生きがいとは「死生観」のことである。
2005年11月21日 ●じぶんの心マップ
この数週間で、ある出来事があって、知人と考え方の根本のところで大きな差異があることに気づいた。
まぁ簡単に言うなら人に対していかに関わるか? みたいなことだけど。
で、その「差異」についてはここでは書かないけれど、その「差異」の根本がどうして生まれたのかを考えたら、この本のことが思い浮かんだのですね。
新刊として出た時に読んだので、もう7-8年は経っているのだけれど、読み直してみて、想像以上に自分の生き方、考え方に大きな意識的変革を与えた本だったと気づきいたのです。
「ああ、そうか、こういう考え方を知ったから僕の生き方とあの人の考え方が、こうも大きく違ってしまうんだ。」
という気になった。
で、それは、前にここで書いた「忠告」した人間全員に共通することだったりする。
人間は生きている。
では、どう生きるのか?
これこそが課題だ。
という考え方なんですね。
この本を読んで、少なくとも僕は「ああ、そうか。」と納得して、「良く生きよう」という気持ちになった。
で、「死ぬこと」が怖くはなくなった。
ここがけっこう大きいんだよなー。
ちゃんと「生きて」いなくて、死んだような生き方をしてるくらいなら死んだ方がマシなのだ。
人は「生まれ変わる」。死んでも意識体としての連続性は残る。この本は、そういうことの証明の本なんですね。
で、だからこそ今生を精一杯生きなければならない。人生で起きる、自分にとって「嫌な事」を真正面から捉えて、自分の意識や考え方を「成長」させなければならないのです。「自分の魂を磨くこと」自体が、意識体としての本来的な「生きる意味」だってことです。
おそらく「忠告」をした人間とは、この点が大きく意識としてずれてるんだろうなと思う。生き方という根本のところがズレている。「死」というもののとらえ方そのものがズレている。そう気づいたのですよ。
---------------
ということで、この本は基本的に「人間は肉体的に死亡しても意識体はそのままであり、次の生でよみがえるのだ」という「生まれ変わり論」の本です。
なので、信じられない人には、まったく信じられないだろうし、エセ宗教と毛嫌いする人も多いだろうと思う。
で、嫌っている間は読んでも意味がないのでお勧めしません。著者の飯田史彦さんも「無理に勧めるな」とおっしゃっているし。死生観は人それぞれでいいじゃないか、というのが、まぁ今の普通の考え方だろうし、こんな考え方を押しつけたら、新興宗教だ。
ほんとは、著者の飯田史彦さんは経済学者だし、生まれ変わりの事に関しても「科学的事実として存在しているのかどうか?」を検証している本であって、本質的には宗教本ではない。「もし、本当に人間が生まれ変わるとするなら、人生観は大きく変わるよ。」という提案の本です。
(ちゅうか、もともと経済学の学会で発表された学術論文が元になってるから経済学の論文なのよ、これ。本当は。信じられないけど。)
そして、その大前提からつきつめて行くと、生きがい、働きがい、というものが、付け焼き刃ではなく心の底から自然とわき上がってくるではないか、という社会的利益を説いている本なのだ。
著者の飯田さんは、社員の「やる気」をいかに高めれば良いのかに頭を悩ませている社長のために書いた側面が大きいと書いておられるけれど、まさにそれなのだ。
でも、だからこそ、僕は、この本を「新興宗教本」とあえて書きます。この本に書かれている事って、信用できない人には、やっぱりまったく信用できないだろうし。
実際、この本が書店のどの棚にあるかと言えば、新興宗教本の棚ですからな。こればかりは仕方ないよ。
この本をビジネス書風に勧めて、それで本屋に出かけて「新興宗教」の棚のところに案内されたら、そら絶対に嫌だもんな。「なんだよー、宗教かよー。」って思うわさ。
だから興味のない人には勧めないのだ。いくら「学術論文」だったとしても。
ちょっとこの日記で続けて書いていた「倫社の帝王」で、まだちゃんと解説できてないのだけれど、基本的にキリスト教やイスラム教、ユダヤ教という一神教では、「生まれ変わり」は認めていない。
地球上に生まれてきた人間は全部別個の人間で、「審判の日」までどこかに冷凍保存されていて「審判の日」にすべてを判定されてその後永遠の命をもらうか、意識すら消滅する「完全な死」に至るかのどちらかになる、ということになっている。
でも、かの有名なキュープラー・ロス博士をはじめ、臨床の医師による「いったん死んだ後に、意識を取り戻して生き返った人」のインタビュー等は、そういう一神教の世界でこそ検証しているのですよね。
だから彼らは、ものすごーく慎重です。だって、すべての一神教の教義に反することを、「科学的事実」として主張するわけですから。このあたり日本人は軽く考えてるけど、そらまぁ大変なことなんですよ。反社会的言動ですから。
