どうもね。気持ち良くないんですよ、あのアキバの事件。
怖いというか、気持ち悪い。
なんでかというと、特段の「こだわり」みたいなのを感じられないからなんです。どうにも。
たとえば死刑になった宮崎勤は幼女殺人でしょ? 幼女にこだわってた。酒鬼薔薇も強い異常性を感じた。宅間ってのもいたけど、あれも小学校を狙った。弱いものいじめ。オウムだと地下鉄で社会全体に対する反抗だし、その他のテロなら権力機構に対して攻撃します。そういう政治性もないわけですよ。社会性自体がもともとない感じがする。
なんせ、アキバですから。なんでアキバなんだろう?
アキバに犯人の派遣仕事を斡旋した会社があったから、そこに向かう途中だったという話もあるにはあるんですが、でも実際に殺人を開始したのはアキバのホコテンですからな。
どう考えても「たまたま自分の知っている場所で人の多いところ」で犯行に及んだという感じしかしない。
なんだこれ? そんなことで殺人とかできるのか?
って感じ。
殺し方にしても、特殊なガスを作るとか、体を切り刻んでとか、子供ばかりを選んで、というような「異常性」があまりなくて「車で突っ込んだら、人は死ぬよな」「ナイフで刺せば人は死ぬよな」という、身近にあるものを使ってみました的な緩さ。
なんだこれ? あまりに殺人と現実の間の壁が低すぎないか? って事なんですね。
そういうところがものすごく気持ち悪い。
言い方は悪いけど「ちょっと人でも殺してみましょうか」という感じでやってるような気がする。
まだ、宮崎や酒鬼薔薇、宅間、オウムのような「異常性」のある方が「異常者ってのはいてるよな」という線引きができただけマシだったように思うのです。
なんか、今回のはそういうのとは違う。普通の奴を社会が殺人鬼にしちゃったみたいな気持ち悪さが感じられるのですよ。
前から書いてるけど、もともと日本は敬典宗教じゃないので、倫理の基準値ってのがないわけです。人と人が顔を合わせて、日々お互いの気持ちを察しながら、村社会を演じてないと倫理観自体が育たないという弱点がある。
その「教典」とも言うべき、村社会としての企業という仕組みを、ぶっ潰してしまったのが派遣の仕組みで、そういう事の積み重ねが、結果としてこういう事件を産んだのではないか? という気がしてならないわけですよ。
日本人の多くがわかってないので、あらためて書いておきますが、「なぜ人を殺してはいけないのか」は、一神教で教典のある宗教が支配的な文化圏では、ただ一言、
●教典にそう書いてあるから。
という理由で殺さないのです。
ものすごく単純に感じる人も多いでしょうが、とどのつまりは、一言で言うならそういう事なんです。
教典に書いてあるから殺さないんです。
そういうものなんです。
で、通常、教典を敬うことで成立する宗教文化を持つ地域では、法律よりも、はるかに教典のほうが重要なわけですね。
もう、理屈ではなく、無意識のレベルに刷り込まれてる訳です。
新聞の見出しも、教典の言葉をもじったものになっていたり、教典の文言を引用して説教するなんてのも、ごく普通です。
でも、日本にはそういうものはありません。倫理観を養うとしたら、家庭で親から学ぶか、社会に出て会社から学ぶかくらいしかありません。本当は学校で教えた方が良いのですが、「戦前の教育に戻すつもりか!」とヒステリックに排除する文化が長年支配的だったがゆえに道徳的な授業というのが、もう全然なくなってしまってます。
わずかに、昔からの、じいさんばぁさんから受け継いできた教えを、年寄りが持っていて、それを受け渡す場所として仕事場があったのに、それすら派遣の仕組みで、教えを手渡す場所ではなくしてしまったんですね、日本人は。
なんかね、そういう結果の積み重ねだよなって思うのです。今回のこの事件は。
ものすごく薄ら寒い。
教育勅語が良いとは言わないけど、何かそういう、心を鍛えるような仕組みが社会の中にしっかりとあれば、こういう日常と人殺しの壁が薄くなってしまったような気持ちの悪い事件は、防げたはずだよなって思うのです。
一神教が支配的な文化圏では、経典に書いてあるから人殺しをしない、と書きましたが、これまた「異教徒は殺して良い」とするのが教典の世界です。つまりもともと、基準は不明確で、不明確だからこそ、簡単に人間は殺人に走ってしまう、という事でもあります。
そこがはっきりしてるから、書物が発明されたときに、人間の英知として、倫理観を記述した、「見える化」して忘れないようにした、という事なわけでしょう。
