裸の王様のすべきこと。その2。
2007年5月4日 ●じぶんの心マップ コメント (6)なんだかんだ書いてますが、身の回りに「裸の王様」がいてると、迷惑なんですよね。単純に。
「わしの服はすばらしいじゃろ」
「ええ、ええ、まさに。」
とかやってるのを見て、必死に「お前、裸やんけ!」と言うのをこらえなければならない。
これが辛い。
裸の王様は、ものすごい迷惑なんですよ。心の風通しが悪すぎて、イライラする。本来、さっさと「裸じゃ風邪ひくし、服を着ておかないとだめだよ。」で済むものが、全然そういうまともな話にならない。
ひたすら「裸」の話題を避けていかないとダメ。
もう、実にうっとおしい。
単純な話、そういう裸の王様ご一行とは、一緒に出かけることもできない。だって、回りから好奇の目で見られたときの言い訳とか考えないといけないから。
ムダ。もの凄いムダ。
たとえば、子供の前でだけ「えらそうな父親」「きちんとした母親」を演じるのに慣れてしまってるとかね。
でもって、子供達もその体面を取り繕ってやるためにヒーコラ言ってるとかがあったりしてね。
で、そういう親子の横にいてる人間が、そのどうでもいい体面を保ってやらなきゃいけないいうのは苦痛以外の何物でもない。
このあたり、親子関係とか、会社の上司・部下の関係とか、友人同士のバランス関係とか、「裸の王様=部下関係」が成立している人間関係の回りにいてる人間は、そらもうものすごい苦痛にさいなまれるわけですよ。たまりませんよ、それは。ええ迷惑です。
お前が裸なんは、モロにばれてますがな。そやのに、なんで、その体面を俺たち、外の人間が保ってやらにゃならんのだ。お前が裸を「見えない服があるのだ!」と強弁するのは、お前の勝手だし、勝手にやってりゃいいが、そういう人間が回りにいてると、こっちはうっとおしくてたまらん。気が狂いそうになる。っちゅうか、裸の王様構造というのは明確に狂気の構造なので、ようするに近づくとキチガイがうつる、という事になってしまうわけです。
解決策は単純で、「お前が裸なんがイカンのや。さっさと服を着よ。」っちゅうことですな。他に解決策はありません。一切無い。裸の王様は服を着るべし。それだけの事であります。アホくさい話です。
ところが!です。現実というのは、童話の話みたいに事は単純にはおさまらないわけですよ。
裸の王様の物語においては、子供が「だってあの王様、裸だよ!」と指摘して王様が自分が裸だったことに気付くわけですね。それでめでたしめでたしです。
でも実際にはそううまくはいかない。現実の裸の王様は、自分が裸だと言うことに気付かないのですよ。
いや、気付かないというより「気付きたくない」なんですな。
もう、ほんとに、いつまでもどこまでも、えんえん、どうでもよいくだらない、うそっぱちの「見えない服」とかにこだわり続ける。いつまでもこだわる。どこまでもこだわる。
ほんまに、これがかなわんのですよ。
ほんまにかなわん。
洒落にならん。
こっちが病気になってしまう。
ものすごく気持ち悪い。
助けてくれーって思う。もう、そういうゆがんだ関係に近づくと、それだけで精神がゆがんでしまいそうになりますな。まぁ、近づかないようにしてるんだけど、そうやって離れる以外に手がないんよなぁ、そういう病状まで進んでると。
ほんと、童話みたいに「王様は、やっと自分が裸であることに気付きました」にはならないわけですよ。ほんとに。たまりませんよ、これは。
で、たいていの場合、「あんた裸やで」と、親切ていねいに言おうが、どう言おうが、言い方はどうであれ、一番指摘されたくないところを指摘された人間というのは、怒り狂って逆にこっちを糺弾してくるんですね。
なんだかなぁ。とほほほほ。助けて欲しいよ。ほんまに。
「見えない服」の思いこみが激しければ激しいほど、ようするに病状が悪化していれば悪化しているほど、この逆糺弾は強くなります。
つまり。
本当に自分が裸だと気付かなければ行けない、必然性の強い人ほど、「指摘してくれた人を攻撃する」という、アホな行為がはげしくなるわけです。
この病気とね、私はどうつきあったら良いのか、さっぱりわからないのです。
もう、お手上げなのよね。こういう病気。
昨日は、小学校からの友達と、なんだかんだと話しをしながら飲んでたんですが、その男が「やっぱり自分の間違いを直さないと自分の成長なんてないやん」と言っていたので、
