血液型性格判断は科学である必要などない。
2009年6月26日コメント (19)血液型性格判断を「科学的根拠がない」と言う事に関する違和感の話の続き。
●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/
このアーティクル、先日書いてはみたものの、言葉足らずの事が多くて「こりゃ伝わらんな」と思ったので、解説の続きをします。
だいたいもともと、血液型別性格判断に、「科学的根拠」みたいなチンケなものが必要かどうか? ということなのですよ。
そんなもんはいらない。
●AさんとBさんがいて、似ているところがある。
これは自分で感じ取れば良いことですからな。
「あらあら、この赤ちゃん可愛いわねー、お父さんにそっくり!」
なんて事を言いますが、この「似ている」という感覚に科学的根拠なんか必要なのか? ということです。
親子の顔など、実はまったく違います。
それは目の位置やら鼻の位置やらを正確に測定すればするほど「違う」という事になってしまうような事柄です。
でも、似てるもんは似てる。
この「似ている度合い」を数値化できれば、それはそれで役立つことでしょうが、そこに意味はあまりないのですよ。
で、いまは「顔が似ている度」なる測定値が世の中にあるか? というと、ありません。
では「人間の顔が似ている度を考える事など科学的に根拠がない」と言って否定したらどうなのか?
それは否定すること自体がおかしいという事です。
で、顔が似ている程度を表すためには、どういう風に伝えるかというと、タレントの名前を使ったりします。
「ちょっとスマップの香取君っぽい感じでさー」
とかね。
それで正解の場合もあれば、不正解の場合もあります。でも、何もないよりよっぽどイメージが出来て、コミュニケーションの役に立つわけです。
こういうときに「眉毛の位置が顔の上から34%のところにあって…」とか言っても、それは全然意味がないわけです。
人間の顔ですら、写真がない時は、そういう伝え方をするしかないわけです。
ましてや、性格を伝える時にはもっとあやふやにならざるを得ないわけです。
いちいち対象となる人の言動を伝えたところで、それこそ部分でしかない。そういう時に血液型を知っていて、一言「○型らしい」と付け加えると、大雑把なイメージが伝わって、その部分情報に正確性が増すのです。
で、その程度で良いのですよ、血液型性格判断なんてものは。それだけでかなり有用なのだから、それで良い。
人が人の顔を表現するときに使う「タレントの顔」のような雛形ということです。
そういうものは、あった方が便利に決まってます。何もわざわざ否定する必要はない。
ましてや、科学なんか全然関係ないし、余分なことです。
-----------------
このあたり、どうも違和感を感じるのですが、やっぱり大きな問題は、「能見正比古」という、血液型と性格の関係性の元となるタイプを書いた、もっとも偉大な作家が、すでにお亡くなりになってしまっていると言うことが、すべての不幸の始まりなんだろうなと思います。
だから、「血液型性格判断は科学ではない」などという、チンケで頭の悪い風評ばかりが一人歩きすることになってしまうんだろうと思います。
だいたい元々、能見正比古さんが書かれた著作では能見さん自身がこれを科学であるとは言ってなかったはずです。いま手元に本がないのでなんとも言いようがないんですが。
とにかく能見さんは、「元となる雛形を作った」ということで偉大なんですよ。
で、能見さんは、血液型性格判断の正しい活用方法もきちんと定義してらした。それはつまり、
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
という考え方です。
これが素晴らしいのです。
人間はひとりひとり考え方や生き方も違うわけですから、どうしてもすれ違いが起きたりしてしまう。考え方が違って腹を立てたりすることもあります。
しかし、そういう行き違いを小さくして、人を好きになっていくようにした方が、やっぱり良い。そういう人間を肯定する発想が大前提として存在していて、その人間愛の上に「血液型人間学」を置いたのが能見正比古さんなんです。
これは基本コンセプトとして、すごく重要です。
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
と考える事で、人間の良い点を正しく評価し、評価未定の部分は血液型による「まだコントロールできていない気質」として棚上げを可能にしてるわけです。
