学ばないから自殺に走る。
2008年6月4日 読書 コメント (12)
6/4 夜:一部修正しました。
----------------------------------
昨日、書店で齋藤孝の新著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」というのが出てたので買ったのです。
なぜ日本人は学ばなくなったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062879433/503-1393334-5299133
まだ、30頁くらいしか読んでないけど、まさに我が意を得たり、という感じ。
見事です。
前書きから引用します。
(引用開始)--------------------
(略)現在「勤勉なる日本人」は、神話と化した。実態は「学び嫌いの日本人」である。「バカ」という言葉は品がないのであまり使いたくはないが、そうとでも表現するしかない事態が日本を浸食している。
私の言う「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受け身の快楽にふけるあり方」のことだ。
(略)
いくらでも学ぶ道があるのに、ゲームや友人同士のメールに時間を湯水のように注ぎ込んで疑いを持たない、そんなあり方を、私はどうしても看過できない。
(引用終了)----------------------------
という時代認識が、まずとても共感できます。日々、強い焦りを感じるほどにジリジリと感じている事を見事に言い表してくれてるなぁって思います。
ひとりやふたりの事ではないのです。日本人全体がそういう「気分」になっている。そこが問題だと思う。
で、「そうだよ!その通りだよ!」と思ったのが、続いての一節。
(引用開始)-----------------------------
なぜなら、学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心を持たない人間は、自分を明日を今日よりも良い日だと信じる事ができない。
(引用終了)-----------------------------
Yes! その通り! まさに私は、これを言いたい!
明日を希望で一杯にするためには、まず自分が学ぶことなのだ、という当たり前の前提を忘れてやしまへんか? おっさん! ニイチャン! ギャルども!
とまぁ思うわけだ。
このところ自殺が「流行って」いて、(こんなものが「流行る」という事自体がおかしい。そのおかしさに気付けよ! 日本人!全員正座! 内観せよ!いますぐ! 仕事も食事もゲームもケータイもやめて、すぐ正座して内観せい! 自分をみつめて、自分と語り合えっちゅうねん。)ワイワイ騒がれてますが、一番の根幹は「みなが学ぶ意欲をもたなくなった」のが大きな原因なんですよ。はっきりと!
もうちょっと齋藤さんの前書きの続きを引用します。
(引用開始)-------------------------------
ゲームやバラエティ番組が「生きる力」を与えてくれるわけではない。生命力は、努力して磨き、身につけた技によって、現実を生き抜く力となる。
(引用終了)-------------------------------
これです、これ。
自分磨き、自分育て。学習。
これ以外に先の見えない明日に対する適切な処方はないんです。明日を的確に生きるには、キチンと自分育てをすることなんです。
ここには、付け加えて、アップル・フェローとしても名高いアラン・ケイの「もっとも的確な未来予想は、その未来を自ら発明することである」という名言も加えておきたいんですが。(言い回しは間違ってるかも、です。)自分で作る未来が、一番的確なのですよ。
ではなぜ、こういう状態になったのか? という原因を、齋藤さんは、こう理由づける。
(引用開始)-------------------------------
(略)私の端的な回答は「リスペクト」という心の習慣を失ったからだ、ということです。
かつての日本人には何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が、ごく自然に身に付いていました。
(略)
たとえば、孔子の『論語』(講談社学術文庫)を学ぶとき、まず「子、のたまはく」の一言が出てきます。要するに「先生がおっしゃるには」と孔子への敬意を込め、だからこそ身につける価値があるという意味も含めているわけです。
(引用終了)-------------------------------
となります。
リスペクト。
つまり尊敬ですね。
あこがれ、という言葉も齋藤さんはよく使うけれど、それも大事。
尊敬とあこがれがあってはじめて、「そこへ私も行きたい」となるわけです。で、この「そこへ行きたい」という気持ちこそが、学ぶ意欲であって、明日への投資であり、明日への希望となるものなのです。
心に、あこがれの灯をともせ、という事ですね。
ああいう素晴らしい人、碩学たる人物、良き人になりたいと思う心のベクトルみたいなものが人間が充実した生を生きるには必要なのだと思います。
このあこがれや尊敬の心を齋藤さんは「垂直の関係」と捉えてます。自分より大きなものに敬意を払う、という態度ですね。そこに向かって自分を作っていく関係。下から上に向かっていく、あるいは、あこがれる人の大きさと自分の内面の精神的未熟さを比較して自分の至らなさに思い至るという関係。これを垂直軸でとらえておられます。
で、いまという時代は、「ひたすら水平的に、何かいいものはないか、おもしろいものはないかと探し回っているだけ」と見破っておられる。
こういう水平的なさまよい状態を、「最近の世の中はこれを『自分探し』と称しているが…」と批判的な視点で見ておられます。
そりゃそうだよなぁって思うんですよ。垂直の関係を意識していなかったら、自分の「伸び」が感じられないんですよね。水平だけでは、何年たとうが、何十年たとうが、同じ事なんです。
垂直の関係、あこがれと尊敬があってはじめて、空間軸によるさまよいではなく、時間軸による「成長」という希望を得る事ができるわけです。
これがね、明日に期待を持てずに自殺する人の根源的な不幸なんだと思う。この垂直軸を、どういうわけか80年代以降、日本人は失ってしまったと齋藤さんはおっしゃるわけです。そうだよなぁ、まさにその通りだ! って思う。いまの若い人なんかは特にそういう垂直軸のない時代の被害者になってしまってるよなぁって思うんですよ。
テレビとネットというのが、こういう「水平志向」に輪をかけていると、齋藤さんはおっしゃる。テレビに学者が出た時に、とにかく良いことや正論を言ってもカットされ、失敗したり失言した部分ばかりが使われる、権威を引きずり下ろして、「みんながフラット」になるようにばかりしている、「フラット化が加速している」と言われるわけです。
「フラット化」! 実に言い得ていると思う。
いまの時代、こればっかり。
ひたすらひきずりおろして、「わしと同じ人間じゃろが」と言って、勉強しない方になじませようとする。
アホか。
知ったことか。
そんな事してたら、最後には自殺するくらいしか道がなくなるわい!って思うんですよね。
二三日前に、築山節さんの「脳と気持ちの整理術」という本も読んだのですが、
脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/249-9767057-8485143
これもなかなか良いことが色々書いてあって、その中で「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話があって、結果的にどんどん脳の能力が下がっていってしまう話が書いてあったのですよ。
まさにこれ!
世の中がフラット化していくと、回りを自分と同じ「低さ」に合わせさせようと、「引きずり下ろし」作業がはじまる。
で、フラット同士の間では「相対的上下感覚」はないことになるし、マヒしてしまうので、全体を見渡した時には、レベルがドンドン、ガンガンに下がって行ってるのに、「フラット化された社会の住人」は全然気付かない、というような状況になる。
こんな恐ろしい事はないですよ。
こういう社会状況が、嫌で嫌で仕方ない。
助けてくれ!と叫びたくなってしまうんですね。
で、本を読め! とやたらと言ってるわけですが、実は出版界はものすごい不況です。売れてるのはコミックスとジュニア小説とかそういうのだけで、そのコミックスですら売り上げにかげりが出てきてる。ようはみんな本も読まなくなってるんです。
で、そういう事とはまったく別に、世の「フラット化」とは全然関係なく、「私は私」とキチンと勉強しまくるような一派というかグループもどんどん出てきてるわけですね。
そういう人は逆に「月50冊読んでます」とかなわけです。速読の技術をキチンと身につけて。
この極端な差!
