ちょっと発想と歩くことの話をしたので、でかける事と学ぶ事の共通項についても書いてみたい。

たとえば、海外旅行に行くなら、一度出かけた人に話を聞くのが早い。

行ったことがない場合は、行ったことのある人の話をキチンと聞いて、それを「地図帳」にして行動するのが吉というものである。

しかし、これを「行ったことのない人」に相談しても、まぁ意味はない。堂々巡りをするだけだ。

まだまだ経験の浅い人間なので、僕はいろんな「行ったこと」のある人の話を頼りにする。10人聞けば10人分、情報は正確になってくる。

勘違いや特殊な条件でそれぞれの人の言ってることは、ちょっとずつ違うことも多いけれど、数多く話を聞くほどに、「重要なこと」は共通してるよなぁって思うことが多い。

これは考えてみれば当然で、目的地である「海外の土地」は一カ所だからだ。大事なところは、同じ事実を基盤に語られるから、同じ結論になることの方が圧倒的に多いのだ。

このあたりは、「積み重ねたら、大事なことはだいたい一緒。」というタイトルで、去年の12月21に「三色ボールペン情報活用術」の感想として書いたことと、同じことだ。

本を読んで、「個人的に興味を惹かれたところ」に緑、「ここは大事だ」と思ったところに赤の線を引いていくと、緑はそれぞれにバラバラだけども、赤の線は、慣れれば慣れるほどに同じ場所に赤線が入る。

つまり「大事なところは、だいたい一緒」ということなのだ。

これは自然と決まってくることで、それは恐らく、生きていく上においても同じことだろうと思う。人生が旅なら、出かける先はみな同じ、大事なことっていうのも、だいたいみんな同じなんだということだろう。

で、この緑と赤を間違えたらあかんと思うのよな。

赤は赤として厳然として存在している。
でもそれは緑を否定して存在しているのではない。

ところが、緑と赤の違いを理解してない人は、赤の大切さを伝えると「自分の個性を否定された」と思いこむので困る。

なんちゅうかね、それで私を「決めつけの人」とレッテルを貼って安心しようとするのだねぇ。「ああ、シゲさんは頑固だ」とか。違うっちゅうに。まったく。

それはあなたが緑しか知らないだけじゃん。無知。それだけのことだよ。と私は言いたい。つまんないなー、ほんとに。赤も緑もあるっちゅうに。

そんなもんね、個性なんか、否定してもしゃーないよ。個性なんかあるに決まってるやん。それをわざわざ「みんなそれぞれ違うんだ」と強調しないといてられないってことの方がよっぽど不幸だっちゅうに。

それより、そういう「個性」とは別に、誰もに役立ち、守り、活かせば、大きな幸せが得られる「大事なこと=赤」の部分を、「一度出かけた人」から学ぶのが賢いってことだ。

それこそ、何人もの人の話を総合して学習していくと、共通した「大事なこと」というのは見えてくるものなんよなー。
「おお、そうか」と思う。

赤線を引こう。緑線とは別に。両方引いたらいいんだ。そんなもの。

世の中には赤線だってあるってことです。はい。

ところが、とにかく、この赤線を否定しよう、否定しようとする人がいて困るの。なんなんやろなー、あれは。ほんまに困るわ。

本を読まずに批判するとか。たいていは「レッテル貼り」で「見ざる、聞かざる」をやってるってことだけど。「あの人は右らしいから話しを聞かない」とか「あの人は頑固で決めつけ多いから聞かない」とか。

何言うてんねん。あなたが知らんだけやんか。それは。知らないでおこう、知りたくないと虚勢を張ってるだけ、って思うんだけどねぇ。ほんとに、ただそれだけでしょ? ああ、つまんねー。

まぁどうでもいい。大事なことは大事なこととして、わかってる人の間では、ちゃんと確かに共有されてるんだから、それでいい。最近はつくづくそう思う。知らない人間が知らない同士で堂々巡り論議をやってるのが、一番つまらん。

ありとあらゆる学問も、規範も、歴史も、人類の英知の多くは、その「共有」された部分からこそ生まれてるんであって、それを「私の個性を否定するものだから聞かない」と言っても、意味がないのは自明だもの。

なんかそういうことを思う人は、赤線が緑線を否定するって勘違いしてるらしいのよなぁ。

あのなぁ、この世って、そんなチンケでちっぽけなもんじゃねぇぜ、って言いたい。

そんなもん、赤と緑は完全に別。完全に両立します。あたりまえでしょ。この世はもっと豊かで自由ですよ。そんなこともわかってない自分を恥じなさいって言うの。個性の違いなんかあって当たり前。わざわざ言うよなことではないよ。

そういうこと。

でもなぁ、最近、この「緑と赤」の区別が、世の中にはあるんだ、ということすら分ってない人が大半であるという事実に気づいて、私は愕然としてるんですけどね。

当たり前やと思ってたけど、世の中、緑と赤の区別がついてない人のほうが普通やったんよなー。

赤線の存在を知れば、幸せなところに行くのは、それこそ電車に乗るようなもので、とっても簡単になるんだ。公共の交通機関は使うためにあるんだから使わなきゃ損だっつーてるの。なんでわざわざ「全部歩かないと出かけたことにならない」って思うかねぇ。ほんとに。

このあたり、わかってない人が多いということが、私にはとても生き辛いのである。電車くらい使えよー。便利やから。ほんとに。

で、頼むから緑と赤の区別くらい理解してくれよ。最低限でっせ。ほんとに。
つくづくそう思う昨今である。
えー、「自分のこころ」について考えていて、ふと思ったので書きます。

頭を使うとか、考えると言うことは、たぶん部屋の中にこもっていたのではできないのだと思う。

表題に「足で考える」と書いたのを見て「ああ、出歩いていろんなモノを見て刺激を受けろとか、そういう事を言いたいのだろう」と思った人もいてるだろうけど、まぁそれは三分の一くらいしかあたってない。

もうね、純粋に「足が考える道具なのです」という意味なんです。別に何かを体験するとか見聞きする、見聞を広めるとかは関係ない。

いやいや、もちろんいろんなところに出かけた方がいいに決まってるのだけれど、それよりもっと物理的に「歩く」という運動が頭にも、心にも良いに違いないという健康法的発想の話なのであります。

なんちゅうかね、歩かないのはダメだと思う。心が濁るっていうかねぇ、何かといろいろ「溜まって」くるのだ。ダメダメ。

昔、フリーになったばかりの頃、出る金を抑えるために自宅でずっと仕事をしてたのだけれど、一年ほどして、何かと鬱屈してきて、嫌になって事務所を借りることにした。

いや、そうしないともうダメだったと思うのよなぁ。精神的に。

で、その時、「歩く」ということをする機会が増えたわけです。自宅から最寄り駅、最寄り駅から事務所。その間、ずっと歩く。

体を動かすとね、いやでも血流が変わるしね。気分だって一気に瞬間に変わっちゃうわけです。

でも、このすごい効果を、自宅でシコシコ仕事してると気づくことすらできなくなってしまうんですな。

足は第二の心臓とも言われていて、足を動かすことで血の流れが全然変わってしまうから、この筋肉が衰えるとほんとにダメなんだよなぁ。

年寄りでも、歩かなくなると、途端に弱る。足が大事なのだ。

僕に言わせれば、足は第二の脳みそで、これを使わないのは、ちょっとまずいと思う。バカになる。車・電車・バイク・エレベーター・エスカレーターその他、全然足を使わなくていい環境がどんどん整ってきてしまってるけど、やっぱり人間は足だと思う。

歩かないとダメだ。

いまの環境だと、自宅から駅まで10分。事務所の最寄り駅から事務所まで10分足らず。合計20分を往復なので、最低40分は毎日歩いておりますが、これだけでは全然歩き足りなくて、行きか帰りかのどちらかで、梅田あたりをブラブラすることがとても多い。

まぁやっぱ、一日最低でも一時間半は歩かないとダメだよなぁ。もの足りない。座って考える仕事なので、とにかく歩くとかの体を動かす作業をしないと、イライラしてダメなのだ。

で、歩くのがいいのは、ようするに「一人の時間」を持つことになるからなんだと思うのですね。
この孤独の時間をキチンと持たないというのは、よろしくないように思う。自分との対話の時間というか、すごく大事なんだよなぁ。足というポンプが血液を頭に供給しながら、つらつらと、この世のことどもを考えるというのがいい。

特に歩く速度というのが、身の回りのものの細部を観察しながらも次々に変化していくという特徴を持っているので、これがまた良いのです。木々の変化や、街の中の人の表情や持ち物、ポスターに書かれた情報などなどをキチンと捉えながら、それらが連続して、「この世」になっているのを感じ取れる。

これがいい。

家の中にしかいないと、家族という関係性しか見えなくなって家族バカになるし、仕事場だと同じ構造で仕事バカになるわけですが、そのどちらでもない中間部分、個人と社会をつなぎ止めている接着剤部分を、たんねんに体感することで、部分と全体がくっついて、この世を生き生きと感じ取れるっていう風に思う。

で、それを「生き生き」と感じ取れるのは、やっぱり「足を動かす」という第二の心臓、第二の脳みそを活躍させているからで、これをちゃんと毎日動かしてない人は、どんどんストレスがたまってどうしようもなくなると思うのですよね。

鬱病とか、その他各種の精神病のリハビリにも作業療法とか使われるけど、基本的には同じ事ですわね。体を動かすことで、体のサビを落とすというような、そういうことです。

で、この効果はすごーく大きいと思う。

なんか最近、自転車がブームで、知り合いの制作会社の社長さんも自転車に乗ってるというのをブログで書いていたり(なんと輪行までしてる!→輪行:自転車を分解して電車に持ち込み電車と自転車の両方を使ってサイクリングすることらしい。よくわからんけど。)、mixiのほうでも、知り合いの同年代の人が自転車通勤をしていたり、あのアイデアマラソンの樋口さんが世界最軽量の自転車での輪行されていたり、この日記でもRyoさんが自転車に乗っていたりで、なんかみんな足を使ってるんだよなーって思う。

なんちゅうか、実感を持った上で、停滞することなく、前向きな生き方、考え方をする人って、足を使っている気がするのですよ。

それは「考える」ということが、歩く、生きるということとつながっていて、そのつながり感が社会全体を「どのくらいの力でどのくらい移動できるか」という「体のモノサシ」で計測しているから、無理なくコントロールできているというような、そういう健全さがあるせいなんじゃないかなぁと思う。

なんでもないことのようだけど、すごく大事な気がするのですよ、このことは。

ちなみに、私、仕事が忙しくて、事務所にお泊まりして作業するような時に、事務所の中で、それこそ檻の中の熊みたいに、机の周りをエッチラオッチラ、歩きながら考えてたりするんですな。

やっぱり足で考えてるんだと思う。血液を足のポンプで頭に送って。

こうすると発想が出やすいんだよなぁ。
表に出て行って歩けばいいってなもんだけど、外に出ると、ひらめいたときに、すぐにパソコンに向かえないというのが辛いわけです。事務所の中だと、すぐに机に戻れるからいいのです。

で、この効率の良いやり方は、一人で事務所にいるときしかできないわけで。
だって、事務所の中を誰かが歩き回ってたら迷惑でしょ?
ほんとね、毎日でも、この方法で仕事したいくらいなんだけど、そうもいかないもんなぁ。

ま、ほんと、みなさん、歩いてください。自転車でもいいし。
(ちなみに私は、引っ越しした当初10分の徒歩を短くするために自転車に乗ってたのですが、すぐに駅に着くのが面白くなくて徒歩に変えてしまいました。徒歩の方が楽しい。ずいぶんと。自転車なら、事務所まで自転車通勤だろうなぁ。)

で、日々、何かイライラすることのある人。ぜひ「歩く」環境を生活の中に取り入れて見てください。毎日でないとダメですよ。週に一回とかじゃダメ。
ホント、いいものです。
mixiの真似して、あしあと機能がついたのはいいけど、オープンじゃないんだねぇ。誰かが内緒で覗いたりするのは、あんまり意味ないんだよなぁ。
やっぱりあしあと機能は完全にオープンでないとあんまり面白くない。

ここのところ、こっちに書いてるのが多いけど、いまは基本はミクシィのほうだなぁ。あっちの方がオープンで好き。明るくて健全だと思う。

2chも実は私個人は、あんまり好きじゃないんよねー。単純に玉石混淆の「石」が多すぎて効率悪い。
mixiは人づてに紹介してもらえないと入れないから、基本、オープンなんだよなぁ。

オープンだと責任感が出るから、みんなあんまり適当なことを書かない。書き込まれた情報がしっかりしてる。信頼度が比較的高い。そういうところが好きだなぁmixi。

mixiではアイデアマラソンの提唱者の樋口健夫さんとお知り合いになれたというのが、とても楽しい。いろいろメールのやりとりもさせてもらったりしてるけれど、人格者なんですなぁ。尊敬に値する。素晴らしい方です。

アイデアマラソンというのは、「ノートに発想を毎日つけていきましょう」というもので、これを続けることで発想豊かな人間になり、自信と自発性が養われるというもの。

こう書くと単純なんだけど、樋口さんのご本を読ませていただくと、その「毎日発想を出す」という考え方の裏に、どんな問題でも自分の知恵と力で解決していこう! というような豊かで健全な思いが背骨としてしっかり入っているという部分がとても大きいのを感じるのです。

もう、前から樋口健夫さんのことは素敵な人だなぁと思っていたので、知り合いになれて実にうれしいのですね。

樋口さんの本とかを読んでると、お子様への関わり方もとても魅力的で、ああ、こんな父親でいたいと思わせてくれるものだったりするんですね。

基本は「まず自分がやる」なんですな。たとえばアイデアマラソンとは別に「5か年計画」というのをやっておられる。

誰でも計画を立てたりはするんだけど、一年の計画だったり、突拍子もない夢の話だったりして、いまひとつ実現性がない。
でも5年計画というのは、とても実現性が高いんですね。一年ではできないことでも5年かけるとずいぶんいろんなことが実現可能になる。

で、これを自分でやる。で、やった結果、うまく行ったことを、お子様達にも勧めるということをしてる。

いいなぁ、このスタンス。すごくいい。
自分が実験台になって、良いモノだけ与えるって発想だもんなぁ。しっかりとした愛情があるんですね。

僕はアダルトチルドレンだったので、より良い愛情表現とか、より良い子供の育て方のノウハウとかを持ってないわけです。だから、ないものは学習しないといけない。ということで、けっこういつも世の「親族」というのは観察させてもらってるわけです。

で、いろいろ観察してると、いろんな親子を比較検討できるので、「ああいう親子関係はいまいちだなぁ」「あ、こういう親子はいいなぁ、これを目指そう」とかいうのが自然と頭の中にたまってるわけです。

でもねぇ、不思議というかなんというか、実はいきなり子供ができて、それで「親」になっちゃった人は、こういう観察をする余裕自体がない感じなんですねぇ。

ちょうど、舞台に立っている俳優が、観客から見ての演技としてどの程度に見えているかがわからないようで。

40すぎるまで結婚もせず、彼女もおらずで独身でいたので、逆にこのあたり冷静かつ客観的に点数をつけられるくらいにいろんな親子を見てきてたりするわけです。

特に、顕著に親子関係の善し悪しがストレートに出るのが「ファミレス」なんですな。
ファミレスでの対応を観察してると、本当に世間の親子関係がどういうものなのか、よくわかる。

ほんとうに素晴らしい親子関係だなぁと感じられる家族もいてるのだけれど、「そらアカンやろ」と思う家族も多い。

やっぱり最低なのは、親が親同士で子供を連れてきて、こどもそっちのけで雑談にふけってるパターン。ほんとに最悪。

子供にしたら無視されてるだけの拷問ですから、けなげに一人で(あるいは他の子供と)遊ぶわけですよ。で、そのうち走り回しだしたり、大声をあげたりしだす。

日本の各種施設は子供連れのことを考えてない環境が特に多いし、子育てがストレスのたまることなのはわかる。それに公園で遊ばせていた時の感覚があって、子供をほったらかしにしてしまうクセを持っているというのもわかる。

それでも「いくらなんでもほったらかしすぎやろ」というくらいほったらかしの親がいてるんですねぇ。いくら子供がワーワー言っても、何のアクションも起こさない。社会性がない。

でも、子供に罪はないわけです。これは親が悪いんだから。こういう時に、子供を騒がせない親というのもちゃんといると言うことを、ファミレスに行き慣れている私はよーーーーく知っているわけです。要するに、これは親が能力が低いんです。親としての能力が低い。

あまりにほったらかしにしてるんで、腹が立ってべちゃくちゃしゃべってる親たちのほうをにらんでやったりするんですね。そうするとどうするか!

