ちょっと、自分のやってる掲示板とか整理してたら、今年の三月に書いてるネタが、こっちの日記向きだなぁと思って、転載しようと思いました。
基本は
●愛とは成長しようとする意志である。
というメッセージです。
で、
●成長するというのは「痛み」を引き受けることである。
ということです。
で、
●自分の弱点・間違いを自覚するのが、一番痛いが、それをこそやるのが、人間の生きている価値である。
ということですね。
ということで転載。
------------------------------
ちゅうことで、ちょっと最近思ったことを書く。
それは「愛」とは何かということで、この定義って実はあまりキチンとはされていないのだ。
だってLoveでしょ? 外国語だもの。
で、私が敬愛するウォイティツ(アダルトチルドレンという概念の提唱者)は、「愛とは向上すること」と言ってるのですね。
ある意味正しくて、この「向上」さえ頭に入れて生きてれば、まぁ間違いはない。(向上には「責任を引き受ける=痛みを引き受ける」という意味を含む。というか向上するというのは、そういうことだ。)
でもねぇ。
ウォイティツがアメリカ人女性で尊敬できる人であるなら、日本人男性で尊敬できる副島隆彦の「愛」の定義が、これまた好きなんだなぁ。それは「愛とは一緒にいて楽しいことである」というもの。
この定義ってすごい好き。素晴らしい。人間関係における愛に限定してるところがいい。
いっしょに居て楽しいかどうかなんですよ。やっぱり。まずそれが基本。
楽しくないのは、愛がないからなんよね。
で。
実は少なくとも私は「成長しない人」とは、一緒にいたいと思わないんですよね。
つまらない。
飽きてしまう。
10年一日同じことしか言わない。そういうのはダメだ。
「あなた、せっかく生きているのに、毎日何を学んできたんだよ。」とか思ってしまう。
真面目に成長を続けていくと、自分のあやまちとか間違いはどんどん微調整しながら、いろいろな意味で一歩上を目指すから、考え方ってどんどん変わるんだよね。
痛みを引き受ければ引き受けるほど、そうなる。
あんまり簡単な理由づけとか信用せずに、ちゃんと物事の一つ一つを確かめながら生きていると、「そうだったのか。私は何も知りませんでした。バカでした。」と思うことが多くて、そういうことを重ねて、重ねて生きてくると、本当にいつのまにか考え方自体がぐいっと大きく変わっていたりするのですよ。
で、そういう積み重ねを経て築き上げてきた考え方と同じように考え方が変わってきた人とかとは、話をするとすごく面白い。あるいは逆でもいいけど。
でも、10年前と、言ってることが寸分違わず同じ、というような人を見ると、もうまったく話をする気にもなれない。へなへなーってなってしまう。
面白くないんだよなー。つまらない。
それはつまりは「愛がなくなった」ってことなんだ。
しょうがないんだよな多分これはって思うわけです。
しょうがない。袂を分かつしかないんだよねー。
ほんとに。
愛がないのに、いっしょにいてるのは楽しくないんだ。それはやめたほうがいいのだ。
で、現実問題をじっくり考えてみると、10年考え方も変わらない関係なんて、成長がまったくないわけだから、それはやっぱり楽しくないってことなんだと思うのですよ。
少なくとも僕は面白くない。「変わらないこと」に価値を見いだす人もいてるだろうから、それはそれでいいんだろうけど、僕は面白くない。楽しくない。
なので「愛せない」ってことになる。
さようならっていうことなんだよね。
この数年で、そういう意味で「さよなら」って思う人は増えた。悲しい感じもするけど、成長したくないっていうのも、その人の生き方なんだから、それはそれで認めないとしょうがない。僕はそんなの絶対イヤだけども。
なんか、そういうことをつくづく、しみじみと感じるのでありますよ。
ふむ〜。
基本は
●愛とは成長しようとする意志である。
というメッセージです。
で、
●成長するというのは「痛み」を引き受けることである。
ということです。
で、
●自分の弱点・間違いを自覚するのが、一番痛いが、それをこそやるのが、人間の生きている価値である。
ということですね。
ということで転載。
------------------------------
ちゅうことで、ちょっと最近思ったことを書く。
それは「愛」とは何かということで、この定義って実はあまりキチンとはされていないのだ。
だってLoveでしょ? 外国語だもの。
で、私が敬愛するウォイティツ(アダルトチルドレンという概念の提唱者)は、「愛とは向上すること」と言ってるのですね。
ある意味正しくて、この「向上」さえ頭に入れて生きてれば、まぁ間違いはない。(向上には「責任を引き受ける=痛みを引き受ける」という意味を含む。というか向上するというのは、そういうことだ。)
でもねぇ。
ウォイティツがアメリカ人女性で尊敬できる人であるなら、日本人男性で尊敬できる副島隆彦の「愛」の定義が、これまた好きなんだなぁ。それは「愛とは一緒にいて楽しいことである」というもの。
この定義ってすごい好き。素晴らしい。人間関係における愛に限定してるところがいい。
いっしょに居て楽しいかどうかなんですよ。やっぱり。まずそれが基本。
楽しくないのは、愛がないからなんよね。
で。
実は少なくとも私は「成長しない人」とは、一緒にいたいと思わないんですよね。
つまらない。
飽きてしまう。
10年一日同じことしか言わない。そういうのはダメだ。
「あなた、せっかく生きているのに、毎日何を学んできたんだよ。」とか思ってしまう。
真面目に成長を続けていくと、自分のあやまちとか間違いはどんどん微調整しながら、いろいろな意味で一歩上を目指すから、考え方ってどんどん変わるんだよね。
痛みを引き受ければ引き受けるほど、そうなる。
あんまり簡単な理由づけとか信用せずに、ちゃんと物事の一つ一つを確かめながら生きていると、「そうだったのか。私は何も知りませんでした。バカでした。」と思うことが多くて、そういうことを重ねて、重ねて生きてくると、本当にいつのまにか考え方自体がぐいっと大きく変わっていたりするのですよ。
で、そういう積み重ねを経て築き上げてきた考え方と同じように考え方が変わってきた人とかとは、話をするとすごく面白い。あるいは逆でもいいけど。
でも、10年前と、言ってることが寸分違わず同じ、というような人を見ると、もうまったく話をする気にもなれない。へなへなーってなってしまう。
面白くないんだよなー。つまらない。
それはつまりは「愛がなくなった」ってことなんだ。
しょうがないんだよな多分これはって思うわけです。
しょうがない。袂を分かつしかないんだよねー。
ほんとに。
愛がないのに、いっしょにいてるのは楽しくないんだ。それはやめたほうがいいのだ。
で、現実問題をじっくり考えてみると、10年考え方も変わらない関係なんて、成長がまったくないわけだから、それはやっぱり楽しくないってことなんだと思うのですよ。
少なくとも僕は面白くない。「変わらないこと」に価値を見いだす人もいてるだろうから、それはそれでいいんだろうけど、僕は面白くない。楽しくない。
なので「愛せない」ってことになる。
さようならっていうことなんだよね。
この数年で、そういう意味で「さよなら」って思う人は増えた。悲しい感じもするけど、成長したくないっていうのも、その人の生き方なんだから、それはそれで認めないとしょうがない。僕はそんなの絶対イヤだけども。
なんか、そういうことをつくづく、しみじみと感じるのでありますよ。
ふむ〜。
コメント