こういう「コンセプトの提案」のような事こそが科学的思考法のもっとも大切な部分なんですね。「科学的根拠」というような枝葉末節はどうでもいい。みみっちい。
たとえば、ソクラテスやプラトンは「対話」を元にさまざまな哲学的考察を生み出しましたが、西洋文化の礎は、まさに彼らの「思想」の上に成り立っていると言っても良いほどのものです。
いま風に言えば「コンセプト」という事になりますが、上記で書いた能見正比古さんの提言のようなものこそが、まさに哲学というものです。
科学の進化・進展というものは、こういう哲学が根底にあって、そこから進化発展してきたものなんです。だから最初のコンセプトというのが死ぬほど大事でしょう。
で、血液型に関しては、この能見先生のような人間的に尊敬できる考え方こそを、まずベースにしないと、どこをどうひねくり回してもおかしな計測主義にしかなっていかないのです。
大切な事は、人が人を愛すると言うことです。
そのために血液型という科学の道具を使いましょう、ということです。科学が大事なのではなくて、人を愛すると言うことが大事なのです。
血液型と性格の話は、能見正比古さんの著作をベースに「ABOの会(アボのかい)」だったかな? そういう集まりが作られて、いろいろ活動されてたはずですが、能見正比古さんが亡くなられてから後は、息子さんの俊賢さんに引き継がれたはずです。
で、能見正比古さんが「情」で考えるB型だったのに対して、息子さんの「俊賢」さんは知で考えるA型らしく、数値やら実証実験やらを活動の中心にされたわけです。
この流れが実に悪い形で世の中に広まってしまったんですね。
もともとの「コンセプト」の部分の素晴らしさが全然伝わらないままなんです。
人をいかに愛するか?
なんてことは、そうそう誰にでも考えられる事ではないのです。
でも能見正比古さんは、それをこそ真剣に考えられた。そこが大切で、そこをこそ受け継いでいくべきだったのですが、後の息子さんの数値的活動をベースに「もともとの能見正比古のデータそのものが科学的根拠がない」と一蹴されてしまっているのが、いまの状況だ、ということです。
科学的根拠なんかどうでもいいんだよ、バカ!
と私はどなりつけたい。
人間が生きていて、どうにも理解しにくい他人がいて、その人をどう受け入れてあげればよいのか? そのための合理的な受入方法のひとつとして、血液型の知識があるんだよ、ということを、まず最初に考えてもらいたいと思うわけですよ。
だから、若い女の子とかで「私はB型の人とは付き合わないんです」とか言ってる事自体が、能見さんの最初のコンセプトからはずれる。
そういう考え方が間違いなのですよ。
●良く分からない人を、偏見を持たずに、いかに理解してあげるのか?
これこそが能見正比古が著作を通じて訴えていたことなのであって、こういう立派な考え方に「科学的根拠」なんか必要なはずがないのです。
だから能見先生の著作をして「科学的根拠がない」などと言うアホは科学者を辞めなさいと言うのです。
この根本の理念がなければ、どんな科学的考え方もマッドサイエンティストの悪の発明と同じになってしまう。
まだまだ書きたいことはあるんですけど、まずはここまで。
●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/
このアーティクル、先日書いてはみたものの、言葉足らずの事が多くて「こりゃ伝わらんな」と思ったので、解説の続きをします。
だいたいもともと、血液型別性格判断に、「科学的根拠」みたいなチンケなものが必要かどうか? ということなのですよ。
そんなもんはいらない。
●AさんとBさんがいて、似ているところがある。
これは自分で感じ取れば良いことですからな。
「あらあら、この赤ちゃん可愛いわねー、お父さんにそっくり!」
なんて事を言いますが、この「似ている」という感覚に科学的根拠なんか必要なのか? ということです。
親子の顔など、実はまったく違います。
それは目の位置やら鼻の位置やらを正確に測定すればするほど「違う」という事になってしまうような事柄です。
でも、似てるもんは似てる。
この「似ている度合い」を数値化できれば、それはそれで役立つことでしょうが、そこに意味はあまりないのですよ。
で、いまは「顔が似ている度」なる測定値が世の中にあるか? というと、ありません。
では「人間の顔が似ている度を考える事など科学的に根拠がない」と言って否定したらどうなのか?
