人の判断には、愛情から出たものと、恐怖から出たものと二種類があって、恐怖をベースにした判断は発展性がないってこと、と山内氏の話について書きましたが、その続き。

山内氏にとってのトラウマ、つまり恐怖の原体験は「遊びの実態」を知ってしまったこと、に起因するんだと思う。

山内氏が任天堂の経営を、先代社長(山内氏の祖父)から引き継いだのは、確か戦後すぐで、日本国内にもアメリカのビジネスをマネして、多くの企業が立ち上がってきていた時期のはずなんですね。

ええとこのボンであった山内氏は若い学生あがりの感覚で、祖父が経営していた古い体質の会社を、どんどん当時最新の経営スタイルに変えていったわけです。たしかトランプにミッキーマウスのキャラクターを印刷したディズニートランプを考え出したのも山内氏だったように思う。

ミッキーを使うということは、法的な手続きという大変な手間をアメリカ本国のディズニー社とも行ったというわけで、まだ山のものとも海のものともわからないキャラクタービジネスを、そんな昔から、本場のアメリカとやりとりしながら経営し、バリバリ活躍していた若きカリスマ経営者だったわけです。

才長けた山内社長は、アメリカのビジネスモデルの新しさや、各種ビジネストレンドに大きな魅力を感じるわけです。祖父が築いた会社の仕組みは古くさく感じられたし、「真面目であれ」「よく働け」「きまりよくせよ」という祖父が作った社訓も廃止した。

そしてアメリカのクールで合理的なビジネス手法に魅力を感じ、任天堂を世界的企業にすることを目指して、アメリカの最大手の有名オモチャ会社に視察の申し込みをするわけです。最新ビジネスの本場であるアメリカで、もっとも大きなオモチャ会社。そこで、どんな経営が行われているのだろうと。

そこで山内社長は最悪の事態を見ることになります。あの最先端のアメリカで、最大手のオモチャ会社が、実は祖父が作った古くさい、昔ながらの家庭内手工業に毛の生えた程度の会社でしかないという実態を見るんです。

「あこがれの最先端のアメリカでも、オモチャ会社はこんな程度なんだ。」

というショックですね。

これが「遊び」というものをビジネスにする、ということの実態だったんです。

つねに新しいメディアは、それまでの権威や定着した文化から蔑まれることになるんですが、「遊び」というものは、どんな種類のゲームであれ、大きくは「一定のルールを持ち、社会の現実から離れて運営され、始まりと終わりがある。(その間現実との関わりを持たない)」というのが本質で、つねに「現実ばなれ」しているところが必要な存在なんですね。

この遊びの本質は、つねに現社会から蔑まれることになります。

かの有名な不動産売買をテーマにしたモノポリーというボードゲームが、1929年の世界大恐慌で失業したチャールズ・ダロウ氏が暇になったから自費出版で作り始めたということを見てもわかるように、ゲームというものは本来、独自のルールを持ち、それが現実世界と別個に存在しているところに本質があるのです。そして、その現実とのつながりの無さこそがゲーム・遊びに本質なので、社会からの隔絶というものは、遊びというものが元々持っている本質なんですね。

だからこれをビジネスにするのは、本来、至難の業なんです。

若き山内氏の受けたショックは、計り知れないものがあったはずです。お手本を探しに世界最先端の場所まででかけて、そこにあったのは自らが否定した古くさい体質の会社だけだったわけですから。

もう、自分で手探りでビジネスモデルを築き上げる以外に道はない。そういう諦めが、この時に生まれたわけです。遊びやゲームをビジネスにするというのは生半可なことではない。現実世界で生きている人間は、そんな現実世界と切り離された「遊び」の世界にお金を落としてくれるはずがないんだ、という徹底した「不信」から、山内氏の経営戦略は組み立てられていると、僕は感ずるのです。

山内氏の語録はネット上でもたくさん検索できます。なのでいろいろ読んでもらえればわかると思いますが、基本的に、この若いときのアメリカでのショックが原体験になっていて、非常に悲観的で、ユーザー不信というか「どうせゲームなんて愛されない」という悲しい発想の上に成立した経営をずっとし続けていたということが読み取れるはずです。

ファミコンからスーパーファミコンへの移行時に上位互換機能の搭載が見送られたのも、本質は「どうせゲームなんて愛されることはない」という悲しい信念の反映でしかないと僕は感じるのです。

「どうせ愛されることはない」という思いがあるから、アタリショックという「失敗体験」こそがファミコン運営の基盤に据えられた。「良いソフトの育成」ということより「粗悪ソフトの廃絶」という拒否の姿勢が経営の基盤に据えられた、ということです。

「一強皆弱」も同じ。「愛されない」から強い者しか残れないという思想です。ディスクメディアへの積極展開がなかったのも、「幅広く多くのものに愛されるはずがない」という大前提なくして説明のつく判断ではありません。

逆に言うと、山内氏の発言の大半は「ゲームなんて愛されはしないのだ」というニヒリズムに徹底していると思って読めば、ほとんどが「さもありなん」と読み解ける内容です。

しかし、「どうせ愛されない」などという悲しい考え方が健全だとは、少なくとも僕には思えないんですね。これはやっぱり大きな間違いだろうと思う。
なによりゲームを愛している人間とソリがあわない。そういう事になります。

この「どうせ愛されることはない」という考えは、ほんとうに相当大きくゲーム業界およびゲームファンの大半に浸透してしまっていると思うんですね。それが定説になってしまっている部分が非常に大きい。

だからこそ、現社長の岩田さんの「ゲーム機は一般大衆に愛される」というスタンスの経営に拍手を送りたくなるんです。で、もっと言うなら、そういう山内氏とは真逆とも言えるスタンス「愛される価値がある」「達成できる」という考えを基本にしている岩田氏を自分の後継社長に据えた山内氏の慧眼、洞察力に感心してしまう、ということです。

ある意味、スターウォーズの最終話でダースベイダーが暗黒面から復帰を遂げるような、そういう人生の総仕上げ的なすごさを感じるんですけどね。

「あの山内氏が、後継社長に選んだのが岩田さんだったとは!」という、なんとも言えない驚きが、少なくとも僕にはありました。深いよなー、これは。ほんとに。

ま、そんなことです。

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