なんなんだ、これは。
やっぱりね、せめて「尊敬とあこがれ」の気持ちくらいは、日本人の重要な文化として維持しないとイカンよなぁって思うんです。
思うんですが、昔のように簡単には「尊敬の心」が育みにくくなってるんですね。
なんでかというと、学校の教師の質が下がった。学校の教師自ら「フラット化」の手先だったりするくらいですから。ゆとり教育なんて、その代表例だよなぁって思う。(本来の意味はちょっと違ってたようなんですが、とどのつまり運用側である学校&親の環境に本来的あり方を問う能力がなかったってことでしょうけど。)
ゆとり教育なんかやってしまって、結果として残ったのは「勉強なんかしなくてもいいんだよ。お前がお前でありさえすれば。」という存在を認めるという部分だけ。
いや、それはそれで大事なんだけどね。でも勉強もしなくちゃダメなんだよ、それは。明日のために。時間軸のために。
そうしないでズブズブやってきたから、「自殺が流行る」という、このどうしようもないグズグズの日本に成り下がってしまったんじゃないか。
そういう社会状況の悪影響を受けて、本すら読まずに、テレビばっかり見て、ゲームで貴重な時間を超浪費して、ケータイの通話量を減らすことも考えずに値段が高いと文句を垂れるような人種がすごく増えた。
で、そういう人間に限って「リスペクト」の大切さを理解していない。
たとえば、僕の知ってる人間などでは、読んでもいない本の著者を「トンデモ本」作者扱いした発言をして、自分の無知と努力不足を直視しないようにするという情けない行為・発言をしてたりするわけです。
まぁ当人は自分の弱いところを見ずに済んで、「ああ良かった」かも知れないですけどな。私ゃ、尊敬し、リスペクトしている著者をトンデモ扱いされて腹が立つこと、この上ない。
こんな奴、まさに社会の自殺の原因を作ってるような許されざる人間だから、横っ面はり倒して、けり倒して、ボコスコに殴り倒してやりたいくらいに立腹してるわけですが、この立腹の感情的構造を理解することすらできないわけですよ、勉強しない人間には。理解する能力自体がない。
「バカな事を言うな」と言っても、こっちが怒ってる原因、その重さ、自体を推し量れないわけです。能力がない。
怒るだけ損って事なわけですよ。これは。
で、いまの社会、そこまで「フラット化」が当たり前になってるわけです。権威というものが権威であるというだけで否定されるんですね。
違うっちゅうに。
権威は真に素晴らしい権威は、知やノウハウなどを学ぶのにも効率的で、素晴らしいものなのです。尊敬やあこがれは絶対に重要なことなのです。
で、その過程でどうしても形だけの「権威」っていうのも出てくるけど、これもある程度はしょうがない。
で、一番重要な事は真に意味ある権威を守る事だから、まったく中身のない権威は、絶対に、どうあっても引きずりおろさないと行けないって事なのです。
だから、その権威の中身があるかないかを判定する能力を、「下」の側が見る目を養っておかなければいけないってことなんですよ。
本物の実力があるかどうかをしっかり見極める目を持たなくてはいけない。その判定力を身につけるために、人との関係などの倫理観をはじめ、さまざまな視点を身につけていかなければならないって事なのです。それが学習です。
だから勉強は日本人全員に必須なわけです。(欧米なら倫理観は聖書などに書かれてますから、読むのは一冊で済みますが、日本にはそんなものはないので、いろいろ読むしかありません。)
つまり「権威の善し悪し」を判定する能力自体が、バカには備わっていないって事なわけです。
だから、なんでもかんでも引きずりおろそうとするんですね。なんでもフラット化。クソもミソもいっしょか! おまえら、ウンコで作ったミソラーメンでも食っとけ! という話です。
これが、自然発生的に生まれた状況なら仕方ないのですが、先日も
派遣業者など「人買い」である。
http://diarynote.jp/d/12917/20080526.html
で書いたように、政府と企業が結託して、「低賃金労働者層」という「アホ」を計画的に再生産して、日本をどんどんダメ化している、というのがいまの日本の現実なわけですよ。
こういうウソを見破る事こそが、学習する意味なんです。
見破れないままだと、ダマされるだけです。それはやっぱりどうしたって「アホ」「バカ」でしかないのです。
どうすんねん、そんなにアホばっかり再生産して。アホが「マトモ」をアホの側に引きずり降ろして、意味があるんか?
ええ?
自分の味方になるような、本物の権威、優れた人物まで、「フラット化」して、お前に得はあるのか?
ただ、さまよう「自分探し」や、薄ら寒い消費文化に流されるだけやないか!
何で、そこまでお前らのカスみたいな低レベル化に合わせなアカンねん。嫌なこった。と思うばかりでねぇ。勉強せいよ、勉強!って思う。
ほんまにね、一人でも多く、勉強する人が増えて欲しいと思います。それも緊急に、です。
って、愚痴ばっかり言っててもしょーがないので、僕的にはこうした発言等も含めて、ネットとかも活用しながら、勉強会とか、そういうのを、出来る範囲で作っていこうかなぁといろいろ考えておるのであります。
ここで書いた書評とかも、ある程度まとめてホームページ化しようかなぁとか、いろいろ考えておるのであります。
まず自ら動かないとダメですよね。
文句ばっかり言っててもダメ。
勉強しないと、素晴らしい先達のご著書ですら「トンデモ本」としか思えないという白痴状態にしかなれませんから。判定能力自体が失われるわけですから。こんな薄ら寒いことはありませんぜ。
齋藤さんの、この本の感想は、また改めて書きますけど、ともあれ、最近、強く強く感じていた事を、見事に言い当ててくれてる文章を読んだので、うれしくて書いてしまいました。
ま、そんな事で。
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昨日、書店で齋藤孝の新著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」というのが出てたので買ったのです。
なぜ日本人は学ばなくなったのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062879433/503-1393334-5299133
まだ、30頁くらいしか読んでないけど、まさに我が意を得たり、という感じ。
見事です。
前書きから引用します。
(引用開始)--------------------
(略)現在「勤勉なる日本人」は、神話と化した。実態は「学び嫌いの日本人」である。「バカ」という言葉は品がないのであまり使いたくはないが、そうとでも表現するしかない事態が日本を浸食している。
私の言う「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受け身の快楽にふけるあり方」のことだ。
(略)
いくらでも学ぶ道があるのに、ゲームや友人同士のメールに時間を湯水のように注ぎ込んで疑いを持たない、そんなあり方を、私はどうしても看過できない。
(引用終了)----------------------------
という時代認識が、まずとても共感できます。日々、強い焦りを感じるほどにジリジリと感じている事を見事に言い表してくれてるなぁって思います。
ひとりやふたりの事ではないのです。日本人全体がそういう「気分」になっている。そこが問題だと思う。
で、「そうだよ!その通りだよ!」と思ったのが、続いての一節。
(引用開始)-----------------------------
なぜなら、学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心を持たない人間は、自分を明日を今日よりも良い日だと信じる事ができない。
(引用終了)-----------------------------
Yes! その通り! まさに私は、これを言いたい!
明日を希望で一杯にするためには、まず自分が学ぶことなのだ、という当たり前の前提を忘れてやしまへんか? おっさん! ニイチャン! ギャルども!
とまぁ思うわけだ。
このところ自殺が「流行って」いて、(こんなものが「流行る」という事自体がおかしい。そのおかしさに気付けよ! 日本人!全員正座! 内観せよ!いますぐ! 仕事も食事もゲームもケータイもやめて、すぐ正座して内観せい! 自分をみつめて、自分と語り合えっちゅうねん。)ワイワイ騒がれてますが、一番の根幹は「みなが学ぶ意欲をもたなくなった」のが大きな原因なんですよ。はっきりと!
