本を読まない人とは話があわない。
2008年5月11日コメント (5)またまた本の話なんですが、先日書いた、
「本を読むには、まず通勤読書。」に、
http://diarynote.jp/d/12917/20080502.html
フク子さんという方から
>今日「ああそうなんだ!」と思ったのは、「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」というところです。
というコメントをいただきました。
で、この「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」という事が、いったいどういう事なのか、というのを、少しわかりやすく書きたいと思ったのです。
というのは、僕もよくわかってなかったのですが、本を読まない人というのは、かなりやっかいな精神構造になってるんだなぁ、というのを最近いろいろと感じはじめてるからなのです。
それはどういう事かというと、「自分の知らない事を想像でおぎなう」という事なんですね。
「自分の知らない事を想像でおぎなう」というのは、まぁたいてい誰でもやってる事はやってるんです。ただ、どうも本を読まない人は、この「補う程度」が異様に高く、時と場合によっては、「妄想」のレベルにまで到達してる事が少なからずあるようなのですね。
なので、政治にせよ、社会のルールにせよ、少し込み入った話をしようとした時に、本を読んでない人との話が時折、まったくかみ合わなくなるんですね。何故かというと、「妄想」を前提に意見を言ったりするからなわけです。
こっちが、「え? え? 何の事? どういう事? 意味がわからん。」ってなってしまう。
コミュニケーションを取るためには、やはり共通の基盤というものが必要で、世の中のいろいろな問題とかテーマとかは、やはりまず、大前提となる知識なしには語ることはできないわけです。
たとえ話で言うなら、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんの会話というのは、行ったことのないCさんには本来は「わからない」のが当然なんですが、わからないCさんとしては、そこのところを「想像」で穴埋めして、頭の中に、想像上のディズニーランドを構築して話をするしかないわけですね。
で、その「想像上のディズニーランド」が現実と合っていて、問題ない場合は別に普通にABC三人ともに会話が成立するわけですが、Cさんの想像が的はずれになっていて、勝手な思いこみが生じてた場合は、行ったことのあるAさんBさんからは、「は? なんの事?」と言われるという事になります。
そう、たとえば、スペースマウンテンの仕様を、エキスポランドとか、各種の遊園地のような、「敷地全体を利用したジェットコースターと勘違いする」みたいなことでしょうか。とにかくそういう勘違い・妄想を持ってしまったりするわけですよ。
で、「ディズニーランドも歩いてたら、頭の上でゴーってうるさいやろね。」とか言ってしまう。で、行った事のある人達からは「は? 何の事?」と首をかしげられてしまう。だって想像の範囲外でしょ?行ったことのある人からすれば。違います?
で、こういうディズニーランドのような具体例でなら、Cさんも、「あ、私の勘違いでした」とすぐに修正とかは可能なんです。
ところが、抽象的な法体系の話であるとか、社会の仕組み、歴史や宗教の話、精神の内側の話、などになると、とても抽象的な概念の取り扱いになりますので、Cさんのように想像で穴埋めしてる人は、どこからどこまでが自分の想像で、どこからどこまでが社会的な認知を受けた知識なのかの区別がまったくつかない、という事になるわけです。(というか、本当は「わかってない」のだから「わかりません」と言わないといけないんだけど、それは後で書きます。)
ディズニーランドの場合なら現実の問題なので、行かないとわからないというのが当たり前です。
だから、すぐに「自分の想像が間違ってる」と、わかるわけですが、抽象概念だと、自分の妄想であっても、
●「同じように人間が考え出した『考え』ではないか。」
という勘違いを読んでない人におこさせるようなんですね。
いやいやいや、それは違う。大前提となる知識は、まさにディズニーランドに行ったか行ってないかの違いで、本も読まずに話なんかできるわけないんやよ。という事なんです。
このAさんとBさんの普通の確かなコミュニケーション、というのは、本をたくさん読むほどに確実に実感できてくるわけです。
