日本と中国。その文化の違い。(1)
2005年11月3日 ■倫社の帝王小泉首相の組閣が終わって、なんだか危うい感じがしたので、ちょっと書く。
基本的に私は靖国参拝には賛成の人で、「死んだら仏さま」なのだからA級戦犯合祀も、まぁ良かろうと思ってる。靖国に関しては勉強がまだまだ足りないので、考え方が変わるかも知れないから、まだわからんけど、大枠、日本人が日本人の文化を大切にするのは悪いことではない。
が、しかし、ものごとにはバランスというものがある。参拝は違憲という司法からの判定も出ているという段階で参拝するというのはどうか? 外相に麻生氏、官房長官に安部と対中国強硬派を持ってきて、親中国の福田氏をはずすということまでやってる。
いくらなんでもなぁと思う。
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数年前に中国まで旅行に出かけた。この日記で旅行記を書こうと思いつつ、ずっとそのままになっている。
中国に出かけるまで、僕は中国がものすごく嫌いだったのだ。いろいろあるのだが、中国人は、「残忍な行為を好む傾向が強い」と感じていたからだ。
いくつも例証は出さないけれど、とにかく「死者に鞭打つような行為」というのがとにかく多い。それは日本人として強い拒否感があるのですよ。
が、しかし、なのである。
この「死者に鞭打つ行為への拒否感」というのは、もともと日本人の宗教観に原因があるのだ、ということを忘れてはならんのですね。
それは「祟り」の概念です。
日本人には「祟り」の概念がある。死者は死んだ後「仏様」というスーパーパワーを手に入れるので、「死者に鞭打つ行為」は、「祟られるから良くない」という無意識の縛りがあるわけです。
日本人の宗教観というのは、いわばガラパゴス島みたいに古代の宗教がそのまま温存されてしまったような純朴なところがあって、そこがまた良いところでもあり、頼りないところでもあるのだと思うのだけど、とにかくこの「死者は仏というスーパーな存在になる」という発想だけは、相当に強いみたいだ。
だから私を含めて日本人は人殺しが嫌いだ。残忍な人殺しはスーパーな祟り神を生み出し、この世に祟りをなすから、みんなが迷惑をこうむる、と考えている。
憲法9条を絶対に変えてはならない、とするのも、この「祟り神」の精神があるからこそだと私は思うのだ。文化というものは、一夜にして変わるものではない。
とまぁ、自分が何故「残忍な人殺しが嫌いなのか」ということに関しては分析が終わっているので、中国人の残忍な殺人行為に対しても「大目に見る」ということができて良いはずなのに、それができなかったのですな。
で、いまや中国はアジアの大工場になろうとしているし一度見ておくのも仕事の役に立つと思って中国まで旅行してきたのだけれど、そこで僕は「中国人の残忍な殺人行為」が何故行われるのかが、透けて見えたのですな。
それ以来、基本的に私の「中国人嫌い」はなくなっちゃった。あれは「文化」だ。外人である私がゴチャゴチャ言ってもしょうがない。ってなった。
とにかく中国は広い。行かなきゃわからんかもしれませんが、ひたすら広大な土地が、ただ膨大に広がってるだけなのだ。関西国際空港から上海の浦東空港まで行ったわけだが、もともと旅行があんまり好きじゃないので、まず関西国際空港の広さに圧倒されて「広いなー」と思うわけだけれど、浦東空港に着くとその二三倍は広い。
もうレベルが違う。
まさにスケール=モノサシが違うのだ。
で、ここではじめて納得する。中国という国にはまともな組織体系は生まれず、肉親・血縁関係だけが重要な「社会を構築する要素」なのだ、ということに。
本では読んで理解していたつもりだったけど、実際に行ってみれば、なるほどなーと納得する。そら、日本みたいな「隣組」的な組織は生まれないよなーって。血縁以外の「社会とのふれあい」が、もともと希薄なのだ。社会を日本人みたいに地域社会からの積み上げで考えたりはしないんだろうなとは思うわけです。
で、もっと「なるほどなー」と納得させられたのは寒冬寺にでかけた時のこと。
まぁ実に日本のお寺が中国の真似なのだというのが良くわかった体験だったのだけれど、そのことはちょっとまた別の機会に書くとして、それより重要だったのが、中国人の死者に対する意識のあり方なんですな。
中国人にとって、死者というのは、膨大なる時間の流れの中の、特定の時代の道しるべみたいなものであって、死者はその生きた時代、あるいは死んだ時点に永遠にとどまり、その過去の時点を永遠に生きていく存在なのだなーということなのです。