それは否定すること自体がおかしいという事です。
で、顔が似ている程度を表すためには、どういう風に伝えるかというと、タレントの名前を使ったりします。
「ちょっとスマップの香取君っぽい感じでさー」
とかね。
それで正解の場合もあれば、不正解の場合もあります。でも、何もないよりよっぽどイメージが出来て、コミュニケーションの役に立つわけです。
こういうときに「眉毛の位置が顔の上から34%のところにあって…」とか言っても、それは全然意味がないわけです。
人間の顔ですら、写真がない時は、そういう伝え方をするしかないわけです。
ましてや、性格を伝える時にはもっとあやふやにならざるを得ないわけです。
いちいち対象となる人の言動を伝えたところで、それこそ部分でしかない。そういう時に血液型を知っていて、一言「○型らしい」と付け加えると、大雑把なイメージが伝わって、その部分情報に正確性が増すのです。
で、その程度で良いのですよ、血液型性格判断なんてものは。それだけでかなり有用なのだから、それで良い。
人が人の顔を表現するときに使う「タレントの顔」のような雛形ということです。
そういうものは、あった方が便利に決まってます。何もわざわざ否定する必要はない。
ましてや、科学なんか全然関係ないし、余分なことです。
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このあたり、どうも違和感を感じるのですが、やっぱり大きな問題は、「能見正比古」という、血液型と性格の関係性の元となるタイプを書いた、もっとも偉大な作家が、すでにお亡くなりになってしまっていると言うことが、すべての不幸の始まりなんだろうなと思います。
だから、「血液型性格判断は科学ではない」などという、チンケで頭の悪い風評ばかりが一人歩きすることになってしまうんだろうと思います。
だいたい元々、能見正比古さんが書かれた著作では能見さん自身がこれを科学であるとは言ってなかったはずです。いま手元に本がないのでなんとも言いようがないんですが。
とにかく能見さんは、「元となる雛形を作った」ということで偉大なんですよ。
で、能見さんは、血液型性格判断の正しい活用方法もきちんと定義してらした。それはつまり、
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
という考え方です。
これが素晴らしいのです。
人間はひとりひとり考え方や生き方も違うわけですから、どうしてもすれ違いが起きたりしてしまう。考え方が違って腹を立てたりすることもあります。
しかし、そういう行き違いを小さくして、人を好きになっていくようにした方が、やっぱり良い。そういう人間を肯定する発想が大前提として存在していて、その人間愛の上に「血液型人間学」を置いたのが能見正比古さんなんです。
これは基本コンセプトとして、すごく重要です。
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
と考える事で、人間の良い点を正しく評価し、評価未定の部分は血液型による「まだコントロールできていない気質」として棚上げを可能にしてるわけです。
こういう「コンセプトの提案」のような事こそが科学的思考法のもっとも大切な部分なんですね。「科学的根拠」というような枝葉末節はどうでもいい。みみっちい。
たとえば、ソクラテスやプラトンは「対話」を元にさまざまな哲学的考察を生み出しましたが、西洋文化の礎は、まさに彼らの「思想」の上に成り立っていると言っても良いほどのものです。
いま風に言えば「コンセプト」という事になりますが、上記で書いた能見正比古さんの提言のようなものこそが、まさに哲学というものです。
科学の進化・進展というものは、こういう哲学が根底にあって、そこから進化発展してきたものなんです。だから最初のコンセプトというのが死ぬほど大事でしょう。
で、血液型に関しては、この能見先生のような人間的に尊敬できる考え方こそを、まずベースにしないと、どこをどうひねくり回してもおかしな計測主義にしかなっていかないのです。
大切な事は、人が人を愛すると言うことです。
そのために血液型という科学の道具を使いましょう、ということです。科学が大事なのではなくて、人を愛すると言うことが大事なのです。
血液型と性格の話は、能見正比古さんの著作をベースに「ABOの会(アボのかい)」だったかな? そういう集まりが作られて、いろいろ活動されてたはずですが、能見正比古さんが亡くなられてから後は、息子さんの俊賢さんに引き継がれたはずです。
で、能見正比古さんが「情」で考えるB型だったのに対して、息子さんの「俊賢」さんは知で考えるA型らしく、数値やら実証実験やらを活動の中心にされたわけです。
この流れが実に悪い形で世の中に広まってしまったんですね。
もともとの「コンセプト」の部分の素晴らしさが全然伝わらないままなんです。
人をいかに愛するか?