また、著者の知識レベルとかも、読んでるうちに見えてきたりします。この人は、このジャンルの知識は弱いな、とかいろいろ見えてくる。
そういう基礎知識があるもの同士のAさんとBさんの会話やコミュニケーションを数多く重ねていけば、Cさんが完全に勘違いしてるというのは、もう自明の理なんですね。ものすごくはっきりしてる。はっきりくっきりしてる。バシ!っとフォーカスがあってるわけです。
ところが! この抽象概念であっても、社会的にバシ!っとフォーカスのあったやりとりがあるのだ、それから外れてたら完全に勘違いなのだ、そんなものはすぐにわかるのだ、と言っても、想像で穴埋めだけをしてきた人には、ここのところがわからないわけですわ。そういうバシ!とわかった上でのコミュニケーションなのだ、ということがわからない。困ったことに。
基本的なね、知の体系とか、大きな歴史の流れとか、そういうものはちゃんと抽象的な概念上に、キチンとモノであるかのように存在しているわけですよ。
中世と近代の違いとか。意識と無意識とか。一神教と多神教とか。アダルトチルドレンと機能した家族に育った人の違いとか。わかってる人は解ってる。わかってない人はわかってない。それはもう、ものすごくはっきりしてる。それこそ、言葉のささいな使い方の違いで、わかってるかどうかが見えてしまうものなのです。
で、こういう事は、まず学ばないとしょうがないわけですよ。大前提となる常識的な入門知識みたいなところから積み上げる以外にないわけです。
知らないのに大雑把に「こんなもんだろう」という事で想像で穴埋めしてしまっちゃダメなわけでね。
-----------------
でも、想像で穴埋めしてる人に「それは違うやろ」という事を言うと、すごく怒り出したりするわけですよ。プライドが傷つけられたと思うんでしょうけど。たぶん妄想をベースに自分の生き方まで構築してしまってるんですよね。そうなると、間違いを指摘された時に、自分個人の人格を否定されたように感じるって仕組みなわけです。
通常、基礎からキチンと学習を積み重ねてきた人に、「それは間違ってますよ」と指摘すると、たいていの場合は、相互に確認しあって、最終的に「とても勉強になりました。ありがとう。」という話になります。
なんでそうなるかというと、「自分が何を知らないか」に関しては情報を得るのがなかなか難しいからです。自分に欠けている知識を明確に知る、というのはかなり難しい。
だから「間違ってるよ」と言われたら、こまかく確認して「なるほど」ってなるわけです。
また、指摘された事をきっかけに、また新しいテーマで読書をしたりするわけですね。
でも、本を読んでない人は、ひたすら自分の哲学が崩壊させられた、という被害妄想を抱えるわけです。
いや、それは最初から哲学にすらなってないよ、って事なんですけど、それ以前にいきなり「不安」があからさまになるから、落ち着いていられないんでしょうね。
こうなると、回りから間違いを指摘してもらってるのに、それを受け取る事もできなくなっているので、修正して正解に近づくという善循環も働かず、「間違ってる事をムリクリ正しいという事にするための妄想」をまた新たに生み出して、えんえん妄想の無限回廊を生み出して、一人歩きをするしかなくなるわけですね。こうなると、もう、本当にやっかいで、これは手をつけられないわけです。
でもそれは「自分勝手な妄想」をベースに自分の哲学みたいなものを作ってしまってる、という事自体が問題だってことなんですけどね。
こういう人に正しい知識を伝えようとしたときに、「その考え方は危険だ」とかまで言われたりしましたからね。
ここで言う「危険」が何が危険かと言えば、その人の間違いに立脚した哲学が崩れ落ちてしまうから「危険」なわけです。自分のアイデンティティが崩壊するという危険なんですね。
いや、そりゃ砂上の楼閣なんだから崩壊して当然だし、もっと早くに崩壊させとけよ、って事で、笑ってしまいますけど、どうも当人にはえらく大事に感じてるようだから、触りようもないってことになるわけです。
いやまぁ、こういう事って、実はよくある事なんですよ。でも、悲しい事に、普通は、当人には、表だっては言わないわけですよ。相手を気遣って。だからよけいに見えなくなっちゃう。
でも、普通そういうのは「バカ」としか言わないんですけどね。で、本当にそういう事が良くないよ、と心配してる人だけが注意するわけですけど、それをまた拒絶するという事になりまして、当人だけが、世間から取り残されるわけです。
