もう長らく、自分の事務所で仕事をしているわけですが。

最近思うのは、自分の事務所を持つという事と、一人暮らしをしていた経験とが、重なるよなぁって事です。

事務所を持っていると言っても、フリーで一人で仕事をしているわけだから、なんでもかんでも一人でやるしかない。
それこそ、本棚の片付けから掃除まで全部です。

で、これって一人暮らしと同じ事なんですよね。一人暮らしで靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下は、いつまでもどこまでも、ずっとそこに出たままで、自分で洗濯機に入れて、洗剤を入れて、スイッチを押さない限り、きれいになって出てくる事はないわけです。

で、これが「自己責任」ですわ。
別に難しいことでもなんでもありませんわね。
自分の事は自分でする。それだけのことでしょう。それが一番シンプルでわかりやすい。自分でちゃんとしていなかったら、それは自分に跳ね返ってくるっていう、それだけの事です。

ですが。

これがどうも、誰かと一緒に暮らすと、「ついでに洗濯機に一緒にほおりこんでおいてくれる」とか「洗っておいてくれる」とかがあるので、その当たり前の「自分が動かない限り、靴下はそのままだ」という事がわかってない男がいたりするわけです。

特に、一人暮らしの経験がないとか、あったとしてももの凄く短いとか、そういう人間は「靴下を放りだして寝てしまったら、その靴下はそのままである」という事が分ってない。

なんかねぇ、これがねぇ、すご〜く大事な事のように、最近になって思うのですよ。

仕事の上でもプライベートでも、この「放りだした靴下はそのまま」という自己責任感のない人(特に男に多い。)って、どこかで肌が合わないというか、ベタベタした感じがあってイヤ。

自分で靴下を洗濯機に入れるのが当たり前だと思ってる人は、誰かがついでに靴下を洗ってくれると、すごく恐縮してしまうのですよね。

「放りだしたままで申し訳ない。ありがとう。」という言葉や気持ちが自然に出て、「しまう」。

この「出てしまう」ってところが大事なのですよ。
「こう言うときにはお礼を言うものである。」というようなノウハウではないわけです。自分の経験に裏打ちされた感覚・感情で「申し訳ない」「ありがとう」が言えるし、何より自然に出てくる。

ここが大事だと思うのですよね。

で、これが言えない男は、けっこうたくさんいてるとは思うのですけど、やっぱり言っちゃ悪いけど経験不足、一種の社会的カタワという気がしてしまうんです。

別に仕事なんかできなくてもいいし、金儲けもできなくていいし、それこそ色んな欠点があってもいいけど、自分が片付けなかった靴下は、片付けてないんだから片付いてないのが当たり前なんだと自分のサボリをキチンと自覚できる人でないといけないと思うのですよね。

いやまぁ、おれは同じ靴下を三日ははき続けるんだ、という大胆な人がいても別に良いわけですが、その場合でも、どこに靴下を脱いだのか忘れちゃったら3日連続で履くという事自体できないわけですしね。

この辺、ほんとに、親がかりで大人になって、自炊や一人暮らしの経験もないまま「大人」になって、そういう当たり前の現実とキチンと向き合っていないものだから、子供の発想のまま大人とか「親」とかやってる男って、考えたらすごく多いんだろうなと思ったら、ゾッとしましたな。

離婚した女性の話とかも、けっこう聞くトシになったからねぇ。そういうのを、よりいっそう感じるようになってきた。
(ただまぁ、ここで男と女の「清潔感」の感じ方の平均値の違いという、また全く別の問題もあるんだけど、それはまた別の話なので、ここではちょっと触れないでおきます。)

基本的に、一人暮らしもしたことない男は、おこちゃまですわな。基本。いやほんとに。ほんとにそれは思う。特に自己責任とかの考え方とかで、それは如実に感じますねぇ。

会社でも、「部下の女の子」に頼りっきりの上司とか、けっこういてるのかもなぁ…。まぁ、大手の会社だけでしょうがね。中小では、そんなオコチャマを飼ってる余裕はないですしね。

