと横を向くというようなことをするのは完全に暴力なんですね。

しかし現実をひんまげて解釈するというクセがついていて、自分がアダルトチルドレンなのだという自覚に欠ける人は、子供と同レベルになって「プイと横を向く」のも別にかまわないと思っている。子供と私が対等だからいいじゃんとか思っている。それで親子が仲良くやってるつもりになっている。

いや、それは違う。違うぞそれは。

子供は圧倒的に無力なんだ。だから親がつねに説明責任を果たしてやらねばならんのだぞ。それこそ大人がやらねばならないことだ。プイと横を向いていたら、それは暴力だ。

でも子供は大きくなってくると、いろいろ難しい質問をしてきたりする。「なんで法律を守らないといけないの?」とか、物事の本質をつく質問をしてくる。これにキチンと答えようとしたら、まず基本は書物などを「字義通り」に読んで、その答えを教えてあげるのが、まず基本です。

そして、それが出来なかった場合は「おとうちゃん(おかあちゃん)にもわからんわ」と、ちゃんと自分が知らないということを子供の前でさらけださねばなりません。(でもどうもこれができないらしいんよなぁ。いつも「言うこと聞きなさい!」と権威で押さえつけるから、「知らない」が言えないのだろうか?)

せめて「知らない」くらいは言えないとダメだよなぁ。

で、できれば「知らないからいっしょに調べよう」ということをした方がより良い。できれば、だけど。正しく、賢い親ならそうする。

で、ここで重要なのが「字義通り解釈する」です。まず、これができてないと話にならない。深読みはいくらやってもいいけど、まず表面的な字義通りの解釈ができないと全然ダメだ。子供に社会性が身に付かない。

でもアダルトチルドレンって、「大事なことほど分りたくない」という感覚が強いって場合が多いのよなぁ。
本当に大問題だ。

だから字義通りに解釈できない体質になって、結局キチンと字義通りに理解する手間は、「そのことは横に置いといて」と保留してしまい、「私が思うのは…」と緑線を引くことに夢中になってしまう。

で、そういう人に限って、子供に対する説明責任が果たせていない人間であったりするわけです。そらそうだ。字義通りの解説内容を「横に置いて」るんだから、永遠に説明できませんわな。

で、その説明責任を放棄するということこそが「暴力そのもの」なのだという事に関しては、まったく理解していない、ということなわけです。

「大事なことほど理解したくない」なわけですから、しょうがないと言えばしょうがないんだろうけど、これは本当に悲惨なことだと思う。

緑線引くのも悪くはないけど、緑ばっかり引いていて赤線の存在を無視しているのは、バカの考え休むに似たりだよ、と言いたい。

本当に先人の知恵というのは良いものなのだ。まずそれを素直に受け取る賢さを学ばないとダメ。

で、そのためには、自分の体の中に「大事なことほど分りたくない」という狂った感覚があるという可能性を、キチンと考えて見ることが必要だってことです。自分の「感覚」を疑うってことをしないといけない。そういうことなんですね。

そうしないと、ずーーーーーって欲求不満のままなんです。だって「大事なこと」というのは、たいてい「欲求をいかにかなえるか」という方法論のことなんですから。

その「欲求をかなえる方法論」を「うそだ!」と否定してしまいたくなる、そういう感覚を持ってしまうのがアダルトチルドレンの悲惨なところなのです。

例の「だめんずうぉーかー」なんかそのものやもんなぁ。まともで幸せになれる好青年をこそ「魅力ない」「つまんない」と好きにならないわけですよ。暴力的であるとか、性格が破綻してるとか、そういうどこかおかしい人間をこそ好きになってしまう悲しい性(さが)があって、それがえんえん続くってことになるわけです。

で、こういうことを「仕方ないんだ、それが性格なんだから」と言って諦めるのが、どうも最近の風潮のようなんだけど、それも全然間違いなんですよ。それは正せるの。直るの。直せるの。その意志を持って日々努力してればちゃんと直る。

で、その直し方は、赤線を引くことなわけ。先人の知恵をそのまま受け取ろうと思う素直さなわけ。現実をひんまげて解釈せずにそのまま解釈するやり方なわけ。それだけなのよ。ひん曲げないのだから、いちばん簡単なんだ。シンプル。そこをひん曲げるからこそおかしくなるんだ。