なんてことは、そうそう誰にでも考えられる事ではないのです。
でも能見正比古さんは、それをこそ真剣に考えられた。そこが大切で、そこをこそ受け継いでいくべきだったのですが、後の息子さんの数値的活動をベースに「もともとの能見正比古のデータそのものが科学的根拠がない」と一蹴されてしまっているのが、いまの状況だ、ということです。
科学的根拠なんかどうでもいいんだよ、バカ!
と私はどなりつけたい。
人間が生きていて、どうにも理解しにくい他人がいて、その人をどう受け入れてあげればよいのか? そのための合理的な受入方法のひとつとして、血液型の知識があるんだよ、ということを、まず最初に考えてもらいたいと思うわけですよ。
だから、若い女の子とかで「私はB型の人とは付き合わないんです」とか言ってる事自体が、能見さんの最初のコンセプトからはずれる。
そういう考え方が間違いなのですよ。
●良く分からない人を、偏見を持たずに、いかに理解してあげるのか?
これこそが能見正比古が著作を通じて訴えていたことなのであって、こういう立派な考え方に「科学的根拠」なんか必要なはずがないのです。
だから能見先生の著作をして「科学的根拠がない」などと言うアホは科学者を辞めなさいと言うのです。
この根本の理念がなければ、どんな科学的考え方もマッドサイエンティストの悪の発明と同じになってしまう。
まだまだ書きたいことはあるんですけど、まずはここまで。
コメント
科学が扱う領域なんて限られてるんですから、その領域の周辺部を捉えて、
科学者に「もっと頑張れ」とか「辞めちまえ!」とか勘弁してください。
「科学的根拠」以外の根拠を否定するのは科学者の態度ではありません。
「科学的根拠」以外の根拠は気にしない、が一般的な科学者の態度です。
世間様には「科学的に否定された」と受け取られちゃうかもしれない事にきづかず、
「そんなこと私は(科学は)気にしない」のつもりで「科学的根拠はありません」と言っちゃう
科学者の方も問題はあるのかもしれませんが。
書き込みありがとうございます。
ご存じなさそうなので、ご注意申し上げますが、血液型は「免疫の型」でして、特定の疾病とは一直線に相関関係がございます。はっきりとございます。バカでもわかるくらいに明らかに存在しておるのでございます。医学的事実ですから、これは。
それはあなたがそれを知らないだけで、まさにあなたがパァでバカだからですよ。はい。そこのところは、はっきりと、ご自覚ください。
血液型O型の人間はコレラで死亡する確率が大変高く、AB型は死ににくい。
また逆に、AB型は梅毒で死亡する率が大変高く、O型は確率が低い。
これはもう、単なる事実のレベルでして統計学上の有意差がどうとかいうレベルではないんです。
地域ごとでABO式血液型の分布率が異なりますが、それは過去にそういう伝染病があったかなかったかの差であろう、ということまで分かっているわけです。
で。
それとはまったく別に、いまだに心理学においては、「人間の性格の違いの定義」もできておりません。ですから、「血液型と性格の相関関係」というのは、「定義できてないから」証明できないわけです。
だから私は、タイトルに書いたように「科学である必要はない」と明記してるわけです。科学として考えるなら明確な「性格の定義」が必要ですけど、そんなもんはいらん。「性格の定義」を「科学的に考える」事自体が、バカのすることです。
そうではなくて、単に事実として、AB型が梅毒に弱く、O型がコレラに弱いという、明確な血液型ごとの特性の違いがあって、その特性の違いから、性格ではなく「哲学」とか「習性」という意味で「梅毒に弱いAB型系の家族は性的タブーに敏感」「梅毒に強いのでO型系の家族はスキンシップを好む」などの「血液型ごとの行動や発想の違い」が「事実として存在してしまう」のだということです。
だからこれは「観察される事実」なのであって、まさに「習性」とか「哲学」とか「引き継がれてきた文化」というような事柄ですから、もともと「科学」という枠組みにそぐわない。
そういう事柄を、血液型が免疫の型であって体質として違って当然なのだということすら知らずに「性格と血液型の間に相関はない」と、ヘラヘラ・チャラチャラ言って、えらそうな事を言う奴が僕はものすごく嫌いで、無知という意味で「バカ」とか「パァ」と言っているわけです。
で、こういう事を知らない人間には、単に事実を伝えれば済むんですが、どうにも「科学」を振り回して、言論統制をしようとまでする、どうしようもないタイプの人が時たまいてるので、私はあえて、上記のような事は一切書かずに、「バカ」がはまりこんでアホな事を書くのを待っておりました。
