共通項を大切にする。
2006年8月21日コメント (3)マザーテレサが言った言葉で、「私は反戦の集いなどには出ないのです。平和を生み出すための集いになら参加しますが。」というのがあります。
これ、極めて素晴らしい考え方だと思うのですよ。
反戦の集いも平和の集いも同じようなものだと考えがちですが、実は全然別の事なんですね。で、大切なのは、平和のように「良いものを創る」という関わり方なわけです。
で、さて。
これを、もう少し普遍化させてみるとどうなるかというと、「皆が良いと思うことを促進していく」ということになります。
阪神大震災の時に、30年以上もの長期のローンを抱えたまま、住んでるマンションが半壊してしまって、その再建をどうするかで管理組合がいくつも紛糾したわけですが、それがうまく行ったところは「お互いの不利益を気づかうということではなく、共通のメリットをとにかく優先するようにした」という話がありまして、これもこのマザー・テレサの考え方に似ているなぁと思うのですね。
不幸をどうにかするのではなく、幸せを共有する。広げる。伸ばす。豊かにする。
そういうことですね。
で、そういう事を本当に、いついかなる時にでもできるようにしようとするなら、やはり「共通のメリットを優先する」という事になるわけです。
自分の心の中では5番目くらいにしか大事に思ってないことでも、みんなが同じように大事に思っているのなら、自分だけが一番大事に思っていることは少しおさえて、五番目を最優先課題にする、ということですね。
これが社会的な決まりなどを決めるのに、大切な方法なんだそうです。阪神大震災の時には、そういう話を聞いて、「なるほどなー」と思いました。
では、さて。
そういう事を考えていくと、親子関係というものを考える時にはどうしたら良いのでしょうか?
これねぇ、たぶん「自分の親について、キチンと考える」だと思うのですよ。
子供を持っている人は、子供の事を中心に考えるだろうけど、世の中には、いくら子供が欲しくても子宝に恵まれない人もいる。そう言うことを考えると、「親子関係の問題」を考える時には、「自分と親との関係をしっかりとつきつめて考える」ということをやれば、ほとんどの人と共通の話題になるんですね。
みんなが自分の話だと思って考えることができる。そういうとらえ方をすることが大切だと思うのです。
特に「その考え方って面白いよなぁ。」と思ったのが、手塚治虫の言ったセリフで、「人類はすべて、女性から生まれている。」という言葉。
なんてこたぁない、当たり前の事を言ってるように思えますが、これはそんなこんなを考えると、やっぱりすごい一言だよなぁって思うのです。
子供にいてない人間はいてても、親のいてない人間はいてないんです。
だから、自分と親との関係を、まず見つめ直すというのが、ファーストステップなんですね。いちばんの初歩なんだと思う。
で、それだけで、まぁおそらくはたいていの問題が解けるはずなんですね。ようは立場を入れ替えて見ればいいのだから。
そして、どんな人でも、このテーマに関してなら、話ができるんですね。はみだしっ子をつくらない。
これが平和を生み出す、物事を実現させる発想なわけです。
このテーマであれば、子供が欲しくてしょうがないのに、なかなか子宝に恵まれない夫婦だって、いろいろと考えられるし、学びも成長もありえる。
ところが、これが困った事に、子供を持った親の中には「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」とかいう独善的な事を平気で言う人がとても多いのですよ。
独善的だ。ものすごく。
でもねぇ、こういう事を言う人は、それが独善的な発想だという事に欠片も気付いてないんですね。というか、多分気付きたくないんだろうな。そういう事を言う人は、多かれ少なかれ、児童虐待をやっている。
児童虐待なんてね、そんじょそこいらに転がってるわけです。ほんとうに些細なことが「虐待」なわけですよ。はたから見れば一発でわかる。子供を持って無かろうが、親子関係のあるべき姿なんて、すぐにわかる。誰だってみんな子供だったんだから。
そんじょそこいらに転がっていることだから、それをとやかくは言わないけれども、なんちゅうかなぁ、自分が独善の極み、わがまま勝手の極北の事を言ってるんだという事には気付いてもらいたいよなぁとは思うのですね。
親子問題は「子供から見た親」というテーマでなら、すべての人類が、共通に語れるってことですね。よりメジャーで立派で本道の論議がそこにはキチンとあって、たとえば、アダルトチルドレンの話だって、その観点から見るだけで全てが明らかにできるというたぐいの事なわけです。