でも、取り残されてる事自体に気付いてないんやろなぁ。多分。
でも、まぁこれは、良くある話なんです。
どこにでもある。
もう本当にそういう人間のほうが増えてしまったようですから。
困った事だなぁ。
ほんとに。
そういうわかってない人が増えると、それが普通になってしまうので、わかってないのが「当たり前」になるんですね。
それで、よけいにわけのわからん世界が現出する。
で、だから、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんのほうが、世間の「妄想のディズニーランド」から取り残されているかのように、アホからは見える、てなところまで行くんですね。
でも、そんなもん、ハナクソなわけですよ。実際にディズニーランドに行った人間からしたら。ハナクソ。勝手に言うとれとしか思わない。でしょ?
「本を読まない人とは話があわない。」というのは、ようするに、そういう話です。
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で。
実は、しりあがり寿の4コマ漫画で、とても面白いなぁと感じたものがありまして、それはこんな内容だったのですが、
●電車の吊り広告に「いま時代はロハス」の文字があり、それを眺めている主人公の女性
●同じく雑誌でも「ロハス」特集
●で、同僚の男の子に「ねー、ロハスってなんだい?」と聞くと、「あーロハスね。俺も考えてたんだけどね!」とにこやかに答え、
●「(1)漢字の只をロハと読んで、金のかからない生活を言う。(2)アロハのロハからとった自然でゆとりのある生活を言う」と自分の説をとうとうと述べる。
主人公の女性は困り顔で一言、「考えてないで調べろよ!」
とまぁ、こういう内容なわけですが、これがまさに「本を読んでない人」なんですなぁ。
実感として、この漫画が実態を良く表してる。
でも、こういう人がものすごく多いんですよね。
で、インターネットが普及してから、よけいにこの傾向が強くなった。なんせ、「ロハスとは漢字の只から取ったロハの事」というような妄想まで、平気で一人歩きしてるのがインターネットですから。こういうのがコピペでどんどん広がってますから。
だから本を読まないとアカンのよ。
と私は思うのだけど、読まない人というのは、実は「読まない」のではなくて「読めない」人であることが多いので、読みなさいと言ってもムダだったりするんですねぇ。
「読めない」というのは、環境がそうなってしまってるから、って事なんですが。自宅で仕事をしてるとか、お店をやっていて立ち仕事だから読めないとかね。
(でも、そういう人は実は中波のラジオで知識を得てたりする。実は中波のラジオってけっこうレベルは高いです。少なくともテレビよりははるかにマシ。これは余談でありますが。でもまぁ、やっぱり本には主体性の面で劣るわなぁ。)
たとえば、僕は子供の頃からそうでしたが、何かを学ぼうと思ったら入門書をとにかく買ってくるんですよね。やっぱりそこには基礎の基礎が書かれてるんです。なので、かなり重要なんです。
で、実は入門書も一冊じゃダメで、数冊は読まないとダメなんですね。というのは用語に意外とズレがあったりするからなんです。
まぁそうだなぁ、初心者用数冊と中級者用数冊、それにそのジャンルに関する自分の興味の湧くことが書いてあるような本数冊の10冊くらいは読まないと、そのジャンルの「ディズニーランドに行ってきた人との会話」ができないと思って間違いないんですね。
でも、本を読まない人は、これすらしませんからね。やっぱり結局、自分の想像で穴埋めするんですよね。やれやれ。
ともあれ、じゃあ、本を読まない人に「読みなさい」と言ったところで、読み方自体がわからない可能性があるので、そういう人には、「まず自分の妄想モードを止めると言うことをしなさい」と言うしかないんですよねぇ。
妄想が壊れるのがイヤで本を読んでないって部分もあったりするのでね、このタイプは。
いや、ほんと困りものです。
--------------------
えー、で、本を読んでいる方には、こういう妄想がひとり歩きしてる人への対処法をお伝えしておきます。
まず基本的に関わらない事です。単純に時間の無駄しか生まれませんので。妄想に付き合うことほど空虚な事はないです。
で、ここからが大事なんですが、このタイプの人間の見分け方です。このタイプは意外に人当たりも悪くないので、なかなか本性が読めませんが、実は大きな共通点があります。