この本はそういう学者たちの成果をもとに、「じゃあ、そのことを生きがい、やりがいということに応用したらどうなるのかな? 死生観が変われば生き方も変わるじゃないか。」と提案している本なわけです。
でもなぁ、でもやっぱり、この本を紹介するなら「新興宗教の本だよ」って紹介するしかないよなぁ。
で、僕にとって考えてみると相当重要な本だったみたいですな。いまごろになって気づく。たぶん、この本を読んでたからこそ、世界の宗教について何冊も本を読んだりしたんだと思うのですよ。無意識に「検証」してたんだろうなぁ。
この数年の間に身につけた知識で判定すると、たぶんユダヤ教徒やイスラム教徒でも、この生まれ変わり論は一部認める人は出てくると思う。で、キリスト教徒でもカソリックなら部分的に認める人も出てくると思う。
でもプロテスタントはどうだろう? って思う。プロテスタントの人は認めないんじゃないか?そんな気がするんよなー。
まぁちょっと話はズレてしまいましたが。
ともあれ、僕が無意識に宗教に関していろいろ調べてたのも、結局は、この本の影響だったんだと、いまにして思いますな。
この本は、そのくらいインパクトある。
考え方が変わる。
だから考え方を変えたいと思わない人は読まない方がいいのかも知れない。(でも読むと死ぬのが怖くなくなるし、日々、世のため人のために生き生きと動けるようになるっていうのはあるよ。って、このあたりが新興宗教なんだよなー、困ったことに。)
で、僕としてはいろいろな宗教のことを概略として学んでた間は、この飯田史彦さんが出している各種の書籍を、ずっと読んでなかったのです。飯田さん、この本を出した後に何冊も本を出してるんですけどね。でも僕は読まなかった。
で、冒頭のちょっと前にあった出来事から、久しぶりに書店で読んでみたら、この「生きがいの創造」の正式な続編である「生きがいの創造?」が書店に出てたんですよ。
で、読んでみた。
「うげーーーーー、そ、そ、そうやったんかぁ!」
でありました。
こんなん完全に新興宗教ですがな。
でも認める。飯田さんはえらい。
「生きがいの創造?」を先に書かずに、先に「生きがいの創造」を書いた。しかも何年もたってから「?」を書いた。
それ、わかる。
えらい。
ということで、みなさん、まず読むなら、この「生きがいの創造」からね。「?」はあとのお楽しみってことで。
まぁ簡単に言うなら人に対していかに関わるか? みたいなことだけど。
で、その「差異」についてはここでは書かないけれど、その「差異」の根本がどうして生まれたのかを考えたら、この本のことが思い浮かんだのですね。
新刊として出た時に読んだので、もう7-8年は経っているのだけれど、読み直してみて、想像以上に自分の生き方、考え方に大きな意識的変革を与えた本だったと気づきいたのです。
「ああ、そうか、こういう考え方を知ったから僕の生き方とあの人の考え方が、こうも大きく違ってしまうんだ。」
という気になった。
で、それは、前にここで書いた「忠告」した人間全員に共通することだったりする。
人間は生きている。
では、どう生きるのか?
これこそが課題だ。
という考え方なんですね。
この本を読んで、少なくとも僕は「ああ、そうか。」と納得して、「良く生きよう」という気持ちになった。
で、「死ぬこと」が怖くはなくなった。
ここがけっこう大きいんだよなー。
ちゃんと「生きて」いなくて、死んだような生き方をしてるくらいなら死んだ方がマシなのだ。
人は「生まれ変わる」。死んでも意識体としての連続性は残る。この本は、そういうことの証明の本なんですね。
で、だからこそ今生を精一杯生きなければならない。人生で起きる、自分にとって「嫌な事」を真正面から捉えて、自分の意識や考え方を「成長」させなければならないのです。「自分の魂を磨くこと」自体が、意識体としての本来的な「生きる意味」だってことです。
おそらく「忠告」をした人間とは、この点が大きく意識としてずれてるんだろうなと思う。生き方という根本のところがズレている。「死」というもののとらえ方そのものがズレている。そう気づいたのですよ。
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ということで、この本は基本的に「人間は肉体的に死亡しても意識体はそのままであり、次の生でよみがえるのだ」という「生まれ変わり論」の本です。
なので、信じられない人には、まったく信じられないだろうし、エセ宗教と毛嫌いする人も多いだろうと思う。
で、嫌っている間は読んでも意味がないのでお勧めしません。著者の飯田史彦さんも「無理に勧めるな」とおっしゃっているし。死生観は人それぞれでいいじゃないか、というのが、まぁ今の普通の考え方だろうし、こんな考え方を押しつけたら、新興宗教だ。
