勉強は面白いのである。
2012年4月23日 ●じぶんの心マップ コメント (4)私、ことあるごと、いろんな人に「勉強しろ」というセリフを吐いております。
ところがどうも、このセリフの評判が悪い。
なんか偉そうに聞こえるんでしょうなぁ。
でもね、分かってる人なら分かると思うのですけど、勉強っちゅうのは、すこぶる面白いものなんですよ。
ちゅうかね、面白くもない勉強してどうすんの、とすら思う。
ちゅうかね、「面白い!!!!」と感じて初めて、「勉強した」ということなんですよね。
このあたりは、本当にいろいろやってみないと分からないことなんですけど。
というのは、まず、世の中、どーーーーーーーーーーーでもいい「常識」という奴が、ものすごく幅を利かせてまして、「間違っているのに、それが正しいとされている考え方」というものが、すぐに一般化されてしまってるからなんですね。
「裏付けのない常識」って奴です。
「なんとなくそう感じる」という事だけを頼りにして、それが世の中に広がってしまった言説といいますか。
そういうものが、もう、それこそ、ものすごく多いわけです。
ところが、どんなジャンルでも良いのですが、そうですねぇ、まぁ特定ジャンルの書籍を入門書から中級クラス程度のもの、あるいはちょっと毛色の変わったエッセイくらいかな? そのくらいのものを一気に10冊くらい読むと、それはもう、そういう「そういうことになっている」という類の常識がボロボロボロボロ、砂の城どころではないはかなさで、あっという間に崩れ去ってしまうような、「正しい知識」が手に入るわけですよ。
「正しい知識」が、そういう「裏付けのない常識」を完膚無きまでに叩きのめしているという事が起こるわけです。
まぁ、どういうジャンルでもよろしい。
どんなジャンルでも、入門書から中級クラス程度の書籍10冊程度でそういう知識に出会えるわけです。
「ええええええ、いままでずーっと『○○は××』だと思ってたけど、本当は全然そんな事無かったんだぁぁぁぁぁぁ!!!!」
というビックリ事実に出会ってしまうわけです。
これが「面白い」わけですよ。
これが「面白く」ないわけがない。
チョーーーーー、面白い。
そういう正しい知識を得てしまうと、そこから後は、もう世間で何も知らずに知ったかぶりをしてる人間が、どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしてもバカに見えてしまう。
こんな面白いこと、他にありますか? っちゅうことです。
基礎的な勉強をキチンとすると、そういう事に次々に出会える。
これが面白くないわけがない。
チョーーーーーーー面白い。
だから、もう、何事であれ、「勉強せよ。」と僕は命令してしまうし、それを超強制してしまうのです。
だって面白いねんもん。勉強したら。
面白いねんから、やれっちゅうてんねん。
そうなるわけです。
で。
勉強しないとどうなるかというと、そういう「世の中のおもしろさ」に、全然まったく、一切、ちーとも、ほんの少しも、かすりもせず、出会えもせず、知ることもできず、ずーーーっと、永遠に、終わることのない「つまらなーーーーーーい人生」を過ごすしかなくなるわけです。
そらね、「常識が一夜にしてひっくり返るおもしろさ」ほど、面白いことはございませんですよ。
私が「正しい」と思っていたことが、実は完全に間違いで、もっと大きなところで正しい事実や発見があったとかね。
そらもうね、世の中、そんな事だらけなわけですよ。
常識ひっくり返りまくりというのが、現実というものの素晴らしさの本質なわけですよ。
「常識」なんてものはですね、
●勉強して常識がひっくり返る興奮に耐えられない精神の弱い人のための言い訳
でしかないのだ、ということが、それはそれはよく分かるのですよ。
だから、勉強もしてないくせに、わずかな常識に従って、大人ぶって、知ったような事を言うことがどれだけ恥ずかしいことか、という事なわけです。
ところが!
ところが、ところが!
どうも世間的には、
●勉強とは、しんどいもの。
ということになっているらしいのですな。
なんですか? それは?