緑線ばっかり引くことで赤線を引かないってのは、本当に「バカの考え休むに似たり」だから、やめた方がいい。まず赤線を引く練習をしないとダメ。こればっかりは練習しないと身に付かないでなぁ。やるっきゃない、てことなんだよ。

まぁ世間的には、赤線を引くということをキチンとできる人のほうが少ないのかも知らんけどね。でも数が多ければ正しいってことではないからのぉ。日本人の大半、6割はアダルトチルドレンだという話もあって、「さもありなん」と私は思ってますからな。

ま、そういうことで、「暴力をコントロールしなければ」と言ってる人が実はネグレクトを暴力であるという認識すらなくて、その自覚がないがゆえに平気で「無視」をやり続けていて、でもそれを無自覚にやってるから、「やった」という自覚もなく、自覚がないから不満の解消にもなっておらず、ずっと欲求不満のままで、周りに迷惑かけ通しなのに、それにも気づけない、なんてバカなことがあったりするわけですわ。

三色ボールペンの齋藤孝さんが賢いなぁと思うのは、ようはそういう欲求不満の力こそを勉強に向けなさいというようなことを言ってる点ですな。賢いよなぁ、齋藤さん。

結局、そういう過剰な力を、どう発散させるかこそが課題だと言い切ってるもんな。齋藤さんは。えらい。

そういう意味で行くと、福沢諭吉も似たような事を言ってるし。福沢諭吉も偉いのよなぁ。「デモクラシー」は、いまの日本語では「民主主義」ということになってるけど、福沢諭吉は「民衆交際」と訳したらしい。見事!!! って思う。

民主主義の持っている考え方を一言で言うなら、まさに「民衆交際」だよ。本当に。これは民主主義とはどういうものなのかを、「字義通り」にキチンと勉強していって、その上で「民主主義」という概念の日本での理解のされ方が「なんか変よなぁ」というところまで理解が進めば、実感として感じ取れる。

「民主主義って多数決のことでしょ」とか間違ったことを我々は平気で思ってしまうけど、デモクラシーを「民衆交際」と訳していれば、そんな間違い、絶対に起きなかったはずなんだよなぁ。

人間はひとりひとりまったく違う。だから話し合うことが大事。無視は暴力。やってはいけないこと。だから民衆交際せよ。ここまでのことが、デモクラシーの本質でそういうことが「民衆交際」の一言で伝わる。多数決が民主主義ではないってことが一発で分る。素晴らしい。

でもいまの日本においてはデモクラシー=民主主義という言い方が普通になってるので、実はいまだに民主主義自体が完全に根付いたわけでもないのですな。だからこそ本を「字義通り」に読むということが大切なのです。

字義通りに読んではじめて、「民主主義とは多数決のこと」というのが「なんか変」というのが分ってくるのだから。

で、ここまでのことが「赤線」なのだ。いろんな書籍の「赤線」をつなぎ合わせて、この赤線より、こっちの本の赤線のほうが、うまく言えてるとか、より重要だとか、より大きな概念をあつかっているとかを繰り返していく。それが「大事」なことなわけでね。

それを「横に置く」とかするなよなーって思う。ほんとうに。
赤線は赤線でキチンと学ばないと損だぜ。それは。ほんとうに。

そういうことであります。
なんかずっとアダルトチルドレンの話を書いてますが、アダルトチルドレンの問題は一言で言うと「気づけない、正せないという病気」という言い方に尽きると思うのです。

逆に言ってしまえば、気づいた途端にこの病気は終わってしまう。けっこう楽々と修正できるんですね。

ところが「×××は、●●●のせいだ」とか、本当に他者から見るとバカみたいな理由で事実を知るのを避けていたり、あるいは他者からも「そういうことなら仕方ないね」とエクスキューズを保証してもらったりして、「真の原因」が見えなくなってしまうわけです。

だから、何が問題なのかというと「ずっと勘違いしたまま生きている病」と言ってもいいのが、アダルトチルドレンなわけです。

勘違いしたまま生きる、なんていうのは誰でもやってることですから、別に正す必要もないのかも知れないのですが、たとえば僕みたいに「どうしても彼女ができない病」だと思いこんでいたりすると、人生を棒にふってしまう、てなことにもなりかねないので、そのあたりはよくよく注意をしないといけないわけです。