まさにあなたは、その罠にひっかかった、「科学という宗教をカサに、まともな言論を弾圧しようとする、もっとも卑劣でいやらしい人間の代表」となりさがったわけです。
本当にありがとうございます。
今後、この血液型の話に関しては、このコメントのやりとりを、あなたのお名前を出さずに、引き合いとして例示させていただきます。
「ほらね、科学をカサにきて書き込みする奴って、本当にバカでパァでしょ?」という事です。
ご愁傷さまでした。
Nature誌によると、血液型(抗原)によって発病(感染)しやすい病気としにくい病気があるという仮説は間違いで、血液型と疾患の相関について再現性よく示されたものは無い、と結論付けられているようです。
心理学の実験として、1993年、大村政男という人が「血液型気質相関連説と血液型人間学の心理学的研究II」という著書で大規模な統計をとっている。「本物」の性格診断を読んだ群と「偽物」の性格診断を読んだ群とに分け、「当たっている」「当たっていない」と答えた人の人数をみてみると、「本物」を見て当たっていると答えた人は64.2%、「偽物」を見て当たっていると答えた人は65.8%となり、ほぼ差が見られない。つまり単なるバーナム効果を示す結果に終わり、血液型性格診断が完全な疑似科学であるといえた。
いくつかのモノを分類する方法は無数にある。例えばテーブルの上に複数のコップがあるとして、それを分類するとしたら、形で分けたり色で分けたりサイズで分けたり製造年で分けたり素材で分けたり…と無数に分類方法が存在する。
血液型も同様で、血液を分類するにあたり、一番最初に発見されたABO式(赤血球の抗原による分類)がメジャーだが、それ以外の分類方法は無数にある(Rh式、ダフィー式、MN式、P式など現在300種類程)。
血液の型と人の気質(性格)が関係しているというと、一見科学的に感じるかもしれないが、まったく根拠のない疑似科学である。なぜABO式だけなのか?なぜ赤血球の抗原が人の気質と相関関係にあるのか?白血球の抗原だとどうなのか?300種類(分類方法が進むとさらに多く)もある分類でなぜABO式による分類がそれほど強固に気質と相関があるのか?そもそも気質(性格)とはどのように定義するのか?気質を定義する際に恣意的な要素を排除することは不可能なのではないか?などちょっと考えれば血液型性格診断がまったくの嘘であることは分かる。
血液型性格診断は差別を生む暴力である。
金を生むコンテンツなので、疑似科学であるにも関わらず何度も何度もメディアで流布され、信じてしまっている日本人は少なからずいる。それがブラッドタイプ・ハラスメントと呼ばれる差別を生み出している現状がある。あの人は〇型だから合わない、あの人と合わないのは〇型だからに違いない、あの人は◯型だからこの仕事を任せたらうまくいく、などと疑似科学を信じてしまって、人を判断するときのきっかけになったり、基準になったりしている。これは明らかな差別であり暴力である。
血液型は「免疫の型」なんですよ。
だから、血液型によって病気に対する耐性が異なるんです。
性病に強いO型と、コレラに強いAB型と。
これは、医学的な事実であって、動かしようのない現実なんですね。
性病やコレラは命に関わる病気ですから、生き方そのものが規定されてしまうんです。
故に性格どころか「哲学」のレベルで考え方の違い、生き方の違いが必然的に出ます。
それこそまさに個性の違いとしか言いようがないのです。
科学以前に「事実」として異なるのです。
欧米人と日本人で文化が異なるのとおなじですね。
この文化の違いを認めることこそが真の平等であって、上記のように個々人の違いを認めもせずに、古臭い「科学」の建前で違いがないことにしてしまうという考え方こそが、最も卑劣で、俗悪な悪平等主義という悪魔の思想なんです。
でもまぁ、「ABO式血液型」が免疫の型であるという事実すら知らなければ、上記のような狭い視野で無茶苦茶な事を言うのも仕方ないでしょう。
上記のような書き込みをするタイプの人間が私は一番きらいですね。
ここのトピ主さんは、かなり言葉がきつくて、そこは感心しませんが、基本嫌いじゃないです。
特に間違ったことも言ってないし。
まぁ勘違いする人は多いでしょうけども。
以前は確かに仮説としてそういう議論(ABO式血液型と病気とに弱い相関があるのではない?)もあったわけだが、今では医学的に完全に否定されている。
医学的事実というなら、2000年以降の学説で、それを肯定するソースを持ってくるべきですね。どこかの占いサイトとか素人のサイトとか門外の人の書いた書籍とかではなく、博士号をもったきちんとした学者の意見や、学会での意見や、論文などをもってきて。