もうちょっと齋藤さんの前書きの続きを引用します。
(引用開始)-------------------------------
ゲームやバラエティ番組が「生きる力」を与えてくれるわけではない。生命力は、努力して磨き、身につけた技によって、現実を生き抜く力となる。
(引用終了)-------------------------------
これです、これ。
自分磨き、自分育て。学習。
これ以外に先の見えない明日に対する適切な処方はないんです。明日を的確に生きるには、キチンと自分育てをすることなんです。
ここには、付け加えて、アップル・フェローとしても名高いアラン・ケイの「もっとも的確な未来予想は、その未来を自ら発明することである」という名言も加えておきたいんですが。(言い回しは間違ってるかも、です。)自分で作る未来が、一番的確なのですよ。
ではなぜ、こういう状態になったのか? という原因を、齋藤さんは、こう理由づける。
(引用開始)-------------------------------
(略)私の端的な回答は「リスペクト」という心の習慣を失ったからだ、ということです。
かつての日本人には何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が、ごく自然に身に付いていました。
(略)
たとえば、孔子の『論語』(講談社学術文庫)を学ぶとき、まず「子、のたまはく」の一言が出てきます。要するに「先生がおっしゃるには」と孔子への敬意を込め、だからこそ身につける価値があるという意味も含めているわけです。
(引用終了)-------------------------------
となります。
リスペクト。
つまり尊敬ですね。
あこがれ、という言葉も齋藤さんはよく使うけれど、それも大事。
尊敬とあこがれがあってはじめて、「そこへ私も行きたい」となるわけです。で、この「そこへ行きたい」という気持ちこそが、学ぶ意欲であって、明日への投資であり、明日への希望となるものなのです。
心に、あこがれの灯をともせ、という事ですね。
ああいう素晴らしい人、碩学たる人物、良き人になりたいと思う心のベクトルみたいなものが人間が充実した生を生きるには必要なのだと思います。
このあこがれや尊敬の心を齋藤さんは「垂直の関係」と捉えてます。自分より大きなものに敬意を払う、という態度ですね。そこに向かって自分を作っていく関係。下から上に向かっていく、あるいは、あこがれる人の大きさと自分の内面の精神的未熟さを比較して自分の至らなさに思い至るという関係。これを垂直軸でとらえておられます。
で、いまという時代は、「ひたすら水平的に、何かいいものはないか、おもしろいものはないかと探し回っているだけ」と見破っておられる。
こういう水平的なさまよい状態を、「最近の世の中はこれを『自分探し』と称しているが…」と批判的な視点で見ておられます。
そりゃそうだよなぁって思うんですよ。垂直の関係を意識していなかったら、自分の「伸び」が感じられないんですよね。水平だけでは、何年たとうが、何十年たとうが、同じ事なんです。
垂直の関係、あこがれと尊敬があってはじめて、空間軸によるさまよいではなく、時間軸による「成長」という希望を得る事ができるわけです。
これがね、明日に期待を持てずに自殺する人の根源的な不幸なんだと思う。この垂直軸を、どういうわけか80年代以降、日本人は失ってしまったと齋藤さんはおっしゃるわけです。そうだよなぁ、まさにその通りだ! って思う。いまの若い人なんかは特にそういう垂直軸のない時代の被害者になってしまってるよなぁって思うんですよ。
テレビとネットというのが、こういう「水平志向」に輪をかけていると、齋藤さんはおっしゃる。テレビに学者が出た時に、とにかく良いことや正論を言ってもカットされ、失敗したり失言した部分ばかりが使われる、権威を引きずり下ろして、「みんながフラット」になるようにばかりしている、「フラット化が加速している」と言われるわけです。
「フラット化」! 実に言い得ていると思う。
いまの時代、こればっかり。
ひたすらひきずりおろして、「わしと同じ人間じゃろが」と言って、勉強しない方になじませようとする。
アホか。
知ったことか。
そんな事してたら、最後には自殺するくらいしか道がなくなるわい!って思うんですよね。
二三日前に、築山節さんの「脳と気持ちの整理術」という本も読んだのですが、
脳と気持ちの整理術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882506/249-9767057-8485143
これもなかなか良いことが色々書いてあって、その中で「脳はもともと『省力化』に向かうようにできている」から「ラクな事だけやっていると、そのラクな事の中から嫌な事を発見して、それすらしなくなっていく」と言う話があって、結果的にどんどん脳の能力が下がっていってしまう話が書いてあったのですよ。
まさにこれ!
世の中がフラット化していくと、回りを自分と同じ「低さ」に合わせさせようと、「引きずり下ろし」作業がはじまる。
で、フラット同士の間では「相対的上下感覚」はないことになるし、マヒしてしまうので、全体を見渡した時には、レベルがドンドン、ガンガンに下がって行ってるのに、「フラット化された社会の住人」は全然気付かない、というような状況になる。
こんな恐ろしい事はないですよ。
こういう社会状況が、嫌で嫌で仕方ない。
助けてくれ!と叫びたくなってしまうんですね。
で、本を読め! とやたらと言ってるわけですが、実は出版界はものすごい不況です。売れてるのはコミックスとジュニア小説とかそういうのだけで、そのコミックスですら売り上げにかげりが出てきてる。ようはみんな本も読まなくなってるんです。
で、そういう事とはまったく別に、世の「フラット化」とは全然関係なく、「私は私」とキチンと勉強しまくるような一派というかグループもどんどん出てきてるわけですね。
そういう人は逆に「月50冊読んでます」とかなわけです。速読の技術をキチンと身につけて。
この極端な差!
なんなんだ、これは。
やっぱりね、せめて「尊敬とあこがれ」の気持ちくらいは、日本人の重要な文化として維持しないとイカンよなぁって思うんです。
思うんですが、昔のように簡単には「尊敬の心」が育みにくくなってるんですね。
なんでかというと、学校の教師の質が下がった。学校の教師自ら「フラット化」の手先だったりするくらいですから。ゆとり教育なんて、その代表例だよなぁって思う。(本来の意味はちょっと違ってたようなんですが、とどのつまり運用側である学校&親の環境に本来的あり方を問う能力がなかったってことでしょうけど。)
ゆとり教育なんかやってしまって、結果として残ったのは「勉強なんかしなくてもいいんだよ。お前がお前でありさえすれば。」という存在を認めるという部分だけ。
いや、それはそれで大事なんだけどね。でも勉強もしなくちゃダメなんだよ、それは。明日のために。時間軸のために。
そうしないでズブズブやってきたから、「自殺が流行る」という、このどうしようもないグズグズの日本に成り下がってしまったんじゃないか。
そういう社会状況の悪影響を受けて、本すら読まずに、テレビばっかり見て、ゲームで貴重な時間を超浪費して、ケータイの通話量を減らすことも考えずに値段が高いと文句を垂れるような人種がすごく増えた。
で、そういう人間に限って「リスペクト」の大切さを理解していない。
たとえば、僕の知ってる人間などでは、読んでもいない本の著者を「トンデモ本」作者扱いした発言をして、自分の無知と努力不足を直視しないようにするという情けない行為・発言をしてたりするわけです。
まぁ当人は自分の弱いところを見ずに済んで、「ああ良かった」かも知れないですけどな。私ゃ、尊敬し、リスペクトしている著者をトンデモ扱いされて腹が立つこと、この上ない。
こんな奴、まさに社会の自殺の原因を作ってるような許されざる人間だから、横っ面はり倒して、けり倒して、ボコスコに殴り倒してやりたいくらいに立腹してるわけですが、この立腹の感情的構造を理解することすらできないわけですよ、勉強しない人間には。理解する能力自体がない。
「バカな事を言うな」と言っても、こっちが怒ってる原因、その重さ、自体を推し量れないわけです。能力がない。
怒るだけ損って事なわけですよ。これは。
で、いまの社会、そこまで「フラット化」が当たり前になってるわけです。権威というものが権威であるというだけで否定されるんですね。
違うっちゅうに。
権威は真に素晴らしい権威は、知やノウハウなどを学ぶのにも効率的で、素晴らしいものなのです。尊敬やあこがれは絶対に重要なことなのです。
で、その過程でどうしても形だけの「権威」っていうのも出てくるけど、これもある程度はしょうがない。
で、一番重要な事は真に意味ある権威を守る事だから、まったく中身のない権威は、絶対に、どうあっても引きずりおろさないと行けないって事なのです。
だから、その権威の中身があるかないかを判定する能力を、「下」の側が見る目を養っておかなければいけないってことなんですよ。
本物の実力があるかどうかをしっかり見極める目を持たなくてはいけない。その判定力を身につけるために、人との関係などの倫理観をはじめ、さまざまな視点を身につけていかなければならないって事なのです。それが学習です。
だから勉強は日本人全員に必須なわけです。(欧米なら倫理観は聖書などに書かれてますから、読むのは一冊で済みますが、日本にはそんなものはないので、いろいろ読むしかありません。)
つまり「権威の善し悪し」を判定する能力自体が、バカには備わっていないって事なわけです。
だから、なんでもかんでも引きずりおろそうとするんですね。なんでもフラット化。クソもミソもいっしょか! おまえら、ウンコで作ったミソラーメンでも食っとけ! という話です。
これが、自然発生的に生まれた状況なら仕方ないのですが、先日も
派遣業者など「人買い」である。
http://diarynote.jp/d/12917/20080526.html
で書いたように、政府と企業が結託して、「低賃金労働者層」という「アホ」を計画的に再生産して、日本をどんどんダメ化している、というのがいまの日本の現実なわけですよ。
こういうウソを見破る事こそが、学習する意味なんです。
見破れないままだと、ダマされるだけです。それはやっぱりどうしたって「アホ」「バカ」でしかないのです。
どうすんねん、そんなにアホばっかり再生産して。アホが「マトモ」をアホの側に引きずり降ろして、意味があるんか?
