えーと。また本を読む話。

本は好きなんですけど、やっぱり「読むべきだ」「読まなくてはいけない」と思って読んでる部分は、あるわけです。

なので多少は強制もしてるんですね。

で、やってみて、まぁまぁ良いかな? と思ってるのが、

●未読本棚

です。

とにかくどんどん買ってしまって、買うだけで読まないってのも多いので、買った本は、家から出る時に目に入る玄関に近い位置に棚を置いて、そこから選ぶという形にしてます。

逆に、買ってきたときは、とにかくすぐに、この「未読本棚」に置いてます。
背表紙を見ておくだけでも「次はあれを読もうか」とか思うので、良いのです。

続いて

●読書中本のカバー飾り

これは、読んでる最中の本の話です。
まず、カバーにデカデカとタイトルがあったりすると電車だと頭の中をみなさまにさらして移動してるような状態になるので、カバーを外すんですね。で自分でオリジナルのブックカバーをつける。

で、だいじなのは、ここで、外した方のカバーを未読本棚に「飾る」ことなのです。本にブックカバーをすると、どの本をカバンに入れてるかわからなくなっちゃうので、未読本棚にカバーだけ飾って「いま、この本たちを読んでるのだ」と意識しとくわけです。これが意外に良い感じで、半年くらいずっと続けてます。

●毎月の読書予定リストをつける。

名刺サイズくらいの小さなメモをToDoも兼ねていつもポケットに入れてるのですが、そのうちの1頁を「今月読む予定本一覧」にしてありまして、読みたい本とかをリストアップしてます。
で、読み終えたら線を引いて消す。これが気持ちよいので、読み進めやすいです。

ひと月に読むのは6〜9冊というところですが、この読書予定リストには10冊以上書き込んでることが多いです。「どっちを先に読もうかなぁ」とか考えるんですね。
まぁ、未読本棚の持ち歩き版とも言えます。

●手帳に読み終わった本のタイトルを書く。

読み終わったら手帳の読み終わった日のところに本のタイトルを書いておきます。
で、毎月読んだ本を、ここで書いてるので、月の頭から数えて何冊目になるのかだけを記録しておきます。

3/16
(3)1分間自己革命

とかいう感じですね。今月の3冊目を読み終えたという事ですね。
これも「いま月に何冊目なのか?」がわかるので、「もうちょっと頑張ろう」とかのモチベーション維持に役立っています。

●分散読書

これは最近あんまりやってませんが、家の中のいろいろな場所に本を置いておく、というものです。
家の中の空間は、それぞれの機能によって役割が違うので、その機能にあわせた本を読む、というものですね。

食事をするテーブルには、健康系を置くことが多いです。食に関することとか、料理本とかいろいろ。
枕元には精神修養的なのが多いかなぁ。「怒らないこと」とか「ほんとうの心の力」とか、そんなのを置いてます。
トイレには、わざわざ棚まで作って本を置いてますね。ホームセンターで板きれを買ってきて、金槌でクギを打っただけの棚で、トイレットペーパーのストック棚を兼ねてます。トイレは英語の前置詞の使い方本とか、1頁単位で独立して読めるようなのを置いてます。ほんとうにちょっとした隙間時間で読めるし。

●読書カンヅメ

有名作家が本を書くためにホテルにカンヅメになったりしますが、あれと同じ事ですね。仕事が早めに終わった日とか、本を読むためにファミレスやら喫茶店に入って集中して読みます。
特に7割8割、読み終わってて、最後の追い込みっていうような時はよくやります。

●3色ボールペン読書

これは齋藤孝さんの影響。成毛眞さんは「本に線を引くなんて!」と否定してるけど、僕は絶対、圧倒的に齋藤さん派。効率が違うもの。読み直しする時とか、ブログに何か書くときとか、あと「速読」の役にも立ちます。あんまりおもしろい本じゃないな、と思ったら、斜め読み、飛ばし読みをするんですけど、その時はポイントだけにサッと線を引いて他はザクザク飛ばして読んでいくのです。で、とにかく読み終えてしまう。