「だめんずうぉーかー」の女の子たちも同じことですよね。「変な男、ろくでもない男ばっかりにひっかかってしまう」という病気です。

結婚している場合は逆にもうちょっと深刻になって、主婦だと「好きでもない男と結婚してしまってパンツを洗ってやるのが嫌で仕方ない」とかになります。

そうでなかったら子供依存になって「この子がいなかったら私には価値がない」とかになる。この場合は子供が不幸になりますね。子供が大人になってから不幸になる。二十年とか三十年とか経ってから、問題が深刻化する。

私は今年、結婚する予定にしておりますが、四十過ぎて結婚という事態に至ったのは、もう単純にアダルトチルドレンのせいです。「なぜ、女性と仲良くすることに障害を抱えてしまうのか?」ということに対する捉え方を間違えたまま、二十年も過ごしてしまったというようなことになります。

ほんとにね、ボタンの掛け違えのようなもので、勘違いがそのままになってるから問題が解決しないんですね。要するに「気づけない、正せない」なわけです。

僕の場合は「父という人」のシリーズでそのうち書きますが、子供の頃、それも二歳くらいの時に、無意識に「ほんとうに大事に思ったことほど、うまくいかないのだ」というようなムリクリな刷り込みを自分に対してやってしまっていた、というのがすべての原因なんですね。

それもまだ幼い子供の頃の「思いこみ」ですから、理屈になってないわけですよ。感情と気分みたいな「感覚」で体にしみついていたわけです。

そういう「感覚」を体に染みつかせておかないと、報われないって思ってたんでしょうな。子供ですから。自分の気分を整えるために、そういう「感覚」で調整してたんだと思う。

でも、そういう「思いこみ」をずっと抱えていたが故に、「ほんとうに大事な人」が出てこようとしたとき、本当に好きになろうとした相手に対して、「ぶちこわし」をしたくなる衝動が襲ってきてたんですね。

まぁ、バカな話なんですが。でも事実なんだからしょうがないですわ。

前後の脈絡なく、いきなり「結婚しよう」と迫ったりとか、なんかそんなパターンですな。ぶち壊してるとしか思えない行動を毎回取ってましたねぇ。それも内面からわき出る衝動的な感情があって、それを押さえられないというような、そんな感覚だったわけで。

その「衝動的な感覚」が、子供のころの思いこみに由来してるのだと気づいたら、もうあっさりそういうことがなくなっちゃって、「なんだ、こんな簡単なことだったんじゃないか」ってなってしまった。

ただ恐ろしいことに、そういうアホな衝動に二十年も振り回されてしまったという事実だけがぽつねんと存在してるわけですが、まぁそれはこれから取り返していくしかないわけで。

で、その「勘違いしていた二十年」という期間、この「衝動」について、自分がどう思っていたかというと「これこそが僕自身の真の気持ちなのだ」とか思ってたわけです。アホなことに。

いやー、三つ子の魂百までとは、よう言うた。
おそろしいことです。

で、それをまた、二十歳のころに付き合っていた彼女のせいにしていたわけです。「あの時の別れが強烈で、それがトラウマになってしまってるのかもしれない」とか考えてた。

自分でもそう思ってたし、周りもそう理解してたし、それで事は進んでたわけです。

「そりゃ、あの子は可愛い子だったしなぁ、うまくいかなかったら、ショックも大きいだろうよ。」

てな感じ。
で、自分でもそう思いこんでたわけです。

でも違うんだよなぁ。
そんなこと全然関係なかった。
ようは子供の頃に「大事なことほどうまくいかない」という「感覚」が体に染みついていたということが問題だったというそれだけのことだったんですねー。

ここに気づくのには、実は二十歳のころに何故かつけていた日記がすごい役に立ったのですよ。実は。

「俺はあの子とのことがうまく行かなかったから、それが原因でいまも彼女ができないのだ」という思いこみを抱えたまま、それでも、なんとかせねばと思っていろいろ考えてたときに、そのころの日記を読んでハッとしたんですね。

実はその最初に彼女とは「遊び半分」でつきあい出してたのだ、ということが良くわかったのです。日記に書いてある自分の気持ちを読み直すと、当時としてはういういしい若者だったから「真剣」なつもりだったのだけれど、いまのこの年齢から読むと真剣みが全然ないというのが、ものすごーく良く分かったわけです。

「おまえなぁ、そんなええかげんな気持ちで女の子と付き合ったら、相手が可哀想やぞ」と言いたくなる。そんな感じ。

そこでハッとしたわけですよ。本気でもなく遊び半分でつきあってたのに、「トラウマ」なんかになるわけない。

でしょ?