これはそうせざるを得ないよなーというのが良く分かった。隣組もなく、血縁だけが信じられる価値観だからこそ、人と人が利害を超えてつながるには、「みんな、あの偉い○○さんの子孫じゃないか」という形でつながるしかないんですな。
歴史上、偉大な人というのは、その歴史という霊のための空間に完全冷凍保存されるのです。お寺というのは、その過去という時空を見物に行く博物館みたいなものなのだ。
だから、歴史上の「悪人」は、もうずーーーっと悪人のままです。僕は直接見たわけではないけど、「悪人」とされる人は原寸大の銅像を建てて、見に来た人がツバをかけるとかもするそうです。悪い奴は、そこまでして蔑むわけです。
まぁ悪い奴もご先祖様だしねぇ。そら悪い奴は悪いやつとして、日々ツバをはきかけてでも、「悪いこと」と明確化しとかないと精神的、内面的な安定がはかれないのかも知れない。
で、こういう「血縁こそが人のつながり」という発想があるからこそ、政府の役人には高潔さが求められるし、その高潔さを謳うのが儒教だったりするんだなぁというのが良くわかった。
で、話はどんどんすっ飛ばすけれど、「真に血縁関係に客観的な政府役人」を求める発想があったからこそ「宦官」というものが生まれたんだなぁと、実感で良く分かったのだ。
宦官ですよ。オチンチン切り落とす、ですよ。信じられない。でも、それは必要だったからこそ生まれたんだねぇ。
オチンチン切り落としたら子供は生まれないからね。ということは、もっとも重要な「血縁関係」というしがらみから解放されて、真に「世のため人のため社会のため」の政治が行える、という発想なんだと思うのだ。
中国では昔から親戚へのえこひいきというのが、悪政を生み出してきたという背景がそこにはあるからなんだけども、まぁそういうようなことも、実際に行ってみて良くわかったってことです。
過去の「悪人」には徹底してひどい仕打ちをし、宦官まで生み出す究極の「社会優先思想」。(それは社会優先なんてできない、家族・血縁優先こそが人の性であるという絶対的な事実があるからこそ、なんだけど。)
こういう文化的背景がある国の人間が恨みで殺人を犯すとしたら、そら「こいつを歴史のこの時代に悪人として閉じこめる」ために「惨殺」しなければならなくもなるわけです。
で、そういう文化を知らない我々日本人が「祟り神」の思想でその行為を見るから「あなおそろしや」になるわけでねぇ。
さぁ、ここまでわかれば、靖国のA級戦犯合祀で首相参拝というのが、中国人にとっていかに「許されないこと」であるのかがわかるというものです。
長くなったので、いったんここで切ります。
基本的に私は靖国参拝には賛成の人で、「死んだら仏さま」なのだからA級戦犯合祀も、まぁ良かろうと思ってる。靖国に関しては勉強がまだまだ足りないので、考え方が変わるかも知れないから、まだわからんけど、大枠、日本人が日本人の文化を大切にするのは悪いことではない。
が、しかし、ものごとにはバランスというものがある。参拝は違憲という司法からの判定も出ているという段階で参拝するというのはどうか? 外相に麻生氏、官房長官に安部と対中国強硬派を持ってきて、親中国の福田氏をはずすということまでやってる。
いくらなんでもなぁと思う。
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数年前に中国まで旅行に出かけた。この日記で旅行記を書こうと思いつつ、ずっとそのままになっている。
中国に出かけるまで、僕は中国がものすごく嫌いだったのだ。いろいろあるのだが、中国人は、「残忍な行為を好む傾向が強い」と感じていたからだ。
いくつも例証は出さないけれど、とにかく「死者に鞭打つような行為」というのがとにかく多い。それは日本人として強い拒否感があるのですよ。
が、しかし、なのである。
この「死者に鞭打つ行為への拒否感」というのは、もともと日本人の宗教観に原因があるのだ、ということを忘れてはならんのですね。
それは「祟り」の概念です。
日本人には「祟り」の概念がある。死者は死んだ後「仏様」というスーパーパワーを手に入れるので、「死者に鞭打つ行為」は、「祟られるから良くない」という無意識の縛りがあるわけです。
日本人の宗教観というのは、いわばガラパゴス島みたいに古代の宗教がそのまま温存されてしまったような純朴なところがあって、そこがまた良いところでもあり、頼りないところでもあるのだと思うのだけど、とにかくこの「死者は仏というスーパーな存在になる」という発想だけは、相当に強いみたいだ。