そうやって最後まで読んでみたら、後半にやたらと良いことが書いてあったりして「おお、よく最後まで読んだもんや!」と思うことがよくあります。「二回くらい読んでもいいや」というような軽い気持ちで、気を抜きながらザクザク読みをするという時に線を引くっていうのがいきおいがついて良いのです。

僕は齋藤さんみたいに厳格に赤青緑を使い分けてるわけではなくて、赤と緑だけ。それもほとんど赤だけですね。「ここ大事!」というとこだけ線を引く。それと個人的に「おもろ!」と思ったところには緑。でも緑は少ないなぁ。あと思いつきを赤でメモしておくこともあります。こういう時は本が「ノート」の役割を果たしてます。

という事で、線を引くのは大変有効です。成毛さんは、単なる神経症。あれは完全に間違いですな。本好きなのはわかるが、線は引いた方がいいです。線を引く=汚すというのは、齋藤さんいわく、ひとつの「決断」が必要で、間違っていてもいいから、この「決断」を下す事が「読む力」を養うと言っておられるのですが、その通りだと思います。線を引くと「ひとりよがりな読み方」はしなくなります。本に書かれている言葉を、「誰もが共有している意味」で読むようになります。そういう事がとても大事だと思うので、線引きは絶対に必要です。なので成毛眞は間違い。これは断定しときます。

本は自腹で買って、その自腹で買った本を「汚す」という決断を繰り返しながら読むのです。まさに必死で読む。それが大事。自ら読んでいるんだ!というのが大切なのです。娯楽本だと上手に「読まされて」いるだけで、「自ら読んでいる」のではなくなっちゃうわけです。

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うーんと、このくらいかなぁ。
思いつくところでは、読書量を増やすために僕がやってるのは、このくらいでしょうかね。

で、このくらい強制力を働かせてでも、読んだ方が良いのが「本」です。

本を読まない人から見たら「何もそこまでしなくてもいいじゃん」とか思うかもしれませんが、読めば読むほどに「本ってのは素晴らしいね!読まない奴はバカだね。こんなに投資効率の良い商品なんて、他にないのに!」って思いますから「もっと読もう!」になるんですよ。そういうものなのです。

本読みの人なら、その有効性は、深く深く深く分ってると思います。圧倒的に有利で、得る所が多くて、精神生活が豊かになる。ありとあらゆる面でメリットがあるわけです。

しかし、読んでない人は、そのすばらしいメリット自体をわかってないんですよねぇ。

ひどいのになると「ああ、あんな本を読まなくて良かった」とかくだらん事を言ってる。たとえば、トンデモ本シリーズとかはその類ですね。トンデモ本シリーズだけを読んで「ああ、読まなくて良かった!」とか言って自分のサボリを正当化しようとしてたりする。

自分で読めよ、おまーら! バカか、おまーらは。自分で読んで良いか悪いか判断しろよ。お前には脳みそはないのか? と言いたい。

(実際、あのトンデモ本シリーズを書いてる人の中には、ちょっと人品骨柄がよろしくない人がいたりするからよけい困る。実はちょっとメールのやりとりをしてみた事もあるんですが、かなりレベルが低かった。レベルが低いのだけは、けっこう文面から読み取れてしまいますからなぁ。ともあれ「読まない」から始まるコミュニケーションなんかないわけですから、トンデモ本だけ読んでるような人っちゅうのがいたら、かなりおかしい。のですが、あれ、けっこう固定ファンがいてるのよなぁ。アホの集まりや。ようするに。笑。)

ともあれ。

ここに書いてある程度の努力をすれば、まぁ月に3冊や4冊くらいはラクラク読めますからな。読めよ!本当に。何がどうあろうと絶対に得なんだから。絶対に損はないんやから。