ここがバカな親共通。子供を叱るんです。「ダメでしょ●●ちゃん。大きな声だしちゃ。」とか言う。

あほんだらー!!! 子供に罪はないわ、ぼけぇ! おまえがちゃんと相手してやってへんからいかんねやないかぁ! ドアホ!

と、どれだけ怒鳴りたくなるか。
悪いのはおまえじゃ、ぼけ。

子供はルールを知らないだけ。ちゃんとルールを教えるということもしてないんか!
それだけのことやないか! と思うわけで。

でもねぇ、多いんだ、この「オープンな公共空間でのルール」を、キチンと教えることもせずに、子供を頭ごなしに叱りつけるだけという親。
ほんとうに多い。

公共の場では大声を出したら、ほかの人に迷惑なんだよ、ということさえキチンと教えたら、子供はそういう間違った行動はそうそうしません。

で、その教え方がどれだけ信頼性の高い、堂々としたモノであるかないかで、子供の態度が変わるのです。

ようするに、親がルールをキチンと体得してないから、子供に伝えきれない、というだけなんですよ。

なぜそうしなければいけないのか。

そういう倫理観みたいなものを、自分の中に組み上げてこなかったから、「子供にもわかる、わかりやすい言い方」で、説明ができないってことなわけです。ようするに親が子供なだけ。

なのに、こういうことを言うと「子供を産んでもいない人にえらそうに言われたくない」とか言うのよなー、このタイプの人は。まず間違いなく。他の家族でキチンと守っている人がいてるということすら知らないままに。

自分を省みる、ということができてないのです。ようするに。

僕がいろいろ見た中では、子供とともにテーブルを囲み、話題の内容を勘案しつつ、子供と大人がともに参加できる話題をしながら食事をしている家族というのが、まぁ「これなら僕にもやれそうだ」と感じられた基準ですね。

そこへ至るまでには、たぶんちゃんと「公共の場では大きな声を上げたらだめなんだよ」「なんで?」「それはね…」というやりとりがキチンとされているはずで、それをちゃんと子供にもわかる言い方で伝えているはずなわけです。

で、それを、わかりやすく伝えるってことをするためには、日々、よほど「公共の場でのルールは何故あるのか」をキチンと深く考えていないと、子供に説得力を持って説明なんかできないんですね。

そんなものね、頭ごなしに叱りつけても子供には意味わからんですって。言うこと聞かないですって。で、それは子供が悪いんじゃなくて親が勉強不足なだけってことです。

社会の中での「自分」というものを、自分がキチンと育ててこなかったから、子供を育てることもできないっていう、ただそれだけのことなんです。

自分を育てることが出来てない人に、子供を育てることができるわけがない。

だから、自分の中が空っぽだから、親の権威をカサにきて叱りつけるという程度のことしかできないわけで。

僕は大学時代喫茶店でウェイターもやっていたし、独身が長くてしょっちゅうファミレスのお世話になってるから、子供が騒ぎ出したり席から離れたりしたら、

「こらこら、ウェイターの人にぶつかったりしたら頭からカレーがかかって、あつつつつとかになるから座ってなさい。」くらいは言えるし、「こういう場所では、本を読んだり内緒話をしたい人もいてるから大きな声をだしてはいけないんだよ。こっちへおいで、一緒にお話ししよ。」とか言うはずだ。

大事なのは、この「子供の納得」なのだ。納得しない限り、子供は絶対にまた騒ぎ出す。

騒ぐ子供は納得してない子で、それは親が子供を納得させられるだけの「中身」を持ってないというだけのことなのだ。

中身がないなら、せめて「おかぁちゃんにもよーわからんけど、こういうところでは大きな声を出したらアカンのよ。」くらいは言え。自分の無知をさらすという程度の勇気は持ってもいいだろう。親にも分らないことがあるんだと分れば、子供も納得するのだ。

ところが、世の親の6割くらいは「静かにしなきゃだめでしょ!」と理由もなく叱りつけるだけ。だから納得してなくて、しばらくするとまた騒ぎ出す。

ほんと、せめて「わからんけど、そうなってる」くらいは言えよなー。親の権威で子供を押さえつけて、それで親でございはなかろうって思う。

子供はその生存権を親に握られてるから不承不承従うしかないけど、そら酷でっせ、そういうところで押さえつけられるのは。

ということで、親の無知は、そのまま子供の不自由に直結する。親の倫理観の無さは子供のストレスの高さにストレートに結びつく。バカな親は子供を痛めつけるだけなのだ。

だからね、人間はみんな一緒だと思うけど、とにかく日々「自分の弱点を自省して、その克服に邁進する」という「自分育て」をこそ、えんえんとやってないとしょうがないものなのだと思うわけですよ。

ほんとにね、他者を恨んだり怒ったりしてるヒマは、ほんとうはない。(どうしても怒りの感情が出てしまうことはあるけどね。でもその間は自分の成長はないので、ものすごくムダなのだ。)
ましてや、他者を許すとかそういう高度なことなどできるわけがない。自分の過ちを修正できない人間に、他者の過ちを「認識」して、その過ちの起きた理由や背景を「理解」して、「ああ、そういうことなら仕方ないね」と自分がやったあまたの過ちと比べてその体験との比較から許す、なんてことができるわけがないのだ。

他者を許すためには、まず自分を許さないと許せる訳がないのだ。ということは、自分がまず、自分のやったことを「あー、恥ずかしい」とか思わないと許せるはずがないってことです。

で、この「あー恥ずかしい」とかは、まず自分の過ち、自分の勘違いなどを、正しく正確に把握してないと湧いてもこない感情なのですね。

だから自分が過ちを犯していると気づけない人が他者を許すなんてことは到底できるわけがないんですね。

だからまず、つねに必要なのは「自分育て」です。子供のことはどうでもよろし。親がまともな行動と言動を自信を持ってしていたら、子供は自然と真似るんだから、それが一番の教育です。

少なくとも僕がファミレスなどで見てきたまともな親子はそうだった。
数は少ないけど、ちゃんとまともな親子はいてます。

たとえば、ウェイターが食事を持って来たら「あ、ありがとう」とスッと言う親ね。
ただこの一言が、いかに効果があるか。
「ありがとう」と言った当人は気づいてないけれど、子供にもウェイター・ウェイトレスにも、隣の席にいてる人間にも、ものすごく高い、良い効果を与えている。一気に場がなごむし、こどもも席に着いていることの意味、サービスしてもらう立場なのだということを瞬間に理解する。

ちゃんとやってる人はいてるんです。できてないのは親が悪い。単に勉強不足。それだけのこと。で、子供は未熟なんだから出来てなくて当然です。だからそういうところで「叱って」も、意味なんか全然ないんだけど、どういう訳か「叱る」って親の方がはるかに多いんだよなー。

いや、まだ叱るならマシで、叱りつけた後に子供が言うことを聞かなかったからと、親が「ふん」って横を向いてすねるとか無視するとか、そういうバカなことをやってるのがいたりするからたまらん。あまりにひどい。

アダルトチルドレンの話にまたなってしまうけれど、たとえばギャンブル依存症もそうだし、アルコール依存症もそうなんだけれど、依存している当人だけが、それに気づけないわけです。

ギャンブルはしても依存するところまではやらない人とか、アルコールは飲んでも依存するところまでは行かないという人もいっぱいいる。でも依存している人は、普通の人から見ると一発でわかっちゃうんですよね。それは言動・態度をじっと見てれば、まぁわかる。わかってないのは当人だけなんです。

だってヘンだもん。そらわかるよ。

で、依存症は他にもいろいろあるけど、親が子供依存になってるのが多いわけです。「親の権威依存」かも知れない。そういうのは、もう見てればはっきりとわかるわけですよ。このファミレスの例なんかは端的な例。

横のテーブルに、ちゃんとまともな親子が子供を騒がせずに、楽しく食事してるのに、それを観察もできずに自分の子供は走り回らせてる、なんていうひどいのもいてる。「よその子はおとなしいけど、うちの子はやんちゃだから」とか自分勝手なことを思ってるのよなー。

違うって。親の教育がダメなだけだって。悪いのは子供ではない。子どもは未熟で当然なんだから。なら悪いのは親に決まってるでしょうが。どうしてそこをわからんのかってことですね。

そこを反省もせずに、子供を自分の思い通りにしようとするのが教育だと勘違いしている。強制的に言うことを聞かせるのが教育だと思っている。いや、それは単なる拷問ですから。児童虐待でしかないんですってそれは。説明なしの命令なんて、そんなもん普段の仕事で出されたら、もうそれだけで嫌になるはずです。なのに、どういうわけか、子供に対してはそれをやってもかまわないとか思ってたりするんよなー、あかんって、それ。

自分たちの家族しかみてないから、「自分たちの家族の偏差値」がわかってないわけです。
独身者から、つねに採点されてるとすら気づいてない。バイトのウェイトレスが「あんな家族になりたい」と思う家族と、「こんな家族にはなりたくないよな」と思う家族がいてるのだ、ということがわからない。

結局、自分たちの家族のことしか頭にないからそうなるのだ。

広い社会の中での個人、そういう「ひとりの私」という意識がないから、自分の心の中を覗くということができないのですね。で、自分自身の反省ということを習慣にしてないから、子供という弱者を「言うことを聞かせてかまわない」という暴力で縛り付けるだけになるのだ。

わかってない人はもう、ずーっとわかってないままなんよなー。ほんと気づけよって言いたい。ほんとうにわかってない親はちょんばれなんですよねー。ダメ親は本当にダメだ。見ていて本当に良く分かる。

で、こういう事を伝えて「あ、そら確かにまずい」と思う人と、これだけ書いてもまだ自分の問題に気づけずに、かたくなに「ふん、子供を持ってない人に言われたくはないわ」と言う人とに別れるだよなー。

わかる人はわかる。で、ちゃんと勉強する。良い親のモデルを探して学習して身につける。

わからん人はわからん。「ふん」と言って横を向く。成長しない。ダメ人間のまま。

本来なら秘密日記で書くべきなのかも知れないけど、あえて名前出しちゃうと、ちょめこさんなんか、学習の人。こっちがびっくりした。「こんな本、読んでみたら」と言った一言で、こっちがびっくりするくらい、一気に発想から行動まで変わってしまわれた。ここまで徹底してる人もめずらしい。(でも、あんまり一気にやると反動とかしんどいし、ゆっくりやってね。)

かと思うと、本を紹介しても、その本を読みもしないで、読まずに批判したりするような人もいてる。

なんなんだろうなぁ、この極端な差は。
正しい認識を持った方が、はるかに、はるかに、はるかに、はるかに、圧倒的に幸せになれるからこそ、言ってるのに、その肝心の「幸せの秘密」を理解しようとしない。
わかりたくない人というのは、もうずーっと、わかりたくない人なんだろうなぁと思う。

うちの父で言うと、母親に捨てられたんだという事実を、ちゃんと「単なる事実」として、自分の体の中に受け入れれば良いだけのことを、どうしても受け入れられなかったから、バクチでごまかしていたんだろうなって思う。

そら、事実を受け入れるのは辛いかもしらんけど、事実は事実なんだからしょうがないじゃん。そこから逃げてても、自分が幸せにはなれないよね。

嫌な事でも事実は事実として受け入れて悲しみをちゃんと味わって、そんで「自分の幸せづくり」に邁進しないとダメだと思う。

でも、この悲しい事を受け入れるとか、自分のダメな部分を反省するとかをしないで、その代わりにバクチするとか酒飲むとか、子供をコントロールしてうさはらすとかしてる人がけっこう多い。

特に子供をコントロールしてうさはらす人ってのが最悪だわなぁ。子供は俺の分身だとかなんとか思ってる。社会的なルールとかをキチンと学ぶ、その学んだことを伝えるという、正しい「伝承」をやってないから、「血縁」ということを伝承の根拠にするわけで。中身の無さが恥ずかしい。

mixiからずいぶん離れた話題になってしまいましたが、アイデアマラソンの樋口さんの子育ての話とかは、まさにこういう、自分が苦労して身につけてきたことの伝承なので、聞いていてとても暖かくて好きなのだ。
「ああ、これが本当の愛情だよなぁ」ってわかる。

で、そういうことを学習できるから書物っていうのは素晴らしいって思うのだ。

やっぱり本を読まないとダメだよね。
つくづくそう思う。

批判したり、すねたり、自分の立場を守ったり、勝手な妄想をふくらませて、「反発のための反発」をしてる間は、本当に人生のムダだと思う。本当に得るところがまったくない。

でも、そういう行動を取ってしまうのが、まぁアダルトチルドレンでなぁ。で、そういう「反発のための反発」こそが自分らしさなんだとか思いこもうとしてるんよな。

結局、タイトルの話につながるんだけど、自分のやってきたこと、「あしあと」が誇れるか、隠したくなるかの差なんだと思う。反省をその場その場でキチンとやって来たひとは足跡を誇れると思う。でも、何かの依存症で、自分の恥とかからひたすら目を背けてきたひとは、ずーっと隠れなきゃならない。

そんなの面白くないだろうに。

でも、反発のための反発なんて誇れるはずはないんだけど、内面の衝動みたいなものがあって、「これこそが正しいのだ」みたいな強い思いこみがどうしても消えないってことなんだろうなぁ。