で、効果が高かったからこそ「聖書は世界でもっとも多くの部数を誇る書籍である」という事態にもなったんだって事ですね。
人間は忘れる動物なんですよ。
だから教典を繰り返し見るか、そうでなかったら、教えを具体的に実践している人の横にいて、それを体得するか、どっちかしかないわけです。正しい倫理観を身につけるには。
だから、経典のない日本において、人と接するという側面が損なわれたら、その段階で大きく倫理観は壊れやすいわけです。
だから派遣の仕組みはかなりまずい。聖書のある文化圏なら、それでもいいんだろうけど、日本じゃまずいよなぁって思う。
でも、このあたりの本質がわかってない人の方が多いのが、日本人でもありまして、「人を殺してはいけないのは何故?」と聞くと、「え? あ、えーと…。」と「考え」はじめたりするんです。
考えるなって。そんな事、本当はものすごく難しくてわからないのが当たり前なんだって。
ただ、何百年、何千年の歴史の中で、「やっぱり良くない」と人生をかけて体感してきた事が文化として残り、それが書物や宗教の形で継承されたから、素直にそれを継承し続けてるだけの話だってことです。
だから、普通の人間が普通に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われたら「教典に書いてあるから」と、何も考えなくても、スッと言うような社会状況を作るしかないって事なんですね。
クローンの問題とか、生命を扱う問題を、だから日本人が個人的に考えても絶対に答えなんか出ないわけですよ。考えるだけムダ。意味がない。
まぁ、それでも欧米では教典がしっかり存在してるから、「このことは神との関係をどう解釈すればいいのか」っていう個別問題がどうしても出てきて、それが政治的課題にまで、すぐに昇格してしまうから、日本でも同様の事を考えなくてはならなくなるわけですが、日本には教典自体がないんやから、考えようにも考えるための基準探しからしないといけないわけで、とんでもなく大変なわけですよ。
クローン問題にしても、膨大な症例を世界中から集めるとかするしかないだろうし。
命の問題を考えるって事自体が、そう簡単ではない。
でも、一神教の文化圏の人間が、なぜ人を殺してはいけないかの理由を「教典にそう書いてあるから」という、実に単純な原理で判定しているだけなのだ、というシンプルさをわかってない人間は、えんえん答えのない設問を考え続けるとか、馬鹿な事をしたりするわけです。
そういうアホな事はやめなさいっちゅうの。
わからんもんは、わからん。
それはしゃーない。日本人やねんもん。
そのあたりを実感もって学習したいのなら、もう、人の波の中に入って行くしかないわけですわ、日本ではね。
でも、それはあくまで継続的な人間関係を築けていなければ、倫理観の学習にまでは到達できないわけですよね?
だから派遣の仕組みってのはダメって事になる。特に日雇い派遣なんて最低です。
僕も自宅で仕事をしてた時は、人との接触が少なくて良くなかったですね。いまは事務所を持って毎日事務所に通ってるので、それだけでも視野が広がります。けっこう、かなり重要ですわ、やはり日本人には。
単純に地下鉄で、たくさんの社会人が動いて仕事をしてるんだなぁと毎日見てるだけでも、意味がありますから。
そう思う。
ともあれ、アキバの事件は、そういう日本の倫理観の崩れ方を象徴しているよなぁと寒い思いで一杯なのであります。
怖いというか、気持ち悪い。
なんでかというと、特段の「こだわり」みたいなのを感じられないからなんです。どうにも。
たとえば死刑になった宮崎勤は幼女殺人でしょ? 幼女にこだわってた。酒鬼薔薇も強い異常性を感じた。宅間ってのもいたけど、あれも小学校を狙った。弱いものいじめ。オウムだと地下鉄で社会全体に対する反抗だし、その他のテロなら権力機構に対して攻撃します。そういう政治性もないわけですよ。社会性自体がもともとない感じがする。
なんせ、アキバですから。なんでアキバなんだろう?
アキバに犯人の派遣仕事を斡旋した会社があったから、そこに向かう途中だったという話もあるにはあるんですが、でも実際に殺人を開始したのはアキバのホコテンですからな。
どう考えても「たまたま自分の知っている場所で人の多いところ」で犯行に及んだという感じしかしない。
なんだこれ? そんなことで殺人とかできるのか?
