なぜ、アダルト・チルドレンが重要なのか。
2006年2月27日1995年のWindows95の登場以来、中高年の自殺と児童虐待がいっこうに減らない。
こう書くと「Windowsとおっさんの自殺に何の関係があるんだ」って話になるんですが、これが大ありなのだ。
欧米の競争文化を、キチンと咀嚼することなく形だけ真似てしまうと、純日本人である我々には、文化的に違いがありすぎて、精神的にまいってしまう、幸福感が得られない、ストレスばかりが大きくなる、という問題があるのである。
たとえばPCひとつ取って見ても、「パソコン」の「パソ」は、パーソナルの略である。
で、こう書くと「ああ、個人向け電脳でしょ、そのくらいわかってるよ。」と、わかってない人、勉強してない人ほど、軽く考えて、頭がおかしくなっていく。
欧米で語られている「個人」というのは、日本人が考えている「バラバラの個人」というものとは全く違うのである。
欧米における「個人」というのは一神教と密接なつながりがあり、勉強もせずに雰囲気だけで「個人」を理解して分ったつもりでいてると、とんでもないしっぺ返しを食うのである。
まず、一神教における個人というのは、「神との直接契約をした個人」ということである。だから、人はすべて神を通じて「つながり」を感じていて、逆に言うなら、他者に対しては基本的につながりはない。
この、「つながり感がない」ことが「自由」なのである。隣にいてる人がどんな考え方をしてようが、どんな個性を発揮してようが、そこは問わない。一切問わない。神を信じてさえいれば、それは同じ神の子だから、それでオーケーなのである。
で、我々日本人において注意しておかねばならないのは、この「横のつながりがない」という点である。日本においては、神と個人の縦のつながりというものはなく、逆に、人と人とのつながりである「和」だけが社会を支える基盤なのである。
これ、まったく違うのだ。
だから、欧米式の「個人」の概念をそのまま日本に取り入れると、横のつながりが分断されて、バラバラの個人になってしまう。神を通じた「つながり感」を正しく理解していないと、どうしたって「個人」は「個人の勝手でしょ」という勝手論にしかならない。
これは大変危険だ。精神の崩壊を促進させてしまう。一言で言ってしまえば、中高年の自殺の多さや、児童虐待の増進というのは、まさに急速な欧米文化の殴り込みによって、日本人が精神の安定を失って、痛めつけられてしまっている状態と言って過言ではないのだ。
日本人にとって一神教というのは、そう簡単に実感持って学べるものではない。だからキリスト教の代わりに「天皇教」をあてがって、なんとか精神的支柱を持ちつつ進んできた日本も、第二次大戦を経て、戦後民主主義っていう中心も横つながりもない薄っぺらな教育に乗っかってきてしまって、「バラバラの個人」としてつながり感すら持たずに成立してきてしまったというのが、本当のところなのだ。
僕は一時期、ある山奥の村で、畑を借りて各種作物を作ってきたから、田畑を通じて自然環境を共有する、日本ながらの「村意識というものの必然性や有用性は理解しているつもりだけれど、残念ながら、パソコンやインターネットの世界に、この共同体意識は、そう簡単には移植できない。
なにより、パソコンやインターネットは世界標準のツールになりつつあるので、いま、このツールと付き合わずに生きていくことの方が何かと大変なくらいなのだ。
とするなら、タテのつながりとヨコのつながりの両方を正しく理解して、効果がある部分(機能するところ)を上手にチョイスすることが重要で、それこそが精神の安定に大きな効果を発揮するのだ。
こういうことがわかっているから、斉藤学さんなどは、アダルト・チルドレンの概念を日本にも移植しようとしているのだろうと思う。
それでもなかなか、日本の環境が追いつかない。ウォイティツの「アダルト・チルドレン」が書かれたのは1983年だから二十年以上も前だ。そして日本語化されたのが1997年なのである。翻訳され市場に出回るまで14年もかかっている。
そして、日本語化されたのが1997年と、Windows95登場の二年後というのも、なんともリアルさを感じずにはいられないのだ。
ようするに、洋式の文化がドカンとやってくると、日本古来の療法では対応不能にならざるを得ないということなのである。
このあたりの話は、書けばいくらでも長くなるが、とにかく、インターネットみたいなオープンな環境がやってきてしまったのだから、病気や障害に関する対応策も、欧米のものをちゃんと見て、知っておく必要がどうしてもある、ということなのだ。
実際、アダルト・チルドレンという用語にしても、日本人は何も知らない。とにかくウォイティツなどの原典にあたれば速いのに、そこいらの辞書を引いて「大人子供? 子供みたいな大人のことか」とかはやとちりして平気である。で、しかもその稚拙な根拠を元に批判したりする。(というのが、20世紀には多かったらしい。さすがに最近はそんなバカは少ない。)
アダルト・チルドレンという言葉は、通常「アダルト・チルドレン オブ うんたらかんたら」と続く言葉で、「●●の影響を受けて成人した人」という意味である。
だから、「小泉チルドレン」というのは、その意味でそのまま正しく使われている用法である。
誰の影響を受けて、大人になったのか?