逆に言えば、「数学」ではなくて「算数」レベルの話だ、と言い換えてもいいでしょう。算数ができてない人に数学がわかるわけがないのです。子育てで誰かに「それはアカンのと違う?」と言われたら、数学ばっかりやってて算数がわかってないんと違うやろか? と思わないとダメなわけです。
そらねぇ、四則演算のうちのひとつでも習得してないままに、高等数学なんかに手をだしたら、悩んで混乱して、おかしなことを口走ることにしかなりませんわな。
なので、「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」という人には、本当に深く反省してもらいたいのよなぁ。子供が欲しくて欲しくて、それでも子宝に恵まれないというような夫婦を何組も見てますしなぁ。そう言うことを考えると、「子どもを持ったことがない人に…」とか発言する人は、そういう悲しみを抱えた人に対する思いやりすら持つ余裕がなくなっているということだから、生きてる価値さえないと思うのよなぁ。
「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きている値打ちもない。」
というのはハンフリー・ボガードのセリフだけれども、まさにそれですね。
そういう人を思いやる心もなくして、何が親か、という事だと思います。そういう人は断罪されても仕方ないよなぁ。実際とんでもなくヒドイ事を言ってるんだし。
ひどいことを自覚して言うなら、まだ許せるんだけど、自覚してないのが問題なんだと思う。
子供のいてる人からは反感を買うんだけど、これはどうしても思ってしまうことなんですねぇ。ほんとに。
「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」という言葉が、まさに児童虐待の温床なわけですよ。ほんとに。マジに。
で、そういう事を言う人がいるから、妊婦のための買い物のしやすい施設とかが生まれないわけですよ。自分で自分の首を締めてるような事にしかならない。ほんと。
これ、本当に大問題で、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」って一回でも言った事のある人は、心底反省してもらいたいんですよねぇ。この言葉って、みんなの水源地に毒薬を流してるのと同じなんだ。そこに気付いてない。
誰にでも親はいる。
人間である限り親から生まれている。
この当たり前の事実に立ち戻っていただきたいですわ。ほんまに。
このあたり、日本という国が何故「少子化」になっているのか、ということともつながるんですけど、そういう話はまた別の問題なので、別の機会に書きます。
ほんと、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」と言う人。あなた人間としてあるまじき発言してるんだから、ほんと、ちょっと自覚してよねって思うのよなぁ。マジに。人間の本道を自ら踏み外しておいて、何を偉そうに、ってことなんだけどなぁ。
わからんのやろなぁ。
「子から見た親」の話なら、どんな人間でも一緒に考えられるのよ。それこそ高校生でも。この開かれたテーマの立て方ができないという事こそが、あなたの問題なんだよ、ってことなんですね。ほんとに。
でも、わからない人には、そこがわからない。
困った事である。
これ、極めて素晴らしい考え方だと思うのですよ。
反戦の集いも平和の集いも同じようなものだと考えがちですが、実は全然別の事なんですね。で、大切なのは、平和のように「良いものを創る」という関わり方なわけです。
で、さて。
これを、もう少し普遍化させてみるとどうなるかというと、「皆が良いと思うことを促進していく」ということになります。
阪神大震災の時に、30年以上もの長期のローンを抱えたまま、住んでるマンションが半壊してしまって、その再建をどうするかで管理組合がいくつも紛糾したわけですが、それがうまく行ったところは「お互いの不利益を気づかうということではなく、共通のメリットをとにかく優先するようにした」という話がありまして、これもこのマザー・テレサの考え方に似ているなぁと思うのですね。
不幸をどうにかするのではなく、幸せを共有する。広げる。伸ばす。豊かにする。
そういうことですね。
で、そういう事を本当に、いついかなる時にでもできるようにしようとするなら、やはり「共通のメリットを優先する」という事になるわけです。
自分の心の中では5番目くらいにしか大事に思ってないことでも、みんなが同じように大事に思っているのなら、自分だけが一番大事に思っていることは少しおさえて、五番目を最優先課題にする、ということですね。
これが社会的な決まりなどを決めるのに、大切な方法なんだそうです。阪神大震災の時には、そういう話を聞いて、「なるほどなー」と思いました。
では、さて。
そういう事を考えていくと、親子関係というものを考える時にはどうしたら良いのでしょうか?