だから私を含めて日本人は人殺しが嫌いだ。残忍な人殺しはスーパーな祟り神を生み出し、この世に祟りをなすから、みんなが迷惑をこうむる、と考えている。
憲法9条を絶対に変えてはならない、とするのも、この「祟り神」の精神があるからこそだと私は思うのだ。文化というものは、一夜にして変わるものではない。
とまぁ、自分が何故「残忍な人殺しが嫌いなのか」ということに関しては分析が終わっているので、中国人の残忍な殺人行為に対しても「大目に見る」ということができて良いはずなのに、それができなかったのですな。
で、いまや中国はアジアの大工場になろうとしているし一度見ておくのも仕事の役に立つと思って中国まで旅行してきたのだけれど、そこで僕は「中国人の残忍な殺人行為」が何故行われるのかが、透けて見えたのですな。
それ以来、基本的に私の「中国人嫌い」はなくなっちゃった。あれは「文化」だ。外人である私がゴチャゴチャ言ってもしょうがない。ってなった。
とにかく中国は広い。行かなきゃわからんかもしれませんが、ひたすら広大な土地が、ただ膨大に広がってるだけなのだ。関西国際空港から上海の浦東空港まで行ったわけだが、もともと旅行があんまり好きじゃないので、まず関西国際空港の広さに圧倒されて「広いなー」と思うわけだけれど、浦東空港に着くとその二三倍は広い。
もうレベルが違う。
まさにスケール=モノサシが違うのだ。
で、ここではじめて納得する。中国という国にはまともな組織体系は生まれず、肉親・血縁関係だけが重要な「社会を構築する要素」なのだ、ということに。
本では読んで理解していたつもりだったけど、実際に行ってみれば、なるほどなーと納得する。そら、日本みたいな「隣組」的な組織は生まれないよなーって。血縁以外の「社会とのふれあい」が、もともと希薄なのだ。社会を日本人みたいに地域社会からの積み上げで考えたりはしないんだろうなとは思うわけです。
で、もっと「なるほどなー」と納得させられたのは寒冬寺にでかけた時のこと。
まぁ実に日本のお寺が中国の真似なのだというのが良くわかった体験だったのだけれど、そのことはちょっとまた別の機会に書くとして、それより重要だったのが、中国人の死者に対する意識のあり方なんですな。
中国人にとって、死者というのは、膨大なる時間の流れの中の、特定の時代の道しるべみたいなものであって、死者はその生きた時代、あるいは死んだ時点に永遠にとどまり、その過去の時点を永遠に生きていく存在なのだなーということなのです。
これはそうせざるを得ないよなーというのが良く分かった。隣組もなく、血縁だけが信じられる価値観だからこそ、人と人が利害を超えてつながるには、「みんな、あの偉い○○さんの子孫じゃないか」という形でつながるしかないんですな。
歴史上、偉大な人というのは、その歴史という霊のための空間に完全冷凍保存されるのです。お寺というのは、その過去という時空を見物に行く博物館みたいなものなのだ。
だから、歴史上の「悪人」は、もうずーーーっと悪人のままです。僕は直接見たわけではないけど、「悪人」とされる人は原寸大の銅像を建てて、見に来た人がツバをかけるとかもするそうです。悪い奴は、そこまでして蔑むわけです。
まぁ悪い奴もご先祖様だしねぇ。そら悪い奴は悪いやつとして、日々ツバをはきかけてでも、「悪いこと」と明確化しとかないと精神的、内面的な安定がはかれないのかも知れない。
で、こういう「血縁こそが人のつながり」という発想があるからこそ、政府の役人には高潔さが求められるし、その高潔さを謳うのが儒教だったりするんだなぁというのが良くわかった。
で、話はどんどんすっ飛ばすけれど、「真に血縁関係に客観的な政府役人」を求める発想があったからこそ「宦官」というものが生まれたんだなぁと、実感で良く分かったのだ。
宦官ですよ。オチンチン切り落とす、ですよ。信じられない。でも、それは必要だったからこそ生まれたんだねぇ。
オチンチン切り落としたら子供は生まれないからね。ということは、もっとも重要な「血縁関係」というしがらみから解放されて、真に「世のため人のため社会のため」の政治が行える、という発想なんだと思うのだ。
中国では昔から親戚へのえこひいきというのが、悪政を生み出してきたという背景がそこにはあるからなんだけども、まぁそういうようなことも、実際に行ってみて良くわかったってことです。
過去の「悪人」には徹底してひどい仕打ちをし、宦官まで生み出す究極の「社会優先思想」。(それは社会優先なんてできない、家族・血縁優先こそが人の性であるという絶対的な事実があるからこそ、なんだけど。)
