スターウォーズ・エピソード3 ついに帝国が誕生した。
2005年7月10日 映画忙しいさなかではあったのだけれど、やっぱり早く見たくて初日の夜中の上映でスターウォーズ・エピソード3を見ることにする。
旧三部作(エピソード4/5/6)でパルパティーンがシスの暗黒卿であることはわかっているのだから、物語の骨格は見えているようなものなのだけれど、旧作の最初の登場から28年が経っているし、新シリーズ(エピソード1/2/3)しか見ていない人も多いだろうから、意外にこの映画の「政治的側面」については、みんな無頓着なのかもしれない。
エピソード1が発表された時、旧三部作のイメージがある人は「駄作だ」と評価を下げていたようだったけれど、僕は「こらすごい」と感心していた。
まずエピソード1は、45分の小さな物語が三つ入ったテレビの特番みたいな形式になっていて、なにより「はじめてスターウォーズを見た子供」が楽しめるように工夫されていたからだ。
宣伝材料では子供のアナキンの写真がバンバン使われていて、子供を引っ張ってくるのを大切なプロモーションにしていた。映画館というところは、子供が一人で行く場所ではない。あくまで親に連れてきてもらう場所だ。だから子供に対してプロモーションすると、その両親までやってくるから、効果が三倍になるのだ。
で、だからといって子供向けの内容にしてしまっては親の側が面白くない。だから、エピソード1の時から背景の物語として、パルパティーン議員が、元老院で徐々に力をつけていく話が、キチンと入っていた。(子供のためのアナキンの活躍話は、だから、後半90分だけになっていた。それを中だるみと言う人もいたけど、まぁ全6作すべての構成を考えれば実に妥当なのですよ。それは後述します。)
で、実は僕としては、エピソード1/2/3は、この「政治話」こそが楽しみだったのである。
もう、エピソード1の冒頭の通商連合の反乱というものから「なんだこりゃ。陰謀の匂いプンプンじゃん。おもしれー。」なのであります。だって、通商連合の親玉のヌートガンレイなんて、どう見ても悪の親玉ではない。脇役も脇役、どうしようもないチンケさ。ようするにシスの暗黒卿にあやつられているだけなのだ。
「じゃあ、なんであやつるの?」という疑問があって、その疑問は、今回のエピソード3でやっとはっきりする。ヌートガンレイが死ぬのも、このエピソード3でだし。
「そういうことやったんか。」
と、私はやっと納得したわけです。その策謀がやっとはっきりして、うーむなるほどとまたまた感心したのでした。
新三部作の物語構成は、一般的には、
●なぜアナキンはダースベーダーになったのか。
というのが目玉なわけだけれども、僕的には
●パルパティーンが策謀でのし上がっていく過程
のほうに興味があったのです。
ひとりの権力者が全宇宙をあやつるまでに強大になっていく過程そのもの。それが面白い。
パルパティーンがエピソード2で非常事大権を得るシーンがあったけれども、あの時も元老院すべての圧倒的な歓喜のもとに「民主的」に「大権」がパルパティーンに与えられているのだ。
このことを、「大衆が同時に鑑賞すること」を使命として存在している「映画」という媒体でやっていることを意識して欲しい。映画っていうのは、もともと政治的な媒体で、共産国である中国や昔のソ連なんかでも映画は「大衆教育の道具」として、国が力を入れて産業にしていたのですから。
でルーカスは、その映画を「個人作家の表現道具」にしようとしてデジタル化を進めている。で、その個人的な映画(政治の道具ではない個人の表現手段)の中でパルパティーンが「民主的」に皇帝への道を歩む姿をキチンと描いているのだ。
つまり、こんなことは分っている人には当たり前だけれど、帝国や独裁者は、キチンとした「民主的な仕組み」にのっとって、民衆の歓喜の元に生まれるのだということです。今回ははっきりパルパティーンが永久初代皇帝として銀河連邦全体を「帝国にする」と宣言するシーンまで入っていて、そこでアミダラが「これで自由は死んだわ」と言う台詞まで入っている。
ようするに、こういう汚い政治とアホな民衆の関係になったらアカンよ、ということをこそルーカスは「個人的な自主製作映画監督」の立場で言いたかったのでしょう。政治の裏も考えずに周りに流されていると、自分自身の皇帝に暗黒卿をいただくことになっちゃうんだよ。注意しろよ、アホな大衆になるなよ。キチンと勉強して「個人」としての意見を持てよ、周りに流されるなよ、システムにからめとられたらダメだよ、と言っているのだ。