それこそまさにアダルトチルドレンなんだけど。
あしあと機能って、自分の行動なんだから、そこをオープンにするってのが大事だと思う。それが自分を見つめることにもなるし。mixiで樋口さんとお知り合いになれたのも足跡機能からだったしなぁ。いいですよ。足跡機能。完全オープン化希望だわ。それこそがみんなを幸せにすると思うけどなぁ。

うーん。
ま、ここまでにしとこ。

約8000字か。まぁ、このくらいが一単位ってのが多いかなぁ。ちょっと複雑な概念を書くとなると。
うむー。
ということで、父のことについて、また書きますが、とても当たり前のことを先に一つ書きます。

それはアダルトチルドレンの話とも密接につながるのですが、バクチ依存症の父のように、何かに依存している人間は、周りから見れば「ああ、依存症にハマってしまってるな」というのは、すぐわかる。なのに、これ、当人だけが「気づこうとしない」ってことですね。

不思議というか、困ったというか、それが人間だ、といおうか。

まぁ、ほんと、面白いくらいに、そして悲しいほどに、当人だけが気づけないんですねぇ。

そんなもの、バクチにはまっているという事は、その事自体が問題で、即刻やめなければいけないことに決まっているわけです。みんなそれをわかってるのに、当人だけが「わからない」んです。おかしな話ですが、それが依存症の本質です。

もっと一般的な依存症で言うと、タバコがありますね。あれも依存症です。

で、タバコを吸わない人からすると、「何がうまくて、あんなものを吸っているんだ」という馬鹿馬鹿しい、くだらないことにしか見えないわけですが、吸っている人からすると「こんなおいしいものはない」し、「動くアクセサリーとして素敵」なものに思えるわけです。

基本はそういう感じ方の違いでしょう。

僕もタバコを吸っていて、数年ほど前にやめたので、どちらの意見も充分に理解しているつもりですが、ま、まず冷静に考えて「タバコを吸う」という事に、積極的なメリットはありません。

体は悪くするし、お金はかかるし、持ち歩くモノは多いし。だからやめた方が良いし、何より「おいしいから吸っている」というのは、「ニコチン中毒患者なのだ」という事実を認めないために自分をごまかしている、言い訳にしかすぎないというのだけは、認めざるを得ません。

ところが、この、「自分のやっていることの非合理さを認める」ということが、人間、とてもむずかしいわけです。

重要なのは、この「事実を認める」ということです。

たぶん、アルコール中毒は自分が中毒患者であることを自覚できず、「世の憂さを晴らす良いモノ」という捉え方しかしないでしょう。

で、父の場合は「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」と思っていたに違いないのです。

しかしねぇ、これ、本当はすごくおかしいのですよ。

ま、まともな人なら、単に常識で「ギャンブルは良くない」だけでチョンです。そんなものを毎週毎週やってるのはマズい、ということくらいはわかります。

でも、実は、「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」という考え方をバクチ好きから徹底的に意見されると、実は多くの人が反論できなくなります。

たとえば、「毎週でかけたとしても数千円以内。月に二万円も使わないよ。そのくらい、他の遊びでも使うじゃない。どこが悪いんだよ。」と言われて、正しく反論できる人がいてるでしょうか?

まだ、タバコやお酒なら「体に悪いからいけないよ。」とか「体を壊すから、やめなさい。」という「常識」にサッと立ち戻れるから良いのです。

しかし、バクチ依存というのは、この点の反論をできる人がなかなかいません。それでけっこう野放しになってしまうのです。

これは常識的に言うなら「射幸心をあおるのは健全な勤労意欲を減退させるから良くない」という言い方になります。
でも、このあたりまえのことを言える人も少ないと思うのですよ。とくに今は競馬とか遊びとして普通になってきていますからね。

でも、こういう言い方がわかりにくいのなら、僕が分りやすく言い換えてさしあげます。ギャンブルがいけないのは「お金のルールを壊しているから」です。

ルールは守るためにあるのであって、そのルールを壊したら、すべてがダメになります。そして「お金のルール」こそが、ルールの中でも、もっとも一般的で、広く深く、全世界で運用されているルールなのです。だから、ギャンブルをやると、このルールを壊す楽しみにひたってしまって「ルールを守れない人」になるんですね。

「ルールを守れない」という人は、要するに「頭がおかしくなった人」なんです。
お酒やタバコをやめさせる言い方が、「体に悪いからやめなさい」であるとするなら、ギャンブルは「頭に悪いからやめなさい。」という言い方が一番正しいんです。

この本質の、いちばん怖いところが、単に国民の幸福を「守る」だけの立場でしかない役人には、実感として分りませんから、賭博禁止などを定めた法律等には、たいてい「射幸心をあおる」という表現しか出てきません。

そんな甘いもんじゃないっすよ。ギャンブルはお金のルールの破壊で、お金のルールの破壊は、脳みその破壊そのものなんですよ。

ルールというものの大切さが、どんどんわからなくなってくる。

お金は、本当にあらゆる人間の価値と「交換」できる存在ですよね? 「この歌はすばらしいなぁ」と思うから、それに対してお金を払ってCDを買ったり、大道芸人に小銭を投げたりする。
もっともプリミティブなお金のやりとりは、そういうものでしょう。実は「交換価値」であるお金は、コミュニケーションと、ほぼ同義のものであったりもするわけです。

だから、です。

うちの父親は、ギャンブル狂いになることで「コミュニケーション不全」になってしまいました。

●自分の言いたい事があっても、相手に伝わる言い方で言えない。
●伝えられないと黙る。
●フンと言ってすねる。

そういうような事しかできなくなって行った。

コミュニケーション不全なんですね。それが僕はとても悲しかったわけです。
特に、いまだからこそ「バクチは脳に悪い、やめろ。」という正しい指摘がキチンとできると思いますが、父がバクチに狂っているときは、そういう指摘ができなかった。

「いったい人間はなぜ、こういうハマってしまったものから、抜け出せないのか?」ということから考えがまったく進まなかった。

いくら「バクチはダメだ!」と倫理的な説得をしても「月にこずかい数万円とか使っても普通やないか!」という考え方には抵抗できなかった。論理的に勝てなかったんですねぇ。

でも、いまはハッキリわかります。ギャンブルは単に「お金のルール破壊」でしかないからダメなんです。そしてそれは「脳」をやられます。もう、はっきりクッキリ間違いないことなんです。

すべてのルールは、人間生活をより良くするために生まれてきているはずなんです。大前提として。その中でもお金のやりとりというものは、非常に長い期間を経て、ゆるぎなく運用されてきたルールなんです。

もちろん、お金を使わない、所有の概念そのものを変革するというような思想も生まれてきたし、人類史の中にも存在しているわけですが、ギャンブルはそんな立派なものではなく、「お金のルールが適用されてる世界で、ワザとルールを壊して喜んでいる事」だから、ダメなんです。

つまり、純粋にギャンブルは「精神異常」を増進させてしまう、悪ブースターですし、そういう父親に育てられた僕には、その悪影響があったということです。

で、実は父親のギャンブルは「お小遣い」の範囲なんか、とっくに越えてました。持ち家がまるまる借金のカタになっていたのでありますよ。
いやー、恐ろしいですね。「ルールを守らない」精神異常への道。ルールを破壊してるのだから、「小遣い範囲」を守れるわけがないのです。

というところで字数いっぱい。また続きを書きます。
このあいだから、アダルトチルドレンについて書いたり、父親のことをまとめてみたりしていて、「自分の内面について書いてるネタって多いなぁ」と改めて思った。

ということで、過去の日記をつらつらと眺めて見て、自分の内面に関して書いてきた日記だけを「●じぶんの心マップ」というテーマでまとめてみました。

いろいろ本の紹介とかもしてたわけですが、そういう自分の内面の旅に役だった、良いガイド本も多くあったので、そういうのは「読書」のテーマからこっちに移動させました。

こういう事をなんで繰り返し書いてるのかなぁと考えてみれば、やっぱりアダルトチルドレンに代表される「自分の心の問題」との取り組みは、人の幸せ達成にとっても重要だし、僕の体験が一部でも誰かに役立てば、よりうれしいからというのがあるわけで。

特にアダルトチルドレンでありながら、それに気付いてない人間はこのくらい「過程」をキチンを通して読まないと納得しないんだよねー。「内面的激情」をこそ自分自身だとか思いこんでたりするし。でも、それを自分だと思いこむとずっと不幸が続くしねぇ。
で、そういう「内面的激情」を守るために、反発のための反発としたりするってこともあったりするし。
そういうことも、見えていることなのだから、全部ひっくるめて、整理してさらしておいた方がいいなぁと。
まぁ、そう思ったわけです。

本の紹介にしても、「自分セラピー」なんか、2回も紹介してるんだよなぁ。
一回目は自分のために感想を整理するためだけに書いてるけど、2回目は多くの人に紹介したいから書いてる。やっぱりスタンスが変わってる。

で、このテーマの最初は、やっぱり東ちずるの「<私>はなぜカウンセリングをうけたのか」なんよなぁ。
やっぱり、この本、この手のテーマにおいては重要な本なのかも知れない。自分の日記読み直してみて、あらためて思いました。

ともあれ、これが私のこの数年の「じぶんの心マップ」であります。何かの参考になれば幸でございますです。
アダルトチルドレンだの何だのと書いているので、人によっては「親をうらんでいるのか?」と思っている人も、もしかしたらいるかも知れないと思ってふと気になって書くことにしました。

うちの親は典型的なギャンブル依存症だったので、ダメな親だなぁとか、ちょっとなんとかしてよとか、そういう情けない気持ちはすごく強かったけれど、基本的に「恨み」というような感情は全然なかったなぁと思うのです。

依存症の人間はおしなべて反応が同じなのですが、親子関係で依存症者の「対応」が問題になるのは、子供が親の助力を必要としている時に、「子供の側を向かない」「子供の言うことを聞かない」という部分です。

遊んで欲しいのに遊んでくれないとか、話しかけているのに完全に無視されるとか、そういう「コミュニケーション不全」が普通であることが問題なんですね。

「どうして話しているのに答えてくれないの?」という、まぁ素朴ないらだちでしょうね。話しかけているのは答えてくれるという信用・前提のもとに行っているわけで、そこが無視されるのが辛かったということです。

父の話からはちょっとズレますが、アダルトチルドレンの中でも重症になりがちなのは異性の親に問題があった場合で、女性なら父親、男性なら母親が依存症だったりすると端的な影響を受けることになります。

でも、僕の場合は同性だったので、親の内面心理も理解しやすく、比較的軽症で済んでいるのでしょう。異性だと内面が理解できなくて自己欺瞞も強烈になるようです。僕の場合は軽症なので、親への愛情はあるが、無視されるのは嫌という感じになったのです。

で、軽症だから、気づいたらすぐ修正できたわけですが、気づくまでに時間がかかった。これが大問題でした。ずっと自分を「まとも」だと思ってたんですね。

でも実はそうではなかった。感情の根っこのところで、「私は、肝心の時にうまくいかない人間なのだ」という無意識での刷り込みがされてしまっていた。そういう「刷り込み」は、親の態度に対して自分がどう反応し、親の態度をどう自分が解釈しているか、ということなので、基本的には自分の内面の問題でしかないんです。でも、そういう自分の問題の直視が大切なのであって、「親を恨む」とか「許す」とかで、自分の問題を見えなくさせる方がよほど問題なんです。

それはともあれ。

父という人は、前回書いたように、とても不幸な星のもとに生まれてきた人でした。人間は生まれてくる前に、「乗り越えるべき人生課題を自分で定めて、それを乗り越えるべく、この世に修行にやってくる。」という、「生きがいの創造」の考え方を適応すれば、実に苛酷な課題にチャレンジしている大した人だ、ということになります。

でも、その課題を乗り越えられたかというと、ちょっと乗り越えられたとは言えないだろうなぁ。

母親に捨てられた状態になった父は、祖父母(僕からするとひいじぃちゃん、ばぁちゃんということになります。一度会ったことはあるはずですが顔も思い出せない。)に育てられます。

が、この祖父母がどうも、もともとバクチ好きだったらしいのですね。父は子供の頃からバクチをするようになってしまいます。

ここでちょっとバクチとは何か? ということについて少し学問的解説をしておかねばなりません。

バクチをするお金が欲しくて泥棒した人の事を「遊ぶ金欲しさの犯行」などと言うことがありますが、あれは正確な表現ではないのですね。ゲームのことについて書いた先日の日記

http://diarynote.jp/d/12917/20060107.html

にも書きましたが、「遊び」というものは、現実社会と切り離された、別個のルールを守り、勝ち負けなどの結果を経て、きちんと「終わり」があるもののこと。遊びとは、その時間だけが独立し完結しているもの、なのです。

でもバクチは、「お金」という現実のルールがまとわりついてしまった不完全な形態なので、残念ながら「遊び」ではありません。バクチは単に、現実の世の中を取り仕切る「お金」というルールの破壊行為でしかないのです。「遊び」はルールを守るもの。ルールの破壊は遊びではないのですね。

バクチをして面白がっている人は、基本的に「お金」のルールを破壊して喜んでいる人なわけです。単純に言ってしまえば「世の中全体に対する反抗」でしょうね。そういう気持ちがベースにある。

この世には思い通りにならない事がある。その不満を、この世を支配する「お金」のルールを破壊することで肩代りしよう、というようなことです。

父の場合は、自分の母親(僕にとっては祖母)に捨てられたのだ、という現実の受け入れができなかったんでしょう。バクチの世界に足を踏み入れ、ひと時、「この世の憂さ」を忘れることが、どうしても必要になってしまったのだと思います。

まぁ、あんまり簡単には直視できないですわねー、親に捨てられた、なんて。

だから、もうそれはしょうがないって思う。課題がちょっとキツすぎたんだろうなぁ。乗り越えられなくても、こらしゃーないわって思う。

(ただし、しゃーないわとは思うけれど、乗り越えられない課題ではないのですよね。そこは勘違いしてはいけないと思う。世の中には本当の本物の「捨て子」という人がいて、親の顔も見たことがない、わからないって人がいてるのです。で、そう言う人が、素晴らしい人間になるという事も意外に多いのです。すべては学習なんですね。当人次第なんだ。)

ともあれ、子供のころの記憶をたどってみても、少なくとも僕が三歳くらい、第一次反抗期に入る前くらいまでは、自分が疑問に思ったことをキチンと教えてくれる、とても良い親だったという記憶が強いのですね。そういう父が大好きだった。

ただ、ひとつはっきり覚えているのは、父に答えられないような質問をした時の父の態度です。何を聞いたのかは覚えていないのですが、キチンと答えられなくなった父はプイと横を向いて答えをはぐらかしてしまったのです。

