ちょっと、先日の「学習する必要性」を書いて、自分の父親のギャンブル依存症を思いだしたので、ふとWikipediaで「依存症」を検索してみる気になったのです。

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=

そしたら、そこに、「否認」という項目が、ドーンと、けっこう大きく出ている事をはじめて知ったのでした。Wikipediaは、全面的に信用してるわけでもないんだけど、まぁ、一般常識的な範囲の知識は、そこそこ充実してるところではあるから、まぁ依存症において否認は、かなり特徴的なことなんでしょうな。やっぱり。と思ったわけです。

で、象徴的だったのは、「しばしば依存症は『否認の病』とも言われる」と書いてあるということ。

ああ、そうだったのか! と、今更ながらに、改めて気付いたってことなのです。

いやね、最近、身の回りで「依存症傾向」にある人に「ちょっとちょっと、それはまずいんじゃないの?」という事を、僕はどうしても、ついつい言ってしまってたんですね。

で、それは自分の父親がギャンブル依存症者だったから、そういう事に敏感だから、なんですけど、そういう「注意」をすると、その相手に、かなりの確率で否認されてきたんですよ。

当人が、薄々勘づいていて、無視・否認されるとか、あるいは、もう完全に自己欺瞞が完成していて、いくら言っても気付かないとか、いろいろですけど。

でも、この「依存症は『否認の病』」という言葉を読んで、そうかぁ、ああいう否認こそまさに、依存症になってしまっているという事の証明だったんだなぁと、いまごろ気付いた、というわけです。(遅いよ!>俺:笑)

僕は、依存症に関しては、自分の問題(父親のギャンブル依存症、自分のAC問題)から、取り組みはじめたので、部分的問題しか見えていなくて、実は「依存症」という、大きな大きなくくりによる、全体像に関しては、かなり無知だったんだなぁって、あらためて気付いたわけです。

まぁ、こういう問題は、誰だって個別の問題からしか認識していけないものなんでしょうけどね。

ということで、wikiの依存症の項目をあらためて見てみると、いやまぁ本当に、部分問題である、依存症の症例が山のように書いてあるんですね。

たとえば、

●物質への依存(ニコチン依存症、摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症など)

という具合ね。ほとんど全部にちゃんとリンクが張ってあるし。
わはははー。いやしかし、この手の病気のオンパレードだねぇ。いやほんとに。全部バリエーションにしか過ぎないんだなぁって思う。

関連項目を見ても、

・ニコチン・喫煙
・ネット中毒、携帯依存症、メール依存症、テレビ依存症、占い依存症、オンラインゲーム依存症
・性依存症 (セックス依存症、セックス中毒)
・ギャンブル
・パチンコ依存症
・アダルトチルドレン

と、この手の話の総決算・総目次みたいになってますな。(ここに「だめんずうぉーかー」のネタも入れて欲しい気はするのだが。)ようするにやっぱりひっくるめて「依存症」であって、で、依存症になった人間の多くは、その自分の状態を「否認」するものなんやなぁ、と、あらためてしみじみ思ったということなんですよ。

いや、というのは私、ずっと「否認」されて、すごく腹を立てたからなんですよ。
「ああ、俺ってアホやなぁ。」と。病気の顕著な特徴に腹立ててもしゃーないやんか、という感じがしましたです。この項目を見て。

実際、こうしてWikiの項目を見ると、否認は依存症のかなり重要な特徴なんだなぁと、改めて気付いたわけです。
あらたなパースペクティブを得た、って感じ。

(否認しているから依存症というわけではないんですけどね。あくまで「大きな特徴」のようです。まぁ「私は依存症だ」と自覚してるのにも関わらず、依存から抜け出せないって人もたくさんいてますからねぇ。そういう回復途中の人は、否認はしてないけど、依存症ではあるわけですしね。)

昔から僕の大嫌いなものは「自己欺瞞」だったんですね。

多分父親を見てたから、そういう思考になったのだと思うんですが、「自分で自分をだましている状態」というのが、どうしてもキライでしょうがない。

でも、その「自分で自分を騙している状態」である「否認」っていうのが、まさに依存症の大きな特徴と知ると「うーむ症状の一種か。じゃあ腹を立ててもしょうがないなぁ。」という気にはなりますわね。

だってそれは、風邪ひきで熱を出してる人間に、「熱を出すな!」と言ってるようなもんですからなぁ。

それが、今回、実に実感として、深く感じ入った事なんです。

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ただ、まぁ、それでも、腹を立てる必要はないにしても、改めてやっぱり、「君はおかしいんだよ。」と言うことは、いくら否認されても、冷静に、具体的事実として、繰り返し言い続けないといけないんだろうなぁとも逆に思いましたけど。