あ、原因はここにはない!

ですよ。

なんかね、ものすごく高級な推理小説を読んでる時のような気分ですよ。
自分のことなのに、自分でそれが把握できていない。

まさに「気づけない、正せないという病気」なんですね。

「可愛い女の子との大恋愛の末、大失恋になったトラウマで彼女ができなくなって四十過ぎまで独り身の男」とかの勝手な言い訳にずっと便乗してただけなんです。

ほんとうは子供の頃の親子関係に原因があった。で、別にそれは親が悪いとかなんとかはどうでも良くて、(ほんとに親はどうでもいいんです。関係ない。大事なのは自分。)あまりに幼かったが故の「勘違い」こそが原因だったという、そういうことなわけです。

つまりは「自分の勘違いをそのままにしてしまった」という失敗なわけです。「自分の失敗」なんです。単純に。

これねぇ、つまらないように見えるけど、すごく大事なことなんですよ。
「誰かのせい」にしてる限り、この問題は絶対に治らないわけです。だって「原因はあいつ」だから、「あいつ」が変わらない限り治らないってことになる。

でも違うのです。「原因は自分」なのです。自分の幼いころの「思いこみ」が原因なのです。

で、自分が原因なのだから、自分で修正可能なわけです。

ここではじめて治る可能性が出るわけですよ。
他人のせいにしている限り、この問題の解決は永遠にない。

僕の場合で言うと、女の子と仲良くなって、良い関係になって、たとえば「継続的なおつきあい」をしようと思うほどに「大事」になりかかって来た時に「大事なことほど、うまくいかない」という「感覚」が強く湧いてきて、「何かとんでもない事」を発作的に、衝動にかられてやってきてしまってたわけです。

だから、本来は、その発作的行動をやめて修正するだけでいいんですね。この問題行動にだけ注意を払って、そこを修正しようという考え方が認知心理学や行動療法とかなのだと思うのですが、どうも僕の場合はそれではうまくいかなかったんですね。「衝動」がどうにも強すぎて、コントロールできると思えなかったので。

で、苦しんで、いろいろ考えていって、アダルトチルドレンに出会ったということになります。

もうね、アダルトチルドレンの概念に出会って、自分がアダルトチルドレンなのだ、と気づいたら一気でしたね。一気に問題が解決できた。

だって、自分なんだもん。原因は。
ようするに。

自分のことなんだから、自分でどうにかなるわけ。
意志の問題なわけ。

それまでずっと「二十歳の頃に別れた彼女」のせいにしてたから、問題が解決しなかったのですから。

そんなもんね、ちゃらちゃらした恋愛なんかが「トラウマ」になんかなったりしませんよ。「トラウマ」っていうのは、生きるか死ぬか、生死に関わるような出来事に直面しなければ起きない事柄なわけです。

で、普通、大人になるまでというか、大人になってから「生死に関わるような出来事」になんて滅多に出会わないですよ。それこそ阪神大震災とかでも起きないと。何が「恋愛でトラウマ」なんだよ、バカ>自分 ってことです。

でも、「言葉ももっていないころの自分」にとっては、「親子関係は死活問題」なので、実は子供の頃の親子関係っていうのは、まさに「生死に関わる大問題」なわけです。

しかも「言葉も持ってない段階」だから、この時に感じたことが一生を左右するというのは充分にありえるわけですね。

子供ですから現実対処能力もなく、「事実を曲げて解釈する」というような合理化を行うしか他に方法がなくて、それが大人になってから、「衝動」という形で、心の奥底から湧いてくるということにつながるわけです。

大人になったんだから、もう「無理な合理化作業」などしなくても良いわけで、その「衝動」が湧いてくるようなこと以外は、たいていなんでも屁でもなく対処できてるわけです。

でも、その「衝動」が湧いてくる対象にだけは、そういうまともな態度が取れなくなってしまうわけですね。

で、この「衝動」の対象というのが、人それぞれに違っていて、「恋人」が対象だったり、「自分の子供」が対象だったりとかするわけです。

僕の場合は「大事なことほどうまくいかない」という、アホな思いこみが自分を縛り付けていて、人間関係を始める前にやめるという馬鹿なことをやり続けていたわけですけども、アダルトチルドレンの症状は、たいていの場合、人間関係に齟齬が生じるのが通常のパターンですから、思いこみの内容によっては「大事な人をふみつけにする」とか「大事な人を利用する」というような形になりやすいんですね。