このタイプは「知りません」とか「わかりません」と言うのが苦手です。それも知っておくべき重要なテーマに関するほど、「知りません」「わかりません」が言えないんです。
なので、知ったかぶりをしてる人を見たら、とにかくサッサと逃げる事だと思います。
ろくでもないです。時間の無駄。
別に知らなくてもいいのに、「知ってなくては恥ずかしい」って思ってるみたいなんですよねぇ。
そういう「理想の自己」に押しつぶされそうになって、必死に「妄想」にすがってるんですね。
やれやれ。
精神病の中に、虚言症って言うのがありますけど、それが基本的には、こういう構造です。
誰でもこういう構造に陥る危険はあるんですよね。どこかで「虚言」を弄してしまっているところが人間にはある。
でも、そういう心のワナにはまってはいけません。
なので私は言うのです。
「私はロハスの意味、知りません。」と。
いや、ほんま。ほんまに知らんのですよ。わははははは。どうでもええもん。ロハスなんか。
そういう事なんですけどね。「知らんわ、そんなもん」と言えれば、それこそが「無知の知」だったりするんですが。
で、こういう態度を持ってた方が、素直に他者の知恵である「本」を読む気が起きたりするって事なんですよね。
人間の心というのは、おもしろいものであります。
ま、そんなことで。
「本を読むには、まず通勤読書。」に、
http://diarynote.jp/d/12917/20080502.html
フク子さんという方から
>今日「ああそうなんだ!」と思ったのは、「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」というところです。
というコメントをいただきました。
で、この「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」という事が、いったいどういう事なのか、というのを、少しわかりやすく書きたいと思ったのです。
というのは、僕もよくわかってなかったのですが、本を読まない人というのは、かなりやっかいな精神構造になってるんだなぁ、というのを最近いろいろと感じはじめてるからなのです。
それはどういう事かというと、「自分の知らない事を想像でおぎなう」という事なんですね。
「自分の知らない事を想像でおぎなう」というのは、まぁたいてい誰でもやってる事はやってるんです。ただ、どうも本を読まない人は、この「補う程度」が異様に高く、時と場合によっては、「妄想」のレベルにまで到達してる事が少なからずあるようなのですね。
なので、政治にせよ、社会のルールにせよ、少し込み入った話をしようとした時に、本を読んでない人との話が時折、まったくかみ合わなくなるんですね。何故かというと、「妄想」を前提に意見を言ったりするからなわけです。
こっちが、「え? え? 何の事? どういう事? 意味がわからん。」ってなってしまう。
コミュニケーションを取るためには、やはり共通の基盤というものが必要で、世の中のいろいろな問題とかテーマとかは、やはりまず、大前提となる知識なしには語ることはできないわけです。
たとえ話で言うなら、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんの会話というのは、行ったことのないCさんには本来は「わからない」のが当然なんですが、わからないCさんとしては、そこのところを「想像」で穴埋めして、頭の中に、想像上のディズニーランドを構築して話をするしかないわけですね。
で、その「想像上のディズニーランド」が現実と合っていて、問題ない場合は別に普通にABC三人ともに会話が成立するわけですが、Cさんの想像が的はずれになっていて、勝手な思いこみが生じてた場合は、行ったことのあるAさんBさんからは、「は? なんの事?」と言われるという事になります。
そう、たとえば、スペースマウンテンの仕様を、エキスポランドとか、各種の遊園地のような、「敷地全体を利用したジェットコースターと勘違いする」みたいなことでしょうか。とにかくそういう勘違い・妄想を持ってしまったりするわけですよ。
で、「ディズニーランドも歩いてたら、頭の上でゴーってうるさいやろね。」とか言ってしまう。で、行った事のある人達からは「は? 何の事?」と首をかしげられてしまう。だって想像の範囲外でしょ?行ったことのある人からすれば。違います?