ええ?
自分の味方になるような、本物の権威、優れた人物まで、「フラット化」して、お前に得はあるのか?
ただ、さまよう「自分探し」や、薄ら寒い消費文化に流されるだけやないか!
何で、そこまでお前らのカスみたいな低レベル化に合わせなアカンねん。嫌なこった。と思うばかりでねぇ。勉強せいよ、勉強!って思う。
ほんまにね、一人でも多く、勉強する人が増えて欲しいと思います。それも緊急に、です。
って、愚痴ばっかり言っててもしょーがないので、僕的にはこうした発言等も含めて、ネットとかも活用しながら、勉強会とか、そういうのを、出来る範囲で作っていこうかなぁといろいろ考えておるのであります。
ここで書いた書評とかも、ある程度まとめてホームページ化しようかなぁとか、いろいろ考えておるのであります。
まず自ら動かないとダメですよね。
文句ばっかり言っててもダメ。
勉強しないと、素晴らしい先達のご著書ですら「トンデモ本」としか思えないという白痴状態にしかなれませんから。判定能力自体が失われるわけですから。こんな薄ら寒いことはありませんぜ。
齋藤さんの、この本の感想は、また改めて書きますけど、ともあれ、最近、強く強く感じていた事を、見事に言い当ててくれてる文章を読んだので、うれしくて書いてしまいました。
ま、そんな事で。
コメント
これは数年前に考えてたことなんですけど、どうしてフラット化したのかということをここではまるでみんな意欲がなくなったから、見たいなことを言っているんですよね。
これって「昔はよかった」の1バージョンではないかと。
昔はよくなんかなかったんですよ。村上龍とかもよく言うけど(今もいってんのかしらないけど)昔はまずしかったから物質的な向上とか、大学いくとかこういう超フラット化十羽一からげ(ていうの?)したこと書いている本読んでいるだけでよかったんだけど、今はちがうんですよ。
ガキガキと馬鹿にしている10歳以下の子達の話を聞いてても、20歳年上の話を聞いてても話しかわんないんですよ。そのくらい今の若い子達の危機はすごい。ばばあじじいはいいっすよ、もうすぐ引退だから。今の時代で20代ってぜんぜん先が見えない。どこにいっていいのか解らない。幻想すらない。
取り合えず・・・iPODとかになっちゃうんですよ。とりあえず・・・DVD借りるとか。ほかにどうしていいのかわかんないもん。こういう超フラット化したこと書いている人にじゃあ本よみゃいいのかよ?と詰め寄るとこの人はこの人でその日の飯食うために適当なこと書いている。
そういうの、子供達見抜いていますからね。
大人みたいにばかじゃない。
私達くらいはまだメディアに洗脳とかされて育ってて、メディアに作られた「夢」とか持ってますから、まだなんかそれでもっているとこあるけど、もっと若い子達はその裏とかまで見せられている部分もあってなんか必死に大人も子供ももう見れない夢を見ている。
そんな感じがほんとのとこだと思いますけど。
ええっとね、「昔はよかった」は、この際関係ないんですよ。村上龍が言ってるのもあくまで物質的なことでしょ? そら確かに昔の方が物質的には貧しくて、いまの方が豊かですけどね。
ただ、「変わらない事」「変えてはいけないもの」まで不確かになってしまってるのが問題なのです。
kaichuさんはアメリカにいてるから、ちょっと日本の雰囲気が見えにくいのかも知れないけど、硫化水素自殺が流行って若い人がどんどん死んで、AV女優がまた、それで死んで、それとは別に美人アナウンサーが練炭自殺してって言うのが続いてるんですよ。
で、この書き込みの足跡とかみても、いつもと違う人が覗きにきてたりするわけです。タイトルがタイトルだから見に来たのかもなぁって思う。
進歩、進歩でなんでもかんでも変わりすぎちゃってるんですよね、いまのニッポンでは。
派遣のあり方とかでも、欧米みたいに移民してきたばっかりで、言葉もろくに話せないから、とりあえず働く場所が必要というような人には低賃金でてっとりばやく稼げる仕事が必要なのかも、だけど、移民自体を受け入れてもいないニッポンでは、欧米のそういう雇用形態をそのまま取り入れたら、単に労働者いじめにしかならないわけですよ。
そういうとんでもない「変化」が、この10年くらいで起きちゃった。小泉クンが悪いんだけど。
それでいまニッポンはかなり息苦しい社会になっちゃってるんです。
で、おそろしいことに、そういう具合に悪くなっちゃったよなぁ、という事をわかってない人もまた多くいてるわけ。変えてしまってはいけない事を変えるのが進歩だと思ってるバカも多いですからね。
で、若い人に至っては、キチンと労働者が保護されていた時代を知らない人も多い。
で、両方を知ってる人間から言わせてもらえば、あきらかに今の方がヒドイわけですよ。雇用状態が無茶苦茶です。人間の使い捨て状態になってしまってる。
そら自殺したくもなるよなぁって事。
そういう人間使い捨て企業なんかが、完全に見落としてるのが、人間が学んで成長していくっていう当たり前の部分なわけです。人間から「労働力」だけを取り出して、それだけを使おうと考えてるバカな大企業の経営者がいたりするって事です。
たとえば、学習という事で言うと、ビデオゲームの腕を上げるにはせいぜいひと月もあれば充分ですが、大学受験とかには年単位の学習が必要だし、腕のいい職人とかを育てるという話になれば10年という時間がどうしても必要なわけです。
だから、課題によって必要となる「時間」は異なってくるわけで、職人の世界の若手なら、20年以上も積み上げて技術を高めてきた人には、ちゃんと尊敬の念を持つはずだし、持たないと、自分ががんばれないって事です。
こういう事は変えようがないし、変わらないわけですよ。
で、こういう事以外で変更できるのは、せいぜい短期で身に付く事に関する価値観くらいなものなわけです。