だから、大人になって家庭も持って、それでいて自分のアダルトチルドレン的要素をキチンと顧みてない人は、旦那や子供を犠牲にしている可能性が高いですので、要注意です。

とにかく、「×××は、●●●のせいだ」という発想を持っている事自体が問題で、たいていの問題は自分が変わる、あるいは行動することで解決可能なはずです。

まず、「自分」というものを見つめるということが何より大切で、これができてないとするならば、それが一番の問題・課題になりまるね。

とにかくアダルトチルドレンというのは「私はアダルトチルドレンである」と自分に宣言して、自分の内面に問題がないかを自分で探っていく態度そのもののことでもあります。

それはひっくり返して言うと「自分の問題を他者のせいにしない」という態度そのものであり、アダルトチルドレンが親子関係に原因があるという事実を踏まえながらも、決して「親が悪い」という他者のせいにはしないということもまた、とても重要なポイントだと思います。

「自分の問題は自分の心が引き起こした自分の考え方の反映である」ということさえわかっていれば、この「気づけない、正せない」という病気は治ります。

だから、アダルトチルドレン問題というのは、ようはいかに「原因は自分にあったのだ」と気づくか、その気づきの過程そのものだという気がします。

まさに「気づけない」ことが問題なのであって、そこに「気づく」ことができれば、それがすなわち解決である、ということなんですね。
ちょっと個性と共通性について書いたので、もう少し解説をしておきたいと思う。

人間がひとりひとり違うのなんて当たり前で、そこをギャースカわめいてにこだわる人間こそ、「個人」というものの考え方の豊かな広がりが分っていない人間なのだということを強く指摘しておきたい。

人間の顔は、みんな違う。ひとりひとり違う。全部違う。ことごとく違う。全然違う。まったく違う。

つまり「同じであるはずがない」のである。同じ顔がいたら驚きだ。同じ顔の人間がいたら、双子か三つ子か六つ子か、なんかそういうものだ。あるいは整形か。改造人間である。

ここまで当たり前のことは、「わざわざ言わない」のが当たり前なのだ。言わずもがな。説明の必要なし。

だって、個人の特定って、みんな普通に顔でしてるじゃん。顔がみんな違うからそれができるわけで。「もともと異なっていて当たり前」なんだから、それはそのままですべての人間関係に通用するのです。だから「個性が大事」なんてわざわざ強調する必要なんかこれっぽっちもない。

だって、人間は、「何もしなくても個性の塊」だから、です。

ありのままで個性の塊なのだ。そのままほったらかしでも個性的です。何の加工も必要ありません。それはもう、素晴らしい天与の才能と言ってよろしい。いちいちいじる必要もないのです。

であるにもかかわらず、教育においても、生き方についても、学びについても「個性的で自分なりのやり方」を、うんぬんする一連の考え方があって、それはどうにも信用できかねるのだ。

そういう人の話を聞いていると、まるで「個性」が後付されるかのように感じる。

スターウォーズにはストームトルーパーという真っ白な甲冑を着た兵士が登場するが、あれが実はクローン人間でして、エピソード2において、みんながみんな同じ顔をした、兜を外したトルーパーたちが並んでいるシーンが登場するのだけれど「個性が大事」と叫んでいる人の意見を聞くと、人間がああいうクローンとして生まれて来ていると考えているのではないか? と思ってしまう。

そんなもの、一定のルールや学習法、考え方、条件など「変わらないもの」をあてはめた方が、人間の個性は推し量りやすいのだ。当然じゃないか。

このあたりの考え方については「ドラゴン桜」が実に良い解説書だよなぁ。ドラゴン桜は面白いです。教育を考えるうえにおいて、ドラゴン桜を読んでない人は、とりあえず流行遅れというか、一方の雄、重要な考え方を取りこぼしているということになると思う。ドラゴン桜は重要。

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さて、で、僕がいいたいのは、「では、人間はみんな違う顔なのか?」という問いである。

確かに個人の特定が顔でできるくらい人間はみな個性的だ。

でもしかし。

誰もが目を二つ持ち、鼻がひとつで鼻の穴がふたつ、耳もふたつで、口はひとつ。頭には毛が生えていて、目の上には眉毛がある。というくらいは、「大方同じ」なのだ。

ちゃーーーーんと「共通性」はあるのだ。

で、大事なのはこちらだ。

自分と異なる人間同士が、語り合い、分かち合うべきなのは、この「共通性」を通じての共感ではないのか?
この共通性があるからこそ、人と人は理解しあえる。重要なポイントである。