これはすごく良く覚えている。質問したのに答えがない気持ち悪さが、とても嫌でした。「あ、わからないから無視したんだ」と、子供心にもわかっていたように思います。

その後、もう少しして大きくなってから、「どうしてああいう時に無視するんだろう。わからないならわからないって言えばいいだけなのに。」と、実にまともな考えに至りました。そして「わからないのなら『おとうちゃんにはわからんけど、一緒に調べてみようか。』と、調べ方を教えてくれるようなそんな大人になりたいなー。」という僕なりの理想の父親像がイメージされたんですね。

このあたりは、いまでもいろいろ影響をおよぼしていて、わからないことをわからないと言えない人は、本当に嫌いです。

「わからない」ことがいけないのではなくて、そこにコミュニケーションを取ろうとしている人間がいるのに、それを無視していることが、とても悪いことなのだ、ということが分ってないわけで。

まぁ、でもそこで自分を見つめられないというのが、人間というものなのかも知れないんですけどね。

ということで、また3000字に近くなったので、続きはまた今度。
「ひとのため」ということを、平気で簡単に口にすることがある。かくいう僕もそうです。

でも、これ、本質的には「できない」ことなんです。というのは、誰かのためになることをする、というのは、他者の役に立つ人間になろうという「自分の成長欲」なくして、意味のあることではないからです。

「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉が「他人に情けをかけるのは、相手のためでなく、自分の精神の成長のためである」という意味なのだ、ということを深く自覚しないといけないのです。

で、この「まず自分を育てる」という考え方こそが、すべての基本の基本の、そのまた基本で、この根幹となる考え方なくして「個人の幸せ」というのは、ありえないと思うのです。

「幸せ」というのは、自分がこの世に生まれた意味を実感しつつ、日々自分が成長していると捉えられることなのではないかなぁ。

単純な話、「世界中の人間を全員幸せにするにはどうすれば良いのか」と大目標を立てたとき、真っ先にやらねばならないのが、まず自分を幸せにすることなのです。これは絶対ですよ。

自分をないがしろにして、他の誰かを幸せにすることに意識を使っていても、それでは「ないがしろにされた自分」は全然幸せではなく、自ら不幸な人間になっているだけなわけです。つまり不幸な人間を自ら生み出している、ということですね。

もし多くの人が、みんな、「自分より●●のために」と自分を不幸にしたら、世界中の人間がみんな不幸になってしまう。本末転倒もいいところだ。

僕は、このことを強く言いたいんです。
とくにアダルトチルドレンである人には、よけい強く言いたい。

なんせ、家庭内ストックホルムシンドロームの説明でも書いたように、子供の頃からの「理不尽な感情」にコントロールされて、無理矢理自分をだまし、自分が幸福でもないのに、それを無理矢理「幸福」と思いこむように自分をしつけてしまっているのがアダルトチルドレンなんです。

たとえば親がアルコール依存症で、飲むと家事もしないようなダメ親だった時に子供は「ああ、わたしがしっかりしなくちゃ」と自分を無理にしつけてしまう。

こんなこと、間違った考えなんです。子供が親の面倒なんか見れません。金も稼げないヒヨッ子なんだから。社会的に未熟な子供が親の面倒なんか見れるわけがない。そういう事実認識ができてない。「親がアルコール依存症であることが悪い」と捉えるのが当たり前、かつ正しい認識です。

まず「間違っている親」が、間違いを正す必要がある。でも、その間違いが正されなかったから、子供が「私がしっかりしなくちゃ。」という、できもしない、非現実的な妄想を抱いて精神のバランスを保とうとしてしまう。結果間違った考え方が世代間連鎖してしまうのです。

こういう、自分が幼くて、まだ他者をサポートする力もないのに、その自覚もせずに「親の面倒を見なくちゃ」みたいな非現実的な妄想を抱くクセを持ったまま大人になると、「自分より子供のためになるように」と、その間違った「客観的な自己認識」の欠けた考えを「正しい」と思いこんでしまうわけです。

「自分より子供優先」みたいな事を言う親って本当に無茶苦茶に多いけど、ほんと、その前に一度、きちんと上記のようなことを考えてみて欲しいと思う。

これはね、飛行機事故があった時の酸素マスク利用の説明書きに書いてあったと思うんだけど、確かお子様をお持ちの方に、という説明の後に「ユアセルフ、ファースト」って書いてあるわけですよ。

飛行機事故で酸素マスクが自動的にブランと機内にぶら下がると、子を持つ親は、ついそのマスクを子供につけさせてしまうんだそうで。

でも、それではダメ!!!

と、注意書きには書いてある。まず「自分優先」だと。
つまり、まず親が酸素を吸って、酸素不足でフラフラしている頭をシャッキっとさせなさい、ということなんですね。

で、親が先にシャキッとしたら、当然自然と子供に酸素マスクをあてるという「判断」ができるようになるわけです。

これができてはじめて、親子両方ともが助かる。

しかし、いきなり子供に酸素マスクをあてても、肝心の親が酸素不足でフラフラしてたら、これはもうどうすることもできない。赤ちゃんが「ああ、お父ちゃん(お母ちゃん)が酸素不足でフラフラしている。このマスクをあててあげなければ。」なんて考えるわけがないんです。

だから、まだ未熟な子供を持つ親は、つねに、「まず自分の精神の安定」すなわち「自分の幸せ」を最優先で考える必要があるんです。

親が幸せ感たっぷりで、にこにこと、精神的に安定していれば、それだけで子供も幸せになるんです。で、子供はまだ未熟なんだから、自分が不安になった時に自分を幸せにする方法なんてさっぱりわからない。

だからこそ、まず親が幸せになる必要あるんです。

つまり、まず「自分優先」ユアセルフ・ファーストです。

この考え方は、恐らく、すべての人間関係に有効だと僕は思ってます。

「子供より、家族より、恋人より、まず自分を大切に。」という事なんですね。

幸せになるんだと、まず成人した大人が決意し、そして実際に幸せになって行くことです。(これは決意しないとできません。)

「自分より子供優先」と考える時、確実に「自分」がないがしろになります。まさに、その瞬間にひとりの「不幸な人間」が生まれているというわけです。

「不幸な人間をこの世に創り出して良いとでも思っているのか、このばちあたり者が!!!!」と僕はそういう人を厳しく糺弾します。
まさにその瞬間にこそ、不幸な人間が生まれているからです。しかも不幸な人間を、自分で生み出しているのに、その究極の「罪」を自覚すらしていない。

この瞬間こそ、世の中に不幸を生み出している瞬間なわけです。

でも、多いんだ、こういう考え方する親。ものすごく多い。

結局、例の「だめんずうぉーかー」に出てくる、ダメ男とくっついてしまうクセを持ってしまった女の子も、同じ精神構造からそうなるんですよ。

「自分とは何か?」「私が望んでいる理想の環境とは何か?」ということを、つねに意識する習慣を持たず、「あの人はダメな人だから、私が支えてあげなければ」とか考えてしまう。

まったく同じ構図でしょ?

「考えて、望む」という人間に取ってもっとも重要な「酸素マスク」を未熟なものにまず与えている。まず自分に酸素マスクですよ。ほんとに。

「考えて、望み、それに向かって行動する」というのが幸せを実現する基本です。なのに、その基本の意識の照準を「自分」にあてずに、子供や家族、恋人とかにあてている。

いや、あなた、テレパシー持ってるわけじゃないから。自分以外の人間の心の内側の複雑な望みまで、先回りして実現したりできないから。それは無理だから。要するに間違ってるって。

そうではなくて、まず自分という人間の望みを明確にし、その望みを実現するために頑張る。そして、その実現過程こそが、自分の幸せであって、家族の中にそういう幸せな人が一人でもいれば、他の人も幸せになっていくのです。

テレパシーはなくても、幸せな笑顔は他者にもわかるのです。だから、まず自分を幸せにすることが、すべての人間に与えられた「使命」なんです。

それをほったらかしにするという事自体が、大間違いの、天や自然にさからった大罪なのですよ。

ここをほんと、自覚して欲しいよ。マジで。
このところずっとアダルトチルドレンについて書いているので、その精神構造をわかりやすく説明した理屈(あえて理屈と書きます。気持ちの問題に「理論」と書くと堅苦しく感じてしまって抵抗感を持つ人もいてるので。)について、どうしても説明したくなった。

家庭内ストックホルムシンドロームというのは、香川大学教授の岩月謙司さんが提唱した考え方です。

娘の結婚運は父親で決まる―家庭内ストックホルムシンドロームの自縛 NHKブックス
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140018712/503-1393334-5299133

あたりを読んでもらえばいいです。僕もこの日記でちらりと書いています。

http://diarynote.jp/d/12917/20050128.html

しかし、これだけではさっぱりわからないと思うので、ちょっと解説を加えます。
(読んだらいいよ、と教えてあげて、もっとも読む必要があるような人が読まない。で、読まなくてもなんとかなるような自分と向きあう気力のあるような人が読む。どうにかならんのか、この現象は、と思う。読んだ方がいいよと言って反発だけしか示さないような人が、一番問題を抱えておるのだ。たいてい。)

まず、岩月さんより前に、「ストックホルムシンドローム」というのがあるんです。

これは銀行強盗やハイジャックなどで突入する特殊部隊の隊員の間では基礎知識として知っておくべき項目にもなっている、世界的にもよく知られた現象の名前で、ようは、人質事件の人質が、犯人をかばってしまう心理現象のことです。

ウィキペディアによれば、「精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有してしまうことによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱いてしまうことをいう。」となってますが、実際に1973年のストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、人質になった者が犯人に有利な証言をしたりという行動を取ったことからこの名前がついているそうです。

なので、ハイジャックで強制突入した時も、人質が犯人を身を挺して守るということがありえるので、細心の注意をはらわねばならないってことなんです。なんか、そういう特殊部隊の人たちの間では、常識なんだそうです。

なんでこんなことになるかというと、重要なのは「犯人が生殺与奪の権を握っているから。」なんですね。

人間はどんな時もサバイバーで、自分が生き残ることを最優先に考えます。人質事件の時など、まさに究極のサバイバル条件ですから、自分の命を確保・優先するために、少しでも犯人に気に入られようとするわけです。

しかもこの場合、非常に緊張した場面ですから、いかに真剣に犯人のことを心底好きになれるかが最も重要になるわけです。口先だけ、うわべだけ、というような態度だと逆に疎んじられる可能性もあるわけですから。

なので人間というのは恐ろしいもので、自分の身を守るために自分で自分にウソをつき、それを心底信じるような自己暗示というか催眠というか、そういう状態に自ら持ち込んでしまうわけですね。

これがストックホルムシンドローム、ストックホルム症候群と言われる特殊な心理状況の説明です。

で、岩月教授の言う「家庭内ストックホルムシンドローム」というのは、この人質の立場を子供に置き換えて、アダルトチルドレンの心の異常を説明したものなのです。

子供は自分で生きていく力を持ちません。ですから、その生命の生殺与奪の権を親に握られています。だから基本的に子供が親に気に入られようとするのは、そういうサバイバルな状況があるからなんです。

しかし、親にキチンとした愛情がある場合は、これは異常ではないんですね。キチンと愛されていて、子供が親に頼ったりするのはまったく問題がない。

そうではなくて、銀行強盗と同じように、親が社会的な基準に違反した行動を取ったとき、あるいは、愛している時とアルコールなどの依存対象におぼれている時の言動が極端に違っていた時などが大きな問題になってくるんです。

たとえば、いつもは愛情豊かな親なのに、酒を飲んだときだけ子供を無視するとか、無意味に叱るとかすると、態度が首尾一貫してなくて、子供は判断に迷うわけです。

で、この場合、はっきりと親のアルコール依存がいけないのであって子供には責任はないのですが、幼い子供には、その肝心のことがわからないわけです。

そして親が生殺与奪の権をにぎっているから、そこは神聖視してしまって不可侵になり、逆に「私が悪いのだ」とか「私がしっかりして支えてあげなくては」とかという自分自身への処罰、あるいは自己を縛る無理矢理の正当化をおこなって、それを盲進することで精神のバランスを保とうとしてしまうのです。

これが家庭内ストックホルムシンドロームの基本構造なわけです。

つまり、子供が自ら生き延びるために、自分自身をだまし、そのことが大人になっても延々と続いてしまうということになるわけです。

そして、この「思いこみ」「無理な正当化」こそが、先日の日記にも書いた「理不尽な衝動」の原因になるんですね。

だから「理不尽な衝動」みたいなものが自分にあったとしたら、それはやっぱり「嫌なことを嫌と思わずに、親に好かれるために無理に好きになったような態度を取っている苦しくて不幸な状態」だ、ということなんです。

でも、先の日記でも書いたように、この「理不尽な衝動」をこそ、自分の本心だとか、もっとも大切なこと、とか、ゆるぎない個性なのだ、と思ってしまっている場合も、すごく多いんですね。

というか、アダルトチルドレンは日本人の60%くらいとか言われてるから、そういう人の方が数は多いかもしれません。

もうね、本当に多いんだ。ものすごく多い。
たとえば、かの有名な倉田真由美が描いてる「だめんずうぉ〜か〜」なんか、そういうアダルトチルドレンの、最も極端な例です。あれが何故人気あるかというと、みんな自分のAC度に多少は気づいていて「なんとかしなきゃ」と思いつつも、どうしていいのかわからず、自分より不幸な人を見て安心するという、そういう構図ですしね。

つまり異常に多いってことですアダルトチルドレンが。

だからまず、

●自分を好きになる。幸せだと実感するようにする。
●理不尽な衝動は「私」なんかではないと自覚する。
●親の間違いは間違いとして冷徹に見据える。
●論理整合性などの安定した考え方を大切にする。
●自分を好きになって自分を信頼し、そこを中心に未来に希望を抱く。

ってことをしないといけないんですよ。
でも、この、真逆をやってる人が、ほんとうに多い。

で、その真逆の考え方の根幹に「家庭内ストックホルムシンドローム」が居座っているんです。ほんとに。
これが、いま、僕の一番言いたいことなわけです。

ほんと、自分がアダルトチルドレンでないかどうかは、マジに誰もが真剣にチェックして欲しいと思う。
でないと、本当の本当に子供が可哀想だ。

なにより、自分の経験から見ても、アダルトチルドレンの問題は、平気で二十年三十年と問題を解決しないまま、引きずって延々続き、しかも子供の代にまで影を落とすので、本当に重要な問題なのです。

ほんと、気づいてない人こそ真剣に考えて欲しい。
ISBN:4313860053 単行本 ジャネット・G. ウォイティツ著 新沢 ひろ子 学陽書房 1999/05 ¥1,680

ちょっと調べてみたら、この重要な本を、私は全然紹介してなかったのですねー。しまった。

ちょっとまたアダルトチルドレンの話が出ているので、ここでちょっと紹介しておきたいです。

私もアダルトチルドレンだったので人間関係に問題がでやすかったわけですが、私の場合は、恋愛関係がダメでした。ほんとにね、もうなんていうか、うまくいってて、あと一歩関係を深めれば継続的に良い関係が築けるのに、という、その一番良い時にこそ、内面から何やら妙な衝動がわき起こって、その関係をぶち壊してしまう。