「そのとおり!!!」
と、大きく頷いたのだけれども、それに添えて、
「でもな、自分の間違いを、よう認められんアホな人間っていうのも、世の中には多いねんで。」
という話をしておりました。で、
「あなたは、その自分の間違いを修正できる人だからそれで良いけれど、それを当たり前だと思ったらアカンよ。世の中には、自分の間違いを修正できずに、逆に間違いを指摘してくれた人間を糺弾するようなアホな人間がゴマンといてるのだよ。そこのところ意識しておかないと、えらい目にあいまっせ。」
という事を話しておりました。
ほんま、親切心で問題点を指摘してるのに、糺弾されたらたまったもんやないわ。
そういう事を言ったら「えええ?そんな人間おんの? 自分のミスとか指摘してくれる人なんて、なかなかおらんねんから、一番の味方やん。そんなことしたら、ほんまに何の成長もでけへんやん。」と彼は驚いてましたが。
「ちゃうねんって。一番痛いところを突かれて、怒りまくる人の方が多いねんって。僕もあなたも、痛いところを突かれたら、ああ、ありがたいと思うタイプやけど、そうではないタイプの人間もぎょーさんおるっちゅうことですわ。」
と話して、
「うーむむむむ、そうかぁ。」
となったんですがね。
ほんま、困ったことです。
私はいまだに、この問題の解決策を見いだせておりません。
まぁ、気付きたくない人は、気付きたくないから、気付かないようにしてるんだろうし、ほっとくしかないんだけどね。
ああああ、でも、ほんまにうっとおしいし、ものすごい社会の迷惑だよなぁ、裸の王様って。ええかげん気付いて欲しいわ。
「わしの服はすばらしいじゃろ」
「ええ、ええ、まさに。」
とかやってるのを見て、必死に「お前、裸やんけ!」と言うのをこらえなければならない。
これが辛い。
裸の王様は、ものすごい迷惑なんですよ。心の風通しが悪すぎて、イライラする。本来、さっさと「裸じゃ風邪ひくし、服を着ておかないとだめだよ。」で済むものが、全然そういうまともな話にならない。
ひたすら「裸」の話題を避けていかないとダメ。
もう、実にうっとおしい。
単純な話、そういう裸の王様ご一行とは、一緒に出かけることもできない。だって、回りから好奇の目で見られたときの言い訳とか考えないといけないから。
ムダ。もの凄いムダ。
たとえば、子供の前でだけ「えらそうな父親」「きちんとした母親」を演じるのに慣れてしまってるとかね。
でもって、子供達もその体面を取り繕ってやるためにヒーコラ言ってるとかがあったりしてね。
で、そういう親子の横にいてる人間が、そのどうでもいい体面を保ってやらなきゃいけないいうのは苦痛以外の何物でもない。
このあたり、親子関係とか、会社の上司・部下の関係とか、友人同士のバランス関係とか、「裸の王様=部下関係」が成立している人間関係の回りにいてる人間は、そらもうものすごい苦痛にさいなまれるわけですよ。たまりませんよ、それは。ええ迷惑です。
お前が裸なんは、モロにばれてますがな。そやのに、なんで、その体面を俺たち、外の人間が保ってやらにゃならんのだ。お前が裸を「見えない服があるのだ!」と強弁するのは、お前の勝手だし、勝手にやってりゃいいが、そういう人間が回りにいてると、こっちはうっとおしくてたまらん。気が狂いそうになる。っちゅうか、裸の王様構造というのは明確に狂気の構造なので、ようするに近づくとキチガイがうつる、という事になってしまうわけです。
解決策は単純で、「お前が裸なんがイカンのや。さっさと服を着よ。」っちゅうことですな。他に解決策はありません。一切無い。裸の王様は服を着るべし。それだけの事であります。アホくさい話です。
ところが!です。現実というのは、童話の話みたいに事は単純にはおさまらないわけですよ。
裸の王様の物語においては、子供が「だってあの王様、裸だよ!」と指摘して王様が自分が裸だったことに気付くわけですね。それでめでたしめでたしです。
でも実際にはそううまくはいかない。現実の裸の王様は、自分が裸だと言うことに気付かないのですよ。
いや、気付かないというより「気付きたくない」なんですな。
もう、ほんとに、いつまでもどこまでも、えんえん、どうでもよいくだらない、うそっぱちの「見えない服」とかにこだわり続ける。いつまでもこだわる。どこまでもこだわる。