ということが問われているのである。
だから、「アダルト・チルドレン・オブ・アルカホリック」は、「アルコール依存症の人間によって育てられて成人した人」という意味だし、「アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナルファミリー」というのは、「機能していない家族のもとで、育てられ成人した人」という意味なのである。
この「アダルト・チルドレン・オブ〜」という用法は、さほど特殊な使い方ではないらしい。一般用語であり、ようは「影響を受けた人」「〜のもとで育ち終えた人」という意味なのである。
まぁ、それはともあれ。
とにかく、日本において、精神の安定を図るためには、このように、「タテもヨコも両方とも」の知識が必要な時代になってしまった、ということなのだ。
明治時代なら、教育勅語などで、タテの関係もあったが故に、日本古来の村意識によるヨコの助け合いも成立していたと思うのだ。
だが、戦後の天皇による「人間宣言」のおかげで、まずタテのつながりが消え、戦後の高度経済成長による社会状況の急変により、ゆるやかにヨコのつながりを維持する仕組み自体がだんだんと減ってきて、ついには1995年にはヨコのつながりを精神的にも分断してしまうインターネットが登場してしまった、というわけだ。
その時点で、日本人は、この世にただよう「バラバラな個人」になってしまった。
中高年の自殺の激増と、児童虐待の激増が、期をいつにして1995年からはじまっているというのも理由のないことではないのだと僕は思っている。
日本人はパソコンを「仕事に必須の道具」として「持っていて当然」「使えて当たり前」の道具と思っているみたいなのだが、そこがすでに、強迫神経症というか、精神異常への第一歩だと僕は思っている。
パソコンなんて、「必須の道具」じゃないですよ。そんな理解の仕方したら「世の中に追いつかなきゃ」って必死になって、苦しいだけですよ、と私はいいたい。
実際そうじゃないんだもの。
パソコンというのは、欧米の文化からすれば、「他人を押しのけてでも、成功したいと思う奴が使う、のし上がりの道具」なのだ。
まず、基本がこれだ。
ここがまず違う。
「個人」が何をしても自由なのだから、パソコンも使う奴と使わない奴がいてるのが当たり前なのだ。
で、使う人というのは、要するに「技術を習得してスキルアップを目指す人」なわけです。欧米は実力主義だし、技能を身につけたら、身につけただけ週給があがる。単純にそういう評価システムがある。だから身につけるというだけのことなのだ。
でも日本にはそこまでの評価システム自体がない。というか、そういうチマチマしたスキル評価よりも「人間存在全体を見る」というような評価をする。判断力がしっかりしているかとか、人当たりがいいかとか、なんだかんだ。
で、こういう「全人的評価」というのは、人と人がぴったりとくっついてお互いを知り合っているヨコのつながり、「和」の文化がないとできないのである。技能だけを人格と切り離して評価するなんて習慣自体が日本にはほとんどないのだ。
しかし、そこにPCがビジネスの道具として入ってきたときには、このヨコのつながりを完全に破壊してしまう。いままで全人的評価で成立していた社内文化も、ビジネスの仕組みが変わってしまうとまったく役に立たなくなる。
昨日まで「えらい人」として成立していた中高年の立場が、パソコンの使い方を知っている若造の下にならざるを得ない。