で、こういうディズニーランドのような具体例でなら、Cさんも、「あ、私の勘違いでした」とすぐに修正とかは可能なんです。
ところが、抽象的な法体系の話であるとか、社会の仕組み、歴史や宗教の話、精神の内側の話、などになると、とても抽象的な概念の取り扱いになりますので、Cさんのように想像で穴埋めしてる人は、どこからどこまでが自分の想像で、どこからどこまでが社会的な認知を受けた知識なのかの区別がまったくつかない、という事になるわけです。(というか、本当は「わかってない」のだから「わかりません」と言わないといけないんだけど、それは後で書きます。)
ディズニーランドの場合なら現実の問題なので、行かないとわからないというのが当たり前です。
だから、すぐに「自分の想像が間違ってる」と、わかるわけですが、抽象概念だと、自分の妄想であっても、
●「同じように人間が考え出した『考え』ではないか。」
という勘違いを読んでない人におこさせるようなんですね。
いやいやいや、それは違う。大前提となる知識は、まさにディズニーランドに行ったか行ってないかの違いで、本も読まずに話なんかできるわけないんやよ。という事なんです。
このAさんとBさんの普通の確かなコミュニケーション、というのは、本をたくさん読むほどに確実に実感できてくるわけです。
また、著者の知識レベルとかも、読んでるうちに見えてきたりします。この人は、このジャンルの知識は弱いな、とかいろいろ見えてくる。
そういう基礎知識があるもの同士のAさんとBさんの会話やコミュニケーションを数多く重ねていけば、Cさんが完全に勘違いしてるというのは、もう自明の理なんですね。ものすごくはっきりしてる。はっきりくっきりしてる。バシ!っとフォーカスがあってるわけです。
ところが! この抽象概念であっても、社会的にバシ!っとフォーカスのあったやりとりがあるのだ、それから外れてたら完全に勘違いなのだ、そんなものはすぐにわかるのだ、と言っても、想像で穴埋めだけをしてきた人には、ここのところがわからないわけですわ。そういうバシ!とわかった上でのコミュニケーションなのだ、ということがわからない。困ったことに。
基本的なね、知の体系とか、大きな歴史の流れとか、そういうものはちゃんと抽象的な概念上に、キチンとモノであるかのように存在しているわけですよ。
中世と近代の違いとか。意識と無意識とか。一神教と多神教とか。アダルトチルドレンと機能した家族に育った人の違いとか。わかってる人は解ってる。わかってない人はわかってない。それはもう、ものすごくはっきりしてる。それこそ、言葉のささいな使い方の違いで、わかってるかどうかが見えてしまうものなのです。
で、こういう事は、まず学ばないとしょうがないわけですよ。大前提となる常識的な入門知識みたいなところから積み上げる以外にないわけです。
知らないのに大雑把に「こんなもんだろう」という事で想像で穴埋めしてしまっちゃダメなわけでね。
-----------------
でも、想像で穴埋めしてる人に「それは違うやろ」という事を言うと、すごく怒り出したりするわけですよ。プライドが傷つけられたと思うんでしょうけど。たぶん妄想をベースに自分の生き方まで構築してしまってるんですよね。そうなると、間違いを指摘された時に、自分個人の人格を否定されたように感じるって仕組みなわけです。