って感じ。
殺し方にしても、特殊なガスを作るとか、体を切り刻んでとか、子供ばかりを選んで、というような「異常性」があまりなくて「車で突っ込んだら、人は死ぬよな」「ナイフで刺せば人は死ぬよな」という、身近にあるものを使ってみました的な緩さ。
なんだこれ? あまりに殺人と現実の間の壁が低すぎないか? って事なんですね。
そういうところがものすごく気持ち悪い。
言い方は悪いけど「ちょっと人でも殺してみましょうか」という感じでやってるような気がする。
まだ、宮崎や酒鬼薔薇、宅間、オウムのような「異常性」のある方が「異常者ってのはいてるよな」という線引きができただけマシだったように思うのです。
なんか、今回のはそういうのとは違う。普通の奴を社会が殺人鬼にしちゃったみたいな気持ち悪さが感じられるのですよ。
前から書いてるけど、もともと日本は敬典宗教じゃないので、倫理の基準値ってのがないわけです。人と人が顔を合わせて、日々お互いの気持ちを察しながら、村社会を演じてないと倫理観自体が育たないという弱点がある。
その「教典」とも言うべき、村社会としての企業という仕組みを、ぶっ潰してしまったのが派遣の仕組みで、そういう事の積み重ねが、結果としてこういう事件を産んだのではないか? という気がしてならないわけですよ。
日本人の多くがわかってないので、あらためて書いておきますが、「なぜ人を殺してはいけないのか」は、一神教で教典のある宗教が支配的な文化圏では、ただ一言、
●教典にそう書いてあるから。
という理由で殺さないのです。
ものすごく単純に感じる人も多いでしょうが、とどのつまりは、一言で言うならそういう事なんです。
教典に書いてあるから殺さないんです。
そういうものなんです。
で、通常、教典を敬うことで成立する宗教文化を持つ地域では、法律よりも、はるかに教典のほうが重要なわけですね。
もう、理屈ではなく、無意識のレベルに刷り込まれてる訳です。
新聞の見出しも、教典の言葉をもじったものになっていたり、教典の文言を引用して説教するなんてのも、ごく普通です。
でも、日本にはそういうものはありません。倫理観を養うとしたら、家庭で親から学ぶか、社会に出て会社から学ぶかくらいしかありません。本当は学校で教えた方が良いのですが、「戦前の教育に戻すつもりか!」とヒステリックに排除する文化が長年支配的だったがゆえに道徳的な授業というのが、もう全然なくなってしまってます。
わずかに、昔からの、じいさんばぁさんから受け継いできた教えを、年寄りが持っていて、それを受け渡す場所として仕事場があったのに、それすら派遣の仕組みで、教えを手渡す場所ではなくしてしまったんですね、日本人は。
なんかね、そういう結果の積み重ねだよなって思うのです。今回のこの事件は。
ものすごく薄ら寒い。
教育勅語が良いとは言わないけど、何かそういう、心を鍛えるような仕組みが社会の中にしっかりとあれば、こういう日常と人殺しの壁が薄くなってしまったような気持ちの悪い事件は、防げたはずだよなって思うのです。
一神教が支配的な文化圏では、経典に書いてあるから人殺しをしない、と書きましたが、これまた「異教徒は殺して良い」とするのが教典の世界です。つまりもともと、基準は不明確で、不明確だからこそ、簡単に人間は殺人に走ってしまう、という事でもあります。
そこがはっきりしてるから、書物が発明されたときに、人間の英知として、倫理観を記述した、「見える化」して忘れないようにした、という事なわけでしょう。
で、効果が高かったからこそ「聖書は世界でもっとも多くの部数を誇る書籍である」という事態にもなったんだって事ですね。
人間は忘れる動物なんですよ。
だから教典を繰り返し見るか、そうでなかったら、教えを具体的に実践している人の横にいて、それを体得するか、どっちかしかないわけです。正しい倫理観を身につけるには。
だから、経典のない日本において、人と接するという側面が損なわれたら、その段階で大きく倫理観は壊れやすいわけです。
だから派遣の仕組みはかなりまずい。聖書のある文化圏なら、それでもいいんだろうけど、日本じゃまずいよなぁって思う。
でも、このあたりの本質がわかってない人の方が多いのが、日本人でもありまして、「人を殺してはいけないのは何故?」と聞くと、「え? あ、えーと…。」と「考え」はじめたりするんです。
考えるなって。そんな事、本当はものすごく難しくてわからないのが当たり前なんだって。
ただ、何百年、何千年の歴史の中で、「やっぱり良くない」と人生をかけて体感してきた事が文化として残り、それが書物や宗教の形で継承されたから、素直にそれを継承し続けてるだけの話だってことです。
だから、普通の人間が普通に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われたら「教典に書いてあるから」と、何も考えなくても、スッと言うような社会状況を作るしかないって事なんですね。
クローンの問題とか、生命を扱う問題を、だから日本人が個人的に考えても絶対に答えなんか出ないわけですよ。考えるだけムダ。意味がない。
まぁ、それでも欧米では教典がしっかり存在してるから、「このことは神との関係をどう解釈すればいいのか」っていう個別問題がどうしても出てきて、それが政治的課題にまで、すぐに昇格してしまうから、日本でも同様の事を考えなくてはならなくなるわけですが、日本には教典自体がないんやから、考えようにも考えるための基準探しからしないといけないわけで、とんでもなく大変なわけですよ。
クローン問題にしても、膨大な症例を世界中から集めるとかするしかないだろうし。
命の問題を考えるって事自体が、そう簡単ではない。
でも、一神教の文化圏の人間が、なぜ人を殺してはいけないかの理由を「教典にそう書いてあるから」という、実に単純な原理で判定しているだけなのだ、というシンプルさをわかってない人間は、えんえん答えのない設問を考え続けるとか、馬鹿な事をしたりするわけです。
そういうアホな事はやめなさいっちゅうの。
わからんもんは、わからん。
それはしゃーない。日本人やねんもん。
そのあたりを実感もって学習したいのなら、もう、人の波の中に入って行くしかないわけですわ、日本ではね。
でも、それはあくまで継続的な人間関係を築けていなければ、倫理観の学習にまでは到達できないわけですよね?