そういうことがあって中高年は何が大事なのか、自分の精神的支柱を失ってしまう。働きがいや生きがいが見えなくなってしまう。そいう「時代の気分」があった上での中高年の自殺なのである。
そして、なんとか中高年もパソコンについて行こうとするのだが、その時の頭の中にあるのは、欧米のビジネスマンのように「キャリアアップ」ではない。
欧米では能力を個別に評価する仕組みがウソでも(正しく評価できてるのかどうかまでは知らないのでなんとも言えないが)存在しているから、「がんばる意味」があるのである。
しかし日本のビジネスマンのパソコン学習は「時代に遅れないように」という漠然としたものにしかならない。ようするに「恐怖感」なのである。時代についていかなければ振り落とされるという不安感だけで学習し続けているのだ。
なんせ、インターネットの環境は世界を一つの市場にしてしまったから、「競争」はワールドワイドである。ものすごいスピードで進化してしまう。
この進化を、日本人は「みんないっしょにがんばろう」という日本人感覚でとらえるから、「モーレツに頑張」らないと時代にも追いつけないって感覚になってしまうというわけである。
あらためて書けば、欧米では、パソコンなんか「他人を押しのけてでも出世したいと思っているキャリア志向の余裕がない奴が使う道具」程度のものでしかないのである。基本はまずそこにある。
「人間の価値観がそこだけで問われるものじゃなかろう」というのは大前提として存在している。
だって、神との直接契約で、ヨコつながりがないからだ。「出世したい奴は出世しろよ。俺はこのくらいでいいや。」なのだ。
そこは、それこそ個人の自由にまかされている。
でも、日本人には、そんな余裕はない。まわりに合わせる「空気」とか「和」の概念しかないから、回りがパソコンを使い出したら自分も使わないとダメだ、遅れてしまう、おいてきぼりだ。ということにしかならないのだ。
だからこそ、欧米のタテの感覚を正しく知っておく必要があるのだ。
で、こういう具合に大人に余裕がなくなると、そのしわ寄せがどこに行くかというと、社会の底辺、一番弱いところ、ようするに子供なのである。
社会の無目的な進化に合わせるのに疲れた「親」が、ほっと一息つけるのが「子供とふれあっている時間」という事になる。
これねぇ、ぱっと聞くとまともなように思うけど、大嘘ですから。子供は終始「保護が必要な存在」で、ちゃんと対峙したら本来疲れて当然の相手なんですよね。
でも、なぜか「子供とふれあってホッとする」という言い方が成立している。
なぜか?
簡単なことなのです。虐待している時間を「ホッとした」と思っているからなのですね。
理由もなく叱りつけるとか、自分がイメージした「良い親子関係」を無理矢理演じさせるとか、そういうことを子供との触れあいと勘違いしているわけです。
だから「親が子供を虐待しているのに、それに気付いてないから虐待が増えている」というのが現実の姿なんですね。
で、この問題の恐ろしいところは、子供も「虐待されている」とは気付けないってことなんです。
子供も親の態度を、すごく「嫌だ」「腹が立つ」と思いながらもしぶしぶ言うことを聞くし、その「しぶしぶ言うことを聞くしかない」という虐待されている状況を「普通のことだ」と思いこんでしまう。
ちゃんと「機能する関係」というのがあるのに!
あるのに!
学習すれば身に付くのに!!!!!