ま、なんか、そんな事をふと思いました。

コメント

kaichu
kaichu
2007年5月5日23:06

これ読んでて思い出したのは、私の初めての職場N芸社で当時の(今でもだけど)目立ってたデザイナーさんのプロジェクトでバイトをしてたとき、その人がいらないスケッチを床においといてたんですね。私はそんなこと知らないから、「これ落ちてましたよ」ときれいに重ねて机の上に置いといたら、「これ〜いらないんで床においといたんだよね〜。」と笑われました。面白がってもらえたので、フルタイムの仕事をもらえたのですが、そういうとこじゃないとこでは、私は嫌われる性格だよなあ、と今でも思うんだけど。

シゲ
シゲ
2007年5月6日8:20

>kaichuさん
そうそう。共同生活というか、複数の人間が暮らすと、なんのためにそれをそこに置いてあるのかが読めなくなったりするし、それがいつの間にか片付いてたり、元に戻ったりで、自分と自分以外の区別があいまいになっていくんですよね。

でも、だからこそ、そういう「意識のズレ」みたいなものが出てきたときに、ちゃんと「自他の区別」をしないと、全てがあいまいなままに進んでしまって、悪い意味での依存症発生の温床になってしまうような気がします。

特に子供って「自己」が確立されてないのだから、親がキチンと子供の「自己」を見守ってあげないと親子ともども「自己未確立」になってしまう気がする。特に日本人はそうなんじゃないかなぁ。親子の一体感が強すぎると思う。

ひとり暮らしもしたことがなくて、同居人に感謝もできない人が、自己が確立してない子供と生活すると、精神状態が子供の方にひきずられて、親の側がより一層子供になってしまう、みたいな事が起き勝ちなんじゃないでしょうか。それが日本のAC発生の基本的な背景だという気がします。

はい。

kaichu
kaichu
2007年5月6日23:46

あははー!
大体自立という観念が日本で頻繁にいわれるようになったのはきっと・・・ここ20年くらいのことなんじゃないかしら?下手すると10年とか。

大体女三界に家はなし(でしたっけ?)で女の人は自立をしない事が前提とされてたわけだし、男の人は家族を養うという事が自立の象徴とされてたわけだから、もう、お話になる前に話が終わっちゃう感じですよね。

まあ、ある意味自己の確立を親が守る、ということ自体も、親が自己確立をしていないから、子どもが積極的に試行錯誤をしながら親から離れていくしかないって感じですか。私なんか親があれだから、自分のために自分が必要なとき以外、親にまったくコンタクトをとらないんですが、そういう風になってはじめて親が親らしい行動(私のことを考えてコンタクトを取ってくる)をとるということになって、親も自分で考えないと子どもに見捨てられるということを学ぶと親も少しは考えんのかな、と。

未熟な親にしてみれば、子どもは育てるものではなくて、寄りかかるものだと思っていたような感じだから、ま、これもお互いの成長のために必然なんでしょうね。

シゲ
シゲ
2007年5月7日0:23

>kaichuさん
そう!それ!ここ20年かそこいらなんですよ。日本において、本当に自己の確立とかしとかないとしょうがなくなってきたのは。だって「パーソナル」コンピュータが入って来たから。

この機械って、「個人」になってないと使えないのよ。困ったことに。欧米の機械だから。

だからパソコンの使い方を学ぶと同時に「自己の確立」みたいな、やっかいな事も、同時に学ばないとキチガイになっちゃうんだよ。日本人は。そこがねぇ、相当に辛い。

児童虐待にしたって、二十年前は別に異常じゃなかったんだから。日本においては。だからこそ、近所のおじさんが優しかったりとかあったしさ。バランスは取れてたわけで。

でも、いまは違うんよなぁ。まず、そういう新しい文化を「学ぶ」しか他に方法がないんよね。七面倒くさいけど、日本においてはそうなってしまってると思う。

正味、キリスト教から学び直さないと「個人」なんて日本人には分らないんだけどねぇ。ああああ、面倒くさい。

kaichu
kaichu
2007年5月7日14:16

パソコンかあ・・・パソコンから自己の確立なのね・・。
なるほどねえ。その辺もう少し教えてくれないかな。あ、自己選択の自己責任ってことかな?