ずっとそういうことばっかりやってきてました。

で、どうしてそういう衝動が起きるのかが、全然わからなかった。

で、この本です。

もう、タイトルの通りだったので、どーっと読んだ。
そしたら、驚くなかれ、「衝動的な内面的な強烈な情動」で理不尽な行動をする人の実例ばっかりが出てくるのですな、この本は。

もう、驚きました。そんなんばっかしや。

もともと「アダルトチルドレン」という概念は病気の名前ではなくて、アルコール依存症の親を持つ子供が、心の問題を抱えやすいので、その子供のケアをしている現場の人たちから、一般的傾向の総称として出てきた言葉なわけです。

で、この「衝動的な内面的な強烈な情動」っていうのが、自分だけの内面的な「個性」だと思っていたら、そうではなくてアルコール依存症の親を持つ子供みんなに共通する特性であるということが分って「個性なんかではない」ということに気づくというわけなのですね。

で、これが「アルコール依存症の親を持つ子供」だけでなく、ギャンブル依存症であれ、依存的人間関係を持ちがちな親であれ、とにかく「依存症」の親を持つ子の場合はおしなべて同じ傾向があるということがわかってきた。

この本はそういう実例をたくさん集めてある本で、アダルトチルドレンが、いかに理不尽な恋愛過程を送ってしまうのかが、山のように載ってます。

ずっと長距離恋愛で関係を維持してきたのに、いざ相手の仕事の条件が変わって一緒に住めるという時になって急に「別れる」と言い出したとかですね、もう、そういう理不尽な話ばっかり載ってる。

みんな「アダルトチルドレン」なわけです。

で、これにどういう共通項があるかと言うと、単純に言うと、

●うまくいくのが怖い。

なんですね。なんだそれ? なんでうまく行ってることが怖いんだ? って事になる。
で、これがようするに、「幼い頃に親から与えられた理不尽な行動による恐怖」が原因なわけですよ。

いつもは愛情豊かな親なのに、アルコールを飲むと急に怒りっぽくなったり、泣き出したりする。理解できない。この理解できないことが起きることが日常化してしまうことで、「世の中は思い通りにはならないのだ」という刷り込みがされてしまうのですね。

だから、うまく行くと怖くなる。うまく行った分だけ悪いことが起きるように感じてしまう。
そういう形のない恐怖に無意識にとらわれて、そこから逃げ出せなくなっちゃうんですね。

これねぇ、「無意識」だから問題なんですよねー。
ほんとに幼い頃の記憶というのは「言葉」化されてないので、もやーっとした感覚とか、強い印象、あるいは強烈な情動だけが残っててキチンと整理されてないわけです。

だから、そういう内面から湧いてきた恐怖みたいなものは、どういう状況から湧いてきたかをキチンと思い出して、大人になったいまの知識と判断力で整理してしまえば、まぁ別段気にするような事ではないんだと、あっさり片付いたりもするわけです。

いや、そんな子供のころに感じた無茶な衝動などは、仮に湧いてきたとしても、理屈で「おかしい」と思えるなら、「ははーん、これはどうも妙なとらわれが心の中にあるな、気にしないでおこう」という態度が取れればそれで充分対処できる種類のものなんですね。

でも、この「衝動的な情動」を、やっぱりどうしても「これこそが私の個性なんだ」と捉えがちなんですね。そこからこの問題は複雑化してしまう。

その情動というのは、ようするに、「食べたいお菓子を、親からダメですと止められて、その我慢している状態こそを良い私ととらえている」というような事なのです。

なんらかの形で自分の強烈な望みが、親によって拒否されて、それを我慢する、あるいはなんとか正当化して「良い子」になろうとして内面でゴチャゴチャと理屈づけした感覚が今にまで残っているということなわけです。

なので、その「衝動」自体が偽物なんですね。なのに、子供のころの未整理な「感覚」だけが残っているから「これこそが自分だ」とかたくなに思おうとしてしまう、という訳です。

このあたりは、岩月謙司さんが提唱した「家庭内ストックホルムシンドローム」の理論が、僕としては一番納得できたし、この理論のおかげで、そういうムダな衝動とはおさらばして、子供ではない、大人になった自分の判断力で「そんな理不尽な衝動が『私』であるはずがない」と思えるようになりました。

そう、そんな「理不尽な衝動」が『私』であるはずはないのですよ。

でも、子供のころの未整理な感情や感覚にいつまでもとらわれていると、ここらあたりの冷静な判断というのができなくなってしまうんですね。

この本は、そういう実例、特に、恋愛にまつわるたくさんのアダルトチルドレンの実例が載っていて、僕にとってはとても衝撃的だった本です。

そういう「衝動」を「これぞ自分だ」と思いこんでいたら、同じような問題を抱えている人間をいきなりたくさん見せられて「あなたも、この人たちと同じでしょ? だから、その感覚は偽物なのよ。信じないほうがいいわ。」と諭されたような印象の本ですね。
(あ、ちなみに女性が書いた本です。)

うーん。
本当は家庭内ストックホルムシンドロームについて説明したかったんだけどなー。
それはまた今度にしよう。
私の父は、実に不幸な人だった。いまで言えば私生児に近い。

しかし、もっと不幸だったのは、その肝心の母にも捨てられたような扱いだったことが、いまにして思えば、よりいっそうかわいそうだったなと思う。

時は昭和元年のこと。私の祖父は旅回りの役者をしていました。おもしろいでしょ? 顔を真っ白に塗って、調子をつけたセリフなどを舞台で発していたのでしょう。

当然テレビなんかまだありません。旅役者となると、けっこうな人気者だったのではないでしょうか。
そういう時代、祖父は大阪まで出てきて、公演をします。当時おそらく26,7。それまでどんな浮き名を流してきたか分りませんが、とにかく当時19歳で料亭だかカフェだかに奉公に出ていた祖母と出会います。

まぁあれですね、いまで言うならテレビの人気ものが、若い飲み屋のねーちゃんと出来たってとこでしょう。ま、ぽーっとなって好きになって、それで子供ができちゃったって感じだったんだろうなと思う。19だもんなぁしょうがない。

昭和二年、父誕生。です。

でも、旅役者は旅に出るのが仕事です。祖父は別に悪気はなかったらしいのですが、祖母を置いて旅に出ます。
どこまで19歳の祖母と本気だったのかは分りませんが、とにかく子供が出来てますから「子供を連れてこっちに来い」と旅について来るように手紙も書いたようです。

しかし、大阪の繁華街で働いている19歳の女の子に旅役者に同行せよと言っても、これはなかなかむずかしい。なので、祖母は大阪にとどまります。そして、おそらくは旅役者と恋仲になったこと自体が間違いだったのだと気づいたのでしょう。祖母は、子供、つまり私の父を両親にあずけ、独身としての生活を始めました。

これは想像でしかないですが、いまのように結婚、離婚が自由にできる時代でもなかったでしょうから、この決断はよほどの固い決意だったに違いないのです。本当はおそらく自分の子供は可愛いに違いない。でも、19で子供を抱えて生きていけるほど、おそらく当時の世間の常識は母子家庭には優しくなかったんだろうと思います。

結局、父は母の両親、つまり私のひいじいさんばあさんに預けられて、そのまま二人が住むが奈良で育てられることになったのです。まぁ祖母の側から見れば、父の存在そのものを消したってことなんです。若い女がそれなりに生きて行くにはそうするしかないって考えたんでしょうね。

しかし、こうして書いてみると、本当に可愛そうで涙が出そうになるなぁ。存在を消されたなんて、わかってはいたけど客観的に書くとあまりに苛酷だ。

こんなことなので、父は母と会うこと自体がとても少なかったはずです。そして、父は母親が自分を捨てた生き方をしているという事をまったく理解していませんでした。ただ「仕事で大阪まで奉公に行ってるから、なかなか戻ってこれないんだよ。」とじいさんばあさんに説明されただけです。

母恋し、母恋し。されど会うもままならず。

そんな日々を過ごしていたに違いないのです。

そして育てるのは父にとっては祖父と祖母。孫が可愛くて、そしてしかも不憫でなりません。おそらくは甘やかして甘やかして、可愛い可愛いと育てられたに違いないのです。

しかし「母は働きに出ているだけ」というその場を取り繕うウソは、祖母の再婚話が出てきた時に明らかになります。

今度は大きい会社の社長さんです。どんな人だったのかは知るよしもないのですが、とにかく祖母は父のこともその再婚相手の社長さんには話していたようです。しかしそれでも父は引き取られるということはありませんでした。たぶん独身で未婚ということで通っていたから、子供があるということ自体を明かすことができないとか、そんなことになってしまったんだと思います。

結局、父ははっきりと、自分が捨てられたのだと知ります。この再婚がいつだったのかは知らないのですが、どちらにせよ辛い事には代わりはないでしょう。

とにかく昔の父の写真を見ると、父が結婚するまでの独身時代の写真は、とにかく笑っていません。笑顔の写真がなかった。口を固く閉じて真一文字、カメラをにらみつけているかのような写真ばかりでした。

よほど辛かったんだろうなぁと、そればかりを思います。

うーん。きりがいいので、とりあえずはここまで。続きはまた書きます。
んー、ちょっとリンクさせていただいてる方がアダルトチルドレンの話題にふれておられたし、先日の人間バトンに関しても、ちらりと関係する話なので、ちょっと「理想」について、話を書きます。

先に結論を書きますが、すべからく人間は「理想」を胸に抱くべきだ、ということです。いきなりぶっ飛んだ話でアダルトチルドレンと、どう関係があるのか、ということになりますが。

まずですね、私はアダルトチルドレンでした。

で、実はその事実に「気づく」ということができておりませんでした。

これがねぇ、不思議なんだけど、実はそういうものなんですよ。アダルトチルドレンは、自分が不幸な環境で育ったのだということに、なかなか気づけないんです。

(なぜ気づけないかというと、これはストックホルムシンドロームによる自己欺瞞のせい、という事になるんですが、そのあたりは、また改めて解説します。)

で、不幸であることに気づけないから、不幸である自分を「普通」と思いこんでるんです。で、「普通だから、それでいいじゃないか」と思っている。

で、よその家庭と自分が違っていても「個性は人それぞれなのだから良いではないか。」ということになるんですね。

でも、なんです。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の中に、「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」という言葉があるということは知っておいて良いと思うのですよ。

寒いときに温かいものを食べれば幸せを感じるように、実は「幸せ」という状態は、けっこう「みんなが同じように幸せ」と感じる状態のことなんです。

つまり「自分が幸福な人であるなら、他の幸福な人とも同じ幸せ感を共有できる」ってことなんです。

ありていに言うなら、「他の人と違っているから幸せ」というのは、本当に自分らしさを確立できていること、個のアイデンティティの確立がされていうとこと以外は、単なる不幸であることの方が多いわけです。まぁイチローにたとえて言うなら、記録を打ち立てるというのは自分らしさの確立ですが、家に帰って弓子夫人と仲良くしてる時は、ふつうの「幸せな旦那さん」ってことです。

このあたりの区別が、アダルトチルドレンはなかなか実感として理解できないんですね。自分にとって気持ち悪いこととか、不便なこととか、うまく行ってないことを、「そこそこだから良いのだ」とか「普通だから幸せ」と無理に思いこんでいたりする。

これはどういうことかというと「良い状態」のお手本がない、ということなわけです。

実は、アダルトチルドレンである人の親は、やはり「キチンとした普通の幸せ」を得られなかった人であったりすることが多く、幸せな状態を知らないから、不幸な状態を「普通」と思いこんで、それで自分の子供にも、その「普通」を押しつけていたりするんです。

前に書いた「親が理由の説明もなくプイと横を向くこと」なんていうのも、この「普通」に入る出来事のひとつです。

幸せな子供時代を過ごした人なら、こんなむごい仕打ちはされてないんですよ。決して。でも、自分がそうされたから、それを「普通」と思ってしまっている。

そして、この「普通」が、親から子へ受け継がれてしまう。アダルトチルドレンが世代間連鎖するというのは、こういうようなことなんですね。

だから、自分がアダルトチルドレンなのだと気づいたら、まず「世代間連鎖はなくそう」と思う訳ですが、どうやって連鎖をなくせば良いかが、実はアダルトチルドレンには、さーーーーーっぱりわからないというのが実情なんです。だって、知らないんだから、わからないのが当たり前なんです。愛情ある態度で接してもらえなかったから、「愛情ある態度」というものが、どういうものであるかがわからない。そういうことなんですね。

で、この問題に答えを出すのが「モデルを探す」という解決法なわけです。

つまり、広く世間から、「理想の親」というものを探し出して、その真似をする、ということなわけです。

学ぶは、真似ぶ、でして、結局学習というのは、とどのつまりは真似をするしかないんです。何か「オリジナルなことをする」のが良いことだと思ってる人も多いようですが、基礎が出来ていてはじめて応用ができるわけで、基礎ができてない人はまず真似です。

アダルトチルドレンは「愛情ある態度」というものがどういうものなのか理解できてないのですから、とにかくまずは「理想」を探してきて、その真似をするということが求められるのです。

もちろん人間は聖人君子ではありませんから、常に完璧な態度なんて取れませんし、時折は(あるいはしょっちゅう)失敗もするでしょう。しかし、その失敗は「失敗だ」あるいは「間違った態度だ」と思って修正できるし、少なくとも「修正しないといけないのだ」と思っていることが必要なんですね。「愛情のない態度に出てごめんね。」という気持ちがあれば、失敗は許されるわけですが、「これが普通だよ」となったら状況は永遠に変わることはないですから、ものすごい不幸なわけです。

この失敗を失敗と認めるためには、やはり「理想の姿」がどうしても必要なんですね。目指すべき方向がはっきりしてないと、何をやっても「それは個性だから」「これが普通だ」と一切改善されない、「永遠の不幸」の中に閉じこめられてしまう、ということになるわけです。

だから、「理想」を持つことは大事なんですね。「理想」がないと、普段の自分の行為が「普通」「あたりまえ」「個性」になってしまって「反省」なんて概念自体が発生しないわけです。
これは、明確に、明らかに、完全に間違った考え方なんです。

で、この「理想像」を問われて「父です」「母です」と答えられる人も世の中にはけっこういます。これは日常から、日々、愛ある態度で接してもらえた、とても幸せな人のことなんですが、これぞ、真の意味で「理想」なわけです。

親を理想像として、目標にできる人は本当に幸せです。
でも、そうでない人は世間を幅広く見て、あこがれる人や理想の人物像を探し出し、そちらの方向へ行く努力が必要なのですね。

そして、実はこの「理想を実現しようとする」態度こそが「幸せ」というものなのです。無目的に生きていても空しいだけです。人生が空しく感じる人は、ぜひとも「理想の人物」を探して、そうなろうと努力すべきなのです。

そして、その「理想のモデル」を見つけるためには、日々理想を探すという事が必要で、そのためには書物というものがとても役立ちます。(インターネットも役立つのですが、いかんせん不幸な人の不幸な書き込みもとても多いですから、本物と偽物を見分ける目が必要で、そうなるとやっぱり書物からの知識が出版社のまともなチェックがあるぶん、まだ効率がいいです。)