こういう文化的背景がある国の人間が恨みで殺人を犯すとしたら、そら「こいつを歴史のこの時代に悪人として閉じこめる」ために「惨殺」しなければならなくもなるわけです。
で、そういう文化を知らない我々日本人が「祟り神」の思想でその行為を見るから「あなおそろしや」になるわけでねぇ。
さぁ、ここまでわかれば、靖国のA級戦犯合祀で首相参拝というのが、中国人にとっていかに「許されないこと」であるのかがわかるというものです。
長くなったので、いったんここで切ります。
日本と中国。その文化の違い。(2)
2005年11月3日 ■倫社の帝王ということで、続き。
なので、やっぱり公僕である小泉君はもっともっと「配慮」をする必要はあると思うね。「死んだら仏様」というのは全然間違いじゃないし、この日本独特の宗教観については、それこそ公僕なのだから、官僚に指示してもっと理解してもらえるように話し合いを続けるべきだとは思うけど、それでも「配慮」がないと、そら無理だわなぁ。
で、です。
こういう中国と日本の文化の違いと、好悪の感情がどんなところで出てくるかということを、実はアメリカあたりはキチンと調べてます。
あの映画「ラストサムライ」で感心したのは、欧米人のそういう徹底した調査スタンスですな。インディアンを皆殺しにするために主人公のトム・クルーズはインディアンの文化の徹底調査に向かう。その象徴が「メモ」でした。
映画だから記号で語るしかないわけだけど、実際の調査はもっと徹底してただろうし、それはつねに行われてたはずでね。侵略する時には、まず文化を知る、なんでしょう。そして、おなじようにメモを持ってトム・クルーズはサムライを学びはじめる。
あの映画でトム・クルーズはインディアンの虐殺はいけないことだったと反省して、サムライの側につくわけだけど、大事なことはインディアンでもサムライでも、トム・クルーズは手帳に文化を書き残した、相手の文化を研究し尽くした、ということは変わってないってことです。
で、あの映画でインディアンもサムライも、手にメモを持つことはなかった。相手を知るという一番重要な「兵器」を持たなかったんです。
バカがバカのまま描かれていて、それで誰も文句言わないし、で、実際、日本人にせよインディアンにせよ「メモ」を持たなかったから殺されちゃったんだよな。
相手を知るというのは、ことほどさように強力だけど難しいことなのです。
で世界帝国であるアメリカには、地球をいくつかの地域に分けて、それぞれの国ごとに専門の「調査員」、多くは「文化人類学の学者」ということになってますが、まぁその結果が政治にも使われるので見方によればスパイとも言えるわけだけど、そういう人たちをキチンと配置してます。
トム・クルーズの「メモ」は映画だからあんなにちゃっちいけど、実際はそんな半端なものではない。
僕程度の知識でもちょっと勉強してから中国に行って、この程度のことはわかるんだから、中国専門に勉強している学者や日本専門の学者がいかに我々アジア人の内面まで正確に理解しているか、ってことです。
そういうことまでキチンと調べきった上で、アメリカのような帝国は、その使徒をマスメディアであったり、政治での次官級交渉の場だったり、そういうところに送り込んでくる。
で、ローマ帝国の時からそうだったらしいが、帝国は属国コントロールのために「分断して統治せよ」という戦略で臨んだそうです。
ようするに各地域ごとの国と国とを反目させて、それで帝国との関係を強化させるという戦略ですな。
小泉君、たぶんそれに完全に乗せられてるんだよなー。アホよなー。ほんまに。
なので、国と国というのは、ここまで文化が違うのだ、相互理解は大変なのだ、ということを、そろそろ我々日本人も理解してもいいと思う。
そういう知識を持った上で、国の政治を見た方がいい。
で、見ないと行けないのは、国内政治なんだよな。
よその国のことは我々には何もできない。
アメリカの決定はアメリカ国民がするのだから、それはアメリカにまかせるしかない。
我々は自分の足元を見ることだ。
できることをやる。
それが物事を成就するのに、一番大切なことだと思う。
「アジア人どうし仲良くすべし」というのが、私が尊敬する副島隆彦の言葉だけれど、その「仲良く」には、こういう距離の離れた文化の違いをも乗り越えるべし、「メモ」という武器を持つべしという意味も、大きくふくまれている(はずだと思う。直接聞いた訳じゃないし。)
ともあれ、今回の組閣はあやういね。
大事なことは、日本人の「祟り神」信仰を大事にする気持ちと同じ気持ちで、中国人の「歴史の時空保存信仰」をも大事にするってことだと思う。自分の国を愛するという気持ちがないと、相手の国の気持ちも想像できないと思う。