で、この20年積み上げるような価値・学習って事は、若い人には想像できないんですね。でも、年食った人間ならできる。
積み上げてこなかった年寄りでも「ああ、若いうちから、キチンと積み上げて来てればなぁ…」という意味で「積み上げ」の重要さとかはわかるわけです。
だから、年食った人間は若い世代に「積み上げるのは大事だ!」と、ガツンと自信を持って言わないといけないし、言うのが当然なんですね。
「自殺を考える前に、目の前の事を10年続けたのかどうか考えてみろ!」と言わないといけない。
でも、それを自信を持って言えない年寄りが増えたって事です。それはいけない。
自信をもってガツンと言わないといけない。
10年かかる学習ってものもある。
だから、簡単に諦めて死ぬな。
ってことですよ。
ようは。
そういう意味では日本いいんですよ。確かに。まだ「育てる」とかいう概念が生き残ってる。ないもん、こっち。はぐくみ育てるとかいう概念ではなく、よくいや切磋琢磨、悪くいや叩き潰しあい。競争から落ちたら生き残る道はありますよ、低賃金だけど。派遣が人身販売なんて考え方は当然。だから私も日本にいたとき何社か人身販売会社からお誘い(売買する側の)をいただいたけど乗り気にはなれなかった。
まあいつかなることもあるかもしれませんけどね。
サバイバルのために他人を利用するということはある意味当然なんですよ、というかそういう人しか生き残れない?気がするアメリカは。
でも日本はまだそこまでいってないし、まだまだやさしい。でもだからこそひずみは大きいと思うんですよね。
同じ民族で同じように育ってきた人たちのなかで異様に内部の風景が違っちゃってて、まさにお互い言葉通じない世界になっている。異人同士だとあいつら違うからで片付けられるけど、一見同じというか違いがぱっと見わからないから余計みんな混乱しちゃうんじゃないかなとおもうんですよね。
しんじゃいけない。
それは基本。
今いる場所で生きていけないならばどこかを探さなくちゃいけないんです。どこでもいいから行ってみればいい。特に若い人たちは。
という意味では確かに学ばないと死んじゃうけど。
「よくいや切磋琢磨、悪くいや叩き潰しあい。」というのは、そうなんだろうなぁと想像がつきます。徹底した個人主義よね。
キリスト教とか一神教は基本的に人と人とのつながりはないもんな。神様とはつながってるけど。
平等と言っても、あくまで「神の前の平等」やからねぇ。
能力がない奴はそいつが悪いってなる。「神様はちゃんと体も頭もくださったんだろ。それを伸ばさないお前が悪い。」って感じよね。
その代わり、個人が「どこまでも行くぞ」とか、フロンティアスピリットとか、チャレンジし続けるぞ!みたいな馬力とかパワーはすごくて、そういうパワーに感化されるってところはあるんやろうねぇ。それがアメリカの良いところではあるでしょう。
日本は、派遣労働とかの仕組みだけ移植して、そういう「パワー」とか個人主義・民主主義の魂みたいなところは、さーっぱりわからないままになってるわけですよ。
だからどうなるかというと、ただ「蹴落とされる層」だけが新たに作られて、で、その「蹴落とされる層」にはアメリカみたいに「他の奴を蹴落としてでも俺は頑張るぞ」というチャレンジ精神はないわけよ。悲惨だと思いませんか?
昔ながらの日本的発想で、「みんなが蹴落とされてるからしょうがないよね」ってなってるわけ。
「俺だけは蹴落とされたままでは終わらないぞ」にならない。「みんな蹴落とされてるから大丈夫」とか思ってる。だから努力しない。
で、結果として、明日への希望が持てなくなって自殺というところまで行くしかなくなってるわけです。
こんな日本に向いてない仕組みを導入する方が間違ってるとは思うんだけど、それはそれで批判はしなくちゃいけないんだけど、とりあえずは日本の若い人には、「こんな仕組みが導入されちゃったんだから、徹底した個人主義で、とにかく自ら学ぶという意欲だけは、どうあってもかきたてなきゃ、自殺するくらいしか他に道がなくなっちゃうよ。」と言うしかない。仕組みを変更するにも、また何年もやっさもっさするだろうし。
本当に小泉改革ってのはクソだったよなぁって思う。
アメリカに行って、アメリカ人になるには一日でなれるけれど、フランス人になるには基礎教養を身につけなくてはなれないから簡単にはなれないって話があって、ようはそういう事なわけ。
敷居は低いけど、その分がむしゃらに頑張り続けなきゃいけないのがアメリカの仕組みやしねぇ。日本人はフランス型で行くべきやったのに、基礎教養を捨ててまでアメリカの仕組みを導入してしまった。それは無理があまりに大きすぎる。(そのくせ、移民の受入は基本的にはしていない。)
とにかく「低所得者層」をたくさん作るために企業が必死に動くようになったわけです。この数年で。同じ日本人なのに。おかしいでしょ? これ。別に「言葉もわからない移民したばかりの人間」がいてるわけでもないのに、超低所得者層のための仕事供給システムができて、そこに若い人とか、そういう仕組みから抜け出せなくなった人を追い込んで行ってるわけよ。
そら自殺したくもなるわなぁ。
こんな仕組み、国力が下がるだけ。
まったく、全然、根本的に無意味。
表面的に企業の業績は上がるんやけどね。
そら人件費削れば、あっと言う間に業績は上がりますって。当たり前やがな。あほくさい。
アメリカだと、まだ宗教があるから、教会に行って心のケアをしてもらうっていうのは有りだと思う。何より、どんなに理不尽な事があっても「これも神の思し召しです」って言う思想がある。
けど、日本にはそれもない。
日本仏教にあるのはせいぜい「和」の心だけだから「みんなと一緒に仲良くしましょう」しか言えないもんね。「みんな仲良く低所得者層になりましょう。」と言ってるのと同じだ、それは!