ほんまに、これがかなわんのですよ。
ほんまにかなわん。
洒落にならん。
こっちが病気になってしまう。
ものすごく気持ち悪い。
助けてくれーって思う。もう、そういうゆがんだ関係に近づくと、それだけで精神がゆがんでしまいそうになりますな。まぁ、近づかないようにしてるんだけど、そうやって離れる以外に手がないんよなぁ、そういう病状まで進んでると。
ほんと、童話みたいに「王様は、やっと自分が裸であることに気付きました」にはならないわけですよ。ほんとに。たまりませんよ、これは。
で、たいていの場合、「あんた裸やで」と、親切ていねいに言おうが、どう言おうが、言い方はどうであれ、一番指摘されたくないところを指摘された人間というのは、怒り狂って逆にこっちを糺弾してくるんですね。
なんだかなぁ。とほほほほ。助けて欲しいよ。ほんまに。
「見えない服」の思いこみが激しければ激しいほど、ようするに病状が悪化していれば悪化しているほど、この逆糺弾は強くなります。
つまり。
本当に自分が裸だと気付かなければ行けない、必然性の強い人ほど、「指摘してくれた人を攻撃する」という、アホな行為がはげしくなるわけです。
この病気とね、私はどうつきあったら良いのか、さっぱりわからないのです。
もう、お手上げなのよね。こういう病気。
昨日は、小学校からの友達と、なんだかんだと話しをしながら飲んでたんですが、その男が「やっぱり自分の間違いを直さないと自分の成長なんてないやん」と言っていたので、
「そのとおり!!!」
と、大きく頷いたのだけれども、それに添えて、
「でもな、自分の間違いを、よう認められんアホな人間っていうのも、世の中には多いねんで。」
という話をしておりました。で、
「あなたは、その自分の間違いを修正できる人だからそれで良いけれど、それを当たり前だと思ったらアカンよ。世の中には、自分の間違いを修正できずに、逆に間違いを指摘してくれた人間を糺弾するようなアホな人間がゴマンといてるのだよ。そこのところ意識しておかないと、えらい目にあいまっせ。」
という事を話しておりました。
ほんま、親切心で問題点を指摘してるのに、糺弾されたらたまったもんやないわ。
そういう事を言ったら「えええ?そんな人間おんの? 自分のミスとか指摘してくれる人なんて、なかなかおらんねんから、一番の味方やん。そんなことしたら、ほんまに何の成長もでけへんやん。」と彼は驚いてましたが。
「ちゃうねんって。一番痛いところを突かれて、怒りまくる人の方が多いねんって。僕もあなたも、痛いところを突かれたら、ああ、ありがたいと思うタイプやけど、そうではないタイプの人間もぎょーさんおるっちゅうことですわ。」
と話して、
「うーむむむむ、そうかぁ。」
となったんですがね。
ほんま、困ったことです。
私はいまだに、この問題の解決策を見いだせておりません。
まぁ、気付きたくない人は、気付きたくないから、気付かないようにしてるんだろうし、ほっとくしかないんだけどね。
ああああ、でも、ほんまにうっとおしいし、ものすごい社会の迷惑だよなぁ、裸の王様って。ええかげん気付いて欲しいわ。
コメント
ふふふ。イライラしますよね。もう憤りの域に達しそうになります。
王様が意固地になるのは
「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」を
受け止めてよ、愛してよってことなのかなと思ったりしますが
そんな調子のいいこと言うなよ、いい大人がというのが本音です。
もう大きくなったんだから自分でお洋服きなさいね、
わたしは着せてあげられないわ。みたいな感じです。
ほんとうは好きで「裸」やってるわけではないと思うので
それを人からつきつけられるとたまらなく痛いんでしょう。
はた迷惑だし、しっかり現実見ろよ!と言いたい。とても言いたい。
だけど、それはもしかしたらとても残酷な行為なのかもしれないと悩みます。
あまり突っ込んでも友情がこわれるか、敵を作ってしまうだけだというのが
実感としてあるし。悲しいけど。
人は孤独で、だから一瞬の親密な関係が大切なのでしょうね。
おおおおおおおおおお!!!!!
「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」
なのですね!
そうか、そうなのですね!
これは目ウロコだった!!!!