そこに、それはあるんだ。
気がついてなかろうが、ついていようが、あるものはある。
虐待してる人間は、そのまともで正しい「機能する関係」を、否定しようとするけど、あるものはある。
で、これは、子供もいない独身のほうが、はるかに良く見えるんですな。
しゃーないよ、これは。共依存の関係の中に入ってないからこそ見えるんだもん。
で、見えるから僕は書く。
そういう事です。
共依存は「親と子が互いに『これが普通だよ』とだましあう関係」と言ってもいいですからね。
だからせめて、アダルト・チルドレンの話題が出たら、辞書で「アダルト」の意味を調べるなどという子供だましのごまかしをせずに、原典であるウォイティツを読まなければならない。
まず原典にあたる。そして事実を知る。
そこからしかスタートはないのだ。
なので、私の言うことが「おかしい」とか「へんだ」とか反論したい方は、まずウォイティツを読んでください。それ以外は何の意味もないです。完全に無意味。
そういうことです。
こう書くと「Windowsとおっさんの自殺に何の関係があるんだ」って話になるんですが、これが大ありなのだ。
欧米の競争文化を、キチンと咀嚼することなく形だけ真似てしまうと、純日本人である我々には、文化的に違いがありすぎて、精神的にまいってしまう、幸福感が得られない、ストレスばかりが大きくなる、という問題があるのである。
たとえばPCひとつ取って見ても、「パソコン」の「パソ」は、パーソナルの略である。
で、こう書くと「ああ、個人向け電脳でしょ、そのくらいわかってるよ。」と、わかってない人、勉強してない人ほど、軽く考えて、頭がおかしくなっていく。
欧米で語られている「個人」というのは、日本人が考えている「バラバラの個人」というものとは全く違うのである。
欧米における「個人」というのは一神教と密接なつながりがあり、勉強もせずに雰囲気だけで「個人」を理解して分ったつもりでいてると、とんでもないしっぺ返しを食うのである。
まず、一神教における個人というのは、「神との直接契約をした個人」ということである。だから、人はすべて神を通じて「つながり」を感じていて、逆に言うなら、他者に対しては基本的につながりはない。
この、「つながり感がない」ことが「自由」なのである。隣にいてる人がどんな考え方をしてようが、どんな個性を発揮してようが、そこは問わない。一切問わない。神を信じてさえいれば、それは同じ神の子だから、それでオーケーなのである。
で、我々日本人において注意しておかねばならないのは、この「横のつながりがない」という点である。日本においては、神と個人の縦のつながりというものはなく、逆に、人と人とのつながりである「和」だけが社会を支える基盤なのである。
これ、まったく違うのだ。
だから、欧米式の「個人」の概念をそのまま日本に取り入れると、横のつながりが分断されて、バラバラの個人になってしまう。神を通じた「つながり感」を正しく理解していないと、どうしたって「個人」は「個人の勝手でしょ」という勝手論にしかならない。
これは大変危険だ。精神の崩壊を促進させてしまう。一言で言ってしまえば、中高年の自殺の多さや、児童虐待の増進というのは、まさに急速な欧米文化の殴り込みによって、日本人が精神の安定を失って、痛めつけられてしまっている状態と言って過言ではないのだ。
日本人にとって一神教というのは、そう簡単に実感持って学べるものではない。だからキリスト教の代わりに「天皇教」をあてがって、なんとか精神的支柱を持ちつつ進んできた日本も、第二次大戦を経て、戦後民主主義っていう中心も横つながりもない薄っぺらな教育に乗っかってきてしまって、「バラバラの個人」としてつながり感すら持たずに成立してきてしまったというのが、本当のところなのだ。
僕は一時期、ある山奥の村で、畑を借りて各種作物を作ってきたから、田畑を通じて自然環境を共有する、日本ながらの「村意識というものの必然性や有用性は理解しているつもりだけれど、残念ながら、パソコンやインターネットの世界に、この共同体意識は、そう簡単には移植できない。
なにより、パソコンやインターネットは世界標準のツールになりつつあるので、いま、このツールと付き合わずに生きていくことの方が何かと大変なくらいなのだ。
とするなら、タテのつながりとヨコのつながりの両方を正しく理解して、効果がある部分(機能するところ)を上手にチョイスすることが重要で、それこそが精神の安定に大きな効果を発揮するのだ。
こういうことがわかっているから、斉藤学さんなどは、アダルト・チルドレンの概念を日本にも移植しようとしているのだろうと思う。
それでもなかなか、日本の環境が追いつかない。ウォイティツの「アダルト・チルドレン」が書かれたのは1983年だから二十年以上も前だ。そして日本語化されたのが1997年なのである。翻訳され市場に出回るまで14年もかかっている。
そして、日本語化されたのが1997年と、Windows95登場の二年後というのも、なんともリアルさを感じずにはいられないのだ。
ようするに、洋式の文化がドカンとやってくると、日本古来の療法では対応不能にならざるを得ないということなのである。
このあたりの話は、書けばいくらでも長くなるが、とにかく、インターネットみたいなオープンな環境がやってきてしまったのだから、病気や障害に関する対応策も、欧米のものをちゃんと見て、知っておく必要がどうしてもある、ということなのだ。
実際、アダルト・チルドレンという用語にしても、日本人は何も知らない。とにかくウォイティツなどの原典にあたれば速いのに、そこいらの辞書を引いて「大人子供? 子供みたいな大人のことか」とかはやとちりして平気である。で、しかもその稚拙な根拠を元に批判したりする。(というのが、20世紀には多かったらしい。さすがに最近はそんなバカは少ない。)
アダルト・チルドレンという言葉は、通常「アダルト・チルドレン オブ うんたらかんたら」と続く言葉で、「●●の影響を受けて成人した人」という意味である。
だから、「小泉チルドレン」というのは、その意味でそのまま正しく使われている用法である。
誰の影響を受けて、大人になったのか?