でもまさか、仏教者が「他者を蹴落としてでも、あなただけは勉強しなさい。」なんてことは言えないもの。
だからかなり悲惨なわけですよ。いまの日本は。
悲惨だと思わない?これ。
かなーり悲惨だと思うよ。僕は。
だから、現実的に、生きていく自衛手段としては、必死になって勉強する以外に手はないんです。
他の自衛手段は存在しない。宗教が歯止めにならないから、もう自殺するくらいしか手はないんやもん。
なんて恐ろしいことか。
そういう事やねんけど、そういう大きな構造に気付いてる人間が、全然いてないのが、これまた問題なんよなぁ。
こういうことがわかってるからこそ、「勉強せい!」と言うんやけど、それがただ口やかましいだけの人間と思われてそれで終わりになってしまう。他に手はないんやから、勉強するしかないねん!と言うてるんやけどねぇ。
でも勉強しない人間の方が圧倒的に多い。
こういう状況なので、同じようなことを考えてる、齋藤孝さんのような意見に強くうなづくのですよ。
ともあれ、日本はいま、そこまで悲惨なんですよ。そういう事。
日本がみんな低所得者層になるっつうのもある意味サバイバルの意味もあったりしてそうならないと世界の中の位置づけで生きていけないのかなとか、でも実は一部の人だけはすごく金儲けてたりしてて、そういう人の姿は見えなくなっているし、なろうと思ってもそう簡単になれないように目隠しされているから、わかんなくなってそれこそ自殺者が大量に出てしまうというのも本当にわかると。そのくらい不透明だから。
まあそう実際低所得者層とかいっても意外に給料はそんな低くなくて、私なんかよかよかったりするんだけど、実際そんなにお金を払ってても対したものを手にしてないからなんかだまされたような気がしてなんとか自分をだまそうと思っても、頭のいい人は自分自身さえもごまかせない。
自殺者出る理由わかりますよ。
せめて勉強してという言葉もうなづける。
ただ、個人主義なんていって神様がいるなんていっても神様いない人いっぱいいますから欧米の人だって。神様全般にいる人なんかモスレムくらいじゃないかと思ったり。個人的には。
神様いても都合良く現時点の社会の仕組みを肯定するだけだったり。
勉強ね。勉強してほしいと思いますよね。そう考えると。
外にも出てってほしい。
死ぬんなら外国行け。そこでなんとか食いつなげるように、どこでもいいから、タイでも中国でもなんでもいいからいく場所見つけてほしいとおもいますよ。日本は日本人の男の人には居心地のいいところだったからそういう考え方なかなか男の人には難しいと思う。
日本は女が一人で生きていくには厳しいところだから、だから日本の女の方が現地で生き抜く率が高いと思うんです。そんで死活問題だからね、プライドなんていってらんないし。それは私だけのことを言っているんじゃなくて、いろんな国でそれなりに順応している、しかも30代半ば以上の女性をさしますけどね。駐在員とか裏で笑ってたりしているんでしょうけどね、給料安くて肩肘張っているとか、でもそれなりに順応していける、サバイブしていく彼女らの底力はその辺の会社員には想像もつきませんよ。日本はそういう人を笑う風潮でしょう。笑われるなら死んじゃった方がいいとかそういう感じで。それで死ぬならにねばいいと思うけど、笑われても生きるよくらいにならないとやばいかもしれません。
お留学とかいっている余裕ないってそれぞれ自分がいった先で生き延びているんだから。そういう可能性も考えてほしいですね。日本の男も。
えーとね、前からひどかった部分に関しては、まぁあんまり気にしないというか、「日本文化だから仕方ない」とも思うのですよ。
でも、そうではなくて、この7,8年で完全に変わっちゃった部分があって、それが派遣の仕組みだったりするわけ。
で、これがかなり問題だと私は考えてます。
もともと日本に「個人が個人として頑張る」なんて文化は、局所的にしか存在してなかったわけですから。基本は「みんなでがんばる」という国なわけですから。で、それは別に悪いことでもないわけで。
でも、そこにアメリカ的な「仕組み」だけ入れたから、この7,8年、急速に環境が変わってしまって、「踏みつけにされて立ち上がれない人」というのが出てきたわけです。しかも、踏みつけにされてることに気付けないとか、そういうタイプの人もいてる。
これに加えて「ゆとり教育」って奴があって、勉強を強制されない体制で育てられた層が社会に出てきて、本当に「向学心」そのものがない人間が世の中にボコボコ現れてしまったわけです。教育体制自体がボロボロ。
なので、多分、この10年で日本は、かなりひどくなってるんですよ。
アメリカは多分日本よりはるかに低所得者層も多いだろうけど、その分頑張る奴は頑張る。
でも、日本って国は、もともと中間層がいっせいに頑張るから強い国だったのに、その中間層がどんどん減って行ってるわけです。
まぁ、がんばる個人も増えてはいてるけど、やっぱりアメリカほどではないでしょうからなぁ。
ともかく、悲惨なのは「踏みつけにされてる層」が、とどのつまり自殺するくらいしか選択肢を感じられない世の中になっちゃってるって事で、それは「向学心」という明日に希望を持つための方法論すら、学校時代に教えてもらえなかった、というのが大きいわけですよ。
「勉強することで、明日に希望が持てる」
って事が言われなくなってしまったわけです。
勉強したら、自分に自信が持てて、少なくとも一歩上にはい上がっていくことは出来る。
キャリアアップの仕組みなしに競争社会は成立しないって事です。
アメリカは「機会の平等」はあるけど、「結果の平等」はないわけですよ。当然やけど。
でも日本はもともとは、誰もがそこそこ食っていける「結果の平等」の国だったのが、いつのまにかアメリカから輸入された「機会の平等」が大手を振って社会に定着してしまったわけです。
でも、もともと「結果の平等」のための仕組みしかなかったんだしね。「機会の平等」の国にするんなら、学校教育から競争を肯定したカリキュラムに変えないとおかしいわけですよ。現にアメリカはそうなってるから。
でも、日本はそうなってなくて、逆に「ゆとり教育」に変わってしまった。これは「勉強したくない人」にターゲットをあわせて、「最低限できたら良いよ」の基準を下げただけなわけです。アメリカみたいに「自分の意見をアピールする授業」とかではないわけ。個性こそ素晴らしいとする授業じゃなくて「バカはバカのままで良いですよ。人間は、バカと言う意味では同じですから」という教育だったわけ。
つまりバカの量産に向かってしまったのが日本の教育の実態だったわけ。
だから、その結果、明日に希望がもてなくて、自殺が流行るような国になっちゃったわけですよ。
それがこの10年の日本の現実だってことです。
つまり、普通に公的教育を受けて社会に出ると、そこには自殺するくらいしか思いつけないような悲惨な状況しか存在してないって事なわけです。
昔は企業が人づくりに力を入れてたから、OJTとかで仕事を通じて成長できたんだけど、で、いまでもそういう事を大切に思って頑張ってるところはものすごく多いけど、時折、派遣の仕組みとか使って、人間力を買いたたいて、それで業績があがりました!とかやってる会社が普通に出てきて、そういう、人を踏みつけにする仕組みが、どんどん拡大してしまってる、って事なんですよ。この10年で。
この、「最近10年でいきなり変わってしまった部分」って言うのが問題だよな、というのが、私の書きたい事で、で、たぶんkaichuさんは、このあたりの実情を肌身で感じる事は少なかっただろうなぁとは思うわけ。
かなり悲惨なんですよ。実際は。とにかく。
あ、あと日本の男がダメな件に関しては「その通り!」と思う。一人暮らしもしたことないような男が嫁さんに日常のケアをしてもらってるとかが、多分かなりよろしくない。
でもまぁ、このあたりは、ちょっとまた別の話なので、ここでは書かないでおきます。また別の機会に。
まあ知っている知らないというと水掛け論になるのであれですが、私もシゲさんが言う人身売買制度にのっとって約一年間2003-2004まで日本にいたんで、ひでえことするなあと思いながら見てました。ただ私の見た惨状というのは、正社員に対するひどさでした。私は所詮派遣社員ですから気に入らなかったら次に行けばいい訳で、という形の勤務体制だったので一応売り物の言葉を携えてなるべく金も良くて責任のないところにこっそりいっては気に入らなかったら満期でやめるみたいなことをしてたのです。でもその数年前に同じ様に短期で日本で働いてたころよりもうんと賃金安めで労働環境もあまりよくない感じだったのですがね。
シゲさんは本を読めと。私は外に出ろと。どちらにせよ現状を脱せるかも知れないという希望というものが必要だというのは激しく同意です。
正社員に対するひどさかぁ。たぶん派遣でどんどん回すというやり方を取ってるところは「人間を大事にしない」という意味では同じってことでしょうね。
単純に言って「よそでも役に立つ能力」って言うのは、その会社では役に立たない能力なわけですよ。
単純にエンピツを作ってる会社なら、芯に使うカーボンの種類と書き心地の関係とか、文房具屋さんルートの、どういうお店がお得意さまで、その店がどういう種類のお客さんを想定してお店づくりをしてるかとか、そういう知識は、その会社では役に立つけど、別の業種に移ったら、全然役に立たない。
でも、一般のお客さんからすれば、そういう詳しい人の方がありがたいわけですからね。結局、人を大事にして、詳しい人が、よりよいサービスを社会に提供してくれる方が世のため人のためなんだけど、最近は売り上げとか純利益とかの方に目が行ってしまってそういう人の財産という見方をしなくなってしまったわけでね。
あと、やっぱり「責任」は負わないと成長はないですね。「これは必ず私が責任持ってやるんだ」という意識がないと成長はないです。派遣でやってる人は、これを嫌うんですよねぇ。でも責任を請け負うからこそやりがいも、世の中とのつながり感も感じられて成長につながるんだけどなぁ。
で、この「わかった。責任は私が引き受けよう。」という腹のくくり方を覚えるために読書が役立つって事です。イヤイヤ責任を取らされるって言うのではなくて、自ら積極的に引き受ける気概ですな。それを養うのに、読書が役立つって事。
現状を脱するというより、現状に正しく深く関わって行くという事です。それが大事。仕事はどれも、自ら積極的に深く関わって行かない限り、何も得られないです。
嫌な仕事だったら、好きになれるように努力するとかですね。
まぁ、そういう気にすらなれない環境って言うのはあるんだろうけど。ひどいところはひどいらしいから。
ともあれ、やっぱり基本は「深く関わる」ですよ。
正直言ってそうやって他の会社じゃ役に立たない技術のみを覚えてしまった人たちが、職を失うといくと来なくて電車に飛び込んじゃうんじゃないかと私は見ているんですよね。
だって20年30年かけて培ってきた努力が会社とか業界の衰退でまさに役に立たないものになっちゃうんですよ?