たとえば、心理学なんかで、性格を考えようという事自体が、意味ない。
なぜなら、いまだに心理学では「性格とは何か」という事が明確化されてないからです。
学者によって定義が違う。
そんな学問なんです。
心理学というのは。
つまり、
血液型と性格との間に関係性が見いだせないのは、
●心理学がへっぽこなのだ
ということなのですよ。血液型と性格の間に関係性が見いだせないのは、血液型の問題ではないんですって。これははっきり、心理学の問題です。
心理学はいまだにこういう状況の時には、こうなることが多いという程度の状況依存の説明しかできず、いついかなる時も再現性のある法則性などを確定できていないわけです。
科学であるべき、心理学がへっぽこなんです。
もちょっとしっかりせえや心理学! という話であって、それ以上の意味はありません。
だから性格というのは、もともと実学です。
実際に血液型と性格の間には関係性があります。
これはハッキリあります。
「ない」と言ってる人は鈍感なだけです。
関係性はあります。
単に事実がある、というだけの話です。
これは、人間観察をしていればわかります。
分からないのはサンプル数が少ないだけです。
つまり人間観察をしていないというだけです。
血液型と性格の間にはかなりの強い相関が観察できます。
観察は自然科学の方法です。
まず、観察してください。
心理学より生物学とかの方が近い。
血液型と性格に関係がないと言ってる人は、菊とコスモスを見て「どっちも白い花じゃん」とか言ってるようなレベルです。
なので相手をしたくないのです。
観察をしてください。
虚心坦懐に。
そうすれば、はっきり見えてきます。
なぜか?
「血液型と性格の間には、強い相関が見える」というのが事実だからです。
事実なのだからしょうがないでしょう。
きちんとしたスケッチのできない人は生物学者になれません。
花の種別の違いと、同じ種類の花の中での個体差の違いなどを、明確に言語化できるくらいに特定できるかどうかです。
これは観察をたくさんこなした人でないとわかりません。
たぶんおそらく、血液型と性格との相関関係も同じでしょう。
繰り返して言います。
血液型と性格の間には強い相関関係が観察できます。
だから、これは事実です。
事実は事実として、認識するしかほかに道はないんです。
それが事実です。
その事実から出発してください。
なぜか?
それはつまり、はっきりと関係性があるからです。
僕は占いに関しては観察をしてないので分からないですが、あれも全然なくならないのだから、まだ科学では解明できていない何かがあるのでしょう。
潮の満ち引きと同じように重力の変化で何か大きなトレンドが変わるとか。
どうしても合理的な説明ができない出来事が起きて、それが星の動きだと説明がつくとか、そういう事がいくつもあったんでしょう。
血液型でもいくつもそういう事がらはありました。
「えらい潔癖症やなぁ」
と思ってたけど、これが意外に何人もいてる。
まったくグループの異なる別集団で僕は3人同じく口を漱がない人を知ってたわけです。
一人は仕事場の仲間。
一人は高校時代の友人。
一人は小学校の時の同窓生。
三人は面識は一切ありません。なのに行動言動が恐ろしく似ている。
ちなみに神社で口を漱ぐのは、神道の正式なルールでして、そのルールは知っていながら「僕は口には水は入れません」と言うのです。3人ともに。確信犯です。
ありゃ? 前にも同じような事を言ってる人間がいたなぁと思いだしてみると、全員がO型でした。
で、実はO型はコレラ菌に弱いのです。
たぶん、もともとお腹を壊しやすいから、そういう行動になっているのでしょう。
こういう事実を観察すると、これは共通項として認知せざるを得ませんよ。それは。
失敗した時に、どういう態度をとるか?という話です。
仕事場で、僕が大失敗をした時です。僕の上司は「失敗したことは仕方ない。でも、その失敗がなぜ起きたのかは明確に原因を究明して、二度と失敗が起きないようにしないとダメだよ。」と言ったわけです。
「おー、なるほど!」
と、感心したわけです。そうか、そらそうだ。これはビジネスの常識なのだろうと思ったわけです。ビジネス書などに書かれている「常識」なのだろうと。
で、ずっと僕は「失敗したら原因究明。二度と失敗は起こさない。これが社会のルール」と思って行動してたわけです。
そしたら、また失敗したときに、今度は別の上司がこう言った。
「失敗したのは、仕方ない。でも、これで君はマイナスの評価を受けたのだから、どう評価を取り返すかを考えないとダメだよ」と。
ありゃ? なんじゃこれ?