ということなので、「理想」は必要なものなのです。そして理想をもとにした目標を持つことで、人は生きる充実感、幸せ感を得られるのです。これは基本的には自己成長の王道なので、とりあえずはそういう事を頭においてもいいと思うのです。

無限に続くとも思える、長い自分の人生のなかで、「どこへ行くつもりなのか?」も決めずに、ただ漂流しているだけでは、幸福感を得にくいのは当然です。船は目的地を設定してはじめて出発できるんです。目的地のない航海は、単なる漂流、帰港して安らぐこともできないんだということは、頭に置いてもいいと思います。
近々、結婚しようと考えている。それについては細かく報告する気もないのだが、それに伴い、この数年で、「自分の心の中」という、旅する人は旅するが、気づけない人には永遠に未知の国である無限の大地をじっくり見て回ったことについて、書きたくなった。

特に、その心の旅の中でも、「父」という人の存在捉え直しがとても重要だったので、それをちょっと書いてみたい。父も亡くなって何年も経っており、多少のことを書いても、まぁいいだろうという気になったのだ。

親子関係というものについては、バリエーションも多く、いろいろと複雑な感情も入るので、多くを語ろうとしない人も多いものだが、実は、世の中の人間関係の感情問題の大半、80%以上を親子関係が創っていると考えても間違いではないほど、とても基本的かつ、重要な関係なのだと思う。

良い親子関係を築ければ、親、子、ともどもに成長し、良い人生を育んでいくことができるが、ほんの少し勘違いをしてしまうと、大きな苦しみばかりを生み出してしまう。

恋愛とか宗教の慈悲の心とか、なんだかんだあるけど、やっぱり根幹の根幹には「親子関係」があるんだよな。

で、なぜ、この親子関係というものが重要かというと、自分がまだ「言葉」も持っていない、感覚と感情だけで物事を判断した時に、うれしい思いや悲しい思い、苦しい思いなどをやりとりする関係だからだ。

言葉になる前の「感覚」で間違った捉え方とか狂った感覚とかが身に付いてしまうと、その「感覚」はその人に一生つきまとうことになる。その「感覚」を取り払うことこそが重要なのだけれど、それは自分の心を真正面から直視する気持ちがないと無理なのだ。

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で、父のことを話す前にちょっと先に最近思ってることを書きます。

まず、「頑固親父」がいなくなった点について話したい。

頑固親父とは何か。これは、自分の経験と学習、知識と技術など、さまざまな人生の「自分作り」の過程の中で、確固たる人格を築いた一個の大人が、その膨大なる思索世界への信頼、つまり自分への信頼、「自信」を持って、子に自分の価値観を伝える、という事を意味します。

つまり、頑固親父には、絶対的な親の側の徹底した努力が必要なのです。

もう昔昔にテレビでやっていた「寺内貫太郎一家」に出てきた頑固親父、「寺内貫太郎」が、確か大工か何かの職人だったことは、その「長年の研鑽」を映像として象徴させるためにこそ設定された内容なわけですね。

単純に言うと、

●努力もせずにいばれるものか。

という当たり前のことが大前提にあるのです。

しかし、いまの世の中、自分が父親であるという、ただそれだけの理由で、えらそぶる、あるいは、我を通すのが良いのでは? とか考えてる人がいてます。

ダメです。

それは単なる「ワガママ」でしかありません。

そんなワガママがやりたいのなら、キチンと勉強してからにしなさい。

ということですね。

この「親のワガママ」と、「頑固親父」を混同してるバカが多い。なんなのだろうね。

寺内貫太郎は大工だから、積み重ねてコツコツやるという価値観を大事にしていて、その価値観に見合わない考え方が出てきたときに怒るわけです。そこには確かな価値観がある。

ところが、最近の親は、そういう価値観を自分の中に築き上げるということもしてないくせに、子供を自分の思いどおりに動かそうとしてたりする。

結局、「説明責任」ということがわかってないんだなって思う。誰かを叱るなら、「君のこういうところは、こういう価値観の下、間違っていると判断できる。だからそれはやめなさい。」と叱る理由を説明できなきゃだめ。

この理由説明ができずに叱るのは、

バカ

です。
これは、何をどう正当化しようが、バカでしかないんです。
感覚的に叱るとか、そういうのは本当にだめ。

まともな人間のすることではないですし、決して「頑固親父」でもありません。ワガママ勝手で、どうしようもないダメ大人です。

理由説明のない「強制」なんてのは明確に「暴力」ですからなぁ。
中身がからっぽで、キチンとした説明もできないのに、好き勝手する、なんていうのは社会の迷惑だし、暴力の極みなんですが、中身がからっぽの人間は、それが暴力であるということ自体に気づけない。

で、それが暴力であるということに気づくためには、「何事にもキチンとした説明があれば、納得できるのだ。」という幸せな体験をするしかない。

そのためには、結局、いろいろな事を、ひとつずつ「学習」していくしかないんですね。

たとえば、子供が思ったとおりの事をしてくれないから、「プイ」と横を向く。

これなんかは、「ネグレクト(無視)」という、超強力な、暴力そのものなんです。

で、私は子供のころ、これをけっこうやられた。
気に入らないことがあると、「何故気に入らないのか」とかをキチンと説明するのではなく、「プイ」と横を向く。

これは暴力なんですね。暴力なんです。それもそうとうひどい暴力なんだ。

でも、このひどさは、キチンとそれが本当にひどいことなんだということを、自ら学習しない限り理解できないんです。

で、こういう大事な基本がわかってない人間ほど、勉強もせずに中身がからっぽのまま、ただ家族の前でだけ、「えらそぶる」という行為をゆるしてもらっていて、そのからっぽさを、家族に穴埋めしてもらう、ということをします。

何が正しくて、何が間違っていて、世の中の法律はどのようにできあがっていて、宗教や多様な価値観がどのように世の中にあるのかを学ぶというような、そういう社会的学習をしない。

いや、せめて、そういうことを「わからない。」「しらない。」と事実を認めて、だから、何も言わないというスタンスでいてられたら別に問題はないんですがね。

学ばなくてもいい。せめて自分の無知を受け入れられれば、それでいい。

ところが、この自分の無知も受け入れず、そのくせ、勝手なワガママを「頑固親父」というような言葉で正当化してるってのが困りものです。

研鑽もしてないのにえらそぶるな、ということです。

せめて自分がワガママを言う時は「ワガママ言ってすまんが、これこれしてくれ」と言えばいいだけの話なんですがね。

親から、こういうマトモなコミュニケーションを取ってもらえなかった人間は、親の欠点をそのまま受け継いでしまって、こういうところでキチンと子供とコミュニケーションが取れなくなります。

このあたりはアダルトチルドレン関連の本を読めば出てくるでしょう。わかってる人はみんなわかってると思うけど。
(アダルトチルドレン関連の本は、みんな感銘を受けるのよなぁ。なんせ日本人の60%はアダルトチルドレンだという人もいるくらいで。この概念は、もっともっと広く多くの人に知ってもらいたい。でないと親の因果が子に報い、不幸は巡る糸車、てなことにしかならんから。こんな馬鹿馬鹿しいことはないのであります。)

この根幹理解なくして、親子関係もへったくれもないのよね。

まぁたいていの人間には、親との関係というのが言葉も持たなかった幼少のころにあって、それが「自分」を形作る、大きな足かせになってるということに、まずは気づくこと。

これが大事なんだと思うわけです。

で、私の父親は、もう典型的な「不幸な人」だったということです。

この項、しばらく続きます。
とっても素敵なバトンをいただいた。
実にうれしいので、たくさんの人に回したいと思います。
(あ、別に、無理に受けとらなくてもいいですよ!)

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1.回してくれた方に対しての印象は?

> RYOさん

努力家で頭のいい人。だけど物事を楽しむ余裕もある人。
年齢はとても若いと聞いてるけれど、なんだろ、同年代の人間と印象があまり変わらない。(私いま45ですけど。笑)たぶん物事をちゃんと深く考えているからでしょうねぇ。親しい気持ちというよりかは、尊敬心のほうが大きいかもなぁ。けっこう尊敬してますよ、私。
えらいなぁと思う。

次のTOEICはいつですか? 僕は去年夏に350でした。いまは中学英語を音読してます。目標は5年以内に900です。今度は3月に受験するつもりです。

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2.周りから見た自分はどんな子だと思われてると思いますか?

・仕事においては、最近は「よくできる人」と思ってもらえてるようです。
・ネットでは「口うるさい人」かなぁ。そういうことばっかり書いてるもんなぁ。
・彼女とか、親しい人間からは「能力もあるし、いい人だけど、もうちょっと朝起きるとかキチンとしたらいいのに、それができないダメな人」とか思われてるでしょうね。
・昔好きだった女の子からは「ユニークな人(=変な人)」と言われました。(とほほ。)
・写真だけ見た人からは「やさしそうな人」と言われます。
うーん印象バラバラ。

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3.自分が好きな人間性について5つ述べて下さい。

(1)学習する人。成長してる人。成長しようと思ってる人。
(2)自分を大切にしてる人。自分をみつめている人。
(3)よく笑う人。
(4)家庭人。家族を「ちゃん」と愛してる人。
(5)思慮深い人。品性豊かな人。愛情のある人。

(1)が学習する人なのは、(1)以下の項目もすべて「学習」で身につけられると思ってるからです。それだけの幅広い意味での「学習」です。
学習する人は、どんなに嫌な奴でも変われますし成長しますが、学習しない人は変われません。なのでつきあえない、ってことになります。

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4.では、反対に嫌いなタイプは?

「自己欺瞞」する人。

もうこれは絶対。

「学習しない人」は、論外。最初からつきあわない。なので、その次に嫌いなタイプですね。自分が「嫌われないよう」に発言はすることはあっても、「あなたが好きです」とは言わないタイプ。

そんな人間よりかは、本当に大事と思ったことを、ずけずけ言って周りから嫌われてるような人の方が何千倍・何億倍も好き。

これは「考え方」が間違ってるだけなので、考え方さえ直せばまともになります。だから「学習」は大事なんだと思う。

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5.自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?

「ない」、と書こうと思ってたんですが。

でも、目標にはしてないし、ああなれるとも思ってなかったけれど、ガンジーはすごいなーっていうのが昔からあって、この質問に答えようとして、ふと、「もしかして自分の目標とする理想像をガンジーに置くべきなのか?」と、気づきました。

そうだよなー、ガンジーみたいな人になれたらすごいなぁ。ほんとにすごいなぁ。(あんなワガママでガンコな人もない。でも多くの人を動かした。真の偉人だと思う。)

目標は大きい方が達成率は高いらしいので、理想像は大きく設定して、ガンジー。

あと、イチローもか。イチローみたいな職人にはなりたいかなぁ。

それと、チャーチルとマザー・テレサも気になってるのですが、キチンと伝記を読めてない。あと最近では、アッシジの聖フランチェスコも気になってます。

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6.自分のこと慕ってる人に叫んでください。

ありがとう!! ありがとう!! ありがとう!!
これを永遠に言いたい。本当にうれしいですもんね。

自分を嫌う人間が何億人いようが、慕ってくれる人が一人でもいれば幸せになれる。それは別に家族でなくてもいいし、ほんの瞬間の親しみでもいいです。うれしいものはうれしい。ほんとうにありがとう、です。

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7.そんな大好きな人15人にバトンタッチ(印象付きで)

このバトン「大好きな人に回す」ということなので、もう思い切りたくさんに回してしまおうと考えました。もらってうれしかったし。そういう輪は、うんとひろげておいたほうがいいので。

リンクが切れてたりする人もいてるので、気づいた人は教えてあげてください。
※一方的なラブレターなので、バトンは受け取らなくてもノープロブレムでーす。(^_^)v

> ちょめこさん
実に自分にシビアな人です。
もうちょっと自分に優しくしてもいいかなぁ。
現実直視できる、その強さに頭が下がります。

> きゃおさん
内面の深いところは知らないけれど、
とにかく良き肝っ玉かぁさん。あるいは、
そうあろうとしてる人。
素直なところがとても美点。

> かじゅちゃん
そんなに良く知ってるわけでもないけど、
聡明さがにじみ出てるよねー。
で、第一子長女らしい精神の安定性があって、
そこは大きな魅力だなぁ。
楽しく行こー。

> かいちゅうさん
ご結婚おめでとう。
最近ご無沙汰してるし、こっちからも
連絡したりはしてないけど、日記は良く読んでる。
彼女も偉いなぁって思う。
自分の内面をじっくり解き明かす態度は
本当に素晴らしい。頭が下がります。

> たま
実の弟です。
まぁ、いろいろあるけど、こういうバトンで、
家族以外の人を好きな気持ちとかを素直に確認することが、
いまのあなたには、とても良い刺激になるような
気がしてます。なのでバトン回した。
がんばれ。

> 朱んちゃさん
えーっと、けっこう繊細な人だなぁと思うので、
いろいろ書くと、いろいろ大変だし(意味わからん:笑)
「良い感じだなぁという気持ち」を持続できるといいね、
とだけ書いておきます。

> 魚さん
いい人です。楽しい人です。魅力的です。
でも最近、HPも見てません。ごめんなさい。
たまには「だいありのーと」も
いいんじゃないかと思って書きました。
気づいた人、教えてあげてください。
(わざわざ教えに行くようなことでもないので。)

> たるた(あっちゃん)さん
可愛らしくて、博覧強記。
論理頭があって、ギャグにも強い。
そんな感じでしょうか。
魚さんと同じで、たまには「だいありーのーと」で
書いてみるのも悪くないですよ。

> ラッキーストライクさん
なんかやたらと女にモテそうな人。
(こればっかり書いてるなぁ。:笑)
最近はmixiでつながりできたから、こっちではいいか。
とも思ったけど、とりあえず好きな方なので。

> ぱるぱるさん
よく笑うところが、とても魅力的な人。
しばらくお会いしてませんね。
また機会があれば、楽しい時間を過ごしましょう。

> ねこままさん
「まとも」という言葉をいつも思い出す人。
なんというのかなぁ、「豊かな常識」のある人です。
「おしつけがましさのない常識」というか。
常識の良いところだけを受け取っている人というか。
素敵。
うーん、たぶん基本的に、だいありのーとは、
やめちゃったんだろうなぁと思うのだけど、
一応ね。

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えー、大事な人とかポカミスで抜けてるかも知れませんが、その時はお許しください。もともと気の利かない間抜けな人間なもので。
とりあえずは、こんなところであります。
秘密日記が1500字までだったので、分けたくて。
3000字とか1500字とか不便よなー。ちょっとだいありーのーとの管理者に意見しよ。

えー、マザーテレサは戦争反対の集会には出ず、平和を作るための集会には出たそうです。

素晴らしい!!!