一冊1500円、数時間で、パッと世の中の見方が変わって、いきなり世間の見通し力が上がるんだから、読む前にごちゃごちゃ言ってないで、とにかく読みなさいっていうの。百の言葉より行動。読むというのは行動の事なのです。行動しない人間が信用されないのは当たり前で、「読んだ」というだけで信用度が全然、まったく変わるのです。それだけでもメリットは何百万円の価値があるわけですよ。

逆に「これこれの本を読んだら?」と言われて読まなかったら、読んでない間、ずーーーーーーーーーーーーーーっと相手にバカにされ続けますわね。で、絶対永遠に信用されません。どーーーーーしたって絶対に信用されませんよ。絶対にです。どんな事があっても信用されません。
当然でしょ?

まぁ興味の幅というものがあるから、読まなきゃいけないってもんでもないんだけど、基本的に読んでなけりゃ、その分野での発言は、読んだ人からは信用されないってことだけは覚悟せなしゃーないですわな。これは。

逆に言えば、読めば、その段階で同じ土俵に上がれるので対等に話しが出来るわけです。
これが、仕事関係の人間だったら、同じ本を読んだことがある、というだけで、かなりの信用度になるわけです。少なくとも問題意識と「行動」は共有してると思ってもらえるから。

これだけでもものすごい投資効果でしょ? 思いませんか? だから本は読まなければいけないのです。絶対に読まねばいかんのです。日本には聖書がないのなだから、なおさらなのです。

だから、読まない人はサルと言われてもしょうがない。反論の余地はまったくないですからな。

だから読まない人はサルなんですよ。読んだ人間からしたら、そらそうにしかならない。人の話を聞いてないというのと同じ、聞く耳持ってないですと表明してるのと同じですから。そんな人間が信用されるわけないから「バカか、こいつは」ってなるだけでして。

ほんと、バカはキライです。

コメント

シゲ
シゲ
2008年5月6日14:36

後半部、ちょっとイラついた書き方になっていますね。ごめんなさい。
実は、「この本を読んでみたら?」と紹介したら、読まないどころか、否定までしてる人がいるもので、ちょっとむかっ腹が立ってるのです。

本を紹介するというのは、その手の知識が欠けているなと判断された、ということなんですよね。僕も、昔良く言われました。
「知らんのやったらしょうがないな、こういう本があるから読んでみたら?」
ということです。だから、そうやって紹介されたら、こんな有り難いことはないわけですよ。本当に自分に欠けている知識を的確に教えてもらえてるわけですから。
まぁ、読んでみたけどイマイチだった、という事もありますけど、たいていは「ああ、なるほど、そういう事だったのか!」と目を開かされる事の方が多いです。

だから人から紹介された本は、できるだけ読まないとイカンよなと思うのです。
まぁ、相性っていうのもあって、買うだけ買ってみたけど、前半部から先に進まない、なんて事もありますけどね。でもまぁ、たいていは良い本ですよ。

(最近は紹介されても「ああ、それなら読みましたよ」という事が多くなってきましたけど。こうなると、会話のステップが一段上がりますわね。)

とにかく、最近はゲームやら携帯やらが人気で、どんどん本を読む人が減ってしまってるんですが、やはり役立つ度合いでは本が一番素晴らしいというのはゆるぎないものがありますから、そこは外せないなぁと思います。
歳をとるほどに「読書は大事」と思うようになってきました。いやほんとに。

nophoto
ニックネーム無し
2008年5月6日19:50

いらつく書き方なのはいつもですよ!
もっと本を読んで徳を身に付けましょう

シゲ
シゲ
2008年5月7日0:45

>ニックネーム無しさん
ううむ。お名前なしですか。
名前なし。
そういう人は普通の常識では無視するべきなんですが。あえて少し。
やっぱり、たとえ、仮の名前でもいいから名乗るべきなんじゃないでしょうか。
知っている人かそうでないかもわからないし、ここを読んでる人にとってもメリットがないです。特に、ここではちゃんと本を読んで自分の糧にしておられる方がいて、その方たちに向けて僕は書いてますので、誰か分らないと読んでいても困るわけです。誰がどんな立場で言ってるのかわかりませんから。
------------------
ともあれ、表現がキツくて、いらつかせたのなら、申し訳ないと「言い方」については謝辞を述べさせていただきます。