で、前のエピソード2の時にも感じていたのだけれど、こういう政治的なメッセージを、ルーカスは「子供たち」にこそ届けたいんだなぁと感じるのだ。
だってエピソード1は1999年作。当時12・3歳くらいまでの子供が映画を見たでしょう。それから三年後に作られた「エピソード2」は、ラブ・ストーリーが主軸になっていて、12歳だったこどもも15歳になっている。恋愛がわかる年になっている。
そして、エピソード3は今年。長々続いた政治の話に決着点が着く。エピソード1を見た子供も18〜9になっているのだ。そういう子供たちにこそ「大衆の歓喜の中で生まれてくる暗黒皇帝」という存在の恐ろしさを伝えたいというのが、一番大きなテーマではなかろうか、と、僕は思うのですよ。
大衆の歓喜の中で皇帝が生まれる恐ろしさを直感し、「これで自由は死んだ」とすべてを見通せるアミダラのように、賢い人になって欲しいと。そういうことなんですわな。
「民主主義とは何か」と質問したとき、おそらく日本人は、ついうっかり「みんなで物事を決めること。具体的には多数決の事。」などとトンチンカンな事を言い出しかねない。
しかし、世界の常識、特に民主主義の本場アメリカの子供たちなら「民主主義とは、ひとりひとりの異なる意見を大切にすること」と言うだろうし「多数決で反対意見も存在しないのは、全体主義であって、民主主義ではない。危険だ。異なる意見があるのが民主主義だ。」と標準的に考えるはずである。
だから、この皇帝誕生のシーンは、さして目新しいものでもない。至極一般的な「全体主義の恐怖」を素直に映像化しているだけなのだ。
でも、日本人にとっては、このシーンひとつとっても、とても良い政治の勉強になるから、良く見ておこうね、わかってない人。
クローンというものがほとんどロボットと同列で、「命」としてとらえられてないところも実に常識的なんだけど、うまく扱ってると思う。この辺の「クローンは正当な生命なのかどうか」というところも、これまた宗教観その他含めて日本人にはなかなか理解できないところだけれど、まぁ世界の常識を知るには面白いです。
ともあれ、これでスターウォーズも完結。感慨深いです。
旧三部作(エピソード4/5/6)でパルパティーンがシスの暗黒卿であることはわかっているのだから、物語の骨格は見えているようなものなのだけれど、旧作の最初の登場から28年が経っているし、新シリーズ(エピソード1/2/3)しか見ていない人も多いだろうから、意外にこの映画の「政治的側面」については、みんな無頓着なのかもしれない。
エピソード1が発表された時、旧三部作のイメージがある人は「駄作だ」と評価を下げていたようだったけれど、僕は「こらすごい」と感心していた。
まずエピソード1は、45分の小さな物語が三つ入ったテレビの特番みたいな形式になっていて、なにより「はじめてスターウォーズを見た子供」が楽しめるように工夫されていたからだ。
宣伝材料では子供のアナキンの写真がバンバン使われていて、子供を引っ張ってくるのを大切なプロモーションにしていた。映画館というところは、子供が一人で行く場所ではない。あくまで親に連れてきてもらう場所だ。だから子供に対してプロモーションすると、その両親までやってくるから、効果が三倍になるのだ。
で、だからといって子供向けの内容にしてしまっては親の側が面白くない。だから、エピソード1の時から背景の物語として、パルパティーン議員が、元老院で徐々に力をつけていく話が、キチンと入っていた。(子供のためのアナキンの活躍話は、だから、後半90分だけになっていた。それを中だるみと言う人もいたけど、まぁ全6作すべての構成を考えれば実に妥当なのですよ。それは後述します。)
で、実は僕としては、エピソード1/2/3は、この「政治話」こそが楽しみだったのである。
もう、エピソード1の冒頭の通商連合の反乱というものから「なんだこりゃ。陰謀の匂いプンプンじゃん。おもしれー。」なのであります。だって、通商連合の親玉のヌートガンレイなんて、どう見ても悪の親玉ではない。脇役も脇役、どうしようもないチンケさ。ようするにシスの暗黒卿にあやつられているだけなのだ。
「じゃあ、なんであやつるの?」という疑問があって、その疑問は、今回のエピソード3でやっとはっきりする。ヌートガンレイが死ぬのも、このエピソード3でだし。