そんな「しんどい事」なんて、やっても意味ないでしょ。
やめときなさいよ。そんな事。
おもしろおかしく生きて行きなさいよ、と私は思う。
たかだか10冊くらい本を読む程度のことですがな。あっという間でっせ。勉強しなはれと私は言いたい。
常識がひっくり返るおもしろさを知ったら、そんなものね、そうそうテレビゲームばっかりはやってられないし、DVDばっかり見てられませんって。
常識なんて、つまらないのである。
で、現実の知識というのは、とんでもなく面白いのである。
で、常識に縛られている人が多いからこそ、そういう人が受け入れやすい「娯楽」なるものが存在してるわけです。
理解しやすい。
わかりやすい。
すっと頭に入ってくる。
そういうものは、ようするに「常識に沿って語られている」から、カンタンに分かるわけです。それだけの事なんですね。
でも、本当に面白いものは、現実を全然別の角度から、鮮やかに、はっきりと、クリアに映し出してくれるものなんですよ。
そこがわかってないと、勉強なんて、ちーとも面白くないわけです。
で、常識にへばりついて生きてる人は、そらおもろないやろなと思うねんなぁ。
だって常識の中でしか生きてないわけやから、ワクワク、ドキドキするわけないもん。
でも、現実の世の中は、どんでん返しの連続という、ジェットコースターも顔負けの「非常識なドラマ」そのものなわけですよ。
でも、その非常識にドラマティックな人生を、最初から見ないようにしようとしてる人はいてるわけです。常識に縛られて。
で、たいていそういう人は、何ごとにつけ「不満」なんです。文句つけたり、愚痴ったりする。それが基準値になってる。
いや、文句や不満を言ってもいいんですよ? その不満や愚痴が「明日につながる」とか「こうしたらよい」という提案要素を持っているなら。
そうではなくて、ただ愚痴ってるだけとか、文句を言ってるだけとか、不満を表明してるだけとか、そういうアホな事しか言ってないって事の方が多い。
そらそうですわな。「常識」に従ってるだけっちゅうことは勉強してないっちゅうことやから、真実の意外性のおもしろさを知らないわけですから、そらつまらん。
つまらん人生を送ってるなら、そら愚痴も増えますわな。
そんなもん、お前が悪いねん。
勉強せんからアカンのじゃ。
何、愚痴言うとんねん。
愚痴言うヒマがあったら勉強せぇや、このサボリ魔が、と私は思うだけなのですよ。
勉強というのは、生きてく上での「必須課題」やと思うので、勉強せん奴は単なる「サボリ魔」としか思えないわけです。
だってちゃんと勉強したら、ものすごーーーく面白いわけやから。
そのおもしろさを、自分自ら拒否してるんやらか、そんなもん、生きてる価値ないで。
せっかく、この世のおもしろさがそこにあるのに、見る事もしないなんて。
ああああ、もったいない。
そんなもん、生きながら死んでるようなものでして、そんな中途半端な事をするくらいなら、さっさと死んでしまいなさいよ、と僕は思うわけです。
なので、
「勉強しろ」と言った後に、「勉強するわ」と言わずにゴチャゴチャゴチャゴチャと文句しか言わない奴を見ると、これまた、上記の解説をすっ飛ばして、
「なら、死んだら?」
と、言ってしまう。
生きるというのは学ぶ事であって、学ぶ気がないのなら生きている意味はなく、生きている意味がないなら、さっさと死ね。
っちゅうことです。
で、そう言うと、怒るんよなぁ、そういう人は。
いや、怒るヒマあったら勉強したらよろしがな。
知らんがな、ワシは。
あんたが勉強せんから、世の中がつまらんのであって、ワシのせいとちゃうがな。勝手にしなさいよ。
っちゅうことです。
で、「生きてる意味がないなら、さっさと死ね」と言うと「ひどい」とか言われるんよな。
まぁ、言い方キツイですけど、でも、人生の本質はそこにしかありまへんで。
生きることは学ぶこと。
これでっせ。
他に意味があるか?