しかし、もし仮にあなたが、「本を読んでない」人で、そういう人が「サル」と言われて「いらついている」のであれば、残念ながら、その「いらつき」の理由は私にではなく、あなたにしかありませんので、私にはどうにも対処のしようがありません。

あなたが真摯に知識を求めて書物を読む以外に解決策は存在してないんですよ。
なぜなら、その「いらつき」は、「自分の無知に対する恐怖」でしかないですから。

それに関しては、あなた自身が、あなた自身の責任において「サルのままアホとして生きる」と決めるか「キチンと本を読んでサルと言われないようにする」か、どちらかを選択する以外に解決策はありません。

だから、この「本を読まない人はサルである。」という言い方は、実にまっとうに正しいんです。
成毛眞さんは、そこのところは良く分かっている。
「ああ、本当はちゃんと勉強しなきゃなぁ」と、多少なりとも向上心のある人にしか、この「サル」という言い方はひっかからないのです。
「別に本なんか読まなくても、俺は大丈夫だよなぁ。人間関係もいいし、幸せだし。いらん、いらん。」という人は、世の中にはたくさんいて、そういう人は「サル」と言われても「別にサルでもええよ。」って心底思うわけです。「サルと違うし。人間やし。」って思う。最初から「サル」と言われても腹も立たないわけです。

しかし、「サル」と言われて腹が立つ人は、自分の内面にある向上心を直視してないわけです。「本当は勉強しないといけないんだよなぁ」と思っている心があるから「サル」と言われると腹が立つわけですね。

だから、「本を読まない人はサルである。」というのは、至極まっとうな、全然問題のない言い方なんです。実に正しい。そこのところは、成毛さんは分ってて書いてると思いますね。書店に並ぶ本のタイトルが「本を読まない人はサルである。」ですから。

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それから、本を読んで徳を身につけるというのは、日々やっております。なので、自分の言い方に「ちょっとイラついたところがあったな」と反省したので、こういう書き方になったわけですね。
これも日々本を読んでるからです。徳を積むというのは、このように「自分のミスを認めて修正していく過程そのもの」なので、まさにそれをちゃんとやってるのが、上記のコメントだと私は思っているのですが?

でも、「良い本を紹介されても読みもしない人」は、自分のミスも認めてないですしね。なんらかの勘違いがあったからこそ、「それは間違ってると思うよ。この本を読んでみたら?」と紹介してるわけで。

でも、「自分が間違っている事を認めたくない」がために本を読まないというサルが、この世の中にはいてるんですよ。
で、そういう人は成毛眞さんが言うように「サル」と言うしかないんです。サルだもん、そんなの。しょうがないよ。

だから、その部分に関しては、単なる事実なので「しょうがねぇなぁ」と思うだけで、謝罪する気も何もまったくないんですよねぇ。サルにサルと言っても別に何の問題もないって事にしかならないと思います。
キツイ言い方になるんですけど、現実はそういう事だと思います。

自分が間違ってたのかどうかを確認するために、相手から教えてもらった本を読んでみる、というのは基本中の基本ですからね。「正しいかどうかを確認する作業」なんですから。

検証もせずに、どうたらこうたら言うっていうのを「サル」って言うわけですよ。

これはもう、しょうがないしねぇ。
間違ってる事は「間違ってるぞ、ばかもの」と言うのが正しいわけですから。

という事で、間違った時に自分のミスを認められない人は、こういう場でも自分の名前(仮名)ですら名乗れないって事になります。オープンマインドが育っていないって事です。
それは、あまりほめられたものではないと思います。

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