やっぱり、熱がある人には、「体温計で熱を測ってごらんなさい!」と言わないといけないのと同じ事だと思うんですよ。それは。

「あなた、依存傾向が強すぎますよ。」って事はちゃんと言わないといけないんだろうなぁ。嫌がるやろけど。やっぱり病気は治した方が快適やしなぁ。

自分が「病気なのだ」という事は、「自覚するように」とは言い続けないとアカンのやろなぁって思うのです。というのは、こういう依存症からの回復で、大きな力を持つのが自分の病気を自覚することであり、それは自助グループでの回復過程なんかを見れば、明らかだからなんですね。

たとえば、古くは断酒会からはじまって、アダルトチルドレン関連のアノニマスグループ(アラノン)と言うような自助グループがありますが、そういう場所には、まさに自分と同じような問題を抱えて、苦しんでる人がいるわけです。

で、そういう依存症者が、まさに自分と同じ感覚を共有しているんだと知る事で、自分が依存症者そのものであって、で、それは、意識的に治療をしないと治らない病気なのだという自覚が生まれるんですね。ここが大事なんだよなぁ、ここが。

他者を鏡として、自分を客観的に見ることができるようになる。自分が「依存症だったんだ。」と自覚できる。
これこそが、回復の第一歩なんですね。

だから、その症状に気付いた人間は、客観的立場として、しつこく何回でも言わないといけないんでしょう、本来は。多分。

なんせ、依存している最中は、自分を客観的に見ることができないわけですから。だからこそ、客観的な視点での情報を与え続けないとね。当人に、「治すべき病気にかかっているんだ」という自覚が生まれないですから。これは。

で、「治そう」という自覚が生まれない限り、絶対に治らないですからなぁ。一生否認し続けるだけですから。

その「否認」が崩れるためには、同じような依存症者の体験談を聞くのが、本当に一番なんですよね。

「ああ、それ、わかる!」という感覚がわーっと湧きますから。
「なんで、この人、私と同じ感覚を持ってるの? 私だけの私の感覚だと思ってたのに!」
みたいに思うわけですよ。

そこではじめて、自分の問題が「個性」ではなく「一般的な病気なのだ」とわかるわけです。
ここがすごく大事。

僕が、ウォイティツの「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」を読んだ事で大きな衝撃を受けたのも、「ああ、こ、ここに私と同じ問題でひっかかっている人がいる!」という客観的な驚きがあったからこそなんですよね。

そして、そこから回復に向かっている人が世の中にはいてるんだ! という希望を感じ、また、社会の仕組みの中に、こういう「自分でもよくわからない事」を、キチンと解き明かして、対処するための仕組み作りをしてくれてる人たちがいてるんだ! というこの世に対する信頼感みたいなものが生まれたって事ですからね。

こういう部分の信頼感って言うのは、かなり大きくて、だからこそ「本を読め」になってるんです。この世に対する信頼感があって、本を読むという行為は前向きに積極的に意味が出てくるんだと思う。先達を信頼するってことだから。

もともと依存症っていうのは、仕事が辛いだの、人生がおもしろくないだの、イキイキと生きている実感が得られないだの、なんらかの「不満」があって、その自分が持っている不満と直接対面しなくて済むように、「依存」し始めるって事が多いわけです。

それはつまりは、社会や人生に対する絶望感だと思うんです。そういう絶望感があるから、そこから逃れるために依存対象が必要になるわけです。

このあたりは自分の父親を見てて、よくわかりました。うちの父親は生みの母に捨てられた人で、人生そのものに恨みを抱いていたんですね。なんて理不尽な! ってところでしょう。でも、理不尽な事なんていくらでもあるんです。世の中理不尽な事だらけです。おなじような理不尽な環境の中に生まれて、それでも身の回りの人と豊かな交流を持って、明日に希望を持って楽しく生きてきた人はいてる。山のようにいてるわけです。つまり恨みを持つか持たないか、人生に絶望するかしないかも、ようは自分次第なわけです。

でも、その事実を直視するのが辛くてギャンブルに逃げ込んだんだろうなぁと思うわけですよ。事実を否認してギャンブルに走り、で、ギャンブル依存症になって、自分がギャンブル依存症であることを否認してたわけです。

wikiの依存症の、「否認」の項目を見ると、

第一の否認〜「自分は大丈夫!」
第二の否認〜「やめさえすれば大丈夫!」

ってなってて、「ああ、まさに依存症者のセリフだよなぁ」って思うんです。たとえば、僕が、「大丈夫か? おまえ!」って注意するっていうのは、すでに大丈夫じゃなくなっているからこそ、言うわけですよね?