断じてない。
学ばないなら死ね。
勉強はおもろいねんから。
学べば人生が快楽になるやから。
そうすれば、人生は快楽そのものやから。
生きてること自体が楽しくなるんやから。
で、たいていの人は、そういう人生のおもしろさに気付いて生きてるわけですよ。
そうでなかったら、生きてられへんもん。
さっさと死んでるよ。
で、人生を面白いと思えない人が、死んでいっても、僕は別に悲しくもないです。
「そらしゃーないわな。さいなら。」と言うしかないもん。そんなもの。
ということで、まとめると、
●人生とは学ぶこと
であり
●勉強は面白い
のであり、それゆえに、
●人生は快楽である。
と言うことなのですね。
これが本質ですわ。
そういうことを、最近はすごく感じます。
ところがどうも、このセリフの評判が悪い。
なんか偉そうに聞こえるんでしょうなぁ。
でもね、分かってる人なら分かると思うのですけど、勉強っちゅうのは、すこぶる面白いものなんですよ。
ちゅうかね、面白くもない勉強してどうすんの、とすら思う。
ちゅうかね、「面白い!!!!」と感じて初めて、「勉強した」ということなんですよね。
このあたりは、本当にいろいろやってみないと分からないことなんですけど。
というのは、まず、世の中、どーーーーーーーーーーーでもいい「常識」という奴が、ものすごく幅を利かせてまして、「間違っているのに、それが正しいとされている考え方」というものが、すぐに一般化されてしまってるからなんですね。
「裏付けのない常識」って奴です。
「なんとなくそう感じる」という事だけを頼りにして、それが世の中に広がってしまった言説といいますか。
そういうものが、もう、それこそ、ものすごく多いわけです。
ところが、どんなジャンルでも良いのですが、そうですねぇ、まぁ特定ジャンルの書籍を入門書から中級クラス程度のもの、あるいはちょっと毛色の変わったエッセイくらいかな? そのくらいのものを一気に10冊くらい読むと、それはもう、そういう「そういうことになっている」という類の常識がボロボロボロボロ、砂の城どころではないはかなさで、あっという間に崩れ去ってしまうような、「正しい知識」が手に入るわけですよ。
「正しい知識」が、そういう「裏付けのない常識」を完膚無きまでに叩きのめしているという事が起こるわけです。
まぁ、どういうジャンルでもよろしい。
どんなジャンルでも、入門書から中級クラス程度の書籍10冊程度でそういう知識に出会えるわけです。
「ええええええ、いままでずーっと『○○は××』だと思ってたけど、本当は全然そんな事無かったんだぁぁぁぁぁぁ!!!!」
というビックリ事実に出会ってしまうわけです。
これが「面白い」わけですよ。
これが「面白く」ないわけがない。
チョーーーーー、面白い。
そういう正しい知識を得てしまうと、そこから後は、もう世間で何も知らずに知ったかぶりをしてる人間が、どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしてもバカに見えてしまう。
こんな面白いこと、他にありますか? っちゅうことです。
基礎的な勉強をキチンとすると、そういう事に次々に出会える。
これが面白くないわけがない。
チョーーーーーーー面白い。
だから、もう、何事であれ、「勉強せよ。」と僕は命令してしまうし、それを超強制してしまうのです。
だって面白いねんもん。勉強したら。
面白いねんから、やれっちゅうてんねん。
そうなるわけです。
で。
勉強しないとどうなるかというと、そういう「世の中のおもしろさ」に、全然まったく、一切、ちーとも、ほんの少しも、かすりもせず、出会えもせず、知ることもできず、ずーーーっと、永遠に、終わることのない「つまらなーーーーーーい人生」を過ごすしかなくなるわけです。
そらね、「常識が一夜にしてひっくり返るおもしろさ」ほど、面白いことはございませんですよ。
私が「正しい」と思っていたことが、実は完全に間違いで、もっと大きなところで正しい事実や発見があったとかね。
そらもうね、世の中、そんな事だらけなわけですよ。
常識ひっくり返りまくりというのが、現実というものの素晴らしさの本質なわけですよ。
「常識」なんてものはですね、
●勉強して常識がひっくり返る興奮に耐えられない精神の弱い人のための言い訳
でしかないのだ、ということが、それはそれはよく分かるのですよ。
だから、勉強もしてないくせに、わずかな常識に従って、大人ぶって、知ったような事を言うことがどれだけ恥ずかしいことか、という事なわけです。
ところが!
ところが、ところが!
どうも世間的には、
●勉強とは、しんどいもの。
ということになっているらしいのですな。
なんですか? それは?
そんな「しんどい事」なんて、やっても意味ないでしょ。
やめときなさいよ。そんな事。
おもしろおかしく生きて行きなさいよ、と私は思う。
たかだか10冊くらい本を読む程度のことですがな。あっという間でっせ。勉強しなはれと私は言いたい。
常識がひっくり返るおもしろさを知ったら、そんなものね、そうそうテレビゲームばっかりはやってられないし、DVDばっかり見てられませんって。
常識なんて、つまらないのである。
で、現実の知識というのは、とんでもなく面白いのである。
で、常識に縛られている人が多いからこそ、そういう人が受け入れやすい「娯楽」なるものが存在してるわけです。