そのほうがいいんですか?
私は底に日本の悲劇があると思ってます。
日本のよさを説明できないんです。
その少数先鋭で生き残るのは本当に「少数」しかいないわけです。大多数は生き残れないんです。それなのにその少数になれと?
なれないんですよ?大概の人は。
だから働き方がそれぞれあっていいんだと思います。
またこれもNYの話になりますけど、出身地では教授、医者、技術者などの知識階級でしたっていう人がタクシーのドライバーとかしてたりするんですよ。
タクシーのドライバーが卑しいですか?
少数じゃないことがそんなにいけないことなんでしょうか?
日本の社会で働く男性とか見てて、自殺するのも無理ないよなあって思う理由は、仕事しかないんだもん。存在理由が。それがなくなったら死にますよ。
だから存在理由は仕事におくな、と私は言いたいですねえ。
「他の会社じゃ役に立たない技術のみを覚えてしまった人たちが職を失う」の件。
これに関しては「完璧に間違い」と、自信を持ってお答えできます。
なんでかって言うと、僕はフリーランスの立場で、いろんな会社の会社案内を作るために、いろいろな会社を取材し続けてきてるから。
良い会社は、人を大切にします。そして個性があります。その会社にしか出来ない、唯一無二の技術や特徴があります。だから生き残る事ができるんです。
他の会社に真似されるような事しかできない会社は、潰れます。
だから、「よその会社では通用しない技術」こそが、世界に通用する技術なんですよ。
どこの会社でも役立つスキルなんて、それこそ、ファストフードの売り子さんの笑顔とか、「取り替え可能」な技術で、それは結局どこの会社でも同じ事だから「安い方がいい」にしかなりません。会社が苦しくなったら、真っ先に切り捨てにされる技術です。
僕が知ってる会社でいうと、ある機械部品の製造に関しては世界No.1で、全世界から発注を受けられるというくらいにすごい会社を2社知ってます。直接社長にインタビューとかもさせてもらって、会社経営がどうあるべきかとかお話しも聞いて、なるほどーと敬服したような人たちですが、とにかくそういう会社の社長は人を大事にします。
なぜなら、会社で働く人すべて、ひとりひとりがかけがえのない、「取り替え不可能な有能な人材だ」という事を知ってるからです。だから全社員が全員正社員で、派遣社員はやとっていません。そんな「取り替え可能」な社員は、ほとんど何の役にも立たないからです。
現実問題として、派遣でフラフラしている人のスキルというのは、とてつもなく低い、というのが紛れもない事実なんですよ。すべての仕事の最重要で取り替えの出来ない部分というのは人間が握っていて、それは仕事内容と個人の個性が切り離せないものなんです。
なぜか?
それは人間はひとりひとり別人だからです。
自分が自分らしく生きる事ではじめて、個人の能力も最大限に発揮できるし、そうでなければ他の企業と圧倒的な差を生む商品やサービスを提供できないからです。
個性は交換できない。
当たり前の事です。
そういう事実ととっくみあって苦しんで、目の前の仕事と真剣勝負してきた事実こそが能力値で、個性と能力は絶対に分離不可能なんです。
この仕事の内容と個人の個性が切り離せないものだ、というのがわかっていない、初歩の初歩の段階の人が「派遣として会社を渡り歩く事ができる」という幻想にだまされるんです。
現実問題として、派遣で「取り替え可能」な仕事をしている人の能力値を100とすると、正社員で「取り替え不能」な仕事をしている人の能力値は1億というくらいの単位の差があります。それが現実です。圧倒的な差なんですよ。
もちろん僕自身はフリーランスでいろいろな企業に請け負い業として関わっているわけだけど、僕自身、広告業にはずっといてて、「取り替え不能」だから仕事がずっと続いてるわけです。
だから仕事というのは、その人そのものなんです。最初から。
で、存在理由ですが、それこそ、生きている存在理由は、生まれたときからすべての人にbeingとして存在してるんです。そこが実感できないって事のほうがおかしいんです。
何もしなくても、ただ生きているだけで価値があるのが人間です。
その価値ある人間が、「取り替え不能」な個人として、社会にどう貢献していくのか? それこそが「仕事をする」ということで、個人というものを大切にしたら、取り替え不能になるのは当然なんです。
で、本当にすぐれている会社は、社員全員が取り替え不能で、そしてそのことによって世界から発注を受ける、という事になるんですよ。
それが紛れもない現実です。
人間の顔が一人一人違うように、個人は全員個性が違います。その一人一人の個性を、いかに生かして花開かせるのか? その難しい課題に挑戦して、成功している会社だけが世界に通用する会社なんです。
そこまで行かなければ、それはまともな企業じゃないんですよ。
いくつも会社を見てきたけど、とどのつまりは、「派遣」を雇っているところは、そういう個人をキチンと生かすという事が出来ない、能力のない会社なんです。究極は。
言ったら悪いですけど、「派遣」を雇っている段階で能力値の低い会社だなぁと、僕は感じますね。
本当に世界に通用する技術なり経営能力なりがあるところは、最初から派遣なんか雇わないですよ。本当に。
そういう会社は、言わば「全員がイチロー」なんです。本当に。
で、そういう会社だからこそ生き残れるんです。
イチローも野球選手という事では取り替え可能に見えますが、ホームランを打つことよりもヒットで塁に出るという自分の個性を最大限に活かしたからこそ、勝負の世界で通用する選手になれたのです。バッティングフォームから何から交換不可能な個性のかたまりです。
そうでなければ、何事かを成すということはできないんです。
いついかなる時も、ありのままの自分でいる、ということです。
それが大切な事なんですよ。
そういう大切な事がわからないから、派遣でフラフラして、「積み重ねるべきスキル」が重ならなくなってしまうわけです。
タクシードライバーとて、同じ事です。
同じように働いているタクシードライバーでも、自分の個性をそのまま、ありのままに生かしている人の方が、稼ぎは圧倒的に上になります。
それは「私は、この仕事が好きだからやってるんだ」という自己肯定の力があるからです。
そういう人は、自分を大切にするのと同じようにお客さんを大切にできるので、お客さんがタクシーを必要とする場所、タイミングを正しく知っているし、電車の時刻表から、信号機のタイミング、会社を出てから帰庫するまでの、もっとも効果的なルートの取り方までをも体にしみこませています。
そういう人は、会社の位置さえ、自分のスキルの一部として取り込んでいるという事です。置き換え不能なんですよ。
ニューヨークで一番のタクシードライバーだからと言って、その人がいますぐ大阪で一番のタクシードライバーになれるわけではありません。
ニューヨークの個性である、信号機の切り替わりタイミングの一個一個にいたるまでを、完璧に体に入れてるかどうかこそがスキルです。
そのスキルに誇りを持っているかどうかが「個性」なんです。それは大阪では役に立たないけど、そんな事はニューヨークでタクシードライバーをしている人には関係ないんです。