「そういうことやったんか。」
と、私はやっと納得したわけです。その策謀がやっとはっきりして、うーむなるほどとまたまた感心したのでした。
新三部作の物語構成は、一般的には、
●なぜアナキンはダースベーダーになったのか。
というのが目玉なわけだけれども、僕的には
●パルパティーンが策謀でのし上がっていく過程
のほうに興味があったのです。
ひとりの権力者が全宇宙をあやつるまでに強大になっていく過程そのもの。それが面白い。
パルパティーンがエピソード2で非常事大権を得るシーンがあったけれども、あの時も元老院すべての圧倒的な歓喜のもとに「民主的」に「大権」がパルパティーンに与えられているのだ。
このことを、「大衆が同時に鑑賞すること」を使命として存在している「映画」という媒体でやっていることを意識して欲しい。映画っていうのは、もともと政治的な媒体で、共産国である中国や昔のソ連なんかでも映画は「大衆教育の道具」として、国が力を入れて産業にしていたのですから。
でルーカスは、その映画を「個人作家の表現道具」にしようとしてデジタル化を進めている。で、その個人的な映画(政治の道具ではない個人の表現手段)の中でパルパティーンが「民主的」に皇帝への道を歩む姿をキチンと描いているのだ。
つまり、こんなことは分っている人には当たり前だけれど、帝国や独裁者は、キチンとした「民主的な仕組み」にのっとって、民衆の歓喜の元に生まれるのだということです。今回ははっきりパルパティーンが永久初代皇帝として銀河連邦全体を「帝国にする」と宣言するシーンまで入っていて、そこでアミダラが「これで自由は死んだわ」と言う台詞まで入っている。
ようするに、こういう汚い政治とアホな民衆の関係になったらアカンよ、ということをこそルーカスは「個人的な自主製作映画監督」の立場で言いたかったのでしょう。政治の裏も考えずに周りに流されていると、自分自身の皇帝に暗黒卿をいただくことになっちゃうんだよ。注意しろよ、アホな大衆になるなよ。キチンと勉強して「個人」としての意見を持てよ、周りに流されるなよ、システムにからめとられたらダメだよ、と言っているのだ。
で、前のエピソード2の時にも感じていたのだけれど、こういう政治的なメッセージを、ルーカスは「子供たち」にこそ届けたいんだなぁと感じるのだ。
だってエピソード1は1999年作。当時12・3歳くらいまでの子供が映画を見たでしょう。それから三年後に作られた「エピソード2」は、ラブ・ストーリーが主軸になっていて、12歳だったこどもも15歳になっている。恋愛がわかる年になっている。
そして、エピソード3は今年。長々続いた政治の話に決着点が着く。エピソード1を見た子供も18〜9になっているのだ。そういう子供たちにこそ「大衆の歓喜の中で生まれてくる暗黒皇帝」という存在の恐ろしさを伝えたいというのが、一番大きなテーマではなかろうか、と、僕は思うのですよ。
大衆の歓喜の中で皇帝が生まれる恐ろしさを直感し、「これで自由は死んだ」とすべてを見通せるアミダラのように、賢い人になって欲しいと。そういうことなんですわな。
「民主主義とは何か」と質問したとき、おそらく日本人は、ついうっかり「みんなで物事を決めること。具体的には多数決の事。」などとトンチンカンな事を言い出しかねない。
しかし、世界の常識、特に民主主義の本場アメリカの子供たちなら「民主主義とは、ひとりひとりの異なる意見を大切にすること」と言うだろうし「多数決で反対意見も存在しないのは、全体主義であって、民主主義ではない。危険だ。異なる意見があるのが民主主義だ。」と標準的に考えるはずである。
だから、この皇帝誕生のシーンは、さして目新しいものでもない。至極一般的な「全体主義の恐怖」を素直に映像化しているだけなのだ。
でも、日本人にとっては、このシーンひとつとっても、とても良い政治の勉強になるから、良く見ておこうね、わかってない人。
クローンというものがほとんどロボットと同列で、「命」としてとらえられてないところも実に常識的なんだけど、うまく扱ってると思う。この辺の「クローンは正当な生命なのかどうか」というところも、これまた宗教観その他含めて日本人にはなかなか理解できないところだけれど、まぁ世界の常識を知るには面白いです。
ともあれ、これでスターウォーズも完結。感慨深いです。
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