通常、基礎からキチンと学習を積み重ねてきた人に、「それは間違ってますよ」と指摘すると、たいていの場合は、相互に確認しあって、最終的に「とても勉強になりました。ありがとう。」という話になります。
なんでそうなるかというと、「自分が何を知らないか」に関しては情報を得るのがなかなか難しいからです。自分に欠けている知識を明確に知る、というのはかなり難しい。
だから「間違ってるよ」と言われたら、こまかく確認して「なるほど」ってなるわけです。
また、指摘された事をきっかけに、また新しいテーマで読書をしたりするわけですね。
でも、本を読んでない人は、ひたすら自分の哲学が崩壊させられた、という被害妄想を抱えるわけです。
いや、それは最初から哲学にすらなってないよ、って事なんですけど、それ以前にいきなり「不安」があからさまになるから、落ち着いていられないんでしょうね。
こうなると、回りから間違いを指摘してもらってるのに、それを受け取る事もできなくなっているので、修正して正解に近づくという善循環も働かず、「間違ってる事をムリクリ正しいという事にするための妄想」をまた新たに生み出して、えんえん妄想の無限回廊を生み出して、一人歩きをするしかなくなるわけですね。こうなると、もう、本当にやっかいで、これは手をつけられないわけです。
でもそれは「自分勝手な妄想」をベースに自分の哲学みたいなものを作ってしまってる、という事自体が問題だってことなんですけどね。
こういう人に正しい知識を伝えようとしたときに、「その考え方は危険だ」とかまで言われたりしましたからね。
ここで言う「危険」が何が危険かと言えば、その人の間違いに立脚した哲学が崩れ落ちてしまうから「危険」なわけです。自分のアイデンティティが崩壊するという危険なんですね。
いや、そりゃ砂上の楼閣なんだから崩壊して当然だし、もっと早くに崩壊させとけよ、って事で、笑ってしまいますけど、どうも当人にはえらく大事に感じてるようだから、触りようもないってことになるわけです。
いやまぁ、こういう事って、実はよくある事なんですよ。でも、悲しい事に、普通は、当人には、表だっては言わないわけですよ。相手を気遣って。だからよけいに見えなくなっちゃう。
でも、普通そういうのは「バカ」としか言わないんですけどね。で、本当にそういう事が良くないよ、と心配してる人だけが注意するわけですけど、それをまた拒絶するという事になりまして、当人だけが、世間から取り残されるわけです。
でも、取り残されてる事自体に気付いてないんやろなぁ。多分。
でも、まぁこれは、良くある話なんです。
どこにでもある。
もう本当にそういう人間のほうが増えてしまったようですから。
困った事だなぁ。
ほんとに。
そういうわかってない人が増えると、それが普通になってしまうので、わかってないのが「当たり前」になるんですね。
それで、よけいにわけのわからん世界が現出する。
で、だから、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんのほうが、世間の「妄想のディズニーランド」から取り残されているかのように、アホからは見える、てなところまで行くんですね。
でも、そんなもん、ハナクソなわけですよ。実際にディズニーランドに行った人間からしたら。ハナクソ。勝手に言うとれとしか思わない。でしょ?