これこそが、「三色ボールペン学習法」における赤線なのだ。

ひとりひとりの個性の違い、その微妙な差を大切にしなければならないからこそ、共通な事柄を重視する必要があるのだ。

人間にはみな目が二つある! と言っても、それは別に「決めつけ」ではなかろう。

ましてや、「人間にはみな目が二つある!」と言うことが、果たして「人間の顔の違い」を否定することになるのか? ということだ。

個性が大事なのは、至極当然なので、あまり強調したりはしないのだが、「個性が大事」とする主張が、あまりに強い時、私はなんだか気持ち悪い主張だなぁって思ってしまう。「あなたは人間をクローンかなんかと間違えてないかい?」とか思う。もともと個性的なんだから、そんなこと強調しても意味ないじゃんって感じるわけです。

もともと持っているものを引き出すってことなら、いくらでもうなづくんだけどもね。

やっぱり結局、「赤線と緑線と両方をテキストに引きなさい」とした齋藤孝さんの考え方が、実に利にかなっているってことだと思う。考え方として実にまっとうだよなぁ。正しいと思う。

で、齋藤さんいわく、「緑の線は引きやすいが、赤の線を引くのは練習が必要」なのだ。練習、経験、積み重ねが必要なのだ。そして、それを勉強と言うのだと思う。

だから単純に「個性、個性!」と叫んでいる人は緑線ばっかり引いていて、赤線を引く練習をしてないだけに過ぎず、おなじテキストを読みながら「大事なことだけ読み落としている」状態なのだ。

ここね、すごく大事。

同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とすんです。

ここ、何回繰り返してもいいくらいに重要。

「同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とす」んです。

で、「読み落としている人」は、ずーっと読み落としたままなわけ。

で、なんで「読み落としてしまうか」というと、赤線が緑線を否定してしまうと勘違いしてるからです。

「誰もが目をふたつ持っている」という事は、別に「個性の否定」じゃないんだよってことです。

ところが、これを勝手に「個性の否定だ」と、自分勝手な「読み方」をして、それで「個性が大事!」とかギャースカわめく。

いや、それ、単に「勉強」が足りないだけだから。本当に。

人間には目が二つあるという共通項を正しく認識するからこそメガネという便利なものも生まれてきたし、おなじように「みんな胃腸を持っている」と認識したからこそ医学が生まれ、病気にならずに生をまっとうできるようになってきたんです。

まさに「違いがあるからこそ共通項が重要」であって、その「違い」と「共通項」は、全然、最初から対立項ではないのです。並立項目なの。

でも、この「並立」を「対立」と、どうしても考えてしまう人というのがいて、でもって「対立」と勝手に思いこんでいるから、いつまでたっても、百年たっても、並立している「共通項の大切さ」を学ばない。

この「共通項の大切さを学ばない」という態度に関しては、それは完璧な間違いなわけです。それは許されざる事。明確に悪いことなわけね。だから「それは間違っている」と言わなきゃしょうがなくなるのだけれど、そう言うと「決めつけてる」とか言われる。なんだかなー。ほんとに。

でも、その「学ばない態度」というのは、ようするに「個性が共通項に圧殺される」という、実際には存在しない恐怖によって生まれている勘違いなわけです。

勘違いなんだよ、そんなもなぁ。わかってるかぁ!

で、「学ばない態度」なんてのは、最初から「間違い」なのよ。これはどうしたって。そういうこと。

つまり、「ありもしない恐怖」によって自分を成長させる機会を失っているという、そういう構造でして、このあたり実はアダルトチルドレンの精神構造がまさにそれでねぇ。

この、「パイプのつまり」を治さないと、本当に必要で重要な知識や考え方、豊かな精神生活は得られないと私は思うのだ。

「共通性の重要さ」みたいなことを、「学ばないことで身を守る」てなことで拒否していたら、そら成長がないのは当然ですよ。当たり前だ。

「学ばないことで身を守る」

これ、本当に嫌い。
大嫌い。

「学ばないことで身を守る」と、つねにセットになっているのが「レッテル貼り」です。「あいつは左やから」「あいつは右やから」「あの人は頑固だから」「あの人は決めつけるから」「あの人は○○主義者だから」「あの人は××だから」等等等。