全然切り口が違う。
どういう事?
失敗の原因をつきとめなくてもいいの? それを口にして「そうですね。まず失敗の原因を明らかにして…」というと、
「そんな事はやってもしょうがないじゃないか。」とおっしゃる。
ま、言われてみれば、これも一理ある。
で。
この二つの考え方が僕の中でずっと対立項としてあったのですが、仕事場で聞き耳を立てていると、同じセリフが繰り返し出てくる。「失敗は原因を追究して二度と起こさないように」というのと、「どう取り返すかが大事」と言うセリフ。
で。
そのセリフを言った人を順に思い出していくと…
「失敗は取り返さないと」と言ってる人は、全員B型。
恐ろしいくらいにパターン化されてたのですよ。
なんだこれ?
血液型と考え方の間には、相関関係があると考えるしかない出来事に、少なくとも僕はいくつも出会ってるわけです。
だから、こういう事実が、たぶんまだまだ、もっともっと、山のようにあるのだろうと思う。
観察してない人は「そんなアホな」としか思わない。
そら観察してへんねんから、存在には気づきませんわな。そらしゃーない。
でもねぇ、人間観察はした方がええよ。人間関係を築くために必要ですよ。
そんでもって、血液型と性格の間には強い相関があるとしか思えない出来事に、それはもうたくさんたくさん出会ってきたから。
だから、学会とかで「科学的に関係があるとは認められない」と言いたいなら言うておきなさいと。勝手に言うとけと。
昔「ケガしたら唾でもつけとけ。それで治るわ」とか爺さんとかが言うてたけど、「科学的」には、かなり長い間「唾液に殺菌効果は認められない」と言われてたわけ。
だから「ツバをつけたら治るというのは迷信」とまで言われてたのですな。
でも、それこそ分析機器が進化して、唾液の成分分析がこまかくできるようになったら、「唾液には殺菌成分がありました」ってなったわけです。
ま、科学とか、そういうものですから。
唾液は爺さんたちの経験上「塗らんより塗った方が効果のある手法」として支持されてたわけですわ。それは単に「経験則」です。何の裏付けもありません。
だから迷信と言いたい奴は言うとけ、というのです。
なめておいたら治りが速い。そういう事実がある。だからやっぱり「唾でもつけとけ」という言い方はなくならなかった。
結果として、やっぱり唾液に殺菌能力はあったわけです。
それを見つけられるようになるのが科学の進歩です。
「学会で否定されたから存在しない」とか言うてるのが、一番アホですわな。
白い花の見分けがついてないだけ。
生物学のスケッチができてない。
それだけの話です。
>血液型によって病気に対する耐性が異なるというのが医学的事実なら、
>それに関する論文などをあげられるはずだが、見たことはない。
と書いてた人がいましたが、そら、調べてなけりゃ「見たこと」ないわなぁ。
そんなもん、科学的な論文なんか、山のようにありまっせ。
ちゅうか、だいたい、「血液型と性格の間に科学的な関係性は認められない」ばっかり言う人は、血液型が「免疫の型」であって、血液だけでなく、人間の体全体、すべてに存在するものなのだ、という事とかも知らずにいてる人ばっかりだったりする。
ましてや血液型が赤血球の表面についている糖鎖の違いだとか、そういう事は全然知ろうともしない。
人間の体にはいろいろな細菌やウィルスが入ってきますが、それに対抗する手段が、血液型が違うと異なるという事です。
だからO型はコレラに弱く、梅毒に強いし、AB型はコレラに強く梅毒に弱い。
こういう研究はどんどん広がってきて、認知症も血液型で差異があるとか冠動脈疾患にも関係するとかそんな話まで出てきてる。
当然やわなぁ。免疫の型なんやから。
そういうもんやからしゃーないやんけ。
それをどうこう言うてもしゃーないんちゃうんか?