で、一番いけないのは、人を傷つけたり、ウソを言ったり、自分勝手なわがままや妄想を押し通したりしてるだけなのに、「戦争反対のためにそう言ってるのだ」とかの嘘っぱちな言い訳で自分をごまかしている人ですね。

これは最低です。人間のクズですね。自分を善人に見せかけようという根性が最悪なんです。

最近のホワイトバンドでもそうだろうなぁ。自分が子供の虐待をしてる人ほど「子供の不幸を救うために」とかと言って、あれを買っている。(断言する。)世の中、そういう構造が多すぎる。

マザーテレサの映画、見損ねたのよねー。しまったよなー。
うーむ。

もう二十年近く前に「ガンジー」は見たんだけれどあれも良かったなぁ。真の偉人はすごいよ。やっぱり。知ってるかいないかで物事のとらえ方が全然変わる。

だから、知識はすごく大切なんだ。「犬の歴史」を知っていれば、「しつけ」は必然で、しつけこそが愛情なのだというのはわかる。赤ちゃんを噛む犬は頭をなでてもらえない。可哀想だ。犬を愛するなら「しつけ」は必然で、それを必然と思えるかどうかは「犬の歴史」を知ってるかどうかだ。

で、そうやって学び続けることが「平和への道」なんだと思う。
とまぁ、そういう話。

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ちなみにホワイトバンドは本来「お金では解決できない問題というものがあります。それは政治的に解決するしかありません。私はそういう問題が議題に上った時に良い方向に議決する決意があります。」という事を示すために腕に巻くモノで、べつにホワイトバンドを買っても意味はほとんどない。

もともと意思表示こそが大切だ、という運動なのだから、白いヒモでも糸でもいいから、ふだんから腕に巻いて自己主張しておくことが大切だ、というものです。

何故ホワイトバンドかと言えば、貧しい子供たちは常に病気とともにあり、いつも包帯をしていたりするから。その子供たちと一体になって、そういう気持ちを持ちましょうという運動なのですね。

なのに、なんだ、あの書店で売ってるホワイトバンド。「この売上げは寄付されます」しか書いてないの。すっげーーーーーーーおかしい。ものすごくうさんくさい。近年、あれほどヘンなのと思った運動も他にない。

ちなみに、日本では、1995年のウィンドウズ95登場以来、中高年の自殺とともに、児童虐待がいっこうに減りません。ずっと増え続けています。

こっちの方がはるかに問題やっつーの。なんで自国の問題もしっかりと直視してないのに、よその国の子供のことをうんぬん言えるのか。もう、ほんとどうにかしてるよ。この国の多くの人は。

で、なんで自殺や児童虐待というような問題が起きるかというと、「欧米の文化」の理解が足りないままに「国際化」が進んでしまったから、というのが、ものすごーーーーーーーーく大きい。大人がいまの世の中で精神の安定感を失ってしまっているってことなんです。

でも、これはねキチンと勉強すれば、ストレスも相当に削減される。「ははぁそういうことか」とかわかる。それだけで気がやすまるんです。勉強こそ精神安定剤ってことです。

なので、僕はここでいろいろ参考本とか紹介してるんですけどね。でも勉強しない人は勉強しないからなぁ。

ま、そんなことで。
また秘密日記。

許してはいけない事、というのはある。
特に肉親とか近親者だあるほどそうだ。
なにより、その人のためにならない。
その人が不幸になる。だから忠告する。
でも、その忠告を素直に受け取れないくらい、精神的な基礎固めができてない場合もあるし、それはほっとくしかない。

ダメなもんはダメよ。そんなの。決まってるやん。

根本的な考え方の間違いは、たった一言でチョンバレで、「あかん、こういう考えの人とはやっていけない。」と瞬間に判断できてしまうものなのだ。

一事が万事で、小さな事の間違いを自分で修正できない人は、他の何をやっても修正できない。船の舳先が不幸の方向に向かっているから、いまのうちに舵をちょっと切っておけ、と言ってるのに、その「ちょっと」の大切さがわからない。

そういう、ダメな考え方をする人の近くにいてると、日常の「ちょっとした間違い」を、どんどん繰り返して、周りに伝染させてしまうからやっかいだ。こっちが不幸にしかならない。不幸が伝播してしまう。なので距離を取るしかないってことになる。

ヘサキがちょっとズレていて、それを「そのくらい」と思うか、「そこが肝心」と思うかで、人生はまったく違ったものになってしまう、

という話。
空に雲が浮かんでいます。
すごいと思いませんか?浮いてるんですよ。動いてるんですよ。
奇跡だと思う。

植物が花を咲かせます。
すごいと思いませんか? あんな小さなタネが花になるんですよ。
不思議とはこのことだと思う。

私は生きてます。
とんでもないと思いませんか? 意識を持って考えることができる。感情があって、涙したり笑ったりできる。
すごい以外に言える言葉がないです。

なんなんだ、この世は。とんでもない奇跡にあふれかえっているではないか。
すごい、すごい。
とんでもなくすごい。

そんな風に思いませんか?
僕はもう何年も前からずーーーーっとそう思ってる。

ウクレレをやって合奏して、その複数の人間がハーモニーを奏でられるという事実の美しさ。
なんという精緻さをこの世は持っていて、その精緻さを人類はちゃんと発見できているという感動。

だから、ちゃんと生きなくてはって思う。
せっかく生まれてきたのだから、ちゃんと一所懸命に生きなくてはって思う。

何が「一所懸命」なのかは、ひとりひとり違うんだろうけど、とにかく、「課題」はいつも自分の目の前に用意されていて、その問題は「解かれる」ためにそこにある。

でも、悲しいかな人間は、このありのままの事実を見ない。

雲は浮いていて当たり前だし、風があるから動くのだと思う。
花はそりゃタネをまいたら咲くだろうよって思う。
で、しまいにゃ、人間? 生きてて当然じゃん、とか思ったりする。
ひどいのになると「人生残りカスさ」と捨ててしまったようなことを言う。

この世の奇跡を感じていれば、基本的に宗教は不要だ。あんなものは、この奇跡を感じ取れない鈍感人間と、あまりに過酷な課題に迷ってしまった人のための杖にしかすぎない。

ありのままのこの世を直視すれば、不思議と奇跡のワンダーランドだと観念するしかないはずなのだ。

どこかのオッサンが座禅のままジャンプする姿を見て奇跡だ!と思ってしまった人は、よっぽど疲れていたんだろうね。かわいそうに。

日々毎日生きてると、そういう慣れきった感覚にもなるのかも知れない。奇跡をあたりまえとしか思えない感覚。そういう疲れ。
でも、そういう考え方そのものが、僕は大きな罪だと思う。生きているという奇跡に対する罪だ。

ありのままの、この世、こここそが天国である。
思い通りに生き、この世にたったひとりしかいない「自分」を生きないで、いったい何が「生きる」ことなのか、と思う。

自分という存在が、いまここにいて、その自分こそが、まず素晴らしい存在だということを、ゆったり、たっぷり味あわないで、いったい何の人生だろうか。

自分の中の未熟さや至らなさを、冷酷に自己判断して、魂を磨き、より良いステップへと足を進めようと思わなくて、人生の意味などないのだ。

身の回りの人に優しくし、愛情豊かに接するためには、まず、その自分自身が存在している喜び、奇跡をかみしめ、そしてありのままの、未熟で、未完成で、不必要に怒ったり悲しんだり落胆してしまう等身大を自分というものを、たとえ直視するのが「嫌」であっても厳しく直視し、誤りや過ちは正し、より良く生きていかなくて、何の人生だというのだろうか。

成長するためにこそ人は生まれ、苦しみや悲しみの課題を直視し、それを乗り越えることでより良き魂へと成長の階段を上っていくものなのだ。

実際に実行するのは簡単ではないが、そんな現実直視、自己認識こそが生きている意味なんじゃないかなぁと思うのだ。それができなければ、生きている価値なんてこれっぽっちもないよなぁ。実際。

悲しみや迷いや痛みや苦しみまでひっくるめて、全てはエクササイズなんだろう。この世は本当に良くできていると思う。

本当にこの世はすごいなぁ。感心する。うまく言えないけど。
この世界全体に対して、感謝するしかない。基本的には。

いやー、しかしワシ、何書いてるんだろう。でもなんか、急に書きたくなったのだ。
なんかずっと言いたかったことなのに、ずっとうまく言葉にならなかった。なんか今急に湧いてきちゃったよ。

ま、そんなことで。
ちょっと秘密日記が書きたくなったので。
意味もなく人間の赤ちゃんを噛むようなバカ犬は、尻尾をまいて、キャンキャン泣くまで徹底的に蹴り倒さないといけないという話。軽く殴る程度では、また噛むに決まっているのだ。徹底的に部屋の隅で小さくなってビクビクするようなところまで叩きのめさないといけない。
そうしないと、周りの人間の幸せはない。

先の「生きがいの創造」によれば、地獄なんてものはないのだそうだ。ただ、死んだ時に生きていた時の全ての記憶が、相手の気持ちまでひっくるめて、すべて再生されるので、「ひどいこと」をした時のことを思い出すと、それこそ身もだえするほど恥ずかしくて、情けなくて、消え入りたくなるのだそうです。でも、すでに意識体になっているから、消え入ることもできない。ただひたすら反省の気持ちだけになるそうで。それが「地獄の苦しみ」なんだって。
なるほどねー。
現世のうちに反省しない人はそら大変ですわなー。
この数週間で、ある出来事があって、知人と考え方の根本のところで大きな差異があることに気づいた。
まぁ簡単に言うなら人に対していかに関わるか? みたいなことだけど。

で、その「差異」についてはここでは書かないけれど、その「差異」の根本がどうして生まれたのかを考えたら、この本のことが思い浮かんだのですね。

新刊として出た時に読んだので、もう7-8年は経っているのだけれど、読み直してみて、想像以上に自分の生き方、考え方に大きな意識的変革を与えた本だったと気づきいたのです。

「ああ、そうか、こういう考え方を知ったから僕の生き方とあの人の考え方が、こうも大きく違ってしまうんだ。」

という気になった。

で、それは、前にここで書いた「忠告」した人間全員に共通することだったりする。

人間は生きている。
では、どう生きるのか?
これこそが課題だ。
という考え方なんですね。

この本を読んで、少なくとも僕は「ああ、そうか。」と納得して、「良く生きよう」という気持ちになった。

で、「死ぬこと」が怖くはなくなった。
ここがけっこう大きいんだよなー。
ちゃんと「生きて」いなくて、死んだような生き方をしてるくらいなら死んだ方がマシなのだ。

人は「生まれ変わる」。死んでも意識体としての連続性は残る。この本は、そういうことの証明の本なんですね。

で、だからこそ今生を精一杯生きなければならない。人生で起きる、自分にとって「嫌な事」を真正面から捉えて、自分の意識や考え方を「成長」させなければならないのです。「自分の魂を磨くこと」自体が、意識体としての本来的な「生きる意味」だってことです。

おそらく「忠告」をした人間とは、この点が大きく意識としてずれてるんだろうなと思う。生き方という根本のところがズレている。「死」というもののとらえ方そのものがズレている。そう気づいたのですよ。

---------------

ということで、この本は基本的に「人間は肉体的に死亡しても意識体はそのままであり、次の生でよみがえるのだ」という「生まれ変わり論」の本です。

なので、信じられない人には、まったく信じられないだろうし、エセ宗教と毛嫌いする人も多いだろうと思う。

で、嫌っている間は読んでも意味がないのでお勧めしません。著者の飯田史彦さんも「無理に勧めるな」とおっしゃっているし。死生観は人それぞれでいいじゃないか、というのが、まぁ今の普通の考え方だろうし、こんな考え方を押しつけたら、新興宗教だ。

ほんとは、著者の飯田史彦さんは経済学者だし、生まれ変わりの事に関しても「科学的事実として存在しているのかどうか?」を検証している本であって、本質的には宗教本ではない。「もし、本当に人間が生まれ変わるとするなら、人生観は大きく変わるよ。」という提案の本です。

(ちゅうか、もともと経済学の学会で発表された学術論文が元になってるから経済学の論文なのよ、これ。本当は。信じられないけど。)

そして、その大前提からつきつめて行くと、生きがい、働きがい、というものが、付け焼き刃ではなく心の底から自然とわき上がってくるではないか、という社会的利益を説いている本なのだ。

著者の飯田さんは、社員の「やる気」をいかに高めれば良いのかに頭を悩ませている社長のために書いた側面が大きいと書いておられるけれど、まさにそれなのだ。

でも、だからこそ、僕は、この本を「新興宗教本」とあえて書きます。この本に書かれている事って、信用できない人には、やっぱりまったく信用できないだろうし。

実際、この本が書店のどの棚にあるかと言えば、新興宗教本の棚ですからな。こればかりは仕方ないよ。

この本をビジネス書風に勧めて、それで本屋に出かけて「新興宗教」の棚のところに案内されたら、そら絶対に嫌だもんな。「なんだよー、宗教かよー。」って思うわさ。
だから興味のない人には勧めないのだ。いくら「学術論文」だったとしても。

ちょっとこの日記で続けて書いていた「倫社の帝王」で、まだちゃんと解説できてないのだけれど、基本的にキリスト教やイスラム教、ユダヤ教という一神教では、「生まれ変わり」は認めていない。

地球上に生まれてきた人間は全部別個の人間で、「審判の日」までどこかに冷凍保存されていて「審判の日」にすべてを判定されてその後永遠の命をもらうか、意識すら消滅する「完全な死」に至るかのどちらかになる、ということになっている。

でも、かの有名なキュープラー・ロス博士をはじめ、臨床の医師による「いったん死んだ後に、意識を取り戻して生き返った人」のインタビュー等は、そういう一神教の世界でこそ検証しているのですよね。

だから彼らは、ものすごーく慎重です。だって、すべての一神教の教義に反することを、「科学的事実」として主張するわけですから。このあたり日本人は軽く考えてるけど、そらまぁ大変なことなんですよ。反社会的言動ですから。

この本はそういう学者たちの成果をもとに、「じゃあ、そのことを生きがい、やりがいということに応用したらどうなるのかな? 死生観が変われば生き方も変わるじゃないか。」と提案している本なわけです。

でもなぁ、でもやっぱり、この本を紹介するなら「新興宗教の本だよ」って紹介するしかないよなぁ。

で、僕にとって考えてみると相当重要な本だったみたいですな。いまごろになって気づく。たぶん、この本を読んでたからこそ、世界の宗教について何冊も本を読んだりしたんだと思うのですよ。無意識に「検証」してたんだろうなぁ。

この数年の間に身につけた知識で判定すると、たぶんユダヤ教徒やイスラム教徒でも、この生まれ変わり論は一部認める人は出てくると思う。で、キリスト教徒でもカソリックなら部分的に認める人も出てくると思う。

でもプロテスタントはどうだろう? って思う。プロテスタントの人は認めないんじゃないか?そんな気がするんよなー。
まぁちょっと話はズレてしまいましたが。

ともあれ、僕が無意識に宗教に関していろいろ調べてたのも、結局は、この本の影響だったんだと、いまにして思いますな。
この本は、そのくらいインパクトある。
考え方が変わる。