で、大阪でもパリでもニューヨークでもタクシードライバーをしてきたんだ、スキルはすごいぜ!と言ってる人は、ずっと大阪で、ずっとニューヨークでタクシードライバーをしている人には、絶対にかなわないんですよ。そのスキルの差は圧倒的なんです。
だって大阪とニューヨークは別の都市だもの。それが置き換え可能だと思っている事の方がどうかしている。
だから「他の会社じゃ役に立たない技術のみを覚えてしまった人たちが、職を失う」というのは、完璧に間違いです。
「他の会社でも役に立つ程度の能力で世の中を渡り歩こう」と考える方が、甘い。世の中をなめてる。って事です。
それは個性は置き換え不能なんだ、という当たり前の事実を理解してないというだけです。あまりに幼い考え方です。
これはもう、自信を持ってそう言えます。
人間の可能性っていうのは、もっともっと高いしすごいし、でもって、大阪が大阪であるようにニューヨークはニューヨークであるように、
●もともと渡り歩かなくても、個性を生かせる場所はいつも目の前にある。
という事なんです。
そこがわからないっていうのが、一番不幸だと思うよ。僕は。
kaichuさんも日本という個性を、素直に認めた方がいいと思うけどなぁ。そう思う。ほんとに。
いやいいんですよ。そういう素敵な企業に生きていける人は死なないでしょう?でも死ぬ人がいるんでしょう?その現実問題が、「素敵な企業は」って言う話になっちゃうとそっから落ちこぼれる人がしんじゃうんだからそこはどうするんだ?って思っているんですよ。
いや素敵な企業や優れた企業が生き残るのは当然なんですってば。どこの国でも。
でもこの淘汰される中でみんながそう「素敵である」と思えているなら死なないでしょう?そうあるならばこんな議論は展開されないじゃないですか?
素敵な企業は素敵でそういう企業は個人の個性を大切にしている。
もちろん!
日本の技術も質もすごいですもの。いいものは。
でも、そこにいない人はどうするんですか?
本読めと?
そのあいだに死にますよ?
可能性はもちろんすごい。
そう思えない人が死んでいくから問題なんじゃないですかね?
そやねぇ。ダメ企業はダメやねぇ。
ただ、前はダメ企業でも派遣は雇わなかったのですよ。法的に「やってはいけない事」だったわけ。
バイトでもいいから「雇用」しなくちゃいけなかった。
ここに、まだ救いがあったわけ。
雇用というのは、「明日も来る人」だから、会社の側が、いろいろ教えてたわけですよ。
いくら会社がダメダメでも、現場の一番下の人間は、バイト君が多少は「使える」人になってもらわないと、困るわけです。だから教える。ちゃんとOJT、オンザジョブトレーニングっていうのがあったわけです。
でも、派遣、とくに日雇い派遣は、「明日来るかどうかわからん」という前提になってるから、現場から、このOJTを奪ったわけですね。
法律的な話をすると、いまでも日本の労働基準法では、本質的には「派遣業」というのは中抜き業だからダメだ、という建前にはなってるんですよ。
でも、そこに「派遣業法」という建て増しの法律をくっつけて、「いやいや、世の中には腰掛け的に、もっと安い賃金で働きたい人もいてるんだから、派遣業社の存在も認めて、働き方のバリエーションを認めましょう。」という言い方で、派遣業っていう「中抜き業」を認めてしまったわけです。
でも、本来、そういうのって、日本の文化に合ってないわけですよ。
なんでかというと、日本という国は、宗教的な意味ですごく後進国なわけ。聖書やコーランにあたるような倫理観を記述した書物も存在しないわけ。
だから、世の中のルールって、社会に出て、人にもまれながら学ぶ以外に手がなかったわけよ。
だから日本人はみんな、会社=村、生活共同体になっちゃうんよね。倫理を学ぶのも、仕事の技術を学ぶのも、とにかく会社という空間からのみ、なわけだから。
だから、派遣業法が出来る前の日本は、そりゃ問題も山積みだったかも知らんけど、「ダメな企業」も、ちゃんと生活共同体としての役割を担っていて、いちおう細々と続いていた倫理観の継承(ものを盗んではいけないよ、とか労働の尊さとか、まぁ内容はバラバラだろうけど)が、行われてたわけですよ。
アメリカは、それ以前に宗教が違って当然の国だから、そういう「会社が生活共同体」である必要なんて、まったくなかったわけです。
倫理観は出身国とかで異なって当然。あとは「法の遵守」と、「国への参加意識」がキチンとあるかどうか、くらいなもので。
だから、本来、日本という国に「派遣業法」なんて入れたらダメだったんだと、僕は思うのですよ。
でも、入れちゃったんだよなぁ。
なので、解決策としては、
●派遣業法をもう一度改正して、派遣業者を壊滅的に潰す。
というのが、本当は一番良いと思ってるんです。
派遣業という存在自体が、日本文化に、もっとも似合っていない、よくない業態だと僕は思ってるので。
でも、いまはそうなってないから、自殺者まででてる、と言うことです。
で、これに対処するためには、本質的には解決策はありません。
なんでないのか? というと日本には聖書すらないからです。
日本においては、人とのつながりを、金で処理するようになったら、即精神の荒廃が起きます。
だから、本質的には解決策自体存在しません。
だから派遣業法みたいなものをアメリカに言われてホイホイと作った小泉政権は悪魔の政権であり、鬼のような人間だった、と言うことです。
でも、驚くなかれ、自殺に追い込まれるような層こそまさに小泉首相の小泉改革を熱烈支持してたりしたらしいので(詳しくは確認してないので不明)、よくわからないんですがね。
で、本質的には解決不能なんだけど、それでも「俺は死にたくねぇぞ」「絶対に生き残ってやるんだ」という、前向きな気持ちと自尊心を持っていて、それでたまたま「ダメ企業の搾取」を受けていて苦しんでる人は、もうOJTではなくて、自分の力で学習していくしか、他に手はない! という所まで来ているんだ、って事ですね。
だから、そういう人には、本を読んで勉強するってのは、大きな救いになります。
日本の文化とアメリカの文化の違いとか、宗教観、倫理観の違い、労働基準法と派遣業法の意味づけの違い、などなどですね。そういう事を知識として頭に入れるだけでも、精神的にかなりラクになるはずです。「なんとしてでも生き残ってやるぞ」と思ってる人にはね。
でも、当人にやる気がない場合は、少なくとも僕には対処の方法が思いつきません。
せめてこの間の共産党の志井委員長の代表質問を紹介したり、「本を読め!」とやる気のある人に向けてメッセージを発したりするくらいなわけです。
なんとかしたいとは思うけど、良い手が思いつかないっていうのが現実ですな。
なので、僕に出来ることとしては、良い本の紹介くらい。
なので、コツコツ毎月、「読んだ本」の紹介はしていくし、こういう話も書いていくって事ですね。
そのくらいしかできないですよ。
焼け石に水って気もするけど、しないよりはるかにマシ。
そういう事です。
とにかく、自分にできることを、ちょっとでもいいからするって事ですわ。それしかないですよ。
はい。