あけましておめでとうございます。

ということで、いきなり新年から映画を観てきました。ちょっと早起き実施中なので、朝の9時から住吉大社まで母親を連れて出かけたら時間が余ってしまった。なので、キングコングを観ることにしたのです。1日って全国的に映画の日で一律千円なんですよー。オトクです。

で、キングコング。なかなか良かったんですよねー。いやほんと。なんていうか、人の感情とかそういうことがよく描けている。バカっぽいところも多いんだけど破綻してないのは人やコングの感情をキチンと押さえているからでしょう。

で、この映画って怪獣映画だし、リメイクだし、ということで、どうしても思い出して腹が立ってきたのが、昔のガメラをリメイクして、平成版ガメラを撮った金子修介のことでした。

金子修介の平成ガメラって、けっこう評価されてたりするんですよね。特に特撮技術の面で秀でてたというのがあって。それに加えて、各種特撮映画が冬の時代に登場したという経緯もあって、特撮ファンが多少の問題点には目をつぶって「良い」と評価してた。

でもねぇ、私、子供の頃にリアルタイムでガメラを観ていた世代だったので、金子修介版ガメラは、

大嫌い

なんですよ。
あれはガメラではない。

ガメラはねぇ、ちゃんと感情を持った生き物としての存在で、言わば「売られたケンカは買う、下町の子供好きのおっさん」と言ったキャラクターが面白い作品なわけです。

それを、「ハードSFにする」とかなんとか、どーーーーでもいいことばーーーっかり気にして、ガメラを「ロボット」にしてストーリーを作りやがった。まぁ、ほんと、完全に死んでたんですよ。平成版ガメラは。生き物じゃなくてロボットだった。いやまぁ、第三作目のラストシーンで、ほんのちょっと感情が出たんですけどね。三作も作ってやっと基本がわかったバカ、というのが金子修介だなぁ、ってことなんです。

なんでこんなことを書くかと言うと、このキングコングが、やっぱりオリジナル版へのリスペクトと愛情をキチンと持っているからなんですね。

でも、金子修介版ガメラには、その肝心の愛とリスペクトがまったくなかった。

いろいろ事情はあったと思うんだけど、はっきり書きます。

愛もリスペクトもなしにリメイク版を作るというのは、人間のクズのすることだよなってことです。人間のクズだわ。今回、キングコングを観て、それを強く思った。

いやー、金子修介には悪いけど、本当にそう思ったんだよなぁ。今回のキングコング観て。出来がいいとか悪いとかは、どうでもいいよ。やっぱ人間として、愛情を持つか持たないかが最低限の基準だわ。日本特撮界のためとか、ハードSFを作るとか、そういうお題目はいろいろあるだろうけど、とにかく金子修介にはガメラへの愛がなかった。そして、そういう愛のない行為をすることは、監督としてどうかとかは横に置いといて、人間としてダメなんだわ。そういうことだわ。

名指しで悪いけど、やっぱり金子修介って人間のクズだね。たぶん当人は「何もそこまで言わなくても」とか思うだろうけどなぁ。で、そこまで言うのも言い過ぎとも思うけど。

でもやっぱり、そこまで愛があるかないかは大事なんだってことだと思う。

金子修介って、ほんとうはゴジラを撮りたかった人なのよね。ゴジラ好き。ゴジラは違うんだ。あれは怪獣じゃないのよ。あれは「戦争の恐怖」の記号なんだ。本質的に。だから基本的には感情を持たない。理不尽さこそがゴジラの魅力でね。それをガメラでやろうとしたからガメラがロボットになってしまったんだ。

ゴジラは昭和29年の作品で、あんまりこういう論評を加える人はいないかも知れないけれど、ゴジラの主役は「逃げまどう人々」にある。エキストラ使って群衆シーンを撮っても、みんな空襲の経験のある人ばっかりだから、どういう逃げ方が「逃げまどう」ことなのかを、心から知っていたわけです。

だから、それを今の時代にやっても無理なんだよ。そういう大事なことを金子修介はわかってない。真に迫った「逃げまどう人」が撮れなくてはゴジラは無理。で、だからこそ、ゴジラの後に出てきたガメラは「子供向け」と割り切って、子供の味方で、おっさんキャラという設定になったわけでね。

そんなこんなをいろいろ思ってたんですが、それでもいちおう、特撮ものは好きだったので、平成ガメラの話が出てきても、あんまり文句は言わなかったのですな、基本的に。だってしょうがないよ。日本で映画を撮るって大変だろうし。

でもなー、今回キングコング観て思った。やっぱりね、事情はどうあれ愛がないのはダメだ。人間としてダメなら、それは映画としてもダメってことだとわかった。

っていうか、いままでずっとガメラが「子供の味方である」というのが、ご都合主義の、お子様向けいいかげんさだと思って「そういうところが嫌われるのは仕方ないよな」と思ってたんですが、キングコングが「美女の味方」である、ただそれだけで一本の映画になっているのを観て「なんや! こっちの方が基本やないか!」と気づいたってことなんですね。

コングを撃ち殺した飛行機乗りの兵士がコングの前で「勇者」として新聞記者からのフラッシュを浴びてるシーンがあるんですけど、金子修介ってようするにその程度の浅い奴でしかないよなぁ。

ガメラが「子供の味方」であるというキャラとしての命まで絶って「特撮のヒーロー」になったのが金子のバカなんだよなぁ。ガメラのバカっぽさを殺していい気になってる。事情のわかってない、コングを撃ち落とした飛行機乗りと同じだ。それでフラッシュを浴びてる。

まぁ、それはそれで仕方ないんだけどさ。

でもほんと、今回コングの「美女の味方」=「子供の味方」が「怪獣映画の基本テーマ」なんだと気づいてしまって、本当に心底、平成版ガメラが全然ダメな作品だったんだと、改めて思ったよなぁ。コングと昔のガメラと平成ガメラと昭和29年のゴジラを見比べて、そういうこととか考えて欲しいとか思った。
いかに平成版ガメラが心に残らないか、ですよ。ほんとにダメだわ、あれは。

でも、そのダメなものを作らざるを得ないのがクリエーター商売なんだよなぁ。そういう葛藤ってのも、実はこの「キングコング」ではキチンと出てくる。コングに好かれる美女は売れない女優で金がなくてやっと紹介された劇場まで行ってなんとか職を得ようとするけど、ストリップ劇場だったのできびすを返して帰るんだよ。

金子。おまえもそうするべきだったんだよ。ゴジラを作りたかったんだろ? だったらガメラをゴジラに改造しようとしたら、それはやっぱりダメなんだよ。いくら賞賛されようともやっちゃいけなかった。苦しくてもゴジラでゴジラをやらないといけない。そういうことだったんだ。けっきょく、ガメラを殺したのは、自分を裏切ることそのもので、自分を裏切るのは人間として一番の罪だ。だから人間のクズなんだってことですよ。

この映画には、映画づくりのためなら犯罪も犯しかねない異様な山師監督が出てきて、それをジャック・ブラックが演じてるんですが、これがまたいいんだよなぁ。物作りをする人間の狂気みたいなのがよく出てる。

そういうことをひっくるめて、金子はダメだと堂々と言って良いんだと気づかせてもらいましたね、この映画には。
だめだよ。やっぱ。愛がないのは。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索