ということが問われているのである。
だから、「アダルト・チルドレン・オブ・アルカホリック」は、「アルコール依存症の人間によって育てられて成人した人」という意味だし、「アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナルファミリー」というのは、「機能していない家族のもとで、育てられ成人した人」という意味なのである。
この「アダルト・チルドレン・オブ〜」という用法は、さほど特殊な使い方ではないらしい。一般用語であり、ようは「影響を受けた人」「〜のもとで育ち終えた人」という意味なのである。
まぁ、それはともあれ。
とにかく、日本において、精神の安定を図るためには、このように、「タテもヨコも両方とも」の知識が必要な時代になってしまった、ということなのだ。
明治時代なら、教育勅語などで、タテの関係もあったが故に、日本古来の村意識によるヨコの助け合いも成立していたと思うのだ。
だが、戦後の天皇による「人間宣言」のおかげで、まずタテのつながりが消え、戦後の高度経済成長による社会状況の急変により、ゆるやかにヨコのつながりを維持する仕組み自体がだんだんと減ってきて、ついには1995年にはヨコのつながりを精神的にも分断してしまうインターネットが登場してしまった、というわけだ。
その時点で、日本人は、この世にただよう「バラバラな個人」になってしまった。
中高年の自殺の激増と、児童虐待の激増が、期をいつにして1995年からはじまっているというのも理由のないことではないのだと僕は思っている。
日本人はパソコンを「仕事に必須の道具」として「持っていて当然」「使えて当たり前」の道具と思っているみたいなのだが、そこがすでに、強迫神経症というか、精神異常への第一歩だと僕は思っている。
パソコンなんて、「必須の道具」じゃないですよ。そんな理解の仕方したら「世の中に追いつかなきゃ」って必死になって、苦しいだけですよ、と私はいいたい。
実際そうじゃないんだもの。
パソコンというのは、欧米の文化からすれば、「他人を押しのけてでも、成功したいと思う奴が使う、のし上がりの道具」なのだ。
まず、基本がこれだ。
ここがまず違う。
「個人」が何をしても自由なのだから、パソコンも使う奴と使わない奴がいてるのが当たり前なのだ。
で、使う人というのは、要するに「技術を習得してスキルアップを目指す人」なわけです。欧米は実力主義だし、技能を身につけたら、身につけただけ週給があがる。単純にそういう評価システムがある。だから身につけるというだけのことなのだ。
でも日本にはそこまでの評価システム自体がない。というか、そういうチマチマしたスキル評価よりも「人間存在全体を見る」というような評価をする。判断力がしっかりしているかとか、人当たりがいいかとか、なんだかんだ。
で、こういう「全人的評価」というのは、人と人がぴったりとくっついてお互いを知り合っているヨコのつながり、「和」の文化がないとできないのである。技能だけを人格と切り離して評価するなんて習慣自体が日本にはほとんどないのだ。
しかし、そこにPCがビジネスの道具として入ってきたときには、このヨコのつながりを完全に破壊してしまう。いままで全人的評価で成立していた社内文化も、ビジネスの仕組みが変わってしまうとまったく役に立たなくなる。
昨日まで「えらい人」として成立していた中高年の立場が、パソコンの使い方を知っている若造の下にならざるを得ない。
そういうことがあって中高年は何が大事なのか、自分の精神的支柱を失ってしまう。働きがいや生きがいが見えなくなってしまう。そいう「時代の気分」があった上での中高年の自殺なのである。
そして、なんとか中高年もパソコンについて行こうとするのだが、その時の頭の中にあるのは、欧米のビジネスマンのように「キャリアアップ」ではない。
欧米では能力を個別に評価する仕組みがウソでも(正しく評価できてるのかどうかまでは知らないのでなんとも言えないが)存在しているから、「がんばる意味」があるのである。