「本を読まない人とは話があわない。」というのは、ようするに、そういう話です。
------------------
で。
実は、しりあがり寿の4コマ漫画で、とても面白いなぁと感じたものがありまして、それはこんな内容だったのですが、
●電車の吊り広告に「いま時代はロハス」の文字があり、それを眺めている主人公の女性
●同じく雑誌でも「ロハス」特集
●で、同僚の男の子に「ねー、ロハスってなんだい?」と聞くと、「あーロハスね。俺も考えてたんだけどね!」とにこやかに答え、
●「(1)漢字の只をロハと読んで、金のかからない生活を言う。(2)アロハのロハからとった自然でゆとりのある生活を言う」と自分の説をとうとうと述べる。
主人公の女性は困り顔で一言、「考えてないで調べろよ!」
とまぁ、こういう内容なわけですが、これがまさに「本を読んでない人」なんですなぁ。
実感として、この漫画が実態を良く表してる。
でも、こういう人がものすごく多いんですよね。
で、インターネットが普及してから、よけいにこの傾向が強くなった。なんせ、「ロハスとは漢字の只から取ったロハの事」というような妄想まで、平気で一人歩きしてるのがインターネットですから。こういうのがコピペでどんどん広がってますから。
だから本を読まないとアカンのよ。
と私は思うのだけど、読まない人というのは、実は「読まない」のではなくて「読めない」人であることが多いので、読みなさいと言ってもムダだったりするんですねぇ。
「読めない」というのは、環境がそうなってしまってるから、って事なんですが。自宅で仕事をしてるとか、お店をやっていて立ち仕事だから読めないとかね。
(でも、そういう人は実は中波のラジオで知識を得てたりする。実は中波のラジオってけっこうレベルは高いです。少なくともテレビよりははるかにマシ。これは余談でありますが。でもまぁ、やっぱり本には主体性の面で劣るわなぁ。)
たとえば、僕は子供の頃からそうでしたが、何かを学ぼうと思ったら入門書をとにかく買ってくるんですよね。やっぱりそこには基礎の基礎が書かれてるんです。なので、かなり重要なんです。
で、実は入門書も一冊じゃダメで、数冊は読まないとダメなんですね。というのは用語に意外とズレがあったりするからなんです。
まぁそうだなぁ、初心者用数冊と中級者用数冊、それにそのジャンルに関する自分の興味の湧くことが書いてあるような本数冊の10冊くらいは読まないと、そのジャンルの「ディズニーランドに行ってきた人との会話」ができないと思って間違いないんですね。
でも、本を読まない人は、これすらしませんからね。やっぱり結局、自分の想像で穴埋めするんですよね。やれやれ。
ともあれ、じゃあ、本を読まない人に「読みなさい」と言ったところで、読み方自体がわからない可能性があるので、そういう人には、「まず自分の妄想モードを止めると言うことをしなさい」と言うしかないんですよねぇ。
妄想が壊れるのがイヤで本を読んでないって部分もあったりするのでね、このタイプは。
いや、ほんと困りものです。
--------------------
えー、で、本を読んでいる方には、こういう妄想がひとり歩きしてる人への対処法をお伝えしておきます。
まず基本的に関わらない事です。単純に時間の無駄しか生まれませんので。妄想に付き合うことほど空虚な事はないです。
で、ここからが大事なんですが、このタイプの人間の見分け方です。このタイプは意外に人当たりも悪くないので、なかなか本性が読めませんが、実は大きな共通点があります。
このタイプは「知りません」とか「わかりません」と言うのが苦手です。それも知っておくべき重要なテーマに関するほど、「知りません」「わかりません」が言えないんです。
なので、知ったかぶりをしてる人を見たら、とにかくサッサと逃げる事だと思います。
ろくでもないです。時間の無駄。
別に知らなくてもいいのに、「知ってなくては恥ずかしい」って思ってるみたいなんですよねぇ。
そういう「理想の自己」に押しつぶされそうになって、必死に「妄想」にすがってるんですね。
やれやれ。
精神病の中に、虚言症って言うのがありますけど、それが基本的には、こういう構造です。
誰でもこういう構造に陥る危険はあるんですよね。どこかで「虚言」を弄してしまっているところが人間にはある。
でも、そういう心のワナにはまってはいけません。
なので私は言うのです。
「私はロハスの意味、知りません。」と。
いや、ほんま。ほんまに知らんのですよ。わははははは。どうでもええもん。ロハスなんか。
そういう事なんですけどね。「知らんわ、そんなもん」と言えれば、それこそが「無知の知」だったりするんですが。
で、こういう態度を持ってた方が、素直に他者の知恵である「本」を読む気が起きたりするって事なんですよね。
人間の心というのは、おもしろいものであります。
ま、そんなことで。