だから考え方を変えたいと思わない人は読まない方がいいのかも知れない。(でも読むと死ぬのが怖くなくなるし、日々、世のため人のために生き生きと動けるようになるっていうのはあるよ。って、このあたりが新興宗教なんだよなー、困ったことに。)

で、僕としてはいろいろな宗教のことを概略として学んでた間は、この飯田史彦さんが出している各種の書籍を、ずっと読んでなかったのです。飯田さん、この本を出した後に何冊も本を出してるんですけどね。でも僕は読まなかった。

で、冒頭のちょっと前にあった出来事から、久しぶりに書店で読んでみたら、この「生きがいの創造」の正式な続編である「生きがいの創造?」が書店に出てたんですよ。

で、読んでみた。

「うげーーーーー、そ、そ、そうやったんかぁ!」
でありました。
こんなん完全に新興宗教ですがな。

でも認める。飯田さんはえらい。
「生きがいの創造?」を先に書かずに、先に「生きがいの創造」を書いた。しかも何年もたってから「?」を書いた。
それ、わかる。
えらい。

ということで、みなさん、まず読むなら、この「生きがいの創造」からね。「?」はあとのお楽しみってことで。
ISBN:4804716300 単行本 町沢 静夫 大和出版 2002/03 ¥1,575
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4804716300/249-9767057-8485143

まず、この本のレビューをアマゾンから引用する。

「30代から40代に移る時期に、誰にも第2の思春期ともいうべき心の危機が訪れる。この『40歳の危機』とその乗り越え方をわかりやすく、かつ学問的にも納得できるように解説する。」

ということだ。

このあいだ「忠告はむずかしい」としたタイトルで「自分セラピー」という本を紹介したけれど、そこに至るには、まずこの本を読もうとした大前提があったのですよ。

それは、自分と同じ年齢の知り合いから友人などの、この数年の、実にドラスティックな変化の事なのであります。

まず、同じ時期に親しい友人が二人離婚した。

離婚の理由がまた、実ははっきりしない。とても仲の良い夫婦でどっちの夫婦もケンカをしたりとか言い争ったりとか、そういうことではないのだ。浮気がひどいとかそういうことでもない。強いて言えば「漠然とした不安で」という感じ。

端から見ていて、離婚する理由がいまひとつわからないのだけれど、それが当人にとってはとても深刻な問題であったらしいのだ。

そういう「漠然とした不安」の背景が、この本を読んで実に素直に納得できたのだ。

40歳というのは、実はまだまだ大人ではない。肉体的には大人だが、「社会」という枠組みの中では、やっと自分のポジショニングが固まって、自分のやりたいことなどが無理なくできるようになってくる、「やっとちゃんとした成人」になったところというのが実際的な状況なのだ。

そして、平均寿命を仮に80歳とすると、実は人生の後半にさしかかり「残り人生」のほうが、「これまでの人生」よりも少なくなってくる時期でもある。

つまり、残り人生の短さを具体的体感で「見通せて」しまう年齢、ということでもあるわけだ。

ここから、三十代の後半から四十代のはじめにかけて、精神的な危機に直面することになる。

「残り人生は短いのに、私には達成したことなんてほとんどない」とかの焦りが出てくるのだ。

これが若い時の焦りと異なるのは、

●残り時間を見通せる
●肉体的にも精神的にも能力値がピークに来ている

という二点があるからだ。

若いときの焦りは、まさに裏付けのない焦りなのだが、40代の焦りは残り時間も計算できる上に、「いまがまさに能力のピークで、これからは下降線でしかない」という現状認識によるリアルさが加わるのである。

なので、精神的な不安度は青少年の不安度とは全く違うし、この時期を乗り越えるというのはけっこう難しいのである。

そういうことを考えると、離婚した二人の知り合いだけでなく、同世代の知人・友人が、軒並みさまざまな問題をかかえていておかしな状態になっているのが良く分かるのだ。

離婚した人間は「やり直すなら、いまが最後のチャンスなのだ」と思うのである。他に理由があるわけでもない。この「いましかない」という気持ちの強さが離婚の原因なのだ。

そのほか、子供ができなかった夫婦は、別れるか、夫婦でバクチにはまるような依存症になってるのが多く、子供ができているところは、男が浮気、女が奥様ならぬ「外様」になってすれ違いが激しくなって会話もない家庭崩壊状態へと突き進むか、子供だけが命と子供依存になっているか、である。

で、ここに「たとえば」と書いた例は、全部実例なのだ。私の知っている親しい同年代の人間(妻帯者)が、軒並みこうなっているわけだ。(独身者はこの年齢で独身というのがすでに問題。)

こっちは客観的に見ているので良く分かるが、驚くぐらいステレオパターンなのは、これらの状況が悪くなったのは、この五・六年の間に集中しているのである。時期があまりに重なっている。この数年で一気に問題が吹き出した感じが強い。

これらは、同年代の人間なのだけれど、年上の方を思い出してみると、得意先の人で、優良企業に勤めていて、まさに調整役が得意で企業にいてるほうが絶対に向いているという人から「独立しようと思ってるのだが」と相談を受けたのが、その方がちょうど40過ぎたところだったなぁとか。

営業とデザイナー二人三脚で順調にやってる人が袂を分って別会社としてやり始めた、あるいはそういう事に対する悩みとかを耳にしたのが40過ぎだったとか、そらもう例に事欠かない。
どれもこれもが40歳を区切りにというのがやたらと多かったのだ。

他にもまだまだいろいろあるのだけれど、やっぱり40なのだなぁ。40歳を前後に、その「危機」がやってくるんだと思う。これは中学生の頃の声変わりとかと同じで、「成長の過程でみなが通るところ」なのだから避けようがないんだろうなと思う。

能力値は最大に高まっている。何かするなら今しかない。だから思い切って無茶なことを理由もなくするか、その内面の不安を何か別のものでごまかすかどっちかするしかない。

でもなぁ、これは「直視」する以外に解決する方法はないんだよ。人は年を取る。それはつまり老いるということなのだ。それは要するに「いずれ死ぬ」ということで、この「死」を受け入れるためには、「生きている意味」を自ら獲得する以外に方法などないのだ。

そこでバクチや子供に肩代わりをしてもらおうとしても無理だし、そういういままでの自分の人生をいったんちゃらにして離婚してやりなおそうと思っても、必ず「うまくいく人生」が手に入るとは限らない。

これらの唐突な「出来事」はひとえに、自分の人生の見直し・再整理の不足なのである。キチンと自分の内面を見ていないから、突発的な対処法に頼ってみたり、自分の内面とは関係のない依存対象にすがってみたりしているだけなのだ。

昔アグネス・チャンが唄った「ひなげしのうた」だっけ? そんな歌があったが、あの歌詞で、

●丘の上、ひなげしの花で、占うのあの人の心。
 来る来ない帰らない帰る〜

という一節があったけれど、まさにあれなのだ。

人生の坂道を上って行くと、ちょうど40歳のところで頂上に着く。いままでの人生の長さから、将来を見通すと、いまが丘の上で、これからは下っていく人生かも知れないと「感じる」わけだ。

そこでどこへ行くのかに迷う。来る来ない、帰らない帰る。である。

でも、そこが頂上で、とにかく降りていくより他に道はないというのだけは直視するしかないのである。下っていくなら、ゆるやかに楽しくだ。

登山でも、登りより下りのほうがカラダの負担は大きいと言う。しっかりと自分を見つめて自分の心の整理をするしかないのだ。

だから、この時期を上手に過ごし、内面の充実を図るということが、すごく大事なのだ。

しかしどうにも、この「自分の内面を見る」ということが、みんな出来ないみたいなんだよなー。
見ないとだめなんだけど。
どこへいっちゃうか分らなくなるよ、この時期をいいかげんに過ごすと、って思う。

下り坂をうまく楽しく、上手に生きてこそ人生なのだ。それができてはじめて、「本当の大人」になれるのだ、ということを、ほんと、みんなに学んで欲しいと思うのよなー。

うむ〜。
今年は私は天中殺という奴である。

(大殺界ではない。大殺界って三年もあるもん。おかしいやん。算命占術は陰陽道のはず。陰陽道は物事には陰陽があるということですべては偶数で割り切れないとヘンなのに。脅す期間が長くなって儲かるという理屈としか思えない。)

なので、今年は自分のことより周り優先という気持ちでやってきた。いやまぁ、そんなことは出来はしないのだけども、我欲を抑えるということだね。

なので、自分の知り合い関係にも「本当にその人のためになる」と思われる忠告しかしなかった。

ありていに言えば、いままで「問題だよなー」と思いつつ口にしなかったことをはっきり伝えたということでもある。

そしたらまぁ、ものの見事に、知り合い三人に忠告したのだけれど、三人ともから、えらい強い拒否にあってる。

んー、まぁしゃあないか。

これは精神分析的に言えば防衛機制(defense mechanism)、要するに、自分の都合の悪いことになると拒絶する否認(denial)、葛藤・不安を退ける為に行う正当化=合理化(rationalization)に陥るという奴で、逆に言えば、あまりに的を射抜き過ぎてて、受け止めてもらえなかった、ということだろう。

反応がまた、まったく同じで「そういうこと言うから君はみんなから嫌われるんだ」ってもの。これって、拒絶・否認・正当化の常套パターンの言葉なんだなぁ、と良くわかった。みんな、ではなくあなたに嫌われてるだけ。で、嫌われてでも伝えるべき事があると思うから伝えているだけ、なのになぁと。

ちょっと話は外れるけど、いまの民主党の前原党首というのは、しょっちゅうアメリカに行ってるネオコン派で、ああいう人が民主党の党首になると、自民党も民主党もどっちもアメリカべったりになってしまってあまりよろしくない。

で、そういうことを良く分かってる副島隆彦が、もう二年も前にテレビの竹村健一の番組で前原氏と同席する機会があったんだそうです。楽屋に竹村健一もいて、志方なんとかという軍事評論家とかもいてる前で、「あなたは民主党という野党にいる立場なのだから、アメリカに追従する自民党の立場ではなく、追従はよくないという立場に立って自民党を批判せねばならんはずだ。そこはキチンと考えてくださいよ。いまのままでは、アメリカに取り込まれてしまう。」というような、まっとうな指摘をしたら、この前原氏の言葉が「あなたはそういうことを言うからみんなから嫌われるんですよ。」だったんだそうだ。

いずこも同じか。一番嫌な事を言われたら、受け入れるのではなく「僕は周りにあわせてるだけだ」と逃げるだけ。

ともあれ、この三人、指摘した問題そのものはそれぞれに全然別で、その問題に真剣に取り組めば、うんと心も軽く楽しく人生を生きられるはずなのに、その肝心のことをほったらかしにしてるという意味ではみんな同じなわけです。

不思議に思うのは、もうひとり問題指摘をした四人目の友人がいてるのだけれど、この男からは拒否を受けてない。で、実はこの「拒否しなかった男」が、社会的状況としてはいちばん問題が大きいはずなのだ。具体的な問題が山積みだし。

だから問題が表面化した時でないと、受け入れられないんだろうなぁと思う。早めに指摘しても、問題自体を認識できないんでしょうなぁ。認識する気がないって奴なんだろう。

三人とも僕にとっては大事な人なんだけど、その「問題点」を抱えているせいで、とにかく、この数年は話をしても、全然楽しくない。うまく言えないが、ようするに不平不満をグチグチと言われるだけという感じにしか感じないのです。

こういうのは「自己評価が低い」という奴で、基本的に、「まず自分を大事にする」ということが出来てないってことなんですな。自己評価が低いのは、いちばん、いろいろな心の病の原因になりやすい事柄なのだから、注意して欲しいって思う。

自己評価が低いから、トータルで見て「生きてるのがつまらない」という感じに思えるわけですね。わかりやすく書くなら「つまらないと思っているからつまらない」なわけですよ。あったりまえやん。おもしろいと思ったら面白いよ。当然でしょ。

この三人で言うと「得意先にはべったりくっついて、自分がおかしいと思うことでも受け入れなければならない」とか「世の中の決まり事には自分の実感を越えてでも従わなければならない」とか「危険なことをやって、それを乗り越えられるからこそ私には能力があるんだ」とかの、えらい苦しそうな「思いこみ」を、自分でかかえこんでたりする。そう感じられるわけです。

で、それは当人が勝手にそう考えてるだけで、そんなこと全然ない。自分を捨てたりダメにしたり、危険にさらしてまで優先しなければならない価値なんて、そんなもん、ない。あるわけがない。

人間は、ただ生きている、それだけで価値があるのだ。自分は自分というだけで素晴らしいのだ。当然でしょ、そんなこと。自分より上の価値観なんてないよ。ありえない。

だからこそ、自分の人生で、困ったこと、問題点、嫌なこととかがあったら、さっさと直視して問題の根っこを明確化して、それをすべて良い方に転化してしまえばいいのだ。

できてないなら、できてないと認める。それだけ。別にできてなくてもええやん。わかってないならわかってないと認める。別にわかってなくてもええやん。わかってもいないのにわかってるふりとかするから苦しくなるのにって思う。

ちゃうんかねぇ。なんか「俺は不幸だ」と思うこと自体が大切な価値観にでもなってるんじゃないかと思ってしまう。

いやまぁ、一昨年、私、けっこういろいろ落ち込みましてね悩んだからこそそう思えるようになってきたのかもしれないんだけど。

それらを考えると、その時期に読んだ、この「自分セラピー」という本との出会いは、けっこう大きかったなぁと思う。タイミングもあるから、人によっては全然役に立たないのかもしれないが、少なくとも、重要な「自己評価」を高める役には立つ。

やっぱり、誰とのつきあい方が一番重要かと言えば、それは「自分」ですよ。まず「自分」という人間を良く知って、その自分と取っ組み合いをする。それが一番の基本。

「受け入れがたい感情」が出てしまう「ダメな自分」もありのままの自分と受け入れてはじめて、「自分を愛する」ができるのだし、この「自分への深い愛」なくして近親者との愛情ある交流もできない。絶対に。

この本は、そういう気づきに向かうための、手順をうまく示してくれていたと思う。けっこう好きな本です。

ともあれ、忠告しても受けいれてもらえないので、ほっとくことにしている。問題そのものは解決されてないんだから、そのうち問題そのものが大きくなって四人目の男みたいに自覚せねば仕方なくなるか、あるいは自分で気づくか、どっちかするでしょ。

まぁそれはそれでいいや。僕は僕の幸せが優先だし。ただあんまり不幸な考え方には近づかないようにしようと思う。距離取るしかないよなー。

三人ともに、「●●でなければ幸せでない」という条件つき幸福論にはまってしまっているなと思う。それは「生きてるだけで幸せ」と思うようにしている僕には、うっとおしくて仕方ない。やめて欲しいよなー。近づかないでおこう。こればっかりはしょうがないんかなー。

そんなことをおもってます。

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