だから派遣の仕組みってのはダメって事になる。特に日雇い派遣なんて最低です。
僕も自宅で仕事をしてた時は、人との接触が少なくて良くなかったですね。いまは事務所を持って毎日事務所に通ってるので、それだけでも視野が広がります。けっこう、かなり重要ですわ、やはり日本人には。
単純に地下鉄で、たくさんの社会人が動いて仕事をしてるんだなぁと毎日見てるだけでも、意味がありますから。
そう思う。
ともあれ、アキバの事件は、そういう日本の倫理観の崩れ方を象徴しているよなぁと寒い思いで一杯なのであります。
コメント
この事件を起こした犯人って、あまりに普通の人なので私もとても驚きで
悲しいやら怖いやら複雑な気持ちになりました。
もとはといえばただ真面目で不器用な人だったのではないかと思わずにいられません。
収入が少ない上に、雇用状態も不安定なんて
いままで終身雇用が普通だった日本の人にとっては精神的にキツいと思うのです。
日雇い派遣は奴隷制度みたいだな・・・と思う事もあります。
そしておっしゃるように倫理観の問題も。
要は身も心も「よりどころ」がないんですよね、会社はあてにならないし、人間関係は希薄だし。
ひとつ軸になる考え方があるのと無いのでは大違いですよね。
これが間違った方向にいくとオウムにハマる心境に近くなるんだろうなぁ。
そうですね。日雇い派遣は本当にひどいと思います。まさに奴隷制度です。なんでこんな仕組みが定着してしまってるのか理解に苦しむんですよ。僕としては。
現場に感覚から言うと、アルバイトでもいいから「明日も来ると分っている人」がいてはじめて「ちょっと仕事を教えておけば、俺もラクになる。」というのがあるわけですよ。正社員の側が。つまり、明日も来るから自動的に教える気持ちが湧くわけです。
で、大事なのは、そこではじめて「教える側に回る」という体験を、正社員の側が身につけるわけです。正社員が育つ。
人が学ぶというのは、実は教える側にとっても同じなわけですね。そういう所から得られることはものすごく大きい。
だから、派遣とか日雇い派遣で仕事を回してる企業は、自社の社員を育てるチャンスを失ってるわけです。
人間が成長するのには時間がかかりますから、いまの瞬間では数字としては儲かってるように見えるけれど、「将来の人材育成」という面で損をしている。人材育成の投資を控えてしまってるのとまったく同じ事なわけです。
つまりバカってことです。
こういう当たり前の事がわかってないんですよね、最近の企業は。いまはいいけど将来に禍根を残してる。アホやなぁって思う。
そういう意味で、いまの世の中、本当に「よりどころ」を失ってると思いますね。
ただ、今回のアキバの犯人が「真面目で不器用だっただけ」かどうかはわからないんですけどね。もともとそういう内面の異常を抱えてた人かもしれない。そういう人はいてるみたいですから。
それでも、社会の側に何らかの予防装置があれば、そういう内面の異常を抱えてる人でも、ギリギリのところで踏みとどまれたのではないか? という気はします。
しかし、6月4日の日記で「学ばないから自殺に走る」と、若い人の精神の荒廃みたいなことの話をさんざん書いていたところで、まさに今回のアキバの事件みたいな事が起こって、嫌でも、そういう社会の問題点に目を向けざるを得なくなった感じがします。
自殺の流行とアキバの事件は根っこは同じだよなぁって思います。
しかしなんですね、たまにはこちらから「お散歩マンボ」の方にもお邪魔しないといけないですね。
ちょっと読ませていただくと、けっこう「そうだよなぁ」と思う事がいろいろありますし。
また伺います。
ではでは。