ほんとは、著者の飯田史彦さんは経済学者だし、生まれ変わりの事に関しても「科学的事実として存在しているのかどうか?」を検証している本であって、本質的には宗教本ではない。「もし、本当に人間が生まれ変わるとするなら、人生観は大きく変わるよ。」という提案の本です。
(ちゅうか、もともと経済学の学会で発表された学術論文が元になってるから経済学の論文なのよ、これ。本当は。信じられないけど。)
そして、その大前提からつきつめて行くと、生きがい、働きがい、というものが、付け焼き刃ではなく心の底から自然とわき上がってくるではないか、という社会的利益を説いている本なのだ。
著者の飯田さんは、社員の「やる気」をいかに高めれば良いのかに頭を悩ませている社長のために書いた側面が大きいと書いておられるけれど、まさにそれなのだ。
でも、だからこそ、僕は、この本を「新興宗教本」とあえて書きます。この本に書かれている事って、信用できない人には、やっぱりまったく信用できないだろうし。
実際、この本が書店のどの棚にあるかと言えば、新興宗教本の棚ですからな。こればかりは仕方ないよ。
この本をビジネス書風に勧めて、それで本屋に出かけて「新興宗教」の棚のところに案内されたら、そら絶対に嫌だもんな。「なんだよー、宗教かよー。」って思うわさ。
だから興味のない人には勧めないのだ。いくら「学術論文」だったとしても。
ちょっとこの日記で続けて書いていた「倫社の帝王」で、まだちゃんと解説できてないのだけれど、基本的にキリスト教やイスラム教、ユダヤ教という一神教では、「生まれ変わり」は認めていない。
地球上に生まれてきた人間は全部別個の人間で、「審判の日」までどこかに冷凍保存されていて「審判の日」にすべてを判定されてその後永遠の命をもらうか、意識すら消滅する「完全な死」に至るかのどちらかになる、ということになっている。
でも、かの有名なキュープラー・ロス博士をはじめ、臨床の医師による「いったん死んだ後に、意識を取り戻して生き返った人」のインタビュー等は、そういう一神教の世界でこそ検証しているのですよね。
だから彼らは、ものすごーく慎重です。だって、すべての一神教の教義に反することを、「科学的事実」として主張するわけですから。このあたり日本人は軽く考えてるけど、そらまぁ大変なことなんですよ。反社会的言動ですから。
この本はそういう学者たちの成果をもとに、「じゃあ、そのことを生きがい、やりがいということに応用したらどうなるのかな? 死生観が変われば生き方も変わるじゃないか。」と提案している本なわけです。
でもなぁ、でもやっぱり、この本を紹介するなら「新興宗教の本だよ」って紹介するしかないよなぁ。
で、僕にとって考えてみると相当重要な本だったみたいですな。いまごろになって気づく。たぶん、この本を読んでたからこそ、世界の宗教について何冊も本を読んだりしたんだと思うのですよ。無意識に「検証」してたんだろうなぁ。
この数年の間に身につけた知識で判定すると、たぶんユダヤ教徒やイスラム教徒でも、この生まれ変わり論は一部認める人は出てくると思う。で、キリスト教徒でもカソリックなら部分的に認める人も出てくると思う。
でもプロテスタントはどうだろう? って思う。プロテスタントの人は認めないんじゃないか?そんな気がするんよなー。
まぁちょっと話はズレてしまいましたが。
ともあれ、僕が無意識に宗教に関していろいろ調べてたのも、結局は、この本の影響だったんだと、いまにして思いますな。
この本は、そのくらいインパクトある。
考え方が変わる。
だから考え方を変えたいと思わない人は読まない方がいいのかも知れない。(でも読むと死ぬのが怖くなくなるし、日々、世のため人のために生き生きと動けるようになるっていうのはあるよ。って、このあたりが新興宗教なんだよなー、困ったことに。)
で、僕としてはいろいろな宗教のことを概略として学んでた間は、この飯田史彦さんが出している各種の書籍を、ずっと読んでなかったのです。飯田さん、この本を出した後に何冊も本を出してるんですけどね。でも僕は読まなかった。
で、冒頭のちょっと前にあった出来事から、久しぶりに書店で読んでみたら、この「生きがいの創造」の正式な続編である「生きがいの創造?」が書店に出てたんですよ。
で、読んでみた。
「うげーーーーー、そ、そ、そうやったんかぁ!」
でありました。
こんなん完全に新興宗教ですがな。
でも認める。飯田さんはえらい。
「生きがいの創造?」を先に書かずに、先に「生きがいの創造」を書いた。しかも何年もたってから「?」を書いた。
それ、わかる。
えらい。
ということで、みなさん、まず読むなら、この「生きがいの創造」からね。「?」はあとのお楽しみってことで。
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