でも私の見たところ、キリスト教は個人の確率なんかしてくれなかった気がするんだなあ。基本的にはチームですよ、やくざですよ、ギャングですよ?
まあ特にカソリックにその傾向があるみたいだけど・・・。彼らにしてみれば、キリスト教じゃないものは「ないもの」というか、攻撃していいもの=教えてあげなければいけない野蛮人たち、というものの見方ですから。

ここ数年じゃないかな、他の宗教もあるんだ!ということを一般の人も気が付くようになって来たことは。そういった意味では911はある意味貢献しているんじゃないですか?
ターバンまいているインド人のことをモスレムだとして頭の悪すぎるレッドネックがそのインド人を殺したという事が911の直後にありましたが・・・。

シゲ
シゲ
2007年5月7日16:34

>kaichuさん
パソコンってデータが「自分の意志」で削除できるじゃないですか。それも簡単に。これ、日本の家電メーカーとかが作ったら、簡単にはデータは消えないように自動バックアップの仕組みとか、最初から入れてると思うよ。

「データの削除をする場合は、管理メニューに入っていただきまして、全フォルダ一覧を選択の後、削除ボタンを押してください。」とかさ、なんか特別メニューに入らないとデータは消せないとかになるよ。日本の家電メーカーが作ったら。

でもパソコンは個人で自由にデータが消せるし、仮に間違ってデータ消し去ってしまっても、それは「個人の責任」ってことでしょ?誰も面倒見てくれない。

「まずバックアップをお取りください。それが個人の責任です。(データが消えても、わしゃ知らん)」

ってのがパソコンじゃないですか。

だいたい、パーソナルコンピュータだから「ログイン」って概念もあくまで個人単位であって、「○○チームのパソコン」とかの発想にはなってないよね。チームで一台使う時は、個人別にID持って、それぞれにログインして、で、○○チームならアクセスできる情報がこことここ、とかになるわけで、あくまで単位は個人。日本人ならすぐに「1チーム1IDでいいじゃん」になると思う。それで十分だし。日本の場合は。

日本人の文化は「和の文化」って言うけど、ようは「輪」の文化でしょ? お互いに車座になって話し合う。誰がトップとかもない。その代わり、お互いに監視しあってるみたいな。

でもキリスト教ではそういう横つながりは「汝の隣人を愛せよ」という教典、聖書から命令されてすることであって、個人個人が神様と直結してる概念なんよね。日本人みたいに神様なしの直接横つながりの車座って発想はないと思う。

日本人がモスレムの事に気付きだしたのは911以降だろうけど、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が世界の三大宗教であるというのは世界的な常識でしょう。まぁ強大宗教みたいなもんだけど。

で、この三つは啓典宗教、ようするに書物でいろいろな規範を書き留めて、それをあがめて行動する宗教。だから横つながりはないわけ。個人が教典(聖書とかコーラン)を行動規範にしてるだけで、直接個人同士が仲良くなって自分たちのルールを自分たちなりに生んでるわけではないと。そういうことですね。

この教典と個人の関係とパソコンと個人の関係っていうのがそっくりなのさ。
日本人なら「チーム○○専用パソコン」とか、すぐに発想するけど、そんなものを彼らは簡単には思いつかないと思うし、必要とも思わないんじゃないだろうか?

ちなみに、歴史の順で言うとユダヤ教、キリスト教(カソリック→プロテスタント)、イスラム教で、イスラム教がいちばん新しい宗教だし「完成された宗教」とか呼ばれたりします。

仏教も入れて世界の四大宗教という言い方もされることは多いけど、さて仏教はどうなんやろ? どっちかというと「思想」に近い気がするけどなぁ。中国の儒教も思想に近い気がする。概略、アジアは「思想」という感じなんよなぁ。

ま、概略そんな事だと思います。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索