「気づけない自分」を、彼らは「ありのまま」だと完璧な勘違いをしてるわけですね!!!
目隠しされた馬車馬みたいに、ある特定の方向は一切見ないようにしている、ゆがんだ、病的な状態をこそ「ありのまま」だと思ってるわけですね!!!
それには気づきませんでした!!
そんなん病気やん!
おかしいやん!
って思うんですが。
多分、「心に痛い出来事が起こったときに、痛いと感じていないようにする」という、ものすごく不自然な事を彼らはやってるんですよね。
で、僕から見たら「感じないようにする」などというアホな事をしてる方がおかしい、異常だ、狂ってると思って、いろいろ言うわけですけど、そうか! 彼らは「感じないようにする」事こそ、「ありのまま」だと思ってるわけですね!!!
信じられない!!!!
普通にありのままにしてたら、喜びは喜びとして感じるし、痛みは痛みとして感じるのに!!
失敗したら痛い。だから、それをそのまま痛いと感じさえすれば、「もう痛いのは嫌だから失敗しないようにしよう」と知識を蓄え、賢くなれるのに、「痛いのは嫌だから感じないようにしよう」としていて、そこが僕から見たら、異常で異常で、気持ち悪くて嫌になってたんですよ。
そんなもの、生きていたら転んですりむいて、心に傷を負う事もあるけど、その痛みを避けてたら、治るものも治らないし、「転ばないようにしよう」という学習も効かない。痛みを「痛い」と感じるから、転ばないように走る知恵も付くんだし。何より、痛みは自然に癒えます。
だから、彼らが「痛みを感じないようにしよう」としてる態度が、もう異常で気持ち悪くてしょうがなかったんですが、その痛みを「感じないようにする」事こそが「ありのまま」だと勘違いしてるわけですね!!!!!
あああああ、そういう視点はなかった!!!
「感じない」なんて人間じゃねぇよ!
死んでるやん、それ!!
ああああ、そうか!いろんな事がいっぺんに分かって来ましたよ。いやー陶子さん、ありがとうございます。
そうかぁ、そうなんですよね。彼らの言う「ありのまま」っていうのは、そういう「ゆがみ」があるんですよね。
うーん、やっと謎が解けてきた。
で、その「ゆがみ」を愛する事が「愛」だとでも思ってるわけですね?
あああ、そうか。なるほど。
ものすげー勘違いやなぁ。
根本から完全に間違っとる。
うーん、ものすごい重病ですなぁ。
だから、失敗を指摘するとか、裸であることを明示するとかが、彼らにとっては「無理矢理痛みを押しつけてくる暴力行為」に見えるわけだ!!!!
ななななな、なんという愚かさ。
信じられん。
なんじゃそりゃ。
ちょっと、じっくり考えてみますです。
うーん。
人生は難しい。
難しすぎる。
ご指摘ありがとうございます。大変役立ちました。>陶子さん
そうなんですよね、ゆがんでる=生まれつきの私 という間違いがなかなか認識できないのがACなんです。
アラノンの書物にもありますが、「ゆがんだものの見方はアルコール依存症と共に育ってきた環境のなかで学んだもの。学んだものだから、学び戻す(re-leaningという言葉を使いますが)事が可能だと知る。そこに回復への道を歩む希望が発生する、ということだそうです。
学び戻す(re-leaning)ですか。良い言葉を聞きました。もうちょっと勉強してみよう。
でもあれだね。kaichuさんは学び戻すとしたら、日本に戻って日本人の中で学び戻してみてもいいのかもね。なんとなく直感的にそんなことを思いました。理由はなくて突然そう思ったので、理由は聞かないように。(笑) 思いつきなので聞き流してちょ。
お招き(?)ありがとうございます。私のパターンとしては、私は外へ外へと出かけていって中を学ぶというもののようです。中にいると腐っちゃうんですね。とはいえ、あまりにもめまぐるしいと自分を見失ってしまうので、実生活→堅実安定、旅行→冒険って感じかな。
基本的に、中毒者がアルコールに逃避するのに私は旅に逃避する気がします。ただし、私が中毒と違うのは、(特に最近)実生活があってからこそ、冒険が楽しめる、ということでしょうか。
NYは既に私の中での故郷となっているので、あまり中にいても・・。ということでメキシコとか他国へ行くんでさー。
日本にもいつか、私と社会の相互の上利益があるような状況にめぐり合ったら帰るでしょうね。ただ、今は時期ではないんです。