(なので無宗教の施設を作ってどうたらとかいうのは、より一層中国との距離を遠ざけるだけだから、よろしくないんじゃないの? って思う。そういう「実感」のない判断が一番あやういよなー。)
なので、やっぱり公僕である小泉君はもっともっと「配慮」をする必要はあると思うね。「死んだら仏様」というのは全然間違いじゃないし、この日本独特の宗教観については、それこそ公僕なのだから、官僚に指示してもっと理解してもらえるように話し合いを続けるべきだとは思うけど、それでも「配慮」がないと、そら無理だわなぁ。
で、です。
こういう中国と日本の文化の違いと、好悪の感情がどんなところで出てくるかということを、実はアメリカあたりはキチンと調べてます。
あの映画「ラストサムライ」で感心したのは、欧米人のそういう徹底した調査スタンスですな。インディアンを皆殺しにするために主人公のトム・クルーズはインディアンの文化の徹底調査に向かう。その象徴が「メモ」でした。
映画だから記号で語るしかないわけだけど、実際の調査はもっと徹底してただろうし、それはつねに行われてたはずでね。侵略する時には、まず文化を知る、なんでしょう。そして、おなじようにメモを持ってトム・クルーズはサムライを学びはじめる。
あの映画でトム・クルーズはインディアンの虐殺はいけないことだったと反省して、サムライの側につくわけだけど、大事なことはインディアンでもサムライでも、トム・クルーズは手帳に文化を書き残した、相手の文化を研究し尽くした、ということは変わってないってことです。
で、あの映画でインディアンもサムライも、手にメモを持つことはなかった。相手を知るという一番重要な「兵器」を持たなかったんです。
バカがバカのまま描かれていて、それで誰も文句言わないし、で、実際、日本人にせよインディアンにせよ「メモ」を持たなかったから殺されちゃったんだよな。
相手を知るというのは、ことほどさように強力だけど難しいことなのです。
で世界帝国であるアメリカには、地球をいくつかの地域に分けて、それぞれの国ごとに専門の「調査員」、多くは「文化人類学の学者」ということになってますが、まぁその結果が政治にも使われるので見方によればスパイとも言えるわけだけど、そういう人たちをキチンと配置してます。
トム・クルーズの「メモ」は映画だからあんなにちゃっちいけど、実際はそんな半端なものではない。
僕程度の知識でもちょっと勉強してから中国に行って、この程度のことはわかるんだから、中国専門に勉強している学者や日本専門の学者がいかに我々アジア人の内面まで正確に理解しているか、ってことです。
そういうことまでキチンと調べきった上で、アメリカのような帝国は、その使徒をマスメディアであったり、政治での次官級交渉の場だったり、そういうところに送り込んでくる。
で、ローマ帝国の時からそうだったらしいが、帝国は属国コントロールのために「分断して統治せよ」という戦略で臨んだそうです。
ようするに各地域ごとの国と国とを反目させて、それで帝国との関係を強化させるという戦略ですな。
小泉君、たぶんそれに完全に乗せられてるんだよなー。アホよなー。ほんまに。
なので、国と国というのは、ここまで文化が違うのだ、相互理解は大変なのだ、ということを、そろそろ我々日本人も理解してもいいと思う。
そういう知識を持った上で、国の政治を見た方がいい。
で、見ないと行けないのは、国内政治なんだよな。
よその国のことは我々には何もできない。
アメリカの決定はアメリカ国民がするのだから、それはアメリカにまかせるしかない。
我々は自分の足元を見ることだ。
できることをやる。
それが物事を成就するのに、一番大切なことだと思う。
「アジア人どうし仲良くすべし」というのが、私が尊敬する副島隆彦の言葉だけれど、その「仲良く」には、こういう距離の離れた文化の違いをも乗り越えるべし、「メモ」という武器を持つべしという意味も、大きくふくまれている(はずだと思う。直接聞いた訳じゃないし。)
ともあれ、今回の組閣はあやういね。
大事なことは、日本人の「祟り神」信仰を大事にする気持ちと同じ気持ちで、中国人の「歴史の時空保存信仰」をも大事にするってことだと思う。自分の国を愛するという気持ちがないと、相手の国の気持ちも想像できないと思う。
(なので無宗教の施設を作ってどうたらとかいうのは、より一層中国との距離を遠ざけるだけだから、よろしくないんじゃないの? って思う。そういう「実感」のない判断が一番あやういよなー。)