そういう「客観的判断」があって、注意をするわけですが、そういう状態なのに、それを認識できずに(せずに)出てくるのが、まさにこの「大丈夫」って言葉なんですね。で、それはまさに依存症の証明であったわけで、「ああ、問題あるなぁ」という、外からの認識とは、大きくズレてるわけですわ。

ずれてるからこそ、「大丈夫か?」って聞くわけでねぇ。でしょ?だから、ここで「大丈夫だ」と答えてる事自体が、かなりヤバイって事なんです。
でも、それに気付かないんよなぁ、依存症者は。気付きたくないんやろけど。

自分を客観的に見ることができない、っていうのは、そういう事なんですね。ひたすら外からの目を「否認」する。でも、その「自分を客観的に見る」という事こそが、希望であり、回復へのストレートな近道なんですよね。

依存に頼らずに、辛くても一番最初に感じた「辛い現実」を素直に受け入れて「それでも明るく楽しく生きていくんだ!」と決意して、そっちへ行こうとするより他に道はないんですね、最初から。

現実からは逃げられないんだから、早めに正しく認識する方が対応策も立てやすい。ところが、その辛い現実を受け入れがたいものだから「依存」に走るわけですわ。ギャンブルも、アルコールも、人間依存も、ゲームも、ネットも全部一緒。まぁ、心の防御のためには、依存も多少は必要なのかもですが。

でも本当に「否認」してたら、いつまでたっても同じ現実しか立ち現れないんですよね。
ずっと繰り返し。

ようは、人生に絶望感を持ってしまうから、そういう否認が起きるんですよ。

で、その絶望感っていうのは、たいていは「高すぎる理想の自分」と「現実の自分」とのギャップから生まれてるんですね。

うちの父親で言うと「愛情あふれる両親が揃っている環境」という理想でしょうね。いやー、そんなもんはないよ。みんな適当だよ。でも、それを受け入れるしかないんだよ。と回りが言っても、それでも多分「でも、みんな一応は両親がいてるじゃないか」とかなんとか、自分の理想・夢が、「かなっていない部分」の事をずっと気にしてたに違いないわけでね。

それはつまりは「かなわない夢」を追いかけていたということであって、そんな「高すぎる理想」=「必ず裏切られる夢」を追いかけるから、人生が辛くなってしまうって事なんですよね。

両親の愛がなくても、友達は作れただろうし、なにより5月の気持ちのいい風を吸い込んで「ああ、僕は生きてるんだなぁ」という生きている事のありがたさに感謝することはできたわけでね。

この「できることをする」「持っているものに感謝する」という現実受入方法を学べずに、理想の環境に生まれ育った自己を追い求めるから不幸になってしまうんですよ。

私はいま生きている。
そのことがまずありがたい。

ここがすべての原点で、ここを実感できてないのはかなりまずいと思うんです。

ともあれ依存症は病気ですからね。
病気はちゃんと治した方が良いって事です。

依存症を検索してると、面白いyoutubeの動画がありましたので紹介します。

依存症者の脳みそは、おなじようにパチンコをしていても、普通の人と違う反応をしてしまう、という実験結果が出てます。まさに「麻薬」を打ってるのと、同じような状態になってしまってるんですね。まさに病気であり、麻薬常用と同じく恐ろしい病気なんだという実感が持てると思います。

●陣痛でもやめられない パチンコ依存症 はなぜ起きる
http://www.youtube.com/watch?v=sCV3y7YmiLA

●パチンコ依存症
http://www.youtube.com/watch?v=Eq-JP-smBlU

パチンコをしてて、赤ちゃんを車におきざりにしてしまうという事件が後を絶たないけど、依存症は、かなり重篤の病気だもんなぁ、さもありなんと考えるしかないって思いますね。

繰り返しになるけど、

●物質への依存(摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症、ニコチン依存症など)
●過程への依存(ギャンブル依存症、パチンコ依存症、ネット依存症)
●人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症、性依存症など)

は、全部依存症です。
で、指摘されて「そうかも知れないなぁ」と思う事すらできなくなったら、かなりやばいです。

否認は依存症の一大特徴と知るべしですね。自己の精神状態のチェックのためにも。

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