しかし日本のビジネスマンのパソコン学習は「時代に遅れないように」という漠然としたものにしかならない。ようするに「恐怖感」なのである。時代についていかなければ振り落とされるという不安感だけで学習し続けているのだ。
なんせ、インターネットの環境は世界を一つの市場にしてしまったから、「競争」はワールドワイドである。ものすごいスピードで進化してしまう。
この進化を、日本人は「みんないっしょにがんばろう」という日本人感覚でとらえるから、「モーレツに頑張」らないと時代にも追いつけないって感覚になってしまうというわけである。
あらためて書けば、欧米では、パソコンなんか「他人を押しのけてでも出世したいと思っているキャリア志向の余裕がない奴が使う道具」程度のものでしかないのである。基本はまずそこにある。
「人間の価値観がそこだけで問われるものじゃなかろう」というのは大前提として存在している。
だって、神との直接契約で、ヨコつながりがないからだ。「出世したい奴は出世しろよ。俺はこのくらいでいいや。」なのだ。
そこは、それこそ個人の自由にまかされている。
でも、日本人には、そんな余裕はない。まわりに合わせる「空気」とか「和」の概念しかないから、回りがパソコンを使い出したら自分も使わないとダメだ、遅れてしまう、おいてきぼりだ。ということにしかならないのだ。
だからこそ、欧米のタテの感覚を正しく知っておく必要があるのだ。
で、こういう具合に大人に余裕がなくなると、そのしわ寄せがどこに行くかというと、社会の底辺、一番弱いところ、ようするに子供なのである。
社会の無目的な進化に合わせるのに疲れた「親」が、ほっと一息つけるのが「子供とふれあっている時間」という事になる。
これねぇ、ぱっと聞くとまともなように思うけど、大嘘ですから。子供は終始「保護が必要な存在」で、ちゃんと対峙したら本来疲れて当然の相手なんですよね。
でも、なぜか「子供とふれあってホッとする」という言い方が成立している。
なぜか?
簡単なことなのです。虐待している時間を「ホッとした」と思っているからなのですね。
理由もなく叱りつけるとか、自分がイメージした「良い親子関係」を無理矢理演じさせるとか、そういうことを子供との触れあいと勘違いしているわけです。
だから「親が子供を虐待しているのに、それに気付いてないから虐待が増えている」というのが現実の姿なんですね。
で、この問題の恐ろしいところは、子供も「虐待されている」とは気付けないってことなんです。
子供も親の態度を、すごく「嫌だ」「腹が立つ」と思いながらもしぶしぶ言うことを聞くし、その「しぶしぶ言うことを聞くしかない」という虐待されている状況を「普通のことだ」と思いこんでしまう。
ちゃんと「機能する関係」というのがあるのに!
あるのに!
学習すれば身に付くのに!!!!!
そこに、それはあるんだ。
気がついてなかろうが、ついていようが、あるものはある。
虐待してる人間は、そのまともで正しい「機能する関係」を、否定しようとするけど、あるものはある。
で、これは、子供もいない独身のほうが、はるかに良く見えるんですな。
しゃーないよ、これは。共依存の関係の中に入ってないからこそ見えるんだもん。
で、見えるから僕は書く。
そういう事です。
共依存は「親と子が互いに『これが普通だよ』とだましあう関係」と言ってもいいですからね。
だからせめて、アダルト・チルドレンの話題が出たら、辞書で「アダルト」の意味を調べるなどという子供だましのごまかしをせずに、原典であるウォイティツを読まなければならない。
まず原典にあたる。そして事実を知る。
そこからしかスタートはないのだ。
なので、私の言うことが「おかしい」とか「へんだ」とか反論したい方は、まずウォイティツを読んでください。それ以外は何の意味もないです。完全に無意味。
そういうことです。
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