レッテルを貼って安心するのな。で「学ばないことで身を守る」をえんえんと続ける。

もう、本当に嫌。心底嫌い。コミュニケーションでけへんもん。最低や。ほんとどうでもいい。

なんなんやろね。「自分が変わってしまう恐怖」で、頭の中いっぱいなんやろなぁ。

確かに勉強すると考え方も変わるし、別の視点を持つようになる。でもそれは成長って言うんだよ。
もともと持ってる「顔の個性」をなくすわけじゃない。

そんなもん、「自分らしさ」なんか永遠になくならないよ。ずーっと変わらない。

それより、より広い視野や、実際に効力のある知識などが身に付いて楽しい部分のほうがうんと大きい。

こういう話を書くとき、いつも思うのが「百円ライターと部族の伝統の宝物を交換したおろかな原住民」の話だ。

赤線と緑線をきちんと区別する態度があれば、そんなおろかなことはしないんだって。

だまそうとするやつは、赤線と緑線の区別もついてないことをいいことに、百円ライターを「魔法の道具だ。すごいだろう。」と売りつけるんだ。

赤線と緑線の区別のついている人間は「百円ライターなんて、価値はないんだ」と、原住民にライターの仕組みや文明国の経済の仕組みを説明しようとする。

でも、「赤線と緑線の区別」ができてない原住民には「魔法の道具だ。すごいだろう。」という説明の方がはるかにわかりやすい。だから伝統の宝物という、この世に一個しかない大切な「個性」を、百円ライターと交換してしまうのだ。

そんなもの交換しちゃダメだよ。

で、そんなバカな交換をしないようにするには、赤線と緑線の違いをキチンと読み分けて本を読み、ライターの仕組みや文明国の経済の仕組みまで、学習していくしかないんだよ。他に道なんかない。

自分たちの宝物を守るためには、それしか方法はないのだ。他に方法なんかない。絶対にない。それは、人間の顔がみんなそれぞれに違うのに、目は二つ、耳はふたつと共通項があるというのと同じくらいに自明のことなのだ。

その「自明のこと」を「学ばないことで身を守る」で避けて、逃げて、耳をふさいでいたら、そら騙されるわなぁ。

でも、世間的には、「学ばないことで身を守る」をやってる人のほうが、はるかに多い。

せめてね、せめて「私は何も知らないし、学ばないから、そのままの生活でいく。」くらいの覚悟は持って欲しいのよなぁ。

「学ばないことで身を守る」をやってる人は「赤線は緑線を否定する!!」と赤線攻撃するからかなわん。近づく気にもなれん。あほくさい。

百円ライターの構造解説をしたら「異教徒の呪文で我々をたぶらかす、恐ろしい黒魔術師」と追い返されるというようなことになってしまうばかりなのだ。

あー、あほくさい。実につまらん。

とにかく「個性、個性」と言いたくなったとしたら、それはようするに「自分に対する信頼度が下がっていることだ」という、当たり前のことには気づくようにしよう。

もともと個性なんてあってあたりまえなのだ。

自分に自信が持てなくなっている、「自分が自分である自信」がゆらいでいるから、「個性」を強調したくなってしまっているにすぎないのだ、という事は意識したほうがいい。

自己同一性(アイデンティティ)がゆらいでいるということだ。

本を読む、勉強するというのは、このアイデンティティを手放さない事に尽きる。

勉強をするとき、少なからずアイデンティティはゆらぐ。自分が変わってしまう恐怖にさらされる。これは当然だ。

でも、そこで「それでも私は変わらない」という自信を持つことが学習するためのパスポートなのだ。

そしてそれは、「人間はみんな顔が違う」という事実に対して、いかに信頼感を持っているかに関わっているのだ。
そこを信じていれば、何事も恐れずに学習できるはずだ。「書籍くらいで私は変わらない」ということだ。

この根幹がゆらいでいると、学習自体ができない。
「学ばないことで身を守る」しかできなくなる。

まず、ほかとは全く違う、自分自身を愛することだ。自分を「醜いアヒルの子」と思わずに、その「違い」を、「大空に羽ばたく羽を持つ白鳥の子」と認識することだ。

まず、そこが出発点だ。
それができずに、自分を「みにくいアヒルの子」と思っているから、「共通項が私を否定する」と感じてしまうということなのだ。

要するに個性と共通性というのは、そういうことなのである。

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