これねぇ、たぶん「自分の親について、キチンと考える」だと思うのですよ。
子供を持っている人は、子供の事を中心に考えるだろうけど、世の中には、いくら子供が欲しくても子宝に恵まれない人もいる。そう言うことを考えると、「親子関係の問題」を考える時には、「自分と親との関係をしっかりとつきつめて考える」ということをやれば、ほとんどの人と共通の話題になるんですね。
みんなが自分の話だと思って考えることができる。そういうとらえ方をすることが大切だと思うのです。
特に「その考え方って面白いよなぁ。」と思ったのが、手塚治虫の言ったセリフで、「人類はすべて、女性から生まれている。」という言葉。
なんてこたぁない、当たり前の事を言ってるように思えますが、これはそんなこんなを考えると、やっぱりすごい一言だよなぁって思うのです。
子供にいてない人間はいてても、親のいてない人間はいてないんです。
だから、自分と親との関係を、まず見つめ直すというのが、ファーストステップなんですね。いちばんの初歩なんだと思う。
で、それだけで、まぁおそらくはたいていの問題が解けるはずなんですね。ようは立場を入れ替えて見ればいいのだから。
そして、どんな人でも、このテーマに関してなら、話ができるんですね。はみだしっ子をつくらない。
これが平和を生み出す、物事を実現させる発想なわけです。
このテーマであれば、子供が欲しくてしょうがないのに、なかなか子宝に恵まれない夫婦だって、いろいろと考えられるし、学びも成長もありえる。
ところが、これが困った事に、子供を持った親の中には「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」とかいう独善的な事を平気で言う人がとても多いのですよ。
独善的だ。ものすごく。
でもねぇ、こういう事を言う人は、それが独善的な発想だという事に欠片も気付いてないんですね。というか、多分気付きたくないんだろうな。そういう事を言う人は、多かれ少なかれ、児童虐待をやっている。
児童虐待なんてね、そんじょそこいらに転がってるわけです。ほんとうに些細なことが「虐待」なわけですよ。はたから見れば一発でわかる。子供を持って無かろうが、親子関係のあるべき姿なんて、すぐにわかる。誰だってみんな子供だったんだから。
そんじょそこいらに転がっていることだから、それをとやかくは言わないけれども、なんちゅうかなぁ、自分が独善の極み、わがまま勝手の極北の事を言ってるんだという事には気付いてもらいたいよなぁとは思うのですね。
親子問題は「子供から見た親」というテーマでなら、すべての人類が、共通に語れるってことですね。よりメジャーで立派で本道の論議がそこにはキチンとあって、たとえば、アダルトチルドレンの話だって、その観点から見るだけで全てが明らかにできるというたぐいの事なわけです。
逆に言えば、「数学」ではなくて「算数」レベルの話だ、と言い換えてもいいでしょう。算数ができてない人に数学がわかるわけがないのです。子育てで誰かに「それはアカンのと違う?」と言われたら、数学ばっかりやってて算数がわかってないんと違うやろか? と思わないとダメなわけです。
そらねぇ、四則演算のうちのひとつでも習得してないままに、高等数学なんかに手をだしたら、悩んで混乱して、おかしなことを口走ることにしかなりませんわな。
なので、「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」という人には、本当に深く反省してもらいたいのよなぁ。子供が欲しくて欲しくて、それでも子宝に恵まれないというような夫婦を何組も見てますしなぁ。そう言うことを考えると、「子どもを持ったことがない人に…」とか発言する人は、そういう悲しみを抱えた人に対する思いやりすら持つ余裕がなくなっているということだから、生きてる価値さえないと思うのよなぁ。
「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きている値打ちもない。」
というのはハンフリー・ボガードのセリフだけれども、まさにそれですね。
そういう人を思いやる心もなくして、何が親か、という事だと思います。そういう人は断罪されても仕方ないよなぁ。実際とんでもなくヒドイ事を言ってるんだし。
ひどいことを自覚して言うなら、まだ許せるんだけど、自覚してないのが問題なんだと思う。
子供のいてる人からは反感を買うんだけど、これはどうしても思ってしまうことなんですねぇ。ほんとに。
「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」という言葉が、まさに児童虐待の温床なわけですよ。ほんとに。マジに。
で、そういう事を言う人がいるから、妊婦のための買い物のしやすい施設とかが生まれないわけですよ。自分で自分の首を締めてるような事にしかならない。ほんと。
これ、本当に大問題で、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」って一回でも言った事のある人は、心底反省してもらいたいんですよねぇ。この言葉って、みんなの水源地に毒薬を流してるのと同じなんだ。そこに気付いてない。