理解しやすい。
わかりやすい。
すっと頭に入ってくる。
そういうものは、ようするに「常識に沿って語られている」から、カンタンに分かるわけです。それだけの事なんですね。
でも、本当に面白いものは、現実を全然別の角度から、鮮やかに、はっきりと、クリアに映し出してくれるものなんですよ。
そこがわかってないと、勉強なんて、ちーとも面白くないわけです。
で、常識にへばりついて生きてる人は、そらおもろないやろなと思うねんなぁ。
だって常識の中でしか生きてないわけやから、ワクワク、ドキドキするわけないもん。
でも、現実の世の中は、どんでん返しの連続という、ジェットコースターも顔負けの「非常識なドラマ」そのものなわけですよ。
でも、その非常識にドラマティックな人生を、最初から見ないようにしようとしてる人はいてるわけです。常識に縛られて。
で、たいていそういう人は、何ごとにつけ「不満」なんです。文句つけたり、愚痴ったりする。それが基準値になってる。
いや、文句や不満を言ってもいいんですよ? その不満や愚痴が「明日につながる」とか「こうしたらよい」という提案要素を持っているなら。
そうではなくて、ただ愚痴ってるだけとか、文句を言ってるだけとか、不満を表明してるだけとか、そういうアホな事しか言ってないって事の方が多い。
そらそうですわな。「常識」に従ってるだけっちゅうことは勉強してないっちゅうことやから、真実の意外性のおもしろさを知らないわけですから、そらつまらん。
つまらん人生を送ってるなら、そら愚痴も増えますわな。
そんなもん、お前が悪いねん。
勉強せんからアカンのじゃ。
何、愚痴言うとんねん。
愚痴言うヒマがあったら勉強せぇや、このサボリ魔が、と私は思うだけなのですよ。
勉強というのは、生きてく上での「必須課題」やと思うので、勉強せん奴は単なる「サボリ魔」としか思えないわけです。
だってちゃんと勉強したら、ものすごーーーく面白いわけやから。
そのおもしろさを、自分自ら拒否してるんやらか、そんなもん、生きてる価値ないで。
せっかく、この世のおもしろさがそこにあるのに、見る事もしないなんて。
ああああ、もったいない。
そんなもん、生きながら死んでるようなものでして、そんな中途半端な事をするくらいなら、さっさと死んでしまいなさいよ、と僕は思うわけです。
なので、
「勉強しろ」と言った後に、「勉強するわ」と言わずにゴチャゴチャゴチャゴチャと文句しか言わない奴を見ると、これまた、上記の解説をすっ飛ばして、
「なら、死んだら?」
と、言ってしまう。
生きるというのは学ぶ事であって、学ぶ気がないのなら生きている意味はなく、生きている意味がないなら、さっさと死ね。
っちゅうことです。
で、そう言うと、怒るんよなぁ、そういう人は。
いや、怒るヒマあったら勉強したらよろしがな。
知らんがな、ワシは。
あんたが勉強せんから、世の中がつまらんのであって、ワシのせいとちゃうがな。勝手にしなさいよ。
っちゅうことです。
で、「生きてる意味がないなら、さっさと死ね」と言うと「ひどい」とか言われるんよな。
まぁ、言い方キツイですけど、でも、人生の本質はそこにしかありまへんで。
生きることは学ぶこと。
これでっせ。
他に意味があるか?
断じてない。
学ばないなら死ね。
勉強はおもろいねんから。
学べば人生が快楽になるやから。
そうすれば、人生は快楽そのものやから。
生きてること自体が楽しくなるんやから。
で、たいていの人は、そういう人生のおもしろさに気付いて生きてるわけですよ。
そうでなかったら、生きてられへんもん。
さっさと死んでるよ。
で、人生を面白いと思えない人が、死んでいっても、僕は別に悲しくもないです。
「そらしゃーないわな。さいなら。」と言うしかないもん。そんなもの。
ということで、まとめると、
●人生とは学ぶこと
であり
●勉強は面白い
のであり、それゆえに、
●人生は快楽である。
と言うことなのですね。
これが本質ですわ。
そういうことを、最近はすごく感じます。
コメント
囲碁だって練習しなならん。1日が48時間欲しい。
書き込みありがとうございます。
確かに確率・統計学は勉強すればいろいろ効果あると思います。それはがんばってくださいませ。
囲碁もなかなか脳には良いようですよ。
ただ、あれです、ロトにせよ、競馬などにせよ、ギャンブルはおおむね統計学以前に、
●必ず胴元が儲かるようにできている。
と思うので、統計学を活かせる事例にはならんと思いますよ。つまり、
●どこをどうやっても、まず儲からない。
ということだと思います。胴元が半分以上取るとか、25%取るとかしたら、その段階で金を出した人に還元される率がドッカーーーーーンと下がりますから。
で、そういう「胴元が超儲かる」からこそ、バクチというのはなかなかなくならないのですよ。まさにボッタクリの最たるものです。
胴元はやりたいですけどねぇ。でも、それをやると捕まりますしね。
ま、そういう事です。
とても興味深い内容だったので、思わずお気に入り登録させてもらい(^_^;)ました。
私のは、単なるわがまま日記ですが軽く読み流すくらいで、よろしくお願いします
ごあいさつありがとうございます。
大した内容ではないですよ。僕のも単なるわがまま日記です。
ここあさんの日記も、また読ませていただきますねー。
よろしくお願いします。