何が「科学的に関係性は認められない」や。あほくさい。
それ以前に単に「事実」なんですよ。現実です。
血液型が違えば、かかる病気に違いが出る。
梅毒にかかりやすい人間は恋愛には慎重になるやろ。
コレラにかかりやすい人間は神社で口を漱ぎません。
それは本能という可能性もあるけど、単純に「親戚の兄ちゃんがコレラで死んだ」とか、「梅毒で苦労した」とかの見聞から生き方の哲学として身につけた可能性もあるやないか。
で、AB型とO型の間に親子関係はない。だから、O型の親戚にはO型が多いし、AB型の親戚にはAB型の親戚が多いがな。
そしたら、嫌でも「食道楽のAB型は恋愛には慎重」「情熱的なO型は、食べ物には神経質」になってまうやんけ!
そんなもんしゃーないやないか!
そういうもんやんけ。単なる事実じゃ、ボケ!
現実をちゃんと見てたら、こういう事には気づくしかない。現実なんやから。血液型と性格には強い相関があるんやから。
しゃーないやんけ。あるんやから。
そういうもんなんやから。
何が科学的に関係性はない!や。アホくさい。
学会人のもめごとで(血液型性格診断は、その昔、学会で派閥ができるくらいに大もめにもめたのよ。それ以来、臭いものにはフタで、その手の話はシャットアウトされてるのが現実です!血液型の話を色々書籍とかで読めばこれは出てくる。)否定されてるだけ。あくまで政治的なことなんですよ。
だから、学会で否定されたから「ない」とか言う人は、人間観察もできてない、ダメ人間がショーもないことを言うてるだけとしか私には思えない。申し訳ないけど。
性格というのは後天的なものですから、変更可能です。
でも血液型というのは人間の体を構成する基本的な物質の違いですから、気質差はあるはずだ、という事で、後天的な影響を受けていない幼稚園児を血液型ごとでグループにし、その行動を観察するというのをやったわけです。
そしたらこれが、驚くほどに差が出た。
A型は靴をそろえるけど、そのほかの血液型はそうでもないとか、本当にありとあらゆる面で恐ろしいくらいに差が出た。
で、これが放送されるや否や「素晴らしい成果だ!」という意見と「子供の未来を固定化する恐ろしい研究だ」という両方の電話がテレビ局に山のようにかかってきたわけです。
あまりに反応が大きく、しかもやはり「子供の教育によろしくない、やめろ!」という声が大きかったわけです。
だから「血液型と性格の間で科学的な相関は何も認められておりません」というコメントを出して火消しするしかなくなったのですよ。
以来、マスコミで血液型と性格の関係性に関する番組はタブーになっちゃった。それは今でもそうです。
番組にすると、ごちゃごちゃごちゃごちゃ、文句言う層がものすごく多いわけです。だからやめた。
で、それはなんでそうなるかというと、「事実としてはっきり関係があるから」です。
それ以外に理由なんかない。
あまりに関係がありすぎて怖いわけだ。愚かな大衆としては。
そんな自分の行動や考え方を規定されてしまう、気持ちの悪いものは「見たくない」わけだよ。
だから、見なくて済むように「血液型と性格の間で科学的相関は認められなかった」がお題目のように唱えられるわけです。
それさえ言えば「炎上」しないから。
こんな掲示板のコメント欄どころの騒ぎやないわけですよ。テレビの炎上は。
だからタブーなんです。
で、なんでタブーになるくらい、みんなが強烈に反応するかというと、
●血液型と性格の間には強い相関関係が事実としてあるから
です。
単に事実なのですよ。
単なる事実に「科学」はいらんのです。
事実なんやから。
それは、ちゃんと観察してればわかります。
分からないのは生物学のスケッチができてない人と一緒。観察眼がないだけ。
そういう事。
以上、血液型に関しては、これでおしまいです。