誰にでも親はいる。
人間である限り親から生まれている。
この当たり前の事実に立ち戻っていただきたいですわ。ほんまに。
このあたり、日本という国が何故「少子化」になっているのか、ということともつながるんですけど、そういう話はまた別の問題なので、別の機会に書きます。
ほんと、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」と言う人。あなた人間としてあるまじき発言してるんだから、ほんと、ちょっと自覚してよねって思うのよなぁ。マジに。人間の本道を自ら踏み外しておいて、何を偉そうに、ってことなんだけどなぁ。
わからんのやろなぁ。
「子から見た親」の話なら、どんな人間でも一緒に考えられるのよ。それこそ高校生でも。この開かれたテーマの立て方ができないという事こそが、あなたの問題なんだよ、ってことなんですね。ほんとに。
でも、わからない人には、そこがわからない。
困った事である。
コメント
義務です。義務。
この義務を果たさずに、「言ってもわからない」というのは逃げですよ。その義務を果たさないから、たとえば優先座席でも、妊婦のためのとかのイメージがキチンと定着しないのです。
まぁ、女の人が「子育てしたことのない人が」うんぬんを言うのは、まだ許せるんですが、男親が言うのはみっともないなぁと思いますね。
社会性こそが男の役割、得意技。それこそ嫁さんの大変さを、嫁に変わって世間に伝えるとかしないといけないはずでしょうに。
でも、いてるんですよ。男でも「子育てしたことのない人にとやかく言われたくない」って拒絶してしまう人が。かっこ悪いことはなはだしいと思います。
大変な事があるなら包み隠さず言う。失敗もひっくるめて知らない人に言う。みんな「親」を持ってるんだから。その「親」の立場を代弁するために言う。知らない人にこそ。
そうしないから、妊婦さんの大変さが改善されないんですよ。
しかし、家庭を持ったとたんに、我が家だけが自分のお城で「社会なんか知らないもんねー」って人がこれまた多い。それで児童虐待して、それを「頑固親父だ」などと思ってたりする。
いや、それ、単なるわがままですから。
間違ってますから、明確に。
私は社会経験のないガキ(20代前半とか後半とか)がいきなり「先生」になって権力持っちゃうことが問題だと思う。ここで言っていることとは全然関係ないんだけど。普通の会社なら、平社員だよね。それなのに、子供より年が上ってことで威張り散らしたりルールを作れちゃうような位置にいるって事、しかも教員暦何十年とかって人はそれしかしたことないから社会のこととか一切知らない。
そういう人を教師と呼ぶ学校体制って激しくおかしいと思う。やっぱり中途採用しないとさ。教師も。
「人生経験を評価する」ってことはとても大切な事なんですよ。これは大事。これをしないと、人が生きる意味というのが見えにくくなってしまう。
しかし、「何の努力もしていないけれど、ただ年を食っただけでエライ」になってしまうというのが問題なわけです。
で、日本には、この「ただ年を食っただけでエライ」という概念がしっかりと文化として存在しているわけです。ここが問題。
それは、中国の社会体制を支えるための概念であった「儒教」が日本に入り込んで、定着したことが基板ですね。
儒教は「親はエライ」なんです。それも無批判にエライとしている。実は中国という国は大地が広すぎてですね、日本みたいに「町内会」みたいな社会と家族の間をつなぐ中間組織体みたいなものがないんですよ。家族より大きな組織体は、いきなり国家だったりするわけ。
だから国家と対峙する概念として家族主義があるから、その反映として「親はなにもしてなくてもエライ」なわけ。
これをそのまま日本に持ってきても、ちょっと無理があるんですよね。
でも、この無理のある「親子に関する規律」が、普通に存在してるから、親子関係でいろいろな問題が発生しやすいわけです。親が子供を抑えつけて別にかまわないって感じにどうしてもなってしまう。
で、たぶん「親は子供の親分である」っていうのが、ものすごーく快感なんだろうね。だから「別に親は子供の親分じゃねーよ。子供に力がないからってつけあがるんじゃねーよ、おっさん」とか、外野から言われると「子供を持ったこともない人にやいのやいの言われたくない」って話になっちゃうんだよね。
くだらねぇ。
で、この儒教の「とにかく年上がエライ」って無茶な考え方が、そのまま拡大すると中身のない権威主義になっちゃうわけですよ。それこそ、「先生と名前がつけばエライ」みたいな感覚になってしまう。
だからkaichuさんが言ってる親として偉ぶってる人間は新卒のガキを「先生」と立ててしまう人でもありますわな。
でも、また、ここが難しいところで、人は「役割で成長する」って事もありますからね。「先生」と立てる事で、未経験の人も「えらくなろう」とするからね。
その向上心があるかないか、ですな。
向上心がないのはダメだなぁやっぱ。
そう思います。